66◆――扉が閉じる
少しして泣き止んだトゥイーディアは、指先でそうっと目許を拭いながら、立派な椅子から立ち上がろうとしてよろめいた。
俺は咄嗟に彼女を支えて、眉を寄せた。
――なんというか……足許がふわふわしたよろめき方だった。
「――トゥイーディ、ちゃんと食べてる?」
俺の問いに、トゥイーディアは少し笑った。
全然可笑しそうではなくて、誤魔化すような笑い方だった。
視線は俺を掠めもせず、強張っていた。
「面白いことをお訊きされますね」
彼女のその返答で、俺は、彼女がろくすっぽ食事も摂っていないことを悟った。
俺に支えられながらも立ち上がったトゥイーディアは、やっぱりふわふわした――中身が伴っていないような仕草で、部屋の入口の傍のソファを示した。
「ルドベキア、お掛けになってください。お茶を――あぁ、もしかして、この辺りの時間が停まっています?」
俺の魔法の気配を察した様子で尋ねられたので、俺は頷いた。
トゥイーディアは妙にあっさりと頷いて、喪服の裾を引いて執務机を回り込む。
当然、俺もそれに付き従う形になった。
それからトゥイーディアはもういちど入口側のテーブルを示して、「お掛けになってください」と俺を促した。
数秒の躊躇いののちに俺がそれに従うと、彼女は俺の正面に、ちょこんと浅く腰を下ろして黒いドレスの裾を整えた。
その指先が、透き通るほどに白かった。
そうしてから初めて、トゥイーディアははっとしたように瞬きして、首を傾げた。
灯火の明かりに頬が白く映えた。
「――ルドベキア、お時間……お時間は如何ほど」
「大丈夫だよ」
俺は即答して、それからようやく、最初に言うべきだった挨拶を口にした。
「……久し振り」
トゥイーディアはぱちりと睫毛を瞬かせて、呟いた。
小さな乾いた声だった。
「……お久しぶりです」
それから、彼女は――まるで大変な苦労を以て遠くを見通すような目をして――、俺の瞳を覗き込んできた。
そうして、ゆっくりと頭を傾げた。
さら、と、灯火を弾いて滑る蜂蜜色の髪。
「――何か……ありました?」
怪訝そうに僅かに眉を寄せて、トゥイーディアはそう尋ねた。
そういうところが、涙が出るほどトゥイーディアらしかった。
「お顔の色が優れないように見えます……」
「トゥイーディ、鏡を見てから言ってくれ」
俺は言下にそう言った。
島でのことをトゥイーディアに知られるくらいなら、俺は首を吊って死にたかった。
「めちゃめちゃ顔色悪いぞ。食べてる? 寝てる?
今なら時間も停まってるから、ちょっとでも寝る?」
矢継ぎ早に尋ねた俺に、トゥイーディアは首を振った。
「いいえ、いいえ……お気遣いありがとうございます」
「――――」
俺はぐっと言葉を呑み込んだ。
何を言っていいものか分からなかった。
もっと言えば、俺がどこまで知っていることにすればいいものか計りかねていた。
――トゥイーディアの領地に起きたことを知っていると言っていい?
その原因が、カロックの皇太子にあることを話していい?
トゥイーディアは、あの銀髪の皇太子が自分の領地を壊滅させたのだと知っているのか?
俺がそうして戸惑っている間、トゥイーディアはぼんやりと俺の顔を眺めていた。
なんとなく、久し振りに見た俺の顔を、こういうものだったといちいち記憶と合致させているような、ぼうっとした眼差しだった。
トゥイーディアのこんな顔を、俺は見たことがなかった。
トゥイーディアが苦手としていた、どんな夜会の後でさえ。
俺は散々躊躇って、何度かトゥイーディアから視線を逸らしたあと、呟くように尋ねていた。
「……その格好――喪服?」
トゥイーディアが瞬きし、自分の格好を見下ろして、それから顔を上げて俺を見て、頷いた。
妙にあっさりとした、乾いた仕草だった。
「ええ」
俺はまた少し躊躇って、唇を軽く湿してから、もういちど呟いた。
「――お身内も誰か亡くなったのか」
トゥイーディアの瞳が僅かに揺れた。
俺の言い回しから、少なくとも俺が、彼女の領地に起こったことは知っていると悟ったのだろう。
彼女は少し顔を伏せて、くぐもった声で応じた。
張り詰めた語調だった。
「はい。甥と義姉がちょうど領地に戻っていたもので――」
顔を上げたトゥイーディアの視線が、滑るように俺から逸れて横に流れた。
「――戻らせるのではなかった」
「…………」
その声に溢れんばかりの後悔に、俺は言葉を失った。
その俺を視界の隅に捉えたのか、トゥイーディアがいちどゆっくりと瞬きをしてから、俺に視線を戻した。
そして、驚くほど冷静な声を出した――まるで、胸の中にぽっかりと空いた穴の上に蓋をして、その上に言葉を積み上げたかのようだった。
「――お気遣いいただかなくて結構です。
それにしてもお耳が早くていらっしゃる。私の領地のことは、もう諸島にまで届いてしまいましたか」
俺は首を振った。
「違う……ここには用事があって来たって言っただろ……その用事で、俺もすぐ島から出てたんだ」
トゥイーディアの飴色の目が俺を映して、頷くように瞬いた。
「そうですか」
俺は息を引いて、呟いた。
「……カロックが絡んでるって聞いたんだけど――」
俺がそう言った途端、トゥイーディアが笑い出した。
急に何かが壊れたような笑い方で、俺はぎょっとした。
「トゥ――トゥイーディ?」
「誰から聞きました?」
目尻に涙が滲むほど笑いながらそう言って、トゥイーディアは細い指先で涙を拭った。
「誰がそんなことを言っていました?」
「いや――」
言い淀んだ俺に、トゥイーディアは手を振った。
彼女には滅多にない、荒っぽい仕草だった。
「誰もそんなことは言わないでしょう。あれほど――あれほど私が申し上げたのに、聞いてくださったのは辛うじて、キルディアス閣下だけでしたもの。なんて皮肉なことでしょうね、私、あの方のお顔を初めて、頼もしいとまで感じてしまったんですよ。
けれど……あんな魔法――あれほどの大きさで……色が見えるんじゃないかと……」
トゥイーディアは両手で顔を覆った。
壊れたような口調が、うわ言めいたものに変わった。
「殿下の魔法は拝見したことがありますもの……あれほど繊細な魔法を、どうして見間違えられるものですか。雲上船で六日の距離が開いていて、分かるはずがないと言われました――分かりますとも、はっきり……これ以上ないほど――。
他でもない私の……私の――私の領民に」
俺は無意識のうちに立ち上がって、トゥイーディアの目の前に膝を突いていた。
「――トゥイーディ」
「子供もたくさんいたのに……何も悪くない人たちなのに……」
呻くように呟いて、トゥイーディアは熱に浮かされたように。
「翌日の調印に殿下がいらっしゃらなかったので、初めて皆さま、殿下の関与を疑われたんですよ。最初からそう申し上げていたのに――。
人が起こせる魔法ではないと言われました。何を仰るんでしょうね。この私ですら、地形くらいは楽に変えることが出来るのに」
吐き捨てるようにそう言って、それからトゥイーディアははっとしたように掌から顔を上げた。
顔貌がいっそう蒼白になっていた。
彼女が何か言おうとしたのを遮って、俺は反射的に尋ねていた。
「――カロックの皇太子って……銀色の髪?」
トゥイーディアが訝しそうに眉を寄せた。
「……ええ、そうです――なぜそれを?」
俺は首を振った。
耳の奥で、何かが切れる音がした気がした。
――俺の最も大切な人、俺に幸福を教えてくれた、唯一無二の朝のいちばん眩しいところ――その彼女を傷つける権利が、どこの誰にあるという。
「ルドベキア、カロックまで行ったことがあるんですか?」
トゥイーディアがなおも尋ねてくるのに返事をせず、俺は低い声で尋ねた。
「……調印に来なかったって――じゃあ、条約はなしになったの?」
一瞬の間を置いてから、トゥイーディアが頷いた。
それから、思い出したように呟いた。
「――きみにとっては朗報でしょうね。条約はご都合が悪かったのでしょう」
「そうだっけ」
俺はまた首を振って、俯いた。
続いた言葉は無意識で、独り言めいたものだった。
「――なんで……?」
どうしてカロック側が裏切った?
あちら側が望んだ条約だったはずだ。
それも、裏切るに事欠いてこんな――こんな、凄惨な手段で。
「ルドベキア?」
トゥイーディアが俺の名前を呼んだ。
俺は顔を上げて、トゥイーディアの透き通るほどに蒼褪めた顔を見た。
息を吸い込んで、俺は囁くように。
「――下に……人が来てるのが見えたんだけど」
トゥイーディアは頷いた。
「はい。これから会わねばなりません」
俺は吐き気を覚えた。
トゥイーディアが――今ですらこれほどに折れそうになっている彼女が――あれほど攻撃的な顔をしていた連中の前に出なければならないということに、言葉にならない不条理を覚えた。
「……なんで?」
トゥイーディアは困ったように眦を下げて、黙り込んだ。
俺はちらりと傍のテーブルの上を見遣って、そこに山積みにされた書類を一瞥してから、もういちどトゥイーディアに視線を戻して、重ねて尋ねた。
「おまえ、何をこんなに書かされてんの?」
トゥイーディアは溜息を零した。
そして、疲れたように目を擦って、ぽつりと言った。
「――私がどうやって生活していたかご存知ですか?」
面食らって瞬きし、俺は呟く。
「――税金」
「そうです」
頷いて、トゥイーディアはぱたりと手を下ろし、妙に平坦な声で言った。
「私の領民が納めてくれる税金です。私は税金を使って領地を治めて、彼らの生活を少し良くすることを約束して、その返礼として税金から生活のための財を得ることを許されていたわけです」
何かの講義のようにそう言って、トゥイーディアは笑った。引き攣れた笑みだった。
「――が、もう、私の領地がなくなってしまいました」
「――――」
「領地を失ったので、私はこの先の生活の基盤を失いました。私が陛下からお許しいただいた爵位は土地に連動しますから、恐らく私が名乗る伯爵位は廃されます。
それだけならば、まだ良かったのですが――」
まるで、自分の実情を自分に今一度言い聞かせるようにそう言って、トゥイーディアはまた笑った。
どこかが壊れたような笑みだった。
「他の領地の方との協定ですとか、私が支払うことになっていた、他の領地の街道の通行料ですとか、他にもたくさん、お金が動く約束事があって――」
大きく息を吐いて、トゥイーディアは肩を竦めた。
「――それをどうにかしなくてはなりません。皆さま、パルドーラ伯爵の負債を取り立てにいらっしゃっているんですよ。
とにかく、私が持っているものは――このお屋敷も含めて――全て一時的に陛下に買い上げていただくことに出来たのですけれど、どれだけの値がつくものなのか、私が調べなくてはなりません。
私が持っていた、他の領地の方々への債権――何かの支払いを求める権利のことですけど――を放棄することを条件に、こちらの債務の相殺をしていただいて、他にもたくさん……たくさん、やるべきことがあります。
ここで働いてくれていた人たちの、次の勤め先の口利きもしなければなりませんが――上手くいきますかどうか。皆さま、まるで私と口を利くと不幸が伝染ると思われているみたいですし、そんな私の下で働いていた子たちを受け容れてくださる先がありますかしら」
滔々と並べ立てるようにそう言って、トゥイーディアはどことなく歪んだ微笑みを浮かべた。
「――いっそ国ごと沈んでいれば、私に代価を取り立てる方もいらっしゃらなくて楽だったかも知れません。
こんなことは前代未聞で――私の家は、かなりの信を置かれていた家でしたから。皆さま、回収に懸念がないと思われていた債権が危険に晒されて、血相を変えてご自身の分を確保なさろうとされています。……尤も、それが正しいのですけれど。このままあの方々の債権が貸し倒れてしまえば、下手をすると国の財政が傾きますもの」
トゥイーディアは、極めて彼女らしく、今まさに彼女に詰め寄っているのだろう連中の立場の正しさを、俯瞰的な視点を以て認めた。
いちいち全部を説明していく彼女の口調に、言い訳めいたものがあった――まるで、彼らの是は分かっているのだから、愚痴を愚痴として聞いてくれと頼むような。
――今の俺からみれば、このときのトゥイーディアの立場の悪さが分かる。
彼女が言う通り、領主としての彼女は、多額の債権を有すると同時に、多額の債務を背負う立場であったはずだ。
領地の運営が上手くいっている限り、財は流れるものだから焦げ付くことなく回っただろうが、ここにきて、トゥイーディアの手許で生まれるはずの利益が途絶したのだ。
これまでに蓄えた資産のみで、債務を全て贖うことが必要になったわけだが、値のつけづらい債務――たとえばそう、通行権だとか――が、どう評価されるかによって明暗が分かれる。
更に言えばこのとき、トゥイーディア以上に国王が必死になっていただろう。
大貴族が倒れたとなれば、それは経済に直結する。
ただでさえ、トゥイーディアの領地が文字通り消滅したことで、運河が果たした役割が失われたばかりなのだ。
せめてトゥイーディアに対する債権を有する貴族を守らねば、今度は受取債権が貸し倒れた彼らの財政が逼迫することになる。
領主の困窮は領地への重税に結びつく。
そうなれば国力の衰退は目に見えている。
国王自らがトゥイーディアの資産を買い上げることにしたのも道理で、国庫を開ける覚悟で財の流れを途絶えさせまいとしたゆえだろう。
――今の俺ならば理解できるそういったことを、このときの俺は漠然と察することしか出来なかった。
自分が追い詰められている事実さえ穏やかに口に出すトゥイーディアの、その声でさえも彼女が震えを堪えていることがよく分かって、俺は息を憚っていた。
トゥイーディアは目を閉じて、短く息を吐く。
「あと十年足らずで伯爵位を退いて、修道院で隠居できると思っていたのですけれど、――大誤算です。
私の持っている――債権を含めた――資産が、私の負債を補うものであればいいのですけれど、足が出てしまったら――どうしましょう。もう私自身を売りに出すしかないかも知れません」
お道化た風にそう言って、しかしその口調の裏に張り詰めたものを湛えて、トゥイーディアは一瞬じっと考え込み、それから――歪なまでに明るい声で言った。
「少なくとも、幸いにも私には、大魔術師という肩書がありますから。いくらでも利用のし甲斐はあるでしょう。
売りに出せば買ってくださる方もいますでしょうし、上手くすれば義母はそれで助けられますね」
「――違う」
俺は思わず呟いた。
トゥイーディアはびっくりしたように黙り込み、それから肩を落とした。
彼女の指先が細かく震えているのが見えて、俺は全く無意識に、跪いたままトゥイーディアの手を取った。
「トゥイーディ、おまえは値が付けられるようなものじゃないし――」
「まあ、そんなことを仰らないで」
トゥイーディアが俺を遮って、微笑んだ。
今にも砕けそうな表情で、それを見た俺の胸が潰れた。
「せめて、きみは私を高く買うと言ってください」
「嫌だ」
俺が言下にそう応じたので、トゥイーディアは傷付いたような顔をした。
俺は首を振った。
「――トゥイーディ、イーディ、ディア――値段でおまえの価値は量れないと思う」
「……まあ、それは」
呟いて、トゥイーディアは微笑した。泣き顔よりもよほど悲しげな笑顔だった。
「きみは優しい人ですね、ルドベキア」
「――――」
俺は息を止めて、それから大きく息を吸い込んだ。
トゥイーディアの手を握る指に力を籠めて、俺は正面からトゥイーディアの顔を見た。
「――優しいついでに言うんだけど、」
と、俺は必死になって自分の言葉を軽くしようとしながら、まるで何でもないことであるかのように装って、言った。
――トゥイーディアが微塵の責任も感じることのないように。
「トゥイーディ、これから荷物を纏めて、俺と一緒に来ない?」
――俺はどんな顔をしていただろう。
トゥイーディアの双眸に映っていたはずの自分の顔を、俺は覚えていない。
覚えているのは、息が苦しいほどに心臓が激しく脈打っていたこと――トゥイーディアのつらそうな顔を、もうこれ以上は一瞬たりとも見たくないと思っていたこと――トゥイーディアにこんな顔をさせている全てを、許し難い罪悪であると見做していたこと。
俺の言葉を聞いて、トゥイーディアはぽかんとしていた。
何を言われたのか、その数秒は理解すら追い着いていないように見えた。
だが数秒後、その瞳に理解の色が閃いた。
同時に、彼女の飴色の双眸に、俺が見たことのない感情が過った。
あまりにも目まぐるしく魅力的にトゥイーディアの瞳の中を感情が駆け抜けたので、俺はその一瞬、彼女が是の応答をくれたのかと思ったほどだった。
息を詰める俺の前で、トゥイーディアが大きく息を吸い込んで、何かを言おうとして、――しかしすぐに息を止め、硬い表情を浮かべて――
――俺の手の中から、自分の手をそっと引き抜いた。
「――――っ」
俺は未練がましくも彼女の指に縋りそうになったが、俺がそんな醜態を晒す前に、素早くトゥイーディアは自分の両手を固く組み合わせてしまっていた。
そして、穏やかに微笑した。
やっぱり、泣き顔よりもなお悲しい表情だった。
「――ご親切に、ありがとうございます」
トゥイーディアがそう言った。
声音はもう震えていなかった。
毅然とした、いつもの彼女の声だった。
「けれど、結構。きみにはやることがあるのでしょう? ご用事を済ませてしまってください。
わたくしにもやるべきことがあって、そこから逃げ出すわけにはまいりません。憐憫は不要です」
きっぱりと彼女はそう言った。
「そ――」
そんなのじゃない、と言おうとして、しかし俺は口を噤んだ。
――トゥイーディアは、どれだけつらい思いをしようが、自分の役割を全うするだろう。
やるべきことに目を瞑って、周りの声に耳を塞いで、全てを放り出して逃げ出すことが出来る――そんな人ではない。
損なまでに真面目で誠実な――そういう人だ。
自分がどこに置かれたのであれ、どういう局面にいるのであれ、最善を尽くそうとする人だ。
そういう人だから、俺は彼女のことを好きになった。
彼女がつらい思いをしていることが明白だからといって、強引にその場から彼女を連れ去る権利は、俺にはない。
茨の上だろうが嵐の中だろうが、彼女が生きる場所は彼女が決めるものだ。
彼女が歩く道は彼女が選ぶものだ。
俺がそこに何かの影響を及ぼす権利を得たことなど、ただの一度もありはしない。
俺はゆっくりと息を引いて、まだトゥイーディアの方に伸ばしていた手を引っ込めた。
トゥイーディアは、俺の好きな飴色の瞳でそれを見守った。
「そっか」
俺はそう言って、トゥイーディアと目を合わせた。
妙に目が滑って、ただそれだけのことにすら苦労した。
「変なこと言ってごめん。――あと、」
いえ、と不明瞭な声を出してから、トゥイーディアは首を傾げた。
彼女も、俺から少しだけ視線を外していた。
「はい?」
俺は口を開いた。
いつもより幾分か低い声が出た。
「――カロックの皇太子……なんでこんなことしたの?」
トゥイーディアは笑った。
引き攣れた狂気的な笑みだった。
「さあ。――思い当たることはありますが、今さらどうでもいいことです。
理由がどんなものであれ、亡くなった方は戻りません」
切り捨てるようにそう言って、トゥイーディアは俺の目の奥を覗き込んだ。
「なぜそんなことを?」
「気になって」
反射的に、嘘が俺の口から零れ落ちた。
「俺たち――今――カロックと揉めてるんだ」
トゥイーディアは少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
――彼女の知る情報の中では、“世双珠の減産”は解決していないことになっている。
そしてカロックは、世双珠を大量に消費する雲上船の製造を主たる産業とする国だ。
両者が揉めるに、その種には事欠くまいと思ったのかも知れない。
「――そうなのですか。……あ、大丈夫ですよ。今さら私が何を知っていたところで、何の波風も立ちませんから」
極めて彼女らしく俺を気遣って、トゥイーディアは立ち上がった。
釣られて、俺も立ち上がった。
トゥイーディアは真っ直ぐに俺を見ていた。
その視線に色がつくとしたら、どれほど繊細な色合いになったことだろうかと思うほど、折れそうなほどに繊細で、壊れていきそうなほどに美しい眼差しだった。
そうして、彼女は口を開いた――声は毅然としていた。
「――ルドベキア、お会い出来てとても嬉しかったです。
せっかく来てくださったのに、愚痴ばかり聞かせて申し訳ありませんでした。ご不快でなければ良かったのですが」
俺は首を振った。
「大丈夫」
「良かった」
閃くように眼差しを和らげて、それからトゥイーディアは――俺が内心で、どうして彼女が俺の手を取ってくれなかったのかと疑問に思うほどに――名残惜しげな眼差しを俺に向けて、呟いた。
「……ずっとお顔を見ていたい気持ちもあるのですが、残念ながらお互いに、そうもしていられない立場でしょう。
ルドベキア、お見送りいたします」
「――いいよ」
喉に絡んだ声で呟いて、俺はトゥイーディアをじっと見た。
――疲れ切ったような蒼白な頬を、目許の隈を、翳った飴色の瞳を、ひとつひとつ。
激務に忙殺されているがゆえの疲労ではなかった。
恐らく彼女は、領地を剥奪されて同じような取り立ての憂き目に遭ったとしても、それは敢然と乗り越えてみせただろう。
彼女がここまで打ちのめされた理由が、跡取りをはじめとした、数え切れないだけの人の命が失われたことであるのは明らかだった。
――俺はトゥイーディアを、自分が望む方向に引っ張って行ったりは出来ない。
そんな権利はない。
彼女が選んだ彼女の道を尊重する他に、俺に出来ることはない。
同じ理由で、俺が選んだ俺の道を邪魔する権利は誰にもないだろう。
――誰にも……トゥイーディアにさえ。
――俺の最も大切な人、俺に幸福を教えてくれた、唯一無二の朝のいちばん眩しいところ――その彼女を傷つける権利が、どこの誰にあるという。
――ない。
ないのだ。
俺がそれを認めない。
誰が何と言おうと、正当な理由を百も千も積み上げようと、それを万の言葉で語ろうと、俺にそれを聞く気は欠片もない。
「……トゥイーディア。カロックの皇太子のこと、どんな奴だと思ってたの?」
最後に、俺はそう尋ねた。
トゥイーディアは少しだけ――痛ましそうに眉を寄せて、それからゆっくりと言った。
考えながら言葉を作っているというよりは、感情を濾して言葉を作っているといった風情だった。
「そうですね……。
とても理知的で――賢明で――頼りになる方だと思っていました」
トゥイーディアは目を伏せた。
「――ご信頼申し上げておりました。残念です。……ですが、もう済んだことです。
きみも、きみのご事情の他のことは、あまりお気になさらないで」
俺は頷いた。
頭の中が唐突に、煮沸されたかのように明瞭になった。
「――そっか。――トゥイーディア、最後になっちゃったけど、お悔やみを」
パルドーラ伯爵は頭を下げた。
「恐縮です」
「俺がここを出たら、ちゃんと時間が動くから、心配しないで」
俺はそう言って、こくりと頷いたトゥイーディアに、僅かな逡巡ののちに伝えた。
「――おまえから貰った時計、ずっと使ってる。ありがとう」
少しだけ目を見開いて、それからトゥイーディアが微笑んだ。
少しだけ――本当に少しだけ、俺の好きな、あの独特な柔らかさのある笑顔が顔を出した。
「……それは良かった。悩んで買った甲斐があります」
俺は頷いて、踵を返した。
執務室を出て廊下の角を曲がり、誰もいない一画に辿り着いてすぐ、俺は指を鳴らして自分の魔法を解除した。
有り得ないほどに重く、時計の針が進む音がして――
ざわめきが戻る。喧騒が戻る。
屋敷の中は騒がしかった。
そのうちに誰かが廊下を走る足音がして、ノックの音が響き、トゥイーディアの――パルドーラ伯爵の、落ち着いて凛とした声が聞こえてきた。
「――応接室に入っていただきなさい。かたがたの順番は申し渡したでしょう」
誰かの泣きそうな声がして、それに応ずるトゥイーディアの、低く落ち着いた声がはっきりと耳に届いた。
「順番を守ってくださらない方には、わたくしは逃げも隠れもしないこと、わたくしたちの財産は早いもの順に割り振られるものではないことを伝えなさい。
それでもご納得いただけないようならば、焦って使用人に噛み付く方が申し出られる債権の残高には疑義を覚えると言ってやりなさい。
それから、わたくしが誰なのか思い出していただいて。
大魔術師の称号は、わたくしが伯爵であるがゆえに戴いているものではないと」
俺は廊下を歩き始めて、そのうちにトゥイーディアの声は聞こえなくなった。
屋敷は、貴族のものであるとは俄かには信じられないほどに混乱していて、俺は数回魔法を使うだけで、容易く屋敷の外に出ることが出来た。
玄関広間の時間を一時的に停めて、相も変わらず家令に詰め寄る貴族や官僚、あるいは軍人の間を縫って邸宅の外に出る。
広い庭園を突っ切って空を見上げると、冬に凍えた薄青い色が見えた。
――時間を停めていただけある。太陽の位置は変わっていない。
冷えた空気もそのまま。
俺はゆっくりと息を吸い込み、庭園越しにパルドーラ邸を振り返った。
トゥイーディアはこれから、パルドーラ家に対して権利を主張する連中と会って、彼らに頭を下げ、当主としての最後の責務を果たすのだろう。これから何日も何日も――毎日。
――『他でもない私の……私の――私の領民に』
うわ言のように口走ったトゥイーディアの言葉が、耳の奥に甦った。
――あれは本音だった。
トゥイーディアの、紛うかたなき本音だった。
彼女は領民のために心を痛め、義姉と甥のために悔やみ、そしてまた、それを気遣われることも慮られることもない。
透き通るほどに蒼褪めた頬で、翳った瞳で、しかし彼女は絶対に、膝を折ることも逃げることもないだろう。
そういう人だ。
自分を守ることよりも、自分の務めを果たすことを選ぶ人だ。
――たった一人の人間が、彼女をそうまで追い詰めている。
皇太子であるというなら、全部分かっていたはずだ。
領地を失ったトゥイーディアがどんな運命を辿るのか、手に取るように予見できたはずだ。
それでもあいつは手を下したのだ。
俺はトゥイーディアを助けられない。
その力も権利もない。
トゥイーディアがただの女の人であったなら、俺が力づくで彼女を連れ出すことも出来ただろうけれど、トゥイーディアは俺以上に魔力に恵まれた大魔術師だ。
彼女は俺を選ばない。
俺を選べば彼女の心が死ぬ。生き様が死ぬ。
俺が愛した彼女の全てが死ぬ。
俺の最も大切な人、俺に幸福を教えてくれた、唯一無二の朝のいちばん眩しいところ――その彼女を傷つける権利は、この世の誰にもないのに。
――最初は、一緒に幸せになりたいと思って、でもそれは無理だとすぐに分かった。
だから次に、ただ笑っていてくれと思った。
それすら難しいから、ただ生きていてくれと願うようになって――
――『もう私自身を売りに出すしかないかも知れません』
彼女に生きていてくれと願うのは、ただ生きていてくれと願うのは、そんなに無茶なことだったか。
他の連中は生きている。
数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの数の人間が、魔力を消費し世界を助けるために、この世界中に命を享けて生き続けている。
――それなのに、どうして。
風が吹いた。
冬の冷たい空気が波になって、頬を撫でて髪を揺らす。
――パルドーラ邸で、客人たちが玄関広間から奥に招かれ始めたのか、扉越しに見えていた、押し掛けていた人々の姿が見えなくなりつつあった。
その機に、数人の使用人が大きな玄関扉を閉めようとする。
彼らも疲れ切った仕草で、寒そうに肩を窄めて、扉の重さに難儀しながら、ゆっくりと扉と扉を合わせて――
――風が止んだ。
扉が完全に閉じて、俺の良心が壊れた。




