29◆――舞踏会
嵐が来て舞踏会が中止になんねえかな――と、チャールズは本気の口調で言っていたが、「主催者がキルディアス閣下であるという時点で、天候が理由で中止になることだけは絶対にない」という正論を喰らって項垂れていた。
――一月やそこらでダンスを完璧に踊れるようになるなら苦労はない。
そもそも俺は、普通の礼儀作法ですら、ハルティの大使という立場のゆえにあれこれとお目溢しを貰っているような段階である。
パトリシアの足を踏むことこそなくなったものの、俺は自分の動きに全神経を集中していないと、途端にまごついてしまうような有様で、「通常だと、ダンスをしながら談笑に興じるものですが」とレイモンドに言われたときには絶句してしまった。
俺のそんな顔を見て、チャールズは静かに呻いていた。
「ルドベキア、とにかく全部愛想笑いで誤魔化してください。ただ、変な言質を取られるわけにもいきませんから、頷くことは避けて取り敢えず首を傾げていてください」
とは、レイモンドからの助言である。
大賛成だ。
キルディアス侯爵の生誕祝いは、当然ながらキルディアス侯爵邸で催される。
この王宮の一画に、侯爵もまたでかい宮殿を構えているのだ。
俺はそろそろ、この王宮の大きさは無限なんじゃなかろうかと思い始めていたが、俺が普段滞在している宮殿と比べれば、それはもう可愛らしい大きさに見えてくる邸宅なのだから、慣れというものは恐ろしい。
とはいえ巨大なものは巨大なので、俺は一風変わった薔薇色の石造りの邸宅を見た瞬間から回れ右して逃げ出したくなっていた。
まあ、例の馬車もどきに乗せられている以上、それは不可能だったけれども。
ついでにチャールズが、がっしり俺の手首を握っていたけれども。
キルディアス侯爵邸は――つまり、王宮内にある侯爵家の邸宅は――、薔薇色の石で造られた瀟洒な建物で、建物の前面の殆どは硝子張りの窓になっていた。
表面を複雑な形にカットされて、四方八方に光を弾く分厚い玻璃が、金色の華奢な窓枠に収まって、見上げるほどの高さまでずらりと並んでいるのである。
壮観なその眺めの下に、これまた壮麗な玄関が口を開けている。
今日の舞踏会には、一応は使節団の全員が招待されているという体にはなっている。
とはいうものの、どう考えても主賓は俺なので、俺は案の定の腹痛に呻いていた。
時刻は夕暮れ時、西の空は茜と藍色が混じり合った見事な色合いを見せており、東の空には明星が煌めいていたが、俺の胸中は雷雨である。
「――あなたは十分よく頑張りました、頑張りました」
レイモンドはそう言ってくれたものの、俺が殉職しに行くのを見守るみたいな顔になっていた。
いざ案内されて玄関をくぐってみると、俺は危機感が突き抜け過ぎて、むしろもう何も感じなくなってきた。
あっちを向いてもこっちを向いても着飾った人たちばっかりで、俺の目からは人の区別すらつき難かった。
――トゥイーディアから助言を貰ってから半月、とうとう舞踏会の日である。
あのいちど以来、トゥイーディアは口が裂けても今日のことを言い出したりはしなかったし、そもそもあれから俺が彼女に会えたのも二度だけだった。
今日さえ終われば早朝の自由時間は戻ってくるはずなので、俺としては早く明日になってほしい気持ちに切実なものがある。
案内されたのは大広間で、並ぶ装飾円柱に高い天井を支えられた白亜の空間に、俺の現実感はいよいよ損なわれた。
とはいえレイモンドたちにはしっかり現実として受け止められる光景だったらしく、彼らはこっそりと祈りを捧げ始めていた。
俺が下手を打って地雷の令嬢を誘ってしまったりだとか、あるいは相手の令嬢の足を踏んでしまったりだとかしたら、その瞬間に色々とお役目に支障が出かねない――そしてそれを差し置いても、他国の貴族を怒らせるというのはなかなかに度胸の要ることだった――ので、その心境は察するに余りある。
大広間は、そこの入口から見て左側に一面の硝子窓が見えるようになっていた――つまり、そちらが建物の正面側というわけだ――が、硝子の表面が芸術的にカットされているために、外の光景は見えなかった。
ただ暗いということが分かるのみである。
そして今はその硝子に、大広間の灯りがこれでもかと映り込んでいる状態だった。
既にたくさんの貴族が集まりつつあって、事前に聞いていたように、小さな子供の姿も中にはあった。
恰幅のいい男性に連れられた、薄紅色の可愛らしいドレスを着た五、六歳の女の子が、髪に薄紅色の大きな花飾りを付けて、不安と好奇心をいっぱいに湛えた顔をして男性の手を握り、彼の腰にしがみ付くようにして周囲を窺っているのを見て、俺は可愛らしいなとほっこりするよりも何よりも、親近感を覚えてしまった。
ぐるっと大広間を見渡すと、隅の方には楽団も控えている。
大広間の端の方には、ぐるっと円卓が配置されていて、そこに軽食の用意があるようだった。
俺が更に視線を巡らせようとしたところで、唐突に後ろから声を掛けられた。
振り返ると、全く見知らぬ男の人と若い女の人が立っていたが、「先日はどうも」みたいな挨拶から入ったところをみるに、もしかしたら以前に会っていた人だったのかも知れない。
一気に色んな人と引き合わされたがために、俺はあやふやにしか人の顔と名前を一致させられていなくて、服装や髪型が変わってしまうと、途端に誰が誰だか分からなくなるのだった。
とはいえ、見知らぬ人から逃げ出さなくなっただけ進歩である。
取り敢えず愛想笑いで誤魔化していると、傍のレイモンドが咳払いに交えて、「ルンギッシュ伯と賢嬢です」と伝えてきた。
ああ、それなら分かる、こないだ確か晩餐で会ったな――と合点して、俺も話を合わせ始めた。
そのうち、大広間の――窓とは反対側の――隅っこにある、上へと続く螺旋階段からキルディアス侯爵が現れた。
彼女が姿を見せると同時に、湧き上がるように拍手があちこちから贈られ始めた。
キルディアス侯爵は、非常に豪華な濃紫のドレスを纏っており、ドレスの裾は階段を下りる彼女に追従して引き摺られるほどに長かった。
半ばが結い上げられた薄青い髪はシャンデリアの明かりを反射して眩しく煌めいており、宝石を縫い留められたレースで飾られていた。
そんな彼女と腕を組んで(無論、キルディアス侯爵は上腕までを覆う手袋をしていた。俺は先日の、トゥイーディアに対する自分の大失態を思い出して一人静かに恥じ入った)、男性が階段を下りて来ていたが、彼には、はっきり言って目立ったところはなかった。
長く伸ばされて項のところで黒絹のリボンで結われている髪こそ、キルディアス侯爵と似通うところのある蒼銀の色だったが、顔立ちも立ち居振る舞いも凡庸で、着ているものが豪奢であることがいっそ憐れを誘うくらいだった。
俺はそのときには、他の貴族とは辛うじて距離を置くことが出来ていたので、「お付きです」と言わんばかりの顔で俺の斜め後ろに立っているレイモンドをちらっと振り返って、拍手しながらも小声で尋ねた。
「――侯爵の隣、だれ?」
レイモンドは俺の耳許に顔を寄せて、こそっと囁き声で答えてくれた。
「恐らく閣下の伯父上かと。私もお顔を拝見するのは初めてですが」
俺はぎゅうっと眉を寄せ、呟いた。
「……閣下の、お母さんの、お兄さん?」
「いえ、あの青い髪色は侯爵家のものですよ」
レイモンドがいっそう低い声でそう言って、憚るように続けた。
「……先代侯爵に兄上がいらっしゃって、かつその方が爵位を継いでいらっしゃらないんです。きっと何か――事情があったんでしょうね」
なるほど、と俺は頷いた。
理解はしていなかったが、レイモンドがそう言うならそうなんだろうと納得した。
そのうちに拍手が徐々に小さくなって、侯爵は螺旋階段の半ばで足を止め、高いところから大広間を一望して、よく透る声で挨拶を述べ始めた。
本日はお集まりいただいて有り難うございます云々かんぬん。ささやかな宴を云々かんぬん。
――これがささやかだって言うなら、何を豪華と言うのだろう。
俺は思わず遠い目をしてしまったが、楽団が音楽を奏で始めたのを聞いてはっとした。
キルディアス侯爵は螺旋階段を下り切って、腕を組んでいた男性と一緒に大広間の中央――誰もいない広い空間に進み出ている。
そこで典雅にお辞儀して――男性の方のお辞儀は、とてもではないが典雅とは言いかねるものだった――、男性とのダンスを始めようとしている。
レイモンドは若干蒼褪めている。
使節団の若手の人たちからの、痛いほどの祈るような視線を感じる。
俺は慌てて周囲を見渡した。
――小さい女の子、小さい女の子、小さい女の子。
あんまり小さ過ぎても駄目っていうことはさすがに分かるから、出来れば十二とか十三とかの。
周囲の貴族から視線が集まってくるのが分かる。
世双珠の輩出国、ハルティの大使が誰をダンスの相手に選ぶのか、めちゃくちゃ注目されている。
むしろなんかこっちに寄って来ている人もいる。
やめてくれ。
慌てる余りに目が滑ったが、俺はようやく条件に合致する親子を発見した。
のっぽのお父さんの手を握って、ダンスフロアの方を憧れの眼差しで見ている女の子。
たぶん十一か十二かそのくらい。
確かあのお父さんは晩餐会で見たことがある。
つまりキルディアス侯爵の政敵ではない。
俺は息を吸い込んで、覚悟を決めて歩き出した。
若干胸が苦しいが、もうやるしかないのだから仕方がない。
一歩踏み出した俺にレイモンドが送る視線を可視化できれば、それはもう愉快なことになっていただろう。
――声を掛けて、跪いて、手を取って、『踊っていただけますか、賢嬢』。
トゥイーディアから教わったことを(一応、そのあとチャールズからも同じことを教わっていたけれど)、怒濤のように脳内で繰り返しながら、俺は周り中の視線を引っ張るようにして歩を進め、ようやく目的の親子の前に辿り着いた。
俺はちょっとした眩暈すら覚えつつ、腹を括って、「よろしければ」と。
女の子がぱっと俺を振り返り、大きな瞳を瞬かせた。
彼女ののっぽのお父さんは訝しそうにした。
そっちの反応を見ている余裕はあんまりなかったので無視して、俺は小さな女の子の前に跪いて、彼女がお父さんにしがみ付くのに使っていない方の手を取った。
ぱああっと女の子が顔を輝かせ、頬を赤らめた。
今の俺なら「可愛いな」と思えたところ、当時の俺はそれにすら気付いておらず、この子が余りにもまだ小さいものだから、トゥイーディアから教わった台詞に急遽変更を加えながら口から吐き出していた。
「――踊っていただけますか、小さな賢嬢?」
女の子が、ぱっと彼女のお父さんの手を離し、手を離しつつも彼を振り仰いだ。
「よろしいですか?」と眼差しで尋ねていることがありありと分かる表情で、のっぽのお父さんはひどくびっくりした様子だったが、すぐに温和に微笑んだ。
――そりゃそうだ。
そう、今の俺なら普通に分かる。
色仕掛けの政略に使うにはまだ幼過ぎる子供でも、大使に誘われて嫌な顔をする理由がない。
お父さんが頷き、俺に向かって挨拶するのを見て、女の子はそれはそれは嬉しそうに目を輝かせた。
俺はぶっちゃけ、ここまででもう任務達成した気分だったが、その気持ちをぐっと堪えて、女の子をダンスフロアの方へ。
同じくお相手と連れ添って、次々に貴族たちがダンスフロアへ進み出ている。
俺は本能的にトゥイーディアを捜しそうになったが、ぼんやりしていられないので、慌てて自分の方に集中した。
女の子は――まあ当然だが――、ダンスの練習こそしていても、実践は未経験だったとみえる。
非常にたどたどしく俺に頭を下げてくれて、俺は一気に気が楽になった。
足を踏まれても踏むよりマシだし、俺のダンスの稚拙さを誤魔化すことが出来ればもう何でもいい。
実際、当時の俺が年齢の割に小さかったことを差し引いても、十一かそこらの女の子との身長差は大きく、かつ相手も緊張して動きが硬くなっていたことから、ダンスというよりお遊戯といった感じで乗り切ることが出来た。
周囲の先入観も相俟って、「ハルティの大使が小さな女の子と遊んでやっている」という風に見られたのだ。
そのうちに踊っている周囲の人たちから、「大使さまはお優しいですね」だの、「微笑ましい」だの、「そちらの小さな賢嬢には一生の思い出ですね」だの、褒める感じの言葉をめちゃくちゃ投げ掛けてもらうことが出来た。
俺はそれら全部に愛想笑いで返した。
曲調が変わったタイミングで、上手いことダンスもどきを打ち切って、連れ出した女の子をお父さんの方へ連れ帰ってやる。
トゥイーディアから教わったように彼女の手を離すと、女の子は恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてお父さんの後ろに隠れた。
お父さんはそんな態度に、「こら」と言いつつも、まんざらではない顔で俺に声を掛け、今度屋敷にどうぞ、みたいな誘いを卒なく掛けてきた。
俺は微笑して、予定を確認しますねと躱し、お父さんは、では今度手紙を出しますね、と深追いしてきた。
俺の目的はあくまで、お誘いを受けていいかどうか、レイモンドたちに諮る機会を持つことだ。
なので、手紙にしてくれると言うのならば万々歳。
お手紙お待ちしていますと返したところ、彼は満足してくれた模様。
俺は、「では」と頭を下げて、とにかくその場から離れる方向に歩き出した。
数歩進んだところで、俺はレイモンドの姿を発見。
急いでそちらに舵を切って、走る寸前の早足で歩み寄る。
レイモンドの傍にはチャールズもパトリシアもいて、三人が三人とも、感動の眼差しで俺を見ていた。
「――えらい、えらいです!」
と、俺を壁際の方まで引っ張って行ってから、レイモンド。
「よく思い付きましたね。小さな子供なら問題はなかったですね。
えらい、ルドベキア、本当によく頑張りました」
小声ながらも褒めちぎられ、俺は嬉しい一方、「いやこれはトゥイーディアの助言で」と言い出せないことに内心でもやもや。
チャールズもパトリシアも、しゃがみ込まんばかりに安堵していて、俺が、「そういえばさっきの女の子の親からお誘いがあったんだけど」と報告すると、「受けとけ受けとけ」と機嫌よさそうに言い放った。
「さっきの、ラトッシュ男爵だろ。全然大丈夫な人だ。
大使さま、やれば出来るじゃん!」
俺もそこで一気に安堵して、安堵した勢いでレイモンドを見上げ、「もう帰っていい?」と尋ねた。
レイモンドはにこっとして、「いいわけないでしょう」と。
「大変申し上げにくいのですが、ルドベキア。子連れの方々からあなたに熱い視線が注がれています。もうちょっと頑張ってみてください」
俺は喉の奥で呻いたが、周囲を見渡すとレイモンドの言ったことは本当だった。
すうっと息を吸い込んで、俺はチャールズに肩を押され、再び大広間の中央に向かって足を踏み出すこととなった。
とはいえ、子供を相手にすることを選択したために、俺にとっては乗り切りやすい時間となった。
途中からは、「お疲れでしょう」と周りから声を掛けてもらって壁の花になることに成功したくらいだ。
渡された酒杯を、絶対に飲むまいと思いながら手で弄び、ぼうっと立っていることが許される時間である。
ぼうっとする俺が何をするかといえば、決まっている。
俺は目でトゥイーディアを捜し始めた。
会場が広いのでなかなか見付からず、俺は怪しまれない程度に壁際をうろうろして、ダンスフロアの方を凝視していた。
その間にもなんやかんやのお誘いとか、世双珠の流通について探りを入れてくるような質問とか、そういうのが投げ掛けられてきたけれど、俺は愛想笑いで誤魔化し切った。
挨拶しなきゃ拙いだろうというチャールズの意見で、一応はキルディアス侯にも挨拶しに行ってみたが、血が凍るばかりの時間だった。
何しろ侯爵、傍に突っ立っている男の人への扱いがあからさまに悪い。
割と堂々と、「当家の恥です」と紹介された俺は、一体どういう顔をすれば良かったのか。
そんなわけで早々に再び壁際に戻った俺は、トゥイーディア捜しを再開。
――誓って言うが、今の俺ならすぐに見付けられたはずだ。
でもこのときの俺は、まだトゥイーディアのことをそんなに見慣れていなかった。
内心でじりじりしながらトゥイーディアのことを捜した俺は、結局自分では見つけられなかった。
俺がトゥイーディアの姿を発見できたのは、犬猿の仲であるパルドーラ伯爵とキルディアス侯爵の、仲のいい皮を被った舌戦が繰り広げられ始めたからで、どよどよとざわめく貴族たちの好奇の視線が向かう先を辿っていくと、トゥイーディアとキルディアス侯爵が、極めてにこやかな顔で向かい合っていたというわけである。
着飾った人波を縫って眺めるトゥイーディアは、今日は薄橙の綺麗なドレスを着ていた。
豪華絢爛なキルディアス侯のドレスと比べるとすっきりしてさえ見える形だったが、布がたっぷりと使われていることには変わりない。
編み込んだ髪の半ばを結い上げ、残りを背中に流していて、俺は正面からその姿が見たいなあと呑気なことを一瞬考えたものだったが、まあこのときのトゥイーディアが、正面から見ればたいそう怖い顔をしていたことに疑いはない。
にっこりと微笑んではいても、目が笑っていなかったはずだ。
トゥイーディアは一人ではなかった。
後ろに、髪を全て高く結い上げた背の高い女の人がいて、トゥイーディアにしがみ付くようにして立っている、小さな男の子の姿もあった。
誰だあれ、と思って俺はそれを眺めていたが、生憎と全然声は聞こえない。
距離があり過ぎるし、その間の人波もざわざわとうるさい。
とはいえ、目を細めて観察するに、キルディアス侯が自分の後ろの女の人に声を掛けようとするのを、トゥイーディアが阻止している構図であるらしいというのは分かった。
女の人は女の人で、若干顔を伏せつつ、早く立ち去りたそうにしている。
どういう状況だ?
俺は興味のない振りをしつつも内心できょとんとしていたが、キルディアス侯がトゥイーディアの顔から視線を外し、彼女にくっ付いている男の子に目を落とした瞬間、しん、と大広間の人声が静まり返ったので、ようやっとそちらの遣り取りが微かに聞こえてくるようになった。
奏で続けられる音楽に混じって、キルディアス侯の声が切れ切れに聞こえる。
「――お久しぶり、と申し上げてよろしいものでしょうかしら、トリシア卿。可愛らしくおなりですね」
男の子はぎゅうっとトゥイーディアにしがみ付き、キルディアス侯を見上げて目を瞬いている様子。
そんな男の子をちらりと一瞥し、トゥイーディアが応じる声が聞こえてきた。
「ありがとう存じます。領地にいることがまだ長いものですから――王都の絢爛さには目を回したようでございますが」
ふふ、とキルディアス侯が肩を揺らして笑って、トゥイーディアの顔に目を戻した。
「本当に可愛らしいこと。――とは申しましても、パルドーラ閣下。閣下のお美しさが群を抜いていらっしゃる。他の方にはないお美しさですわ」
トゥイーディアが綺麗なのは事実なのに、なぜかそのとき、空気が凍る音がした。
そんな中で、トゥイーディアがにっこりと微笑むのが見えた。
「勿体ないお言葉です、閣下。――とはいえ、母には敵いません……あら、失礼。身内の自慢は止しておきますわ。なにしろ今宵は閣下のお祝い」
どんどん空気が不穏になっていく中、トゥイーディアの後ろにいる女の人が、「そうですよ、伯爵」と呟いたのが聞こえてきた。
――母娘っていうなら、なんか他人行儀な呼び方だな。
俺だってヘリアンサスにはもっと気安かったのに。
そう思った俺は、しかし違和感を覚えて眉を寄せた。
――似てない。
女の人とも、男の子とも、トゥイーディアは全然似ていない。
トゥイーディアの髪は綺麗な蜂蜜色だが、女の人は赤い髪、そして男の子の髪は、赤みを帯びた金色だった。
キルディアス侯爵が上品に笑った。
「ええ、いらしていただいて、わたくしは本当に嬉しく存じます。
――ただ、一曲も踊ってくださらないなんて寂しいことを。殿方も残念に思っておられることでしょう。何かご不満でも?」
ざわざわと話し声が戻っていく。
その中に、抑えたような冷笑や嘲笑の類が混じっていることを聞き取って、俺は胸が重くなる気分だった。
そんな中で、トゥイーディアが平坦な声を出すのが聞こえてきた。
「……失礼いたしました。なにぶん、この子はまだ小さいもので。わたくしが傍で見ておりますの。
楽しませていただいておりますわ、閣下」
それは良かった、とキルディアス侯爵が言って、ちょうどそのとき、別の男性に声を掛けられた様子で振り返った。
その瞬間に、トゥイーディアが大きく息を吐いたのが見えた。
――すぐに人波が動き始めて、俺からはトゥイーディアが見えなくなってしまったが、俺はそれからしばらく、どうしてあそこまで空気が悪くなったのか、壁際でぼんやりしながら考えていた。
この三箇月足らずの勉強の成果か、答えは案外すぐに出てきた。
――トゥイーディアは、多分だけど、妾腹の生まれ。
対してキルディアス侯爵は嫡出子。
トゥイーディアと一緒にいたのが――「母」と呼ばれていたし――、仮に先代パルドーラ伯爵の奥さんだったのだとすれば、そして男の子の方も、そういう縁続きの子だったのだとすれば、トゥイーディアとあの二人に血の繋がりがないことも考えられるわけだ。
つまり、キルディアス侯爵は遠回しに、トゥイーディアの生まれを嗤ったのかも知れない。
そう考えると、「他の方にはない美しさ」という台詞に含みを覚えることも出来るし、「身内の自慢」というトゥイーディアの言葉に言外の主張を感じ取ることも出来る。
――俺はそう考えて、かつその考えがおおよそ当たっていたということは、帰り道の馬車もどきの上で証明された。
パルドーラ伯とキルディアス侯のあの喧嘩は何だったの、としらばっくれて訊いてみたところ、レイモンドがあっさり答えてくれたのである。
「――ああ、多分ですけど、女伯と一緒にいらしていたのが、先代パルドーラ伯の賢女でしょうね。男の子の方は多分、パルドーラ伯の甥御さまだと思いますよ。
女侯からすれば、――ええっと、何て言うんでしょうね、お生まれに問題のある女伯がご自分と張り合っているのは、ちょっと面白くないものがあるのかも知れません。だからといいますか、多分そこを叩きに行ったんですよ。あー、つまり、先代の賢女とは似ていませんね、っていう、そこを」
レイモンドにしては珍しく、全然要領を得ない説明ではあったが、自分の推測があったお陰でおおまかに理解できた俺はこくんと頷いた。
レイモンドは俺を見て肩を竦めて、「別にそういう汚いところは分からなくていいんですよ」と、真綿のような言葉を掛けてくれた。
とはいえ直後に、「ちょっとは分かってないと拙いと思いますけど」とパトリシアが言い放ったが。
「まあ、今日の侯爵はちょっとえげつなかったけどな」
と、あれをしっかり見聞きしていたらしきチャールズが笑った。
「パルドーラ伯が舞踏会じゃ壁の花になるしかねえって分かってて招待して、そこを叩いたわけだから。ちょっと同情しちまったわ」
「――――」
トゥイーディアは同情を嫌がるだろうと思った俺は、覚えず顔を顰めた。
だが、気になったところはちゃっかり尋ねた。
「……なんで、壁の花になるしかないって?」
「あー……」
チャールズががしがしと頭を掻き、肩を竦めて俺を見て、顔を顰めた。
「――あれだよ、パルドーラ伯って……なんつーかね、後継ぎは甥っ子に決まってんだけど、いざ伯爵本人が誰かと結婚しちまったり、あまつさえ子供が出来たりした場合は、そこがちょっとややこしくなるんだよ。まあ、風の噂だけどな。
だから女伯は、舞踏会みたいな――何て言うかな、お見合いの雰囲気のあるところだと、影みたいにじっとしてることが多いんだよ。下手に足許掬われないためだろうけど」
俺はトゥイーディアの家族構成が全然分からなくなったが、「へえ」と呟いてチャールズから目を逸らした。
――自分から招待に諾の返事を出したのであれば、トゥイーディアは全部覚悟の上で、受けて立つつもりであの会場に足を踏み入れたに違いない、と、俺は確信を持って考えた。
俺は貴族のことは今ひとつよく分かってはいないが、キルディアス侯もトゥイーディアも、それぞれ自分――というか、自分の家――の利益のために相手を追い落とそうとしているのであれば、叩く側にも叩かれる側にも言い分はあるはずだ。
叩かれると痛い場所を晒す方に問題があると言われるんだろうし、トゥイーディアは慣れているはずだ。
何しろ、あんなにちゃんと俺に振る舞い方を教えてくれた――トゥイーディアは舞踏会を何度も経験している。
――だが、まあ。
馬車もどきの真鍮の手摺に頬杖を突いて、俺はぼんやりと視線を足許に落とした。
――トゥイーディアは、誰かに敵意を向けられたら、相手を殴り返すことが出来る人だ。
憐憫を寄せられることを、耐え難いという程に誇り高い人だ。
多少の嘲笑は嫉妬の類であると、受け流すことが出来る人だ。
でも、トゥイーディアが殴り返すのは、相手の手が自分に届いたと判断するからだ。
嘲笑を受け流すのは、嘲られたと察するからだ。
――トゥイーディアは折れない人だろうけど、折れないっていうのは痛くないっていうことじゃないだろう。
そう思って、俺はぎゅっと唇を噛んだ。
心臓の辺りが変に痛んで、急に無言になった俺に、周りからは「疲れちゃいましたか」と声が掛けられた。
俺は頷いて、帰途はそのままじっとしていた。
◆◆◆
――月明かりが差し込む自室でさえ、なんだかんだで唇を噛んだまま、胸の痛みを抱えたままだった俺は思い余って、その夜、初めて起こす行動に出た。
つまり、真夜中に宮殿を抜け出したのである。




