49◆――運命の日:兄と画材
俺はぽかんとした。
口が開いたのを自覚したが、表情を取り繕えるものではなかった。
聞き間違いかと思って眉を寄せ、何と言われたのか思い返す。
それから俺はレイモンドを見上げて、彼ですら驚いた顔をしているのを確認した。
――聞き間違いではなかったようだ。
息を吸い込み、俺は人生で初めて、〝えらいひとたち〟に準ずる人に向かって口答えした。
「――そ……そんなわけありません。
内殻が消えたんですから、問題ないなんて――そんな……」
俺はじり、と半歩前に出て、乾いた口から言葉を押し出した。
「守人は無事ですか?
母石が消えていたはずです――びっくりしたりしていませんでしたか」
アークソンさまは何も答えず、他の上の人たちも何も言わなかった。
俺は愕然として、そんな彼らの一様に老いた顔を見渡して、もう一歩前に出た。
声が震えた。
「内殻が消えたんですよ? ――俺は間違えてません。断じて内殻の維持を怠っていません。
だったら、大丈夫なんて――」
「番人、控えよ」
アークソンさまがそう言って、俺を見た。
俺は弾かれたように二歩下がった。
アークソンさまはまた俺から視線を外して、低く言葉を続けた。
「内殻は――しばらく――必要ない」
「――守人がいるのに?」
反射の勢いで、俺の口から言葉が零れ落ちた。
「ヘリアンサスを守らないといけないのに、必要ないんですか?」
「――レイモンド」
アークソンさまがレイモンドを見て、何かを振り払うように片手を動かした。
「下がらせろ」
レイモンドが、刹那の間躊躇した。
俺を見て、それからアークソンさまを見て、眉を顰めて低く尋ねる。
「――内殻と外殻については、私どもも気になるところではありますが……」
「控えよ」
強い口調でそう言って、アークソンさまはテーブルを平手で叩いた。
その瞬間に、俺の心が折れた。
暴力に対する恐怖、分けても〝えらいひとたち〟に対する恐怖は、俺の中で余りにも強烈だった。
俺は身を縮めて頭を下げ、レイモンドの後ろまで下がった。
レイモンドが、もはや反射じみた動きで俺を庇って、それからしばしの逡巡ののち、軽く頭を下げた。
アークソンさまが息を吐いて、椅子の背凭れに身体を預けた。
「――それで良い。何事もなかった。全て、何の問題もない。
今後はお役目に努めるよう。それだけだ」
絶対に違う、そんなはずはない。
――そう分かっていて、俺は声が出せなかった。
息をすることすら難しかった。
レイモンドがアークソンさまに頭を下げ、俺にも同様にするよう促して、短く辞去の挨拶を述べた。
俺は声を出せなかったが、辛うじて頭を下げることは出来た。
レイモンドは、何か言いたげな眼差しで俺を見て、それから俺を扉の方へ進ませつつ、振り返って尋ねた。
「――この子には、今後も事情は説明できませんか」
俺も思わず振り返った。
――事情? 魔法を殺す理由のことか?
アークソンさまは顔を顰め、上の人たち同士で視線を交わしたたあと、呟くように言った。
「……検討しよう。下がれ」
アークソンさまの部屋から出て、ばたんと扉が閉じた後になって、俺はようやく息を吹き返したかのように呟いた。
「――有り得ない」
「そうですね、さすがに」
レイモンドが同意するようにそう言って、俺を見下ろした。
俺は、現在自分が彼に大いに不義理を働いているところであるということを思い出して、そうっと目を逸らした。
そんな俺を見て、レイモンドは嘆息。
それから、いつものように俺の肩を叩いた。
「――ルドベキア、今日の予定は?」
俺はいっそう視線をレイモンドから遠いところに向けた。
「……ない」
何しろ、国王がめっきりと俺を招喚しなくなってしまったもので。
俺はてっきりそれを責められるのかと思ったが、意外にもレイモンドは、「それは良かった」と応じた。
訝しく思って目を上げると、レイモンドは微笑して俺を見下ろしていた。
「…………?」
首を傾げた俺の髪をくしゃっと撫でて、レイモンドは苦笑した。
「訪春祭のときに言っていたでしょう。また町まで下りてみましょう。
――訳の分からない状況が続いていてつらいでしょう。あなたも、多少は労われて然るべきです」
俺はきょとんと目を丸くした。
レイモンドは曖昧に肩を竦め、少し声を低めて。
「――アークソンさまのご説明には、私も納得できませんし……あなたはいっそう不満でしょう。
問い詰めることが出来る立場の方でもいらっしゃいませんしね」
ヘリアンサスのことを考えて、俺はぎゅっと眉を寄せた。
――だが、守人の状況が知らされないということは、もしかして本当に、あいつはぴんぴんしているのか?
守人に万が一のことがあれば、〝えらいひとたち〟も上の人たちも困るはずだ。
さすがに、俺にも何かの報せはあるだろう。
俺はそう考えた。
――思い返せば、浅慮にも程があった。
ヘリアンサスに何かあったとしても、〝えらいひとたち〟は、それに対処する者として俺を選ぶことはなかっただろう。
俺はあくまでも番人で、お役目は内殻の維持および、守人に異常がないことを確認すること。
彼らが世の他のどんな至宝よりも尊ぶ母石と守人のことを、易々と番人に任せたはずがない。
顔を顰めた俺をしばらくじっと見詰めてから、レイモンドは頭を掻いた。
「――ですから、今日くらいはどこかではしゃいでもいいと思いますよ」
「……はしゃぐ」
まさかレイモンドからそんなことを言われるとは思わず、俺は思わず真顔で復唱。
そんな俺に噴き出してから、レイモンドは手をひらひらさせた。
「弟に冷たくされ続けるのは、私としてもつらいんですよ」
「――――」
俺は思わず口を開け、息を吸い込み、しかし言うべき言葉が見付からずにうろうろと目を泳がせて口を閉じた。
――このときの俺に、自分が他人にとって価値のある人間になり得るという認識はなかった。
ヘリアンサスにとっての俺は、数多くいた歴代の番人のうち一人に過ぎず、トゥイーディアにとっての俺は、たまたま親切にしてやっただけの大使。
レイモンドにとっては、たまたま世話をすることになった弟もどき。
――無意識のうちにそう思い込んでいたがために、俺は咄嗟に言葉が出なかったのだ。
レイモンドはまた俺の肩を叩いて、穏やかに言った。
「支度して来なさい。どうせ予定がないなら、多少楽しむ程度、誰も目くじらを立てたりはしませんから」
俺はぽかんとしたまま頷き、なんとなくぼんやりした気持ちで自分の部屋に向かって踵を返した。
適当に上着を選んで羽織って、外出用の靴に履き替えて廊下に顔を出すと、既にそこでレイモンドが待っていた。
顔を出した俺が若干びくついているのを見て苦笑した彼は、俺を手招きして手を出すよう促し、警戒しつつも両手をレイモンドに向かって差し出した俺の掌の上に、革細工の財布をぽん、と手渡してきた。
掌の上に財布を乗っけたままきょとんとする俺に、レイモンドは「今日の分のお小遣いです」と真面目腐って言う。
その言い方に、俺がようやくおずおずと表情を緩めると、レイモンドも目を細めた。
「――さあ、どこに行きたいですか?
お昼も外で食べてしまいましょう。何を食べたいか考えておいてください」
俺は手に持った財布をちょっとだけ持て余すように捏ね繰り回したあと、レイモンドを見上げて首を傾げた。
「レイは? どっか行きたいとこないの」
レイモンドはびっくりしたように俺を見てから、ふっと微笑んで、「そうですね」としばし視線を彷徨わせたあと、俺に視線を戻して首を傾げた。
「そろそろ新しい手巾が必要です。選ぶのに付き合ってくれます?」
俺はにっこりした。
「うん、もちろん」
◆◆◆
レイモンドは使用人さんに声を掛けて、例の馬車もどきを宮殿の前に回してもらい、俺と一緒にそれに乗り込み、大手門までがらがらと進んだ。
目に見える庭園全てが春めいていて、トゥイーディアの庭園にあるのと同じ木香薔薇も、ちらっと見掛けることが出来た。
とはいえ俺は、全くの贔屓目を以て、彼女の庭園にある花の方が綺麗だと判定を下したわけだが。
大手門へ向かう通りのある広い庭園で馬車もどきを降りた俺たちは、通りを歩いて下って、人と馬車でごった返している王宮前の通りへ出た。
そこで、ちょうど乗客を降ろしたばかりだった辻馬車を捉まえて、王都の九番街へ。
がらがらと調子よく進んだ馬車は、しかし徐々に速度を落とし、やがて完全に停止した。
目的地に着いて停まったのであれば、御者さんが扉を開けにくるはずだったが、それもない。
俺とレイモンドは暢気に窓の外を見て、道行く人の豪華な格好を好き放題評論していたが、景色が止まったとあって首を傾げて顔を見合わせた。
そのうちにレイモンドが、御者台に通じる小さな窓を、こんこんこん、と叩いてから開けて、「どうしました」と。
その小さな窓越しに、御者さんが困り顔で振り返って山高帽を持ち上げるのが見えた。
レイモンドが窓を開けた拍子に外の音が鮮明になって、遠くから、悲鳴や罵声が聞こえてきた。
俺はそわそわと座席の上で身体を動かした。
俺は他人の大声に弱かった。
困り顔の御者さんは、会釈するように頭を動かしてから、山高帽を持ったままの手でぽりぽりと頭を掻いて、心持ち大きめの声でレイモンドに答えた。
「――ああ、ええ、旦那。どうやら〈洞〉が出たようで」
それを聞いた途端、レイモンドがすうっと無表情になったので、俺は少しだけ怖くなった。
レイモンドは「そうですか」とだけ呟いて小さな窓を閉じ、ふうっと大きく息を吐いた。
そうして背凭れに体重を預けると、独り言の風情で呟く。
「……またか」
しばらくして、馬車は動き始めた。
どうやら王宮から軍が駆け付けて来て、立ち往生した馬車を誘導し始めたようだった。
〈洞〉が開くということは即ち、目の前で土砂崩れが起きるよりも酷い被害を齎すということだった。
〈洞〉を遠目に確認してなお、進んで行こうとする蛮勇の持ち主はまずいない。
加えて、突如として出現した〈洞〉を目の当たりにした人たちは恐慌に陥っていて、前方からは悲鳴が聞こえてきていた。
〈洞〉が齎す消失に巻き込まれまいとして、道行く馬車は全て動きを停め、結果として二進も三進もいかなくなっていたのだ。
それを、軍人がきっちりと迂回路に誘導してくれつつあった。
軍人は騎馬で駆け付けて来て、軍の徽章をあしらわれた馬具を着けた毛並みのいい馬たちが、背中にかっちりとした格好の軍人を乗せ、混み合う馬車の間を軽やかに駆け抜けて行った。
道の端っこを歩いていた女の人に連れられた子供が、何やらはしゃいだ様子でそんな軍人を指差しているのが見えた。
俺たちが乗る馬車が迂回路に誘導される間際、俺の目にも車窓越しの遠目に〈洞〉が見えた――いや、見えなかったというべきか。
世界に亀裂を生じさせたが如くに、全き無として、空気を何かが鉤爪で引き裂いたかのようにしてそこに在る――音もなければ色もなく、何も存在しないことで明々白々にそこに存在している、異様な何か。
その周囲がぽっかりと空いているのが印象に残った。
突然に発生したその災害は、人と人が造り出したものをそっくり呑み込んで消してしまって、じりじりと人の世界に穴を開けているようだった。
ちらりとそれを見て、俺はすぐに目を伏せた――人の目は、全き無に長く向けていられるようには出来ていない。
目の奥が異様に痛むような違和感――あるいは、観るに堪えないものを見たあとのようなおぞましさに、俺は身震いして瞬きを繰り返し、しっかりと実体のあるものを確かめるようにして、自分の両手をしばらく眺めていた。
「――〈洞〉を見るのは初めてでしたっけ」
と、レイモンドが俺の様子を見て、呟くように尋ねた。
俺が頷くと、レイモンドは短く言い切るようにして、説明した。
「あれが〈洞〉です。突然できて、周り中をああやって呑み込んで――近年は増えています。
リーティにももう幾つか開いていて――その度に街区が空になっていく」
レイモンドは憂鬱そうにそう言って、それから軽く頭を振って、殊更に朗らかな声を出した。
「――まあ、幸い、我々の目的地は巻き込まれていないでしょう」
回り道をして辿り着いた九番街では、既にひそひそと、「六番街に〈洞〉が開いたらしい」、「贔屓の骨董屋があったがもう駄目か」みたいな話が交わされていたが、馬車の交通整備を終えた軍人たちが六番街付近の街区のあちこちを駆け回り、ここへの影響はないから落ち着くように、と触れ回っていて、人々は早くも落ち着きを取り戻して日常生活に回帰しつつあった。
真っ直ぐに引かれた日常の線が僅かにぶれたような、そんな動揺の具合だった。
「皆さん慣れているんですよ」
レイモンドはそうとだけ言って、俺を伴って雑貨屋へ足を向けた。
王都にある雑貨屋というだけあって、品揃えは豊富でどれもが高級品に見えた。
店構えも瀟洒で、鮮やかな赤い屋根が載った象牙色の外壁が綺麗だった。
綺麗な緑色に塗られた扉を開けると、ちりりん、とドアベルが鳴って、奥からふっくらした店員さんが出て来て、レイモンドに向かってあれこれと要望の品を訊き始める。
レイモンドはそれを丁寧に遮って、「しばらく弟と見てみますので」と。
店員さんはそのとき初めて、素早くレイモンドの後ろに引っ込んでいた俺に気付いたような顔をした。
レイモンドは笑いを噛み殺しながら俺を促し、温かみのある色合いの木で造り付けられた商品棚の間を歩いて、目的の手巾が並べられた一画に向かった。
俺は弟というよりも従者のようにそれに付き従い、店員さんがこちらを見る目には好奇が滲んだ。
何しろ、兄弟であると言い張るには全然似ていない二人組だったしね。
店内には若い男女の二人連れの客もいたが、そちらは生憎と、お互いしか眼中にないようだった。
折り畳まれてずらりと並べられた手巾は、大抵が絹だったが、意匠は様々だった。
豪華な刺繍が施されていたり、レースの縁取りが付いていたり、濃淡組み合わせた優雅な色合いに染められていたり。
レイモンドが俺の意見を待っているのは分かっていたので、俺はじっくり全部を見渡したあと、緑の濃淡で市松模様に染め上げられた手巾と、淡い緑色で、四隅に金糸で精巧な刺繍が施されている手巾を指差した。
どちらの手巾も、絹糸特有の光沢を持って綺麗だった。
レイモンドはふむと考え、件の手巾の端っこに細い糸で付けられている値札をちらりと見た。
そしてふっと笑うと俺を見て、端的に言った。
「――お目が高い」
「え?」
訊き返した俺に、レイモンドは口許に手を当てて肩を震わせつつ、
「たぶん、この中でもかなり値が張るものですよ。あなた、いつの間にか目が肥えていたんですよ」
褒められているのか貶されているのか分からなかった俺は、あくまで真顔で言い募った。
「緑色が綺麗だったから――レイに似合うと思う」
「それは嬉しい」
レイモンドは穏やかに言って、俺が示したふたつの手巾を手に取った。
俺が思わず目を見開いて、「高価いんじゃないの?」と尋ねると、レイモンドはちょっとした感慨を籠めて頷いてみせた。
「あなたがお金の価値を理解するようになっただけ、まずは喜ばしい」
それから悪戯っぽく微笑んで、
「――実を言うと私たちはお金持ちなんですよ。気にしないで」
と囁いてくれた。
俺はそのときはそれを聞き流したが、後から思い返しては矛盾を感じたものである。
――ハルティの使節団の財産は、即ち世双珠の輸出によって得た利益が基になっている。
つまりハルティ諸島連合は、世双珠の、延いては魔法のために成り立っているといえたわけだ。
店の奥のカウンターで会計を済ませたレイモンドは、丁寧に包まれたお買い上げの品を懐に仕舞って俺を振り返り、「次はどこに行きましょうか」と。
特に考えの無かった俺は首を傾げたが、雑貨屋を出たところで画材店を目にして、そっちにレイモンドを引っ張って行った。
レイモンドは、彼らしい温厚さで俺に引っ張られながらも怪訝そうに、
「あなた、絵を描く趣味なんてありましたっけ」
と。
俺は首を振って、
「俺じゃない。ヘリアンサス――守人が、絵具を持ってくと機嫌が良くなるんだよ」
と応じた。
実際、ヘリアンサスは今まで岩壁に色を重ねるだけで満足しているようだったが、画布も持参してやれば面白がるかも知れなかった。
何しろ岩壁に色を重ねても、絵具の発色は全然良くないが、画布となればそもそもが絵を描くためのものだ。
レイモンドは、守人と絵具という二つの事柄が頭の中で上手く結び付かなかったのか、「はあ」と怪訝そうな顔のまま頷いていたが、俺が彼を振り返って、「青い絵具も買える?」と尋ねると、少しだけ難しい顔をした。
「青、ですか。――海を越える青には黄金に勝る値打ちがありますからね。何しろ瑠璃から作るものですから。
ヴェルローなら、少し値が落ちるのですが」
俺はしゅんとした後、首を傾げた。
「なんで?」
「ヴェルローでは瑠璃が採れるからです」
レイモンドはそう答えて、過去に自分が教えたことを俺が呑み込んでいるかを試すような顔をした。
俺は手を打った。
「――こっちに運んで来る手間が掛かる分、値段が高くなるんだな?」
「その通りです。よく出来ました」
そんな遣り取りをしているうちに道を渡り切り、画材店に到着した俺は、引っ張っていたレイモンドを先に立てて入店した。
レイモンドは、「会議ではあんなに堂々としていたのに……」と、解せぬと言わんばかりの顔で呟いていたが、俺は聞こえない振りをした。あれはあれ、これはこれだ。
画材店の天井には大きな天窓が開いていて、燦々と差し込む陽光のために明るかった。
油絵具の独特な匂いが立ち込めていた。
店内の他の客は浮世離れした雰囲気で、没頭して商品を見比べているようだった。
レイモンドが、絵具で汚れた格好をした店員さんに青い絵具の値段を尋ねていたが、確かに、とても買える値段ではなかった。
店員さんは、青い絵具の在庫が自分の店にあるということで誇らしそうにしていたが、このまま不良在庫化しそうだ。
あるいはこの店が実は、ちゃんと財産のある画家御用達の店で、そのうち高名な画家の誰かが買って行くのかも知れないが。
俺は聞かされた値段にがっかりしたが、苦笑いするレイモンドに励まされて店内を見て回り、そのうちに俺たちが全くの素人であると気付いた様子の店員さんの巧みな話術に乗っけられて、かっちりした箱に収まった油絵の画材一式を買うことになっていた。
絵具はもちろん色んな種類の筆やら油壺やら油の入った小瓶やらが詰め込まれていて、果たしてヘリアンサスはこれを渡されても、使い方が分からずに首を傾げているだけになるというような気もしたが、それはそれとして、見ているだけでも一種の美しさのある一式であったので良しとした。
更には木枠に画布を張ったものまでお買い上げの運びとなって、俺は若干流されるままに頷いていたが、レイモンドは途中からものすごく微妙な顔をして押し黙っていた。
なんだかんだで商品を手に店を出た後に、レイモンドはちょっと神妙な顔で俺を道の端に引っ張って行って、懇々と買い物の基礎について話して聞かせた。
つまり、要る物しか買うなと。
「ルドベキア、その調子だと、いつか詐欺に引っ掛かって大枚を失うことになりかねませんよ」
と、レイモンドは真面目な憂い顔で俺を諭したが、俺は首を振った。
「俺、あと一年もここにはいないもん。それにレイがいるし」
レイモンドは唸ったもののそれ以上は何も言わず、大荷物を抱えることになった俺を手伝ってくれた。
俺たちはそのまま、昼食を摂れる店を探すため乗合馬車の駅へ向かった。
軽食を提供するお店はあちこちに見付けられたが、如何せん空腹の度合いが軽食で満足するものではなかった。
何しろ俺は、今日の朝食を疎かにして殆ど食べていなかったから。
乗合馬車の駅は、敷石に嵌め込まれた大きな銅板が目印になっていたが、元々は何かが刻印されていたらしい銅板は、長年に亘って人の靴の下に敷かれた結果、今はつるつるとして見えた。
端っこの方は青く錆び付き、鈍く沈んだ色になっている銅板は、今は小さな男の子の一時的な遊具となっている。
四歳くらいの男の子が、乗合馬車を待つ間に退屈したのか、その銅板の上で飛んだり跳ねたりしていた。
彼のお母さんらしき若い女性が、心持ちぐったりした顔でそれを見守っている。
乗合馬車を待っているのは、見たところ俺たちを含めてその四人で全部だったが、馬車道の脇の歩道は人通りが多かった。
雑踏から聞こえてくる人声の中には、つい先刻に六番街で開いた〈洞〉の話が一番多く話に昇っているようだった。
男の子は、銅板の上で飛んだり跳ねたりすることにも飽きたのか、そのうち大声で調子っぱずれに歌いながら、あちこちをふらふらし始めた。
彼のお母さんは激怒の表情で、「ふらふらしないの!」と叫んでいた。
お母さんに右手をがっちり握られることになった男の子は、しばし不服の表情で足許の敷石を蹴っていたが、そのうちに気を取り直したのか、お母さんの手をぶんぶんと振り回しながら、音痴な歌を再開して、周囲に若干の笑いを呼び込んだ。
俺はレイモンドを肘で軽く押して、少しばかり声を低めて尋ねた。
「――レイも、小さいときはあんなのだった?」
レイモンドはちらっと男の子を見て苦笑して、荷物を抱え直しながら空とぼけた。
「兄の威厳のために黙っておきましょう」
そのうちに、がらがらと乗合馬車が道を下ってきた。
濃緑色に塗り込められた長い車体、それを牽く六頭の馬。
蹄の音に加えて、がらがらと車輪が回転する音が雑踏の中でもはっきりと聞こえる。
車体には沢山の窓が開いていて、俺たちのすぐ目の前で、手綱を引き絞られた馬たちが足を止めた。
車体の前の方に付いている折戸式の扉をからからと開いて、茶色と灰色の地味な格好をした小柄な男の子が、被った帽子をしっかと押さえながら、ぴょんっと飛び降りて来て俺たちを見渡した。
「ウィンカームの乗合馬車でーっす。どちらまでー?」
声を聞いてやっと、俺はその子が男の子ではなくて女の子だと気付いた。
女の子は被った帽子に、編んだ髪を全部押し込んでいるようだった。
「お馬さんー!」と騒ぐ男の子を捕獲したままのお母さんが懐を探りつつ、「十二番街」と女の子に告げ、レイブラー銅貨を彼女に押し付けた。
女の子はにこっと笑って親子が馬車に乗れるよう立ち位置をずらし、続いて俺たちを見遣った。
「どちらまで?」
「十四番街」
レイモンドが即答し、俺がもたついている間に、俺の分の運賃までさっくりと払ってしまった。
馬車に乗り込んだ俺たちは、真ん中の方の席に二人並んで腰掛ける。
俺のせいだが、荷物が嵩張るので若干苦労したが、窓から身を乗り出そうとする例の男の子を必死に押さえ付けているお母さんの比ではなかっただろう。
乗合馬車の中には、既に五、六人の乗客がいたが、ほぼ全員が、はしゃぐ男の子の方を振り返って見ていた。
女の子が折戸をからからと閉めて、御者台に通じる覗き窓から顔を出し、「いいよー」と御者さんに告げた。
それを合図に、馬車ががらがらと動き出す。
どうやら、俺たちが乗り込む前から、車掌役の女の子とのお喋りの途中だったらしい、馬車前方の席に座った成金風の若い男が、「でさあ、続きだけど」と、女の子を捉まえて喋り始めた。
「マジだって、俺、さっき〈洞〉が開くのを見たのね。そりゃあもう」
「お客さんお客さん、うるさいよ」
と、女の子はうんざり顔。
「言ったじゃん。お客さんが乗り込んで来たのは三番街。〈洞〉が開いたのは六番街。なんだって〈洞〉が開いてからものの数分で、六番街にいた人が三番街でこの馬車に乗り込めるのさ。
第一お客さん、さっき他の人から〈洞〉のこと聞いてびっくりしてたでしょ」
「それはさあ」
言い募る男に、女の子は鼻に皺を寄せて言い放った。
「お客さん、フキンシンだよ!」
明らかに言い慣れていない風情の難しい言葉を遣った女の子と、さすがに二の句が継げなくなった様子の男に、車内で小さく笑いが起こった。
女の子は機嫌良さそうに、御者台に通じる覗き窓から顔を突き出し、御者さんとぺちゃくちゃとお喋りを始めた。
成金風の男はむすっとした顔をしていたが、一方で他の馬車と擦れ違うたび、「あのお馬さんはどこに行くの?」「なんで行くの?」「僕も行きたい」と騒ぐ男の子を持て余し、彼のお母さんがいよいよぐったりし始めていた。
ややあって馬車が停まり、女の子がこっちを振り返――ろうとして、覗き窓の窓枠に頭をぶつけ、「いたっ!」と叫んだあと、若干の涙目ながらも務めを果たすべく頭を上げて、少しばかり小さな声で宣言した。
「じゅ――十一番街です」
そこで、成金風の男が馬車を降りて行った。
女の子は折戸を閉じる際、べーっと彼の後ろ姿に対して舌を出していた。
馬車は更にがらがらと町を進み、十二番街に停まった。
ここで子連れの女性が馬車を出て行った。
俺とレイモンドが窓から見守っていると、駅では彼女の夫らしき男性が待ち構えていて、騒ぎまくる我が子の様子に目を疑うといった顔をしていた。
入れ替わるように、老夫婦がゆっくりと乗り込んで来た。
次に馬車が停まったのが、俺たちの目的地の十四番街だった。
馬車が停まる前から、窓からいい匂いが馬車内に漂ってきていたので、この辺に料理店が多いということが分かった。
馬車から降りて荷物を抱え直し、あちこちを見回す俺に、レイモンドが声を掛けた。
「お肉とお魚だったらどっちが食べたいですか?」
「肉」
即答した俺に薄らと笑って、レイモンドも周囲を見渡した。
「分かりました。――チャーリーのお勧めのお店があった気がします。
行きましょう」




