70◆――〈呪い荒原〉
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俺は茫然と言葉を失い、唐突にそこに現れたとしか思えない、新雪の色の髪を靡かせるヘリアンサスを見詰めていた。
――ヘリアンサスだ。
どこからどう見ても。
俺が生まれてからずっと見てきた顔だ、間違えるはずがない。
だが、格好が違う。
俺が知っているこいつは、常に白い貫頭衣を身に着けていた。
それが今は、ごく普通の、旅装といっていい格好をしている。
明かりのある場所でこいつを見るのは初めてだから、その違和感も甚だしい。
こいつの髪は思ったよりも、光の中で映えるものであるようだ。
見慣れた黄金の目が、瞬きもせずに真っ直ぐに、俺を見詰めて映していた。
「……――ヘリアンサス?」
俄かにはやはり信じ難く、俺は囁くように尋ねていた。
身動き出来なかった。
頭の中から、背後にいる皇太子のことが抜け落ちた。
「――ヘリアンサス……?」
ヘリアンサスは頷いた。
俺が教えた仕草だ。
肯定するときは頷くものだ、納得したときには頷くものだ、と。
生真面目な、いつもと同じ無表情で、ヘリアンサスは俺が教えた通りに丁寧に頷き、それから口を開いた。
声を出すまでに、一拍の間があった。
「そうだ、おれだ」
声も、間違いなくヘリアンサスのものだった。
中性的な滑らかな声。
口を開いてから声を出すまで一拍の間を置く、俺の好きな癖もそのまま。
変わらない。変わっていない。
何かに怯えている風もない。
「おまえ……」
俺は思わず、よろよろとヘリアンサスの方へ歩を進めていた。
事態が急転した余りに、思考が上手く回らなかった。
「おまえ、どこ行ってたの……。外に出たら駄目だって言っただろ……なんか怖いことあったの?
おまえ、あちこちで捜されてるんだぞ……」
「探してる? おれを?」
ヘリアンサスが首を傾げ、それからどうやら微笑らしきものの欠片を、その無表情の端に引っ掛けた。
そして、言った。
「それは大変だ」
「ヘリアンサス……?」
俺は眉を寄せた。
ヘリアンサスはそんな俺を覗き込んで、今度こそはっきりと微笑してみせた。
色素の薄い唇が、綺麗に弧を描いた。
――違和感。
「ルドベキア、素敵なことはあったけど、怖いことはなかったよ。あったとすれば最近かな。
外に出たらだめ? よく言う、おまえは外に行ったじゃないか」
「ヘリアンサス……?」
俺は足を止めた。
ざわざわと風が吹いた。
冷たい風が、骨の髄に吹き込んでくる。
「おまえ、なに言って――?」
「ルドベキア、おまえが帰って来ないから」
ヘリアンサスは微笑んでいる。
風に髪が揺れている。
身体の後ろでゆったりと手を組み合わせて、寛いでいる。
夜風を喜ぶように目を細めている――あるいは苦笑だろうか。
苦笑。苦笑?
「明るいのと暗いの、両方合わせてひとつ、繰り返して三百六十――だっけ? その約束を話したら笑われたよ。昼も夜も知らない、おれはどうやら変なやつだったらしいね」
――違和感。
「ヘリアンサス、おまえ」
「ルドベキア、おれはちゃんと待ったんだけど」
ヘリアンサスは微笑んでいる。
真っ白な睫毛に黄金の瞳が煙っている。
「でもおまえ、約束を破ったね」
俺は後退った。
ヘリアンサスを相手に、こんな気持ちになったのは初めてだった。
――怖かった。
「ヘリアンサス、理由が」
「理由? そんなの知らない」
ヘリアンサスは言下に切り捨てて、しかし微笑は揺らがずに。
――違和感。
違う。
俺の知っているヘリアンサスは、こんな風に器用に表情を作らない。
こんな風に流暢に喋らない。
こんな風に――
「でも、おれは優しいからね」
ヘリアンサスが動いた。
ゆったりとした動きで、俺との距離を詰めてくる。
さくさくと芝生を踏んで、躊躇なく。
「おれの愛するおまえのすることなら、何千回だって許してやろう」
ヘリアンサスが何を言っているのか、俺には分からなかった。
俺のすぐ傍まで来て、ヘリアンサスが左手を上げた。
その手首で、しゃらん、と腕輪が揺れる。
空色の宝石――カライスの腕輪。
あの日、俺があげた腕輪。
ヘリアンサスの左手が、俺の頭を撫でた。
そしてヘリアンサスの黄金の双眸が、ふっと横に逸れて何かを見た。
俺も反射的に振り返って、その視線を追っていた。
――ヘリアンサスの黄金の視線の先に、皇太子が立っている。
突然の闖入者に、彼も驚いている。
ヘリアンサスはまじまじとその姿を見て、それから俺に視線を戻した。
黄金の瞳が、間近に俺の影を映して細められた。
ヘリアンサスはなおも俺の頭を撫でている。確かめるように。
そして、言った。
「――事情は分からないけれど、ルドベキア。あの銀髪に怒ってるんだろう?」
「……ヘリアンサス?」
俺は息にすら難儀しながら、囁くように名前を呼んだ。
ヘリアンサスはひとつ頷き、
「ルドベキア、辛抱我慢は良くないよ。そういうのは、違うでしょ」
左手で俺の頭を撫でたまま、すっ、と、右手の人差し指を立ててみせた。
そして、ヘリアンサスは無邪気に笑った。
「――父さんが手伝ってあげよう」
くるり、と、ヘリアンサスが指を回した。
がちん、と、時間に錠を下ろす音がした。
驚愕という言葉ですら足りない激情を、このときの俺は覚えていた。
――この魔法は、時間に干渉する魔法は、俺だけのものであるはずだ。
俺は使っていない。
誓って何もしていない。
それなのに、その魔法が働いていた。
――かつてキルディアス侯が、俺の魔法を評して言ったことがある。
『大使さまの魔法は謂わば、対象を本来のものとは切り離した全く別の時間の概念という容器に入れるようなもの。大使さまはその容器の中を見ながら外にもいて、容器をどういう速さで動かすかは任意。容器を開ければ――魔法を解けば、中のものは外と同じ時間の概念の中に戻る』と。
このとき俺は混乱していて、事態の把握すら儘ならなかったが――それでも分かったことがある。
時間に干渉する俺の魔法を、どうしてだかヘリアンサスが使っているということ。
ヘリアンサスに魔法を使う能力があるということを、このときまで俺は知らなかった。
そして、ヘリアンサスの使った魔法の対象が、俺であるということ。
ヘリアンサスの魔法は俺を対象として、俺の時間を歪な形で巻き戻した。
時点はあのとき、俺が皇太子に向かって手を振り上げ、彼を殺す魔法を使おうとしていたあのときまで。
そして俺を、その時間という容器に留めたまま、今この時点に戻した。
今の俺と、数分前のあのときの俺、その二人をちゃんと一致させて、ヘリアンサスは、
「――ほら、簡単だ」
魔法を解いた。
「――――っ!」
今度は止められなかった。
魔法を使おうとしていたあのときの俺が、このときの俺に重なっていた。
目の前にいる皇太子に呪いを掛けたことにより底を突いた魔力を埋めるように、あのときの俺が保持していた魔力さえ、そっくりそのままこのときの俺に移植されていた。
魔力枯渇による眩暈は速やかに収まり、しかしその自覚さえ儘ならないまま――
愕然とする余りに思考の集中さえ失った俺は、あのときに使うはずだった魔法を――
――俺自身ですら、俺の全力の魔法を知らなかった。
そのときの音を、俺は言い表すことが出来ない。
――見えたのは、凄まじい速さで伝播していく白い炎の渦。
眩いばかりの、爆発的な光。
白いほどに赤く照らし出される夜空。
巻き上がる黒煙。
数千枚の硝子が一斉に砕け散る、耳を聾する大音響。
燃え上がるというよりは蒸発するようにして、一瞬にして消え失せる鐘楼。
屋上庭園を一瞬のうちに灰にして、いや、それに留まらず、宮殿そのものさえも数秒と掛からず灰燼に帰し――
銀色の髪の皇太子が身を翻すのが見えた。
一瞬のうちに彼の姿が消えた。
このときの彼が、宮殿にいた人間を手あたり次第に遠くへと転送しようとしていたことを、のちに俺は知ることになるが、しかし。
膝を突こうとして、しかし宮殿さえももはや無かった。
自分が今、何を足場として立っているのかさえ、俺には分からなかった。
ヘリアンサスが俺の隣で、「すごいすごい」と笑っている。
声を上げて笑っている。
その顔が見えなかった。
眩し過ぎる光に、塗り潰されたように白く見えていたから。
「すごい、見て、ルドベキア――すっごく綺麗だ」
ヘリアンサスが上空を指差して、そして俺は、夜空すらも燃え上がっているのを見た。
真っ白な炎の波が、高く夜空にすらも架け橋を投げて、ありとあらゆる場所に炎を降らせていた。
夜空は真っ赤に燃え立ち、星ですらも月ですらも、その夜空から霞んで消えてしまっていた。
このときの俺がいた場所が、まさしく夜空に降臨した太陽であったかのように。
真っ白な熱波が凄まじい勢いで伝播していき、それを追うように、岩石でさえも溶かす高温の炎が、津波のような勢いで四方八方で拡がっていっていた。
俯瞰してみればそれは、地上に真っ白な極光が降りたように見えたかも知れない。
そして、黒煙――ありとあらゆる建造物が、町そのものが、山が、谷が、一瞬のうちに黒煙の中に消えていき、そしてそのまま戻らない。
川が干上がり、湖が窪地に変じ、そしてその窪地に灰が降る。
かつて人だった、町だった、山だったものの灰が降る。
轟音が響いていた。
音として捉えることすら難しいほどの、地鳴りのような震動だった。
世界が揺れていた。
何百万何千万という人が悲鳴を上げていたはずだが、その声すらもその、音ともいえない音に呑まれて消えていた。
――俺がこのとき何を考えていたのか、俺は覚えていない。
頭の中が空っぽになっていたのかも知れない。
この魔法を俺が止めることが出来たのか否かも、俺は分からない。
――魔法とは、魔を以て法を変えること。
俺はあのとき、皇太子を殺すつもりで法を変えようとしていた。
俺の憎悪がそのまま魔法に反映されていたのならば、その憎悪が成就するまでが俺の魔法の範疇だったことだろう。
術者である俺に、それが止められただろうか。
――いや、出来たはずだ。
分からないなんてことはない。
出来たはずだ。
ちゃんと考えて、動いて、御していれば。
ただ愕然としていた、茫然と目の前の惨劇を眺めていた、このときの俺が死んでいれば良かったのだ。
――この大陸最大の悲劇は、間違いなく俺の、俺自身の罪業だった。
凄絶なその時間がどれほど続いたのか、俺は知らない。
目の前は余りにも明るく輝き、音は耳の奥に溜まるように轟いていた。
俺は途中から何かを叫んでいたが、何と叫んでいたのかも記憶にない。
だが、記憶が完全に途切れた要因ははっきりしている。
身の内の魔力を再び消費し切って、俺は気を失ったのだ。
分かっているのは、俺が気を失ったくらいでは、俺の魔法が止まらなかったことだった。
推測でしかないが、俺の魔法はその夜を徹して振るわれたはずだ。
さすがにそれより短い時間で、あれほどの被害を生むことはなかったはずだ。
――次に俺が目を開けたのは、夜明けが迫る刻限のことだった。
酷い異臭が鼻に衝いた。
吐き気がしていた。
冬にはあるまじき暑さに、俺の肌には汗が滲んでいた。
目を開けて、横向きになった景色の意味が分からずに、俺は眉を寄せて身を起こした。
声が出なかった。
心情的にも声を出せる状態ではなかったし、喉が干上がっていて、物理的にも声など出せたものではなかった。
俺は瞬きした。
髪が汗で額に張り付いていた。
頬にべったりと、灰の汚れが付いているのを感じた。
――息を吸う。
胸が震える。
視界が震え、手が震え、俺は声にならない絶叫を上げている。
膝立ちになる。
半狂乱になって、左右をぐるぐると見渡しながら立ち上がろうとし、焦る余りに転んでしまう。
手を突いた先は赤黒い灰だ。
俺は悲鳴を上げるが、その悲鳴も声にはならない。
掠れた、笛のような音が鳴っただけだった。
俺は尻餅をつく。
そして、愕然と、もういちど周囲を見渡す。
――俺はいつの間に、宮殿のあの高さから地面の高さに落ちたのだろう。
周囲を見渡しても、どこを向いても、見渡す限りが平坦な大地だった。
辛うじて、海の方角にだけは青い色が微かに見えたが、それだけ。
完膚なきまでに広がる、病的な熱気を放つ赤黒い大地が延々と続いている。
震える足を叱咤して立ち上がる。
視座の高さは変わったが、見える光景には何らの変化もなかった。
宮殿が消えている。都市が消えている。山が消えている。
――なんだよ、これ。
俺は膝を突く。
ちょうど見上げた先で、海鳥が海の方角からこちらへ向かって翼を切るのが見えた。
――そして、落ちる。
まるでこの大地の上に、有害な毒が撒かれているかのように。
――なんだよ、これ。
気が狂ったように目を擦り、自分の頬を叩き、周囲を見渡す。
夢だ、夢だ、悪趣味な夢だ。覚めろ、覚めろ、と、目には見えない誰かを脅迫するように頭の中で唱え続ける。
立ち上がる。靴裏の下で灰が沈む。
その灰から、なおも異様な熱気が漏れ出している。しゅう、と小さく音がする。
――なんだよ、これ。
あの皇太子が、砂漠かどこかに俺を送り込んだのかも知れない、と、縋る気持ちで俺は考えた。
砂漠なんて行ったこともなかったが、本で読んだ。
一面の砂丘が広がる、酷暑の地帯であるという。
ここが砂漠でない証拠がどこにある?
こんな――こんな――見渡す限りの――
息を吸い込み、咳き込む。
鼻が曲がるような異臭が漂っていた。目尻に涙が浮かんだ。
――ここが砂漠であるというのなら、
胸が収縮した。
身体が言うことを聞かない。
頭の芯が熱くなって、目に本格的な涙が滲んできた。
――だったらどうして、一面から俺の魔力の気配がするんだろう。
膝で立っていることすら出来なくなって、俺はその場に座り込んだ。
嗚咽が喉を揺らして、それでようやく、僅かながらに声が出た。
俺はしゃくり上げていた。
「――嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
こんなことは認めたくない。
「――違う、違う、違うんだ……」
俺は踏み留まったはずだった。
トゥイーディアのことを考えて、ちゃんと踏み留まったはずだった。
それなのに、どうしてこんな。
嗚咽が漏れる。
肩が震える。
両手を髪に突っ込み、掻き毟るように動かす。
指が震え、瞼が痙攣した。
「――あ、ああ――……」
トゥイーディアに対する気持ちを自ら踏み躙ったということと、自分がどれだけの数の人々を殺したのか、その理解さえ出来ないということ――
「あああああっ!」
――俺は絶叫した。
弾かれたように立ち上がり、周り中を見渡して、灰を蹴立てて動き回った。
「ヘリアンサス!!」
怒鳴った。
「ヘリアンサス! どこだ!!」
あいつがここに来たはずだ。
今はいない。
どこに行った。
どこかにいるはずだ。
「ヘリアンサス! ここに来い!! どこだ、おまえ――、」
朝日が粛々と昇っていく。
「――ヘリアンサス!! ヘリアンサス!!」
狂ったように俺が絶叫するその場所には、もはや風さえも吹き込まなかった。
◆◆◆
――これが、今にすら残る〈呪い荒原〉だ。
このときの俺は、空を飛んでいたわけでもないので理解のしようもなかったが――そして、理解のしようがなかったことは、数少ない俺の幸運であるわけだが――、俺の魔法が齎した殺戮は、俺の想定を超えるものだった。
――見渡す限り、なんてものではなかったのだ。国ひとつだ。
カロック帝国の国土ひとつを、一晩で焦土に変えたのは俺だ。
都市を破壊し、山すら砕き、湖さえも消し飛ばして、一国を蹂躙したのが俺だった。
そしてその呪いを後世に引き継ぎ、足を踏み入れるだけで命を落とす呪われた大地を作り出したのも、間違いなく俺だった。
この場所を最初に〈呪い荒原〉と呼んだのが誰なのかは、今となってはもう分からない。
だが、その人物は正解を言い当てていたわけだ。
俺はカロック帝国の皇太子に呪いを掛け、あまつさえ彼が治めることになるはずだった国土を全て灰燼に帰した。
――後になって分かることだが、生存者がいなかったわけではない。
皇太子が死に物狂いで救出した人物が、数人ではあれ国外に落ち延びたのだ。
彼らは偶然にも、皇宮に乗り込み傍若無人に振る舞った、俺のことを覚えていた。
そして皇太子から見れば、俺が――俺の魔法が、彼が心から愛した国土を焦土に変えたことは明白だったわけである。
――この日、一夜にして大国の領土すべてを灰とした俺は、御伽噺でしか語られたことのなかったその称号を以て呼ばれた。
国ひとつが消失するという、有り得ないはずの事態があって、その称号は瞬く間に大陸中に轟くこととなった。
即ち、魔王。
魔王が御伽噺の中から抜け出して、帝国ひとつを一夜にして灼き滅ぼしたのだ、と。




