55◆――親愛なる大使さまへ
上の人たちは無論、俺に恙なくお役目を遂行させるために、俺がお役目の重大性を理解するために、俺に魔力のことを話したのである。
カロックから条約を締結したいとの旨の書簡が届き、王宮は俄かに慌ただしくなった雰囲気だったが、使節団も泡を喰って動き始めようとしていた。
若手があちこちを走り回り、どこからか情報を仕入れてくる。
「ヴェルローから牽制が入っただろ……それでも条約締結か?」
「パルドーラ伯の意見が通った。ぶっちゃけ、ヴェルローが戦争を仕掛ける公算は小さいだろうってさ。
それに戦争になったとしても、ヴェルローには補給線を伸ばす必要があるからな。そういうことを考えても――勝負にならずに敗戦することはないだろうって」
「そりゃまあ、普通の軍隊が攻めて来た程度なら、大魔術師が二人いるんだ、問題なく勝つだろうけどさ――」
「女王陛下御自らがこっちに来ちゃったら詰むってのに、マジか……」
葬儀のような顔つきで言葉を交わす若手の間に、また別の者が走って来る。
「待て待て、書簡の内容が分かった。――女伯の読みが完全に正しい。
ヴェルローの狙いはレンリティスじゃなくてカロック。
カロックが、ヴェルローと揉め事になりそうだからレンリティスに助けを求めて来てるっていうのが率直なところらしい」
これに抗議の声が上がった。
「は? だったらカロックと手を組むなんて自殺行為だろ……」
「いや逆。カロックに手を掛けようとしてる女王陛下が、わざわざ条約の邪魔をしたんだ。
つまり、ヴェルローからしてもレンリティスは無視できない程度の国ではあるんじゃないだろうかって、専らそっちの見方が主流になってるっぽい――」
俺はぼんやりと座っていたが、話がそこまで進んだところで、使節団の面々が一斉に俺を振り返った。
「――大使さま、条約締結は止めないと」
「取り敢えず何とかしないといけないっていうのに、大使さまが会議でキレたせいで全然招喚もないじゃんか、どうすんの」
俺は気乗りしない気分を前面に押し出して肩を竦めたが、チャールズがそのときぽんと手を打った。
「あれだよ。大使さま、直接パルドーラ閣下に会いに行っちゃえ。
それでもう直々に、『ヴェルローを蔑ろに出来ないから、あっちの言うことに背くなら世双珠の輸出は完全に止めるからな』って脅しちゃえ」
俺は思わず、光の速さでレイモンドを振り返った。
レイモンドは特段発言せずに立っているだけだったが、俺の疑いの眼差しに気付いてめちゃくちゃ手と首を振り始めた。
金輪際絶対にチャールズに何も話してない、ということらしい。
俺はなおも疑いの目でレイモンドを見ていたが、そんな俺たちを差し置いて、若手の間で早速それが議論され始めていた。
「や、駄目だろ、言うなら国王に直接だ。じゃなきゃあんまり効果ないだろ」
「さすがに国王に直接こんなこと言えねえって。言ったが最後、俺たち纏めて人質だぜ」
「世界の終末を牢で過ごすのはごめんだな……」
「でもまあ、パルドーラ伯に言ったところで、あの女伯が自分の功績を手放すかね?」
「むしろキルディアス侯に上申したらどうだ。女伯とは相変わらず睨み合ってんだろ。嬉々として女伯の功績を潰してくれるんじゃないか」
「絶対ないね。あの方が国益以上に重んじるものなんてないよ。国王が条約に乗り気になってる。女侯だって乗り気にならざるを得ない。
第一、自分が招聘した大使がそんな大それたこと言ってみろよ。面目を潰されたってことで、女侯が僕たちを殺しかねないよ」
議論が堂々巡りをしているのを、俺はぼけっと見ていた。
――条約の締結を俺が全力で邪魔することは、ヘリアンサスを殺すことではない。
トゥイーディアは悲しむだろうが、彼女の命に関わることもない。
そう分かっていてなお、俺の「動こう」という気概が、何か重い泥のようなもので蓋をされて、出て来ないような感覚だった。
俺がぼんやりしているのを見咎めたのか、ブライアンがこっちに寄って来て、俺を困り顔で見下ろした。
「おい、ねえ、大使さま。そんなつまんなそうにしてる場合じゃないんだって」
「……なんで」
俺は呟いて、目を逸らせた。
「別に、魔法は使い続けても大丈夫、世双珠だって使い続けて大丈夫だって、そう考えている人もいるんだろ。だったらなんで俺たちだけ、こんな無茶を通さないといけないんだよ」
一瞬みんなが静まり返って、それから一斉に絶望の声が漏れた。
「――マジか」
「言うに事欠いて、そこか」
「駄目だ、余計頑固になった」
処置なし、というように天を仰いでから、チャールズが俺の傍に寄って来て、「あのね」と言って肩を叩いてきた。
「大使さま、結構俺たちのこと好きでしょ。まあぶっちゃけ、俺たちのことはそんなに好きじゃなくても、レイモンドのことは好きでしょ。――助けると思って頑張ってよ」
率直にいえば、俺はチャールズのことも結構好きだったが、顔を背けたままでいた。
レイモンドが苦笑混じりに、「チャーリー、そういうのはずるい」と言っているのが聞こえてきた。
――とはいえ、確かに、条約の成立は止めなければ拙いことになる。
それはさすがに、血の巡りの悪い俺の頭でも分かることだった。
何しろ、大魔術師三人が手を組んでしまう。魔法の発達は待ったなし。
カロックの皇太子の頭脳がどれ程かは知らないし興味もないが、大魔術師として謳われる程度の知識も知見もあるはずだ。
俺が何とかして、自分の中から気概であるとか危機感に拠る行動力とか、そういうのを引っ張り出そうとしているうちに、周りがあれこれと準備を整えてしまった。
ハルティの大使が、招待主の政敵をわざわざ訪う約束を取り付けて、かつ打診されたパルドーラ伯爵もそれを快諾した――という、条約関係の騒ぎの中にあってさえ、結構な衝撃を齎したその噂話を、当事者である俺も噂で聞いて初めて知ったくらいだった。
――俺はなんだかんだで、トゥイーディアを訪ねることになってしまっていた。
◆◆◆
俺がパルドーラ邸訪問に難色を示したのを、さすがに誰も聞き入れてくれなかった。
チャールズは俺に、「脅してでも条約を邪魔しろ」と言い、レイモンドは「情に訴えてみてください」と言った。
俺はレイモンドに対して、「洗い浚い全部喋ったらだめ?」と訊いてみたが、「お勧めしない」と即答された。
「女伯とあなたの関係を知りませんから、何とも言えないんですけどね。笑い飛ばされるか、あるいは女伯があなたの言うことを信じて国王に奏上して、国中が大混乱に陥るかのどっちかですよ」
「いやでも、魔法を殺すならどっちにしろ大混乱になるんだろ?」
「まあそうですけど」
と、レイモンドはちらっと俺を見て、
「女伯がそれを引き起こしたとなってみなさい。女伯が責任を問われますよ」
俺は黙った。
絶対に、何があっても、口が裂けてもトゥイーディアに本当のことは言うもんか、と思った。
レイモンドが俺に甘すぎるというので、パルドーラ伯邸にはレイモンドではない誰かが俺に同行するべきでは、という声が出たが、レイモンドは滅多にないほど強硬に、俺に同行することを主張してくれた。
斯くして俺はレイモンドに連れられて、多忙を極めるトゥイーディアが絞り出してくれた貴重な午後の時間、丁重に頭を下げる彼女の使用人たちに出迎えられ、いつか舞踏会で訪れたことのあるパルドーラ伯邸を訪れて、応接間で彼女と向かい合うことと相成っていた。
――パルドーラ伯邸の応接間は綺麗だった。
貴族の屋敷なのだからどこもそうなんだろうが、広々として、応接用のテーブルとソファがどんと置かれていて、大きな窓から燦々と陽が差し込んでいる。
奥の壁には、見せるためのものなのか実用のものなのか、大きな本棚が据え付けられて、びっしりと本が並んでいる。
ランプひとつにすら拘った優雅さを感じる部屋だった。
テーブルの上のランプは、青い硝子に世双珠が嵌め込まれた芸術品で、今は陽光に透明な影を落としている。
普通、賓客の訪問であったとしても、当主が自ら客を応接するとなれば、護衛の騎士がつくものだ。
それが、トゥイーディアの傍には一人もいなかった。
だが、よく考えればそれも当然で、トゥイーディアは大魔術師だ。
護衛の必要がないからこそ、あっさり人払いして気楽に構えていられるのだ。
俺が勧められるがままにソファに座ってすぐ、華奢なワゴンを押した侍女さんが一人部屋に入って来て、殆ど音も立てない優雅な仕草でお茶の支度を整えてくれた。
表情すらも固定された微笑だったので、俺はちょっと彼女が怖かった。
トゥイーディアは、侍女さんが出て行くまで口を開くのを待っていた。
今日の彼女は翡翠色のドレスを着ていて、いつも庭園で会うときよりもきっちりと髪を纏めている。
そして飴色の目に、結構あけすけな怪訝が浮かんでいた。
――それもそのはずで、この訪問、トゥイーディアの側からすれば意図が全く不明なのだ。
レイモンドは俺の後ろ、ちょっと距離を開けたところに立っていたが、本気で居心地が悪そうだった。
あと、ここに来るまでの馬車の中でもそうだったが、かなり気を揉んでいる。
侍女さんが出て行ったあと、トゥイーディアは周囲に耳を澄ますように首を傾げてから、なぜか、何かを確かめるように胸元――ドレスのかくしの辺りに触れた。
それから、にこっと外交用の笑顔を浮かべて俺を見た。
「――大使さま、お忙しいところ、当家をお訪ねいただけるなんて光栄ですわ」
俺は言葉に詰まった。
さすがに、敬語も挨拶も恙なくこなせるようになっている俺ではあるが、後ろにレイモンドがいるこの状況、どういう口調で話せばいいのか分からない。
トゥイーディアは困惑しているようだった。
そりゃそうだろう。
已む無く俺は、若干の身振り手振りで、「そっちの家の人は、誰かこの遣り取りを聞いてる?」と尋ねることとした。
トゥイーディアはますます戸惑ったように睫毛を瞬かせたが、俺の意図は正確に汲んでくれたとみえ、小さく首を振った。
俺は息を吐き、ちょっとだけレイモンドを振り返った。
レイモンドはそっぽを向いていた。
そんなに居心地が悪いなら同行なんてしなきゃ良かったのに、チャールズ辺りが一緒に来ようものなら、俺が変に緊張してしまうと思ってくれたらしい。
トゥイーディアは当惑の表情。
「あの」と、若干いつもの庭園での口調に近い声で言って、首を傾げた。
「――どういったご用向きで……?」
俺はトゥイーディアに向き直って、しばらく考えてから、レイモンドの卒倒も已む無しと考えた。
どちらにせよ、情に訴えるというならばいつもの口調じゃないと出来ないし。
斯くして俺はテーブルの上を指差して、その上に整えられたお茶の支度のうち、小皿に盛られた焼き菓子を示して言った。
「――おまえが焼いたの?」
トゥイーディアの表情が凍り付いた。
同時に後ろで、「えっ」と声が上がった。
俺が年上の伯爵さまを「おまえ」呼ばわりしているとは、さしものレイモンドも予想していなかったらしい。
そしてトゥイーディアも絶句。
申し訳ないんだけど可愛い。
唖然とした顔でぴくりとも動かず、この事態をどうやって誤魔化そうかと考えている表情。
結果、トゥイーディアは穏便にも、今の俺の発言をなかったこととして取り扱うことにしたらしい。
にこりと機械のように微笑んで、見事に俺の言葉を無視して言った。
「――大使さま、どういったご用向きで?」
飴色の双眸が、「きみは何を考えているんですか」と言っている。
俺は無意味に首筋を掻いてから、後ろのレイモンドを指差した。
「……いやあの、ごめん。あの人が俺の兄貴で――」
ちらっとレイモンドを振り返ると、レイモンドがびっくりしたように俺を見たあと、ほんの一瞬、嬉しそうに微笑んだ。
何をそんなに嬉しそうにしたんだろう、と俺は刹那考えて、すぐに気付いた。
――俺がレイモンドのいるところで、レイモンドのことを兄貴だと言ったのは初めてだった。
「――こないだ、俺がたまにおまえに会ってるの、ばれちゃって……」
トゥイーディアが息を止めたのがありありと分かった。
その瞳に浮かんだ表情を読み取って、俺は小声で、「どこで会ってたのかはばれてないよ」と。
――あの庭園は、トゥイーディアにとっては大事な場所だ。
他人においそれと存在が知られることすら嫌だろう。
トゥイーディアは安堵の色を微かに浮かべ、そしてすぐに、合点した様子で呟いた。
「……ああ、あのときですね。大丈夫じゃなかったんじゃないですか。
それで――本日は口止めか何かでしょうか」
“ハルティの大使”が“パルドーラ伯爵”を訪れる理由には皆目見当がつかないが、“ただのルドベキア”が“ただのトゥイーディア”を訪れる理由ならば心当たりがあるというわけだ。
俺は「違うよ」と首を振ったあと、レイモンドを振り返って尋ねた。
「レイ、こっち来てお菓子食べる?」
「なにを言ってるんですかあなたは」
レイモンドが即答し、俺は肩を竦めた。
それからトゥイーディアに向き直って、意外そうに目を瞠っている彼女に、もういちど尋ねた。
「これ、おまえが焼いたの?」
トゥイーディアは躊躇ったように瞬きし、レイモンドをいちど窺ってから、小さく息を吐いて呟いた。
「――いいえ。当家の料理人が焼いたものですから、味は折り紙付きですよ」
「なんだ」
俺は結構本気でがっかりしたものの、まあ分かっていたことでもあった。
このところ忙しいトゥイーディアに、菓子作りの暇なんてあるわけないしね。
俺はまた振り返って、レイモンドに言った。
「レイ、ほんとに、俺の分あげる」
レイモンドは嫌そうな顔をした。
「分かりました、後でいただきますから。ですからルドベキア、しばらく私のことは無視しておいてください」
不承不承頷いて、俺はトゥイーディアに向き直った。
トゥイーディアは品よく紅茶に口を付けていて、笑いを誤魔化そうとしているのが見え見えだった。
俺が彼女に向き直ると、トゥイーディアもかちりとカップを受け皿に戻して、苦笑しつつも首を傾げる。
「――少し調子が狂いますね。ルドベキア、普段通りの態度でよろしいのでしたら、変に遠回しなことをするのも面倒ですし、単刀直入に言っていただきたいのですけれど」
飴色の双眸で俺を見て、トゥイーディアは言った。
「今日はどういうご用向きです?」
俺は息を吸い込んだ。
「――あー」
言い訳は既に用意してあって、それはレイモンドからもチャールズからも、みんなから口を揃えて念を押されているところではあったが、いざ口に出すとなると勇気が要る。
俺は時間稼ぎのために紅茶に口を付けて、思ったよりもそれが苦かったので顔を顰めた。
そして俺のその表情を見たトゥイーディアが、なんだかちょっと悲しそうな顔をしたので死にたくなった。
かち、とカップを受け皿に戻し、俺はもういちど息を吸い込んだ。
「えっと、実は――」
言葉に詰まりつつ、俺は息を詰めて、何かの合図を待った。
だがよく考えると、「今だ、言え」なんていう合図が送られてくるはずもなかった。
俺は深呼吸を何度か繰り返して、自分自身にその合図を送ることにした。
レイモンドもトゥイーディアも、極めて忍耐強く俺の言葉を待ってくれていた。
ぐっ、と拳を握って、俺はトゥイーディアの目を見て、言った。
緊張の余り、頭に血が昇る感覚があった。
「――俺たちも、ヴェルローのことはあんまり無碍に出来なくて……」
喉が干上がる感覚に襲われつつ、俺はなんとか言葉を繋いだ。
「……この国に、カロックと条約を結ばれると困るというか――」
――そこまで言ったとき、妙な感覚があった。
視線だ。
見られているという感覚。
俺は思わず周囲を見回した。
奇妙なことに、トゥイーディアも全く同じ仕草をしていた。
それからトゥイーディアは更に、人差し指でとんとんとテーブルを叩く。
トゥイーディアの魔力が、テーブルを基点として周囲に伝播して拡がっていくのが見えた。
トゥイーディアはしばし首を傾げたあと、「誰もいませんねぇ」と呟き、俺と目を合わせた。
俺はレイモンドを振り返ったが、レイモンドは唐突な俺たちの挙動に、怪訝そうにしているだけだった。
――なんだろう、これ。
思い当たる節が一つだけあったが、それはこの場で言えることではなかった。
俺は息を吸い込んで、俺がいちばん呼び慣れている名前を喉の奥へ押し戻し、トゥイーディアに視線を向けた。
トゥイーディアも、この奇妙な感覚を、恐らくは気のせいだと思って処理したようだった。
瞬きして、俺を見て、微笑んだ。
自分の功績を潰そうとしている人間に対するにしては、穏やかに過ぎる微笑だった。
「――そうですか」
俺は拍子抜けして瞬きを繰り返したが、トゥイーディアは如何にも何かを考え込んでいるという風に顎に指を当て、それからにこっと笑った。
あの柔らかい微笑ではなかった。
パルドーラ伯爵としての笑顔だった。
「それにしては、おかしなことも多いようですけれど。
先般の会議での大使さまの振る舞いですとか……」
俺はうっと言葉に詰まったが、トゥイーディアは小さく息を吐いて、気の毒そうに俺を見た。
なんとなく、決まり悪そうですらあった。
「――まぁそれは、大使さまがああいった場に慣れていらっしゃらなくて、妙にお優しいことを思えば説明はつきますが」
そう言って、トゥイーディアは肩を竦めた。
「ですが、どちらにせよ、わたくしに出来ることは何もございません」
はっきりとそう告げて、トゥイーディアは少しだけ身を乗り出し、「内緒ですよ」と念を押してから囁いた。
「……実をいうと、陛下も条約の批准にご賛成なさったんです。まあ、その、決定ですね」
「え?」
咄嗟に意味を取りかねた俺は思わず唖然と声を漏らし、トゥイーディアはそんな俺を、何とも言えない眼差しで見詰めながら言葉を続けた。
「まだ、皆さまに広く知らしめるところではないので、胸の内ひとつに仕舞っておいてくださいね。
――これから、条約の調印式の日程調整に入ります。以前はわたくしが帝国まで伺いましたので、今回は皇太子殿下がこの国にいらっしゃることになると思いますけれど。
調印式の日取りが決まれば、広くこれを知らしめる段取りですの」
俺は間抜け面を晒していた。
――え? え? いつの間に?
思わずレイモンドを振り返る。
レイモンドも茫然としていた。
どうやら使節団の情報網を以てしても、この情報はまだ拾えていなかったらしい。
トゥイーディアは困ったように微笑んで、紅茶をまたひとくち飲んでから、
「恐らく、調印式は冬ごろになるとは存じますが」
と、追加の情報をくれた。
――ああ、まだ半年以上は猶予があるんだな、と、俺は妙に冷静に考えてから、もう一回レイモンドを振り返った。
レイモンドは素早く驚愕を表情の下に隠して、俺に目で「言え」と合図していた。
ぐ、と息を呑んでから、俺はトゥイーディアに向き直る。
トゥイーディアは申し訳なさそうにしていた。
俺はもっと申し訳ない気持ちでそれを見て、あらん限りの勇気を掻き集めて、押し出すように言った。
――これを言ったら、まず間違いなく俺はトゥイーディアに嫌われるだろう。
でも、トゥイーディアが死ぬよりはいい。
ヘリアンサスも殺したくない、トゥイーディアも死なせたくない、俺も〝えらいひとたち〟のことを言えないくらいに矛盾だらけだ。
でも、そうだ。
俺が望む人の世界の寿命は、トゥイーディアの寿命より一瞬長い、それだけの時間だ。
そしてこの条約の批准は、それに伴って起きるだろう魔法の変革は、下手をすると人の世界の寿命を、トゥイーディアの寿命以下に縮めてしまうものだ。
だから言った。
「――もし、条約が締結されるなら……俺たちも、ヴェルローを無碍には出来ないから――」
首を傾げるトゥイーディアの飴色の双眸を見て、俺は言葉を完結させた。
「――レンリティスへの世双珠の輸出は、今よりずっと減ると思う」
言い切って、俺は息を吸い込んだ。
そして、さしものトゥイーディアも怒り出すことを予想して、その息を止め――
「そうですか」
と、トゥイーディアは極めて穏やかに微笑んだ。
俺は面食らって瞬きした。
そんな俺をむしろ不思議そうに見て、トゥイーディアは両の掌を丁寧に合わせて、にこやかに言った。
「どのみち、世双珠の減産の理由は分かっていらっしゃらないんでしょう?」
「――――」
俺は言葉を失った。
ここへきて、先に自分たちで打った手に道を阻まれた。
「世双珠がいつか尽きてしまうものならば、それに拠らない生活の方法を考えねばなりませんから」
トゥイーディアは瞬きして、不思議そうに俺を見ていた。
当然だ。
彼女はそもそも、俺たちが吐き続けてきた欺瞞を知らない。
「そもそもがそのための条約でもあります。世双珠をわたくしどもに回せなくなるというならば結構。
去り行く恵みに取り縋るようでは、この先に時代は作られません。
――陛下もそう仰るでしょう。世双珠から離れねばならないと、陛下もそう仰って条約の批准を決意なされました」
あっさりとそう言って、トゥイーディアは立ち上がった。
俺も、反射的に立ち上がった。
トゥイーディアは幾許か怪訝そうに俺を見詰め、それからレイモンドを見詰め、礼儀正しく頭を下げた。
「――数多の国の根幹を支えるお取引をなさっていらっしゃるのですから、ご苦労も多いことかと拝察いたします。
どうぞ最も良いお取引を。わたくしどもも同様に」
顔を上げて、トゥイーディアは首を傾げた。
「お話はこれだけでしょうか」
「――――」
俺は頷いた。
もうこれ以上、俺たちは言い訳も言い分も用意してはいなかった。
トゥイーディアは微笑んで、「お帰りですね」と。
その一言が、「もう帰れ」という言葉と同義であるということくらい、俺にも分かった。
トゥイーディアがさっさと応接間の扉を開け、そこに頭を下げたまま控えていた使用人さんに、幾分か冷たく、「お帰りよ」と声を掛けるのが聞こえた。
俺はソファの前に立ち上がったまま、身動きも出来なかった。
トゥイーディアは振り返り、そんな俺を見て、少しばかりびっくりしたようだった。
――それはそうだろう。
彼女の主観でいえば、ここで俺が衝撃を受けることは何もないのだ。
ハルティはヴェルローに阿る。
ゆえにカロックとレンリティスの条約締結に反対しており、これをレンリティスが強行するならば、世双珠の輸出を完全に打ち切る。
――それだけだと、トゥイーディアは思っている。
俺たちがそう思わせた。
虚偽で糊塗した壁の絵を、トゥイーディアは正しく解釈している。
無理もない――誰だってそうなる――だって、魔法こそが害であり、魔力こそが毒だなんて、そんなことは誰も考えるはずがない。
トゥイーディアが、レイモンドをちらりと見た。
そして、気を利かせた様子で申し出た。
「――馬車の準備が整うまで、こちらのお部屋でお待ちを」
わざわざそう言ったということは、トゥイーディアはもしかしたら、馬車の準備をわざとゆっくりさせて、俺が落ち着く時間を稼いでくれるつもりだったのかも知れない。
だが、俺と同じく茫然自失といった様子だったレイモンドが、はっと我に返った様子で、「僭越ながら」と呟いた。
「――私は先に馬車に。大使にはこちらの部屋でお待ちいただくお許しを」
トゥイーディアは怪訝そうに眉を寄せた。
――通常、従者だけが先に部屋を出て待つことは珍しくないが、俺がレイモンドのことを兄貴だと言ったから、どうしてわざわざ離れるのか分からなかったのだろう。
とはいえ、レイモンドは頭を下げて、さっさと部屋を出て行ってしまった。
さっき、焼き菓子も後でもらうと言っていたのに、一欠片も口にしていないままだ。
これには俺も輪を掛けて唖然とする。
――え? あれ? これってもしかして、「パルドーラ邸を訪うに当たって、お供にレイモンドを選んでおけば、しれっと席を外してくれる」とか言っていた、あれ?
今? 今になってあのときの言葉を有言実行するの?
むしろ気まずい……。
俺は思わず片手で顔を覆ったが、しばしきょとんとしたトゥイーディアが、扉を開けたままにして、すすすと俺の方に寄って来たので顔を上げた。
「――トゥイーディ?」
首を傾げて呼ぶと、トゥイーディアは慌てた様子で唇に指を当て、「しーっ」と。
「扉を開けていますから、外に聞こえるかも知れません」
と、真面目腐った小声で言うものだから、俺は瞬きして眉を寄せた。
「……閉めりゃいいじゃん」
「駄目ですよ」
と、トゥイーディアは「なに言ってんだこいつ」と言わんばかりの目を俺に向けて、責めるような顔をした。
「男女二人で密室に籠もるほど不埒なことがありますか」
「――――」
俺は絶句。
いや、トゥイーディアが正しいんだけど、これまで割と近い距離に来てくれていたもので、急にそういう一線を引かれてびっくりしたのだ。
だが、まあ、考えてみれば当然だった。
ここは無人の庭園ではなくて、トゥイーディアの邸宅だ。
そしてここに勤めている使用人を、トゥイーディアは信用していないのだ。
トゥイーディアはちらちらと廊下の方を気にしつつ、ドレスのかくしから懐中時計を引っ張り出した。
いつも使っている、銀色の小振りなものではなかった。
懐中時計を手にしたまま、トゥイーディアは俺の傍に寄って来て、つい、と俺にそれを差し出した。
「…………?」
面食らった俺が瞬きし、懐中時計を見て、トゥイーディアの顔を見て、また懐中時計を見た。
そうして尋ねた。
「――なに?」
「あの、これ」
と、トゥイーディアは廊下の方を盛んに気にしつつ、まるで法に触れる薬物の取引であるかのように、こっそりと声を低めて言った。
俺も釣られて廊下の方を見たが、そこに使用人さんの姿はなく、廊下の壁に掛けてある風景画が見えるだけだった。
トゥイーディアに目を戻して、俺はきょとん。
「うん、それ?」
「以前、時計を持っていらっしゃらないと仰っていたので……」
と、トゥイーディアはいっそうの小声。
「あのときお手許になかったという意味かも知れないと思いはしたのですけれど、別に、幾つあっても困るものではないでしょうし。
包装も何もせず申し訳ないのですけれど、周囲に妙に思われるかも知れなかったので」
そこまで言われて初めて、俺はトゥイーディアが、その懐中時計を俺に贈ろうとしているのだと気付いた。
「えっ」
素の声を出すと、トゥイーディアはまた警戒するように廊下を見遣った。
そして人の気配がないことに安堵の息を漏らすと、眦を下げて俺を見て、首を傾げた。
蜂蜜色の額髪が揺れる。
睫毛が瞳に翳を落とす。
「――お気に召さないなら……」
そのまま、しおしおとトゥイーディアが懐中時計を引っ込めようとしてしまったので、俺は慌ててそれを引き留めた。
咄嗟に、懐中時計を両手で包むように持っているトゥイーディアの両手を、俺が両手で包むように握ってしまったので、その一瞬に二人して、電撃に打たれたように固まってしまった。
先に気を取り直したのは俺で、さっとトゥイーディアの手から掌を離すと、俺は我ながら白々しいまでにさり気ない声で言っていた。
「――気に入るも何も、まだ見てないよ」
「そっ――そうですね」
トゥイーディアもはっと我に返ったようにそう言って、若干俯いた。
「――本当は、あのお庭でお渡しするつもりだったのですけれど」
言い訳のような口調で呟いて、トゥイーディアは窺うように俺を見た。
「次にいつお会い出来るか分からないでしょう。なので、機会があればお渡ししようかと思って、持っていたんです。
――結果的には、正解でした」
ひとつ頷いて、トゥイーディアは少しばかり元気のない口調で続けた。
「……色々と気を遣ってお話ししてくださったようですけれど、――今後、気まずいようであれば、あのお庭に来ていただく必要はありません」
俺は息を止めた。
――『ときどきここに来て、私とお喋りしてください』と、トゥイーディアから言ったのに。
「……もうあそこで会いたくないってこと?」
俺が力の抜けた声で呟くと、トゥイーディアが目を見開いて顔を上げた。
そして、やや慌てた様子で首を振った。
「いいえ、いいえっ。きみの方が気まずい思いをなさるんじゃないかと――」
こと、と首を傾げて、トゥイーディアは遠慮がちに言った。
「きみは優しくて、真面目な方ですから」
どうやら俺に会いたくないわけではないらしい。
そう分かって、俺は深々と息を吐いた。
それからようやく、トゥイーディアの手の中にある懐中時計に、ちゃんと目を向けた。
それが分かったのか、トゥイーディアがおずおずと俺にそれを手渡してきた。
しゃら、と細い金鎖が鳴った。
受け取ってみると、懐中時計はずしりと重い。
別に重過ぎるわけではなかったが、見た目に比しての重みがあった。
その懐中時計はやや大ぶりの造りで、磨き抜かれた金色に輝いていた。
蓋には繊細な蔦模様の彫刻。
ぱちりと蓋を開けてみれば、白い文字盤はまるで真珠を貼り付けたかのような幻想的な光沢を放ち、中央だけが玻璃になっていて、奥の歯車が見えていた。
時字の飾り文字には小粒の青玉が埋め込まれて煌めき、針は剣を模している。
開けた蓋の裏に目を遣れば、そこに飾り文字が彫られているのが見えた。
流麗な飾り文字で、『親愛なる大使さまへ』と書いてある。
――親愛なる……
俺は思わずぐっと唇を噛み、ありとあらゆる点で美しいその一品から顔を上げた。
トゥイーディアは緊張した面持ちで俺を見ていて、俺が何を言うよりも先に、機先を制するようにして口を開いた。
少しだけ早口になっていた。
「特注ではないのですけれど、文字は注文して彫ってもらったんです。口の堅い時計屋を選びましたから大丈夫ですよ。
少し派手かなとも思ったんですけれど、時字の宝石が綺麗でしょう。ルドベキアの目と同じ色だったのでつい」
ここまで言って、トゥイーディアははっとしたように廊下に目を遣る。
人はいない。
ふう、と彼女は安堵の息を漏らした。
俺は時計を手に持ったまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。
――俺が時計を持っていないと言ったから、トゥイーディアは忙しい中わざわざ時計屋まで足を向けたのだ。
そこで俺のために時計を選んで、彫る文字を指定したのだ。
『親愛なる』という言葉を指定したのだ。
こんなの……こんなの……
……ときめかないわけないじゃないか。
泣きそうになってきた。
自惚れてしまいそうだった。
めちゃくちゃ嬉しかった。
にも関わらず、物凄くつらかった。
今の状況を思って、その状況の中にいる目の前の人を思って、異様なまでに胸が痛んだ。
俺の顔が、無意識に歪んだ。
それを見て、トゥイーディアがぎょっとした表情を浮かべる。
「――あの、ルドベキア?
お気に召さないなら、無理に受け取っていただかなくても……」
言い差して、手を伸ばして懐中時計を引き取ろうとするトゥイーディア。
俺はそこから手を引っ込めて、首を振った。
「いや……」
声が掠れたので、俺は小さく咳払いした。
「……嬉しい。ありがとう。頼まれても返さない」
トゥイーディアが、安心したように微笑んだ。
俺は受け取ったばかりの懐中時計の蓋をぱちりと慎重に閉じて、丁寧にそれを懐に仕舞い込んだ。
トゥイーディアは嬉しそうに笑窪を浮かべて、しかし数秒後、すっと表情を入れ替えた。
そして、礼儀正しく頭を下げて、言った。
「――大使さま、そろそろ馬車の支度も出来るかと。家の者に送らせます。
どうぞお気を付けてお帰りください」
帰りの馬車の中、当然ながら俺とレイモンドは押し黙っていた。
レイモンドからすれば、トゥイーディアの反応は予想の斜め上だったに違いない。
しかも、最悪の方向に振り切った斜め上だ。
レイモンドはしばらく額を押さえて、病人のように呻いていた。
俺は概ねその気持ちに同意して、窓際に頬杖を突いていた。
ところがしばらくして、レイモンドがふと尋ねてきた。
「――ルドベキア、閣下と何かお話ししました?」
俺は頬杖から顎を浮かせて、レイモンドの方を振り返った。
がたごとと馬車が揺れる。
「……別に、何も本当のことは言ってないよ」
レイモンドは面食らったように瞬きして、それから軽く笑った。
「ああ、いえ、違いますよ。そういう意味ではなくて。――弟の恋路を心配しているんです」
「それ、心配したら駄目だろ……」
当事者ながらも呆れて言って、俺は頬杖を突き直した。
窓の外を庭園の景色が流れて行くのを目で追う。
そうしながら、俺はぼそっと呟いた。
「――俺さ、このあいだ、あいつに、俺が時計持ってないって話をしたんだよ」
「持っていませんでしたっけ」
レイモンドは、俺の唐突な話題にびっくりした様子だったが、そう返してくれた。
俺は小さく頷いたあと、小声になって呟いた。
「……そしたら今日、あいつが懐中時計をくれた」
「は!?」
レイモンドが絶句し、それからぐっと身を乗り出してきた。
「――高価なものですか?」
「え、どうだろ、分からない」
素直にそう言って、俺は姿勢を正すと、懐から懐中時計を引っ張り出した。
レイモンドは口許に手を遣ってそれをまじまじと観察したが、俺が他人にこの時計に触れられるのは嫌だと思っていることを正確に察してくれたのか、手を触れようとはしなかった。
手を触れないままに、レイモンドは「蓋を開けてみてください」と。
言われるがままにぱちんと蓋を開けてみせると、レイモンドは極めて真顔で俺を見てきた。
「――ルドベキア、これは、恐らくかなり値の張るものです」
「あいつ、自分で本を出した稼ぎから買ったんだな」
俺は思わず、考えたことをするっと口に出してしまった。
「絶対、こういうのを伯爵家の財産から出したりしないよ。そういう人だもん」
「いや違う、違います、そこじゃない」
レイモンドが手で俺を制しながらそう言って、至って真面目に言い出した。
「ルドベキア。これは――どう客観的に見ても、脈があります」
俺は思わず笑い出した。
笑いながら、懐中時計を後生大事に懐に仕舞い込んだ。
「違う違う。レイはあいつを知らないから」
うん、この懐中時計を貰った一瞬は、俺も自惚れたけどね。
「あいつ、こないだ変なこと言い出して――」
切なくなってきたので、俺は窓の外に顔を向けた。
午後の陽光が、穏やかに庭園を照らしている。
庭園では、そろそろ薔薇が開き始めていた。
――人の世界の後には、花の世界も駄目になっていくんだろうな、と、俺はそんなことを頭の片隅でちらりと思う。
「――俺、別にあいつに何もしてないんだけど、お礼をしないといけないとか、そういう変なこと。
だから買ってくれたんじゃないかな」
「ルドベキア、あのね」
レイモンドの声が余りにも真剣だったので、俺はそっちを振り返った。
レイモンドは神妙な顔をしていた。
「限度があります。お礼で買うような水準のものではありません」
俺は瞬きした。
「いや、トゥイーディアは伯爵さまだから」
「関係ありません」
と、いやに真剣にレイモンドは言葉を重ねた。
「確かに、財力は贈り物の内容に響きますが、だからこそ、良識のある方は上限を守ります。パルドーラ閣下ならなおのことそうです。
前も言いましたが――あの方は――悪意のある誤解をされがちな方です。妙な誤解は招かないよう、贈り物ひとつ取っても徹底するはずの方ですよ」
さああっと窓の外が曇った。
どうやら太陽が雲の影に隠れたようだった。
同時に、俺は唖然としてレイモンドを見て、阿呆面を晒して呟いていた。
「――え、そんなに?」
レイモンドは眉を寄せた。
「何がです?」
「そんなに高価なもの?」
俺は思わず、座席から腰を浮かせ、ちょうどそのときに馬車が大きく揺れたもので、危うく顔面から転びそうになった。
俺は咄嗟に懐の時計を守りつつ、若干蒼褪めた。
「……ふたつ返事で貰っちゃったんだけど。もしかして遠慮した方が良かった?」
レイモンドはなぜか、目頭を指で押さえた。そして言った。
「ルドベキア、成長しましたね……。お金ってなに、と言い放っていたときとは別人です」
「真面目に聞けって!」
と、俺は悲鳴。
「どうしよう、普通に受け取っちゃった――今ごろトゥイーディアが、俺が遠慮を知らない馬鹿だって気付いてたらどうしたらいい?」
「落ち着いてください、大丈夫ですから」
レイモンドは、若干呆れたように言って、俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「あなたのために買われたものですよ。彫刻もあったじゃないですか。
むしろ受け取っていなかったら、閣下は今ごろ、ひどく落ち込まれていたと思いますよ」
「――ほんと?」
縋る気持ちでレイモンドを見上げれば、レイモンドが確信を持って頷き、太鼓判を押してくれる。
俺はほうっと息を吐き、座席の背凭れに体重を掛けた。
「助かった――」
いや、俺がトゥイーディアにどう思われるかよりも、目下に迫った危機の方が重大事だってことは分かってんだけど。
でも、トゥイーディアに変な風に思われていたらと考えるだけで、胸の辺りが苦しくなるのだから仕方がない。
レイモンドはそんな俺をじっと見て、不意に真顔で言い出した。
「――ルドベキア、本腰を入れて閣下を口説いてみませんか?」
「ぶっ」
思わず呼吸に咽た俺の背中を叩いてくれつつ、レイモンドは真面目に言葉を続ける。
「見たところ脈はありそうですし、攫って逃げてしまうとかどうです?」
「は――はあ?」
兄貴の頭の具合を心配して、俺は恐る恐るレイモンドの肩を揺らした。
「なに言ってんの?」
「いいと思いますけどねえ」
冗談の欠片もなくそう言って、レイモンドは向こう側の窓際で頬杖を突いて、窓の外を見た。
俺からは彼の横顔が見えるだけになる。
「あなたはこんなお役目から逃げ出して、古老長さまからも逃げ出して、好きな人と一緒にいられますし。
女伯閣下がいなくなれば、条約の話も少し変わってくるかも知れませんし――いや、さすがにそれはないか」
はあ、と大きく息を吐いて、レイモンドは呟いた。
「――国王が是と言ったなら、もう本当に決定なんでしょうね。……でもまぁ、女伯閣下がいなくなれば、大魔術師三人が手を組む事態は避けられますしね。まあ、三人も二人も変わらないかも知れませんが。
――どうです?」
くる、とこっちを振り向いて微笑んだレイモンドに、俺は絶句した。
「……――どうです、も何も……」
目を擦って、俺は呟いた。
「――トゥイーディアはそんなの嫌がるし……」
責任を放り出すことを了承する彼女ではあるまい。
条約のことは置いておくにせよ、彼女には、現在三歳――いや、もう四歳か――の甥っ子に、家督を譲るという使命がある。
それまでは何としてでも、伯爵家を存続させようとするはずだ。
トゥイーディアが出奔してしまえば、パルドーラ伯爵を名乗ることが出来る人はいなくなる。
「――逃げたら、俺はヘリアンサスのところに戻れないし……」
あいつが俺を覚えているかどうかはさておいても、ヘリアンサスは俺の唯一の命綱だ。
思い出してもらわねば困る。
「――第一、そんなことしたら、俺が〝えらいひとたち〟に殺される……」
「だから、古老長さまからも逃げてしまいなさいと」
レイモンドが真顔でそんなことを言うので、俺は笑ってしまった。
さっきとは違う、妙に乾いて、歪で、狂気的な笑いだと自分でも思った。
「――無理だよ、なに言ってるんだ」
窓の外を見て、俺はきっぱりと言った。
これが俺の中での、動かない、揺るがない事実だった。
――そのように調教されてきた。
「〝えらいひとたち〟に逆らったらいけないんだ」
――ずっとずっと後の人生において、俺は象という生き物を知る。
とにかく大きくて力の強い生き物で、皮膚は堅くてちょっとやそっとじゃ傷付かない。
だが、そんな象も、ごく普通の鎖一本で拘束することが出来てしまう。
方法は簡単。
象が小さいとき、その力では逃げられない足枷を着けておくだけでいい。
象は大きくなったあとも、自分がその足枷の鎖を破壊できるということを知らないまま、幼い頃に刷り込まれた諦めを持って、そもそも足枷から逃げ出すという選択肢を失ったまま生きていく。
このときの俺がそれだった。




