26◆ 魔王ならば
炸裂したのは熱。
まるで兵器全体から熱気が渦を巻いて出現して、周囲の空気を爆ぜさせたかのようだった。
その一瞬で海上の氷は悉く砕け、船を庇う氷の大壁も木端微塵に砕け散る。
俺は本日何度目かに吹っ飛んだ。
あっちからもこっちからも悲鳴が聞こえる中、ぎりぎりのところで陸地と船を守るようになんとか空気を硬化させた俺を褒めてほしい。
まあ、そのせいで自分の方が手薄になったんだけど。
熱によって俺が害されることはないが、爆裂した空気に巻き込まれて冗談みたいに空中をすっ飛ぶ。
内臓が捩れて吐き気がした。
俺でこれなら他の三人は大丈夫か。下手すりゃ俺より兵器に近かったけど。
空中で身を捩り、背中側の空気を圧縮して何とか留まろうとする。
ただ、この速度で硬いものにぶち当たるとそれが死因になりかねないので、緩衝材というよりは抵抗物のイメージで空気を固める。
そこをぶち抜く俺の身体が、吹っ飛ぶ速度をいくらか弱める。
どんっ、と背中から伝わる衝撃――直後に視界が反転、咄嗟に頭を庇ったところで、またしても背中に衝撃。
呻きながらも、俺は自分がどこかに背中から着地したことを知った。
即座に跳ね起き、周囲を見て唖然。
――ここ、船の上だ。
甲板――というにはやや狭いが、それでも十人くらいなら並んで通れそうな広さのある通路。
船は揺れている。
俺が守ったから、爆発で揺れているのではあるまい。
この船にぶつかって傾けていた氷が砕けたせいで、平衡を取り戻そうとして揺れているのだ。身体の下から波立つ音が聞こえてくる。
船の手前の空気を硬化させて守ったはずだったんだけど、俺はどうしてここにいるんだ?
術者だから硬化した空気に阻まれなかった?
それとも、硬化させた空気の上を吹っ飛んで来たのか。
阿鼻叫喚の中に突っ込んで来た俺に向かって、甲板にいる人たちの恐怖と混乱の眼差しが突き刺さる。
内臓を落ち着かせるために腹を押さえて立ち上がりつつ、俺は周囲を見渡した。
――コリウスはどこだ。どうして避難を始めない。
見当たらないコリウスに、苛立ちと心配が半々で湧き上がる。
それを堪え、俺は目の前の欄干に駆け寄った。ずぶ濡れの俺の足跡が小さな水溜まりになって甲板に残った。
多分さっき、欄干にぶつかってから甲板に落ちたんだな。
船と陸地を守る空気の硬化は解除。さすがにもう魔力は垂れ流しに出来ない。
カルディオスたちは無事か。
濡れた髪を掻き上げ、銛を片手に欄干から身を乗り出す俺に、四方八方から声が掛かった。
「これはどういうことなの!?」
「あれは何なんだ!?」
「あなた誰!?」
「どうしてあんな魔法が――」
「助けて――」
うるせぇ! と怒鳴りたいのをぐっと我慢し、俺は必死に三人の姿を捜しながらも声を張り上げる。
「説明は後で! 俺たちは味方――というかガルシアの隊員です! 助けに来ました、落ち着いて!」
なおも背後で上がる混乱と恐怖の声。
だがそれを他所に、俺はようやく三人の姿を認めた。
恐らくディセントラが咄嗟に、自分の周り一帯を〈止め〉たんだろう。
三人とも怪我はした様子だが、アナベルが氷を張り直したらしい。そこに三人まとめて立っている。
無事だ。
ほっと息を吐いたが、直後に俺は息を呑んだ。
カルディオスが二人に何か言っている。
二人が頷く。
そしてカルディオスが、兵器を見上げてすっと片腕を前へ伸べた――
「――カル! 待て!!」
怒鳴った。
――カルディオスが固有の力を使おうとしている。
確かにこの状況、確実にあの兵器の動きを止められる手段はそれしかないが、それでもリスクが大き過ぎると話したはずだ。
そもそもカルディオスの能力では決定打にならない。あの兵器の破壊には至らない。
その状況で、カルディオスが瞑想状態に没入して、そうして結果的に兵器を仕留められなかったらどうする?
その上にヘリアンサスが出て来たら?
「カル! 待てって、おまえはどうなる!!」
俺たちは、逃げられるかも知れない。
今までヘリアンサス相手に敵前逃亡なんてしたことないから確証はないけれど、もしかしたら逃げられるかも知れない。
でも、カルディオスは?
あの状態になったカルディオスは逃げられない。
動けない一人を庇っていれば、全員共倒れになるかも知れない。
それを考えないカルディオスではないはずなのに、なんで――。
トゥイーディアならカルディオスをその状態から元に戻すことが出来るが、今トゥイーディアはいない――
声が届かなかった。
あるいは、無視された。
カルディオスが棒立ちになった――そして、彼の魔法が始まった。
準救世主の地位にあるときですら絶対法を超える魔法。
俺が知る限り最も幻想的で、滅茶苦茶な魔法。
船が大きく揺れた。
海中から巨大な影が近付いてくる。
それによって波が立つ。
――一秒後には、それが巨大な木の枝だったと分かった。
ざばりと海を掻き分けて、有り得べからざることに、捻じくれた巨木の枝が出現した。
葉の無い枝が、まるで意志を持つかのようにするすると伸びて兵器に絡みつく。
ただでさえ体勢を崩していた兵器が、いっそう傾いた。
――だがすぐに、爆裂音と共に熱波を放って巨大な枝を焼き切ってのける。
しかしそのときには既に、無数の枝が海中から出現していた。
波を立て、飛沫を上げながら、次々に木の枝が出現する。
さながら、巨木が樹冠から海上に上がってこようとしているようにも見えた。
船上は完全に沈黙。巨木が海面を割る音が白々しいまでに耳を打つ。
有り得ないことのオンパレードに、「夢か」と呟く誰かの声がやけに響いた。
細枝が絡まり合いながら、兵器にするすると纏い付く。
その度に焼き切られ散らされても、次から次に枝が伸びる。
――ぞっとした。
救世主の地位にない、準救世主でしかない今のカルディオスにとって、これだけの魔法の行使は負担すぎる。
今や、枝葉の繁る巨木が、海上に出現しようとしていた。
船と兵器の間に、船のすぐ傍までをも埋め尽くす勢いで、するすると枝が伸びていく。
枝と枝が絡み合い、もはや通り道にすらなりそうなそれを、実際に通り道にして、アナベルとディセントラがカルディオスを支えてこちらに向かって歩いて来ていた。
俺は思わず欄干を乗り越え、床のように生い茂る枝葉の上に着地。
撓ったものの、枝葉の床は俺の着地の衝撃に楽々と耐えて見せた。
高く生い茂るその床に立った俺の、肩の高さに欄干がくる。
そして俺は、当然のような顔でこちらを目指して来る二人に向かって怒鳴り声を上げた。
「どういうつもりだ!」
枝葉が続く先に見える兵器は、焼いても焼いても伸びてくる木の枝や蔦に、そろそろ動きを止められつつあった。
だからこそ、こうして呑気にディセントラとアナベルがこっちに歩いて来られているのだが。
攻撃が止まったことで、不本意ではあれ俺もちょっと息をつけた。
さっきのと同じ攻撃をもう一発撃てば、あっさり自由になれそうなものだが、連続で撃てる仕様ではないのかその気配はない。
「どういうつもりも何も、やばいから」
俺の傍まで来たアナベルがしれっと言った。
熱閃を扱い続けたからか、額に薄く汗が浮いている。相変わらずずぶ濡れで、頬やら額やらに髪が張り付いて、顔や手の甲に負った擦過傷から血が滲んでいた。左手の甲に大きな火傷があって、俺は思わず顔を顰める。特に海水を大きく動かした魔法が響いたのか、顔色がかなり悪かった。
ディセントラにしても似たようなものである。
濡れ鼠で髪から滴を垂らし、右の二の腕部分の軍服がざっくり切れていて、その下の生身も切れて血が流れ、黒い軍服をてらてらとした赤黒い色に染めている。そして何より、あの兵器相手に魔法を使い続けたことが祟って、見るからにもうふらふらだ。足許が定まっていない。
そんな二人に両脇から支えられるカルディオスの翡翠色の目は虚ろだ。
表情は無く、ぴくりとも動かずにただ支えられるがままになっている。
時折の瞬きがなければ、生きているのか不安に思うほど。
ただ、どんどんその顔から血の気が引いていっている――やっぱり、この規模の魔法は負担なのだ。
「だからって――」
言い差す俺を遮って、アナベルは淡々と続けた。
「このままじゃ死んじゃいそうだし、この状況を打破できるたった一人は今は役に立たない。
魔王が出て来ることを警戒して、全力出せずに死ぬよりは、せめて何かして死にたいし、いざとなったら見捨てて逃げてくれって言われたらもう、まあそうだよねとしか言えなくて」
俺は頭を掻き毟った。
「あああ嘘だろ!」
「もう何て言うか、魔王の次点でやばいじゃない? あれ」
ディセントラの声は掠れながらもさっぱりしていた。
「せめて打てる手は打っておかないと、あとあと後悔するだろうなって」
「まあ、後があるかどうかは置いておいてね」
アナベルの声は淡々としている。
こいつは“あの一件”以来、俺たちの誰よりも生きることに執着がなくなったから、それも仕方ないのかも知れない。
でも、だけど、俺は違う。
ここには、この船のどこかにはトゥイーディアがいる。
諦めて堪るか。こんなところで死なせられるか。
顔を上げ、俺は我ながら剣呑に唸った。
「言ってろ。――絶対守り切る」
アナベルが首を傾げた。薄青い髪が揺れた。
「出来る? ――全滅まで秒読みって感じだけど」
俺は息を吸い込んだ。
「させない、守る。
――魔王なら出来る」
まだ余力がある。
体力も魔力もまだ余裕がある。
ならこれが尽きるまでは諦めない。
銛を握り、絡みつく細枝を薙ぎ払おうとしている兵器を睨み据えながら、俺は視線は遣らずに指示した。
「ディセントラ、アナベル。怖いから甲板には上がるなよ。混乱し過ぎてカルが誰かに蹴られそうだ。けどコリウスの馬鹿野郎がどこにいるかは捜しといてくれ」
二人の頷きを待たず、俺は絡み合う木の枝を蹴って駆け出した。
――俺がトゥイーディアだったら。
そう思いながら銛を一閃。
放った熱閃は他とは格が違う高温。
爆音と共に兵器の脳天に着弾し、カルディオスが生い茂らせた枝葉をも燃え上がらせながら、兵器の唯一の急所に何とか破壊に足るだけの衝撃を与えようとする。
届かない。まだ足りない。
――俺がトゥイーディアだったら、それなら何とかなっただろうに。
全力で走りながらもう一発。
白熱した高温の塊が、光景を歪ませながら迸り、実体があるかのように兵器の脳天を打擲する。
ぎぃぃ、と兵器が軋み――脳天が少し凹んだように見えた――でも破壊には至らない――カルディオスのお蔭で、兵器からの反撃はない。その今が唯一の好機だというのに――
歯噛みした。
――俺がトゥイーディアだったら、それならもう少し何とか出来ただろうに。
純粋に、理論も何もかもを素通りして、ただの破壊を貫くあいつの能力なら。
救世主の地位にある今なら、よりいっそうその威力は凄絶だろう。
俺にはそんなことは出来ないから、必死になってこの兵器の仕組みを思い返して、あいつの真似事をするしかない。
走る。
足許はそれほど揺れず撓らず、木を組んで造った床のようですらある。
新芽が芽吹くその床の端が見えた――その先に、びっしりと枝葉に絡まれ動きを封じられた兵器がある――
大きく最後の一歩を踏んで、俺は空中に飛び出した。
銛は槌に姿を変え、熱を纏ってしゅうしゅうと音を立てている。
普通の鉄だったら溶けているレベルの高温。
「おぉ――らぁっ!」
気合の声が口から出た。
同瞬、槌を叩き付けた兵器の脳天が確かに凹んだ。
痺れるような衝撃が掌に伝わる。
足場を作り出し、すかさず二撃目。
凹みが大きくなる。槌と兵器の間で火花が散る。
陽炎纏う槌の熱で、兵器の表面を覆っていた枝葉が燃え上がり始めていた。
俺が自分で、このカルディオスが造り上げた枷を焼き切る前にとどめを刺さなくては。
いつもの俺の炎なら、カルディオスが生む樹木は耐え切ることが多いが、今は俺とカルディオスの魔力量の差が如実に出てしまっている。
――そう思い、三度槌を振り上げた瞬間だった。
兵器が枝葉を振り切った。
撃たれることを覚悟した俺だったが、唸りを上げた兵器が標的にしたのは俺ではなかった。
またしても、陸地に向かって光弾を撃ったのだ。
「――待て!!」
絶叫が、俺の喉を破らんばかりに飛び出した。
何だこいつは。
自分を破壊させないためには陸地を攻撃すればいいと分かっているのか。
――ぞっとした。
咄嗟に、兵器と陸地の間の空気を丸ごと硬化させた。
効率も何もない悪手だが、焦った余りだ、仕方がない。
きんっ、と高い音がして、陸地に至るまでの空気が真っ白に凝った。
まるで唐突に、凍った濃霧が周囲一帯に立ち込めたかの如く。
光弾が硬い壁を割り砕く音を立てながら押し留められ、やがて熱を失う――
守れたのは良かったけど、守れたのは良かったけど――兵器は俺のすぐ眼下だ。
俺も人間で、集中力には限界があるというもので、陸地の方の防御に集中力が持って行かれた分、自分自身の守りが手薄になるというもので。
さっきと全く同じ状況である。
自分自身が考えなしであることは認めるところだが、見捨てるわけにもいかないのだから仕方がない。
やばいと思って硬化を解除した、その瞬間、俺は間近からどてっぱらに衝撃波を喰らって文字通り吹っ飛んだ。
ばきばきと枝葉を折りながら吹っ飛び、走って来た道からは少し逸れ、船のすぐ手前、船首近くに生い茂る木の枝に叩き付けられる。
目がちかちかする。
やばい、完全に採る手を間違えた。
陸地を守るのに必死で自分の方を手薄にし過ぎた。
啖呵切った直後にこれとは。
苦い後悔の味と血の味を同時に覚え、俺は槌を杖にして立ち上がりながら、口の中の血を吐き出す。
頭が結構揺れたからか眩暈がした。
思わず頭を振り、ちょっとよろめきながら槌を両手で構え直す。
ディセントラが何かを叫んだようだったが、声は聞こえても言葉が聞き取れない。その余裕がない。
――まずい。後がない。文字通り、船に背中を預けている状態だ。
カルディオスが生い茂らせた枝の上に立つ俺の、肩あたりに甲板の手摺がある状態。
もう絶対に、一歩たりとも下がれない。
唾を嚥下し、俺は兵器を睨み据える。
頭を打って目が霞む。
魔力も体力もまだ余裕があるのに情けない。
くそ、どうする?
前回のトゥイーディアが叩きまくり、今回の俺も相当頑張った結果だろう――さっき、俺の攻撃は確かにあいつに届いた。
破壊に専念すれば出来ないこともあるまい。
だが、専念できない。
俺があいつの破壊に手が届きそうになった途端、あいつは陸地を撃つ。
防御はみんなに頼めない。
守護の方向で法を越えられるのは、魔王である俺ただ一人だから。
でもだからといって、攻撃の方をアナベルとディセントラに頼むにも無理がある。
魔力において二人よりも抜きん出る俺が、得意分野の魔法で、全力でぶん殴ってやっと凹む強度なのだ。
準救世主が二人掛かりとはいえ、破壊できるかは正直怪しい。
それに俺の得意分野が熱だから何とかなっているきらいもある。
概念としての得意分野を持つあの二人では、あの兵器相手には分が悪すぎる。
兵器が再び衝撃波を撃った。
紛うことなく俺目掛けて、途中の木の枝をばきばきと粉砕しながら飛来する衝撃波。
防ぐというより押し返す意識で防衛。
二度三度、防ぎ切る。
船の上は再び阿鼻叫喚。
訳の分からない事態が続いてそりゃあ怖いだろう。申し訳ない限りだ。
――体勢が悪すぎる。反撃なんてもう出来ない。
もう、船さえ守り切れればあとはいい。
いっそ兵器の消耗を待つか。
コリウスは本当、何してるんだ。
船の人たちがいなくなれば、なりふり構わず周辺一帯を大火事に出来るというのに。
光弾が撃たれた。
白熱した光の塊。
俺だけなら避ける必要もないけれど、後ろには船がある。
撃たれた光弾から熱を速やかに奪う。
あちこちで生木の燃える臭いがした。
いつの間にか枝葉の成長は止まっている。
カルディオスが指示しておいた大きさに育ったからか、あいつに限界がきたからか。
この兵器、前回はどのくらい戦ったっけ。
動き続けることに時間制限はあるのだろうか。
ヘリアンサスの魔力の限界がその限度だとしたら絶望的だ。
俺たちは一度たりとも、あの魔王の魔力の限界を見たことがない――
息を吸い込む。
まだいける、守るだけならばまだ。
船の人たちの安全を確保して、それから反撃について考えればいい――
衝撃波。防ぐ。
心臓が早鐘のように打つ。
守りたい、守りたい、守り切りたい。
今度こそは。
衝撃波、防ぐ。歯を食いしばって耐える。
ここを譲るわけにはいかない。耐えてみせる。
背中はもう船体に触れているのだ。一インチであろうと譲って堪るか。
ここには、この船には――
――俺の肩を、誰かが掴んだ。
俺は息を止めた。
硬い掌だ。
しかし男性のものにしては小さい。
これは女性の、守られるばかりでは絶対に済まさない誇りを持った掌だ。
衝撃波。防ぐ。
防ぎながら振り返る。
甲板の手摺越しに身を乗り出し、トゥイーディアが、夢にまで見たその飴色の瞳で俺を見ていた。