04◇ ――人並みに
目蓋の裏が余りにも明るいので、おれは思考を放棄した。
――光だけではなくて、とにかく情報量が多かった。
しかもその情報の全部が、おれからすれば名前も知らない未知のものだったのだ。
たとえば、上から降り注いでくるような温かさとか、身体の下の柔らかさとか、ざわざわとした不規則な音とか、辺りに漂う、何とも言えない香りとか。
おれは人間でもないくせに人並みに驚いて、思考を硬直させて、何なら身体も動かなくなってしまったのだ。
声が掛からなかったら、そのまま千年くらいは寝転んでいることになったかも知れない。
「――おい」
と、おれは声を掛けられた。
おれはルシアナとルドベキアの声しか知らなかったから――いや、正確にいえば、生まれたてのルドベキアを抱えているときに、もう二人くらいの声も聞いたことはあったが――、その声がどういうものなのか、咄嗟に判じかねてびっくりした。
声は、ルドベキアのものよりやや高くて、滑らかだった。
生まれたてのルドベキアが一向に立ち上がらないことをおれが訝ったとき、ルシアナが出した声に似た調子を持っていた。
「おい、おまえ何してんの?」
おれは固まっていた。
声はしばし沈黙し、それからぼそっと、「死体か」と呟いた。
死体というのが何かは知らなかったが、ともかくそのときになって、おれは目蓋を持ち上げた。
「あ、生きてた」
――最初に、青い色が見えた。
あの色だ。カライスの色だ。
灯火の傍の、ルドベキアの瞳の色だ。
本当にあった。
見渡す限りの高くて青い色。
これが空に違いない。
そして驚愕すべきことに、光り輝く何かが、その青色の、真ん中から少し外れた場所で光を振り撒いていた。
なんだ、あれは。
眩しくて、色さえはっきりとは分からない。
身を起こす。
かさ、と、身体の下で音が鳴った。
びっくりして見下ろすと、おれは地面から生える、細長くて奇妙なものの真っ只中に座り込んでいる格好になっていた。
左右を見渡すと、延々とその奇妙なものが続いている。
色は緑だったり、茶色っぽかったり。
触ってみると、案外にすべすべとしていた。
目に見えない何かが動いて、さあっとその奇妙なものたちが一斉に靡いた。
おれはぎょっとする。
ざわざわと音が鳴る。
――分からないことがあったり、考え事をするときは、首を傾げるものだ。
ルドベキアにそう言われていたことを思い出して、おれは首を傾げた。ついでに瞬きもしておいた。
そのとき、近くでもう一度、声がした。
「――おい、こんなとこで、何してんの?」
おれは声の方を見た。
おれが見ると同時に、声を出したらしき人間は、大きく後退っておれとの距離を開けた。
――おれはこのとき、「人間だ」としか思わなかった。
あんまり、その格好に注意を払うこともしなかった。
けれども思い返してみれば、そいつは旅の格好をしていた。
大仰な麻袋を片方の肩から引っ掛けて重たそうにしていて、薄汚れた外套を着て、足許は頑丈そうな長靴で固めていた。
警戒ぎみに外套の襟元を掴んで摺り上げて、顔の下半分を隠すようにして、起き上がったおれをじろじろと眺めていた。
おれはまだその色の名前を知らなかったが、そいつの目は見事な翡翠色をしていた。
暗い色の髪をあちこちに跳ねさせていて、不信感と怪訝を全身で表現していた。
おれは、もう一度瞬きした。
おれが何も言おうとしないので、そいつは視線を上下させて、おれをまじまじと観察し、首を傾げた。
まだ外套で顔の下半分を隠していたので、声がくぐもって聞こえた。
「――行き倒れ? 迷子? 単なる昼寝?」
そこで瞬きし、そいつは眉を寄せる。
「変な格好だな」
おれは何を言われたのか理解できず、語彙の外にある言葉を唐突に投げ付けられたことで、ますます思考を空っぽにしていた。
そいつは居心地悪そうに足踏みし、空いている方の手でごしごしと目許を擦った。
「――いーや。ごめん、さっき、気付かなくて踏みそうになって声掛けただけ。ここ、別に誰も通らねーし、寝てていいと思うよ」
おれはただただそいつを眺めていた。
そのうちに怪訝が大きくなったのか、そいつは眉を寄せた。
そして蟀谷の辺りを掻くと、言った。
「……あの、俺、もう行くけど。おまえ、行くとこあんだよな?」
おれは瞬きし、首を傾げた。
その分、景色に角度がついて目に映った。
明るい。本当に明るい。
こんなに明るい場所があったなんて知らなかった。
しかも広い。
ルドベキアにも今度聞かせてやろう。
ルドベキアはどこにいる?
いや、それよりまずは、
「……ここって、なに」
おれの、ぼろっと零した言葉に、そいつは目を見開いた。
瞳が落っこちるんじゃないかと思った。
「――分かんねーの……?」
なぜか囁くようにそう尋ねられて、おれは分かっていることを告げた。
「ここには、空がある」
目の前のそいつの目が、いっそう大きく見開かれた。
そして、そいつははっきりと言った。
「おまえ、頭大丈夫か」
おれは自分の頭部に触れた。
結果、目の前のそいつに、がっくりと膝を突かせることになってしまった。
「……大丈夫じゃねーんだな、分かった」
顔の下半分を隠したままだったので、くぐもった声でそう言って、そいつはよろよろと立ち上がり、肩からずり落ちそうになった重たげな荷物を、よいしょ、と小さく声を出しながら担ぎ直した。
そして、なおもじろじろとおれを見てから、物は試しと言わんばかりに尋ねてきた。
「立てる?」
言われて、おれは立ち上がったが、足許が妙に柔らかいので、少しだけよろめいた。
目の前のそいつは、おれがよろめいて、ちょっとふらつきながらも立つのを、警戒ぎみに見詰めていた。
そして、あからさまに顔を強張らせた。
「……なんでそんな格好してんの。おまえ、どっから来たの」
おれは首を傾げた。
そいつはますます顔を強張らせた。
「記憶が飛ぶほどひでぇ目に遭ったの?」
これには、おれは「違う」と返した。
「覚えてる」
そいつの表情が、ちょっと緩んだ。ルドベキアと同じような表情だった。
「あ、そーなの。で、おまえ、どっから来たの?」
「…………」
おれは首を傾げた。
目の前のそいつの顔が、またも強張った。
「……どっから来たか、分かんないの?」
おれは頷いた。
肯定するときは頷くものだと、ルドベキアに言われていた。
目の前のそいつは空いている手で額を押さえ、しばらくじっとしていた。
そして顔を上げて、とっても訝しそうに。
「つまり、記憶飛んでんじゃん」
おれは、「違う」と返した。
「覚えてる」
目の前のそいつは、「ほう」という感じの顔。
「で、どっから来たの?」
おれは首を傾げた。
目の前のそいつは呆れた顔をした。
「ほら、分かんねーんじゃん。記憶飛んでないなら分かるだろ」
おれが無言のままでいると、そいつはごしごしと目を擦り、それからようやく、外套を摺り上げていた手を離した。
顔が全部見えるようになった。
そいつはぎゅっと唇を引き結んだあと、がしがしと髪を掻き回し、「あー」と呻いた。
「……行くとこあんの?」
おれは頷いた。
そいつはほっとしたように表情を緩めた。
が、おれが続けた言葉に、さっとその顔が強張った。
「ルドベキアの……」
「それ、地名?」
少しだけ上擦った声で尋ねられて、おれは首を傾げた。
「地名って、なに?」
「うわマジ?」
というのが、そいつの返答だった。
そいつはしげしげとおれを見てから、頬を掻いた。
「……いや、その、ルドなんとかっての。場所の名前なの? 人の名前なの?」
「人間」
そう応じてから、おれは補足のつもりで付け加えた。
「ルシアナの息子」
おれの目の前のそいつの顔は、順当に強張っていっていた。
「……人捜しか……」
それからそいつは、ぎゅうっと眉を寄せて、両手の指先をそれぞれ合わせ、人差し指だけをお互いにくるっと回した。
「その、ル――なんとかっての。どこにいるか分かってんの?」
おれは応じた。
「分からない」
多分、その辺にいるんじゃないだろうか。
そう思って周りを見てみると、景色は思っていたよりも遠くまで続いていた。
おれが感情を表に出す方法を知っていれば、さぞかし見事に驚いてみせることが出来ただろうに。
目の前のそいつは深い溜息を吐いた。
おれはそんな仕草を見たことがなかったので、意味が分からずに首を傾げた。
「――おまえ、この世の中がどんだけ広いか知ってんの?」
おれはますます首を傾げた。
目の前のそいつは再び髪を掻き毟り、「声掛けるんじゃなかった」だの、「見捨てたのが師匠にばれたら困る」だの、おれには意味の分からない言葉を一頻り吐き出した。
それから大きく息を吸い込むと、顔を上げておれを見た。
さっきまでと比べて、頬が少し白くなっていた。
「――あのさ、ここから最寄りの町まで、歩くと三日くらい掛かるんだよね」
「町って、なに?」
おれが首を傾げると、そいつはがっと大きく目を見開いた。
それから何かを呑み込む顔をして、おれには答えずに続けた。
「俺、あんま好きじゃないんだけど。教会まで連れてってやるから。
それで良かったら、一緒に来る?」
おれは、こいつが何を言っているのかさっぱり訳が分からなかった。
けれども、おれの人のものではない特異な耳が、こいつの言葉の奥の方の、「助けてやる」「手伝ってやる」という意図を汲み、感覚としておれに伝えていた。
おれは頷いた。
途端に目の前のそいつの顔は強張ったが、そいつは辛うじて踏み留まったような表情をして、大きく息を吸い込むと、両手を外套のポケットに入れて、おれから目を逸らしつつも、ゆっくりと言った。
「――あ、そう。分かった。じゃ、町までね。
おまえ、妙なことしたらぶっ殺すからな。
……俺はカルディオス。おまえは?」
おれは首を傾げた。
「町」も、「妙なこと」も、「ぶっ殺す」も、おれにとっては意味が分からなかったのだ。
けれども、最後の一言が、目の前のそいつの名前――つまり、ルドベキアにとっての「ルドベキア」、ルシアナにとっての「ルシアナ」――を示すということは分かったし、おれの名前を教えるよう要求されているのだということも呑み込めた。
おれは口を開いて、ちょっと間を置いてから、答えた。
「……ヘリアンサス」
「ふうん」
そう言って、カルディオスは足許に目を落として、また目を擦った。
「じゃ、あっち。あっちに歩くから。おまえ、先歩いて」
“あっち”と言われたものの、そこはひたすらに広かったので、おれは真っ直ぐ歩くことが出来なかった。
そもそもおれは、短い距離ですら歩くことに不慣れだった。
カルディオスは後ろから、「逸れてる、もうちょっと右」だとか(そして、おれが「右って、なに?」と尋ねると、なんだか怖がるような顔をして、黙って右の方角を示した)、「なんでそんなに転んでばっかりなんだ」だとか、「もうちょっと速く歩けねーのか」だとかと声を掛けた。
そして、おれが五度目に転倒したときに、我慢の限界がきた、というような顔でおれに歩み寄ってきた。
おれから三歩くらいの距離を開けて立ったカルディオスは、何か言おうとしたらしく口を開き、しかしすぐにはっとした顔になって、まじまじとおれを見て目を瞠る。
「――おまえ、靴は?」
生い茂る草――まあ、草という名前をおれは後ほど知ることになるわけだが――のせいで、カルディオスにはどうも、おれの足許が見えていなかったらしかった。
おれは首を傾げた。
「靴って、なに?」
「おまえ正気か」
カルディオスはつくづくとおれを見て、首を振った。
なんだか、頭の中の何かを追い出そうとしているかのような仕草だった。
それからカルディオスはまた頭を掻き毟って、きょろきょろと周囲を見渡した。
そうしておれに視線を戻して、真面目な顔で言った。
「誰かに言ったらぶっ飛ばすからな」
おれはまたも首を傾げた。
カルディオスは少し俯き、何か呟いた。
声が小さかったので、おれにはそれが聞こえなかった。
カルディオスが両手で、空中から何かを掴み取るような仕草をした。
ぱっと多色の光が散って、カルディオスの両手に、――今だからそうだと分かる――靴が一足出現した。
カルディオスはそれをおれの足許に放り出して、「履いとけ」と。
そして、おれがなおも首を傾げていると、おれから一歩離れ、いったん自分の長靴を脱いでから――器用に片脚で立つので、おれは感心してしまった――、「履く」と言って、その長靴を履き直してみせた。
おれはそれで納得して、投げ出された靴を履こうとしたが、これがなかなか難しかった。
カルディオスはしばらく、言葉も出ない様子でおれを見ていたが、そのうちにぼそっと呟いた。
「……裸足で歩いて、よく怪我もしなかったな、おまえ」
「怪我って、なに?」
カルディオスは目を剥いて、「頭がおかしくなりそう」と呟いた。
軽く頭を振ると、おれの質問は無視して、ぼそぼそと続ける。
「俺のこの魔法見ても、無反応だったのおまえだけだよ。師匠でさえ腰抜かしたのに」
「魔法って、なに?」
カルディオスは呻いた。
そして、一向に上手く靴を履けないおれの足許と手許を、絶望の表情で見た。
「――おまえ、何歳よ?」
おれは首を傾げて、考えを巡らせて、また反対側に首を傾げて、答えた。
「ルシアナよりは、先にいた」
「知らねえよ」
カルディオスは吐き捨てるようにそう言って、おれの足許をじっと見ながら、靴に足を収める方法であるとか、靴紐の結び方なんかを、全部言葉と手本で教えた。
おれとの間の、三歩の距離は絶対に詰めようとしなかった。
しばらくして、おれはようやく靴を履くことに成功した。
おれの成功に深々と息を吐いたカルディオスはまた、おれを先に立たせて歩かせた。
おれはきょろきょろと周囲を見て、やがて分からないことが多すぎるので、なんだか考え事をするのも億劫になって、後ろを振り返って、カルディオスに尋ねた。
「――これ、なに?」
「どれだよ?」
相当に不機嫌な声でカルディオスは応じたが、おれは人の機嫌を察知することを知らなかった。
おれは、一面に茂っている細長いものを示した。
「これ」
カルディオスは咄嗟のように自分でも地面を見下ろして、「ええと」と口許に手を当てる。
「これ……春紫苑かな?」
師匠なら分かるんだろうけど、と呟いたカルディオスは、目を上げておれを見て、はたと気付いた様子で口を開けた。
「――待てよ? これが、草だってことは分かる? 植物」
「草。――草、分かった」
おれが頷くと、カルディオスは驚愕の表情。
何か言おうとして口を開き、しかしすぐに、おれに関わると碌なことがないと思ったのか、口を閉じて目を逸らした。
けれどもおれは、どうやらカルディオスもルシアナと同じで、おれが知りたいことを教えてくれるらしいと見当をつけたので、すぐに尋ねた。
「空?」
上を指差して尋ねると、カルディオスははっきりとおれから目を逸らしつつ、「それ以外の何なんだよ……」と。
おれは満足した。
なるほど空は実在したし、ルドベキアが言った通りの色をしていた。
手首にくっ付けたカライスの腕輪を見てから、空に目を戻す。
青かった。
カライスは、眩しい光のせいなのか、今はちょっと白っぽく見える。
カライスを傾けると、その白さも移動した。
おれはこのとき初めて、光の反射という現象を眺めたわけである。
空は確かに、カライスと同じ色ではあったが、ただ、空の方が奥行きのある色をしている気がした。
それに、何か白いものが浮かんでいる。
光り輝いているものとは別の何か。
「あれ、なに? 白い」
カルディオスはちょっと後退り、おれからいっそう距離を置いた。
「……雲……」
「雲」
おれは復唱し、しばらく歩きながら空を眺め(何回か、「もうちょっと右」だの、「もうちょっと左」だのと注釈が入ったほか、おれはまた三回くらい転んだ)、雲が動いていることを発見した。
「雲、動いてる」
思わずそう呟くと、後ろでカルディオスが、「風があるからそりゃそーだろ」と。
おれは振り返って、「風って、なに?」と尋ねた。
カルディオスは深刻な恐怖の表情を見せた。
そして、何もない空中に手を遊ばせた。
「これ、この……空気が動くだろ、それのことだよ……」
なるほど、とおれは頷いた。
ルドベキアが、「草を揺らすやつ」と言っていた、あれだ。
これが風か。
こんなに気持ちのいいものだとは思っていなかった。
名前を知ると、いっそういいもののように感じられた。
おれは嬉しくなったが、それを表現する方法を知らなかった。
カルディオスからは多分、おれはとんでもない無表情に見えていたことだろう。
おれは続いて、「これ、何て言うの?」とカルディオスに尋ねた。
カルディオスは割と本気で苦痛の表情を見せたが、おれにはその機微は分からなかった。
「これ、って、何のことだよ」
「これ、この――」
おれは説明する語彙を持たなかった。
ただ、自分の肌に降り注ぐ心地よさのことを訊きたかった。
おれが自分の手の甲に触れて、掌で陽光を受け止めているのを見て、カルディオスは懐疑的に呟いた。
「――光のこと? 明るい」
「光は、知ってる」
おれは言って、首を傾げた。
おれの頬に燦々と陽光が降り注いで――尤も、このときのおれは、陽光と温かさの関連性も知らなかったが――、感じたことのない感覚をおれに齎していた。
ルドベキアが手品を見せてくれるときに感じる熱さに似ているが、それとも違った。
穏やかで、優しかった。
カルディオスはじっとおれを見たあと、鼻に皺を寄せた。
それから、ぶっきらぼうに言った。
「――暖かさのこと? 冷たくなくて、ほっとする感じ」
おれは理解して、頷いた。
「暖かい、うん」
「まあ、陽も出てるしな」
カルディオスがそう言ったので、おれは首を傾げた。
「陽って、なに?」
カルディオスは面倒そうに上を指差した。
「あれだよ。お日さま。太陽。なんで知らねえの、頭おかしいだろ」
おれは太陽を見上げて、目を細めた。
カルディオスがやや慌てた声で、「直接見るなよ、馬鹿」と言ってきたが、おれの目は人間のものではない。
おれがじっと太陽を見ているので、カルディオスはそわそわした様子で荷物を担ぎ直し、呟いた。
「――暖かいのなんて、今だけだぜ。そのうち暑くなるし。まあ、今は春が始まったばっかだけど」
おれはカルディオスに視線を戻した。
眩しい光を直視した後だったので、少しだけ目の前に黒い点が飛んだ。
「――春って、なに?」
「うっそだろ」
カルディオスはそう言って、お手上げ、というように両手を肩の高さに挙げた。
翡翠の目が、呆れ半分、怯え半分でおれを見ていた。
陽光が降り注ぐ頬が、眩しいほどに真っ白だった。
「今だよ。この季節。こういう、あったかくて、埃っぽくて、花が咲く季節のことを、春っていうんだ。
――あ、季節ってなにって訊くなよ。俺、発狂するよ。季節って、春とか、夏とか、そういうののことだから」
おれは頷き、「夏ってなに?」という言葉を呑み込んだ。
季節というのはどうやら、空気の温度のことをいうらしい。
――おれに物事を教える、カルディオスの声は綺麗だった。
声というよりも、流れるように出て来る言葉に、ルシアナやルドベキアにはない美しさがあった。
そのせいかは知らないが、カルディオスの声を通して名前を教えられたものは、従前よりも美しく目に映った。
おれはそのことに満足して、何度も足を止めてはカルディオスに「これはなに?」と尋ねた。
カルディオスは怯えた風ではあったが、いちいち、「それは蝶」、「それが花。それなら食えるよ」、「それは、何かの蛹。蝶かなんかじゃね」だのと答えてくれた。
そのうちに日が暮れ始め、影が長く伸び、おれは足を止めて絶句した。
「色が、違う」
驚愕して呟くと、カルディオスはうんざりした表情。
「そりゃ、日が暮れるんだからそーだろ。火を熾せるとこ探さなきゃ」
行く手の空が、青とは違う色に染まっていた。
おれはカルディオスに、「あの色は、なに?」と尋ね、カルディオスは苛々と頭を掻き毟った。
「赤。それか金。明日も晴れるんだろな。
ああいう空の色はややこしいんだ。夕焼けだよ、夕焼け」
おれは戸惑いながらも、刻一刻と色を変える夕暮れを見守る。
空の一画が赤、あるいは金に染まって、それ以外の空は、青い色をぐんと深く濃くしていた。
奥行きもいっそう出てきて、おれはのちにその表現を、「透明感がある」というのだと知る。
金色に輝く空と、深い青色に沈む空の継ぎ目は白く光っていて、距離があることは分かるのに、近いほどに明るく感じた。
白く光っている場所のすぐ上は、僅かに緑がかっているようにも見える。
なんとなく、その色はルシアナの目を思い出させた。
おれは、ルドベキアの真似事で息を吸い込んだ。
複雑な香りがした。
きっと光が香っているのだ、と思った。
おれが足を止めてしまったので、カルディオスが少し離れたところから声を掛けてきた。
「――何してる?」
おれは振り返って、カルディオスの方を見た。
カルディオスは西日に翡翠色の目を細めている。
太陽から降り注ぐ光の色さえ変わっていて、今のカルディオスの頬は、赤みを帯びた色に見えていた。
「こんなに広いなんて」
おれは、人間でもないくせに人並みに目を回していて、呟いた。
もはや自分が何を訊きたいのかも、よく分かってはいなかった。
「……これ、こういうの、何ていうの」
カルディオスがおれを見た。
翡翠色の目が、なんとなく、今までとは違う感じで細められたのが分かった。
そしてカルディオスは、ちょっと息を吸い込んで、西日の中でがしがしと頭を掻いた。
そして、素っ気なく答えた。
素っ気ない声だったが、冷たくはなかった。
「――それはな、眩しい、っていうんだ」
そう答えてから、カルディオスは短く息を吐いた。
「ほら、火を熾すとこ探さねーと。
まだ夜は寒いんだ、早くしないと日が落ちるだろ」
おれは、やっぱりカルディオスの言っていることは理解できなかったが、頷いて、呟いた。
「……眩しいって、特別だ」
この明るさの中で目を覚ましたときにおれは生まれたのだ、と、おれはそのとき思ったのだ。




