47◆――人の意思
俺は自分が招喚されることを知らないはずなので、強いて普段通りの態度でいた。
そのうちに侍従がやって来て、国王が俺を招喚していることを報せる。
ここで二つ返事で承諾して怪しまれるのもごめんなので、俺はいちいち躊躇ってみたりする。
いつの間にか俺も、こういう知恵が回るようになっていたのだ。
俺が渋っているうちに、レイモンドが自分とチャールズの同行の許可を願い出た。
唐突に招喚されることなど初めてなので、大使を一人で赴かせることは避けたいという言い訳だ。
侍従にも、同行者を認める旨の命令が下されていたのか、彼は一も二もなく了承した。
侍従の了承を受けて、レイモンドが促してやっと、俺が腰を上げる――というような演技。
侍従に連れられて廊下を進む間中ずっと、俺は頭の中でぐるぐると、「島と話し合わないと詳しいことは分からない」、「ヴェルローを無碍には出来ない」と唱え続けていた。
件の会議室に案内された俺は、椅子が全て埋まっていたことを考えても、恐らく立ちっ放しで話を聞かれるのだろうと予想していた。
ところがそんなことはなくて、俺には誰かが空けてくれた椅子が割り当てられるようだった。
誰が席を空けてくれたのかは分からなかったが、その席は偶然にもトゥイーディアの左隣だった。
――公式の席で、ここまで距離が近くなることは珍しいことだった。
俺は少しばかり戸惑ったが、トゥイーディアはこちらを毛ほども気に掛けていないように見えた。
レイモンドとチャールズが俺の後ろに立つのを気配で察しつつ、俺は国王やら周囲の貴族やらに軽く頭を下げてから、勧められた椅子に腰掛けた。
俺は最近、緊張をいなすにはゆっくりと呼吸した方がいいと気付いていたので、このときも、敢えて深めの呼吸をゆっくりと繰り返していた。
そのうちに俺は、そもそも俺がこの会議の主旨を知っていることすら不自然だ、ということに思い当たった。
ゆえにちょっと周囲を見渡してみて、「少しお部屋が狭いのでは?」などと言って肩を竦めてみせる。
貴族の何人かが、咄嗟に笑いそうになったのを堪えたような顔をした。
国王は疲れた顔をして俺の冗談をあしらい、いつものように世双珠減産の原因調査の進捗を尋ねてきた。
俺はいつものようにそれを誤魔化して、国王がヴェルローの名前を出すのを待ったが、国王はなかなかその名前を出さない。
俺は思わず眉を寄せてから、はたと思い当たってその眉を開いた。
――俺はあくまでも他国の人間であって、自国の混乱を知られまいとしていても不思議はない。
俺は溜息を吐いて、脚を組んだ。
後ろでレイモンドとチャールズがびっくりしたのが気配で分かった。
びっくりさせて申し訳ないが、これが会議における俺のいつもの態度である。
――国王としても、ハルティの腹積もりが分からないと困るだろう。
だからそのうち、嫌でもヴェルローの名前を出すだろうが、……待つのも面倒だな。
廊下でずっと頭の中でぐるぐると唱えていたことだ。
さっさと吐き出したい気持ちがあって、俺はひとつ息を吐いて、自分から話題を出すことにした。
空とぼけて瞬きし、組んだ脚を解いて円卓に身を乗り出し、首を傾げる。
「――本日は妙に豪華なお顔が揃っておりますが、……昨日陛下にお客さまがあったと聞き及んでおりますが、その関係で?」
国王は顔色ひとつ変えなかった。
面倒そうに手を振って応じる。
「ああ――ヴェルローからの客です。大使どのにおかれましてはお気になさらず」
俺はにこっと笑ってみせた。
「ヴェルロー。お客さまの行き来があるほど親しいお国とは存じませず」
親しいどころか、ともすれば戦争になりかねない大問題の最中である。
国王はさすがに眉ひとつ動かさなかったが、周囲の貴族の若干名が眉を寄せた。
「――なにぶん海を隔てておりますゆえ、それほど活発な国交には至らず」
国王が幾分か慎重にそう言って、それから鮮やかに言葉を繋いだ。
「ヴェルローといえば、我が国も及ばぬ魔法大国。……世双珠の減産、先行きも分からぬ状況が続いているようでございますが、彼の国への輸出は支障なく行っておいでか。ヴェルローが世双珠に困窮するようでは、西の大陸全体が傾きかねませんが」
「ああ――お客さまからはお聞きでいらっしゃいませんか?」
俺はそう言葉を返しつつ、こっそり息を吸い込んだ。
ちらりと周囲を窺えば、ほぼ全員が息を呑んで俺を見ている。
俺はにこっと笑った。
「――ここでヴェルローへの世双珠の輸出状況を確と申し上げる必要もないかとは存じますが、」
正直に言うと、明言できないというところがある。
〝えらいひとたち〟が、これからヴェルロー向けの輸出を絞るのか、それとも当面はその予定はないのか、俺たちは知らない。
「我々にとっても重要な輸出先のうち一国ですよ」
国王も鷹揚に笑った。
「――ほう、さすがはヴェルロー……我々ではその分野であっても及びもつきませんか」
俺は曖昧に肩を竦めた。
仕草では誤魔化し切っていたが、実のところ緊張のあまり冷や汗が背中を濡らしていた。
「比べるものでもございませんが」
「然様で。――いや、世双珠はどこの国にとっても生命線。少々敏感になっておるようで、失礼した」
国王はそう言いつつも、探るように俺を見ている。
俺は努めて顔色を変えないようにしたが、耐えかねて視線は逸らしてしまった。
そのとき、俺の隣から声が上がった。
明瞭で落ち着いた、それはトゥイーディアの声だった。
「――失礼、大使さま。カロック帝国は如何です? 以前何か……仰っていたような」
「――――」
咄嗟にトゥイーディアの方を向いて、俺は束の間絶句した。
それは、背後のレイモンドにも共通していることだった。
――確かに俺は過去に、カロックに対しては優先的に世双珠を輸出すると仄めかしたことがある。
そのときの目的は、トゥイーディアのカロックに対する警戒心を強め、親密な国交を防ごうとするものだった。
だが、今は状況が違う。
今この状況において、カロックは、ヴェルローに対峙するに当たり友好国となり得る国だ。
つまり今、カロックへの世双珠の輸出を保証してしまえば、それはレンリティスがカロックと条約を締結する後押しになりかねない。
ヴェルローの圧力を撥ね退ける一因になりかねない。
――だから否と答えるべきだ。
カロックとて、この状況では優先的な輸出の対象となり得ないと明言するべきだ。
理性でそうだと分かっていても、俺は声が出なかった。
後ろで、レイモンドとチャールズが焦っているのが分かる――それでも咄嗟に返答できなかった。
――トゥイーディアの飴色の大きな瞳が俺を見ている。
情動豊かなその双眸が、私情を抑えてこの状況を俯瞰しているのが分かる。
カロック帝国を巻き込んだ、この渾身の一撃に、トゥイーディアはどれだけの時間を費やしたことだろう。
自分の利益のためばかりではなくて、この国全部の、自分の領地の、延いては未来の、そういう全ての利益を考えた一手だったはずだ。
その一手から、トゥイーディアが手を引くことすら一考していると、ありありと分かった。
――状況を俯瞰して、情報を集めて、条約締結が自国のためにならないと判断すれば、この大きな栄誉から手を離すつもりでいるのだ。
そのための質問だ。
俺が否と答えれば、トゥイーディアの考えはカロックとの条約を破棄する方向に動くに違いない。
戦争になれば最前線に立つと明言してはいたが、実際にいざ戦となれば多額の財が民から国へ動く。
多くの人の生活が圧迫される。
そういうことを看過できる人ではない。
俺はそれを知っている。
だから、俺は、この場で否と答えるべきだったのだ。
――俺が言葉に詰まったのは僅かに三秒程度、そののちに、どっと声が上がった。
「パルドーラ閣下、大使さまがお困りですよ」
「まったく――あちこちに口を挟みたがる御方だ」
「伯爵閣下に無礼だぞ、黙れ」
「少しは慎まれませ」
「大使さまに、我が国の女性は慎みがないと誤解されてしまいましょう――」
あちこちからわっと声が上がって、トゥイーディアが眉を寄せた。
だがすぐに、気にする程のことでもないと思ったのか、周囲に向かって、座ったまま優雅に頭を下げた。ついでに、自分を擁護した人に向かっては、ちらっと笑みを浮かべて見せた。
「失礼を。――ただ以前、大使さまが仰っていたことが気に掛かりまして……最近訪ったばかりのお国ですから、気になりまして」
「貴女の小旅行の話はもうよろしい」
水を浴びせるようにして、国王の従弟に当たる公爵がそう言った。
――顔を上げたトゥイーディアの瞳に憤激の光が走ったのを、俺は見た。
あからさまにトゥイーディアの功績を軽んじる言い方だった。
――今となっては功績だったのかも危ういが、それでも一時は持て囃されたものだった。
事態が転ぶ方向によっては、今後もそういった見方をされるべき事柄になるかも知れない。
それを、まるでトゥイーディアが趣味で旅行をして来たかのように言い切られて、気分が良いはずもなかった。
――他国の大使である俺がここにいる限り、トゥイーディアがあけすけに悪く言われることは、滅多なことではないだろう。
他国の人間の前で、内輪揉めを披露する貴族や官吏などいようはずもない。
だが、だからこそ、トゥイーディアが今までに受け取って来た侮蔑を下地にして、明確な悪意よりも針で刺すような皮肉を感じさせる一言だった。
更に言えば、公爵はトゥイーディアに比べて遥かに身分の高い人だ。
堂々と言い返せるはずもない。
ゆえに黙り込まねばならないがゆえの、憤懣ゆえの激情だった。
キルディアス侯が、ふっと笑ったのを隠すように口許に手を遣り、俯いた。
それを徹底的な無表情で眺め遣ってから、トゥイーディアは呟いた。硬い声だった。
「――失礼いたしました、閣下」
「カロックは、」
覚えず、全く無意識に、俺は口を開いていた。
「――確かに優先的な輸出の対象です。
雲上船の生産が停止すれば、皆さまもお困りかと」
レイモンドが呻いた。
俺が絶対に言ってはいけない一線を踏み越えたことを取り返そうとして、この場で初めて彼が口を開いた。
「――失礼、皆さま。大使も。これについては島と協議中でして」
「協議中?」
と、国王が真顔で復唱し、俺を見た。
俺は背筋が凍るのを感じた。
――長年玉座に座してきた人間の、明瞭な重みのある視線だった。
「協議中ならばなぜそのようなことを仰った」
「――――」
俺が息を吸い込むうちに、周囲からどっと声が押し寄せてきた。
殆どが、条約締結を支持する官吏や貴族たちの声だった。
「カロックは、では、世双珠の輸出量を減らしていらっしゃらない?」
「いえ、いえ――勿論、雲上船は産業の要。
ご英断かと存じますが――今後もそのご方針を維持されると?」
「なるほどこれは心強い――如何せん、雲上船の生産が止まってしまえば、ゆくゆく苦労いたしますからなぁ」
誰一人席を動いてはいなかったが、俺はまるで無数の人間に詰め寄られているような気持ちになってきた。
自分が踏み外してはいけない一歩を踏み外したことはよく分かったが、今さら取り返しようもない。
次の一言をどうするべきか、俺は逡巡を悟られないよう、単純に周囲の声を聞いているだけだというような顔を作って黙り込みながら、その実必死に頭を働かせていた。
チャールズが小さく、「ばか」と呟いたのが聞こえてきたが、それに反応している余裕もない。
条約推進派がわっと俺に声を掛け、それに遅れること数十秒で、明らかに条約を破棄した方が安全だと考えているだろうライラティア将軍が、よく透る声で言った。
「――ヴェルローあての世双珠輸出量には言及なさらないのに……なにゆえカロックあての輸出量は明言なさる?」
俺よりも遥かに回転のいい頭脳を持つトゥイーディアが、そのとき僅かに怯んだ顔をしたのを、俺は視界の端で見た。
すぐにトゥイーディアは表情を繕ったものの、そのときには既に、懐疑の視線が彼女に集中していた。
俄かに会議室が静まり返った。
俺は何が起こったのか分からなかったが、会議室のほぼ全ての視線がトゥイーディアに向いて、決して友好的とは言えない感情を湛えていることには気が付いた。
トゥイーディアは顔を上げていた。
全くといっていいほど、表情に感情を載せていなかった。
静まり返った湖面に石を投げるようにして、誰かが――恐らくは席がなく、立って列席している誰かだと思われた――、小さく呟いた。
「……まさか、ねえ?」
その声を皮切りに、ざわざわと、恐ろしいほど静かに、囁き交わす声が泡のように上がり始めた。
トゥイーディアに向いていた視線が、仲間内で見合わせられ、交わされ、頷き合わされる。
「――いや、さすがに、女伯といえど」
「――だが確かに……カロックあての世双珠の輸出が確かだと大使さまが仰れば――陛下も条約批准に前向きになられる可能性は……」
「――条約の骨子は、女伯のご提案だ」
次々に視線が、トゥイーディアに向かって翻る。
そこに明確な危機感と嫌悪の色がある。
「まさか、パルドーラ閣下――」
誰かが言った。あるいは複数人が声を揃えた。
「――大使さまに何か、……なさいました?」
トゥイーディアの頬に血が昇った。
同時に俺が、言葉を失って絶句した。
――もう半年以上前のことになるが、薔薇園の観賞会において、トゥイーディアの魔法を、“麻薬の類よりも質が悪い”、と評した貴族がいた。
彼女の魔法が、人の精神にすら干渉することを叶えるからだ。
トゥイーディアが人の自由意志を奪うことが出来る、この世で唯一の魔術師だからだ。
だから今、トゥイーディアは、俺が彼女にとって有利になる発言をするよう魔法を掛けたのではないかと、その疑いを掛けられている。
些細にも程があるきっかけで、全員がその可能性に思い至ったということ――そのことこそが、トゥイーディアが常にそういった疑いを孕んだ目で見られているという、何よりの証左だった。
――がっと頭に血が昇った。
眩暈すらして、俺は言葉さえ見失って息を吸い込んだ。
トゥイーディアがあらぬ疑いを掛けられているというだけで、俺が激昂するには十分だったが、加えてその言い掛かりに自分が使われたということが、耐え難いほど腹立たしかった。
「――いいえ」
トゥイーディアが言い切った。
頬の赤みは烈火の怒りだった。双眸が爛々と煌めいている。
「些細なことで何を仰いますやら。――元よりわたくしの魔法は、効果が永続するものではございません。お疑いなら後日大使さまに、同じ質問をなさればよろしいでしょう」
「閣下が魔法を掛けられる状況で、また同じ質問を?」
官吏の誰かが真顔で尋ねた。
――悪意のある様子ではなかった。
純粋にそれを疑問に思っている様子だった。
トゥイーディアが息を吸い込んだ。
その息が震え、吐き出した声もまた、戦慄くように震える。
「――わたくしに席を外せと仰るのであれば、そのように致しますが」
「閣下、なぜ大使さまにカロックへの世双珠の輸出量をお尋ねに?」
キルディアス侯が軽やかに尋ねた。
表情はいっそ伸びやかで、この場で唯一トゥイーディアと同じ土俵に立っているがゆえの、余裕すら滲んだ眼差しだった。
むしろ、何かの目配せを感じさせるような瞳ですらあった。
トゥイーディアは苛立たしげにキルディアス侯を睨み据えた。
「申し上げましたでしょう。訪ったばかりのお国です――安否を気に掛けることは異常ですか?」
「いえいえ、とんでもない」
キルディアス侯はひらひらと手を振って、にこっと笑った。
どちらかといえば、苦笑に寄った笑顔。大粒の薄紫の瞳が煌めく。
「ただ、余りにもご都合がよろしいかなと浅慮いたしまして。
――閣下がカロックへの世双珠の輸出量を確認して、大使さまはそれだけにはお答えになった。まるで示し合わせていらっしゃったようですわね、仲のよろしいこと。わたくしのお客さまですのに、少しばかり寂しいですわ。
――まあ、こうしてわたくしは、不自然な点を指摘させていただけているわけですが」
肩を竦めたキルディアス侯は、ふふっと笑い声を上げてみせた。
が、今に限っては、それに追従して笑い声を上げる者はいなかった。
もはや、正体不明の害虫に向けるかの如き視線がトゥイーディアに集中していた。
トゥイーディアの頬の赤みが急速に引いた。
彼女がここまで顔色を失うところを、俺は初めて目の当たりにした。
――俺は口を開いた。
ようやく言葉が形になりそうだった――断じて違うと保証するつもりだった。
だがその瞬間、すっとチャールズが俺の耳許に顔を寄せて、押し殺した声で囁いてきた。
「――便乗しろ、大使さま。今ならさっきのの取り返しがつく。
女伯からの心象はもう大事じゃない」
その一瞬、俺は掠めるようにトゥイーディアの横顔を見た。
――隣からの助力など、全く以て思慮にも入れていない横顔だった。
血の気の失せた顔でなお、どう言葉を作れば説得力があるのかを考えている、聡明な眼差しだった。
それと同時に、自分の――友人のための優しい魔法が悪し様に罵られ、害虫に向けるかの如き視線を受けて傷付いているのが、噛み締められた唇から分かった。
――俺の頭の中で、何かの糸が切れる音がした。
俺は既に、上の人たちからの命令に、十分過ぎるほどに背いてきた。
これ以上彼らの意に反することをすれば、もしかしたら本当に、この国にいる間に殺されてしまうかも知れない。
――常に頭にあったはずのその考えを、俺はこの瞬間忘れ去っていた。
肘でチャールズを後ろに押し遣って、俺は口を開いた。
頭の中が妙にふわふわして、腸に至っては煮え繰り返るほどに熱くなっていたが、別人の声のように冷静な声が口から飛び出した。
「――俺がパルドーラ閣下と同じ魔法を使えたなら、まずはあなた方を黙らせますが」
周囲の目が俺を向いた。
チャールズとレイモンドが、凍り付いたように動きを止めた。
「戯言に耳を傾ける程度には、閣下はお優しいらしい。
――俺にはとても無理ですが」
トゥイーディアが、一拍置いてから、耳を疑うといった顔で俺を見た。
本気で怪訝そうにしていたので、俺は思わずちょっと笑ってしまった。
だがすぐに、この場の雰囲気の気色悪さに中てられて、俺は顔を顰めた。
「俺に好きなように物事を喋らせることが出来るなら、周りの人間にも働き掛けて、まずはご自分に疑いが向くことを防ぐ――それが当然の心理では?
お話ししたところ、」
俺はトゥイーディアに目を向けてから、周囲を見渡して肩を竦めた。
「閣下は非常に聡明であらせられる。
あなた方が自由に閣下を批判できていることこそ、閣下が魔法を使っていらっしゃらない証左でしょう」
数秒、誰もが黙り込んだ。
その静寂の中でくすっと笑って、キルディアス侯が口を開いた。
「そうですわねぇ、如何にも。わたくしは幸い、閣下と同程度には魔力に恵まれておりますので、もしかしたら閣下もわたくしにだけはお手を出しかねるかも知れませんが、他の皆さまは違いますものねぇ」
俺は一瞬、キルディアス侯がなぜここでトゥイーディアの味方をするのか、意図を掴みかねて怪訝な顔をしてしまった。
――とはいえ、顔を見れば答えは一目瞭然だった。
キルディアス侯は、トゥイーディアが誰にも魔法を掛けていないということを知っている。
信じているとかではなくて、自分の魔法の力量を弁え、冷静に状況を見て確信している。
だからこそ、こんな不毛な議論をさっさと終わらせて、話を先に進めたいのだ。
――だが、なお、呟く官吏があった。
「……お二人は本当に――ご自分で話していらっしゃる?」
キルディアス侯が笑い出した。
まるでその言葉が、気の利いた冗談か何かであるかのように。
一方の俺は殆ど無意識に、官吏の方を向いてはっきりと言っていた。
「――俺がパルドーラ閣下の魔法の支配下にあって、なおそれを自覚できない程に魔法の才に恵まれていないと、そう仰っておいでか。
ハルティの、最も魔法の粋に近い場所で育った大魔術師に」
どんどん腹の底に苛立ちが溜まって、俺は語調を荒らげた。
「俺がひとつ質問に答えただけで、俺のその意思までお疑いか。ならば俺が以後、ここに参ろうが参るまいが変わりないということでしょうね? 今後は俺にするはずの質問を、全てパルドーラ閣下になさればよろしかろう。
――それで構わないと、あなた方が今仰っているのはそういうことだ」
俺は席から立ち上がった。
動揺の声があちこちから上がった。
ハルティの大使がここまで激昂するとは、誰も予想だにしていなかったのだろう。
そして動揺の声は、俺の後ろからも上がっていた――全く恩知らずにも、俺はそれを無視した。
「でしたら、失礼させていただく。今日のお話については、こちらも考えさせていただきますのでそのおつもりで。
――俺の言葉に信を置かないと仰るなら、以降わざわざ俺のためにお時間を頂戴するまでもないかと存じますが」
「大使さま」
国王が、まさかの事態にさすがに焦った様子で腰を浮かせた。
俺は殆ど無意識に、そちらを睨み据えていた。――〝えらいひとたち〟に比べれば、矮小にも程がある人だと思った。
「――俺は俺の意思でここに来て、ここで話して、俺自身の意思で答える質問を選んだ。
それをお疑いならば、これ以上俺に何かお尋ねになることがありますか?」
むしろ物静かなまでの口調で尋ねた俺に、国王が緩く息を吐いた。
そして椅子に腰を落ち着け、為政者らしい聡明な声で言った。
「大変失礼申し上げた。結構――お戻りください」
迷いなく俺は踵を返した。
その瞬間に面と向かい合うことになったレイモンドとチャールズが、初めて見るような激怒の顔をしていたので、平常時であれば怯えていたところだ。
ただし今は、憤懣と激情でそれどころではなかった。
怒りの余りに眩暈がして、視界が定かではなかったと言ってもいい。
続いて俺は背中で、国王の静かな声を聞いた。
「パルドーラ。外しなさい。
少し落ち着け――私はそなたが公正を好むと知っている」
トゥイーディアが小さな声で、「御意のままに、陛下」と応じるのが聞こえた。
トゥイーディアが立ち上がった。
かたん、と椅子が動く小さな音がして、続いて衣擦れの音がした。
俺とは違って、トゥイーディアは丁寧にその場に頭を下げてから踵を返した。
そのために俺の退出と時間的な僅かなずれが生じて、俺が会議室の外に出て、このあと死ぬほど怒られるんだろうな、と分かるくらいに怖い顔をしたレイモンドとチャールズに、「さっさと戻るぞ」と促されてから、滑るように会議室の外に出て来た。
会議室の外には、それぞれの貴族の侍従が控えている。
トゥイーディアの侍従が、どうして自分の主人だけが大使と一緒に出て来たんだ? と言わんばかりに不思議そうな顔をしながらも、トゥイーディアに駆け寄って行った。
「――あなたの成長をなかったことに出来るなら、私は何でもします……!」
扉が閉まる、重々しい音に紛れるようにして、レイモンドが押し殺した声で囁いた。
「まさかここで――これほど全部を滅茶苦茶にしてくださるとはね……!」
俺は意地でも謝りたくなかったので、ぎゅっと口を閉ざしていた。
そして視界の端で、トゥイーディアが疲れた仕草で侍従を留めて、「先に戻って」と合図するのを見た。
周囲の目があるから、レイモンドもチャールズも、傍目には丁寧極まりなく俺に接していた。
さすがに、腕を掴んで引っ張って行かれるような事態にはなっていない。
――俺は息を吸い込み、しばらく息を止め、それから振り返った。
トゥイーディアは侍従を先に戻らせて、意地と根性を詰め込んだみたいな表情で顔を上げて、廊下を向こうへ歩いて行こうとしている。
彼女がどこへ向かおうとしているのか、俺は確信の域で察して、息を吐き、少し迷って、
――指を鳴らした。
――がきん、と、音にもならない轟音が響いた。
檻の扉が落ちる音だ。
俺がこの辺り一帯の人を、俺が定義する時間の牢に閉じ込めた音。
その例外として置いたのは、俺自身とトゥイーディア。
浅縹に塗り潰されたあの世界に引っ張り込むことも防いで、俺はトゥイーディアの様子を窺う。
トゥイーディアは、さすがと言うべきかすぐに異常に気付いて、警戒するように周囲を見渡し、動きを止めた人たちを怪訝そうに窺っている。
俺はそっとレイモンドとチャールズの傍を離れて、トゥイーディアの方へ歩み寄った。
トゥイーディアは足音で俺に気付いたのか、くるりと振り返って驚いた顔。
「……まあ。――ルドベキアの魔法ですか? すごい……」
いつもの明るい声だったが、声が僅かに震えていた。
うん、と頷いて、俺は小さく息を吸い込み、トゥイーディアに向かって手を差し出した。
トゥイーディアは目を丸くして俺の手を見て、それから俺の顔を見て、首を傾げた。
飴色の瞳の中で、くるりと光が泳いで見えた。
「トゥイーディ、イーディ、ディア。もしかして今からあの庭に行くの?」
俺が尋ねて、トゥイーディアは迷った様子ながらも頷いた。
躊躇いがちな瞬きが、彼女の瞳に翳を落とした。
俺はトゥイーディアに向かって手を伸べたまま、彼女までの距離を半歩詰め、軽く頭を下げて呟いた。
「良ければ一緒に行かせてほしい。――トゥイーディ、ごめん。ちゃんと謝らせて」
何をどう考えても、俺が半端にトゥイーディアの質問に答えたことが全ての発端だ。
――そう思っての言葉だったが、トゥイーディアはしばらく答えなかった。
「…………?」
俺はおずおずと顔を上げ、――ぎょっとして息を呑んだ。
トゥイーディアは俯いて、唇を噛んで、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。
瞳は見えなかったが、長い睫毛が濡れているのがはっきりと見えた。頬を滑る雫が見えた。
トゥイーディアが泣いているところを初めて見たので、俺は茫然としてしまった。
「――ごめん……」
愕然としながら、俺は呟くように謝った。
それしか言えないぽんこつな自分が恨めしかったが、トゥイーディアはゆるゆると首を振った。
――トゥイーディアは一人になりたいのかも知れない。
少なくとも、俺と一緒にはいたくないかも知れない。
そう思って、俺は差し出していた手を引っ込めようとした。
だがその直前に、トゥイーディアが伸ばした両手が、ぎゅうっと俺の手を握っていた。
「――――」
しばし茫然としたあと、俺は躊躇いながらもトゥイーディアの手を握り返して、遠慮がちに尋ねた。
「……一緒に行っていい?」
トゥイーディアが頷いた。
俺は少しだけほっとして、トゥイーディアの手を引いて歩き出そうとしたが、トゥイーディアはふるふると首を振って、半ば懇願するように呟いた。
「――ルドベキア、先を歩いてください」
「えっ?」
訊き返した俺に、トゥイーディアは片手を俺の手から離し、ドレスのかくしから白い絹のハンカチを取り出して赤くなった目許を隠しつつ、鼻を啜って小声で続けた。
「……他人に泣き顔を見られたいという女性は、大抵、いません」
俺は思わず、片手で目許を隠して口走った。
「見てないよ」
結構馬鹿な振る舞いではあったが、トゥイーディアは小さく笑ってくれたようだった。
握った手が微かな笑みのリズムで揺れて、俺にそれが分かった。
トゥイーディアの細い指にぎゅっと力が籠もる。
俺は彼女の要望通りに先に立って、時間が停まった宮殿の中を、ゆっくりと歩き始めた。




