40◆――雪に佇む
トゥイーディアの“渾身の一撃”が明るみに出たのは、何を隠そう俺も出席していた晩餐会でのことだった。
粛々と晩餐会が――冬場なので質素なものだったが――進んでいたところ、雲上船の話題になった。
そのときに、場の貴族の殆どが、俺の方を窺っていたことを覚えている。
何しろ雲上船――世双珠の恩恵の最たる象徴である。
世双珠の減産について知っている貴族は限られていたが、レンリティス向けの世双珠の輸出量減少については、あらゆる貴族の知るところだった。
つまり、雲上船の話題を出して、俺の反応が見られていたわけである。
俺もそれは分かった。
分かったので、気を引き締めた。
そこで横から別の貴族が言い出したわけだ。
「――雲上船といえば……パルドーラ伯がカロックまで赴かれるとか」
「――――!?」
満場一致の驚愕の視線がその貴族に向かったものの、彼自身は涼しい顔。
その場に、もしも俺が観客の立場でいたのならば、恐らく大笑いしていたことだろう。
大の男が軒並み揃って、冗談みたいに目を剥いて視線の方向を一致させているのである。
「……カロック?」
最初に息を吹き返した胆力のある誰かがそう言って、それを皮切りに、一気に場がどよめいた。
「なぜ? 我が国と――特段の一対一の付き合いはまだ――」
「条約も特に……連合して批准しているものはあるが――」
もはや晩餐どころではない。
俺も俺で、「トゥイーディアはカロックまで行くのか」とようやく分かって、必死に頭の中でカロック帝国の位置を思い出そうとしていた。
――確か……東の(この)大陸の、南海岸の。
その場の空気を見事に塗り替えた貴族の彼(名前は覚えていなかった)は、一人したり顔でナプキンで口を拭う。
「ええ、まあ、閣下にもお考えがあるのでは。こういった状況ですから――」
こういった状況、と言いながら、彼は結構あからさまに俺を見てきた。
俺はどういう顔をするべきか迷ったが、そのとき、がたんっと椅子を蹴立てて、別の貴族が立ち上がった。そっちの彼の顔は真っ赤だった。
「ちょっと待て、おまえ――おまえ――」
そっちの彼の顔に、俺は見覚えがあった。
見覚えがあるということは、彼はどちらかといえばキルディアス侯に近い陣営の人間だったはずだ。
で、その彼が馴れ馴れしく「おまえ」と呼び掛けているということは――
どうやら旧知の仲らしい相手に黙って陣営をこっそり移していたらしい彼は、そそくさと口許を拭うナプキンを置いて、しれっと話題を変えようとした。
だが、まあ、そんなことが許されるはずもなく、すぐさま周囲の貴族が血祭の勢いで彼が提供した情報に喰い付いた。
真っ赤な顔をした彼がいちばん気合が入っていた。
俺は若干茫然としていたが、それでも、聞き耳を立てていないと拙いだろうということくらいは分かっていた。
そしてその結果、どうやら風向きが変わりそうだぞ、ということを感じ取った。
◆◆◆
使節団の面々も、当然ながら驚愕した。
晩餐会のあと、俺がパルドーラ伯の動向について報告しただけのときは、「そんなまさか」みたいな顔をしていたが、この晩餐会を皮切りに――トゥイーディアが情報規制を解いたのか何なのか――、ぽこぽこと情報が出て来た。
そのうちみんな真顔になった。
使節団の人たちが忙しくあちこちから情報を収集してきて、その間は俺に対する、「さっさとお役目を果たせ」という圧すら和らいだほどだった。
「どういうことだ」
「国王は前々から知っていたはずだ――」
「そりゃそうだろ、他国の皇太子に会いに行くんだぞ、自分のとこの君主に何も言わずに準備できるかよ」
「つまり何か? 国王は国王で白を切ってたと」
「白を切るも何もこっちは何も訊いてない。
――ただ、キルディアス侯もマジで知らなかったっぽい」
「あの方は国王のなさることになら何も口を出されないよ……」
「大体、この状況でなんでわざわざカロックに行くんだ、女伯は」
――というようなことを、使節団が目の回るような勢いで突き止めては話し合い、俺も当然――状況が分かっていないと拙い立場なので――そういった報告の場には必ず同席させられたが、トゥイーディアの渾身の一撃が予想以上に決まっているのを見て、立場を忘れて感嘆せざるを得なかった。
レイモンドたちが色々と調べた結果、明らかになったことが二つあった。
まず、今回の件はパルドーラ伯と国王をはじめ、本当に少数の人しか知らなかったこと。
キルディアス侯が首尾よく俺を――ハルティの大使を――招くことに成功したときと同様、今回はパルドーラ伯がキルディアス侯の鼻を明かした形になる。
次に、目的。
当初は、雲上船の市場を独占しているカロックと親密な国交を結ぶことだったのだろうが、世双珠の異変があって、今は微妙に違うらしい。
カロックの皇太子は、曲がりなりにも大魔術師の一翼。
つまりは、世双珠を使うものも世双珠を使わないものも区別なく高度に扱える、魔法に関する知識と技能の最高峰の一角なのである。
世双珠がなくなるなら、それに頼らない魔法もきちんと充実させる必要があるため、パルドーラ伯はそれも含んだ意見交換を考えているのだろうということ。
――トゥイーディアの考えは真っ当だったし、危機対応のお手本のような手際だった。
だが、使節団は困る。
魔法を廃絶したい側としては大いに困る。
「――魔法が世双珠に依存しなくなったら、どうやって魔法を失くしていくんだよ……」
と、誰かが押し殺した声で呟いていて、それは真理だった。
――魔法を扱うに世双珠の助けを得ることが当たり前になっている世の中だからこそ、世双珠の原産地であるハルティは魔法廃絶のために動くことが出来ている。
世双珠に頼らない魔法が主流になってしまえば――効率からいって、そんなことは有り得ないだろうが――、もはや打つ手はなくなるのだ。
「カロックへの世双珠の輸出はどうなってる」
と、レイモンドが焦った様子で確認していて、「既に減らされているはず」との返答が誰かからか上がった。
すなわちカロック側も、世双珠の輸入に対して異変を察知しているはず、ということだ。
――つまり、カロックの皇子がトゥイーディアの話に乗りかねない。
全面的に仲良くなりかねない。
そういうことを認識した上で、俺はふむと考え込んで首を傾げ、誰にともなく問い掛けた。
「……俺、もしかして、パルドーラ伯と仲良くした方がいい?」
「――分かるようになったじゃないか、大使さま」
チャールズが誇らしげに言って、俺の頭をくしゃっと撫でた。
――今の俺たちが――というか、使節団が――最も警戒すべきなのが、ハルティ諸島連合が他国に攻め込まれることだ。
魔法を撲滅せよなんて、過激派みたいなことを主張しようとしているのだから当然に。
内殻は、番人である俺以外からの干渉は一切受け付けない。
尤も、内殻を維持する魔力の供給源である母石が――有り得ないことだが――消滅でもすれば、恐らく消えて行くだろうけど、これは事象として有り得ないので考えなくていい。
そして、内殻が守るのは地下神殿のあるあの島だけで、外殻は恐らくトゥイーディアなら突破可能。
つまり、ヘリアンサスと母石を守り抜くことが出来ても、その外側がまるごと滅ぶ危険性はあるわけだ。
そして、それほど壊滅的な被害を齎すことが出来る存在として、一番に警戒すべきなのは、言うまでもない――大魔術師だ。
世界に五人と謳われる魔法の最高峰だ。
俺は諸島の人間だが、他の四人が敵に回ればハルティ滅亡が有り得る。
敵対するのが大魔術師一人程度なら、同じ大魔術師である俺が諸島側にいることが抑止力となって戦争にまでは至らないだろうが、二人以上が並び立つとなれば話が変わる。
つまり、何よりも避けるべきなのが、複数の大魔術師を敵に回すこと。
パルドーラ伯がカロックに赴き、もう一人の大魔術師である皇太子とお近付きになるというならば、パルドーラ伯の機嫌を損ねるのは下策中の下策なのだ。
「それに、魔法を――啓蒙していこうとするのも、止めないといけませんし……」
と、疲労の窺える声でレイモンド。
ただでさえ、俺が翻した反旗に手を焼いているところにこんな事態が勃発して、使節団のみんなの心労は察するに余りある――と、今なら思える。
とはいえ、貴族の勢力図が書き換えられかねない重大事であることは確かだった。
何しろ、世双珠の供給減の先が見えない状況。
大魔術師を擁する他国と渡りをつけるのは悪くない手で、その立役者となりそうなパルドーラ伯に、今のうちに胡麻のひとつも擂っておきたい、と思う連中は結構いる。
ただでさえ軽んじられている彼女のこと、「女が大人しくしていられないのか」と、やっかみじみた声もあったが、嫉妬を殴り返すのはトゥイーディアが得意とするところでもあった。
――そして、胡麻を擂っておきたい勢力がここにもひとつ。
何を隠そう俺たち使節団。
胡麻を擂ったあとに騙まし討ちにしてでも力を削ぎたいと考えている段階で、トゥイーディアにとっては害悪でしかなかったが、だからといって俺に、声を大にして否といえる度胸があるわけもなかった。
方針転換。
キルディアス侯が多少機嫌を損ねようが、パルドーラ伯とお近付きになるべきだろう。
そういう流れを思い描いて、俺は思わず微妙な顔で唸ってしまった。
正々堂々トゥイーディアと話す機会があるのは嬉しいが、だからといって、彼女に打算で近付くような真似はしたくないという気持ちも大きい。
実はもう結構お近付きになっているわけだが、それも告白できない。
経緯を訊かれるだろうし、馬鹿正直に答えてしまっては、今度こそレイモンドにすら愛想を尽かされるだろうと思ったからだった。
何しろ、魔法を教えてもらう約束をしているのである。
お役目のことを思えば、ふざけるなと大喝されて、さすがに手を上げられかねない。
そして適当な嘘で誤魔化せるほど、俺は口が上手くなかった。
俺が微妙な表情を見せたのを、不服の表れと取ったのか、チャールズがぱこんっと俺の頭を叩いた。
「こら、自分でもちゃんと分かってるんだろ。大使さま、ちゃんとしろ」
俺はわざとらしく頭を押さえて呻いて、結果としてチャールズがレイモンドに怒られた。
チャールズはむっとした顔をして、仕返しのように俺の髪をぐちゃぐちゃに掻き回してきた。
――パルドーラ伯と良好な関係と築くべしと上の人たちからも指示をされ、今まで避けに避けてきた相手なだけに、使節団の若手一同は天を仰いで困惑したが、幸いにもその機会はすぐにあった。
女伯が主催する、彼女自身の壮行会という名の舞踏会への招待が届いたのである。
そういえば、トゥイーディアが俺のダンスの上達具合を訊いてきたことがあったな――と、俺は思い当たって生温い顔。
レイモンドも、「今度は小さいお子さまはいらっしゃいませんから、逃げるのは難しいですね」と言っていたが、だからといって否の返答を投げられようはずもない。
力いっぱいの諾があるのみである。
舞踏会までは一箇月。
俺はまた、ダンスの練習で散々パトリシアの足を踏むことになった。
――だが、「早くお役目を果たせ」という圧力が、一時的にではあれ緩和された。
トゥイーディアが起こしたこの波乱のお陰である。
もう感謝しかない。
トゥイーディア本人は、相変わらず忙しそうではあったものの、あの庭園で俺と会うときは、自分が着々と進めていることについてはおくびにも出さなかった。
今までと同じである。
むしろ――あのときの状況を思えば――トゥイーディアは結構なリスクを取って俺に会ってくれていたのだ。
何しろ、ハルティの大使と秘密裏に密会していたなどと噂になろうものなら、パルドーラ伯は多方面から干されかねなかったから。
俺はあくまでもキルディアス侯の賓客であり、そんな俺の歓心を横から掻っ攫おうとしているとなれば、件の女侯をはじめとして、現在のパルドーラ伯の動きを面白く思っていない貴族たちが、ここぞとばかりにトゥイーディアを糾弾したことだろう。
たとえば――パルドーラ伯が、彼女のみが可能とする人の精神に干渉する魔法を使って、無理に俺と仲良くなったのだ、などと言って。
トゥイーディアがどれだけ危ない橋を渡ってくれていたのか、今の俺なら明確に分かるが、当時の俺には分からなかった。
とはいえ、カロック帝国を訪うことはトゥイーディアにとって、準備に準備を重ねていた計画だったのだろうから、彼女の性格を思えば――公平で誠実で、そのくせ子供っぽいところもあるあの性格を思えば――、自慢のひとつもしたかっただろうが、トゥイーディアは大人だったし、貴族だった。
そして今回ばかりは、舞踏会に関して俺に何の助言もくれなかった。
むしろ、俺が舞踏会の話題を出そうとしている気配を察すると、柔和ながらもきっぱりと、俺と彼女が庭園にいるときの前提を確認してきたくらいだった。
対する俺も、キルディアス侯の生誕祝いの舞踏会に呼ばれたときに比べれば、まだ心に余裕があった。
何しろ、機嫌を損ねるわけにはいかなかった厳格なキルディアス侯とパルドーラ伯では話が違う。パルドーラ伯ならば、俺がたとえダンス中にすっ転ぼうが、怪我の心配をしこそすれ、眉を顰めることはしないだろう。
――ずっとずっと後になれば、俺はこのときの推測が正しかったことを確信できたはずだった。
何しろ、薄青い髪に薄紫の双眸、儚いばかりの容貌を持つあいつが、内面の愛情深さを滅多に露わにせず、普段どれだけ冷淡で素っ気なくて、そして間抜けな人間を嫌うか、今の俺は重々分かっているわけだから。
だが、まあ、心に余裕があるとはいえ、ダンスの最中にすっ転びたいかと問われれば否。
更に言えば今回の舞踏会、ダンスに誘う相手は今度こそ慎重に選ばねばならない。
「パルドーラ伯爵本人は駄目なの?」
と、俺は使節団のみんなに――半分くらい下心で――尋ねたが、「死にたいのか」との大合唱を喰らった。
――つまり、加減の問題である。
多少はキルディアス侯が機嫌を損ねることもこの際已むを得ないが、だからといってパルドーラ伯をダンスに誘うなど、キルディアス侯のドレスに紅茶をぶっ掛けるレベルの話である――ということらしい。
パルドーラ伯とお近付きになるにせよ、もうちょっと目立たない方法を採るべきだと。
貴族社会はややこしい。
更に言えば、パルドーラ伯をダンスに誘うことは物理的に不可能な話だった。
何しろ、舞踏会の主催者であるパルドーラ伯は、冒頭で身内の誰かとダンスをする。
つまり、その間にダンスの相手を見付けねばならない俺が、パルドーラ伯の手を取れるわけがないのだ。
「でもまあ、分からんけどな」
とはチャールズの言。
「パルドーラ伯はキルディアス侯と違って、身内の男は甥っ子以外全滅してるしな」
呪いだ、と誰かがお道化たように言って、チャールズは肩を竦めた。
「ヴェルローならなぁ……前日までにダンスの相手と約束しといて、当日の最初のダンスは安泰って感じに出来るんだけど。この国だとそういう慣習はないしなぁ……」
はあ、と感嘆した俺が、「いいなあヴェルロー……」と呟くと、チャールズは真顔で言った。
「ヴェルローの舞踏会に、壁の花なんて言葉はないけどな?」
俺は即座に変説し、自分が今いる国が築いてきた慣習に感謝を示した。
――チャールズが指摘したように、パルドーラ伯爵の最初のダンスの相手は好奇心の的にもなっていた。
俺は詳しくは知らなかったが、トゥイーディアの親族の男性は――今年四歳になる甥を除いて――、冗談抜きに全滅しているらしい。
つまり、踊る相手がいないのだ。
もっと言えば、トゥイーディアはその立場上、舞踏会でのダンスを封印して久しい。
いつも高慢なパルドーラ伯が招待客の面前で転ぶところを見られるのではないか、と、意地の悪い噂話も王宮を駆け巡ったが、俺は内心でその噂を鼻で笑った。
トゥイーディアはダンスが上手だ。
俺はそれを知っている。
そして、それを知っているのが自分だけらしいという事実がまた、なんとも俺の狭い心を満足させた。
とはいえ、トゥイーディアが誰と踊るのか、最も関心を寄せて情報を待っていたのは恐らく俺である。
ぶっちゃけ、あの庭園で俺が舞踏会の話題を出そうとしたのは、トゥイーディアのダンスの相手を知りたいがゆえと言っても過言ではなかった。
もっと言えば、トゥイーディアが政治的な打算で相手を選んだのか、それとも個人的な好悪で相手を選んだのかを、俺は最も気にしていた。
だが、トゥイーディアが口を割るはずもない。
彼女はちょっと責めるような目で俺を見て、「お互いに身分を知らないはず」と釘を刺して話をお終いにするばっかりだった。
俺はその度に、態度に出せない内心の蟠りを呑み込む羽目になっていたが、あんまり同じ愚行を繰り返してトゥイーディアに嫌われるのもまっぴらだったので、そのうちに渋々ながらも諦めることとなった。
季節は真冬の底を浚い、北の大国レンリティスの、最も厳しい時季となっていた。
トゥイーディアの出立はまさしく厳寒の中のことであり、どうしてわざわざそんな時季を選んだのかと俺は思わなくもなかったが、先方の――つまりは、カロックの皇太子の――都合だろうという専らの噂だった。
更にいえば、カロックは大陸の南海岸に接する国だ。
レンリティスよりも冬は短く、春の訪れは早いらしい。
それに、トゥイーディアは春の入口までの間にレンリティスに戻らねばならない。
春の初めの雨期に氾濫しがちな大河から、彼女の領地を守るために。
俺がダンスの練習でパトリシアの足を踏んで涙目にさせたり、レイモンドやチャールズと一緒にダンスに誘う相手について頭を捻ったり、トゥイーディアのダンスの相手が分からずにじりじりしたりしているうちに、一箇月は過ぎた。
舞踏会の日はちょうど、夕方頃からさらさらと雪が降り始め、道が凍れば馬車が走れないとのことで、レイモンドが慌てて確認に走っていた。
俺は内心で、この降雪はもしやキルディアス侯の嫌がらせなのではないかと疑ったが、相当数の人が同じことを考えていそうだった。
だが幸いにも、馬車は問題なく走ることが出来るようだった。
夕闇が訪れる頃に、例によって礼装に身を包んだ俺は、使節団の数名――上の人たちから四名と、あとはレイモンドとチャールズ――と一緒に馬車に乗り込んで出発した。
馬車は御者台の上からにゅっと伸びた腕木の先にカンテラを吊るし、かしゃんかしゃんと小さな音を立てて揺れるその明かりを、幻想的に纏って宵闇の中を進んだ。
カンテラの明かりが雪片を光らせている様は、なんだかここが御伽噺の中みたいだった。
馬車は王宮の中をひたすら走り、そろそろパルドーラ伯の館に着くかというタイミングで、ずっと押し黙っていたレイモンドがぼそっと呟いた。
「――以前よりは度を失っていないようで、安心しました」
俺ははっとして、上の人たちの視線を避けつつ、「成長した」とだけ呟き返した。
チャールズが思わずといった風に噴き出したが、すぐさま真顔に戻った。
上の人たちは元より、石のように黙り込んで馬車に揺られている。
俺はそれが恐ろしくて、ずっと自分の膝を見詰めていた。
――ややあって、馬車が停まった。
待つこと数秒で、黒い傘を差した御者さんが扉を開け、舷梯を置いて頭を下げ、俺たちの降車を促した。
雪の冷たさを如実に映す風が、馬車内の温められていた空気を即座に塗り替えた。
まずはレイモンドが、それからチャールズが馬車の外に出て、その後に俺が続いた。
すかさず御者さんが手に持っていた黒い傘を俺の頭上に差し掛けてくれる。
静かに舞う雪は、空気の冷たさも手伝って、御者さんの肩に薄らと積もっていた。
俺が反射的に――レイモンドに教わった通りに――御者さんにお礼を言いそうになったことを察して、チャールズがやんわりと俺の肩を押して押し留まらせた。
貴族社会においては、どうやらお礼を言ってはいけない局面もあるらしい。
俺は言葉を呑み込んで、続々と集まって来る馬車から降り立つ人々が、同じように御者さんやお付きの人から傘を差し掛けてもらって、それを当然のように受け容れる様子を眺めた。
上の人たちが馬車から降りて来たところで、チャールズが御者さんから傘を受け取り、御者さんが白い息を吐きながら御者台に戻った。
馬車を動かすためだ。
チャールズは寒そうに片手の拳に息を吐き掛けつつ、傘を俺の頭上で保持してくれた。
俺が小声で、「別にいいよ」と呟くと、チャールズはにやっと笑って、「大使さまの肩を濡らすわけにはいかねーの」と応じた。
本日の招待における使節団内の筆頭は俺で、俺の身分が一番高いものであると見做される。
若手であるレイモンドとチャールズは、どちらかと言えば付き人としての立場にあったのだ。
それから俺は、目の前に聳えるパルドーラ伯邸を見上げた。
パルドーラ伯邸は、広い庭園を備えた優美な館だった。
階数に直せばそれほど高くはなかっただろうが、広々とした印象があった。
庭園を真っ直ぐに貫く煉瓦道の向こうに巨大な玄関があり、立派な構えの玄関の両側から庭園に向かって、大きな窓が一面に設けられていた。
その窓がどうやら――間取りからして――大広間のものであるということは、外にいても分かることだった。
窓には色とりどりの硝子が嵌め込まれ、硝子の色合いで花を象っているようだった。
この館の庭園は、トゥイーディアのあの庭園とは違う――定規で測ったように刈り込まれた、整然とした美しさがあった。
その美しさは、計算され尽くしたものではあったが、俺からすれば息が詰まるような窮屈さが感じられた。
伯爵邸は、暖色の明かりに照らし出されて雪の中に佇み、招待客は白い息を吐きつつ、立派な玄関に向かって足を進めていた。
誰も何も言わず、妙に静かな足取りだな――と思った俺はその直後、強く輝く魔力の煌めきを発見した。
キルディアス侯だ。
なるほど誰も何も言わないわけだ、と俺は納得。
キルディアス侯は、一見穏やかに微笑んでいたが、その実めちゃくちゃ機嫌が悪そうだったのだ。
玄関を潜ると、吹き抜けになっている広々とした玄関広間に出る。
磨き抜かれた寄木細工の床が、灯火の明かりを柔らかく反射していた。
たくさんの侍従が招待客を待ち構えていて、玄関扉を潜ると同時に音もなく歩み寄る彼らが、招待客の上着を預かり、大広間へと案内していた。
一寸の淀みもない、見事な流れだった。
俺たちも同様にして、玄関から見て左側の大きな扉を通され、大広間へと案内される。
吹き抜けになった大広間は外から見るよりもなお広々として明るく、硝子窓は悉くが大広間の中の様子を反射して煌めいていた。
巨大なシャンデリアが幾つも重たげに吊るされ、窓を除いた三方の壁には華やかな彫刻が施されている。
大広間の真ん中はダンスのために広く開けられ――ダンスの相手を見繕わねばならないことを思い出して、俺は若干の腹痛を感じた――、壁際には立食の用意が整えられているほか、窓の傍の一角には楽団が控えて、静かな音楽を既に奏でていた。
大広間の向こう側の隅には瀟洒な階段があって、その階段を昇った先が、館の主――つまりはトゥイーディアの控えの間であると分かった。
階段の先には踊り場があって、その踊り場の向こうに、アーチ型に刳り貫かれた、別室への入口が見えていた。
大広間は、招待客の控えめなお喋りでざわめいている。
それに紛れるように、高い天井を見上げたチャールズが「ははあ」と呟いた。
「――すげぇね、こりゃ。呪いを掛けてでも手に入れたくなる気持ちは分かるわ」
「だから、呪いじゃないだろって何回も言ってるだろ」
レイモンドが押し殺した声でそう返したのが聞こえて、俺は首を傾げた。
――パルドーラ伯だけではなく、キルディアス侯も、有り得ないほどの不幸が重なった結果に爵位に着いた。
これを呪いだと揶揄する噂は数多く聞いたが、レイモンドのように、「呪いじゃない」と断言する声はあんまり聞いたことがなかった。
それにチャールズも、なんというか――冗談というか、有り得ないと知っているからこそ気軽に、呪いだと連呼しているような節があった。
呪いでは有り得ないと断言する、その根拠は何だろう。
そもそも呪いってなんだ?
――俺の仕草から、俺が疑問に思っていることを半ば推察したらしく、レイモンドがチャールズを肘で押して、「黙ろう」と促した。
チャールズも俺を見て、頷いた。
それから軽く咳払いして、そっと俺の耳許に顔を寄せると、囁いた。
「――で、大使さま。ダンスに誘うお相手候補のことはちゃんと覚えてる?」
俺はささやかな疑問を忘れ去り、緊張と共に頷いた。
次いできょろきょろして、大広間の中でその候補者がどの辺にいるかを捜し始めたので、レイモンドが更に小声で、「落ち着きましょうね」と。
上の人たちは俺たちから離れて、壁際で何かをゆったりと囁き交わしている様子だったが、どこかの貴族が彼らに声を掛けた。
ハルティの使節団の人間と誼を結びたい貴族はごまんといるのである。
上の人たちは穏やかに歓談を受け容れたようだった。
俺は人の顔を覚えるのが余り得意ではなかったので、ダンスに誘っても安全といえる令嬢を、何人も覚えられたわけではなかった。
なので、最初に発見したその一人を招待客の中に見つけるや、さり気なく大広間を動いてその近くに立つこととした。
俺がもたもたしている間に、その令嬢が他の誰かからのダンスの申出を受けてしまっては困るからね。
何しろ、誘っても大丈夫だと分かっている令嬢には限りがある。
俺が何を考えているかはお見通しだったのだろう、付いて来てくれながらも、レイモンドとチャールズは笑いを堪えるような顔をしていた。
――そのとき、楽団が奏でる音楽が変わった。
大広間の雑談が速やかに消えていった。
俺は顔を上げ、視線を上げて、大広間の向こう――階段を昇った先の踊り場を見上げた。
華やかな薄橙のドレスを纏ったトゥイーディアが、その踊り場に姿を現していた。




