29* 断章
薬草の束が浮いていたお湯は、いかにも身体に良さそうな匂いがして気に入った。
自分の肌にもその匂いが移った気がして、私は思わず、くんくんと自分の手首を嗅ぐ。
――あんまり移ってないな……。
そう思い、私は苦笑しながら衣服を身に纏う。
長かった船旅は、すっかり私の身体を垢まみれにしていた。
船にお風呂はなくて、身体を拭くのが精いっぱいだったから仕方ないんだけれど。
久し振りのお風呂は身体が溶けそうなくらい気持ちよかった。
私が身に纏う衣装は、レイヴァスでこの日のために誂え、持参したドレス。
深い青色の、レースがあしらわれた上品なもの。
身に着ける装飾品は真珠で揃えたから、左の小指の指輪は目立ってしまうかも知れない。
インナードレスを着た段階で侍女さんを呼び、そのドレスを着付けてもらう。
ぐいぐいと腰を締められながら、私はこれからの晩餐のことをぼんやりと考えていた。
――私はこれから、私を歓迎するための晩餐会に臨む。
私はその場で、ルドベキアたちの立場を守り、ルドベキアの正体が露見することを防ぐための、盛大な嘘を吐かなくてはならない。
あの魔王の目の前で。
魔王の顔が浮かんだ瞬間、自分の顔が歪んだのが分かった。
一気に燃え上がった思考を鎮めるため、慎重に、今考えるべきことを頭の中に並べていく。
今日のこと。
気に掛かるのは一つ。誰があの兵器を差し向けたのかということ――あの兵器は魔王の魔力で動くはずなのに。
ルドベキアのはずはない。
そしてヘリアンサスは今、魔王ではない。
ならば誰があんなことをしたのか、突き止めて二度とないようにしなければ。
あの兵器をガルシアに――あるいは、ルドベキアに差し向けた行動原理が、悪意でないなら何だという。
あの兵器が、救世主である私に差し向けられた――タイミングからしてそう考えるのが自然な気もするけれど、それはない。
魔界から救世主が誰であるのかを知るのは不可能だし、あの兵器は一度も船を狙った攻撃はしなかった。
それに、魔族たちが進んで害そうとするのはルドベキア以外に考えられない――あいつが下した、あの命令があるから。
ルドベキアをここから引き離さなければ、あの兵器こそもうないものの、魔界からまた要らぬ手出しが入ることになるかも知れない。
そのせいで無辜の人々から犠牲が出るようならば許されない。
ちょうどいいから――と言っては怒られるかも知れないけれど――、みんな一緒に魔界へ向かって事の首謀者を探る役目を賜れるよう交渉しようか。
問題は、魔界にいるはずの魔王の首を、私たちはどうやっても持って帰って来られないということだけれど。
ルドベキアをここから連れ出す理由を言えばきっと、真面目な彼は気に病むだろう。だから言わないけれど。
でも変なところで目端が利くあの人は、自分で気付いてしまうだろうか。
それに、魔界には個人的な用がある。
――ルドベキアが辿ってきたであろう半生、その礼をせずにおられようか。
ルドベキアが魔王として生まれ、どのような仕打ちを受けたのか、私は知っている――いや、推測できる。
あのとき、あの魔王が私に話したからだ。
――あの日、――思い出してしまえば、どうして今まで忘れていたのか不思議なほど、鮮明に脳裏に焼き付いているあの日、あの魔王は私の世界で最も憎い相手になった。
忘れていたことに関してはどうしようもないだろう、これは私の生涯に課された「贖罪」なのだから。
***
あの日――魔王の城でみんなが、そして私が殺された日。
最後まで生き残ったディセントラも私の背後で倒れ、虫の息。
今回も駄目だった、及ばなかったと、私は絶望的な心地で悟っていた。
あとは私が殺されるだけ。
そうすれば、また始まる。
また生まれて、またみんなと会って――
魔王は私をその黄金の目でまじまじと見ていたが、不意に囁いた。
「ねえ、面白い話をしようか。文字通り、冥途の土産ってやつだよ」
私が負った傷は深くて、多くて、声も出せない。立っているので精一杯。
手にした武器はいつの間にか黝く飾り気のない棍棒の形になっていて、私はそれを杖にして縋って、やっとのことで倒れるのを堪えている。
「本当にきみたち、物好きだよね。――元はと言えば自分たちで蒔いた種なのに、毎回毎回、まるで被害者面してここまで来てさ。
もう何回目? 何年経った? 十回を超えたあたりから、僕はもう数えてないけどね。年数だってそう。死んでた時間も含めたら千年? 二千年? それ以上じゃない?」
答えない――答える気力もない私を見て、魔王がにっこりと笑う。毒々しいまでに美しく。
「まあ、きみたちはそれも全部、『あのとき』に忘れたよね」
くすくすと笑って、魔王は私の前を逍遥するように行ったり来たりする。
その靴音に混じって聞こえていた、ディセントラの末期の呼吸音が途絶えたのが分かった。
――死んでしまった。
もう本当に、ここにいるのは私だけ。
魔王に馬鹿にされているのだと分かっていても、私にはもう何も出来ない。
ただ殺されるのを待ち、次に生まれ落ちるのを待つだけ。
――ああ、でも。
次に生まれるとき、私はみんなのことを忘れる。
いつから私たちの転生が始まり、いつからこの城に挑みに来ては殺される地獄が始まったのか、私は覚えていない。
覚えている人は、多分私たちの中にいない。
それほどに長い人生の上で、最初から知っていたのか、あるいは徐々に自力で気付いたのか、よく分からない自分の中での不文律が私にはある。
推測だけど、他のみんなにもある。
この不文律のことを、私は「贖罪」と内心で呼んでいた。
何の罪を贖っているのかは自分でも分からない。
絶対法を超える力を授かるゆえだろうか。それとも同一人物としての転生自体が罪なのか。
私の贖罪は、〈救世主を経験した直後の人生において記憶を失う〉こと。
みんなのことを忘れるのは、つらい。
そして他の誰よりも、あの人を忘れるのが、胸が痛い。
――死にたがらないでって、後ろにいてって言ったのに。
それなのにあの人はディセントラを庇って死んでしまった。
最後に見えた顔は妙に無表情だった。
端正な顔貌の中で、瞳は夜の海の色だった。明るいところであれば蒼穹の色に映える瞳だ。
――今はもう、血の海に溺れるように息絶えている。
魔王がくるりと私に向き直る。
まるで、私の考えていることを把握しているかのように。
「そういえば、きみ、次の人生では僕のことも、そいつらのことも、忘れるんだっけ?」
身体中が痛んで、目の前は失血のために刻一刻と霞んでいく中、それでも私は覚えず、驚愕のために目を見開いた。
私の贖罪を、どうしてこいつが知っている?
そして何より――どうして、贖罪のことを口に出せる?
みんな、私の贖罪の内容を暗黙のうちに知っているだろう。
私は他の誰のものも知らない。
なぜならば、私の贖罪が顕著すぎるがゆえ。
贖罪のことを、誰も口に出せないがゆえ。
――いっそ優しげなまでに柔和に微笑んで、魔王が囁く。
「びっくりしているみたいだね。
――あのね、僕は魔王だけれど、魔王であるだけではない」
両手を広げて、芝居がかった身振りで。
左の手首に、薄暗いこの大広間でさえ冴えた色を宿す青い宝石を連ねた腕輪を揺らして。
「きみたちは救世主であるという立場にしがみ付いているみたいだけれど、僕にとって魔王であるということは、押し付けられた、自分に付随する情報の一つでしかない」
それなのに、と続けて、魔王は本当に毒を含んでいそうな眼差しで微笑む。
「本当に馬鹿なことを繰り返すね、きみたち。もう全部忘れてるっていうのに。
――そこで死んでるあの子もさ」
す、と魔王が指差す先を、無意識に私は確認した。
――アナベル。
「どうしてわざわざここに殺されに来ることを選んだんだろうね?
たった一人の最愛の人を差し置いてさ」
その瞬間、弾かれたように私は叫んだ。
余力がないということも、気力がないということも、全てを吹き飛ばすだけの激情のために。
「――あの人のことを言うなあっ!」
叫んだ直後、しかし私は疑念のために声を詰まらせる。
「――待て、どうして……おまえがあの人を知っている?」
ふ、と揶揄の笑みを刷いて、魔王は私を真っ直ぐに指差した。ちりん、と清涼な音を立ててその手首で腕輪が揺れる。
「なぜなら、きみの力は僕のものだから」
私の力。
〈ものの内側に潜り込む〉力。
この世で唯一、人の不可侵の領域である精神にまで手を伸ばすことが出来る、浅ましい能力。
確かに、この力があれば、人の記憶を盗み見ることも出来る。
――けれど、――どういうこと?
愕然とする私を、魔王は甚振るように眺めて、無残に倒れ伏すみんなを、その一人一人を、指差す。
「きみだけじゃない。
きみたちが絶対法に空けた穴は、全部、僕のものだ」
――意味が分からない。
「言っただろう、『僕にとって魔王であるということは、自分に付随する情報の一つでしかない』。他にもっと大きな役割を、今も昔も僕は持っている」
私に向かって指を振る。
「だから、知ってる。
――ねえ、きみは知らないだろうね?
あの青い髪の女の子への『呪い』は――おっと、きみ風に言うなら『贖罪』か――、それはね、――――」
続けられた言葉に、私は大きく目を見開く。
違う、そんなはずはない。もしもこいつの言うことが真実ならば、アナベルはあのとき、既に全部を諦めていたことになってしまう。
足が震える。今にも倒れ込みそうだ。
そんな私に、魔王は極めてにこやかに告げた。
「分かったでしょ? その子、自分から、ただ一人の最愛の人を切ったのさ」
「違う……」
震える声は否定ゆえか、怒りゆえか、恐怖ゆえか。
私の言葉が、まるで気の利いた冗談であるかのように声を上げて笑って、魔王は次にコリウスの「贖罪」を、まるで可笑しくて堪らないものであるかのように読み上げる。
――泣くものか。
堪える私の表情に、更に高らかに笑って、魔王は次にディセントラの「贖罪」を告げる。
そして、残忍なまでににこやかに微笑みながら、私の目の前に戻ってきた。
「さあ、ここからが、冥途の土産の本題だ」
私に指を突き付ける。
出来るものならその指に噛み付いてやりたいけれど、身体はもう動かない。
「――きみにはもう一つの呪いがある」
私は大きく目を見開く。
――そんなもの、自覚したことなどない。
私の贖罪はひとつ、〈救世主を担った直後の人生において記憶を失う〉ことのみのはず――
いや待て、どうして私はこの魔王の言うことを信じている?
全て嘘かも知れない。私を混乱させんとして、虚偽を並べているのかも知れない――
――いや、違う。
鉛を呑むような心地で、私はその事実を認識した。目の前がますます暗くなった。
――こいつがそんなことをする必要はない。
私はこいつの影を踏むことすら出来ないほどに弱いのだから。
この魔王がこれほど楽しげなのも、事実を告げて私を打ちのめしているがゆえのこと。
――そう、本当に楽しそうに、嬉しそうに、魔王は言葉を続けるのだ。
「そして、きみたちは僕を魔王と呼ぶけれど、――本来を言えば、魔王に相応しいのはルドベキアだ。
あいつ、番人だったはずなのにね」
私は首を振る。痙攣するような動きになった。
――こいつは何を言っている?
「どうしてルドベキアが魔王に相応しいのかは、また今度、こいつら全員の前で話してあげようね。
ルドベキアに掛けられている呪いのことも、面白いからそのときに話してあげよう。
――今は、きみに掛けられているもう一つの呪いを教えてあげようね」
魔王の顔から目を離せない。
毒のある花のように美しく、甘く、微笑むその黄金の目から。
「――きみは、〈絶対に魔王と結ばれることはない〉」
私は困惑の余りに眉を寄せる。
それを、まるで幼児が言葉を覚えようとして必死になっているのを見るが如くに微笑ましそうに、――そして、それでは有り得ないほどに残忍な興味を宿して眺めながら、魔王は、ヘリアンサスは、言った。
「きみには先に教えておいてあげるね。
――次の魔王はルドベキアだ」
「――は」
茫然と、ただその一音のみを落とした私を、心底から嬉しげに見詰めて、魔王は続ける。
「臣下に言っておこうと思うんだ。『次の魔王は贋者だから、あらゆる手を使って殺せ』って。この命令を子々孫々受け継ぐようにって」
手が震えるのを自覚した。
疲労のせいでも絶望のせいでもなく――怒りのために。
そんな私を見下して、ヘリアンサスは嘲弄するように鼻で笑った。
「まあ、本当に死にはしないだろうけれど」
そして表情を変える。
いっそ輝かんばかりに得意げな――歪んだ笑み。
その黄金の目に私が映り込んでいる。
「ルドベキアが魔王になるからくりを教えてあげようか。
――そもそも、きみの呪いはね、――――」
――ヘリアンサスの口から、どうしてそんなことが起きたのかは全く分からないままに、結果だけを教えられた私は、もはや動くはずもないと思っていた身体で、ヘリアンサスに向かって突進していた。
手の中の武器は細剣となり、最期の一撃を届かせんとする私の意志に応えて黝く冴え冴えと輝く。
――最後に見えたのは、本当につまらなさそうな顔で、私の首を捩じ切るヘリアンサスの顔だった。
***
ここまで思い返すうちに、私は晩餐の会場まで来ていたらしい。
目の前には重厚な扉。
――この向こうに、恐らくもうヘリアンサスはいる。
そして奴の見る目の前で、私は足掻かなければならない。失敗は許されない。
扉を開けてくれようとする侍女さんを手で制し、私は一歩前に出た。
そして、大きく息を吸い込んでから、私は両手で、眼前の大きな扉を押し開けた。
1章終了です。このあとちょっとした設定と人物紹介載せます。




