35◆――俺が死ぬまで
そのあと、まごまごしながらも、開始の合図をした彼が俺の勝ちを認め、斯くして手合わせは数秒で終わった。
事態を理解した将軍は、「これが例の噂の! いやはやすごい!」と、俺が引くほど大はしゃぎした。
彼の麾下は麾下で、どよめくほど驚いていた。
俺がそれら全てを解せない思いで見ていることが伝わったのか、レイモンドがめちゃくちゃ小声で、「あなたの魔法を初めてご覧になって驚かれたんですよ」と教えてくれた。
俺はいっそう首を傾げた。
「……俺の魔法、噂になってんじゃないの」
塀に寄って行って小声で尋ねると、同じく塀に寄って来てくれているレイモンドとチャールズが苦笑して、レイモンドが小声で答えてくれた。
「百聞は一見に如かず、です。話に聞くのと、実際に見るのとは違いますよ」
「俺らもびびった」
チャールズが神妙にそう言って、俺は首を傾げた。
「……島で、見たこと――なかった?」
雲上船が来たときには、俺は客人の前で魔法を使うよう強制されることが多かった。
同じ魔法も使ったことがあったはずだ。
とはいえあのときの俺は、色々と怯えていたし必死だったし、客人の顔までは見ていなかったけれど。
「見てない見てない」
チャールズがそう言って、苦笑して手を振った。
「島で船から降りて、大使さまの魔法を見たことがあったのは上の方々だけ」
「見ていたら心配なんてしませんでしたよ」
レイモンドが付け加えて、なおも興奮気味にどよめいている将軍や、彼の麾下の方を一瞥した。
「あなたなら、一個軍団を相手取っても大丈夫そうですね」
「怖いこと言うなよ」
俺は思わずそわそわとそう返して、将軍の方を見遣って、それから納得して頷いた。
「――でも、うん、だからか。なんでこんな簡単な取り決めにしたんだろうって思ったんだ。俺の魔法のこと、分かってなかったのか」
俺の口調に噴き出して、レイモンドとチャールズが頷いた。
「そーだな」
「そのようですね」
俺は口許に手を当てて、ふむと一考。
それからはたと気付いて顔を上げ、首を傾げた。
「――つまり、俺、ずるいことした?」
「いや、向こうも向こうだろ。こんなことに招待されたわけじゃねーんだから」
チャールズがそう言ってくれたものの、俺は落ち着かない気分で足踏み。
――俺にとっては、ずるいことをしても全く意味がなかった。
なんでかっていうと、トゥイーディアはそういうのが好きじゃなさそうだから。
あれこれと考え、躊躇したのち、俺はレイモンドとチャールズに一言断って、ライラティア将軍の方へ足を向けた。
将軍は塀に肘を突いて、塀の向こう側の麾下たちに何かを盛んに言い立てている。
機嫌は良さそうで、むしろなんか子供っぽかった。
俺が近付いていることに気付くと、将軍は口を閉じて姿勢を正し、彼の麾下たちは一斉に膝を突いた。
居心地の悪さに及び腰になりつつも、俺は将軍の目の前まで進む。
将軍が俺に向かって、用件を尋ねるように首を傾げて眉を上げた。
俺は息を吸い込んだ。
「将軍――」
呼び掛けて、俺は大急ぎで頭の中で文章を作る。
「俺の魔法についてはご存知のものと思っていました。仕切り直しましょうか」
つまるところ再戦の提案である。
俺がやったのはどうやら、全くの不意討ちだったようなので。
将軍が目を見開いて俺を見て、それからふっと表情を緩めた。
首を振る。
「――いえ。噂を噂と侮った自分の未熟です。
それよりも、こちらこそ無作法なお願いで大変な失礼をいたしました。
中へ入りましょう。美味いお茶があります」
「あの将軍が、あれほど無作法な真似を独断でするとは考えづらいですから、」
と、帰りの馬車でレイモンドは言った。
俺は、将軍宅で振る舞われた、干した蔓苔桃を乗っけてしっとり焼かれたクッキーが美味しかったなぁということを考えていて、反応が一瞬遅れた。
「――え?」
レイモンドはちょっと呆れたような顔で、数秒じっと俺の顔を見てから、はぁと小さく息を吐いて続けた。
「多分ですが、ライラティア将軍は、あなたを戦力として評価したときにどのくらいのものになるのか、探りを入れるよう命じられていたんだと思いますよ――と言おうとしたんですが、聞いてます?」
「聞いてます」
俺と一緒に、なぜかチャールズも神妙な顔になってそう返答した。
俺は揺れる馬車の中でちらっとチャールズを見て、目が合ってお互いににやっとした。
とはいえ、チャールズは単純にぼんやりしていたわけではないらしく、すぐにレイモンドの方を見て軽く肩を竦めてみせた。
「大使さまに何もなかったから、いいっちゃいいけど。誰だと思う、そんなの命令したの」
「貴族じゃない」
レイモンドは即答した。
つまらなさそうな顔だった。
「この国は軍部と貴族の仲があんまり良くない。爵位持ちの軍人は他の軍人を馬鹿にしてる。最近はマシになってきたとはいえ、あの叩き上げの将軍が貴族の言いなりになって大使さまにあんなことを言い出すはずがない。
――王族の誰か……事によると陛下だろ」
「わおー」
チャールズはお道化てそう言った。
発音としては、「わ、っおー」という感じだった。
それからしばらく何事かを考えたあと、彼はまた肩を竦めた。
「――まぁいっか。あの魔法は別に、隠しとけとか言われてねーもんな」
「まあそうだねえ」
レイモンドはそう言って、それからふと不思議に思ったように俺の方を見た。
俺は首を傾げる。
「……なに?」
レイモンドは曖昧に首を捻った。
「――いえ、あちらの申出を受けたのが意外だなと思って。あなたのことですから、さっさと帰ると言うものと思いました」
俺はレイモンドから目を逸らし、彼よりももっと曖昧な仕草で肩を竦めた。
「……なんか、あの人の目付きに腹が立っただけ」
正確にはトゥイーディアへの目付きに腹が立ったんだけど、それはここで言えることではない。
誰に言えることでもない。
トゥイーディア本人にさえ。
「へえ」
レイモンドが意外そうに目を丸くして、チャールズも目を見開いて俺を見た。
それからチャールズが破顔して、身を乗り出してくしゃくしゃと俺の頭を撫でたので、俺は座ったままちょっとよろめいた。
「な――なに」
「大使さま、ちゃんと男なんじゃん。そういうところの負けん気はあるんだな。安心したよ」
嬉しそうにチャールズはそう言って、俺の頭から手を離してにっこりした。
「それに、ちゃんと自分から他人に声掛けられるようにもなって。言葉遣いもちゃんとしてるし、見違えるよ。兄ちゃんは嬉しいぞ」
お道化て、でも誇らしそうにそう言われて、俺もちょっと鼻の頭がむずむずした。
堪え損ねてにやっとすると、なぜかレイモンドが急に俺から顔を逸らして窓の外を眺め始めた。
西日がその頬に差して、橙色の陰影を作った。
「――レイ?」
ちょっとびっくりして呼び掛けると、チャールズに、「やめとけやめとけ」と腕を引かれた。
チャールズは何とも言えない顔でレイモンドを見たあとに俺を見て、不思議そうにする俺の額を軽く小突いた。
「レイモンド兄ちゃんも嬉しいんだよ。ほっとけ」
◆◆◆
――このときのレイモンドの推論は、恐らくではあるが正鵠を射ていた。
この日以降、俺の大魔術師としての噂にはあれこれとおまけがついて、顔を出すところで悉く魔法の話題を振られるようになった。
語彙不足の俺はそのことに大いに悩まされたものだが、――ただ、考えてみれば。
この国への世双珠の輸出量が急減したことについて、俺が当然晒されるべき詰問――そういったものから俺や使節団を守ってしまったのは、俺がこの日に獲得したであろう戦力としての評価だったに違いない。
何しろ、客人が抱えている武器が短刀なのか大剣なのか調べて来いと命じた結果、大砲でしたという答えが返ってきたようなものだ。
俺に接するに、慎重にならざるを得ない情報が飛び込んでいってしまったわけだ。
俺に対するその評価が、そのままこの国に対する抑止力として働いてしまったのだ。
そうでなければ説明がつかないほどに、俺が世双珠の輸出量急減についての説明を求められたのは遅かった。
そして恐らくこれが、〝えらいひとたち〟と上の人たちの、最初の目算違いだった。
◆◆◆
庭園の隅っこには、向日葵が小規模に群生して咲いた。
背伸びするように太陽を追い掛けて咲く大輪の黄色い花を、俺は気に入っていた。
季節は夏の頂点を迎えていた。
晴れていれば、真昼間は水に飛び込みたくなるような暑さ、朝晩ですら汗ばむほどの気温。
そして雨の日にはなお、蒸し蒸しとした鬱陶しさが空気に充満するようになっていた。
不幸にも、俺は夏の気温に長時間晒されたことはなかった。
俺が生まれた島は、この国の遥か南方にあり夏の気温は高いはずだったが、俺は数日を置かずに櫃に入れられていたために、外にいる間に暑さを実感することも少なかったわけである。
つまり、この夏が俺の、生涯初めてのちゃんとした夏だった。
トゥイーディアは日傘を差して庭園に現れるようになり、東屋においてさえ、神経質に日差しに気を遣った。
とはいえ東屋は、俺が内心で疑問に思ったほどに威勢よく、トゥイーディアが藤の葉っぱを剪定してしまっていて、日差しが降り注ぐに当たっての障害としては、大して役には立たないものになっていたけれど。
トゥイーディアは、春までは一切嵌めていなかった手袋をするようになって、肌の露出を出来るだけ抑えようとしていることが分かった。
俺は一度、あまりにも彼女が日光に気を付けるので理由を訊いてみたことがある。
そうすると彼女は真顔で、「私が真っ黒になってしまったら、どこで何をしているのか訝られるでしょう」と答え、以来俺もあれこれと日陰づくりに協力するようになった。
何しろ、トゥイーディアがここに来ていることが彼女の義母に露見した結果、彼女がここに来られなくなるようなことになっては困る。
トゥイーディアの両手が塞がるタイミング――例えば、例の機械が見逃した雑草を引っこ抜くときとか、萎れた花を千切らないといけないときとか、水遣りのときとか――では、俺は彼女の侍従よろしく、彼女に日傘を差し掛けて付いて歩いたり、日傘を差して後ろに立つ彼女にお願いされて、代わりに手を動かしたりした。
トゥイーディアは最初、「日に焼けたら、きみも怪しまれません?」と言って心配そうにしていたが、まず大丈夫だ。
レイモンドから、俺は予定のない日の外歩きをむしろ推奨されていて、彼は場所の都合さえつけば俺に泳ぎを教えたがっている。
俺が日に焼けたとしても、「外を歩いてるんですね、えらい」となるだけだ。
――そういう詳細を伏せて、「大丈夫だよ」とだけ答えると、トゥイーディアはしばらくは逡巡していた様子だったが、すぐににこっとして、「それは有り難いことです」と言ってくれた。
なお、彼女はどうやら蚯蚓が苦手なようだった。
息を吸い込んで覚悟を決めれば触れられる、とは言っていたものの、いちど不意打ちで土の中から彼がお目見えしたときには、全く無言で俺の後ろに駆け込んで、俺が混乱しているうちにぐいぐいと背中を押して、蚯蚓をどこかにやってくれと懇願してきた。
薄情なことに、俺はそういうトゥイーディアが可愛くて仕方がなかったので、蚯蚓はお礼の気持ちを籠めて土が肥えていそうな所に移動させてやった。
「これまで蚯蚓が出たときはどうしてたの」と、俺が尋ねると、トゥイーディアは前述の言い分を述べ始めたが、ちょっと目が泳いでいた。
察するに、その場から逃げ出して、蚯蚓が自らの意思で撤退してくれるのを待っていた可能性がある。
除草の機械を作ってくれたという誰かさんに、水遣りよりも除草を優先して頼んだのも、除草のときの方が蚯蚓に出くわす可能性が高いからだという推論も見えてきた。
――彼女が誰からあの機械を貰ったのか、俺は知らねえけど。
また、トゥイーディアは、籐細工の籠に瓶詰めの冷たい飲み物を入れて持参してくれるようになった。
この暑さで、何も飲まないでいたら倒れちゃいますよ、とのことである。
気が利いていて大好きだ。
瓶はいつでも冷えていて、その仕掛けは単純だった――青い世双珠が無造作に籠の中に入れられていて、籐細工の籠の中に手を入れると、まるでそこだけ真冬であるかのような冷たい空気を感じることが出来るのだ。
トゥイーディアは相変わらず、俺の好みは断固として聞かずに、様々な種類の飲み物を持参してくれた――色んな果実水だったり、エードだったり、冷やした紅茶だったり。
夜明け前にはまだ暑さはマシだったが、夕方に会うときには、俺も彼女もしょっちゅう汗を拭わなければならなかった。
籐細工の籠の中の空気がひんやりとして気持ちいいので、俺たちは毎回のように、「この籠を大きくして中に入りたい」だのと馬鹿なことを言い合った。
あるいは小川を見て、「魚になりたい」だとか。
それが俺にとっては途轍もなく楽しかった。
俺も彼女も、その気になれば庭園一帯を冷やすことくらいは出来ただろうが、お互いに素性を伏せているという設定があるうえ、変に気温を弄ってしまって、この庭園の植物に影響が出てしまったら大変なことになる。
それゆえに、俺たちはうだるような暑さに白旗を揚げていた。
トゥイーディアは相変わらず、魔法の話もちゃんとしてくれていたが、会った冒頭数分でその話も終わりがちだった。
俺に進歩がないということを差し引いても、不自然なまでに短くその話題を終わらせることが多くて、俺はそこはかとない不安を覚えていた。
――レンリティス向けの世双珠の輸出量は減らされている。
世双珠の輸入の管理は王族が行うことだから、トゥイーディアがそれを正確に知っているのかどうかは分からない。
だがこのときには俺は既に、有能な貴族はあちこちに情報網を張るものだということを知っていた。
つまり、トゥイーディアがそういう情報を手に入れていたとしても、何ら不思議はない。
そして、世双珠の問題のど真ん中にいる――ハルティの大使である――俺と、魔法の話がしづらいと感じていたとしても。
とはいえ、魔法の話が終わると、トゥイーディアは色々と――詳細をぼかした――日常の話をしてくれることが多い。
不安は依然としてあったが、そのことが俺はどうしようもなく嬉しかった。
トゥイーディアがしてくれる話は他愛のないものばかりで、そのことも俺を安堵させていた――余りの暑さに寝苦しく、夜明け前に目を覚ましたら明星が綺麗に見えただとか、暑さのせいで食欲がなくて、夕食を減らしてもらったことが祟ったのか、コルセットを締められたときに気絶しそうになったとか(この話を聞いたあと、俺は「コルセットは女性が一般に身に着けているもので、別に拷問具ではない」ということを納得するまで随分掛かった。そしてコルセットの安全性については疑問が残るところである)。
俺も同じように、どうでもいい話をした。
誰に呼ばれたかを伏せて、個人名も全部伏せて、晩餐会の様子を話したりだとか。
何度かリーティに出たときのことを、諸々をぼかしつつ話したりだとか。
最近背が伸びて、せっかく仕立ててもらった正装が合わなくなってきたので、改めて採寸に行ったのだとか(この話をしたあと、トゥイーディアは俺を立たせて、その傍に自分も立って背比べをして、「なるほど、抜かされてしまいました」と鹿爪らしく言っていた。トゥイーディアが肩が触れ合わんばかりの傍に立っている状況に、俺は洒落にならないほどどきどきした)。
庭園には、ここぞとばかりに様々な花が咲いている。
地面に突き刺された杭に絡みついて薄紫や青紫の繊細な花弁をひらひらと広げる、朝しか咲いていない花とか、花びらが幾重にも重なった、橙色の華やかな花とか。
俺は花を観察したことなんてなかったので、この庭園で初めてこれほどの種類の花を見た。
俺が興味津々にしていることに、この庭園を世話している者としての自尊心をくすぐられたのか、トゥイーディアはどことなく得意げに嬉しそうにした。
俺が花の名前を訊くと、大抵は胸を張って教えてくれたが、たまに気まずそうに目を逸らすこともあった。
そして律儀なことに、次に会ったときにその花の名前を教えてくれることが多かった。
付け加えて、この庭のことになると妙に負け惜しみをする彼女は、「調べてくれたの?」と俺が尋ねると決まって、「いえ、うっかり失念していただけです」と、わざとらしくもつんとして応じる。
そしてある日には、会話の流れで、
「秋になったら、あっちの」
と言って、東屋から見て右側の方を示しつつ、
「金木犀が咲きますよ。チルニーアから入手した低木ですけど。
すごくいい香りがするので、お気に召すと思います」
と言ってくれた。
秋になっても変わらず俺がここに来ることが前提になっているその言葉に、俺はその場でこそ表情を取り繕って、「そうなんだ」と微笑むに留めたが、部屋に戻って一人になってから、一頻りありとあらゆる方法で喜びを爆発させた。
これを喜ばないというなら、何のために感情があるんだ。
一緒にいられないということはよく分かってはいたが、それはそれとして、トゥイーディアの方から少しでも好意的な感情が窺えると、俺はいちいち舞い上がった。
そのうちに諦めなければならない恋だと分かってはいても、俺はそれをずるずると先延ばしにしていた。
夏になって、夕立も多くなった。
急に暗くなったと思ったら大粒の雨が降ってきたり、あるいは空は晴れているのに、どこからか雨の滴が運ばれてきたり。
夕立が降ると、庭園は土の匂いが立ち昇ってくるかのような、葉っぱの間から不思議な匂いが漂ってくるような、独特な匂いに満たされる。
トゥイーディアは、こういう夕立はすぐに止むということを知っていて、また魔術師でもあることから、濡れたとしても証拠隠滅は容易く、夕立に遭うと決まって苦笑いしていた。
真っ暗になって雷鳴が轟く夕立を、俺は実は苦手に思っていたが、晴れているのに降る大粒の雨は綺麗だった。
夕日を受けて金色に輝く雨粒が、繊細な宝石が降ってくるような華やかさと煌びやかさで庭園を埋め尽くすその光景を、俺はこの一回目の人生が終わるまでは忘れなかった。
――まあ、遠からず、俺の一回目の人生は終わるわけだけど。
俺が死ぬまで、あと一年半足らず。
――夏の暑さが、盛夏ゆえのものから残暑と呼ばれるものに変わる頃、俺は初めて、レンリティス国王から評議の席に呼ばれた。




