54◆――今はただ
俺はふらふら庭園を歩いて、宮殿に戻るでもなくうろうろしていたが、小一時間でチャールズに捕まった。
チャールズは――庭園とて無人ではないので――めちゃめちゃさり気ない様子でそぞろ歩いていたが、俺を遠目に発見するなり駆け寄って来たところをみると、どうやら俺を捜していたらしい。
駆け寄って来るなり、血走った目で俺を上から下まで点検して、
「どこ行ってたんだ、ばかっ!」
と叫んだ。
怒鳴られるとは心外である。
俺は眉を顰めたが、チャールズは立て続けに荒らげた言葉を並べ立てた。
「朝まで戻って来ないとか何考えてんだ! どこで寝てたの!? ちゃんと寝たのか!?
誰にも何にもされてないな!? 雨ざらしじゃねえか、風邪引いたらどうすんの!
レイモンドが発狂してるぞ!」
俺はきょとんとして瞬きした。
声を荒らげられていることへの恐怖も、このときはあんまり感じなかった。
他人のことを言えないくらいに雨に濡れたチャールズは、そんな俺の腕をぐいっと掴み――ぴたっと動きを止めて固まった。
「……大使さま、手に持ってるそれ、なに?」
愕然とした様子でチャールズが呟き、すうっと視線を上げて俺を見て、驚愕そのものの声で囁いた。
「……――大使さま、女いたの?」
俺は意味が分からず首を傾げた。
俺のその様子を見て、チャールズはまた何か言おうとして口を開き、しかし思い直した様子で口を閉じ、首を振った。
「――いや、いい、怖いわ、答えなくていい」
気を取り直したらしきチャールズが、今度こそちゃんと俺の腕を掴んで、引っ張った。
そのまま歩き始めつつ、チャールズは懇々と。
「大使さま、全部聞いたんだって? びっくりするのは分かるけどさ、逃げ出すなよ。夜通し大使さまを捜した俺たちの身にもなって。上の方々も結構真面目にびびってたぞ」
引っ張られるままに歩きながらも、俺はぼんやりと、申し訳ないことをしたなとは思った。
とはいえあんまり心は動かなかった。
――“びっくり”って。そんな次元じゃない。
チャールズは俺を引っ張って宮殿に戻り、随所で出会う使節団の若手に、俺を捕獲したことをアピールしていた。
使節団のみんなはそれぞれ安堵の色を浮かべ、仲間同士で労い合っている様子。
誰かが、「レイモンドに報せないと、あいつマジで死にそうになってるから」と言っているのが聞こえた。
使節団の若手の間で、素早く「大使確保」の報は回ったらしい。
俺がチャールズに引っ張られて宮殿の階段を昇っているうちに、息せき切ったパトリシアが後ろから追い着いて来て、「大丈夫です?」と俺を窺ってきた。
どう返答していいものか分からなかったので、俺は黙っていた。
パトリシアはチャールズと同じく、俺が手に持っているものを見て怪訝そうにしたが、問い詰めるのはやめておいてくれた。
助かった。
頭が回らなさ過ぎて、あっさり、「これはパルドーラ伯爵の」とか抜かしてしまいかねなかった。
チャールズは俺を部屋に入れて、とにかくここから動かないように厳命した。
「何か食った? 食ってねえ顔だな。何か持って来るから、ここから出るなよ。
そのあと風呂だ。でもまあ、服も濡れてるし着替えてろ」
と、だいぶ早口で言われて、俺はやっぱりきょとんとしていた。
――なんか、昨日までも余りにも変わらない対応すぎて、こっちの方が困惑してしまう。
チャールズは、言うだけ言って足早に部屋を出て行き、俺は部屋に一人で残された。
トゥイーディアから預かった(というか、俺が勝手に持って来た)傘とハンカチと時計を、並べてテーブルの上に置く。
傘に付着していた雨粒が、テーブルに落ちて煌めいた。
そのまま、着替えるでもなく長椅子に腰掛けてぼんやりし、ハンカチのレースの輪郭を目でなぞったりしていると、唐突にばんっと扉が開いた。
「――――?」
視線をそっちに向けると、そこには息を荒らげたレイモンド。
レイモンドも雨に濡れていて、彼は俺を見るなり両手で顔を拭うと、「良かった……」と呟いた。
腹の底から溢れたみたいな声だった。
俺がきょとんとしているうちに、レイモンドは扉を閉めて、すたすたと俺に近付いて来た。
そのままぎゅうっと抱き締められて、俺はふと、リーティに初めて来たときに迷子になったときのことを思い出した。
レイモンドの仕草はあのときと変わらなかった。
彼の衣服から雨の匂いがした。
「ルドベキア、本当に、」
俺を離して、俺の目の前に膝を突いて俺と視線を合わせて、レイモンドが言った。
彼がちょっと涙ぐんでいるのを見て、俺は若干たじろいだ。
「驚かせないでください。いつまで経ってもあなたが戻って来ないので、私たちは大いに気を揉みました。王宮から出たんじゃないかと……」
そこまで言って、レイモンドは片手で目許をぎゅっと押さえ、すぐに手を下ろして顔を上げると、もういちど俺と視線を合わせた。
「どこにいたんですか。ちゃんと眠れ……」
そこまで言って、不意に、レイモンドの視線が磁石か何かで引かれたようにテーブルの上に移った。
そして、彼の緑の双眸が見開かれた。
ひゅんっと風を切る勢いで俺に視線を戻すと、レイモンドは唖然とした表情で。
「――まさかパルドーラ伯のお屋敷に行っていたとか言いませんよね?」
俺は顔を顰めて、呟いた。
「……行ってない」
レイモンドはなおもまじまじと俺を見た。
「でも、これ、どなたのです?」
「トゥイーディア」
素直極まりなく答えた俺に、レイモンドはますます目を見開く。
「――すみません、話が見えないのですけど、パルドーラ伯のお宅には、伺っていない?」
確認するようにもう一回訊かれて、俺は顔を顰めて頭を振った。
「行ってない。――偶然トゥイーディアに会って、あいつが貸してくれただけ」
「なるほど」
全然納得していない顔だったが、レイモンドはそう呟いて頷いた。
それから俺の肩に手を置いて、ちょっと顔を顰めた。
「――ルドベキア、着替えは」
「いい」
言下に言い放った俺を見て息を吐いて、レイモンドは両手で顔を押さえた。
そして、押し殺した声で呟いた。
「……話を聞いて、あなたが度外れた衝撃を受けていることはよく分かりました」
「度外れた?」
思わず俺は復唱して、今日はじめて自分からレイモンドの目を見た。
「逆だろ、そっちがおかしい」
レイモンドが驚いたような顔をした。
それからちょっと俺から視線を外して、何事かを少し考えた様子だった。
俺に視線を戻して、レイモンドは口を開いた。
「ルドベキア、あのね……私たちとあなたでは、事情がかなり違います」
俺は少々身構えたが、そんな俺の警戒の表情に、レイモンドは少し悲しそうな顔をした。
「――まず、あなたは守人と親しいですし、母石も間近で何度も見ているでしょう? 話に聞いているだけの私たちとは、まずそこが違います」
レイモンドはゆっくりとそう言って、眉間に皺を寄せる俺と視線を合わせて瞬きした。
「それに、まあ、状況も……」
呟いて、レイモンドはすっと視線を横に流し、溜息を吐いた。
「……私たちがあの話を聞かされたのは、もう七、八年前になりますが」
ちょっと顔を顰めて、レイモンドは言った。
「雲上船で、上の方々から『重要な話がある』として呼び出されまして、同年代の――チャールズたちとずらっと並ばされて」
そのときのことを思い出したのか、レイモンドは苦笑した。
「話を聞き終わったあと、如何せん上の方々が真面目に話したものですから、信じないわけにもいかなかったんですが、だからといって隣同士で、『今のは本当か』とも言い合えない雰囲気になってしまって――全員が必死に言いたいことを堪えて、ただ突っ立っていたんですよ」
むしろ身動きすら憚る異様な空間になってしまって、と続けて、レイモンドは乾いた笑いを漏らした。
「そのうちにチャールズが手を挙げて――まだ二十歳にもなっていませんでしたから、あいつも今よりずっと無鉄砲だったんですよ――『では、我々は今、〈洞〉を生産しながら飛行しているのでしょうか』と訊いてしまったものですから、私たちはもちろん上の方々まで絶句してしまって。
指摘としては正しかったので、さすがにチャールズが呼び出されて行ったりすることはありませんでしたが、上の方々の雰囲気がね――以来はそういう事実は禁句扱いになったものです」
俺は眉を寄せた。
やっぱり欺瞞だ、と思った俺の内心を見透かしたように、レイモンドが頷いた。
「それからしばらくは不思議な感じがしていました。
何しろ、こんなに危機的な状況なのに、世界が普通に回っているので」
言葉を選ぶような間を取って、レイモンドは呟いた。
「――人の世界が駄目になりそうだと言われても、実感としては難しい。
魔法も世双珠も、ついつい使ってしまうまま今に至っていますが、あなたからすれば気分が悪いでしょうね」
俺は少しだけ視線を下げた。
レイモンドはぽんぽんと俺の肩を叩いて、出し抜けに言った。
「テーブルの上の、これはどうするんです。パルドーラ閣下にお返ししに行くんですか」
俺はちらっとテーブルの上の傘なんかを見遣って、曖昧に肩を竦めた。
「……うん。うーん。会えるときに返せるように準備しとく」
「お返ししに、伯爵邸まで行きますか?」
レイモンドにそう訊かれて、俺は思わず目を剥いた。
「……無理だろ」
「いえ?」
レイモンドはさらっと言った。
「チャーリーたちからすれば、あなたがパルドーラ閣下にお近付きになるのは不自然ではないんですよ。お近付きになって、条約を破棄に持っていくことが出来れば最善ですから。
だから言い訳はいくらでも立ちますし、お供に私を指名してくれれば、さっさと席を外すくらいのことはしますよ」
俺は瞬きして、眉を寄せた。
「……どういうこと?」
「あなたが置かれている状況は、なかなか理不尽なものですから」
レイモンドは言って、ちょっとだけにこっと笑った。
「パルドーラ閣下を口説き落として、一緒に逃げてしまうというのもありだと思いますよ」
俺はしばし絶句し、それから雨に濡れた髪を掻き上げた。
「――有り得ない」
ぼそっと呟いて、俺は首を振った。
「トゥイーディアはそういうことはしない……」
「ですから、口説き落としてしまいなさいと」
レイモンドが少しばかり悪戯っぽくそう言ったところで、もういちど部屋の扉が開いた。
俺たちはどっちも口を噤んで、そちらを振り向いた。
食事の用意を整えて、チャールズがそれを持参していた。
大きな籐細工の籠をぶら下げていて、そこから食べ物の匂いがしている。
チャールズは俺を見て、レイモンドを見て、不機嫌に言った。
「――大使さま、着替えてろって言ったじゃん。レイモンドも、なんで着替えさせないんだよ」
レイモンドと俺は顔を見合わせた。
レイモンドが顔を顰めて立ち上がり、チャールズの方を振り返って、ぼそりと言った。
「……悪かったな」
食事は要らない、食欲はないと俺は断言したのに、チャールズはさっさと籐細工の籠を開けて、食事の準備を始めてしまった。
その際、当然ながらテーブルの上の物は目につく。
チャールズは明らかに女性ものであると存在を誇示するようなそれらをじっと見て、俺をじっと見て、盛んに首を捻っていた。
レイモンドは何も言うまいと心に決めたように、唇をぎゅっと引き結んでいた。
テーブルの上に用意された食事に、俺は全く手をつけないつもりでいたが、正面に座ったレイモンドとチャールズに、懇願混じりに説教されて、渋々口に運ぶことになった。
俺が仏頂面で食事をするのを眺めつつ、チャールズは頬杖を突いて。
「あのさあ、色々と衝撃だったのは分かるけどさあ、いきなり断食まで振り切らなくていいじゃん」
「――――」
「俺だって初めて聞いたときは衝撃過ぎて、要らんこと言って場の空気を凍り付かせたりしたけどさあ」
さっき聞いたやつね、と俺が思うのと同時に、レイモンドがぼそっと呟いた。
「……さっき、ルドベキアにも話した」
「あっ、そうなの」
チャールズはそう言って、なおもぐもぐと気の進まない食事を進める俺をじっと見た。
そして、首を傾げて呟いた。
「大使さま、どのへんが一番衝撃だったわけ」
俺は口の中で、一向に味のしない挽肉のパイを飲み下した。
それから口を開いたが、出した声は自分でも驚くほどに震えていた。
「……俺は――」
息を吸い込んでから、俺は呟いた。
「――ヘリアンサスに、いなくなってほしくない」
レイモンドとチャールズが、虚を突かれたように瞬きした。
俺はそれから、もう何も言えなくなってしまった。
◆◆◆
レイモンドは結構真面目な顔で、「約束を取り付けてパルドーラ伯爵邸まで借りたものを返しに行けばいい」と提案してくれたが、俺が断固としてそれを拒否した。
食事を摂らされたあと、俺はレイモンドとチャールズに散々叱られながら風呂まで連れて行かれて、取り敢えず温まるまで出て来たら駄目だと申し渡された。
そうやって風呂まで済ませたあと、今度は「昨夜はちゃんと寝たのか」と問い詰められ、面倒なので延々と頷いていたところ、途中で「こいつ話聞いてないな」と看破したらしきチャールズが、「昨夜は寝てないんだろ」と尋ね、完全に質問がすげ替わったことを聞き逃した俺がそれにも頷いたことから、また叱られて自室に戻された。
寝ろというわけだ。
どうやって寝りゃいいんだろうね、あの庭園ではしっかり眠れたのに。
明るくなった窓の外の光を眺めながらぼんやりしていたところ、俺が寝ていないだろうと予想したらしきレイモンドが部屋を訪ねて来て、件のパルドーラ伯邸訪問計画を話してくれたというわけだ。
俺が迷いなくそれを断ったので、レイモンドは意外そうにした。
「てっきり、喜び勇んで会いに行くものと」
と、真顔で言ってきたので、俺は顔を顰めてしまった。
――トゥイーディアは、家の中での権力が強くない。
もちろん表向きは、彼女が家長だ。パルドーラ家の実権を全て握っているのは彼女だ。
だが実際には、トゥイーディアは妾腹の娘であり、場繋ぎの当主。
家の中での権力が強いのは、先代伯爵の未亡人と、次期当主の母親――つまり、トゥイーディアからすれば義理の姉――らしい。
そんなところに俺が乗り込んで行けば、トゥイーディアは気まずい思いをするに違いない。
もっと言えば、俺が彼女の私物を手に屋敷に乗り込んだ結果、トゥイーディアが要らない詮索を受けてしまうかも知れない。
それは避けたい。
レイモンドの意外そうな視線が痛くて、俺は呟いた。
「……そういえばレイ、銀の花って知ってる?」
レイモンドは瞬きした。
「銀色、ですか。珍しいですね」
「実際は白いらしい。カロックで見たんだけど名前が分からなくて、気になってんだって」
俺がぼそっとそう言うと、レイモンドはふむふむと頷く。
そのままふらっと立ち上がって本棚の方に向かい、いくつかの本の背表紙をなぞったと思ったら、目当ての本を見付けたらしく引っ張り出した。
俺もそっちに寄って行った。
レイモンドは植物図鑑を広げていた。
トゥイーディアが持っていたものよりも小振りな本だったが、その分びっしりと文字と絵柄が書き込まれている。
「白い花ねぇ……」
レイモンドが頁を捲っていくのを覗き込みながら、俺はぽつんと。
「小手毬に似てるんだって」
へえ、と応じて、レイモンドは頁をいったん最初に戻って、索引を確認した。
レイモンドの指が、『小手毬』と書かれた文字を押さえてすっと横に動き、頁数を確認したのが見えた。
レイモンドがぱらぱらと頁を捲って小手毬の頁に移り、まじまじとその絵柄を観察しているのを見て、俺はぼそっと呟く。
「レイモンド、小手毬って知らなかった?」
「植物には明るくないんですよ」
レイモンドはあっけらかんと言って、笑みを含んだ瞳で俺を見た。
「閣下は植物にお詳しいんですか?」
「――いや」
俺は、ちょっとの沈黙を挟んでから呟いた。
なんとなく、俺だけが知っているトゥイーディアの一面を他の人に知らせることに抵抗があった。
だが一方で、俺がトゥイーディアについて話せることがあるということに、なんとはない優越感を覚える側面もあった。
「詳しいっていうか……好きというか。蚯蚓は怖いみたいだけど」
なるほど、とレイモンドは呟いた。
ただそれだけだった。
俺は内心で驚愕した。
トゥイーディアの、公の場でのあの凛とした佇まいをレイモンドは知っている。
その彼女が、実は花が好きで蚯蚓が苦手だという一面を持っているのである。
可愛いだろ。
なんでびっくりもしなければ、「可愛いですねえ」ともならないんだ。
実物を見てないからか。
弟が惚れている相手だから遠慮してるとか、そういうのか。
俺はなんだかそわそわしてしまったが、レイモンドは俺を見て訝しそうに眉を顰めて、「急に元気になりましたね」と言っただけだった。
いや、元気になったわけではない。
レイモンドは色々と頁を捲り、いくつかの頁を俺にも見せた。
その度に俺は、「季節が違う」だの、「もっと小さい花だと思う」だのと言って却下した。
気を悪くしてもおかしくなかったのに、レイモンドは案外と楽しそうだった。
そのうちに、レイモンドが「これじゃないですか」と、少しばかりの確信を籠めたような声で言って、俺に図鑑の頁を見せた。
「雪柳。春に咲く、白い小さな花です」
俺は瞬きして、その頁をまじまじと眺めた。
――あれ、ほんとだ。
トゥイーディアが言っていた要件に当て嵌まる。
白い花で、小さな花がびっしりと葉を覆うように咲くらしい。
小手毬に似てないこともないが、小手毬よりもちょっと尖った感じの印象がある。
「……おお」
俺が本気で感嘆した声を出したので、レイモンドは嬉しそうだった。
微笑ましそうに俺を見て、彼は図鑑を閉じて言った。
「閣下に教えてあげてください。感心してくださるかも知れませんよ」
レイモンドはそう言ったが、俺がトゥイーディアに銀の花の名前を教えてあげられるのは、もう少し後の――最悪の場面でのことになる。
その日の夕方、俺はトゥイーディアから預かった(というか、俺が勝手に持ち出した)品々を持参して、彼女の庭園に向かった。
レイモンドが厳しい顔で、「ハンカチは洗って返すのが礼儀ですよ」などと言い出したので、こっそり洗って乾かしたりもした。
レースは繊細なので、俺はハンカチが破れたり解れたりしてしまわないかとびびりながら洗うことになった。
昼には雨は止んでいたので、雨上がり特有の、地面の匂いが立ち昇ってくるような空気の中、俺は足早に庭園まで赴いたわけだが、途中で何度も後ろを振り返って、誰も付いて来ていないか確認してしまった。
庭園に入ると、トゥイーディアはやっぱりそこにいた。
彼女は自分が置いて行ったものを、今日のうちに回収する算段だったわけだ。
トゥイーディアは東屋の入口に佇んで、なぜか上空の一点を、一心に見上げている様子だった。
彼女が俺に気付いてくれないので、俺はある程度東屋に近付いたところで声を掛けた。
「――トゥイーディ」
途端、ぱっと彼女が俺を見て、嬉しそうににっこりした。
そして、盛んに俺を手招きした。
「ルドベキア! まあ、置いて行ったもの、わざわざ預ってくださっていたんですね。ありがとうございます。
それはそうと、あっち、あっち」
あっち、と示された方を、俺は東屋に続く階の半ばに立って振り返った。
それから目を瞬かせて、呟いた。
「……虹」
まだうっすらと曇っている東の空を背景に、雲が割れた西の空から差す日差しを浴びて、綺麗な虹が架かっていた。
今にも溶けていきそうなあえかな色合いで短い橋を雲間に架ける虹に、トゥイーディアはふふっと得意そうに笑った。
まるで、自分が虹を作ったのだと言わんばかりだった。
「綺麗でしょう。さっき見付けたんです。ここからだとよく見えますね」
虹ではしゃぐトゥイーディアも可愛いな、と思って、俺は頷いた。
それから振り返って、トゥイーディアに向かって言った。
「……トゥイーディ、今朝はありがとう」
トゥイーディアが、虹から視線を外して俺を見た。
飴色の大きな瞳が、ぱちりと一度瞬きする。
「はい? 何のことです?」
そう言いながらトゥイーディアは、入口から引っ込むようにして東屋の中に入り、長椅子の上に置いてあった図鑑を持ち上げて、俺に表紙を向けて控えめに微笑んだ。あの植物図鑑だった。
「――あの、ルドベキア。またお付き合いくださいますか?」
その瞬間に俺は、頭の中でレイモンドに謝り倒しながら、雪柳の名前を胸の奥深くに仕舞い込んだ。
トゥイーディアが腰を下ろしたので、俺はいそいそとその隣に座りつつ、こくこくと頷く。
「うん、もちろん」
トゥイーディアは図鑑を開きつつ、俺を上目遣いに窺った。
「――お兄さまとの仲直りは出来ました?」
それが婉曲に、俺の今朝の様子がおかしかったことを指していると分かったので、俺はトゥイーディアの傘を長椅子に立て掛け、ハンカチと懐中時計を膝の上に置きつつ、苦笑してみせた。
表情は少しだけ強張った。
「……いや」
トゥイーディアの細い眉が、少しだけぎゅっと寄せられた。
とはいえトゥイーディアは、すぐに俺の問題に立ち入り過ぎるのは良くないと思い直したらしい。
笑みを浮かべて図鑑に視線を落とした。
「――白くて……小さくて……」
俺は図鑑というよりもトゥイーディアの横顔を見詰めていたが、トゥイーディアがそれに気付いた様子はなかった。
トゥイーディアはそれからしばらく図鑑を捲っていたが、一向にそれらしい花には辿り着かなかった。
俺がさり気なく雪柳の頁に誘導しても良かったが、それをしてしまうと彼女と一緒にいる口実のひとつがなくなってしまう。
俺は如何にも、トゥイーディアと並んで頭を悩ませている風を装っていた。
そのうちに辺りは、文字を読むのが難しいくらいに暗くなってきた。
視界はまだまだ利く明るさだったが、細かい文字を読むのが難しい。
俺とトゥイーディアならば難なく灯りを空中に浮かべることも出来るわけだが、トゥイーディアはそこまではせず、諦め良く図鑑を膝の上で閉じた。
そのタイミングで、俺はハンカチと懐中時計を彼女に差し出した。
「……あの、ありがとう」
「いえ」
トゥイーディアはにこっと微笑んでそれらを受け取り、小首を傾げた。
蜂蜜色の額髪がさらっと揺れた。
「――あら。ハンカチ、洗ってくださったんですか?」
俺はたじろいだ。
どこか破れてたんだったらどうしよう。
若干蒼くなりつつ、「どっか破れてる?」とトゥイーディアの手許を覗き込むと、トゥイーディアは弾けるように笑った。
「いいえ。洗ってくださったのかなと思って、鎌をかけてみました。ありがとうございます」
俺は身を引いて、背凭れにどかっと凭れ掛かった。
「脅かすなよ、もう」
トゥイーディアは素早く、ドレスのかくしにハンカチと時計を仕舞い込んだ。
俺はちょっと唇を噛んでから、恐る恐る尋ねてみる。
「――今朝、大丈夫だった? 雨に当たったと思うけど……体調おかしくない? 家の人に変なこと言われなかった?」
トゥイーディアが俺の方を向いて、大きく目を見開いた。
そして、いつものように笑窪を作って微笑んだ。
「ええ、大丈夫でしたよ。私、こう見えて、魔法使いなんです」
「――……」
俺は絶句した。
――これまでも度々、トゥイーディアはお道化てそう言っていた。
俺はそれを聞き流していた。
だが、昨日から、俺の中でその言葉の意味は変わってしまった。
俺の反応に、トゥイーディアは訝しそうにした。
眉を寄せて、少しだけ俺に身を寄せて顔を覗き込んできてくれる。
「……ルドベキア? どうしました?」
俺ははっとして瞬きすると、トゥイーディアから顔を逸らして呟いた。
「いや……」
トゥイーディアは首を傾げ、しばらくまじまじと俺を見たあと、ぽそりと呟いた。
「ルドベキア、要らないお世話かと存じますが……今日はゆっくり休まれた方が」
俺は頷いた。
だが一方で、トゥイーディアの予定が許すならばまだ一緒にいたかったので、このまま「ゆっくりお休みください」なんて言って離れて行きかねない彼女を引き留めるべく、口を開いた。
「――あんまり眠れないんだけど、よく眠れる方法とか知ってる?」
トゥイーディアは長い睫毛を瞬かせたあと、にこっと微笑んだ。
「そうですね、加密列のお茶が良いと聞いたことがあります。
厨房に申し付ければ、きっと用意してくださいますよ」
俺は思わず唇を綻ばせた。
「おまえは何でも知ってるな」
「そんなことありませんよ」
謙遜するようにそう言って、トゥイーディアは笑みに細められた瞳で俺を見た。
それはそれで嬉しかったが、余りにも鮮やかに回答が返ってきてしまったので、今にもトゥイーディアは帰ってしまいそうだ。
俺は未練がましく言葉を重ねた。
「他には何か知ってる?」
「そうですねえ」
と、トゥイーディアは頤に指を宛がう。
時間を気にする様子がなかったので、この後に予定はないんだろう。
単純に、俺をさっさと休ませたいと思って帰りそうになっているだけっぽい。
「私はよく、温めた葡萄酒に蜂蜜を入れて飲むのですけれど、きみはお酒は駄目でしたね。
あとは、そうですね、お足許をよく温めるとか」
きみがもう少し小さかったら、どなたかに子守歌をお願いするのもいいと思いますが――と、トゥイーディアが至って真顔で言い出したので、俺は面食らって瞬きした。
「……こもりうた?」
なんだそれ。
俺の顔を見て、トゥイーディアの表情がすうっと醒めた。
まるでキルディアス侯を見るような目で見られて、俺は絶句した。
――怒らせた?
「トゥイーディ、俺」
俺は慌てて、悪気がなかったことを弁解しようと口を開いたが、トゥイーディアがそれを制するように言っていた。
「――ルドベキア、きみ、故郷ではちゃんと大事にされていたんですか」
俺は反射的に頷いた。
トゥイーディアがどうして怒っているのか分からなかったので、優しい彼女が怒らないだろう方向に首を動かしたといえる。
だが、どうやらトゥイーディアは俺の仕草を信用しなかったとみえた。
「きみは――」
呟いて、トゥイーディアは心底腹立たしそうに呟いた。
「――きみは大事にされるべきです。こんなにいい人なんですから」
俺は曖昧に唸ったものの、トゥイーディアが機嫌を損ねたまま帰って行ってしまうのは嫌だったので、強引に話題を元に戻した。
「――他に、何かよく眠れる方法は、知ってる?」
トゥイーディアは不服そうに目を細めたものの、真面目な彼女らしく答えてくれた。
「……精油を使った良い香りのする蝋燭なんかはどうでしょう。灯しておくと落ち着く香りのするものもありますし」
あとは――と考え込むトゥイーディアに、俺は眩しいものを感じて目を細めた。
「――ありがと」
「いいえ」
びっくりしたように顔を上げて、トゥイーディアはそう言った。
それからふわっと笑ってくれたが、その笑顔に不機嫌さがなかったので、俺は大いにほっとした。
「私の方こそ、きみに色々とお礼をしないといけないんですよ」
トゥイーディアがそう言ったのを、俺は冗談として受け取った。
俺の表情からそれを察したのか、トゥイーディアが顔を顰める。
「もう、真面目に聞いてくださいよ」
「だって俺、おまえに何もしてないじゃん」
俺は正論を述べた。
トゥイーディアは目を見開いてから、膝の上の図鑑を持ち上げて俺に示した。
「花を探すのを手伝ってくださったり、私の――」
言葉を切って、トゥイーディアは少し迷うように視線を彷徨わせたあと、にこっと笑った。
「――とにかく、たくさん」
俺が小さく笑ったので、トゥイーディアは憤慨したように、「もう、冗談だと思ってらっしゃるでしょう」と言ったあと、真顔になって俺の顔を覗き込んできた。
夕日を吸い込んだような大きな飴色の瞳に、俺の形の影が映った。
「ルドベキア、何か私にしてほしいことはありますか」
俺はびっくりして目を瞬かせた。
その様子に、トゥイーディアは恥ずかしそうに目を伏せる。
「お礼です。まあ、私に出来ることは高が知れていますけれど」
俺は思わず居住まいを正して、トゥイーディアを真顔で見詰め返した。
「なんかお願いしてもいいの?」
「お礼の範疇であれば」
トゥイーディアはそう言ってから、はっとしたように口許に手を当てた。
「――ああ、お菓子を作って来る約束もしていましたね。でも、まあ、それとは別に」
俺は少しだけ目を細めて、警戒ぎみに尋ねた。
「伯爵さまにじゃなくて、ただのトゥイーディアにお願いしてもいいの?」
トゥイーディアが目を見開き、それからくすくすと笑い始めた。
「おかしな人ですね。普通、伯爵にこそ何かお願いしたいと思うものでしょうに。――ですが、ええ、そうです。
逆に、パルドーラ伯爵に何かお願いをしていただいても――立場もありますから――、ちょっとお応えしかねる場合もあるかと」
まあ、うん。
条約の締結をやめてくれなんて、さすがにお願い出来ないよな。
そう思いつつも、俺は覚えず真面目な顔になった。
トゥイーディアが俺に何かお礼をする必要があるかどうかはさておいても、お願いを聞いてくれるなら嬉しいことだった。
「じゃあ、トゥイーディ、イーディ、ディア。
頼みがあるんだけど」
俺がそう言ったので、トゥイーディアも居住まいを正した。
暗くなり始めた中にあって、灯火のように煌めく蜂蜜色の髪。
大きな飴色の瞳、真面目そうな表情。
「はい、私に出来ることでしたら」
真剣にそう言ったトゥイーディアに、俺も、この上なく真剣に告げた。
「――生きててほしい」
トゥイーディアが目を丸くした。
俺のお願いは、どうやら完全に彼女の意表を突いたらしい。
続いて小さく噴き出して、トゥイーディアが唇に手を宛がいながら、俺を見詰めて小さく言う。
「なんです、それ?」
「だから、お願いだって」
俺はそう言いつつも、堪え切れずにトゥイーディアから目を逸らした。
――最初は、一緒に幸せになりたいと思ったのだ。
だけどすぐに、それは無理だと分かった。
だから、彼女がただ笑顔で幸せでいてくれと思った。
だがやっぱり、それもどうやら難しいらしい。
――だから今は、ただ生きていてくれと願っている。
トゥイーディアは、どうやら俺のお願いを冗談だと思ったらしく、「そういうのではなくて」と言っているが、俺はそれを殆ど聞いていなかった。
――トゥイーディアにとっては、今は全部が上手くいき掛けている途中なのかも知れない。
だが実際にはそうではない。
条約が締結されてしまえば、人の世界はいよいよ追い詰められることになるし、かといって条約が駄目になってしまえば、トゥイーディアの立場と功績が追い詰められる。
――俺も彼女も、本来は、他を遥かに凌駕する魔力の器だ。
他より大きな毒を受け取って無害にして、世界に貢献するはずの。
だが同時に、俺も彼女も世界を侵す魔法を作ってしまっている。
それがために世界にとって、害悪に等しい存在になってしまっている。
「――もう、ルドベキア、ちゃんと考えてください。
私はきみにお礼がしたいんです」
トゥイーディアはそう言って、にこっと微笑んだ。
「今度、お約束通りにお菓子をお持ちしますから。
そのときに、また私に何を頼みたいか考えてくださいね」
たぶん、何回訊かれても、俺は同じ答えを返すだろう。
そう思いながらも、俺は首を傾げてトゥイーディアに尋ねた。
「――おまえは? 俺に何かしてほしいことない?」
トゥイーディアはぱちりと目を瞬かせたあと、照れたように微笑んだ。
それから、極めて優しく微笑した。
「では、ときどきここに来て、私とお喋りしてください」
俺は思わず笑ってしまった。
「なんだそれ。――俺の得じゃん」
そのときにトゥイーディが余りにも嬉しそうに笑ったので、俺はしばしその顔に見蕩れてしまった。
◆◆◆
――トゥイーディアはそう言ったが、実際に彼女が俺にお菓子を持って来てくれたり、俺とあの庭園で些細なお喋りをすることは、これを最後にしばらくなかった。
別に喧嘩をしたわけでも、どちらかが体調を崩したわけでもない。
この翌日から、トゥイーディアが――というよりも、貴族や官吏たちが――多忙を極めるようになってしまったがためだった。
カロック帝国から書簡が届き、そこに、正式に条約を締結したいとの意向が綴られていたがゆえである。




