28◆――言葉足らずに気を付けて
俺はふわっと抽象的に絶望しただけだったが、レイモンドたちはきっぱりと具体的に絶望していた。
俺がぽかんとしている間に、ひそひそと言葉を交わし始める。
「今まで教えてこなかった僕らにも落ち度はあるけどさ、無理だよ」
「教えるにも限度があるしな。俺たちだってダンスは慣れてない。ヴェルローでちょこっとこなしたことがある程度だ」
チャールズが匙を投げた様子で両手を広げ、数人がちらっと俺の方を見て目を据わらせた。
「体調不良で誤魔化すか」
「馬鹿、そんなこと出来るか。招待主の生誕祝いだぞ」
パトリシアが額を押さえる。
「壁の花になるしかないです……」
それだ、と頷く使節団の若手たち。
「ヴェルローなら主催者と一曲踊らなきゃいけないけど、この国の慣習は違うだろ……」
「確かに。出席しさえすれば礼儀には適う……」
チャールズがちらっと俺を見た。
俺はふわっとした絶望にぽかんとしていた。
「いやでも、お貴族さまたちが大使さまを放っておくかね? 普通に誘われそうだけど」
「いや、女性から誘うことはまずないだろ……」
「だから、誘ってくれって意思表示に来る人はいるだろ」
「断ったら血を見るな……」
誰かが呟いたその言葉に、俺はぶるっと身震いした。
それを見て、レイモンドが慌てたように、「物の喩えですから」と釘を刺す。
「けどまあ、さすがに最初に一曲は踊らなきゃ拙いだろ。舞踏会に来てずっと立ちっぱなしって――下手したらキルディアス侯に喧嘩売ったと思われるぞ」
チャールズがそう言って、パトリシアにそっと脇腹を押されて彼女を見下ろした。
「――んだよ?」
「教えてあげてください」
パトリシアはそう言って、チャールズ以外の男性陣がほっとした顔をした。
チャールズはそんな周囲を見渡して、「なんで俺?」と素っ頓狂な声を上げる。
「おまえが俺たちの中では一番マシだろ」
周囲からそんな声が飛んで、何人かが気安い揶揄いを籠めて笑った。
「レイモンド、ダンスは下手くそだからな」
「うるさい」
レイモンドがやや向きになったようにそう言い返して、俺は慄いて一歩下がった。
「――レイで駄目なら俺も無理だと思う……」
「大丈夫ですチャーリーが教えますから」
レイモンドが素早くそう言って俺を宥める一方で、チャールズはがしっとパトリシアの腕を掴んでいた。
「おまえ、ダンスが一人で練習できるもんだとは思ってないよな?
手本を見せるときと大使さまが練習するとき、おまえが相手役だからな。せいぜい足踏まれろよ」
その途端、女性陣が「用事を思い出した」みたいな顔でその場からの脱出を図り始めた。
パトリシアは「えっえっ」と周囲を見渡したあと、なおぽかんとしている俺を見て、がっくりと項垂れた。
「――ええ、はい。分かりました」
――雲上船から降りた直後、迷子になったとき以来のピンチである。
チャールズとパトリシアがダンスの手本を見せてくれたが、俺には絶対に無理だ。
その感想が素直に顔に出た俺は、「ちょっとは努力しろ」と、チャールズのみならずレイモンドからも怒られた。
そのあとは実際にダンスを教えてもらい始めたが、まさか立ち方の指導だけで一回目が終わるとは思わないだろう。
俺は涙目になったが、チャールズもレイモンドもパトリシアも、結構ガチな絶望の顔だった。
「――もうあれだ、わざと誰かの足踏んで、ダンスが下手ってこと暴露して誤魔化すか」
チャールズが諦念の表情でそう言ったが、レイモンドとパトリシアは光の速さで、
「よしチャーリー、この子に足を踏まれてもいいっていう賢嬢を捜して来てくれ」
「そもそも何の誤魔化しにもなっていません」
と突っ込んで、チャールズはすっかり頭を抱えてしまった。
一方更に、俺が誰をダンスに誘うかということも重要なんだとか。
「何を罷り間違っても絶対に、キルディアス閣下の政敵を誘ってはいけません」
と真剣な顔で言われ、俺は思わず反射的に、
「パルドーラ伯爵も来るの?」
と訊いてしまった。
――来るらしい。
内実も外面も仲が悪いキルディアス侯爵とパルドーラ伯爵も、世間体上は仲がいいということになっているらしい。
二人の犬猿の仲は公然の秘密だが、生誕祝賀会でまであからさまに相手を遠ざけることはしないらしい。
なので恐らく間違いなく(どっちだ)、パルドーラ女伯も舞踏会には来るだろうと。
マジか、恥を掻けない。
更には、この国では生誕祝賀会はいわゆる社交界の一部ではあれど、通常の社交の場とは微妙に扱いが違うらしい。
何が違うかというと、初舞台前の令嬢が登場を許される――「勿論、男親の同伴が条件になりますが」とはレイモンドの説明。
普通の舞踏会は、結婚相手を探す意図も十分に含んだ駆け引きが為されるらしく、その対象外となる小さい女の子は入れないようになっている。
一方の生誕祝賀会の舞踏会は、あくまでお題目が「お誕生日おめでとう」というお祝いなものだから、小さい女の子も同伴を許されるのだとか。
「まあ、もちろん、お見合いめいたことはされますけどねぇ」
とレイモンド。
ちなみに小さい女の子というのは、大体十四から十五の年頃までを指すらしい。
男の子はなんだかんだ、小さくても舞踏会に入ることが許されるんだとか。
俺がぽかんとしていたので、「理由はいいですから事実だけ呑み込んで」と言われた。
つまり何が起こるかというと、俺はこの舞踏会で恥を掻くと、ものすごく小さい子の前でも物笑いの種にされかねないということである。
吐きそう。
俺はめっきり落ち込んだし、レイモンドたちも久し振りに見る途方に暮れた顔をしていた。
「多少の粗相は魔法の呪文で乗り切れるかも知れませんが、さすがに全く踊れないのは拙いでしょうね……」
と、レイモンドは俺に足を踏まれて呻くパトリシアを見詰めながら、ものすごく遠い目をして呟いていた。
俺は、その頃には結構な数の貴族のお嬢さまとも顔を合わせていたが(そして、その顔と名前を一致させるのにひどく苦労していたが)、どの人の顔を思い浮かべても、足を踏まれても平然としていたり、あるいは温和に許してくれそうな雰囲気はなかった。
――こっちが明らかに強い立場にあるのであれば、別にキルディアス侯が機嫌を損ねようが貴族に笑われようがどうでも良かったのだろうが、こっちも腹に一物どころか爆弾を抱えての滞在である。
波風立てていいわけがない。
その数日以内にはキルディアス侯から正式に招待の手紙が届いてしまい、俺たちは全員揃って葬儀も斯くやという絶望の顔をしながらも、「是」の返答を書いて手紙を送り返した。
それ以外の選択肢はなかった。
レイモンドは叱責覚悟で上の人たちにお伺いを立てに行ってくれたが、「さすがに断れない」という回答を持って戻ってきた。
そもそも俺のお役目は、キルディアス侯と出来るだけお近付きになることである。
機嫌を損ねるようなことは以ての外だった。
だが、まあ、レイモンドの只ならぬ雰囲気は伝わったとみえ、その翌日には上の人たちのうち一人、アークソンさまが俺の様子を見に来てしまった。
俺は恐怖に硬直してしまったが、アークソンさまはそれを感知しなかったらしい。
練習の様子を見たいと言い出して、俺がいつにも増して動けなくなってパトリシアの足を踏んだのを見て目を見開いた。
俺は恐怖に口も開けなかったが、パトリシアとレイモンドが言葉を尽くして、「いつもはもうちょっと出来るんですけど」と言い訳を並べ立ててくれた。
アークソンさまはそれを聞いて鷹揚に頷き、「エルドラドも不器用だった」と笑っていた。
エルドラドってなんだ? と俺は面食らったが、後から聞くに俺の父親の名前らしい。
初めて知った。
――アークソンさまは大変暢気に笑っておられたが、実際は笑っていられるような状況ではなかった。
一曲は無事に踊り切らないといけないし、最初にダンスに誘う人は慎重に選ばないといけない。
予め候補者を選定してもいいけれど、その人たちが先にダンスに誘われてしまった場合――つまり、俺が出遅れた場合――を考えると、大量の候補者を挙げておかないといけなくなるが、そうすると俺のぽんこつな記憶力の限界。
貴族名鑑は分厚くて、ただ眺めるだけでも時間が掛かる。
八方塞がりで、さしものレイモンドからも笑顔が消えた。
夢の中でもダンスの練習のときの三拍子が聞こえてくる有様。
そして何が一番つらいかと言えば、早朝やら夕方やらの空き時間が強制的にダンスの練習に当てられてしまい、なかなかトゥイーディアの庭園に行けなくなったこと。
せっかくトゥイーディアが帰って来てくれたのにあんまりだ。
せっかく隣に座れるようになったのに酷すぎる。
ダンスの練習に音を上げた振りをして、辛うじて早朝に自由時間を獲得して庭園まで行っても、その日にトゥイーディアが庭園まで来ていないこともある。
そんなときの俺は、体調不良といっても通るくらいにはがっかりした態度で朝食に向かうことになった。
――そんなこんなで、ダンスの練習が始まって半月、俺は二度しかトゥイーディアに会えていなかった。
トゥイーディアはあれこれと俺に魔法を教えるのに知恵を絞ってくれていたが、俺のぽんこつな頭は湯気を立てそうな有様だった。
ダンスの練習が開始されてから三度目にトゥイーディアに会えたのは、よく晴れた夕方で、上の人たちがレイモンドたちを呼び付けてくれたがゆえに俺は自由時間を得た。
人に見咎められることもあんまり気にせず、俺はこの庭園まで走って来て、藤の花が咲き誇る下で本を読んでいるトゥイーディアを見た瞬間、それはもう目の前が輝いて見えたものである。
――夕方に会うときは、トゥイーディアは本の他には手ぶらだったり、あるいは軽いお菓子を持って来ていたりする。
今日は本のみの持参のようで、群青色の茶会服を着て蜂蜜色の髪の半ばを丁寧に結い上げたトゥイーディアは、午後の陽光を一身に集めているようでさえあった。
俺はトゥイーディアの傍まで走って行って挨拶したが、顔を上げたトゥイーディアはきょとんとしていた。
間違いなく、俺の挨拶が余りにも嬉しそうだったことを訝っていた。
彼我の温度差にがっくりしつつも、トゥイーディアがちゃんと長椅子の片側を空けてくれたので、それだけで俺は嬉しかった。
トゥイーディアは本をぱたんと閉じて、黄金の斜陽に照らされる庭園を見渡しながら、しばらく魔法の話をしてくれた。
俺はいっこうにトゥイーディアの魔法を習得できていなかったから、彼女もこの頃は心配そうである。
俺はトゥイーディアの柔らかい声を聞きながら、そのうちにうとうとしてきた。
慣れないことをずっと続けていて疲れていた上、トゥイーディアの隣に居られて幸せで安心したということもある。
トゥイーディアの声はちょっとハスキーで、羊毛の縁を辿るように柔らかくて、口調は落ち着いていて滑らかで、これ以上なく完璧だった。
話してくれているだけで奇跡なのに、俺のために声を出してくれているなんてすごい……もしかしたら俺は、前世で何かすごくいいことをしたのかも知れない……
かくん、と俺の身体が揺れたタイミングで、トゥイーディアの声がぱたっと途絶えた。
俺は微睡んでいたところをはっとして、慌てて顔を上げた。
自分のためにあれこれと説明してくれている人の隣でうとうとするなんて、非礼千万であるということくらいは俺にも分かった。
がばっと頭を上げて、俺はさああっと蒼褪めながら、「ごめん」と。
何と言い訳しようかと思いながら恐る恐るトゥイーディアの方を見ると、トゥイーディアもこちらを見て首を傾げていた。
斜陽は後ろから、藤の木の間を縫うように差していて、その明かりを捉えて蜂蜜色の髪が艶やかに光っている。
飴色の瞳は夕日を映して、いつもよりも金色掛かって見えていた。
白い肌も金色を映していて、俺は、世の中の奇跡がこんなにも一人の人に集中していいんだろうかとこっそり考えた。
予想と違って、トゥイーディアに怒っている様子はなかった。
俺はひとまずそれにほっとしたものの、トゥイーディアは憂慮を籠めて眉を寄せ、目を細めた。
睫毛が頬に影を落とした。
そしてトゥイーディアは、ぽつりと呟いた。
「……ルドベキア、お疲れですか?」
「えっ?」
俺が訊き返すと、トゥイーディアは膝の上にあった本を自分の傍らに置いて、いっそう首を傾げた。
蜂蜜色の髪の一房が、するりと肩を滑って流れた。
「いえ、先日に偶然ここでお会いしたときも思ったのですが――」
瞬きして、トゥイーディアは慎重な口ぶりで。
「――いつもよりお疲れなのかなと……」
「…………」
俺は黙り込んだ。
――トゥイーディアに気遣ってもらえるとは、前世の俺はやっぱり善人だったらしい。
トゥイーディアは肩を滑り落ちた髪の一房を耳に掛けながら、気遣わしげに呟いた。
「……大丈夫ですか? 膝も肩もお貸しすることは出来ませんが、ここでうたた寝して楽になるなら構いませんし、半時間もすれば起こして差し上げますけれど」
俺の心の防壁が、城門を大きく開け放ってしまった。
俺は息を吸い込んで、目を擦って、言葉を選びながら声にした。
「――いや、大丈夫……。実は、ええっと――近々、舞踏会に呼ばれてて……」
ぼやっとしたまま話を進めようと視線を泳がせると、トゥイーディアは真顔で相槌。
「まあ、舞踏会にお呼ばれするような方だったんですね、存じ上げませんでした」
「うん、初めてで」
俺も真顔でそう言って、両手で顔を拭った。
「トゥイーディが舞踏会に行ったことがあるかどうかは知らないんだけど、ダンスってあんなに難しいんだな」
トゥイーディアは小さく笑った。
手指で口許を隠して上品に笑う、穏やかなその顔も俺は大好きだった。
「難しいですか。大変ですね」
「作法も全然分からない。俺の故郷にあんなのないよ」
ぼやく口調で呟くと、トゥイーディアはぱちりと瞬きしてから、こてんと首を傾げて俺を見て、ややあやふやな口調で尋ねた。
「……もしかして、そういうお勉強で疲れていらっしゃいます?」
「ちょっとだけ。ちょっとだけ」
俺は少しばかり向きになってそう言った。
何しろ貴族名鑑まで読まされている。
地雷の貴族をダンスに誘わないためだが、地雷の貴族筆頭であるトゥイーディアの前でそれを言う気はない。
トゥイーディアは何かを考え込むように庭園の方を向いた。
俺はその横顔を見て、藤の間をくぐり抜けた斜陽にトゥイーディアの銀色の髪留めが煌めくのを観察し、自分の心の奥の方が温まるのを感じていた。
そのうちに、ふい、とトゥイーディアが横目で俺を見て、小さく呟いた。
「……舞踏会の始まりには、主催者の挨拶がありますから、それが終わったら適当な女性をお誘いするんですよ」
俺はびっくりして目を見開いた。
どう聞いても、これは助言だった。
だが、トゥイーディアは今まで、お互いの身分を伏せていることを徹底して、そんなことはしなかったのに。
「主催者の方のご挨拶のあと、楽団が音楽を奏でます。最初にダンスをするのは、大抵主催者の方で、お身内の方と踊るはずです。その間にお相手を見つけるんですよ」
俺は思わず、食い入るようにトゥイーディアの方に身を乗り出してこくこくと頷いた。
チャールズたちは、とにかく俺が地雷になる貴族を誘ってしまうことと、ダンスで相手の足を踏むことを警戒していた。
実際に順を追って、どう動くべきかの説明はまだされていなかった。
トゥイーディアは俺と目を合わせず、庭園の方を向いたまま、まるで独り言であるかのように言葉を続ける。
「誘い方は、お相手に声を掛けて、お相手がきみの方を見たタイミングで彼女の前に跪いて、彼女の手を取って、」
「声を掛けて、跪いて、手を取る」
真面目な顔で復唱する俺を横目で見て、トゥイーディアの唇が可笑しそうに綻んだ。
だがおおよそは真顔を保って、トゥイーディアは淡々と。
「――お誘いの文句は定型文ですから、覚えてしまえばよろしい。『踊っていただけますか、賢嬢』です。……きみも、他の方の賢女を誘うことはしませんでしょう?」
俺はこくこく。
既婚者を誘うと角が立つからやめておけとは言われている。
未婚の人も、下手な人を誘うと角が立つから気を付けろと言われている。
もうどうすればいいのか。
「『踊っていただけますか、賢嬢』――」
復唱する俺の顔が余りにも真剣だからか、トゥイーディアはそっと口許を隠して笑いを噛み殺した様子。
「そう言って誘って、正式にはお相手の手背に口づけして返答を待ちます。略式で構わないと思いますけれど。略式ではここは省略です」
「……はい?」
俺が頭のてっぺんから出たみたいな声を上げたので、とうとうトゥイーディアは口許を押さえて笑い出し始めた。
しばらくくすくすと笑っている彼女があんまりにも楽しそうなので、極度に追い詰められている俺としてはだんだん腹が立ってきた。
腹が立ったとはいえ、トゥイーディアがたいそう可愛らしいので、なんかこう、吹けば飛ぶような腹の立ち方だったけれども。
トゥイーディアが肩を震わせている間に、俺は長椅子から立ち上がり、口許を手で覆ってうろうろ。
「声を掛けて、跪いて、手を取って、『踊っていただけますか』――」
笑みの残滓の残った瞳でうろつく俺を見上げて、トゥイーディアが微笑んだ。
「練習してごらんなさい。すぐに慣れます」
――トゥイーディアはもちろん、このとき、「この庭園から戻ったら練習してごらんなさい」という意味で発言していた。
ところが俺の頭は都合よく、「ここで練習してみなさい」という意味だという風にその言葉を受け取った。
俺は瞬きしてトゥイーディアを見下ろして、声を掛けた。
「――トゥイーディ、イーディ、ディア」
「はい?」
トゥイーディアが首を傾げて俺を見上げた。
逆光になっていてなお、飴色の瞳は光を吸い込んだように煌めいた。
俺は、教えてもらったように彼女の前に跪いた。
石の床は、長椅子の影になって斜陽の熱を受けていない。
そのために衣服越しでさえひんやりとして感じられた。
俺の挙動に、トゥイーディアの目が点になったが、俺は気付かずに彼女の左手を取った。
トゥイーディアの手はやっぱり、温かくて、細くて、繊細で、触れていると神経ぜんぶがそっちに引っ張り寄せられそうになるものだった。
「あ、あの――」
トゥイーディアが、俺の誤解を訂正しようとして声を出したが、俺は緊張の余りにそれを聞いておらず、教わった通りの台詞を読み上げていた。
「――踊っていただけますか、賢嬢」
そして、右手に掬い上げたトゥイーディアの華奢な手背に、慎重に口づけを落とした。
トゥイーディアの肌は温かい。
口づけは手背というよりも、指の付け根の関節に落ちた。
俺は自分の顔面に熱湯が注がれたかと思った。
そのくらい一気に顔に熱が集まった。
ゆっくり息を吸って落ち着こうとしながら、俺はトゥイーディアの手を取ったまま顔を上げた。
講評を待つつもりだったが、トゥイーディアは――初めて見るような――唖然とした顔で俺を見ており、ぽかんと口を開けていた。
俺はぎょっとしたが、本能じみた作用でトゥイーディアの手は離さなかった。
トゥイーディアは唖然とした飴色の眼差しで俺の顔を見て、それから俺に握られた自分の左手を見て、もういちど俺を見て、息を吸い込んだ。
そして、空いている右手で額を押さえた。
「……トゥイーディ?」
首を傾げてお伺いを立てると、トゥイーディアははあっと息を吐き出して、呟いた。
「……ルドベキア、ここで練習しろと申し上げたつもりはなかったのですが――」
「えっ」
自分の誤解に気付き、俺はなおもがっと顔が赤くなったのを自覚した。
背中に汗が浮いた。
掌にも汗が浮いたかも知れないが、俺はトゥイーディアの手を離せなかった。
「ご――ごめん」
トゥイーディアの顔から目を逸らし、口籠りつつも謝る俺に、トゥイーディアは追い打ちを掛けた。
「あと、口づけをするのは正式の作法だと申し上げましたよね。略式で構わないと思います、とも――。
略式では口づけまでは致しませんし、昨今では皆さま、略式でお誘いになりますよ」
俺は穴があったら入りたかった。
「ごめん……」
「それに、」
と、トゥイーディアは容赦なく続けた。
「きみの郷里とこちらでは、恐らく慣習が違うかと存じますので、ご存知なかったのならば致し方のないことですが、ルドベキア。
――こちらでは、女性の手袋をしていない素肌に触れることが許されるのは、家族か、あるいは婚約者以上の関係にある男性だけです」
俺は目をぱちくりさせて、なおもトゥイーディアの手を取っている自分の手を見た。
――わあ、手袋してない。
――そういえば、晩餐会とかお茶会とか観劇とか、そういう場では貴婦人はみんな手袋してたな……気にも留めてなかった、どうしよう。
だらだらと冷や汗を流す俺を気の毒そうに見て、トゥイーディアは嘆息。
俺は身を縮めた。
「いえ、ただ、まあ――気を抜いて手袋をしていない私にも非はありますし、その分ですとこの慣習はご存じなかったようですし、構いません」
俺はちょろっと視線を上げて、トゥイーディアの顔を窺った。
幸いにも――俺が心の底から安堵したことに――トゥイーディアの表情に怒気はなかった。
だが、当然のことではあったが、若干呆れている様子ではあった。
俺は項垂れた。
「ごめん……」
「構いませんよ」
そう言って、トゥイーディアは少し迷うように間を取ってから、悪戯っぽく続けた。
「――きみでなければ張り倒していたところですが、大丈夫です」
俺は顔を上げた。
――それってどういう。
単に、俺が別の文化圏から来たことを勘案してますよってだけ?
それとも他に意味がある?
期待の余りに、俺は頭の中に火が点いたような状態になっていたが、トゥイーディアは冷静だった。
今なお俺が握ったままの彼女の手を、トゥイーディアは軽く揺らした。
「……それで、ルドベキア。これは」
「――――っ!」
俺は思わず飛び上がり、そうっとトゥイーディアの手を離した。
めちゃくちゃ惜しいと思ってしまったのは俺だけの秘密である。
トゥイーディアはふう、と息を吐くと、何かを諦めたように微笑んだ。
そして背筋を伸ばすと、跪いたままの俺を見下ろして、滑らかに言葉を続けた。
「――構いません。きみがよろしければ、このままご説明を続けましょうか。楽にしてください」
俺は明日死ぬかも知れない。
なんだこの幸運は。
――慄きながらも、絶対にこの幸運を逃してはなるまじと思って、俺は何度も頷いた。
トゥイーディアはくすっと笑って、髪を耳に掛けてから、淡々と声を出した。
「お相手のお返事によって、このあとのことは変わりますが、きっとどなたもきみからのお誘いは断らないでしょう。
――いえっ、なんとなく、そんな気がします。分かりませんけれど」
ここにいるトゥイーディアは俺の身分を知らないはずだ、という前提を思い出したらしく、トゥイーディアは若干慌てて言葉を付け足し、ちょっと気まずそうに微笑んだ。
そんな顔が可愛らしくて、俺は呼吸の仕方を数秒忘れた。
それからはっとして、尋ねた。
「――こっ、断ってくれたら、どうするの?」
「――断られたいんですか、きみ」
俺の言い回しに、トゥイーディアは若干胡乱な表情。
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
トゥイーディアは肩を竦め、溜息を吐いて答えてくれた。
「断られてしまったら、お相手の手を離して立ち上がって、『ではまた機会があれば』とでも何とでも仰ればよろしい。
――お相手のお返事が『はい』であれば、手を取ったまま立ち上がって、」
俺は一瞬迷ったものの、ぐい、と衣服で自分の掌を拭って、さっきまでのようにトゥイーディアの手を取った。
こいつ馬鹿か、と思われるかも知れないけど、もうこんな機会は一生こないかも知れないと思うとそうしていた。
そうっとトゥイーディアの手を掬い上げるようにして握ると、トゥイーディアはちょっとびっくりしたようだったが、先ほど自分で「構いません」と言った手前、俺の手を振り払うこともなかった。
俺はトゥイーディアの手を取って立ち上がり、トゥイーディアも俺に引っ張られて立ち上がった。
視座を並べながら、トゥイーディアは俺の方ではなくて庭園の方を見て、やや小さくなった声で。
「そのままダンスフロア――えっと、会場の中央が踊るための場所になっていますから、そちらへお相手を誘導しながら進みます。
あとは踊るだけですよ、簡単でしょう?」
「いやぜんぜん」
心底からの俺の返答に、トゥイーディアは軽く笑ったが、いつもより少しだけ緊張しているような笑い方だった。
俺は身勝手にもその緊張を聞かなかったことにして、トゥイーディアの手を離さないでいる口実を必死になって探して、言葉を吐き出した。
「――ダンス、終わったら……どうするの?」
「向かい合ってお辞儀して、」
と言って、トゥイーディアは俺の方を向いて、流れるように片膝を引いて、片手でドレスを摘まんで頭を下げた。
その仕草が流麗で、俺は見蕩れてしまった。
「きみはそのまま、ダンスフロアから彼女を連れ出してあげてください。適当な場所まで来たところで、――今度は立ったままで結構です――片足を引いてお辞儀して。口づけまでは絶対に不要ですが、彼女の手背を少し押し戴くようにして、手を離して、お終いです」
言われた通り、俺はトゥイーディアに向かって片足を引いてお辞儀し――もう片方の手は背中に当てるんですよ、とトゥイーディアから注釈が入ったので、それもそのようにした――、トゥイーディアの手背を押し戴いた。
彼女の指が俺の額に触れそうになった。
それが終わると、もう何の口実もなくなってしまったので、俺はトゥイーディアの手を離した。
その瞬間にトゥイーディアがほっとした顔をしたので、俺は悲しくなった。
「――嫌な思いさせて、ごめん」
ぼそっと謝ると、トゥイーディアははっとしたように両手の指を組み合わせ、俺を見た。
それから眦を下げて微笑んで、緩く首を振った。
「いいえ、緊張してしまっただけで、嫌ではありませんよ」
あからさまに気を遣ってもらった感じだったので、俺はなおもしょんぼりした。
トゥイーディアは困ったように目を泳がせると、半歩だけ俺に身を寄せて、内緒話を打ち明けるようにして囁いた。
「本当に大丈夫ですよ。ここだけの話、私は下町での暮らしも経験があるんです。あのときはみんなで腕を組んでいたものですから。本当にお気になさらないで。
ただ、公の場ではお気を付けた方がよろしいかと」
俺は顔を上げた。
伯爵が下町暮らしの経験があるという点にびっくりするべきだとは思ったが、そっちには感情を割けなかった。
トゥイーディアが怒っていないらしいということへの安堵に、俺の感情は全部持って行かれてしまった。
息を吸い込み、俺はおずおずと微笑んだ。
そんな俺にトゥイーディアが微笑して頷き掛けてくれたので、単純な俺はすっかり元気になった。
「――良かった。ありがとう」
そう言って、俺は両手を握ったり開いたり。
教わったことを脳裏で反芻しながら、確認の口調で尋ねた。
「……えっと、口づけは、絶対に不要?」
「不要です」
トゥイーディアは即答し、その口調に俺が目を丸くすると、誤魔化すように微笑んで、しかし真剣な口調で言った。
「求婚と取られますよ、そんなことをなさったら」
「それは困る」
俺が真顔で言って、トゥイーディアは噴き出した。
そのまま長椅子に戻って腰掛けて、自分の隣をぱたぱたと叩いて俺にも座るように促す。
俺はいそいそとトゥイーディアの隣に腰掛けて、藤の花を見上げて腕を組んだ。
「――あとは誰を誘えば角が立たないかだ」
「…………」
トゥイーディアは黙り込んで、聞こえない振りで脇に置いた本を手に取り、膝の上で開き始めた。
まあ当然である。
ここでトゥイーディアが口を出すとすれば、自陣の有利になることだろうが、トゥイーディアはこの庭園においてはそれをしない。
そういう誠実なところも大好きだ。
だが、親切なお人好しであるところもまた、トゥイーディアの美点のひとつだった。
俺が藤を見上げてしばらく唸っていると、やがてちらっと顔を上げて、ぼそっと呟いた。
「……私なら、初舞台前の小さな子を誘いますけどね。派閥争いに使われるには小さ過ぎますし、変な誤解も招きませんし、子供好きなんて美点になるじゃないですか。それに、多少ダンスが下手でも目立ちません」
「――――!」
俺は目を見開いてトゥイーディアを凝視した。
トゥイーディアは素早く目を伏せて本の頁を捲っていたが、薄らと耳が赤くなっていた。
俺は息を吸い込み、また衝動的にトゥイーディアの手を握りそうになったのを自重して、心底からの尊敬を籠めて口を開いた。
――綺麗で可愛くて優しい上に頭もいいなんて、なんでこうトゥイーディアは完璧なんだ。
「……どこの誰だかは知らないんだけど、トゥイーディ、ほんとにありがとう」
トゥイーディアはちらっと顔を上げ、しばし口籠ったあと、にこっと笑って俺と目を合わせてくれた。
満開の藤の下に、その笑顔が眩しく映えた。
「いいえ。どなたに招待されていらっしゃるのかは存じませんが、上手くいくといいですね、ルドベキア」




