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63◆――皇太子

 俺たちはそれからも、通り掛かる町全てで必死になってヘリアンサスの消息を探ろうとしたが、悉くが空振りに終わった。

 ヘリアンサスも結構目立つ容姿に見えるはずなのに、見事なまでに誰の記憶にも残っていない。


 訪れる教会全部で首を振られ、町の人には怪訝そうな顔をされ、使節団の心も折れ掛けた。


「――これ、おかしくないですか」


 と、パトリシアが零す。


「守人には連れがいるんでしょう――あ、いや、連れとは限りませんが、誰かと一緒にいるという話だったでしょう。守人はともかく、その人は眠ったり食べたりしないといけないわけじゃないですか。ということは、町から町を渡り歩くはずでしょう。なのに、ここまで人の記憶に残らないことってあります?」


 起き抜けに傍の人間を殴り飛ばすような人がですよ? と続けて、パトリシアは疲れた嘆息を漏らす。


「どこかで必ず、同じような悪評が立っていていいはずですが……」


「あの町からどっちに進んだのかさえ分かればなあ……」


 と、チャールズも難しい顔。


 俺としても、目を凝らしてもさすがにヘリアンサスの痕跡までが分かるわけではないので、しゅんとしている他はない。


 いっそヘリアンサスが、あのカルディオスとかいう子供みたいに光り輝くほどの魔力で存在を示していればいいのだが、俺の目に映るのはあくまでも、人という器に注がれる魔力の光だけだった。

 ヘリアンサスは人ではないから、俺の目ではあいつに注がれている魔力の光は分からない。


 俺が世双珠の存在を示すものとして分かるのは気配――吸い込む息に匂いではない何かが混じるような、風景に色ではない何かが見えるような、そんな違和感ともいえる気配だけだった。



 結局俺たちは、そのまま手掛かりのひとつも得られず、雲上船と合流することになった。


 だが、一度だけではあれヘリアンサスの目撃情報を拾ったという報告に、雲上船で待っていた一同は大いに盛り上がっていた。


「こっちは何の収穫も無かったんだよ」


「西の方に行ってみようかって話もしてたくらい――東で合ってたんだな、良かった良かった」


 という具合である。


 ただ、ヘリアンサス――守人が、どうやら暴力的な人間(放蕩貴族の子息と思われる)と一緒にいて、かなり傍若無人に振る舞うだろうそいつの目撃情報がぱったりと途絶えているという点については、全員一致で危機感が示された。


「――それ、まさかと思うけどさ」


 と、雲上船で大都市捜索に当たっていたブライアン。


「途中で守人の利用価値に気付かれて、雲隠れされたってことはない?」


「こっちもまさにそれを危惧してんだよ」


 チャールズはそう言ったものの、すぐに楽観的に付け加えた。


「――って言ってもだ。守人はあくまで世双珠の母石の片割れだろ。母石が行方不明になってる以上、守人だけを手許に置いても何にもならんのじゃないかね」


 その場の全員の目が、「どうなの?」と言わんばかりに俺に集中した。


 この世界で一番母石と守人について詳しいのが俺だと思われているのかも知れなかったが、俺は生憎と、ヘリアンサス単体にどれだけの価値があるのかは分からなかった。


 俺は曖昧に肩を竦めて、呟いた。


「……あいつ、怖がってなきゃいいけど」


 この俺の台詞には、その場にいた全員がきょとんとしてしまった。




 ――雲上船にいったんは引き揚げていた俺たちは、当初の計画でいえば、すぐにまた船を降りて、次の大都市までの間の小さな町々を訪ね歩くはずだった。


 が、ここでその計画が修正された。


「――まずだ、守人がこっちの大陸にいる可能性は高いだろ。しかも、全く人の記憶に残ってないときた。当然だけど、人の多いとこには世双珠も多いからね、大使さまでも見ても守人がどこにあるかは分からないって話だっただろ」


 と、ブライアン。

 俺は、以前までならこういう場を取り仕切るのはレイモンドだったのに、と思いながらそれを聞き、頷いた。


「チャールズたちが言うには、守人を見たって人はいないんだろ。だったら、守人があんまり人のいない所にいるっていうのも十分考えられるんじゃないか?」


 だったら、と言葉を継ぎ、みんなをぐるりと見回したブライアンが言う。


「大使さまを乗っけたまま、この辺の人がいない地方を、雲上船でぐるっと回ってみてもいいんじゃないか? ――そうだな……このヴァフェルの北の方から、レンリティスの南の方まで」


 レンリティス、と聞いて、否応なく俺の脳裏にトゥイーディアの顔が過った。

 トゥイーディアの領地――パルドーラ伯爵領は、レンリティスの南方に位置しているはずだ。


 ブライアンの案を聞いて、パトリシアが難しい顔をした。


「――一理ありますけど……逆に、守人がどこかの貴族とかに確保されている場合、それだと気付きようがないですね」


「それはもう仕方ないよ。先に人のいない所を潰して、それからそういう最悪の場合について考えよう」


 ブライアンは割り切った調子でそう言って、それから若干声の調子を重くした。


「……分かってると思うけど、多少の博打に出るくらいのことをしないと、俺たちは確実に無事じゃ済まないからな」


 全員が押し黙り、それから頷いた。


 それを見守ってから、ブライアンは小さく呟く。


「第一、守人がどこかの貴族に確保なんてされてたら……そのときはハルティとその国の間で戦争を起こすようなことになるんだから。

 さすがに、半年で守人を取り返せなんて無茶なこと、古老長さまだって撤回なさるさ」











 そうして、また俺は空路の旅に引き戻されることになった。


 しかも延々と、船底近くの硝子張りの窓に張り付き、眼下に広がる景色の中に世双珠の気配を探す役目である。



 目を凝らしてみると、俺は自分で思っていたよりも目が良かったらしい。


 かなり些細な世双珠の気配も発見することが出来て、一度は、だだっ広い草原の中で、そこをのんびりと行く行商の人たちの中に鮮烈な世双珠の気配を発見してしまった。

 その結果、雲上船が緊急着陸し、度を失う行商人さんたちにチャールズたちが剣呑に詰め寄るという大事件を招いてしまった。


 結局そのときは、その行商人が質のいい世双珠を違法に入手したということを暴いてしまう次第となった。

 行商人側は泣きそうになっていたが、俺たちからすれば脱力もいいところである。


 黙っててやるから、そっちもこちらの暴挙を黙っていてほしい、と伝えて双方痛み分けとなった。


 俺は自分が招いた事態に若干色を失ったが、チャールズは「いいから、いいから」とさかんに俺に言い聞かせた。


「今みたいな感じでどんどん見付けていってくれ。万が一違っても、そこは俺たちが誤魔化すからさ」


 と。



 そんなわけで俺は、来る日も来る日も、晴れの日も雨の日も、窓の傍に座り込んで眼下に目を凝らすこととなった。


 雲上船は湖を越え、谷を越え、山脈を越え、草原を越えた。

 都市部を避けた結果として、本当に辺鄙な場所の上空を飛んでいたのである。


 群れを成す鳥が雲上船の下を通過して視界を塞いでしまうこともあれば、高度を落とし過ぎた結果、「あれはなんだ」と言わんばかりの愕然とした顔で、山間部の集落からこちらを見上げる子供の顔が見えたりもした。

 太陽の位置によっては、雲上船そのものの影が地表を覆って見えることもあった。


 雲上船は北へと進み、チャールズ曰くレンリティスの国境内に入ったらしい。


 そのうちに、窓の外に――日によっては――ちらちらと雪が降るのが見えるようになった。

 そして、遠くに見える山稜に真っ白な雪化粧が施されるようになって、俺は思わず、「冬だ」と呟いたり。


 ――島にいるとき、俺は季節に鈍感だった。

 トゥイーディアが嬉しそうに季節のことを話すから、俺は季節が分かるようになった。

 そして今、世双珠の恩恵で一定の気温が保たれている雲上船の中にあっては、季節の歩みを肌で感じられるはずもない。

 だが目に見える景色が克明に、季節が進んだことを示していた。



 空から見渡すと、世界は広かった。

 目に見える世界の縁は、朝焼けや夕焼けを迎えるときには白く輝いて見えた。


 雑多な色が隙間なく眼下を埋め尽くしている様は圧巻で、俺はしばしば息を呑んだものである。

 俺はその――世界の広さというものに、目から鱗を落っことすような気分だった。


 俺は今まで、島やリーティの王宮といった、ごく限定的な範囲でしか生きてこなかったから、果てがないほど広がる世界というのを、このとき初めて、実感として目の当たりにしたのである。


 その果ての無さに、俺はもはや恐怖すら覚えた――こんなに広かったら、会いたい人に会えないじゃないか、と真面目に思ったわけである。


 俺が目下会いたいと切望しているのは三人で、ヘリアンサスと、トゥイーディアと、レイモンドだった。

 そのうち一人はどこにいるかは分かっていても距離があり過ぎて、あとの二人に至っては、どこにいるのかも分からない。


 この世界が広い所為である。



 俺は何度か大きな世双珠の気配を察知することが出来たが、どれも外れだった。


 大抵の場合、そういった世双珠は人の手許にあったが、稀に川底なんかからも発見されることがあって、「これはどういうことだ」とチャールズたちの間で議論を呼んでいた。


「そりゃ、諸島だったら地表から世双珠がぽこぽこ採れることもあるけどさ、他のところじゃ有り得ないよ。しかもこんなに質のいい世双珠、どこの馬鹿が川に捨てるんだよ。一財産だぜ?」


 ということである。


 そうやって発見された世双珠は、取り敢えず――扱いにも困るので――()()()()()に上納されることとなったが、()()()()()()()()()()で、質のいい世双珠が川底から発見されたという知らせには面食らっていたらしい。



 ――()()()()()といえば、島を二度目に出発してからこちら、俺は視界の端にすら彼らを見ていなかった。


 これはもう、明らかにチャールズたちが俺を()()()()()から庇っていた。

 レンリティスから島に戻ったときの俺の泣き叫びようは、それだけの重みをもって受け止められたようだった。



 船底の窓の傍で蹲り、毎日毎日眼下を眺める俺の傍には、使節団の若手が入れ替わり立ち替わり足を運んで、俺との雑談に応じてくれていた。

 俺が退屈して眠り込まないように見張るという意味もあったのかも知れない。


 とはいえ、俺も俺で必死だったので、居眠りなんかはするはずもなかった。

 夜中になって、チャールズに促されてやっと眠るというような毎日だったのである。


 彼らは俺と気軽に話してくれたが、やっぱりレイモンドの行方だけは、どんなに尋ねても教えてくれなかった。

 友人に行先のひとつも告げることなく立ち去るなんて、レイモンドが絶対にしそうにないことなのに、なんでだろう。



 俺は窓の傍に蹲り、使節団のみんなと他愛もないことを喋りながら眼下に目を凝らし、時たま質のいい世双珠を発見したり、誰もレイモンドの行方を教えてくれないことに腹を立てたりしながら数日を過ごした。


 時刻が分からなくなると、俺はトゥイーディアから貰った時計を開いて時間を確認した。


 いちど島に戻ってからこちら、俺はトゥイーディアのことを、まるで霧に包まれた対岸を見るかのようにして思い出すことが増えていたが、それでも彼女がくれたものが手許にあると嬉しかった。

 少なくとも、俺が感じていた幸福の裏付けが手許にあるということだったから。



 そんな折、俺とぼそぼそと雑談していたチャールズが、不意に彼女の名前を出したので、俺はびくっとしてしまった。


「――そういえば、そろそろだな、パルドーラ伯爵の」


「えっ――なにが?」


 俺があからさまにそわそわして尋ねると、チャールズはむしろ目を見開いて、呆れたように俺を見遣った。


「忘れちゃったの? 条約だよ。カロックとレンリティスの。きみが入れ上げてる女伯主導の条約だろ。冬至に調印って言ってたじゃん。そろそろだよ、冬至」


 俺は思わずぽかんと口を開けて、「そっか」と。



 ――条約に対しては色々と思うところがあるはずなのに――そうでなければいけないはずなのに――、俺はもはや何も考えることが出来なくなっていた。


 ただ単純に、トゥイーディアが胸を張っていればいいなと考えていた。


 そうしている彼女は間違いなく、格好よく様になって誰の目にも映るだろう。



 その日から俺はチャールズに、習慣のように、「冬至まであと何日?」と尋ねるようになった。


 チャールズは面倒がらずに、秒読みのようにして日を数えるのに付き合ってくれた。




 夜中にどっさりと雪が降って、一面真っ白な雪原になった原野の上を雲上船が飛んだ朝、俺はやっぱりその習慣どおりに、「冬至まであと何日?」とチャールズに尋ね、チャールズはちょっと考えたあと、「明日だな」と答えた。



「明日だ。明日が冬至」



 ――()()()()()()()を見下ろしている()は、顔を背けた。





◆◆◆





 そうだ、この日だった。





◆◆◆





 昼下がり、俺はやっぱり船底の窓に張り付いて眼下を眺めていた。


 窓からは、平原を蛇行して流れる巨大な運河が見えていて、運河は冷たそうな灰色の水面をさざめかせながら流れていた。

 運河のあちこちに、小舟や大型の貨物船が見えている。


 高度をとっている雲上船から見下ろせば視界の中にすっぽりと収まる川幅でも、実際には船が玩具に見えるほどの圧倒的な川幅を誇っていて、恐らく運河の畔に立てば、目の前の河は湖か海のように見えたことだろう。


 雲上船は運河を上流に向かって辿るようにして飛んでいた。



 ――俺が異変に気付いたのは、恐らく誰よりも早かった。



 肌を撫でるような微細な違和感に、俺はそのときたまたま俺に付き添っていたチャールズを振り仰ぎ、「なんか感じない?」と尋ねた。


 チャールズは怪訝そうな顔をしたあと、「守人が近くにあるってこと?」と、期待と警戒が半々といった様子で尋ね返してきた。


 俺は首を捻った。


「いや――」


 そのうちに、チャールズも何かが変だと気付いた。

 それは眼下の景色に起きた異変だった。


 雪原のどこからか、大量の鳥の群れが飛び立った。

 慌てたように彼らが空に消えていって、数秒後――



 ――河が揺れている。



 河面が波立ち、飛沫が上がっているのが、この高度からでさえ見て取れる。


 小舟が立ち往生し、次いで大型の貨物船も、為す術なく揺られ始めたのが見えた。


「地震?」


「レンリティスで? 珍しいな」


 そんな声があちこちで聞こえてきて、雲上船の方々にいた若手のみんなが、怖いもの見たさといった感じで船底の窓に集まって来た。


 何しろ、地上がどれだけ揺れようが、空を飛ぶ雲上船に影響はないのだ。


 興味深そうに眼下を眺める使節団の中で、俺だけが言葉にならない違和感に顔を顰めていた。


 ――これは……これは、何だろう……何というか……。


 揺れは収まる様子を見せなかった。


 そのうちに、運河を挟む平原――そこに分厚く積もった雪が、罅割れるようにぱっくりとあちこちで崩れ始めたのが見えた。

 揺れに耐えかねて、降り積もった雪の下の地面に高低差が出来たとしか思えなかった。


 雪の大きな塊が運河に転落し、飛沫を上げる様子さえ見えた。


「――でかい、でかい」


「これ、(まず)いんじゃない? 次の補給で降りる町、ここから離れたところにした方がいいかも――」


「確かに、近くの町はとんでもないことになってるかも知れないな――」


 みんながそんなことを言い交わしているのが聞こえていた。


 だが、暢気な話もそこまでだった。



 ――空気が震えた。



 まるで唐突に乱気流に捉まったかのように、雲上船の船体がいきなり真上に跳ね上がった。


「――うあっ!」


 余りにも突然のことに、構えられた者は一人もいなかった。


 俺たちは全員、揃って床に叩き付けられ、何人かは船底の窓に叩き付けられ、このときばかりは一様に叫び声を上げた。

 何人もが一斉に倒れたので、ばんっ! と音が響いたほどだった。


 何が起こったのか、互いに確認している(いとま)もない。

 全員が転倒の拍子に息を詰まらせ、痛みを罵る言葉も吐けずに単純に叫んだのみだった。


 俺も勢いよく転倒し、床に左半身をしたたかに打ち付け――そして、それで終わりではなかった。


 雲上船は安定を取り戻すどころか、嵐の中で錐揉みする木の葉のように、完全に統制を失った回転を始めたのだ。


 俺たちは床に叩き付けられ、叩き付けられたと思ったら身体が浮き、今度は壁に打ち付けられ、呻く間もなく今度は天井に放り出され――


 背中を強打して肺腑から空気が押し出された。

 眩暈と同時に頭を打って、呻く間もなく肩をどこかにぶつける。耳がキン、と鳴った。

 頭を庇うべきだと分かったが、俺からすればトゥイーディアから貰った時計が壊れることの方が恐怖だったので、咄嗟に庇った位置は胸元だった。


 船体のどこかが軋む甲高い音が、耳鳴りの向こうに聞こえた。


 俺は今にもこの船がばらばらになるのではないかと思ったが、その思考ですら割れて落ちていく程の衝撃が絶えず襲ってきていた。



 目から火花が出るのではないかという衝撃が幾度かあって、始まったときと同様、雲上船の錐揉み回転は唐突に終わった。


 まるで誰かが巨大な手で雲上船を掴み、あるべき姿勢に戻したかのようだった。



 ばたん、と床に倒れ込み、俺たちは起き上がることも出来ずにぜぇぜぇと喘ぐ。


 やがてのろのろと数名が身を起こし、「生きてるか」と周囲に声を掛け始めた。


「――くそ、通路には変なもん置いてないからいいけど、部屋の中はこれ、ぐちゃぐちゃになってんぞ……」


「“ぐちゃぐちゃ”で済みますかね……」


 俺も、懸命になって床に手を突き、顔を上げた。

 目が霞んだのと耳が変になっていたので、頭を振ってから目をしばたたく。


 俺の隣で同様にふらふらと座り込みつつあるチャールズが、「おい、大丈夫か」と声を掛けてくれた。


 俺はよく考えずに頷いて、懐から時計を引っ張り出して蓋を開け、問題なく針が動いていることを確認。

 それからようやく、ちゃんと頷いた。


「――うん、大丈夫」


 顔を上げて、俺はチャールズを振り返った。


「チャールズ、大丈夫?」


「いーんだよ、俺は……」


 げっそりした声でそう言ってから、チャールズはいやに真剣な顔で俺の目を覗き込んで、「頭打ったか?」と。

 俺が頷くと、彼は顔を顰めた。


「気分悪くないか? 吐き気とか」


「ないよ、大丈夫」


「具合悪くなったら言えよ。頭打つのは洒落にならない。

 ――ああくそ、操舵室の阿呆は何……して……」


 悪態を吐いていたチャールズが、唐突に言葉を失った様子で絶句した。


 彼の目が、ひゅっと船底の窓の外に向かったのが分かった。



 俺も振り返った。


 ――そして絶句した。



 今や窓の外で何が起こっているのか、目が映した事実を理解することを、頭が拒絶したようだった。



 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 そうとしか表現できない光景。

 地面がずたずたに引き裂かれ、無造作に浮き上がり――誰かが見えない手で持ち上げたかのように――、投げ捨てられる。


 雪が滴る。

 雪の塊が運河に浮かび、激しく揉まれて溶けて消えていく。


 地面の欠片が放り捨てられ、運河が波立つ。

 溶け切らない雪が灰色に凍り付いて顔を覗かせる。


 小舟が転覆し、貨物船が大破する。



 いっそ現実味がないほど淡々と――



 ――更に彼方、運河の上流方面に目を向ければ、惨状はいっそう凄みを増していた。



 遠くに霧が掛かって見える。


 だがそれは霧ではなくて、砕かれた地面が一斉に持ち上げられて、まるで砂利を掬い上げて投げるかのように投擲されているがゆえの光景だった。


 風景一帯が影になって見えるほどの、大量の()()()()()()()()が宙を舞っている。


 音すら聞こえない遠方にあって、その光景は悪夢だと言われた方がまだ納得できた。


 巨人の砂遊びといってもまだ規模として小さい。

 一つの都市ほどの掌を持つ何かが、地面を引っ繰り返したかのようだった。



 ――なんだ、これは。



 俺はひたすらに戦慄したが、同時に、先程から覚えていた違和感の正体に、初めて思い当たっていっそう慄然とした。


 ――魔力の気配だ。

 間違いない。


 俺は魔力の気配を感じていてなお、その規模の大きさから、それが魔法のものだと気付かなかったのだ。


 だってこれは――これが誰かの魔法なのだとしたら――それは、トゥイーディアやキルディアス侯級の魔力の主が、全力で魔法を遣っているのだとしか考えられない。


 ――俺自身ですら、自分の全力の魔法を知らない。

 本能がそれを忌避している。


 だがこれは――この規模は――



 俺が茫然としてその光景を眺めている間に、チャールズが呟いていた。

 声が、戦慄を映して震えていた。


「……おいおい、何があった……」


 ――この船がどこを飛んでいるのか、その現在地を把握できていない間抜けは俺だけだった。

 チャールズも、みんなも、自分たちがどの方角に向かって、どこを飛んでいるのかを知っていた。


 チャールズの呟きに応ずるように、ブライアンが声を落とした。

 声が掠れていた。


「――この運河……ここ、パルドーラ領だよな――?」


 俺の息が止まった。

 ――パルドーラ領――トゥイーディア。


 ――どういうことだ?


「……あの女伯は何やってんだ……自分の本陣が――とんだ大災害じゃねえか……」


 眩暈がした。

 心臓がいつもとは逆の手順で拍動を開始したようだった。


 ふらりと視界が回って、俺は座り込んだまま床に手を突いた。

 そして、全く無意識に、震える唇から声を押し出していた。


「――災害じゃない」


 分かり切っていることを呟いて、俺は息を吸い込んだ。

 肺腑の半ばほどまでしか息が吸い込めなかった。



()()()()()()



 誰かが大きく息を吸い込んで、戦慄く声で言った。


「――キルディアス閣下とパルドーラ閣下がいよいよ戦争を始めたんじゃなきゃ、こんなことが出来るのは他に二人だけだ。大使さまはここにいるしな」


「……西の女王がこっちに来たって話は聞かない」


 ぼそりと誰かがそう言って、そうして複数の声が揃った。



「――なら、()()()()()()()()()



 そのとき――まるで計ったかのように。



 すい、と、誰かが歩き去る様子が、窓の端に映った。


 吸い込まれるようにそちらを見た俺は目を疑ったが、何も見間違えてなどいなかった。



 ――生身の人が、この高度を、身一つで堂々と()()()いる。



 豪奢な衣装の袖を、裾を、吹く寒風にはためかせながら、小動(こゆるぎ)もせずに端然と。

 まるで足許に堅固な床があるように。



 その姿に気付いて、俺の周りも静まり返った。



 ――いつからそいつが、俺たちの死角に当たる雲上船の傍らに立っていたのか、俺は気付かなかった。


 だがいちど目にすれば、その全身から溢れて光り輝く魔力の強さは疑いようがなかった。


 カルディオスといったか、あのトゥイーディアの弟子には遠く及ばない。

 だがトゥイーディアやキルディアス侯とは同等であろう、鮮烈に煌めく魔力――



 その魔力を見ないよう意識すれば、彼の後ろ姿の仔細が分かる。



 青紫の、見慣れない形の豪勢な衣装。

 風に靡く長い銀髪が、腰の辺りまで伸ばされて、先の方だけが緩く編まれて色鮮やかな結紐で結われている。


 月より鋭利に煌めくその色彩の髪が翻り――彼が足を止め、こちらを振り返った。


 三十を幾つか超えたとみえる、端麗な顔立ちの男だった。

 白い頬に翳が落ちている。


 彼は全くの無表情でこちらを振り返り、雲上船の船底の窓越しに俺たちを見た。


 凍て付いた水晶のような濃紫の双眸で、数秒じっと俺たちを見て、――それから彼は胸に手を当て、膝を屈めて頭を下げた。


 舞踏会で非礼を詫びるかの如き、完璧な貴公子の所作だった。



 まるで、巻き込んですまないと言わんばかりの。



 ――もしかしたらこいつも、無関係の雲上船が飛んでいることに気付いてぎょっとして、慌ててその雲上船を助けに来たのかも知れない。


 そう思える、役目を果たしたと言わんばかりのその仕草を残して、銀髪の男がくるりと踵を返し、再び歩を進め始めた。


 ゆったりと歩きながら、彼が右手を軽く振ったのが見えた。



 ――どこかで轟音が響き渡った。



 何が起こったのか、もはや俺には分からなかった。


 ただ反射的に、届くはずもない声を張り上げようとした。


「――待、」


 しかし言葉は半ばで途切れた。



 一瞬前まで目の前にいたはずの、銀色の髪の男の姿が、僅かの刹那に消え失せたがゆえに。

















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