03◇ ――三百七十一日目
ルドベキアが来なくなって、おれは退屈と苦痛の中で過ごすことになった。
ルシアナが来てくれるようになるまでは、おれはそうやって過ごしていたはずだった。
それなのにどうにも、全てが苦しく感じるようになった。
おれはとにかく、壁一面に絵具を塗って過ごした。
絵筆を動かしている間は、少なくとも退屈ではない。
そうしながら、おれはルドベキアが開けて、それから隠した穴から明るさの変化を感じ取る。
明るくなったあと暗くなったのを確認して、おれは頷く。――いち。
サイジュ――あるいはヒロイヨセ――に当たっては、おれはルドベキアがおれにくっ付けた腕輪が傷つくことを、人間でもないくせに人並みに恐れて、腕輪を外してもうひとつのおれの傍に置いておくことにした。
勢いよく石の上に置くと、ルドベキアがカライスと呼んでいた綺麗な宝石が傷ついてしまいそうな気がしたので、俺は人間でもないくせに人並みにそれを勿体なく思って、殊更そうっと腕輪を扱った。
白い布を被って来る連中は、もうひとつのおれには手を出さない。
サイジュ――あるいはヒロイヨセ――が終わって、おれの腕が元通りになると、おれは腕輪をもう一度おれの腕にくっ付け直す。
そして、絵を描く。
壁一面に色を塗り、好きなように形を取って、全部を誤魔化す。
そうしながらも、おれはルドベキアが隠した穴から外の明るさを感じ取る。
また外が暗くなって、それから明るくなる。
それが何度も繰り返される。
おれはいちいち数を数える。
むしろ他のことに思考を割くことがなかったので、空白の中に数だけが浮かんでいるような状態だった。
そうやって十まで数えたときに、不意に、声が聞こえた。
――ヘリアンサス、俺のこと覚えてる?
おれはびっくりしてしまって、もしもその感情を表に出すことを知っていたら、あからさまに飛び上がっていたかも知れなかった。
それはルドベキアの声だった。
――面白い人に、面白い魔法を教わるんだ。俺が、ちゃんと出来るようになったら、おまえも面白がってくれると思うな。
その声は耳に聞こえたものではないので、どうやらルドベキアが、おれとおれの半身の子供のどれかに向かって、声を掛けているらしいとおれは気付いた。
奇妙な話である。
おれとおれの半身の子供は、あくまでもおれのものではないおれの目であって、耳ではないのに。
――番人ルドベキアは、守人ヘリアンサスにおやすみを言う。
そう聞こえたので、おれは首を傾げた。
分からないことがあるときは、首を傾げるものだ。
そう、ルドベキアが言っていた。
おやすみって、なんだ?
おれがそう思ったことが分かったかのように、聞こえるはずのないルドベキアの声は言っていた。
――おやすみっていうのは、夜の挨拶だよ、ヘリアンサス。
おれはそれで納得したが、そのときにルドベキアの声が聞こえたのは、おれの勘違いだったのかも知れない。
それからは、あいつの声が聞こえてくることはなくなった。
おれはひたすらに数えた。
明るいのと暗いの、両方合わせてひとつ。繰り返して三百六十。
それだけ数えれば、ルドベキアが――おれの番人がおれのところに来る。
青い目の番人が、おれのところに来る。
苦痛は耐え難かったが、退屈もまた、おれにとっては明確な害になっていた。
退屈ってなんですか、とルシアナに尋ねたとき、ルシアナは、何もすることがないってことです、と答えた。
おれは退屈だ。
何もすることがない。
壁一面に絵を描いても、もう壁は全部埋まってしまって、ひたすらに無為に色を重ねているだけだ。
ここは暗い。ここには何もない。
おれのところに来る番人がいなければ、おれはこうも退屈なのか。
せめておれがおれの半身と代わることが出来ればいいのに、おれとおれの半身は違うものだから、おれはおれという枠の中に縛られている。
おれは数えた。
五十を数え、百を数え、二百を数えた。
サイジュ――あるいはヒロイヨセ――の最中も、唱えておくべき現在の数字をひたすらに思い浮かべていた。
それまで時間の概念を理解していなかったおれがその概念を理解し、初めて、焦れるという感情を知ることになっていた。
明るさを確認する。
壁に絵を描く。
絵具が尽き掛けている。
何しろ、最後にルドベキアが絵具を持って来てから、もう二百七十日が経っているから。
色が載らなくてもいいから、ひたすら絵筆を動かす。
色がどんどん混ざっていって、黒に近い色になっていく。
おれは焦る。
黒は暗闇の色だから、目の前を占める色だから、黒を見ていても何も気が紛れない。
例外はルシアナの髪色だ。あるいはルシアナそっくりのルドベキアの髪色。
他の色を重ねてみるが、色はどんどん深くなっていく。
おれは悲しくなるが、その表現の仕方を知らない。
ひたすら筆を動かす。
数を唱える。
サイジュに耐える。
三百を数えた。
おれは絵を描くことすら止めて、もうひとつのおれをぼんやりと眺めながら、あと少し、あと少し、と唱える。
ルドベキアの目の色を思い出す。
灯火の傍にあって、カライスそっくりの色に冴える瞳。
カライスの色が空の色と同義なら、あの目は正しくおれの空だ。
ルドベキアがおれにくっ付けた腕輪を眺めておく。
綺麗な青色。
この青色だけは曇らない。
指先で触れても色が移らないのは、きっとこの色が揺るぎなく、宝石の中に根を張っているからだ。
三百五十を数えた。
おれは妄執じみた熱心さで、ルドベキアのことを待っている。
ルシアナの息子。
おれが助けておれが生かした、おれの息子。
あいつが戻って来たら、おれに話すこともたくさん出来ているらしい。
おれは人間でもないくせに人並みに、それを楽しみに待っている。
おれの半身がおれのその情緒を読み取って色を変える。
おれとおれの半身、その違いはひとつ、精神を獲得したか否か。
おれは頻繁に振り返って、このホールにいつもルドベキアが入って来るときにくぐる入口の方を窺う。
生憎と入って来るのは、サイジュのために訪れる白い布を被った連中ばかりだったが、もうすぐ、もうすぐ、ルドベキアがいつものようにここに来るはずだ。
別に、言われていたより早く来たって構わない。
おれはルドベキアを待っている。
三百六十を数えた。
――ルドベキアは来なかった。
◇◇◇
どこかで何かを間違えたのだ、と思った。
あるいはルドベキアはもうすぐ傍にいるのだ、と考えた。
ルドベキアがここに来る一瞬前までは、ルドベキアはここにはいないのだ。
だから多分、もうすぐ、この直後にでも、ルドベキアがここに来ることもあろう。
おれはそう考えて、ちゃんとルドベキアに声を掛けられるように、一人で声を出してみる。
けれど、その声が余りにも虚しく響くので、おれはすぐに口を閉じる。
――ひとつくらいなら、おれの数え方が間違っていたのかも知れない。
そう考えて、もうひとつ数えた。
明るくなって、暗くなる。
いち。
これで三百六十一。
――ルドベキアはおれのところに来ない。
何かがおかしい。
このホールに揺蕩う、番人だった存在の残滓の中に、ルドベキアのものはない。
だから、ルドベキアがルシアナと同じく、唐突にいなくなったのだとは思えない。
何かがおかしい。
そう思ったが、おれはその思考を表現する方法を知らなかった。
おれは暗闇の中で座り込み、色を変えるおれの半身を眺めている。
そうしているうちにサイジュが行われる。
痛い。苦しい。
ルドベキアはいない。
――自分の中から、何かが欠落したような感覚だったと覚えている。
それでもおれは、続けて数を数えていた。
三百六十二、三百六十三。
ルドベキアが入って来るべき入口をじっと見る。
おれの目には、その向こうまで見通すことが出来るが、そこにルドベキアはいない。
何かがおかしい。
おれは数えた。
三百六十、きちんと数えた。
ルドベキアは約束した。
おれは覚えている。
ルドベキアが何と言っていたか、おれは覚えている。――『一年。一年で、その時間が経ったら、ちゃんと戻って来るから。約束』。
そう言った。
約束というのは、絶対にその通りにするということだ。安心してということだ。
――ルドベキアは?
三百七十を数えた。
おれは立ち上がって、もう一度壁一面に色を重ね始めた。
そして、もうとうとう、絵具が全部なくなったことを知った。
また座り込む。
おれの半身が色を変える。
粒子を纏って煌めく、その輝きを翳らせる。
――退屈だった。耐え難いほど退屈だった。
ルドベキアがおれに話したことを思い出そうとした。
全部、苦も無く思い出すことが出来たが、違う。
ルドベキアが何を話したかが重要なのではない。
ルドベキアがおれのために言葉を作るということが重要なのだ。
おれが思い返す言葉は全部、もうおれのために使われたものだ。
新しいのが要る。
すぐ。
ルシアナがいない。
ルドベキアもいなくなった。
番人が来ない。
おれは、何も、することがない。
すぐに要る。
新しい言葉が要る。
三百七十一回目の暗い時間を確認して、おれは立ち上がった。
――このとき初めて、おれは、耐えることを拒否したのだ。
サイジュには耐えられた。
耐えるしかなかった。
退屈にも耐えた。
これも、耐える以外になかった。
だがおれは、約束を破られたことには耐えられなかった。
間違っているのだ。
エルドラドがいなくなったのと同じ、間違いだ。
――おまえ、ここから出たら駄目だよ。
ルドベキアはそう言っていた。
つまり、出て行くことは出来るわけだ。
おれは何も知らなかったから――知覚の範囲はこのホールがその全部だったから――、外という概念すらもなかったから、今までそんなことは考えたこともなかったけれど。
ルドベキアはどこかにいる。
存在の残滓がここに戻っていないのだから、ルシアナとは違って、今もどこかにいる。
つまり、ルドベキアが今いる、どこかというのは存在しているのだ。
どこに存在しているのか?
――そんなの、決まっている。
ルドベキアがおれのために開いた穴、明るさと暗さを知るための穴、この向こうだ。
――ルドベキアが開けた穴の傍に寄って、屈んで、その向こうに身体を寄せてみる。
おれは身動きすらもそんなにしたことがなかったから、動きはいちいち強張っていた。
穴の向こうには段差があって、おれはそれを見詰めながら、ルドベキアはどこにいるんだろうと考えていた。
――このときのおれには、階段を使って、縦に空間を拡張するという考えすらもなかった。
平面が尽きたので、おれはてっきり、そこが世界の端っこかと思ったのだ。
しばらくそこでじっとしていたが、そのとき、真上から、ころんと小さな石が転がってきた。
恐らくは風が吹くか何かして、上の方にある小石が落ちてきたのだろう。
ともかくもそれで、おれは上方の空間に気付いた。
それから更にしばらく考えて、おれはようやく、段差に足を掛ければ、平面を移動するのと同様に、上へと移動することが出来るはずだという考えに至った。
――では、この上に、『外』というものがあるのだ。
おれがその考えに至った瞬間だった。
――僅かな震え。空気が波立つ。
おれの半身が、おれの変化を受けて、くるりと色を変え――消える。
おれの半身が、綺麗にこのホールから消え失せた。
塵一つ残らない、見事な消失だった。
唯一の光源が失われて、ホールはそれこそ真っ暗になったが、そのことはおれの視界の不自由を意味しない。
――おれは特に驚きもしなかった。
それはそうだろう、と思った。
今まではおれがここにいるつもりだったから、おれの半身もここにあったのだ。
おれが他のところに行くつもりになったのだから、当然、おれの半身だってどこかに行くだろう。
無事は分かる。
だって、あれはもうひとつのおれだから。
おれがここに戻ろうと思えば、おれの半身もここに戻って来るはずだ。
そういうものだ。
どっちもおれだから。
おれはおれの半身であり、おれの半身はおれである。
あの白い布を被った連中がおれをここに押し込めたのは、おれの半身をここに居させるためだった。
おれは、先に行ってしまったおれの半身を追い掛けて、段差に足を掛けた。
上手く身体を支えられなくて転んだので、おかしいな、と首を捻る。
それから、今度は手も使ってみた。
手で段差の辺りを掴んでおくと、ちゃんと上まで行けると分かった。
おれは気分を良くして――といっても、おれはその表現の方法を知らなかったが――、そのまま、ゆっくりと、おれのためにルドベキアが開けた穴をくぐって行った。
穴をくぐりながら、おれは、どうやらあのホールは、世界で唯一の平面だったらしい、などということを、言葉にもならない思考で描いていた。
何しろ、穴の中の地面はでこぼことしていた。
そのうちに、今まで感じたことのない感覚がおれを襲った。
――今から考えると、それは風だったわけだが、そのときのおれには未知のものだった。
見えない何かがおれに触れている、と、おれは眼前に目を凝らして怪訝に思ったものである。
更に、慣れない匂い。
今から考えると、それは潮の匂いだった。
とはいえ、そんなものはおれには分からない。
唐突に、突き抜けるように五感を襲った感覚に、おれはひたすら戸惑っていた。
――そして、おれは小さな岩山の中腹から顔を出すことになった。
覚えているのは、視界の向こうで岩が徐々に疎らになって、砂浜が広がっていたこと。
その砂浜に、海が波を寄せていたこと。
真っ暗だったこと。
おれは何も知らなかったので、唐突に目の前に開けた世界に茫然とした。
――なんだ、これは。
肌に触れる、形のない柔らかいものは何だ。
この匂いは何だ。
この音は、ひたひたと響くこの音は何だ。
目の前で時折小さく煌めいている、果てのない大きさのものは何だ。
頭の上にある、真っ黒で果てのないものは何だ。
その真っ黒なものの中を、僅かに色味の違う、灰色がかった何かが流れていっている。あれは何だ。
おれは岩山から立ち上がり、おずおずと前に足を踏み出した。
素足が砂に触れて、おれはぎょっとした。
――何だ、この、細かくてざらざらしていて柔らかい、これは何だ。
ここは何だ。
――手を伸ばしてみる。
何にもぶつからず、手は好きなだけ伸ばすことが出来た。
躊躇いがちに、歩いてみる。
何度か転んだが、何歩進んでも砂浜は尽きなかった。
何かが常に肌の上で動いている、あるいは肌を撫でている感触がある。変だ。
音が響いている。
どこから響いているのかも判然としない、低い、ざわめくような複雑な音。
やっぱり変だ。
変だけど、変な風に素敵だ。
ルドベキアが戻って来たら見せてやろう。
おれは――そのときのおれは、そういう名称も知らなかったが――海と陸地を見比べて、見慣れた質感を持つ陸地を選んだ。
奥に進んでみる。
ざらざらした細かいものが無くなって、あのホールの床に似た質感のものが足許を占めるようになった。
更に進むと、全く見慣れない、細長い何かが地面から上に向かって伸びているのが見えた。
それもたくさん。
足許をそれが埋め尽くすようになって、足裏に伝わる感覚は柔らかいものになった。
何だこれは。
しかも、進んでも進んでも端がない。
何だこれは。
おれは何度か転び、転んだ拍子に斜面を滑り落ちたりしながら、歩けど歩けど尽きない地面に、ほとほと困り始めた。
どうしよう、どこで足を止めたらいいんだろう。
ルドベキアはどこにいる?
そのうちに、歩き易い場所まで来た。
そこの地面はそこそこ平坦で、足許から生えている細長くて柔らかくて滑らかな何か――今から思えば、それは草だった――を押し退けて進めば、転倒することも少なかった。
足許がべちゃりと沈んだり――ぬかるんでいたのだが、おれはその状態を形容する言葉をまだ知らなかった――、不意打ちの凹凸に足を取られて転倒することはあったが、幾分か安定して身体を運ぶことが出来た。
そこで、おれは地面に穴が開いているのを発見した。
覗き込む。穴は深い。
おれは、こんな風に枝分かれしていってしまったら、この辺り一帯を見て回るのにどれほどの時間が掛かるのだろうと考える。
穴の中は、おれがいる場所に比べても輪を掛けて暗かったが、おれの視界は光によって確保されるものではない。
穴の底に、見慣れない何かが置いてあるのが見えた。
ルドベキアがおれにくれた絵具、あれが入っていた容器に、形としてはそっくりだった。
だが、色が違う。大きさも違う。たぶん、こっちの方が大きい。
中に絵具を詰めたら、さぞかし沢山入ることだろう。
ルドベキアくらいなら中に入ってしまいそうだ。
特に興味を惹かれなかったので、おれは顔を上げた。
――そのとき、音が聞こえた。
あのときと同じだった。
あのとき――ルドベキアが生まれたとき。
ルシアナがおれのところに来たとき。
あのときに、ホールに連中が押し入って来た――あのときと同じ音。
白い布を被った連中が、おれの半身が消えたことに気付いたのだ。
そう分かった。
なぜなら、いつもおれとおれの半身から、何かを掠め取られていた――その感覚が消えている。
ルシアナの言う、ナイカクとやらがおれを守っていたものならば、そのナイカクとやらが、おれの半身よろしく消えてしまったはずだ。
だから気付いたのだ。
――その瞬間に、おれが何を思ったのか、おれは今になっても上手く言葉に表すことが出来ない。
ここに居たくない、と思ったのか、どこかへ行きたい、と思ったのか――
――少なくともはっきりしているのは、おれのその思考が、この世界の法を変えるに足るものだったということだ。
おれが、この世界は広いと知ったことが、その引き金になったことに疑いはない。
これまでのおれは、どこかに逃げ出せる場所があるということすら知らなかったのだから。
――思い出したのは、ルドベキアの指先だった。
カライスの色、空の色――見たところ、カライスと同じ冴えた色は見当たらないから、多分、空というのはここではないどこかにあるものなのだろうけれど――、それと同じ色の絵具は、ここでは手に入らない、と説明したあいつの口振り。
西の方に行って、瑠璃という何かを使えば手に入るらしい、と言っていた。
西ってなに、と尋ねたおれに応じて、あいつが指差した方向を、おれは覚えている。
――そっちに行こう。
言葉にしてそう判断したわけではなかったが、おれの意思が、おれが存在を開始してから初めて抱いたその意志が、おれがどこかから受け取り続けて意識すらしない、何かを強烈に動かした。
ともかくもおれはその瞬間に、距離というこの世界の概念を覆し、ここではないどこかへ飛んだということになる。
――そのときのことを、おれは上手く知覚できていなかった。
ぴりぴりと肌が痛み、目の前が歪み、足許が歪み、どこかに落ちていくような感覚。
――それだけ。
そのあとおれは、人間でもないくせに人並みに目を回して、しばらく意識をどこかへ遣ってしまうことになる。
――そして目が覚めたときこそが、おれが生まれた、まさにその瞬間になる。




