01◇ ――最初の価値
――おれは、おれが生まれたのはとある草原の真ん中だったと断言できる。
時刻が昼前だったということもはっきりと覚えている。
だが、おれが存在を開始したのは、おれが生まれる五百年ばかり前のことだったらしい。
おれが存在し始めてからしばらくのことを、おれは曖昧にしか覚えていない。
あるいはそもそも知覚することを放棄していた。
覚えているのは、存在を開始してすぐ、おれが暗い穴の中に入れられたこと。
その穴の中をたくさんの人間が行き交って――いや、おれは人間を人間であると認識すらしていなかったかも知れない。とにかく全てが曖昧だった――、穴がどんどん広げられていったこと。
おれの目を通して見える、奥行きのある暗闇のこと。
おれのものではないおれの目を通して見える、様々な色彩のこと。
尤もこのとき、おれは色に名前があることすら知らなかったけれど。
それから、時折おれの前に姿を見せる人間。
これはしばらくの間は同じ人間がやってきて――人間は徐々に姿形が変わっていって――その変化を老いと呼ぶことすら、おれは知らなかったが――、そしてある日、唐突に別の、従前よりも小さな格好をした誰かに代わる。
以前までいた人間たちの、気配はする。
おれの目を凝らせば見える、揺蕩うような無数の存在のことも覚えている。
だが、そんなものよりも何よりも、鮮烈に覚えているもの、あるいは記憶するまでもなく激烈なものは、痛みだ。
指を折り取られる苦痛。
あるいは腕を捥がれる苦痛。
または目を抉り出される苦痛。
――もうひとつのおれは、つまり、おれの半身は押し付けられた変化を受け容れて、静かに従順に、このホールのあちこちに自分の子供たちをばら撒いていたが、どうやらそれでは足りないらしい。
白い――「白」という表現を、おれはずっとずっと後になって知るわけだが――布を被っておれのところまで来る連中は、淡々とおれの指を折り、目を抉り、あるいは背中や腹のどこかを抉って、用が済むと去って行く。
――だが、おれが人間ではないがゆえの特異性をおれが自覚するのは、ずっと後のことだ。
このときのおれには時間の概念すらも理解の埒外だったが、おれが何もせず、延々と暗闇の中で座り込んでいた時間は――後からあいつに聞いたあれこれの情報を統合して考えるに――実に五百年に及ぶらしい。
その五百年の間については、別に価値のあることはなかった。
だから、おれの生涯における、最初の価値のことを話そう。
――その価値のことを、おれはルシアナと呼ぶ。
◇◇◇
ルシアナが初めておれのところに来たのは、ルシアナがまだ子供の頃だった。
とはいえ、そのときのおれには、子供だ大人だという概念すらなかったが。
ただ、おれのところに来ていた男――もちろん、そのときのおれには男と女の概念も区別もなかったから、後から思い返してみて、あぁあれは男だったな、と納得したに過ぎないが――が、だんだん皺だらけになって縮んでいって、そのあと唐突に顔を出したのがルシアナだったと記憶している。
ルシアナは、少なくとも最初に見たときは、おれよりも小さかった。
他の連中がそうだったように、ルシアナも最初のうちは、布で隠した明かりを持ち込み、布をちょっと持ち上げて明かりを漏らしておれを見て、おれがそこにいるということを確認すると、そそくさと去って行く――ということを繰り返していた。
思い返してみればルシアナは、その役目に緊張していたような節すらあった。
ルシアナの背がちょっと伸びた頃に、初めてルシアナがおれに声を掛けてきたことを覚えている。
「――守人はいつも、なにしてるんですか」
と尋ねられたのだ。
だが、そのときのおれには、声と単なる音の違いは分からなかったし、更に言えば、言葉なんてものも知らなかった。
おれは無言で、唐突に音を出したように思えたルシアナを、じっと見詰めていたものである。
おれが座っているホールの中には、無数の、おれの目を凝らせば見える人間の残滓じみたものが漂っていて、そいつらが、さざめくように反応したことは知覚していた。
だがそのざわめきが、ルシアナがおれに声を掛けたことに起因するものであるとは、おれは分かっていなかった。
その日を境に、ルシアナはおれの周りをちょろちょろと歩き回ってからここを出て行くようになった。
ルシアナが頓着なくおれの半身に近寄るものだから、おれは内心がざわざわしたものだった。
おれの半身はおれであり、おれはおれの半身である。
自分の半身が自分と離れたところにあって、そこに誰かが近付いていくことの違和感は拭い難い。
ルシアナはそのうちに、明かりに掛けた布もあっけらかんと取り払うようになった。
明かりは、ちいさな球の形に闇を払った。
おれはそのとき初めて、ちゃんとした光というものを見た。
ルシアナはちょこちょことおれとおれの半身の周りを歩き回り、「退屈じゃないんですか」だとか、「ここで寝てるんですか」だとかとおれに訊き、おれが無言でいると、むぅ、と顔を顰めて去って行く。
それが――後から思い返して、ルシアナの容姿の変化を思い出して推察するに、たぶん数年――続いているうちに、おれはようやく、どうやらルシアナの発している音には意味があるらしいと気付いた。
それから注意してルシアナの声を聞くようになって、おれは最初に声と単なる音の違いに気付き、その更に後に、言葉の意味を徐々に汲み取るようになった。
恐らく、おれの意識は人間のものとは違う特異なものだから、理解しようとすれば、おれはルシアナの言葉の奥にある意識そのもの、意図そのものを汲み取って、それを言葉の形式に当て嵌めることが出来たのだ。
あんまり意識はしていなかったけれど。
それからおれは声の出し方を覚えて――多分だけど、おれがいきなり意味のない声を出すようになって、ルシアナはびっくりしたんじゃないだろうか――、いつだったか、ルシアナがいつものように、「退屈じゃないんですか」と訊いてきたときに、おれはこの世界において初めての言葉を発した。
「……退屈って、なんですか」
ルシアナはびっくりしたように目を見開いて、それから笑み崩れて――といっても、おれはこのとき、表情というものですら理解していなかったから、ルシアナの顔が変な風に歪んたとしか見えなかったわけだが――、意気揚々と答えた。
「何も、することがない――ってことですよ」
おれは退屈を理解した。
だが、理解を示す相槌の打ち方も仕草も、おれはこのとき知らなかった。
ただぼんやりと、ルシアナの顔のこういう歪み方は、変な風に素敵だな、というようなことを、言葉にもならない思考で描いていただけだった。
ルシアナは定期的におれのことを覗きに来ていて、その理由を説明することはなかったが、おれとの会話が――拙いにも程があるものだったが――成り立つようになって、ちゃんと自分の素性を話さねばならないと思ったらしい。
ある日唐突に、真面目な顔で言った。
「私はルシアナです。今代の番人です」
「わたし」
おれが復唱すると、ルシアナは、「聞いてほしかったのはそっちじゃない」という顔をして、「ルシアナ」「番人」と、強調するように繰り返した。
「番人だから、ここに来てるんです。他にもいっぱい来てたでしょう? お父さんとか」
おれはその言葉の意味が殆ど分からず、曖昧に呟いた。
――ただ、「他にもいっぱい来てた」というのが、かつて何度もここを訪い、そして今はこの辺りを残滓になって漂っている、漠然とした存在のことを指すということは察した。
ルシアナや、白い布を被った連中には、この辺りを漂う人間の残滓は見えないらしい。
そういうものなのだ、とおれは思っていた。
「私はルシアナ」
「違う違う、それは私の名前です」
ルシアナは噴き出してそう言って、おれを指差して「ヘリアンサス」と言った。
「何代か前の番人から、あなたのことをヘリアンサスと呼ぶようになっています。由来は知りませんけど、いい名前ですね」
おれはやっぱり意味が分からないまま、呟いた。
「あなたはヘリアンサス」
「違う、それはあなたの名前です」
ルシアナはいっそう笑った。
おれはいよいよ訳が分からず、続いて呟く。
「私は番人」
「違う違う、あなたは守人」
ルシアナはそう言って、おれの頓珍漢な発言の原因を特定したらしく、自分を指差して丁寧に言った。
「“あなた”、ですよ」
と、ルシアナが笑う。
「あなたからみると、“私”は“あなた”です」
おれはよく分からなかったが、ルシアナは繰り返しおれに同じことを言い聞かせて、おれはようやく一人称と二人称の違いを理解した。
おれが自分を示して「わたし」、ルシアナを示して「あなた」と言うと、ルシアナはちょっとだけ満足そうな顔をしたあとで、「欲を言えば」と言い差した。
欲というものが何かは知らなかったが、おれは耳を傾けた。
「ヘリアンサスは男の子のように見えますから、『俺』って言った方がかっこいいですよ」
ルシアナのその言葉の意味も、俺にとっては理解の埒外だった。
だが、ルシアナがおれに何を求めているのかは分かったので、おれはちゃんと自分を示して、「おれ」と言った。
続いておれがルシアナを示して「ルシアナ」、おれを示して「ヘリアンサス」と言うと、ルシアナは達成感に満ちた顔を見せたものである。
――ルシアナにはそういう、あけすけに表情を動かすという美点があった。
ルシアナは真っ黒な髪をしていて、その髪色は血に乗ってあいつに受け継がれたわけだが、目の色はまるであいつとは違った。
ルシアナの目の色は――おれがその色の名前を知るのはずっとずっと後のことであるわけだが――灰色で、灯火の明かりを映して、時折緑色に煌めいて見えるものだった。
常ににこにこと笑っていて、おれは表情の意味すら知らなかったくせに、ルシアナのそういう顔を見るのが好きだった。
おれが心底残念に思ったことに、そういう表情の機微はあいつには伝わらなかったらしい。
ルシアナは定期的におれのところに来て、それよりも頻度は低かったがやはり定期的に、白い布を被った連中はおれのところに来た。
そして相変わらず、おれの指を捥ぎ、あるいは腕や脚を折り取り、もしくは目を抉ったり、胸や腹や喉を刳り貫いて去って行った。
おれにはそれが苦痛で仕方なかったが、苦痛を表現する方法を、おれは知らなかった。
ルシアナ曰く、白い布を被った連中は「古老長さま」というらしかった。
稀にではあったが、「昨日は古老長さまがいらっしゃったでしょう」ということがあった。
おれは「昨日」というのが何か知らなかったが、それを聞く度に声を出す気力を失ってしまった。
白い布を被った連中がおれのところに来ることを、ルシアナは「サイジュ」であるとか「ヒロイヨセ」であるとかと言っていた。
――ただ、たぶん、ルシアナは、その儀式が何を意味するかまでは知らなかったように思う。
今になって思う。
声を出すことが億劫になっておれが黙り込むと、ルシアナはちょっと悲しそうな顔をする。
そういう表情の機微でさえ、あのときのおれは知らなかったが、今になって思い返して、きっとルシアナはおれに何が起こっているのかは知らなかったのだ、だからこそ頓着なく、サイジュだとかヒロイヨセのことを口に出したのだ、そしておれが黙り込むのも、理由が分からなくて戸惑っていたのだ、と思える。
ルシアナは徐々に大きくなって、ある日、妙にきらきらした銀色の髪飾りを着けておれのところに来た。
そして神妙な顔で、「ご報告なんですが」と。
「報告って、なんですか」
「聞いてほしいなってことです」
「聞いています、いつも」
「『いつも聞いています』が正しい語順ですよ」
ルシアナがそう言ったので、おれは「いつも聞いています」と言い直した。
ルシアナは満足そうに頷いて、片手の指先でちょっと銀色の髪飾りに触れてから、ほっこりと笑って言った。
「結婚することになりました」
おれは特に何も感じず、単調に呟いた。
「結婚って、なんですか」
おれがそう尋ねると、ルシアナは少々顔を赤くして、「それは難しい」と呟いた。
そして、おれが「難しいって、なんですか」と尋ねるよりも早く、尤もらしい顔を作って言っていた。
「誰かと、お互いに特別だと認め合うことですよ」
おれはなお、単調に呟いた。
「特別って、なんですか」
ルシアナは、むぅ、と唸って俯いて考え込み、それから顔を上げて、ぽんと手を打つと、あっけらかんと言い放った。
「特別っていうのは、ヘリアンサスにとっての、私です」
その喩えで、おれは特別を理解した。
おれが尋ねることを止めたので、ルシアナはちょっとだけ困ったように頬を掻いて、「これで納得してもらえるのも、なんだか照れくさいですね」と。
おれはすぐに、「照れくさいって、なんですか」と尋ねていた。
だが、それにはルシアナも答えてくれなかった。
それから、ルシアナの取り留めもない話の中に登場人物が増えた。
ルシアナはその登場人物のことを「あの人」と言って、あるときは、
「あの人は寝相が悪い」
と文句を言い、またあるときは、
「あの人と市に行ったんですけど、世の中には色んなものがあるんですねえ」
と笑い、あるいはまた別のときには、
「あの人が淹れてくれた薬草茶、美味しいとは確かに言ったんですけど、でもだからって、延々と毎日同じものを出されたら飽きません? でも、飽きたって言ったら悲しそうな顔するんですよね……」
と、悩ましそうに呟いていた。
おれはそういう話を聞いているのが心地よかったので、意味の分からない言葉が出てきても、「なんですか」と尋ねて話を中断させることを控えた。
しばらくそういう話を聞いていることが増えたときに、ルシアナはまた、いつかと同じような、神妙な顔でおれのところに来た。
そして、「ご報告なんですが」と。
「いつも聞いています」
と、おれは言った。
ルシアナはぱっと笑ったあと、なぜか大事そうに自分の腹部に触れた。
ちいさな球の形に闇を払う明かりの、光と闇のそのちょうど境目にルシアナはいたから、その仕草も見事に明るいところと暗いところに二分されて目に映った。
まあ、おれの目は人の目ではないから、明かりの強弱によって視界の確保に変化が生じるわけではなかったけれど。
そしてルシアナは、おれが今まで見た中で一番の、眩しいまでの笑顔で言っていた。
「子供が出来ました」
――今なら、多少はルシアナに合わせて、おれも喜ぶことが出来ると思う。
だがこのときのおれは、ひたすらに淡々と尋ねたのみだった。
「子供って、なんですか」
「あら」
ルシアナは目を見開いて、それからうにゃうにゃと、人間が増える仕組みについて説明してくれた。
なんでも、人間は二人一組になると、なぜか新しい人間を誕生させる能力に目覚めるらしい。
「――あれが、他の世双珠を作るのと同じなんじゃないでしょうか」
と、ルシアナはもうひとつのおれを示した。
おれは振り返って、薄く輝くもうひとつのおれを見たあと、言った。
「おれが、小さいおれを作るのは、作り変えられたからです、後から」
「そうなんですか」
ルシアナは目を見開いたあと、「まあとにかく」と言って、もういちど自分の腹部に触れた。
「この中に、私たちの子供がいるんですよ。男の子か女の子かは分かりませんけど」
「そうですか」
「ほっとしました。番人は一人だけだから、絶対に子供を作らないといけないんですよ。
内殻の管理は私にしか出来ませんからね」
「ナイカクって、なんですか」
「あなたを守っているものです、ヘリアンサス」
おれは少しだけ黙って、それから理解した。
おれとおれの半身から、常に直截的に何かを掠め取っていく存在があったから、恐らくナイカクとはそれのことだろう、と当たりをつけた。
このホールに漂う無数の、かつて番人だったものの残滓は、恐らくはおれと、おれの半身に引き寄せられて集まっている。
ルシアナがナイカクを管理しているというのなら、その習性が残るのだ、と、おれは何となくそう理解して、単調に確認した。
「あなたが守っているのですか」
「そうです」
真面目腐ってそう言ったあと、ルシアナは、「まあ、それはどうでもいいじゃないですか」と言い放った。
そしておれを見て、にこにこと笑った。
「今はとにかく、この子が出来て嬉しいんですよ。
ヘリアンサス、おめでとうを言ってください」
「おめで……?」
おれがつっかえると、ルシアナは笑って頷いた。
「『おめでとう』です、ヘリアンサス。
この子が愛されて生まれてくること、この世界はこの子を幸福にするためにあるんだってことを、ちゃんとあなたが分かっているって意味ですよ」
おれはルシアナを見て、ルシアナがさかんに撫でているその腹部を見て、ルシアナの言葉を朧気ながら理解した。
そして、言った。
「――おめでとう、ルシアナ」
それからというもの、ルシアナは具合が悪そうにすることが増えた。
いつものようにおれのところに来ても、ぐったりと壁に凭れていることも多かった。
だが、おれはそういう振る舞いが、ルシアナの身体的な不調を示すのだとは知らなかったから、不思議に思ってまじまじとルシアナを眺めているだけだった。
ルシアナはそういうおれの視線に気付くと、つらそうに笑って、
「子供が出来た直後には、よくあることなんです」
と言って、眉間に皺を刻んだ。
「私はお母さんなので、なんとかこれに打ち克たねばなりません。あの人はお父さんになるというので張り切って、この子が私のお腹から出たら、後はもう全て任せてくれと言っています。誰がこの子にお乳をあげると思ってるんでしょうね」
ルシアナはそう言って微笑んだが、やっぱりつらそうだった。
だがそのうちに、ルシアナはそうやってしんどそうにしていることが少なくなった。
「勝ったんですよ」と、ルシアナは真面目に言っていたものである。
ルシアナのお腹は、何やら大きく膨らむようになって、おれが乏しい灯火の中でまじまじとそれを見ていると、ルシアナは、「だから」と言って笑った。
「この中に、私たちの子供がいるんですって」
おれはひどくびっくりしていたが、そういう感情を顔に出す方法を、このときのおれは知らなかった。
更にそのうちに、ルシアナが、「今日は機嫌がいいのか、中からお腹を蹴ってくるんですよ」などという報告を齎すようになって、おれはますます慄いた。
とはいえ表情は変わらなかったが、どうやら本当に、ルシアナの中にはルシアナではない何かがいるようだ、と理解してびっくりしていたのである。
またあるときに、ルシアナは上機嫌で、「ご報告なんですが」と。
「いつも聞いています」
と、おれが答えると、ルシアナはにっこりした。
そして、大きなおなかを労わるように撫でつつ。
「名前を決めました」
「名前って、なんですか」
「私でいえばルシアナ、あなたでいえばヘリアンサス、私の夫でいえばエルドラド」
流れるようにルシアナがそう答えてくれたので、おれは名前を理解した。
そして、ルシアナのお腹を示した。
「それの名前ですか」
「はい。えっと、正確には、この中にいるこの子の名前ですが」
そう言って、ルシアナは指を立てた。
「男の子ならルドベキア、女の子ならエノテラです。どちらになるか、楽しみです」
そこで、ルシアナは立てた指をぎゅっと仕舞い込みつつ、不安そうな顔をした。
「……双子じゃなきゃいいんですけど。番人は一人だけだから、双子で生まれると片方の子が海に流されてしまうそうです。私はそんなの、とても耐えられません」
おれは、ルシアナが何を危惧しているのか分からずに尋ねた。
「双子って、なんですか」
「お腹の中に子供が二人いることですよ」
ルシアナがそう答えたので、おれはルシアナのお腹をじっと見た。
おれの目は人のものではないから、ルシアナには見えていないものもはっきりと見えていた。
このホールの中を漂う番人の残滓然り、生まれる前の存在然り。
「――一人です。ルシアナの中に、二人はいません」
おれがきっぱりとそう言ったので、ルシアナはびっくりしたように目を見開いて、それから笑み崩れた。
「ヘリアンサスのお墨付きですか。それはとても、心強いです」
ルシアナはよしよしとお腹を撫でて、呟いた。
「……早く会いたい」
次におれのところに来たとき、ルシアナはおれが見たことのない顔をしていた。
そのまま何も言わずにおれのいるホールの端っこにしばらく座って、一言もおれに声を掛けることなく出て行った。
おれはそれを妙に思ったが、思えばルシアナ以前にここに来ていた番人たちはみんなそうだった。
ルシアナが変なのだ。
とはいえおれは、その奇妙さが失われたことを――人間でもないくせに――人並みに寂しがった。
尤もおれは、寂しいという感情につける名前を知らなかったけれど。
その次におれのところに来たときも、ルシアナは同じ顔をして、同じように無言のままおれのところを離れて行った。
ルシアナの表情は全くの無で、なんだか表情が占めるべきところに穴が開いたようですらあった。
血の気が引いた顔色は、暗闇に浮かび上がるように白かった。
おれはそれを怪訝に思ったが、自分から口を開くという考えはおれにはなかった。
更にその次におれのところへ来たときになって、ようやくルシアナはおれの傍まで来た。
お腹が重そうだった。
ルシアナは、おれとルシアナの目の前の、石の地面の上に明かりを置いて、ちいさな球の形に闇を払うその明かりの端っこの方で座り込み、言った。
「……ご報告があります」
「いつも聞いています」
と、おれは答えた。
ルシアナの表情が、そのとき初めて緩んだ。
ルシアナは微笑んだが、同時に見慣れない変化が起こった。
ルシアナのふたつの瞳から、ぼろっと何かの滴が零れたのだ。
おれは驚いた。
「――それは何ですか」
おれが尋ねると、ルシアナは指先でその滴を拭った。
灯火の明かりに、指先に付着したその滴が白く煌めいていたことを覚えている。
ルシアナはその指を拳の中に仕舞い込みながら、小さな声で言った。
「これは、涙です」
「涙って、なんですか」
「人の気持ちです」
ルシアナはそう言って、おれが「気持ちって、なんですか」と尋ねる前に、いつものようにお腹を擦った。
そして、呟いた。
「――エルドラドがいなくなってしまいました」
おれは特に何も感じず、尋ね返した。
「いなくなるのは間違いなのに、どうしてでしょう」
ルシアナは微笑んだ。
今度は連続して、ぼろぼろと滴が――涙が零れた。
おれは困惑したが、困惑を顔に出す方法を知らなかった。
「はい、間違いです」
ルシアナはそう言って、両手で顔を覆った。
そのまましばらく肩を震わせたあと、呟いた。
「……火事が」
「火事って、なんですか」
おれはいつもの如くに尋ねたが、ルシアナは答えなかった。
「火事が起きて」
おれは口を閉じた。
ルシアナの声が震えた。
「火事で亡くしました。夫は火事で亡くしました。――私の。
こんなのってないですよね。この子に会いもせずに逝ってしまうなんて」
おれは意味が分からなかったが、ルシアナがよく呼ぶ「あの人」、即ち「夫」、つまりは「エルドラド」が、どうやらいなくなったらしいとようやく悟った。
「そうですか」
おれは言った。
ルシアナは両掌から顔を上げて、しかしながら顔を伏せたまま、微笑んだ。
おれにとっては見慣れない感情の発露だった。
ルシアナはお腹を撫でていた。
「――私を助けてくれたんですよ。熱かったでしょうね……」
おれは意味が分からなかったが、口を閉じたままでいた。
ルシアナはそのあと、「火の中に飛び込んで」だとか、「私を外に出してくれて」だとかと呟いた。
おれはやっぱり意味も分からなかったし、何ならそのときのおれは、灯火そのものを火というのだとも知らず、また大きな火は災害であるのだということも知らなかった。
ただ、繰り返し繰り返し、ルシアナが「熱かったでしょうね」と呟くものだから、そのうちに考えた。
――おれには、痛みなら分かる。
――熱さと痛みが同義であるなら、それは知らない方がいいんだろうな。
と。
おれはルシアナをぼんやり眺めていたが、そのうちに、ルシアナがずっと涙を零し続けるものだから心配になってきた。
涙というのが人の気持ちであるならば、流し続けたら気持ちが身体の中から無くなってしまうのではないかと、気持ちというのが何かは知らないが、それはこうも流し続けていいものなのか、と案じたのである。
とはいえ、おれにルシアナに掛ける言葉の語彙があったはずもないので、おれはぼんやりとルシアナを眺めているだけだった。
ルシアナはルシアナで、きっと無人の場所で泣いているに等しい感覚だったに違いない。
しばらく涙を零し続けたルシアナは、しかしようやくそれを止めて、顔を上げておれを見た。それから、鼻を啜って呟いた。
「ヘリアンサス、私がここに来るのは、しばらく間が空くかも知れません」
おれはルシアナの言葉が理解できず、いつものように尋ね返した。
「間が空くって、なんですか」
ルシアナは笑った。
まだ涙の痕は残っていたが、おれがあまりにも無表情でいつもと変わらない様子なので、なんだか馬鹿らしくなったのかも知れない。
「――臨月なんですよ。この子がいつ、生まれてくるのか分かりません。この子が生まれてくるとなると、しばらく私はそれに掛かりっ切りになりますから」
おれはやっぱりその意味が分からなかったが、もはや尋ね返すのもどうすれば良いか分からないくらい、全部が理解の埒外の言葉だった。
――だが、ルシアナはおれのところに来た。
このときのおれには時間の概念すらなかったから、間が空いたのかどうかすら分からなかったが、ともかくもおれのところに来た。
それが予定外の出来事であるらしいとは、おれも察することが出来た。
ルシアナは身体を引き摺るように走って来て、灯火こそ携えていたものの、髪も服も乱れていた。
おれはその異常性が分からなかったので、いつもとはなんだか様子が違うな、と思っただけだった。
ルシアナの頬はこけて、目は充血して、唇には噛み切った痕があった。
更に言えば、ルシアナは素足だった。
小さな足が岩で切れてぼろぼろになっていたが、おれはそれも、あんまり関心を寄せる事柄には思えなかった。
ルシアナは灯火の他に、布の塊を抱き締めていて、それが重そうだった。
その布の中から、変な音がしていた。
ルシアナは、いつものように振り返ってまじまじとルシアナを眺めるおれに、殆ど激突するようにして膝を突いた。
がしゃん、と、灯火が地面にぶつかって音を立てた。
慣れない臭いがした。
今から思えば、それは血の臭いだった。
ずっとずっと後になって、おれがあの城の大広間で六人を殺したあと、その場に充満するのと同じ臭い。
「――ヘリアンサス」
ルシアナが言った。
灰色の目の焦点が合っていなかったが、それでいて熱に浮かされたように一生懸命だった。
声は震えていた。
ルシアナが胸に抱いている布の包みの中から、またも変な音が鳴った。
「なんでしょう」
おれは応じた。
ルシアナは、胸に抱いた包みをおれに押し付けてきた。
けれどもおれは、物を受け取るという経験をしたことがなかった。
ただ無言でいるおれに、ルシアナは焦れたように。
「この子、この子を守れますか」
おれは訳が分からなかったので、いつもと同じように尋ねた。
「この子って、なんですか」
「この子です、男の子でした、ルドベキアです、見て」
ルシアナがそう言って、なおもぐいぐいとおれに布の包みを押し付けてくる。
それでおれはようやく、布の包みの方に目を向けた。
そして、ぎょっとした。
表情の変え方を知っていれば、おれは相当に珍妙な顔をしてしまっていたに違いない。
布の中から、妙なものが覗いていた。
皺くちゃで、赤くて、小さい。
どうやら人間の一種だろうとは察しが付く造形をしていたものの、今までここに来た番人とは似ても似つかない。
まず、余りにも小さい。顔も、なんだかおかしい。
目も開いていないくせに、口を開けて、ふぎゃあ、と音を立て続けている。
おれの耳でも、その向こうの意図を聞き取れない。
皺だらけで、頭が全体と比べて大きいので、ますます変に見える。
「――これは、なんですか」
おれはそう尋ねて、ルシアナは泣きそうな声を出した。
「ですから、ルドベキアです。私の息子です。さっきまでお腹にいたんです」
おれは驚愕していたが、生憎とその表現方法を知らなかった。
「そうですか。これが入っていたんですか。あなたと随分違います」
「生まれたばかりですもの」
ルシアナはそう言って、とうとう声を荒らげた。
「手を出してください、この子を抱っこしてください」
おれは何を言われたのか意味が分からなかったが、ルシアナがおれに布の包みを押し付けて、手を離そうとしてしまったので、強張った動きながらも自分でその布の包みを支えた。
包みはずっしりと重かった。
おれはそれを取り落としそうになったが、なぜだか知らないがそれを堪えた。
ふぎゃあ、と、布の包みの中から音が鳴る。
「ヘリアンサス、私の息子です。ルドベキアです」
ルシアナがもう一度そう言って、妙に焦点の定まっていない目でおれを見た。
「言いましたよね、この子は愛されて生まれてくるんだって、この世界はこの子を幸福にするためにあるんだって」
おれは「そうです」と認めて、ふと思い出して付け加えた。
「おめでとう、ルシアナ」
「――この子に」
ルシアナが囁くようにそう言って、ふぎゃあふぎゃあと壮絶な音を立て続ける人間――どうやらこれがルドベキアらしい――の、小さいくせにちゃんと五本指のある手に、自分の指を近付けた。
目が開いているわけでもないのに、ルドベキアはちゃんとその指をぎゅうっと握った。
おれは何となく、その指を見ていた。
――ルシアナの指。
その指を、離してはなるまじと言うように握り締める、余りにも小さいルドベキアの手。
「……なんて可愛いの」
ルシアナがうっとりとそう言った。
おれはいつものように尋ねた。
「可愛いって、なんですか」
「この子のことです」
ルシアナが即答した。
おれはそれで可愛いというものを理解した。
それからルシアナは顔を上げて、おれを見て、切迫した声で言った。
「古老長さまがこの子を殺そうとしているんです。この子がおかしいって言うんです。ヘリアンサス、この子を守ってください。古老長さまも、あなたに狼藉は働かないはずです」
おれは何を言われたのか欠片も分からず、無言でルシアナを見詰めた。
それから、どうすれば良いかよく分からなかったので、腕の中にいるルドベキアを見下ろして、呟いた。
「――おめでとう、ルドベキア」
んぎゃあ、と、ルドベキアは泣いた。
おれはルシアナに目を戻した。
「ルドベキアをどうするのですか」
「生きていてもらうんです」
ルシアナがそう言った。
聞いたことがないくらい決然とした声だった。
「あなたは人間ですか」と尋ねられて是の応答をするにしても、これほどの確信は籠もらないだろうと思えるくらい、確信に満ちた声だった。
――そのとき、別の音が聞こえてきた。
おれは声の出し方を忘れた。
口の開き方を忘れた。
身体の動かし方を忘れた。
――いつもは白い布を被って来る連中が、この場所に押し入って来た。
◇◇◇
ルシアナが「古老長さま」と呼ぶ連中は、押し入って来るなりまずはルシアナを引き摺り立たせて、それに対してルシアナが苦悶の声を上げるのもお構いなしに、「子供はどこだ」とルシアナを問い詰めた。
そのときちょうど、ルドベキアがまた泣き声を出してしまったので、連中がおれを見た。
おれはルドベキアを見た。
ルドベキアは、なぜだかは知らないが盛んに泣き喚きながら、どことも知れない場所に手を伸ばし、不機嫌そうにしゃくり上げている。
押し入って来た連中も、事態が予想の範疇を超えたのか、一瞬固まった。
恐らくではあるが、まさかおれが子供を抱いているとは思わなかったのだろう。
――何しろこいつらにとって、おれは鉱山と変わらないものだったんだから。
おれは、この連中の前で初めて、身体の動かし方を思い出した。
そうっとルドベキアを持ち上げて顔に近付けてみた。
やっぱり血の臭いがした。
まあ、おれがそれを血の臭いであると認識するのは、もっと後のことになるわけだけれど。
おれはまじまじとルドベキアを見て、それからルドベキアを支える片腕の位置をちょっと変えて、ルドベキアの目の前に自分の指を差し出してみた。
ルドベキアがその指を掴んだ。
小さいくせに力があった。
ちゃんと五本指の力があった。
何かの不満があるのか、ルドベキアはぎゅうぎゅうと力を籠めておれの指を握った。
――なるほど、これは愛されて生まれてきたのだ。
愛するというのが何かは知らないが、たぶんルシアナの、ああいう必死さのことを言うのだ。
あるいはルシアナの夫が、火事だとかいうものの中から、ルシアナとルドベキアを助け出したことを言うのだ。
つまりは何かを尊ぶことを言うのだ。
そんなことを、おれは言葉にもならない思考で描いて、もう一回、そうっとルドベキアを持ち上げて、その頭の辺りに頬擦りした。
――不思議なものである。
このときのおれが、親愛の仕草など知っていたはずもないのに、おれはそうしていた。
「――えっ」
と、ルシアナではない誰かの声が言った。
「守人って、ああいう感情もあるんですか」
その声に向かって、もっと低い声が言った。
「黙れ、バーシル」
ルシアナがおれを見ていた。ルドベキアを見ていた。
ルシアナはまたしてもぼろぼろと涙を零していた。
おれはルシアナの方を見て、いつもは白い布を被っているこの連中の前で、初めて声の出し方を思い出した。
そして、言った。
「――番人」
ルドベキアに指を握らせたままで、おれは呟いた。
「番人は、ルドベキアです」




