60◆――この恋慕は
銀色の雲上船が口を開けている。
がっしりと組まれた木の足場の上を歩いてそちらに向かいつつ、俺は今すぐ死んでしまいたいとすら思っていた。
冷たい風が強く吹く度に、このまま俺も吹き飛んでいってしまいたいと願った。
だが、そんなことはあるわけがない。
足場は時折軋みながら、組み上げられたその隙間をびゅうびゅうと通る風を鳴らして、しっかりと雲上船の入口まで続いていた。
レイモンドも俺と大体同じような顔をしていて、あの日――トゥイーディアと最後に会った夜――俺がちゃんと宮殿に戻ったときに、「なんで戻って来たんですか」といったことを問い質してきたくらいだから、彼は本当に俺の駆け落ちを応援してくれていたのかも知れない。
チャールズも苦り切った顔をしていた。
――それでもやっぱり、二人の兄貴の表情は、俺の内心の十分の一ほども荒れていなかったと思う。
使節団の全員が、ここのところ塞ぎ込んでいた。
諸島に戻ったときに、自分たちが叱責を受けると分かってのことだろう。
だが、俺ほど怯えて、竦んでいる人はいなかった。
使節団の足許で足場が軋む。
雲上船の中からこちらを、使節団の中でもリーティに滞在していなかった人たちが覗いていて、顔を顰めたり首を振ったりしていた。
俺たちは一様に押し黙って、雲上船の入口をくぐった。
中に入ると、風の音が急に途絶えて、耳の奥がうあんと鳴った。
ぶぅぅぅん、と、微かな音が周り中から響いている。
ぷしゅん、と微かな音がして、最後に雲上船に乗り込んだ一人の後ろで扉が閉まった。
苦労して視線を上げてみると、象牙色のつるりとした無機質な壁が続いている。
一年半ぶりに見るその内装は、しかし眩暈のせいでよく見えなかった。
歪んで見える。
息が勝手に上がる。
足が震える。
みんながそれぞれ、近くの腰掛けに座って離陸に備えた。
上の人たちも同様に。
俺は茫然と立ち竦んでいたが、レイモンドが俺の肩に手を掛けて、「ルドベキア、座って」と囁いてくれた。
レイモンドに促されるままに腰掛けて、俺は膝の上に肘を突いて、両手で顔を覆った。
レイモンドの手が、俺の背中を撫でていた。
ややあって、腹の中が浮き上がるような不快感が俺を襲った。
――離陸だ。
雲上船が地面を離れたのだ。
――リーティから離れ……レンリティスから離れ……大陸から離れ……トゥイーディアから離れ。
――これから、およそ六日間の空の旅を経て、俺たちはハルティ諸島連合に戻る。
俺は殺されるために戻るのだ。
かちかち、と時計の針が進む。
剣を模した針が、青玉が埋め込まれた時字の間を規則正しく刻んで進む。
掌に載せた時計を傾けると、盤面で真珠の光沢が閃いた。
蓋の裏面に目を遣れば、『親愛なる大使さまへ』と彫り込まれた飾り文字。
しばらくそうやって時計を眺めてから、俺は顔を上げた。
雲上船の中の空気は最悪だった。
上の人たちは悉く、不機嫌というよりも――何かの一線を踏み越えた人間を見るような目で俺を見ていて、責めるといってもまだ甘い弾劾の色がその視線に載っていた。
リーティに滞在していた使節団の若手は、周囲からの「何をやっていたんだ」という糾弾のために居心地悪そうにしていたし、その糾弾の最たる標的は無論のこと俺だった。
自然と、リーティに滞在していた若手は固まって過ごすことが多くなって、そのみんなが俺を中に庇い込んでくれていた。
俺はレイモンドの傍にくっ付いていることが多くて、今もそうだった。
そして大抵、俺はトゥイーディアに貰った懐中時計を握り締めていた。
――この時計がここにあるということは、あれは夢ではなかった。
俺はちゃんとトゥイーディアと会っていたのだし、言葉を交わしていたのだし、彼女は笑ってくれていたのだ。
そう思えた。
俺の周りでは、リーティに滞在していた若手がうんざりした表情で思い思いに座り込んでおり、「好き勝手言いやがって」と、愚痴めいた毒を吐き出していた。
「こっちが予測してないことがどれだけ起きたと思ってるのかしら」
「あんだけ好き放題言うなら、今度はおまえらが行ってみろっていうんだ」
「あー、帰りたくねえなぁ」
一人が言って、椅子の上で身体を摺り下げて、ぐっと伸びをした。
「なんか起きねえかな。大嵐とか。それで雲上船が進めなくなったらいいのに」
小さな笑い声が起こった。
「雲上船がいったん着陸か、相当な大嵐だな」
「カロックの大魔術師が心血注いだ技術だぜ。そうそう嵐なんかには負けねえよ」
「おい、カロックって言うな、条約のことを思い出して悲しくなる」
誰かがつらそうにそう言って、その場の全員がなんとなくしゅんとした。
俺はそのとき、トゥイーディアが気にしていた銀の花の名前――たぶん雪柳だったはずなのだ――を、結局彼女に伝えていないことを思い出して、心臓が捩れるほどに切なくなった。
――トゥイーディアの顔が見たかった。声を聞きたかった。
あるいは俺の話に頷いてほしかった。
俺の心にはきっと、生まれたときからずっと、彼女でしか埋まらない空洞があるのだ。
そうに決まっている。
そうでなければ、会えないだけでこんなにも寂しいわけがない。
全員がしばししゅんとしたあと、ブライアンがぼそっと言った。
愚痴というより願望めいた声音だった。
「まず、最初からちゃんとした指示を出していてくれればな……」
確かに、と頷く頭がいっぱい。
それから、チャールズがにやっと笑ってこっちを見た。
「第一、こっちは大使さまの背が伸びたことを喜ぶのに忙しかった」
「それな。せめてもうちょっと大使さまが嫌な奴だったら、責任押し付けて清々してたな」
笑い含みの声で自分の話題が出たので、俺は警戒ぎみに身構えてしまったが、みんなが相変わらず友好的に俺の方を見てくれていたので、ほっと身体から力を抜いた。
レイモンドが「大丈夫ですよ」というように俺の肩を叩いてくれる。
「さすがに、島に戻って私たちだけが次の目的地に出発――という風にはならないと思います。
私たちもあなたも、きっと一絡げにしてお怒りを貰うでしょうから、どう言い抜けるか考えておきましょうね」
まるで、厄介な夜会に呼ばれたから頑張りましょうね、というような口調でそう言われたので、俺は瞬きして、呟いた。
「――違うと思う」
俺が入れられるだろう懲罰部屋は、内殻の内側の島にある。
今は内殻が消失しているにせよ、ヘリアンサスが変わらずあそこにいるのだから、〝えらいひとたち〟はレイモンドたちをあの島には入れようとしないだろう。
俺は一人で懲罰部屋まで連れて行かれて、櫃に入れられるだろう。
あるいは櫃に入れられることもなく殺されるだろうか。
俺が確信を持って呟いたからか、レイモンドは眉を寄せた。
その顔を見て、俺が死んだらレイモンドはどんな顔をするんだろうとふと思った。
いや、もしかしたら、レイモンドに俺の生死は伝わらないかも知れないけれど。
俺の顔をしばらくじっと見てから、レイモンドが言った。
言い聞かせるような――初めて会ったときみたいな、俺に一からものを教えるときの声だった。
「――ルドベキア。言いましたよね――誰かがあなたに手を上げたら、あなたはそいつを殴り返してやりなさい」
俺はきょとんとして、それから頷いた。
――このときの俺に刷り込まれていた恐怖は根強くて、レイモンドが言った「誰か」に「〝えらいひとたち〟」が含まれることすら、俺は理解していなかったのである。
レイモンドは俺のそういった頭の中が少しは分かったようで、危機感すら覚えたような表情をしていた。
彼は何か言おうとした様子だったが、結局は言葉が見付からなかったのか口を噤んだ。
「ってか、なんで大使さままでしゅんとしてんのさ」
と、チャールズが頬杖を突きつつ指摘した。
「その気になったらこの雲上船だって墜とせるんだろ? もっと偉そうにしてろよ」
俺は目を丸くした。
「――出来ないよ、そんなの」
「出来ないの?」
チャールズがびっくりしたように復唱して、周囲の他のみんなもざわめいた。
「あんなやべぇ魔法も楽に使えるのに?」
みんなが何にびっくりしているのか分からず、周囲を見渡した俺は瞬きして、首を傾げた。
「――だって……」
肩を竦めて、俺は言った。
「……この船に何かあったら、〝えらいひとたち〟が怒るんだろ」
「そりゃそうだけど――」
言い差したチャールズが真顔になった。
今までに見たことがないほど真剣な顔で俺を見て、チャールズは呟いた。
妙に感情のない、色のない声だった。
「――大使さま……きみ、ルドベキア。
古老衆さま方がきみに手を上げたの、一回や二回じゃないのか――何されてきたんだ」
俺は息を吸い込んで、随分久し振りに、自分が〝えらいひとたち〟に何を貰ったのかを口に出した。
「――俺は、〝えらいひとたち〟に、慈悲を貰って生かされたんだ」
◆◆◆
俺は内殻の消失を感じ取るのと同時に、外殻の消失も確信していた。
そしてそれに誤りはなくて、雲上船は外殻に触れることもなく、滑るように諸島の上空に入ったようだった。
いよいよ雲上船が諸島の上空に達し、着陸態勢に入ったときになって、俺はレイモンドの袖を引いた。
「――はい?」
何か考え事をしていたらしきレイモンドが俺を振り返り、顔を覗き込んできた。
「どうしました?」
「――レイ、あのな」
俺は言い差した。
舌の根っこに鉛の重みでも付けられているみたいに、声を出すことに苦労した。
頭の芯が重く冷えていくほどの恐怖は、もはや恐怖であるという認識すら難しいほどに大きかった。
息を吸い込む。
なんとか声を押し出す。
「一緒に買った画材――ちゃんと持って来てるから、落ち着いたら、ヘリアンサス……守人に渡して。直接渡すのが難しかったら、バーシルにお願いしたら届けてくれると思う」
レイモンドが怪訝そうに眉を寄せた。
「……自分で、」
「俺は無理かも知れないから」
言い差すレイモンドを遮って、声の震えを必死に抑えながらそう言った俺は、「それから」と言葉を継いで、手を動かした。
懐を探って、ここのところずっと握り締めていた、トゥイーディアから貰った懐中時計を取り出す。
俺が自覚していなかった手の震えを拾って、華奢な金鎖がしゃらしゃらと鳴った。
「これ、持ってて」
俺が時計をレイモンドに押し付けたのが意外だったのか、レイモンドが目を瞠った。
時計を見て、それから俺を見て、緑の目を怪訝そうに細める。
「――なぜです? 大事なものでしょう?」
「うん」
衒いなく頷いて、俺は少しだけ、ぎゅっと目を瞑った。
それから、絞り出すように言っていた。
「――だから、傷が付いたり……壊れたりするのは嫌なんだ」
「…………」
レイモンドが黙り込んだ。
いつも俺のお願いならあっさり聞いてくれる彼には珍しく、頷く気配がなかった。
俺はそんな些細なことですら恐慌に陥り掛けて、目が泳ぐのを必死に堪えながらレイモンドを見上げる。
「――レイ?」
はあ、と小さく息を吐いて、レイモンドが後ろを振り返り、呼ばわった。
「チャーリー、ちょっと」
チャールズもまた憂鬱そうな顔で佇んでいたが、呼ばれてすぐにこっちに来てくれた。
俺の顔を見て痛ましそうな顔をして、手を伸ばして俺の頭の上に掌を置きつつ、チャールズが首を傾げてレイモンドを見遣る。
「なんだ?」
「ルドベキアのこれ、おまえが預ってくれないか」
レイモンドがそう言って、俺が差し出したままになっている懐中時計を示した。
チャールズは瞬きした。
「……いいけど、――なんで?」
「ルドベキアが、女伯から頂いたものだ」
レイモンドが声を潜めてそう言って、チャールズは僅かに驚いた顔をした。
それから俺を見て、レイモンドと同じことを言う。
「なんでさ。大事なものだろ?」
「――――」
俺は声が出なかった。
いっそう手が震えた。
レイモンドがそんな俺を一瞥してから、チャールズに向かっていやに真剣に言っていた。
「――僕は預かれないから。
チャーリー、おまえが預って、おまえは古老衆さま方の前には出るな」
チャールズが目を見開いて、それから何かをぼそっと言った――声が小さくて、ただでさえばくばくと打つ心臓の音がうるさい俺の耳には聞こえなかった。
ただ、「逆だろ」という一言だけは聞こえてきた。
レイモンドがそれに対して首を振って、二人が小声で何かの押し問答をする。
その間ずっと、俺は縋るように懐中時計を握り締めていた。
懐中時計はかちかちと時間を進めている。
この針こそが世界の時間を定義しているのではないかとすら思えるほどに淡々とした、正確な動きで。
――トゥイーディアがくれたもの。
あれは夢ではなかった。
俺が死んでも、少なくともトゥイーディアは俺の存在を、頭の片隅くらいでは覚えていてくれるはずだ。
だからもういい。もういい。もういい――そのはずだ。
ややあって、レイモンドとチャールズの間で議論が決着を見たらしい。
チャールズが溜息を零しつつ懐からハンカチを取り出して、俺の震える手から懐中時計を取り上げて、丁寧にそれに包んだ。
磨き上げられた時計の竜頭がきらっと光ったのが見えた。
「――分かった、じゃ、預かってるから」
チャールズがそう言って、顰めっ面で俺を見た。
「ちゃんと返してもらいに来いよ。こんな高級品、俺が持ってても持て余すし」
お道化たような口調に、俺はいつものように笑おうとして、出来なかった。
チャールズは時計を包んだハンカチを大事そうに懐に仕舞って、俺の頭の上にまた手を置いた。
俺はなんだか泣きそうになったが、涙が出る道ですら凍り付いたかのように、実際には目の裏が熱くなることすらなかった。
チャールズがレイモンドの方を見て、ぼそっと呟いた。
「あんまり、あれだ、無茶はするなよ」
「おまえこそ、罷り間違っても前に出たりするなよ」
レイモンドにそう言われて、チャールズが大きく息を吐いた。
「……分ぁってるよ。なんか、人質みたいな時計だな」
二人が何を言っているのか、俺にはよく分からなかった。
レイモンドはそれからひそひそと、「ルドベキアの部屋にある画材は守人に」と、これもチャールズに言付けていた。
俺はそれを疑問に思うことにすら頭が回らなかった。
――このときのことを、俺は曖昧にしか覚えていない。
多分、思考が支離滅裂になっていたからだ。
覚えているのは、雲上船がいよいよ傾いて着陸に入ったとき、さかんにトゥイーディアの顔が浮かんできたこと。
訪春祭でレイモンドとはしゃいだことが脳裏に過ったこと。
いつか見た歌劇の舞台が、何の脈絡もなく思い出されたこと――
上の人たちがずらずらとやって来て、暗い顔で俺を出口の前に促した。
着水を待たずにそこに控えていろというわけだ。
俺はこの辺りで、足が震えて立っていることすら難しかったし、いつもなら俺を引っ張ってくれるレイモンドも頑として動かなかった。
だが、上の人たちが手ずから俺に手を伸ばそうとすると、レイモンドが結局は庇うように俺の前に出てくれた。
レイモンドが俺の手首の辺りを、いつもよりもずっと強い力で握っていたことを覚えている。
俺は恐怖のあまりにいよいよ頭が回らなくなって、厳しい表情を浮かべている彼の横顔を見上げて、ぼろっと言葉を零した。
「――訪春祭、楽しかった」
レイモンドが、びっくりしたように俺を見下ろした。
そしてにっこり笑った。
いつものあの笑顔だった。
「ええ、私もですよ」
そのとき、着水した雲上船の扉が、ぷしゅん、と小さな音を立てて開いた。
ざあん、と響く海の音が、本当に久し振りに俺の耳に届いた。
潮の匂い――リーティでは感じることのなかった匂いが鼻腔を擽る。
時刻は昼過ぎだった。
眩しい陽光が差し込んできて、俺は目を細めた。
そして、その陽光を切り取る影を認めて、喉が凍るほどの恐怖に竦み上がった。
――雲上船は、いつものように、島の傍の海上に着水していた。
雲上船から島へは、銀色の翼を辿って歩く必要がある。
レイモンドが俺を庇った結果、最も出口近くにいるのは上の人たちだった。
その彼ら越しに見える影――
〝えらいひとたち〟が、既にそこで待っていた。
そして、雲上船の着水を待ちかねていたとでも言わんばかりに、彼ら自らが雲上船の銀の翼に足を踏み出し、こちらへ向かって歩いて来ようとしている。
彼らが纏うローブの裾が翻る。
爪先の反り返った靴がかつかつと鳴る。
彼らの顔を、俺は見られなかった。
そのように教えられてきた。
顔を上げることすら許さないと刷り込まれてきた。
だが、それでも、俺は悲鳴を上げていた。
いや、最初は、誰が叫んでいるのか俺にすらも分からなかった。
だがすぐに、他でもない俺自身が絶叫しているのだと気付いた。
言葉にならない悲鳴を上げて、その場に蹲ろうとする俺を、レイモンドが抱きかかえるようにして庇ってくれたのが分かった。
だがそれすら、俺の認識の端を僅かに掠めた事実に過ぎなかった。
手足が瘧のように震える。
息が詰まる。
目が見えなくなるほどの恐怖。
使節団が絶句している。
上の人たちの誰かが俺に歩み寄って来て、俺を引き摺り立たせようとした。
それに対して、レイモンドが初めて見るような剣幕で何事かを言い返している。
その言葉の内容ですら、俺にはもはや分からなかった。
悲鳴を上げて頭を庇って、俺自身も何かを叫んでいたはずだった。
そしてとうとう、〝えらいひとたち〟が雲上船の中に足を踏み入れた。
さあっと使節団のみんなが下がって、俺たちの周囲からいなくなった。
レイモンドだけが俺の傍に残っていて、なおも何かを訴えている。
俺の後ろには上の人たちが、そして前には〝えらいひとたち〟がずらりと並んでいた。
吐き気がした。
眩暈は元より酷かった。
声が嗚咽に詰まって出なくなった。
俺は必死に身を縮めていた。
「――この、屑ほどにも役に立たん能無しが……!」
声が聞こえた。
古老長さまの声だと分かった。
俺がその声音を覚えていなくとも、その声を聞いた途端に強張った全身が雄弁だった。
「仕損じるのは許さぬとあれほど――あれほど――!」
「お言葉ですが!」
レイモンドの声。
信じられないほど殺気立った声で、レイモンドが言い募っている。
「決断も鈍く我々に指示すら与えなかったのはあなた方です!
教養の欠片もなかったこの子に、お役目が可能と正気で思し召されていたのですか!」
「おまえたちを付けただろうが!!」
古老長さまが激昂した声で怒鳴った。
俺は悲鳴すら上げられなくなって、ひたすらそこで頭を下げていた。
「我々がその化け物に、どれだけの慈悲を与えてやったと思っている!」
「あなた方のそれは慈悲ではない!!」
レイモンドが怒鳴った。
彼がここまで声を荒らげるのを、俺は聞いたことがなかった。
「この子のどこが化け物だ! 今この状況を、ご自身で冷静にご覧になってそう仰るか!
――この子とあなた方と、どちらが化け物と呼ぶに相応しいか明らかでしょう!!」
「遺言がそれならば聞いてやろう。
――番人!」
遂に名指しで呼ばれて、俺は竦み上がった。
息が出来なくなった。
瞼が痙攣したように瞬きが止まらなくなった。
「一年と言ったはずだ!」
「不可能でした! あなた方が延長をお認めになりました!」
レイモンドが怒鳴った。
「可否を少しでもお考えになったのなら――」
「番人!」
レイモンドを無視して、古老長さまがなお呼ばわった。
俺は全身を震わせながら、床に額を付けんばかりに頭を下げた。
その俺の肩を掴んで、レイモンドが顔を上げさせようとする。
「――ああ、そうだ、血迷ったのだ……手放すなどと考えるべきではなかった……これほどの長きに亘って手塩に掛けてきたのだ、殺すなどと考えた私が愚かだった……。
おまえのことは、秘め伏して隠すべきだったのだ……」
古老長さまが呟き、唐突に前に出た。
同時に上の人たちもこちらに詰め寄って来た。
レイモンドに顔を上げさせられた俺はそのとき初めて、古老長さまの顔を見た。
老いた顔だった。
額にも目尻にも深く皺が刻まれていて、肌は病的なまでに白かった。
白髪交じりの灰色の髪が長く伸びていて、同色の髭も同様で、髭は編まれて垂らされている。
眉すら垂れ下がって見えるほどに長かったが、落ち窪んだ眼窩に収まる眼光が炯々としていた。
鷹のような黄色い目だった。
「一年で役目を果たせと言ったはずだ」
「――――」
俺は口を開けなかった。
そのように教えられてきた。
「おまえが一年で戻っていれば――」
古老長さまがそこまで言ったとき、ようやく外部の光に慣れた俺の目が異常を認めた。
――いや、何か異常なものが視界に映っていたわけではない。
むしろ見慣れた――この生涯で最も見慣れた光景が広がっているのだ。
〝えらいひとたち〟越しに見えるのは、島の光景だ。
そしてその島は、あの秘匿された――内殻の内側で最も厚く厳重に守られていたはずの――地下神殿のある島の光景だった。
ここはあの島の南側、それこそ地下神殿への入口が口を開けているはずの場所だ。
――どうしてここに雲上船が入ることが出来たんだ?
内殻が消失しているから、物理的には可能だろうが――それでも古老長さまたちが、彼らが大切に庇うヘリアンサスの傍に、使節団が近付くのを許すわけがない。
蒼白になった俺の顔に、僅かな怪訝が載ったことを認めたのか、唐突に古老長さまが手を振り上げた。
レイモンドが俺をぐっと引き寄せて、古老長さまの掌から俺を守った。
「死にたいか!」
怒号を上げた古老長さまに、レイモンドが怒鳴る。
「その打擲の意味をまずは教えていただきたい!」
「罪過はそれがよく弁えておろう!」
古老長さまが叩き付けるようにそう言って、猛禽を思わせる黄色い目で俺を見た。
俺はただ全身を震わせているばかりだった。
「――のう、番人」
古老長さまが言った。
俺は無言で、痙攣を起こしたかのように震えていた。
「地下神殿に、あろうことか穴を開けたな?」
「――――」
今度こそ、俺の息が止まった。
心臓すらも刹那止まった。
――穴。開けた。
そうだ、確かに。
ヘリアンサスが時刻を把握できるように。
あれが露見したのだ。
ヘリアンサスはどうやら、俺を庇い立てすることはしなかったらしい――
引き攣けを起こしたかのように震えながら、俺は深く頭を下げた。
同時に、レイモンドがむしろ訝しそうに呟いていた。
「……そんなことで――」
「なんと申した」
〝えらいひとたち〟の中の誰かが、殺気すら籠もった声を上げた。
すかさず、上の人たちのうち一人――アークソンさまだ――が、抑えた声で呟いた。
「――レイモンド、控えなさい。事はおまえが想像している程度のものではない」
「は?」
レイモンドが、訝しそうにアークソンさまの方を見た。
俺はぴくりとも動けなかった。
凍り付いた俺を見下ろして、炯々と輝く瞳に激怒を滲ませて、憤怒に全身を震わせながら、古老長さまが呟いた。
声はいっそ静かで、それがいっそう恐ろしかった。
「――守人が消えた」
「――――」
俺の心臓が、今度は身体から抜け落ちたかのようだった。
言われたことが咄嗟に理解できず、俺はぽかんと口を開けた。
「番人。おまえの出立から一年経った頃だ。おまえが穿った穴から消えたとしか考えられぬ。
――あれが……我らの祖が見出してからこちら、守り伝えてきた我らの最大の財産が……おまえ如きの……番人如きのために……!」
瞬きの間に、俺は理解した。
――内殻の消失は、そのせいだ。
ヘリアンサスがここから消えて、半身を失った母石もまたここから消えたのだ。
だから内殻が消失したのだ。
あの日、あの深夜に、ヘリアンサスがここを抜け出していたのだ。
俺は思わず、アークソンさまを振り仰いだ。
――アークソンさまはあのとき、いちど諸島に戻っている。
そして俺たちに、「何もなかった」と伝えていた――
アークソンさまは俺を見ていた。
目が合って一秒、アークソンさまがそっと視線を外した。
――その刹那に俺は了解した。
ヘリアンサスが消えたとなれば、俺があいつを捜しに飛び出しかねないことを、少なくとも〝えらいひとたち〟は理解していた。
だからこそ、アークソンさまには虚偽の伝言をさせたのだ。
そして俺が今日ここに戻るのを待っていたのだ。
どうしてヘリアンサスがここを抜け出したのか、俺には分からなかった。
あのとき、それは駄目だと言ったのに。
外を知らないあいつが行く先なんてないのに。
あいつは何も知らないのに。
空のことすら知らないあいつが、ここから出てどうやって過ごしているんだ?
思わず、俺は立ち上がろうとした。
古老長さまの前で、俺がそのような挙動を取ったのは初めてのことだった。
そのとき、古老長さまが――延いては〝えらいひとたち〟が――俺が初めて見る顔をした。
――今になってみれば、それが恐怖の表情だと分かるのだが。
俺が膝を立てた瞬間に、激烈な叱責の声が飛んだ。
俺は竦み上がり、膝立ちのままに横様に倒れ込みそうになった。
それを踏ん張ることが出来たのは、レイモンドが隣で咄嗟に俺を支えてくれたためだが、俺はレイモンドの手に縋りつつも、必死になって口を開いた。
これも初めてのことだった。
このとき初めて、古老長さまは俺の声を聞いたことになる。
「――捜しに行かせてください!
ヘリアンサス……あいつ、何も知らないんだ!」
古老長さまが息を吸い込んだ。
その刹那に満たぬ間に、彼が何かの感情を抑え込んだのだと分かった。
「――まずは悔悟よ!」
叩き付けるようにそう言って、古老長さまがローブを翻して踵を返した。
代わって、他の〝えらいひとたち〟がこちらに向かって更に詰め寄って来る。
恐怖に絶句した俺の方を、もはや振り返りすらせずに、古老長さまが声高に言っていた。
「急かずとも、バーシルたちを向かわせている――ここへ引き戻そう、あれは我らのものだ。
――懲罰部屋へ!!」
「――――」
俺は絶叫した。
覆しようのない絶対的な恐怖が、完全に俺の動作の自由を奪っていた。
懲罰部屋に連れて行かれるとき、俺は身体の動かし方を忘れる。
言葉の作り方を忘れる。
魔法の使い方を忘れる。
誰かが俺の腕を掴んで引き摺り立たせようとした。
俺は咄嗟にそれから逃げるように身を捩り、その手を振り払った。
――そして気付いた。
今のはレイモンドだ。
レイモンドが俺を守ろうとしてくれたのに、俺はそれを振り払ったのだ。
俺の一瞬の、愕然とした後悔の表情を見たレイモンドが何か言った。
周囲で怒号が上がっており、声は聞こえなかった。
だが、俺がよく見てきた唇の動きだった――『大丈夫ですよ』と、彼はそう言ったのだ。
直後、今度こそ〝えらいひとたち〟の誰かが俺の腕を掴んだ。
レイモンドとは違う、乱暴な掴み方だった。
そのまま、俺を立たせすらせずに引き摺って行こうとする――
俺は泣き喚いた。
使節団のみんなが、そのときどんな顔をしていたのかすら見なかった。
二年前に戻ったかのように、俺は絶叫し、悲鳴を上げて泣き叫び、許しを乞う機転すらなく引き摺られた。
レイモンドが俺の肩を掴んだ。
引き留めようとしていた。
今や周り中が何かを叫んでいた。
〝えらいひとたち〟と上の人たちの怒号、使節団の動揺の悲鳴。
その中で、レイモンドが何かを叫んでいる。
約束通り、俺を守ろうとしている。
しゃくり上げながら、俺はレイモンドに向かって、「もういい」と言おうとした。
〝えらいひとたち〟に逆らってはいけない、だからもういい――
息を吸い込むと眩暈がした。
〝えらいひとたち〟の誰かが、レイモンドに詰め寄ったのが見えた。
俺は恐怖に息を詰めた。
いつもよりも倍ほどにも重い恐怖だった。
腕を掴まれる。
乱暴に腕を引かれ、また別の人が俺の手を横暴に掴んで、急かすようになお引き摺った。
指が曲がらない方向に強引に引かれて、唐突に火が点いたように指の辺りが痛くなった。
泣き喚く俺の腹を誰かが蹴った。
それとは違う殴打の音がする。
使節団の若手の中の誰か――女性の悲鳴が上がって、雲上船の廊下に響き渡った。
ぐらぐらと視界が揺れる。
俺は必死になって意識を保とうとしたが、立て続けに何度も耳の辺りを殴られて、いよいよ意識が薄らぎ始めていた。
泣き過ぎて肺腑の中の空気も足りなかった。
痛かった。つらかった。
さっき痛み始めた指は、今はもう感覚が無かった。
重くて冷たい。どういう状態になっているんだろう。
雲上船から外に引き摺り出されて、俺は朦朧とする視界の中、今もやっぱり地下神殿の入口の近くに佇む女の子を認めた――ムンドゥス、だったか。
俺が見ていたときよりも、なおいっそう全身に罅割れが広がったその姿。もはやどこに目があるのかも分からなかったが、彼女が俺を見たことを、なんとなく俺は理解した。
地面を引き摺られる俺の膝が、岩の出っ張りにぶつかって引っ掛かった。
だがそれでも、お構いなしに俺の身体が引き摺られて行く。
抵抗のひとつも出来ないまま、鎖に繋がれた象のように従順に、俺は泣き喚くばかりで、海辺の岩場の上を引き摺られていた。
懲罰部屋に行き着く頃には、俺は既に傷だらけになっていた。
殆ど突き落とすようにして懲罰部屋の中に蹴り入れられて、ぬかるんだ泥の中で櫃を見た瞬間、俺は「殺してくれ」と泣き崩れていた。
――殺してくれ。
もう嫌だ、こんな目には遭いたくない、もう殺してくれ、終わらせてくれ。
誰も俺に耳を貸さなかった。
俺からは、今しも俺を櫃に入れようとする人たちの顔が見えなかった。
あるいは、これほどの悪意のある者に顔を見るのを、表情を見るのを、俺の本能が恐怖したのかも知れない。
悪意に顔があるほど恐ろしいことはない。
櫃の蓋は既に開いている。
この二年で俺は背が伸びた。
体格も良くなった。
櫃は余りにも小さかった。
それでも彼らは、容赦なく俺を櫃に突っ込んだ。
さすがに、もう彼らが投げ入れることが出来るほどに俺は小さくなかったから、彼らはまず俺の上半身を櫃に突っ込んで、真っ暗な櫃の底面に俺が顔をぶつけると同時に、息を合わせて俺の脚を押し込んできたのだ。
櫃の壁面に頭をぶつけ、肩をぶつけ、俺は息苦しさと恐怖にもがいた。
起き上がろうとする俺の頭の上から、大量の水が注ぎ込まれた。
勢い余って水を吸い込み、俺は咳き込む。
咳き込む傍から水位が上がる。
俺はもがくが、恐怖の余りに身体は思うように動かない。
ばしゃばしゃと無為に水が跳ねる。
冷たい――病的なまでに冷たい水。
衣服が水を吸って冷え、枷のように重くなる。
そのうちに誰かの魔力が働く感覚があって、俺の頭の上に、ごとん、と重い蓋が落とされた。
音が途絶えた。光もなくなった。
息をするのもやっとという位置まで水が昇っていて、悲鳴を上げる俺の口許で泡が出来た。
――助けてくれ、出してくれ。
必死に櫃を叩こうとするが、纏わりつく水の抵抗で、俺の手は緩やかにしか動かない。
そして元より、自由に手を動かせる体勢でもなければ、櫃もそれほど大きくない。
それでも必死に櫃を掻く俺の手指の爪が剥がれ、鮮烈な痛みが燃え上がった。
首が曲がっている。
後頭部と首の後ろが、硬い櫃の壁面に押し付けられている。
背中も同じで、膝を抱え込む姿勢になっていてなお、肺腑が圧迫されるほどに余裕がない。
膝が痛む。爪先の感覚が失せる。
そのうちに上下の感覚も危うくなって、息をすることだけに懸命になる。
――助けてくれ、助けてくれ……
涙が出る気力も残っていなかったが、辛うじて――本当に辛うじて、真っ暗闇の中に針で点を穿つようにして、まだ残っている灯りがあった。
灯りはあの庭園の色をしていて、あの小川のせせらぎの音をしていて、金木犀の香りを持っていて――
――あの人の蜂蜜色の髪の泳ぎ方。
「……空の」
声を出した。
苦い水が口に入ってきた。
呼吸が苦しくなった。
「――空の向こうには、光の宮殿があって……」
――あの人の声、仕草。
「……そこに住む人たちは、真珠と黄金を食べて……」
もう駄目だった。
続きが思い出せない。
あの人が教えてくれたのに。
――あの人の声が薄らぐ。
あの人の仕草が薄らぐ。
あの人の表情ですら薄らぐ。
俺は啜り泣いた。
心が折れた。
もう何の灯りも無かった。
――この恋慕はこの恐怖を消せない。




