48◆――恋も呪いも
「――きみは大丈夫ですか?
お付きの方がびっくりされそうですけれど」
あの庭園に向かう階段を昇りながら、トゥイーディアがふと呟いた。
俺は曖昧に唸る。
「……びっくり――はしないんじゃないかな」
どちらかといえば、火に油を注がれた感じで怒り狂いそうだ。
それを予想して少しばかり暗澹たる気持ちになりつつも、俺はトゥイーディアの手を握り直した。
「取り敢えず、俺のことはどうだっていいんだけど」
まず何より先に他人のことを気にする辺りが、トゥイーディアらしいといえばらしいけど。
庭園の東屋で、見事に咲いた藤の下の長椅子に腰掛ける。
木漏れ日の形に切り取られた陽光がトゥイーディアの蜂蜜色の髪に映えていた。
俺はトゥイーディアの方を見ないようにしつつ、両手の人差し指を立てて、「どうする?」と。
「宮殿の方の時間は停めたままにするか――」
と、トゥイーディアから遠い方の右手の指を振り、
「――それか動かすか」
と、左手の指を振る。
トゥイーディアはちょっと迷った様子だったが、すぐに手を伸ばして、俺の左手の指をきゅっと握った。
俺はどきっとした。
「う――動かす?」
声が上擦りそうになるのを堪えつつ、確認の意味で尋ねる。
トゥイーディアが頷いたのが、視界の端っこで見えた。
俺は「分かった」と呟いて、右手の指をぱちんと鳴らした。
ここからではトゥイーディアにとっては目に見えた変化はなかっただろうが、俺の視界の別の方を埋めていた、浅縹の色合いが消失した。
トゥイーディアがするっと俺の手を離して、両手を膝の上に置いた。
彼女は真っ直ぐ前方を見ていた。
俺も同じ方向に視線を遣りながら、暫時の逡巡ののちに呟いた。
「……悪かった」
トゥイーディアが首を傾げて、俺の方を見た。
視界の端でそれが分かった。
「何がです?」
俺は息を吸い込む。春の匂いがした。
「――俺が、……変なことを答えたから」
ああ、と呟いて、トゥイーディアは前方に視線を戻した。
「いえ、そもそも私が尋ねたことです。
――それに、どのみち、」
小さく溜息を零して、トゥイーディアは小声で言った。
「皇太子殿下とのお話が上手くいってからというもの、同じようなお声はたくさん聞きました。私が――殿下に……ねぇ?」
大きく息を吸い込んで、トゥイーディアは両手を膝の上で握ったり開いたりした。
「――私が私の魔法を作ってからというもの、私と関わり合う方々に自由意思はないんです。
少なくとも、周りからはそういう目で見られますし、そう判断されます。
――ルドベキア、たとえば」
トゥイーディアが急にこっちに身を寄せて来たので、俺は危うく心臓を吐き出しそうになった。
思わずトゥイーディアの顔を見ると、彼女は至極真面目な顔で、大きな飴色の双眸で俺を見詰めていた。
涙の痕が目許と頬に若干残っていて、俺は心がざわざわした。
「私が魔法で、きみからの友情を獲得していたとすれば、どう思います?」
「…………」
俺は若干白けた。
俺が彼女に向けている感情を、友情だと言い切られたことこそが、彼女が俺に魔法を掛けていない証拠だった。
「――いやおまえ、そういうことしないだろ」
俺が面倒そうに言い切ったのが気に入らなかったのか、トゥイーディアは目を細めた。
「その認識も、私が刷り込んでいるものかも知れません」
「トゥイーディ、あのな」
と、俺は少しばかり居住まいを正して。
「周りがどう思っていようが、おまえがどう思っていようが、俺は自分の意思でこうやっておまえと喋ってるし、おまえとここにいるし、何回もここに来た。
俺がそれを一番よく知ってるから、誰から何を言われても気にすることじゃない。
俺がおまえをどういうやつだと思ってるかは俺が決めてるし、そのことを俺は知ってる。――俺はそう思ってるけど?」
言葉が支離滅裂になったので、俺は強引に自分の台詞を締め括った。
トゥイーディアは瞬きした。
まだ少し濡れている睫毛が上下して、藤に切り取られた陽光を艶やかに弾いた。
彼女が本気できょとんとした顔をしているので、俺も気まずくなって目を逸らした。
それから、もういちど呟いた。
「……ほんとに悪かった。俺のせいで」
「――……いえ」
少し長い間を取って、トゥイーディアが呟くように答えた。
彼女らしくない、ふわふわした声の出し方だった。
それからトゥイーディアは、気まずそうに俯いて、膝の上でぎゅうっと手を握り合わせた。
「――すみません、見苦しいところを見せました」
「は?」
訊き返した俺をちらっと上目遣いで見上げてから、トゥイーディアはいっそう小さな声で。
「――言い訳に聞こえるでしょうけれど、私、滅多に泣かないんですよ」
俺は頷いた。
「うん――さっきはびっくりした」
「ごめんなさい」
しゅんとした声で言われて、俺は慌てて手を振る。
「違う、びっくりしただけだから」
「ルドベキアは――」
トゥイーディアがおずおずと顔を上げた。
迷うように視線を泳がせたあと、トゥイーディアははにかむように微笑んだ。
頬が薄らと赤くなっていて、俺は彼女を抱き締めるのを堪えるためにぎゅっと拳を握って掌に爪を立てることになった。
「――素敵な人ですね」
トゥイーディアがそう言ったので、俺はてっきり空耳かと思って、真顔で「はい?」と訊き返した。
トゥイーディアはさっと目を逸らして、二度とその言葉を繰り返してはくれなかったが、ぽつんと呟いた。
「私――ええ、悲しいときには泣かないのですけれど、逆に……嬉しかったりすると、衝動的に泣いてしまうんです。悪い癖なんですけれど。
さっきのはそれです」
トゥイーディアは俺に視線を戻して、ふわっと微笑んだ。
飴色の目が細められて、またちょっと潤んでいるようだった。
髪の間から覗く耳まで赤かった。
「私が魔法のことであれこれ疑われたときに、庇ってくれたのはきみが初めてです」
「――――」
俺は息を吸い込み、庭園の方に目を遣ってから大きく息を吐き、トゥイーディアに視線を戻して、真顔で頷いた。
「――そっか」
トゥイーディアは瞬きして、気まずそうに俺から視線を外した。
それから軽く咳払いして、話題を逸らすかのように言った。
「……きみのお陰で、実をいうと私は、それほど拙い立場にはならないと思います。
条約がどうなるのかは分かりませんが、締結できれば御の字ですし――、締結できなかったとしても……私を揶揄う種が増えるというだけです。惜しいことですが」
損のない商取引だったのに、と悲しそうに呟いて、トゥイーディアはぼろっと。
「――ヴェルローがこの国に手を出す公算も小さいでしょうし……」
そう零してから、彼女ははっとしたように俺を窺った。
俺は即座に足許に視線を向け、ちょうどそこをくねくねと歩いていた蟻に気を取られた振りをした。
トゥイーディアはしばらく、警戒ぎみの眼差しを俺に注いでいたが、やがてそうっと言った。
「――あの、きみは大丈夫です?」
「っあ」
変な声を出して、俺は藤の天井を仰いだ。
薄紫の色合いでたわわに咲く藤の花が、花というより果実めいて目に映った。
白く差し込む日光が眩しい。
俺は目を閉じた。
「たぶん怒られる――あそこまで失礼に振る舞ったから……兄貴は怒髪天だと思う」
――実際には、非礼な行いを咎められることはないだろう。
彼らが俺を許さないとすれば、それは俺が今回の条約締結を後押ししかねない言動を取ったということと、今後しばらく、国王から招喚されることが無くなるかも知れないような言動を取ったということが理由だ。
レイモンドはまだなんとか機嫌を取れるかも知れないが、チャールズは完膚なきまでに俺を怒るだろう。
今頃、俺が卑怯にも魔法を使って逃げたことを察知して、俺を捜し回っているかも知れない。
片手で目許を覆って呻く俺に、トゥイーディアは若干おろおろしつつ。
「あの、申し訳ありません……ただでさえ大変な時期に」
「――――?」
俺は一瞬、なんでトゥイーディアが内殻消滅のことを知っているんだろう、と思って、目許から手を退かして顔を上げたが、すぐに彼女の意図が、「世双珠減産の原因調査で大変なときに」というものだと気付いた。
同時にはたと、今まではこの庭園でだけは、お互いに偶然会っただけであり、互いの身分を知らないという前提を守ってきたのに、今まさにそれを破っているということに気付いた。
俺は思わず跳ねるように背筋を伸ばし、トゥイーディアの顔を見詰めて眦を下げた。
「――トゥイーディ、ごめん。ここでは……」
「構いません」
俺が何を言いたいか察した様子で、トゥイーディアは物静かに言って微笑んだ。
「元より、どちらかといえば私の保身のためでした。――お付き合いさせてごめんなさい。でも、もういいでしょう」
嫌な予感に、俺は思いっ切り眉を寄せた。
トゥイーディアが、「もうここで会うのはやめましょう」なんて言い出したら、俺は恐らく寝込むことになる。
不安の余り、俺は思わず、何の捻りもなく言葉を吐き出していた。
「――トゥイーディ、これからも会える?」
トゥイーディアは一瞬、びっくりしたような顔をして瞬きした。
それからふわっと微笑んで、その表情が俺の心臓を温めた。
「ええ、もちろんです。きみがよろしければ」
そう言って、トゥイーディアは小さく首を傾げた。
蜂蜜色の髪が艶やかに肩を滑った。
言葉を選ぶような間を取ってから、彼女はもういちど口を開いた。
「――私はここで、きみと一緒にいるのは好きですし、……今日、もっと好きになりました」
にこ、と笑窪を浮かべて、トゥイーディアは俺を見た。
彼女は貴族だから、素直にものを話すのは慣れていないのかも知れない。
飴色の目にも、白皙の頬にも耳許にも、上気した熱が溜まって緊張した風情だった。
――トゥイーディアが知るはずもないが、この瞬間、彼女は俺を殺し掛けていた。
俺は理性を総動員して、都合がいい方向へ勘違いしそうになる想像力の手綱を引き絞っているところで、表情は結構お留守になっていた。
トゥイーディアは緊張を押し込めるように小さく息を吸ってから、ちりん、と耳飾りを鳴らして頭を振ると、小さな声で口早に、照れたように口走った。
「……きみが島にお帰りになるのが嫌だなと思う程度には、今日のことは――とっても嬉しかったんです」
◆◆◆
俺は短絡的にも、トゥイーディアからの言葉を心から喜んだが、後から振り返ってみれば、この日こそが、俺が彼女を追い詰めた日だったと言える。
――俺があの会議ですべきだったことは、ハルティ諸島連合はヴェルロー連合王国に与すると明言すること。
そして条約の締結を破棄に追い込むこと。
そうしていれば、魔法を殺す道も残った。
そうでなくとも、少なくとも――
――銀の花の咲く、南の海辺の帝国は地図に残った。
――銀髪紫眼の皇太子は、彼を生涯苦しめる呪いを掛けられることはなかった。
――俺が呪いを掛けられることもなかった。
◆◆◆
レイモンドはやっぱり俺を怒ったし、チャールズたちもさすがに怒髪天を衝く勢いで俺を怒鳴った。
「何をあんなにぶち切れたのか知らねえけど、なんでわざわざあの場で切れたりしたんだよ!」
と怒鳴られて、俺は形ばかりに頭を下げたり。
とはいえその一方で、レイモンドたちは上の人たちが「番人を連れて来い!」と憤怒露わに命じたのを止めてくれたらしい。
それを知ったときばかりは、俺は本気で自分の行いを反省した。
上の人たちの怒りは凄まじく、レイモンドたちが必死に宥めてなお、番人である俺を連れて来いと事ある毎に命じたらしい。
その様子に、ブライアンがぼそっと、「これ、一回大使さまを生贄にしちゃった方が後々のためなんじゃない?」と呟いているのを聞いてしまってからというもの、俺は心底怯え切って、予定のない日は宮殿の外に逃走する日が多くなった。
レイモンドは一頻り俺を叱ってから、「ちゃんと話しましょう」と言ってくれたが、それすら恐怖で俺は耳を貸さなかった。
何しろこの王宮には、俺を放り込むのに手頃な湖や池が沢山あった。
俺が会議で激怒したのが余程のこととして捉えられたのか、あれからしばらく、国王は俺を招喚しなくなった。
そのことがなおいっそう、上の人たちの怒りを買っているようだった。
何しろ、魔法の廃絶を訴えるに当たって、ああいった会議ほど都合のいいものはないはずなので。
トゥイーディアに関する悪評は、これまでにあったものに上積みされて囁かれた。
とはいえ、伯爵は伯爵である。
表立って貴族社会から爪弾きにされている様子はなかったが、トゥイーディアは疲れた顔をしていることが多くなった。
それと引き換えるように、あの庭園で俺を見ると、彼女は以前にも増して輝かんばかりに嬉しそうな顔を見せてくれるようになった。
そんなわけで、もしも俺に犬の尻尾が付いていたならば、その尻尾が千切れるくらいにはぶんぶん振っていることになっていたに違いない。
お互いに身分を知らない――という前提を無視するようになってから、トゥイーディアは尋ねれば身の上を答えてくれるようになった。
まず、彼女の生まれはパルドーラ伯爵領の端っこの方らしい。
「とんでもない田舎ですよ。隣町の特産品は宝石細工なのですけれど、そのための金銀宝石を掘る鉱山があってですね。夜中であっても坑道にトロッコが入ったり、逆に出て来たりしていて、ずーっと世双珠の光で山が照らされているんですよ。山に出入りする男の人は年中薄汚れていましたが、皆さん優しかったですね。特に私は、父なし子だったので」
と、悪戯っぽく言っていた。
トゥイーディアは七歳のときに、突然やって来た豪華な身形の人たちに領都に連れて行かれ、そこで初めて自分が伯爵の血筋だと知ったらしい。
彼女のお母さんは伯爵家の侍女をしていて、所謂ものの弾みで出来てしまった子だと言われたと。
なんでわざわざ伯爵家の人たちがトゥイーディアを迎えに行ったのかと言えば、そのとき流行り病と事故が重なり、前伯爵に四人いた子供のうち三人が急逝していたからだった。
因みに内訳は、子息一人に令嬢二人だった。
トゥイーディアからすれば、顔も知らない兄と姉と妹であった。
血筋を絶やすことを真剣に危惧した前伯爵が、念のためにトゥイーディアを回収したというわけだ。
とはいえトゥイーディアからすれば、突然雲の上の一家の中に放り込まれたようなもので、決して居心地は良くなかったらしい。
そしてトゥイーディアが十七になったときに前伯爵が逝去し、彼女の腹違いの兄が爵位を継いだ――ものの、僅か半年で病を得て急逝。
「呪いだと、ものすごい騒がれ方をしました」
と、トゥイーディアは顔を顰めていた。
俺はそこで、前々から疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「――呪いって、なに?」
「ただの噂です」
トゥイーディアは笑い出した。
「なんだかね、誰かに対して一心に何かを念じれば、魔力がそのように世界の法を書き換えて、相手の魂を縛るのですって。
それで、その誰かさんが来世からはずっと、決められた運命で生まれて来ることになるらしいですよ」
俺も思わず笑い出した。
確かに人間には魂があるし、そのことは広く知られているが、さすがにその魂を生を跨いで縛ることは不可能だ。
自分がずっと生き続けて、ひたすらその魂を監視できれば、あるいは可能かも知れないが――
――いや、待てよ。
「…………」
俺が唐突に真顔になったので、トゥイーディアが不安そうにした。
俺はそれには気付かなくて、少しばかり考えを巡らせる。
――内殻と外殻が世双珠の母石から魔力の供給を受けるように、掛けた呪いを母石と結び付けてしまえば、半永久的に魂を縛って刻印することも可能かも知れない。
そう思いつつ、俺は自分の思考に思わず笑った。
――いや、有り得ない。
そもそも母石に魔力を届かせようとすれば、せめて俺くらいの魔力は必要になる。
俺以上に魔力を備えている人間となれば、それこそ大魔術師と、以前に見たことのあるトゥイーディアの弟子くらいだ。
それに、いくら論理的に呪いというものが成立可能だったとしても、何をどう頑張っても今生には働き掛けようがない。
魂は命に結びつく。
命によって錠を掛けられる。
命がある限り、いくら母石の力を借りても、他人の魂に干渉できるわけがない。
呪いが発動するのは、呪いを受けたその次の生からだ。
だからトゥイーディアの親族を次々襲った謎の死も、彼らが揃って前世において大魔術師の恨みを買っていたというのならばいざ知らず、呪いのせいでは有り得ない。
俺が笑ったので、トゥイーディアはほっとした顔をしたものの、少々疑わしげに俺を窺って首を傾げた。
「……お疑いではありませんよね?」
「ないない」
俺は笑って首を振り、きっぱりと言った。
「現実的に有り得ない。
――で、兄弟が全滅したからおまえに爵位が回ってきたの?」
トゥイーディアは苦笑して肩を竦めた。
「おおよそ、そうです――ただ、前伯爵の、つまり父の弟君がいらっしゃって、その方が候補に上がったんですけどねぇ。候補に上がると同時に雲上船の事故で亡くなってしまって。もう本当に、伯爵家直系の血筋を持っているのが私だけになってしまったんですよ。
――まあ、幸いにも、最後まで生き残っていた兄の奥さまのお腹に、私の甥っ子に当たる子がいたので、」
軽く伸びをして、トゥイーディアはにっこりした。
「あの子が十三になって爵位を継げるようになれば、私はお役御免です」
「そのあとはどうするの?」
俺が興味津々に尋ねると、トゥイーディアは小さく息を吐いた。
「私の領地の――いえ、そのときには甥の領地になるわけですが、そこの女子修道院に入ります」
「修道院」
真顔で復唱し、俺は首を傾げた。
「なにそれ? ――島にはなくて」
トゥイーディアは肩を竦めると、両手を組み合わせて祈りを捧げる格好をして見せた。
ふっと伏せられた瞳が幻想的だったが、ちらっと笑った口許が悪戯っぽかった。
「ユスティドーヌに祈りを捧げるための場所です。女性しか入れないんですよ。
――言ってしまえば、私が子供を作ってしまうと、甥っ子の後継ぎ問題に響くわけでして」
俺はちょっと考え込んでから、呟いた。
「……退屈そう」
「ええ、きっとそうなります」
と、トゥイーディアも憂鬱そうに同意した。
長年日に晒されて白っぽくなった円卓に肘を突いて、藤の花を見上げて、トゥイーディアは吐息を零す。
「質素倹約を強いられる場所ですし、外には出られませんし、フィロメナにも会えなくなりますし」
俺は思わず自分の名前が出るのを待ったが、生憎とトゥイーディアは俺の名前を出してくれなかった。
俺はがっかりしつつも、「フィロメナさんとはいつから友達なの?」と。
トゥイーディアは特に抵抗なく、「私が爵位を継いですぐですよ」とだけ答えてくれた。
――トゥイーディアはそうやって、あれこれと彼女自身のことについて教えてくれたが、俺は尋ねられても頑として、自分が今までどうやって過ごしてきたのかを答えなかった。
どうしてもヘリアンサスのことに触れなければならないということもあったが、それ以上に、自分が夜な夜な殴り付けられていたり、あるいは櫃に入れられていたり――そしてそれを恐れているということを、好きな人に知られることが苦痛だった。
今ですら、俺は自分が上の人たちを恐れているのだということを、政治的な考慮を抜きにしても彼女に黙っていた。
俺は不意に、以前にトゥイーディアが語り聞かせてくれた御伽噺を思い出して、ちょっと冗談めかせて呟いた。
「――トゥイーディ、こうしよう。
修道院は抜け出して、空の向こうの光の宮殿まで行こう」
トゥイーディアは一瞬ぽかんとして俺を見たが、すぐにふふっと笑ってくれた。
良かった。
「何のことです?」とか言われたら相当落ち込むことになっていた。
――『空の向こうには光の宮殿があって、そこに住む人たちは、黄金と真珠を食べて暮らしている』。
「いいですね。きみも来ます?」
「行きたいな」
「じゃあ、先に着いた方が梯子を下ろしましょう。それでもう一人が昇れます」
「おまえが先に着きそう」
「なら、腕に縒りをかけて雲を紡いで、頑丈な梯子を下ろします」
「頼もしいな」
「ちゃんと昇って来てくださいね」
「そりゃもう」
そんな馬鹿な遣り取りをしながら、俺は、この人なら本当に空の向こうまで飛んで行ってしまいそうだな、と思いながらトゥイーディアの顔を眺めていた。
トゥイーディアがふとこちらを向いて、目が合った彼女はにっこりと微笑んだ。
木漏れ日がその肌の上で煌めいて、俺はうっかり笑い返すのを忘れるくらいに見蕩れてしまった。
――俺はそんな風に、半ば現実逃避ぎみに、前にも増して頻繁にトゥイーディアの庭園に逃げ込んでいたが、ある日とうとう上の人たちの前に出ることになった。
だがそれは、俺が無理やり連れ出されたものではなかった。
――諸島に一時帰還していたアークソンさまが、この王宮に戻って来たのだ。
◆◆◆
レイモンドからでさえ散々逃げ回っていた俺が、朝食の席でもたらされた、「昨夜にアークソンさまがお戻りになった」の一言で、即座に彼の前に出ることを了承したものだから、レイモンドたちは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
レイモンドは、「ちゃんと話しましょうと、従前から言っていますのに……」と悲しそうにしたが、俺はそれを聞こえなかったものとして振る舞った。
俺は朝食も疎かに、じりじりしながらアークソンさまから呼ばれるのを待ち、ようやくお呼びが掛かると、レイモンドに伴われて彼の居室を訪れた。
俺にも人並みの罪悪感はあったので、俺はレイモンドと視線を合わせないようにしていた。
アークソンさまの部屋は、いつぞや入った別の人の部屋と同じく、会議室と言っても通りそうな内装になっていた。
中には上の人たちが七人ばかりいて、俺はその光景を見た途端に竦み上がったが、ヘリアンサスの現状を知りたい気持ちが上回った。
俺は頭を下げて部屋の中に入った。
レイモンドがそれに続く。
足音を、床に敷かれた柔らかい絨毯が吸い取った。
椅子を勧められなかったので、俺とレイモンドは、上の人たちとテーブルを挟んで向かい合わせになる位置に、手を身体の後ろで組んで立った。
長旅の後とあって、アークソンさまは疲れているように見えた。
居並ぶ上の人たちの真ん中に座って、灰色の瞳で俺を見据えて眉を寄せる。
俺は思わず半歩下がった。
「――番人。お役目の懈怠甚だしいと、たった今聞いたところだが……」
俺は俯いて、ぎゅっと歯を食いしばった。
突然何かがこちらに向かって投げ付けられることを警戒したためだったが、如何なる衝撃が俺を襲うよりも早く、レイモンドが隣からそっと口を挟んだ。
「アークソンさま。番人に何も知らせていないことも一因かと」
アークソンさまの目がすうっとレイモンドに移って、俺も同時にレイモンドを見上げた。
この人の心の広さは、今から思い返しても、人生で出会った中でいちばんだった。
アークソンさまが無言でレイモンドを眺めている間に、俺はレイモンドから視線を引き剥がし、息を吸い込んで、一息に声を出して尋ねた。
「――ヘリアンサス……守人は大丈夫ですか?」
アークソンさまの目が俺に移った。
同時に、他の上の人たちもまた、俺を見た。
気のせいか、彼らの間の空気が張り詰めたように思えた。
「……アークソンさま?」
俺が呟くように呼んではじめて、アークソンさまが息を吸い込み、口を開いた。
視線が俺から逸らされて、彼の目の前のテーブルに落ちた。
そして、アークソンさまは言った。
「――問題ない。何も、問題はない。
今後はお役目に励むよう」




