30◆――庭園のお遊戯
トゥイーディアが、頭がいいのに不器用で、相手の言うことを抱え込んでしまう人で、それに加えて、自分が言ったことですら思い返しては落ち込むほどに抱え込んでしまう人であるということを、俺は既に知っている。
以前に晩餐会があったときは、トゥイーディアはその翌朝に落ち込んだ顔であの庭園に現れたし、今回もそうなる可能性が高いということは分かっていた。
大体、夜中にうろついていれば、下手を打てば賊と間違われてお縄である(「賊」という言葉を、俺は最近戯曲を読んで知った)。
だが、単純に俺がそわそわしてしまって落ち着かなかった。
それに、万が一捕まってしまったとしても、レイモンドなら「何してるんですか」と呆れながらも迎えに来てくれるだろうと思ったということもある。
気付くと俺は、礼服を脱いだ手で、寝間着ではなくて普段着を引っ張り出していた。
――とはいえ、静まり返った廊下に出た俺は、久し振りに動悸を覚えるくらいに緊張した。
息を吸い込み、そうっと足を踏み出す。
更にはこの真夜中とあって、早朝であっても稼働している、上下に結構な距離を運んでくれる小部屋みたいな箱は動いておらず、俺は広大な宮殿の階段ぜんぶを、徒歩で下らなければならなかった。
宮殿は静まり返り、俺の微かな足音ですら反響するほどだった。
俺は途中から余りにも怖くなったので、靴を脱いで両手に持って、素足で廊下を進み始めた。
廊下の多くには絨毯が敷かれていたから、足が冷えることはなかったが、それはそれとして手足が凍えるほどには緊張していた。
緊張に息が荒らげば、その呼吸音でさえも反響しかねなかったので、俺は唇を噛んで息を殺した。
西側の窓辺には青白い月光が凝っていて、水溜まりみたいに床を照らす月明かりは清冽だった。
玻璃を通った月光は、空気中の細かい埃を何かの幻想みたいに浮かび上がらせ、それを見ると俺の緊張も若干は和らいだ。
しかし、言うまでもないが、廊下を歩くのと宮殿の外に出るのとでは難易度が違う。
宮殿の入口は堅く閉ざされ、その周辺は夜中であっても世双珠の光に煌々と照らされている。
そして、巨大で堅固な扉の前に、何人たりとも出入りはさせん、みたいな感じで佇む衛兵さんたちを見て、俺は困り果ててしまった。
俺が作った例の魔法を使えば、楽に突破できるということは分かっていたが、俺は未だにお許しなしに魔法を使うことに抵抗があった。
どうしよう、と、ちょっと離れたところをうろうろすることしばし。
訓練を受けた衛兵にそれが見付からないわけもなく、ややあって、扉の前から一人の衛兵が俺の方へ向かって来た。
俺はその瞬間、恐怖余ってその場に根が生えたように立ち尽くしたが、向かって来た衛兵は衛兵で、ちょっと困ったように蟀谷を掻いていた。
手にした槍を肩に担いで、俺を発見するやすたすたと歩み寄って来て(俺は思わず目を閉じた)、「おい、坊主」と。
――怒鳴られたりしないのか?
思わず俺がそろっと目を開けると、衛兵は真面目な顔で俺の顔を覗き込んでいた。
扉の前にいる衛兵さんたちみんなが、割と好奇心旺盛に俺の方を見ていた。
「…………?」
状況が分からずに首を傾げると、傍の衛兵が小声で。
「おまえ、ちょっと前まで毎日毎日、朝方にここを出て行ってた奴だろ。ここのところはご無沙汰だが」
俺は目をぱちくり。
きょとんとする俺を見て、衛兵はふっと唇を歪めて笑った。
「それだけ髪が真っ黒だったら印象にも残るさ。――外に行きたいのか?」
「――――」
俺は迷ったものの、見付かってしまった段階で詰んだことに変わりはないので、白状しようがしなかろうが事態は変わるまいと思い、こくんと頷いた。
衛兵は、槍を持っていない方の手で顎を撫で、半眼になって俺を見下ろした。
俺は項垂れたが、衛兵はぴくりとも表情を動かさず、言った。
「――女か」
俺は顔を上げた。
傍に立っている衛兵は真顔だったが、扉の前の衛兵さんたちの間に、抑えた笑いが広がりつつあった。
嘲笑の類ではなくて、冷やかしだった。
俺は瞬きし、扉の前と自分の目の前に立つ衛兵さんを交互に見遣って、少しの逡巡ののちに頷いた。
ひゅう、と小さく口笛が鳴らされて、俺の目の前の衛兵は呆れたような顔をしたものの、顎を撫でていた手を伸ばして俺の肩を掴んだ。
俺はびくっとしたが、衛兵はそれには気付かず、肩を竦めて小声で滔々と。
「――ま、あれだけ毎日ここから出て行ってたんだしな。詳しくは知らねえがあんた、ここの客人のお付きか何かかい。
そんなにびびるな、苛めやしねえよ。――おい、ちょっと開けてやれ」
俺は目を見開いた。
思わず衛兵を見上げて、「いいの?」と尋ねると、衛兵は顰めっ面で俺を見下ろしてきた。
「――いいわけないだろ。だが、まあ、同じ男だ、協力してやる。
ま、俺たちは俺たちでバレねえようにするし、あんたもご主人さまには夜這いがバレねえようにしな」
俺がびっくりしているうちに、実際に扉が細く開けられた。
ぺこっと頭を下げてそこから外に滑り出た俺に、外にいた衛兵さんたちも、「朝方の黒髪くんじゃねえか」と笑ってくれた。
――この国にはいい人が多いのかも知れない。
そう思いながら、俺はもう一度ぺこっと頭を下げて、両手に持っていた靴を履き直してから、宮殿の前のだだっ広い階段を駆け下り始めた。
――春の夜は先日までのようには冷え込まず、花の香りがする夜陰は少し暖かい。
更には庭園は、ところどころが世双珠で照らされるようになっているから、完全な闇というわけでもなかった。
頭上には見事な星空が広がっていて、俺は、空の向こうに宮殿があるとしたら、そちらの昼夜はこの地上とは逆になっているに違いないと考えた。
とはいえ、トゥイーディアの庭園に向かって小走りで進んでいる間に、俺の頭も冷えてきた。
――さすがにいないだろう、この時間。
日付が変わろうかという刻限である。
この時間にトゥイーディアがあそこにいたら、さすがに色々心配になってしまう。
夜道は危ないということを、俺は最近の読書で知ったのだ。
だが、ここまで来てしまったものは仕方がない。
俺は、いつも夜明け前や夕方に辿る道を辿って、暗がりにいつもよりも陰気に見える階段を昇った。
階段の上に掛かるアーチは、星空にさえ影を落とした。
花の香りがいっそう濃くなって、俺は覚えず深々と息を吸い込む。
そして、月光に冴え冴えと照らされる庭園を覗き込んだ。
続いて俺は順当に目を見開くこととなったが、その理由は語るまでもない。
――トゥイーディアが藤の花の下にいたからだ。
◆◆◆
トゥイーディアはカンテラひとつを東屋に持ち込んで、長椅子に腰掛け、円卓の上で腕を枕に俯せに顔を伏せていた。
カンテラには薄布が被せられていて、明度が敢えて抑えられている。
藤の花は月光を吸い込んだように、いつもよりも冴え冴えと、いっそ青白くさえ見える色合いで咲き誇っており、それも相俟ってまるで一幅の絵画のようだった。
だが、俺はそんな悠長な感想を長々と抱いていられなくて、驚いた余りに足音を殺すことも忘れて一歩前に出て、途端にトゥイーディアが顔を上げた。
しゃらん、と揺れたトゥイーディアの耳飾りが、明度が抑えられたカンテラの明かりに煌めいた。
――トゥイーディアは着替えていなかった。あのドレスのままだった。
トゥイーディアは俺を見て目を見開き、ちょっと目を擦って、また俺を見て長椅子から立ち上がった。
彼女は俺以上にびっくりしていた。
そりゃそうである。
俺はトゥイーディアがいるかも知れないと思ってここまで来たが、トゥイーディアからすれば俺の登場は全く以て慮外の事態だ。
「――ルドベキア? なんで……」
茫然と声を出すトゥイーディアに向かって、庭園の小道を走って進み、俺は東屋に続く短い石段の下で立ち止まって彼女を見上げた。
トゥイーディアの飴色の瞳は大きく見開かれていて、唇はぽかんと開いていた。
その驚きはご尤もだったし、もっといえば、俺は彼女の一人でいられる時間をぶち壊したわけだったが、俺も俺で驚いていた。
結果、頭が回らなくなった俺は、真顔で言っていた。
「――トゥイーディ、夜は危ないよ」
「……はあ」
トゥイーディアもトゥイーディアで、驚き過ぎてその表現の機を逸してしまったらしい。
妙に間の抜けた顔で頷いて、呟いた。
「大丈夫です。私、魔法使いなんです」
そう言ってから、トゥイーディアは目をぱちくりさせた。
「――いえ、そうじゃなくて。どうしてきみがここにいるんです?」
至極真っ当な問い掛けに、俺は口籠ったあと答えた。
「……いや、目が覚めて」
俺の言い振りはあからさまに言い訳めいていて、そのことに眉を寄せたトゥイーディアは首を傾げた。
「――それで、どうしてここへ?」
トゥイーディアがここにいるかと思った、と答えたら、十割の確率で彼女に嫌われるだろうと思ったので、俺はまたちょっと口籠ったあと、呟いた。
「……思い付いたから――」
トゥイーディアは瞬きし、飴色の大きな双眸で俺を見てから、ひとつ頷いた。
「そうですか」
そう言って、トゥイーディアは再び長椅子に腰掛けたが、今度は円卓側に寄って腰掛けて、空いたスペースをとんとんと手指で叩いてくれた。
――このときの俺は知らなかったが、彼女は酒には酔わなくとも夜には酔う性質の人だった。
このずっとずっと後の時代に、犬猿の仲になる俺のことを傍に呼んで一緒に庭を眺めてくれたり、犬猿の仲の俺に向かって、自分が怪我をした経緯を語り聞かせてくれたり、――そういうのは悉く、夜にあったことだった。
そういう全部を、このときの俺はまだ知らなかったけれど。
「――では、せっかくですからどうぞ」
俺は嬉しくなって、ぱっと笑うと石段を駆け上がり、トゥイーディアの隣に腰掛けた。
石の長椅子はひんやりとしていて、まるで夜を飲んでいるかのようだった。
トゥイーディアは微笑んで、庭園を指差した。
庭園には色とりどりの花が咲いていて、夜闇に沈んでいる色合いのものもあれば、夜陰に浮かび上がるような色合いのものもあった。
「ほら、明るい中で見るのとは違う美しさがあるでしょう?
藤も青白くて素敵ですし、木香薔薇なんて、夕日が回収するのを忘れた日差しの残りみたいじゃないですか」
そう言ってから、トゥイーディアははっと我に返った様子。
恥ずかしそうに指を下ろして、目を伏せて俯いた。
そして、呟いた。
「……忘れてください。詩と小説の読み過ぎです」
俺はトゥイーディアの方を見て、息を吸い込んで、彼女に遮られるまいとして早口に言った。
「――俺はそういうの好きだよ」
トゥイーディアは顔を上げた。
彼女は、俺が自分の好き嫌いをこの庭園で表明することを嫌っていたが、今日は微笑んでそれを聞いてくれた。
俺はほっとして、会話を途切れさせたくなくて、目についた花を指差した。
「……なあ、あの、薄い赤色っぽい花はなに?」
トゥイーディアは瞬きして、俺の指先を辿るようにして視線を滑らせた。
そして、俺が指差す、空に向かって昇っていきそうな花を見付けると、小さな声で教えてくれた。
「……昇り藤です」
「綺麗だな」
そう言って、俺は自分も、トゥイーディアみたいに凝った言い回しをしてみようと頭を捻ったが、生憎と俺の少ない語彙では不可能だった。
うーん、と内心で唸っていると、トゥイーディアが不意に呟いた。
「……舞踏会、終わりました?」
俺は横目でトゥイーディアを見て、幽玄な藤の花を見上げて、ぼやっとした返答を投げた。
「――最近終わったよ」
「そうですか」
トゥイーディアがそう言葉を零して俯いてしまったので、俺は慌てて言葉を続けた。
「トゥイーディのお陰で乗り切れたよ」
ゆっくりと顔を上げて、彼女は微笑んだ。
疲れたような笑顔だった。
俺は少し迷ってから、思い切って言った。
「――そっちも、今日はどこかで舞踏会だった? すっげぇ綺麗な格好だね」
トゥイーディアが目を瞬き、自分のドレスを見下ろしてから――もしかしたら、自分が着替えていないということも意識していなかったのかも知れない――、ふっと微笑んで俺と目を合わせた。
飴色の瞳の奥に、なんというか――子供を見るような色があった。
「ありがとうございます」
その口調に、なんとなく――俺の言ったことを世辞と捉えている気配を察して、俺は膨れっ面をした。
「ほんとに言ってるのに」
トゥイーディアが軽く笑ったが、やっぱり俺の言ったことを本気で受け取った風はなかった。
俺はむかっとして、しばしあれこれと考えた。
それからはたと手を打って、意気揚々とトゥイーディアに向き直った。
「あれだ。――木香薔薇じゃないけど、おまえは、……夕方の、金色に光ってる雲を集めて固めたみたいな、そういう綺麗さ」
俺の言い回しは詩的でも何でもなくて、むしろ俗っぽいものになったが、それでもトゥイーディアは目を丸くした。
それから、ちょっと照れたように微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その口調に、さっきまでよりは恥ずかしそうな色があるのを聞き取って、俺は満足して庭園に目を戻した。
ざああっと風が吹いて、低木の枝葉が擦れる音が夜の底を鳴らした。
その音が止んでから、俺はちらっとトゥイーディアの方を見遣った。
――トゥイーディアは、照れたような表情を消して、今は妙に無表情に庭園を眺めていた。
「――――」
息を吸い込んで、俺は小声で尋ねた。
「……嫌なことあった?」
口調は質問というより確認めいたものになった。
トゥイーディアが瞬きしたが、彼女はこっちを向かなかった。
ただ、物静かに答えた。
「はい」
嫌なことの内容を具体的に知っている俺は、なんと声を掛けていいものか、しばし躊躇した。
それから、ぼそっと呟いた。
「……おまえなら、嫌なことあったら、相手を殴り返せそうなのに」
トゥイーディアが息を吸い込んで、目を丸くして俺を見た。
ちょっと呆れた風でもあった。
「殴り返す? しませんよ、そんな野蛮なこと」
俺は慌てて手を振った。
「いや、えっと、違う。何て言うか……」
うろうろと視線を彷徨わせたあと、俺はぼそぼそと。
「……なんか、言い返したりとか、そういう――頭のいい殴り返し方」
トゥイーディアが瞬きした。
そして、ふわっと微笑んだ。
「殴り返し方。いいですね、それ」
そう言って、トゥイーディアは手を伸ばし、夜空を指差した。
どうやら、ひときわ明るい星を指先で撃ち抜こうとしているようだった。
細い指先を構える彼女は様になっていて、格好よかった。
「――そういう意味なら、そうですね。今は殴り返す準備中です。そのうち渾身の一撃が決まります」
誇らしげにそう言ってから、しかし、俄かにトゥイーディアは蒼褪めた。
――まあ、そりゃそうである。
俺はキルディアス侯爵の賓客なんだから。
トゥイーディアが蒼褪めた理由が分かったので、俺は素早く言っていた。
「俺はおまえがどこの誰だか知らないし、こんな所に来てるって知られたら、――ええっと、いつも一緒にいる人たちから大目玉喰らうから、誰にも何にも言えないよ」
予防線を張るようにそう言った俺に、トゥイーディアは探る眼差しをしながらも頷いた。
俺はトゥイーディアに安心してほしくて、あれこれと言葉を探したが、結局適切な言葉は見当たらなかった。
そのうちに俺は諦めて、小さく呟いた。
「……俺、おまえのこと誰にも言わないよ」
トゥイーディアは、なおもまじまじと俺を見て、それから俺の何を信じたものか頷いた。
飴色の瞳に月光が映った。
それからトゥイーディアは、ぽん、と両掌を合わせて、素早く話題を変えるように。
「ゲルシュが書いた戯曲、お読みになったことはありますか?
『春の妖精』が私は好きで――」
軽やかにそう言って、トゥイーディアは長椅子から立ち上がった。
彼女がどこかへ行くのかと、俺はどきっとしたものの、トゥイーディアは単に立って、身体の後ろで緩く手を組んだだけだった。
半ばを結い上げた蜂蜜色の髪が背中で揺れて、夜の中で息をする陽射しの残滓のようだと俺は思った。
「――『絢爛豪華な舞踏会よりも、花々の上の夜露の舞こそ美しい』」
諳んじるようにそう言ったトゥイーディアに、俺はこれが戯曲の引用なのだと気付いた。
残念ながら俺はその戯曲を読んだことがなかった。なのでそうっと、「分かると思う」と呟いた。
少なくとも、この庭園では礼儀作法なんかに気を付けて、呼吸が苦しくなるほどどきどきしてしまうことはない。
トゥイーディアは編み込まれた髪を揺らして振り返り、俺を見てふわっと微笑んだ。
頬に笑窪が浮かんだ。
「でも、絢爛豪華な舞踏会もいいと思いません?」
俺は首を傾げた。
俺から見るトゥイーディアは、明度を抑えたカンテラの明かりに後れ毛が光っていて、夜露の舞より更に数段綺麗に見えていた。
「――踊るの好きなの?」
俺が尋ねると、トゥイーディアは寂しそうに笑って首を振った。
「好き嫌いは関係ないんです。きみはご存知ないことですけれど、私、舞踏会で踊れるような身分ではないんですよ」
――トゥイーディアが今言ったのは、身分じゃなくて立場のことだ。
そう理解して、俺は自分の指先を弄んだ。
――俺は、あんまり、トゥイーディアのことを知らない。
彼女の生まれを知らない。彼女の人生を知らない。
彼女が何をつらく思うのか知らない。
――そう考えるとなんだか悲しくなってきたが、今さっきの彼女が、「踊るのは好きじゃない」と断言しなかった理由くらいはなんとなく分かった。
俺は瞬きし、大きく息を吸い込み、それから立ち上がった。
いつの間にか、俺は確かに少し背が伸びたのかも知れない。
トゥイーディアと大体同じ身長になっていた。
トゥイーディアが首を傾げた。
それを見てから、俺は半歩下がり、トゥイーディアの前に跪いて彼女の手を取った。
膝の下の石の床はひんやりと冷たく、手袋越しのトゥイーディアの指先も、先日とは違って冷えていた。
それが妙に切なくて、俺は先日よりも強く彼女の手を握った。
手を取られたトゥイーディアは、大きな双眸を丸くした。
それを見上げ、自覚できるほどに顔を赤くしながら、俺は声を出した。
「――踊っていただけますか、トゥイーディ」
目を丸くしたトゥイーディアが、数秒をおいて笑い始めた。
くすくすと肩を震わせて、珠を転がすように笑う彼女を、俺は仏頂面を作って見詰めていた。
笑いながらも、トゥイーディアは俺の手を離さなかったし、俺もトゥイーディアの手を離さなかった。
今日のトゥイーディアはちゃんと手袋をしているから、礼儀知らずを怒られることもないだろう。
しばらく声を抑えて笑ってから、トゥイーディアは空いている手の指先で、目尻に浮かんだ涙を拭った。
笑い過ぎただけにしては、妙にはっきりと浮かんだ涙だった。
涙に濡れた睫毛が月光を弾いて、それからトゥイーディアは微笑んで、応えた。
「――ええ、喜んで」
俺はほっとして微笑んだ。
なに言ってるんですか、とか言われてしまったら、しばらく寝込むところだった。
ほうっと息を吐いた俺はトゥイーディアの手を取ったまま立ち上がり、それから藤の花の方を見上げて、ぼそりと。
「……実は、下手くそなんだ」
「そうだと思いました」
トゥイーディアは鹿爪らしくそう言って、俺と繋いでいない方の手を伸ばして、俺のもう片方の手を掴んだ。
俺はますます赤くなったが、トゥイーディアは多分それを見ていなかった。
彼女にしては妙に明るく、何かを誤魔化すように陽気に、トゥイーディアは笑っていた。
「花の下の舞踏会です。贅沢ですね」
そう言って、トゥイーディアは子供のお遊戯みたいに、俺と繋いだ両手をぶんぶんと揺らした。
夜中だということで、なんかこう、理性がだいぶ薄れていたのかも知れない。
そのうちに、彼女が俺と手を繋いだまま、繋いだ手をくぐるようにしてくるくる回り始めたので、俺も楽しくなってきた。
トゥイーディアの蜂蜜色の髪や薄橙のドレスが、大輪の花みたいにふわっと広がって、月光に冴えて綺麗だった。
トゥイーディアは踊るのが上手だった。
お遊戯みたいな動きでさえも、彼女がこなせば滑らかで優美だった。
俺が彼女に見蕩れてぼけっと突っ立ったままでいると、トゥイーディアはそれに気付く度にぐいっと俺の手を引っ張って、よろける俺を見て楽しそうに笑った。
トゥイーディアがそういう風に笑っていると、俺もついつい嬉しくなって釣られて笑って、トゥイーディアは、「きみは寛大ですね」と笑いながら囁いてくれた。
「別にそういうわけじゃなくて、楽しいよ」と、思わず俺がぼろっと本音を零すと、トゥイーディアはなおいっそう楽しそうに笑った。
どきどきする余り、俺は眩暈すら覚えていたが、トゥイーディアはそういうことには気付いていないようだった。
くるくると軽やかに踊る彼女の表情は、珍しくも自分のことでいっぱいいっぱいといった様子だったが、そういう顔も好きだと思った。
――もしも俺が、誰かから、本当に偉い誰かから、人生の一瞬を永遠にしてやると言われたならば、俺は間違いなくこの瞬間を指定していた。
藤の下の、お遊戯の舞踏会にはしゃぐトゥイーディアは、俺の、既にトゥイーディアに傾き切っていた気持ちを完全に落とした。
こんなにも可愛らしく繊細で、綺麗でしなやかに強い人を、俺はこの先に続く長い長い人生で、トゥイーディア以外には知らないままだった。
――このときの俺でさえ、弁えていることがあった。
俺はあと一年で島に戻らないといけないこと。
そうなれば多分、二度とはトゥイーディアに会えないだろうこと。
トゥイーディアは伯爵さまだから、奇跡が起こって俺がここに居られることになっても、人の目がある限り絶対に俺には振り向いてくれないだろうということ。
――最初は、一緒に幸せになりたいと思ったのだ。
だけどすぐに、それは無理だと分かった。
だからこのときの俺は、トゥイーディアがただ笑顔で幸せでいてくれと願っていた。
そう遠くない未来に、この願いですら変わることになるのだが、このときの俺はそれを知らない。
ようやく俺たちが手を離したのは、はしゃいだトゥイーディアが息切れしてからだった。
はぁはぁと喘いで長椅子に戻って、トゥイーディアは両手でぱたぱたと顔を扇ぐ。
それから、ばつが悪そうに、恥ずかしそうに俺をちらっと見て、お伺いを立てるように微笑んだ。
「――内緒にしてくれます?」
トゥイーディアが、半ばは我に返りつつあることを心の底から残念に思いつつも、俺は尤もらしく首を傾げた。
「誰かに言い触らそうにも、俺はおまえが誰だか知らない」
トゥイーディアが笑った。
閃くような笑い方だった。
そんな彼女が、他の感情に蓋をしようとしてはしゃいでいたのを何となく察して、俺は両手を膝の上で組んだ。
指に、まだトゥイーディアの手袋の感触が残っていた。
「……今日――ほんとは一人になりたかった? ごめん」
「急にどうしたんですか」
急にしおらしくなった俺にびっくりしたのか、目を瞠ってそう言って、トゥイーディアは曖昧に肩を竦めて首を傾げた。
「……ここに一人でいて、あれこれと考え事をするのも好きですし――その方が慣れていますが、たまには、きみがいるのも悪くはないと思いますよ」
そう言ってくれたのが本心か気遣いか測りかねて、俺はちょっとの間息を止めた。
それから、呟くように尋ねた。
「――明日は、一人になりたい? 来ない方がいい?」
トゥイーディアは飴色の双眸で俺を見て、少し迷うように目を伏せた。
長い睫毛が月光に影を落とし、蜂蜜色の髪がひとあし早い朝陽みたいに煌めいた。
沈黙が怖くて、俺は庭園の方に目を逸らした。
さっきトゥイーディアに名前を教えてもらった昇り藤が、夜陰にぼうっと浮かび上がるようにして咲いている。
数秒ののち、トゥイーディアが顔を上げたのが気配で分かった。
俺は彼女から目を逸らしているのも気まずくなって、軽く息を吸い込んで彼女の方を振り返った。
目が合った。
トゥイーディアの飴色の双眸が柔らかく細められた。
そして彼女は、にっこりと微笑んだ。
「……いいえ」
はっきりとそう言って、トゥイーディアは両手を軽く組んで、その指をきゅうっと握り合わせた。
俺は嬉しい以上に幸せで、息が詰まって眩暈がした。
なんとか平静を装おうとしている俺から、少しだけ気恥ずかしそうに目を逸らして庭園の方を眺めながら、トゥイーディアは小声で歌うように呟いた。
「――偶然会えたら、明日もお話ししましょう、ルドベキア」
ルピナスの花言葉は、「あなたは私の安らぎ」。




