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27◆――隣に座る権利

 俺は祈るような気持ちでトゥイーディアの庭園を覗き込み、そしてそこに誰もいないことを見て取って、がっくりと項垂れた。


 ――仕方ない、仕方ない。

 何しろ伯爵さまだ。忙しいんだ……。


 そう自分に言い聞かせつつも、落胆は如実に俺の足を重くした。

 ずん、と鳩尾の辺りが重くなって、俺は大きく溜息を吐く。



 曙光は白く燦々と庭園に差し込み、朝露に濡れる花びらを煌めかせ、小川の流れを輝かせていたが、俺はどんより曇った気持ちで庭園に足を踏み入れた。



 春になってから、俺がちょっとびっくりするような所からも花は咲いていた。


 庭園の東屋の格子屋根から、房になって藤色の花が垂れ下がって咲いているのにもびっくりしたし、東屋に向かって右側の、庭園の端っこを作る木製の壁にもっさりと這う蔓にも花が咲いたのにもびっくりした。

 咲き始めた、と思ったらあっと言う間に広がったので、今や壁一面に黄色い花が咲いているような具合になっている。


 溜息混じりに庭園をうろついて、俺はそっちの壁に寄って行った。

 庭園に敷かれた小道から外れることになるので、立ち上げ花壇に足を突っ込んだりしないよう、慎重に足を運ぶ必要があった。


 何しろこの庭園、手が入っていないわけではないが、どこもかしこも伸び伸びと植物が根を広げているのだ。


 さくさくと足で慎重に草花を踏み分けて壁まで寄って行き、顔を近付けてまじまじと見ると、黄色い花は八重になっていた。

 そんな小振りの花が鈴生りに咲いている。


 まるで蔓の緑を覆い隠そうとするかのような勢いだったが、花の黄色が――なんというか――落ち着いた淡い感じの色合いなので、押しつけがましさは感じなかった。


 しばらくそうやって花を眺め、俺ははあっと息を吐いた。



 そうして踵を返そうとしたそのとき、俺が死ぬほど聞きたかった声が聞こえてきた。



「――木香モッコウ薔薇バラです。他の薔薇より早く咲くんですよ」



 俺はくるっと振り返り、振り返る勢いが強過ぎたがためにちょっとよろめいた。


 そして、そんな俺を見て軽く目を瞠るトゥイーディアを視界に収めて、自分でもびっくりするくらいに明るい声を上げていた。


「トゥイーディ!」


 トゥイーディアは軽く目を瞠り、それからにこっと微笑んでくれた。



 ――俺にとっての、()()()()()()()()()()()()



 今日の彼女は手ぶらで、翡翠色のひらひらした豪奢なドレスを身に纏っていて、蜂蜜色の髪の半ばを結い上げて、残りを艶やかに背中に流していた。


 彼女は身体の後ろで軽く手を組んで、小道の上から俺を見て、笑みを深めて首を傾げた。


「はい。――()()ですね、ルドベキア。

 お久しぶりです……それと、おはようございます」


 偶然ですね、と嘯くその口調が大好きで胸が熱くなった俺は、慌てて小道に引き返し始めた。


 もしかしたらこのトゥイーディアは幻とか夢の類で、目を離したら消えてしまうかも知れないと思ったので、俺は瞬きすら憚った。



 ようやくトゥイーディアの目の前まで足を進めて、俺は彼女の足許にちゃんと影が落ちているのを確認してから、恐る恐る瞬きをした。


 ――トゥイーディアは消えなかった。


 俺は嬉しくて嬉しくて呼吸も苦しいほどだったが、なんとか声を出すことは出来た。


「トゥイーディ、イーディ、ディア、おはよう。久し振り」


 トゥイーディアは瞬きし、首を傾げ、俺と目を合わせてから視線を俺の額の辺りに上げた。


 飴色の瞳に自分が映っているというだけで、俺はやたらとどきどきしていたが、何か自分におかしいところがあるのかと思って、咄嗟に一歩下がって髪を押さえた。


「……トゥイーディ?」


 尋ねるように呼び掛けると、トゥイーディアは俺と視線を合わせてにこっとしてくれた。


 俺はなんかもう泣きそうになって、眉間に力を入れて必死にそれを堪えた。


「ルドベキア、背が伸びました?」


「えっ?」


 予想外の一言に、俺は思わず自分を見下ろし、無意味にまた一歩下がってから、首を捻ってトゥイーディアに視線を戻した。


「分からない……」


「久しぶりにお会いしたので、気のせいでしょうか。

 ――それはともかく、お元気そうで安心しました」


 トゥイーディアが衒いなくそう言ってくれたので、俺は口を開いた。


 ――ものすごく会いたかったこと、顔が見たかったこと、声が聞きたかったこと、河が溢れたと聞いて心配したこと、――そういうことを伝えたかったが、言葉が喉の奥で押し合いへし合いをしていて、出口の争奪戦になっていたがために、ひとつも口から出て来はしなかった。


 俺が間抜けに口をぱくぱくさせている間に、トゥイーディアは俺から視線を逸らしてしまっていた。


 彼女は東屋の方を見て、心底嬉しそうに微笑んで両手を胸の前で合わせた。


「――良かった、藤の花、ちゃんと咲いたんですね。フィロメナも喜びます」


「……藤っていうんだ」


 俺は呟いた。

 トゥイーディアの関心を奪った藤の花への嫉妬と、トゥイーディを喜ばせてくれた藤の花への賞賛が、ごっちゃに胸に渦巻いた。


「ええ。咲いているうちに帰って来られて良かったです」


 トゥイーディアはそう言って双眸を細め、笑窪を浮かべて俺を振り向いた。


 俺は、トゥイーディアが帰って来るまでの間、花を散らさなかった藤を大いに内心で褒め称えた。



 トゥイーディアはそのまま、翡翠のドレスの裾をちょっと摘まんで持ち上げて、ひらひらさせながら歩き始め、庭園を東屋の方へ向かった。


 俺もその後に続いたが、道半ばではたと思い付いて彼女を追い越し、トゥイーディアが庭園の段差を乗り越えようとしたタイミングで、後ろを振り返って手を伸ばし、彼女を支えようとした。


 俺だって貴族社会で作法を学んだのである。


 トゥイーディアはびっくりしたように差し出された俺の掌を見詰め、それから俺を見上げてきょとんと瞬きした。


 額髪の下で長い睫毛が閃いて、俺の心臓がとんでもない勢いで肋骨を叩き始めた。


 しばらくトゥイーディアは固まっていて、俺がちょっと気まずく思い始めたときにようやく、おずおずと手を伸ばして俺の掌の上に指先を置いてくれた。


 俺は心底ほっとしたが、同時に今なら空も飛べると真面目に思った。

 トゥイーディアの指先は、細くて、温かくて、繊細で、触れている場所に全身の神経が全部引っ張り寄せられていくみたいで、軽く握っただけで俺は幸せに笑み崩れそうだった。


 そんな顔を見せられないから、俺は唇を噛んで必死に堪えたけれども。

 ついでに前を向いて、絶対にトゥイーディアに顔が見られないようにした。



 段差を乗り越えた後も、トゥイーディアが俺の手を振り払ったりしないので、俺は内心で色々と言い訳を積み重ねながらも彼女の手を取ったまま歩き、最後にはちゃんと東屋に続く石段を、トゥイーディアの手を引いて昇った。



 藤の花が咲く格子屋根が陽光を柔らかく遮って、低い位置にある太陽は、辛うじて俺たちの足許だけを照らしていた。


 とはいえ、日陰になっている屋根の下も明るくて、春は暖かい空気を風に乗せていた。


 俺はトゥイーディアを長椅子の前に連れて来て、もう彼女の手を握っている理由がないことを渋々認めた。

 脳みそからの命令に反旗を翻そうとする手指を説得して動かし、俺はそうっとトゥイーディアの手を離しながら、ようやく彼女を振り返った。


 トゥイーディアはまだ少しびっくりしているような顔をしていて、俺の手をじっと見ていた。

 それから、俺が彼女を振り返ったことに気付いて、慌てたように顔を上げて俺と視線を合わせたが、すぐに俺から顔を逸らし、ぎゅうっと掌を握り締めて小さな拳を作った。


「……今までは、こんなことはなさいませんでしたね」


 トゥイーディアが小声でそう言ったので、俺は彼女を怒らせたのかどうなのか、はらはらしながらも正直に頷いて、正直に白状した。


「べ――勉強した」


「勉強」


 真顔で復唱してから、トゥイーディアはもういちど目を上げて、瞬きして、俺と目を合わせてくれた。

 そしてくすっと笑ったので、その瞬間に俺は、この世界は美しいと確信した。


 トゥイーディアはドレスを揺らして笑って、長椅子を俺に示して見せた。


「お掛けになります?」


「トゥイーディが座って」


 俺が即答したので、トゥイーディアは、「ではお言葉に甘えて」と言って、すとんと長椅子に腰掛けた。


 彼女の正面に立っていると、俺はそのうち心臓を吐き出してしまいそうだったので、俺はそうっと長椅子の後ろに回り、繊細な彫刻が施された背凭れに手を突いた。

 そうすると、トゥイーディアの蜂蜜色の髪が木漏れ日にきらきらしているのがよく見えて、俺はその髪を、()()()()()()()()()()()()、と思った。


 その髪をさらりと揺らして、トゥイーディアが俺を振り返った。

 申し訳なさそうに飴色の瞳を伏せて、トゥイーディアは小声で。


「――あの、申し訳ありません。今日は何の支度もなくて――実を言うと、あんまり長居は出来なくて」


 俺は呻きそうになって、必死にそれを堪えた。

 とはいえちょっとは顔に出たのか、トゥイーディアはいっそう申し訳なさそうな顔をした。


 ――そんな顔をしてほしいんじゃない。


 トゥイーディアは膝の上で華奢な手指を軽く組み合わせて、そっちに視線を落として、先程よりもなおいっそう小さな声で呟いた。


「このあと、朝餐の予定があって――あの人は朝が遅いですから、それほど急がなくてもいいのですけれど、どこかに行っていたことが露見すると面倒ですし。

 ただ、お庭のことは気になっていましたし、もしかしたらきみがいらっしゃるかも知れないと思って、少しだけ」


 現金なことに、俺は一気に元気になった。


「俺?」


 思わずそう訊き返して、俺はトゥイーディアを見下ろした。


 トゥイーディアは前を向いていたが、なんだかすごく気まずそうだった。

 だがぶっちゃけると、俺からすれば輝いて見えた。


「ええ――いえ――もしかしたらいらっしゃるかも知れない、と少しだけ思って……」


 意識して視界を切り替えて、魔力は見ないようにしているはずなのに、異様にトゥイーディアが輝いて見えて、俺は思わず目を擦った。


 それから、嬉し過ぎたが余りに感情が一周して平静になった声で、短く言った。


「――そっか」


「はい」


 と、トゥイーディアもめちゃくちゃ真顔。


 俺は頭の螺子を数本足許に落としながら、半ばぼんやりして尋ねた。


「――朝餐って、誰と?」


 トゥイーディアは口籠ったが、肩を竦めて答えた。


「……養母(はは)です」


「そっか」


 頷いて、それからようやく俺は合点した。


「――あ、だから、いつもより綺麗なドレスなんだ」


 トゥイーディアが驚いたように俺を見上げ、それからふわっと笑った。


「はい、そうなんです」


 もう全く無意識に、俺の口から言葉がぼろっと落ちた。


「すごく綺麗だと思う」


 トゥイーディアが瞬きし、めちゃくちゃ疑わしげな眼差しで俺の顔を下から覗き込んで、首を傾げた。


「――あの、ルドベキア? どうしました?」


「ど――どうもしてない」


 トゥイーディアから顔を逸らして応じて、俺は頭の然るべき位置に然るべき螺子を戻そうとしたが、あんまり上手くいかなかった。


 結局俺は、気になっていたことをぼそっと尋ねた。


「……雨、すごかったな」


 トゥイーディアは警戒ぎみに目を細めた。


 何しろここでは、()()()()()()()ということになっているので、俺はトゥイーディアがどこに行っていたかなんて知らないはずなのだ。


「おまえ、どこか行ってたなら、――ここより雨がひどい所もあるって聞いてたから、……えっとつまり――大丈夫だった?」


 俺が、精一杯話の輪郭をぼかしながら質問しようとしている意図を汲んだのか、トゥイーディアは優しくにこっとした。


「はい。お気遣いありがとうございます」


 俺は小さく息を吸い込んだ。


 ――半月か一月(ひとつき)と言っていた、トゥイーディアが王宮を空ける期間が実際のところはそれより長かったことを、俺は色々と気にしていた。


「いや、おまえ――こっちに戻って来るの、遅かったから。雨で何かあったのかなって――風邪引いたりとか」


 トゥイーディアはまんまるに目を見開いて、まじまじと俺を見た。

 俺は妙に気恥ずかしくなって、頭上から重たげに垂れ下がる藤色の花を見上げた。


 そんな俺に視線を当てたまま、トゥイーディアは小さく呟いた。


「ええっと、そうですね。実を言うと、――雨の被害があった場所にいたので、(つつみ)が崩れた後始末ですとか、そういうことを」


 俺は神妙な顔になった。

 視線をトゥイーディアに戻して、俺はぼそっと。


「……大変だったんだ。体調は大丈夫だったか?」


 何しろ、俺がいちばん気になっているところはそこなので。


 トゥイーディアは不思議そうに瞬きしたあと、気まずそうに目を逸らし、小声で答えた。


「ええ、まあ。日頃の不養生が祟って、少し熱は出ましたが、大したことは」


「もう大丈夫なの?」


 間髪入れずに尋ねた俺に、トゥイーディアは苦笑した。


「ええ、もちろんです」


「――良かった」


 俺は本気で安堵して、それからふと嫌な予感がして首を傾げた。


「トゥイーディ、イーディ。熱が出てる間はちゃんと休んだ?」


 トゥイーディアはきょとんと目を丸くして、俺を見上げた。

 大きく瞠られた飴色の双眸に、満開に咲く藤の花が映り込んだ。


 ぱちぱちと瞬き、軽く首を傾げたトゥイーディアが、すうっと息を吸い込んだ。

 その唇が、何かを言おうとして堪えたかのように軽く噛まれた。


 うろ、と俺から視線を逸らしたトゥイーディアの頬が、なんでか分からないが、さあっと赤くなった。


 それから俺に目を戻し、トゥイーディアはにっこりと微笑んだが――はにかんだようなその笑顔に、俺は膝が折れそうになるのを必死に堪える羽目になった。


「――ルドベキア、ありがとうございます」


 笑窪を浮かべてそう言って、トゥイーディアは胸の前で両手をぽんと合わせる。


「体調を崩したのは私の責任なので、あんまり気遣われてはいけないのですけれど、――それはそれとして、やっぱりお気遣いをいただくと嬉しいものですね」


 ――気遣いくらいなら一生分あげるから、一秒でも長く笑っててくれ。


 俺は真面目にそう思ったが、そんなことを言えるわけもないので、ひたすらこくこく頷いた。


 トゥイーディアはそんな俺を見てくすっと笑ってから、気遣うように首を傾げた。


「きみは? 慣れない――あ、いえ、慣れないと思うのですけれど、――そういう環境で雨が続いたでしょう? ご体調など崩されたりは」


「ない、大丈夫、俺、風邪引かないの」


 櫃に突っ込まれて水を注がれたり、命綱一本で海に放り出されたりしても、滅多に熱を出さなかったくらいだ。


 厭な記憶に顔を強張らせながらもそう言えば、俺の表情を変な風に勘繰ったのか、トゥイーディアはこちらを振り返って長椅子の背に手を掛けた。


「本当に?」


「ほんとです」


 断言して、俺は慌てて話題を変えた。

 話したいことなら山ほどあったので、それは容易かった。


「――こないだからこの庭、蝶もすっげぇ飛んでんだよ」


 トゥイーディアの唇がひくっと動いた。

 彼女は真面目腐って言った。


「どうです、虫だったでしょう」


 トゥイーディアもあれを覚えてんだな、と思って、俺はちょっと嬉しくなった。


「うん、鳥じゃなかった。鳥なら、えっと、駒鳥も時々来てるよ」


「あら。この辺りに巣を作るかも知れません」


 トゥイーディアはそう言って、駒鳥の姿を捜すようにぐるりと周囲を見渡したが、今は駒鳥はいなかった。


 蝶はひらひらとあちこちを飛んでいて、トゥイーディアはそれを見て目を細めた。

 そして、俺を振り返ってことりと首を傾げる。


「――もしかして、時々このお庭にお水を遣ってくださっていました?」


 俺は息を吸い込んだ。


 トゥイーディアはこの庭園がお気に入りだった。

 さらっと暴露してしまったが、もしかしたら俺がのこのこここに来ていたのは不愉快かも知れない。


「……ごめん、勝手に入って――でも一応、庭に関する本は読んだんだよ」


 言い訳がましく言った俺に、トゥイーディアは目を見開いて、「どうして謝るんです」と。


「むしろありがとうございます。お庭が枯れてしまっては、メーナも悲しみます」


 俺はほうっと息を吐いた。


 トゥイーディアは庭園の方に目を戻しながら、「草むしりよりもお水遣りをお願いするべきだったかしら」と、独り言じみた声音で呟いた。


 トゥイーディアの口から他人のことが出て来るのは、今に限ってはなんだか嫌だったので、俺はそのまま強引に、最近読んだ本に話を持って行った。


 故郷に本はないという(てい)で俺は話し、トゥイーディアはにこにこしながら話を聞いてくれた。

 俺の話し振りが面白かったのか、時折彼女は上品に口許を隠して笑い声を上げた。


 とはいえやっぱり、俺が好みに走った感想を語ろうとすると、トゥイーディアはやんわりとそれを止めて、別の本の話に俺を誘導した。


 とはいえトゥイーディアは楽しそうだったし、俺も涙が出そうになるほど嬉しかった。


「――あれも読んだ、お墓の前で決闘する戯曲」


「ルドベキア、読書の先輩の私が教えて差し上げますと、お墓の前の決闘はよくある話なんですよ」


 したり顔のトゥイーディアに、俺は目を剥く。


「よくあるの!?」


 トゥイーディアはふふっと笑った。


「主人公のお名前、何でした?」


「ロ――ロメス」


 トゥイーディアは一秒も考えずに、あっさりと作品名を告げた。


「『ケシュアードの決闘』ですね。俳優にとっては登竜門の扱いの戯曲です」


「俺はああいう――」


「他には何を?」


「『アズムの商人』とか――」


 トゥイーディアは相変わらず慎重で用心深かったが、それでも気安く笑ってくれるようになった。


 俺はちらちらとその顔を見て、ちょうど本の話が途切れたタイミングで、少しばかりの勇気を振り絞って、「あのさ」と。


「――隣、座っていい?」


 トゥイーディアは驚いたように身体ごと俺を振り返り、目をぱちくりさせた。


「ごめんなさい、立ちっぱなしでは疲れますよね。どうぞ」


 そう言って彼女が腰を浮かせようとするので、俺は慌てて、「違う違う!」と。

 そして、もういちど言った。


「……()()()()()()()()()()だし、隣に座っても、いい?」


 トゥイーディアはしばし、警戒するように俺を見た。


 俺はどっと冷や汗を掻いたが、トゥイーディアは逡巡するように飴色の瞳を泳がせたあと、軽く肩を竦めて頷いた。


「――構いません。お互い、()()()()()()()()()()ですから。

 雨宿りで屋根を分け合うのと大差ないでしょう」


 俺は思わずぱあっと顔を輝かせて(マジで、自覚できた)、くるっと長椅子を回り込んで、円卓側に寄ってくれたトゥイーディアの隣に、慎重に腰を下ろした。


 その一瞬は、それこそ自分が雲を踏んでいるのではと思えるほどに嬉しかったが、直後に心配になって、俺はトゥイーディアの顔を覗き込んだ。


「――ごめん、困らせた?」


 トゥイーディアの飴色の瞳に、眦を下げた俺の顔が映った。


 トゥイーディアは息を吸い込み、それから柔らかく微笑んで、首を振った。

 蜂蜜色の髪が揺れて、なんだかいい匂いがした。


「……いいえ。ルドベキア、きみは遠慮がちな人ですね。そうお気になさらないでください。

 私が――」


 トゥイーディアは言葉を探すように間を取って、それからふわっと睫毛を伏せて、悪戯っぽく囁いた。


「――私が嫌な思いをしたり、きみに困ってしまうようなことがあったら、お互いに()()()()()()()()ですから、遠慮なくこのお庭から叩き出します。

 なので、叩き出されていないうちは、私はきみのことを歓迎していると思って構いませんよ」


 俺はますます嬉しくなって、思わず声を上げて笑った。


「へえ、じゃあ、叩き出されないように気を付けるよ」


 そう言った俺は、しかしトゥイーディアが目を丸くしたのを見て、瞬時に真顔になった。


 俺が真顔になった瞬間、トゥイーディアは「あ」と不明瞭な声を上げて、片手を半端な高さにわたわたと上げた。


 俺はいっそう眉を寄せた。


「……どうした?」


「いえ……」


 と、トゥイーディアは俺を見て、それから俯き、小さく溜息を吐いた。


「トゥイーディ?」


 呼び掛けると、トゥイーディアはゆるゆると首を振って。


「――もったいないことをしました」


「え?」


 俺がきょとんと瞬きすると、トゥイーディアはちら、と目を上げて俺を見て、ちょっと恨みがましそうなまでに残念そうな声で、ほんの小声で呟いた。


「きみ、あんな風に声を出して笑うんですね。初めて見ました。

 ――せっかくいいものが見られたのに、すぐにきみが引っ込めてしまったので、残念です」


 俺はぱちくりと瞬きし、自分の頬に触った。



 ――そういえば、俺はあんまり声を上げて笑うことはなかったかも知れない。


 島にいるときは論外だったし、ここに来てからも……びびってることが多かったから……いや、マジで初めてじゃないか?



「初めてかも知れない……」


 俺が呟くと、聞き取り損ねたのか、トゥイーディアはぴょこんと顔を上げた。


「はい?」


「あ、いや」


 と、俺はなんとなく自分の頬を引っ張りながら、小さく息を吸い込んで、呟いた。


「――たぶん、また()()会ったら、トゥイーディと話したりしてたら、……笑うんじゃないかな、俺」


 覚束ない口調でそう言った俺に、トゥイーディアは一瞬、本当に一瞬だけ、危機感を覚えたように目を細めた。


 だがすぐに小さく頭を振って、彼女は嬉しそうに、「そうですか」と呟いて、微笑んだ。





◆◆◆





 ――このときトゥイーディアが、俺の好意に、その片鱗にでも気付いていたのであれば、彼女は俺をこの庭園から叩き出して、()()()()()()()()()と言うべきだった。


 恐らく彼女がそれをしなかったのは、まさか俺がトゥイーディアに恋をしているだなんて思わなかったからだろうが、――それでも。



 俺が彼女を愛し、彼女を幸せにしようと思うのならば、俺はこの庭園に通うべきではなかった。



 俺は千年を数えるほどに、そしてそれ以上に、本当に心の底からトゥイーディアのことを愛しているが、――だからこそ、なおいっそう。




 ――俺がトゥイーディアと出会い、彼女に恋をした、その罪の深さは計り知れない。





◆◆◆





 俺はあの庭園でトゥイーディアの隣に座る権利を得て、レイモンドから「何かあったんですか」と言われるほどには急に元気いっぱいになったが、まあ、現実はそう甘くない。



 水を掛けられることだってある。



 トゥイーディアが帰って来てから数日後、俺が駆り出されていた貴族のお茶会から戻って来たとき、俺を出迎えたレイモンドやチャールズたちの顔があまりにも死人みたいだったので、俺はびびった。


「……どしたの……?」


 恐る恐る尋ねれば、チャールズが頭を抱えつつ。


「――忘れてたぜ……。そろそろキルディアス侯のお誕生日だ……」


「お誕生日」


 全く事態が分かっていない顔で復唱した俺に、レイモンドは絶望の顔。


「あなたに招待が来ているんですよ……」


 俺はますますきょとん。

 招待が来た程度のことでこんな雰囲気になる時代は終わったはずではないのか。


 首を傾げ、レイモンドたちを順番に視線で辿って、俺は瞬き。


「なんか駄目なの……?」


 使節団の人たちが次々に絶望の表情で目を閉じていったので、俺は慄いた。


 そんな俺を憐憫の眼差しで見て、レイモンドは呻く。


「――ルドベキア。晩餐会やお茶会ではありません」


「えっ?」


 訊き返した俺を、なんかもう泣きそうな顔で見て、チャールズが。


「大使さま。――舞踏会だよ」


 俺はぱちぱちと瞬き。


「ぶとう……かい?」


 俺の阿呆丸出しの返答に、絞め殺されるような呻きがあちこちで上がった。


 俺は一歩下がったが、逆にレイモンドが一歩前に出て来て、この上なく真剣な顔で言っていた。



「ルドベキア、舞踏会です。

 ――あなた、これから一月(ひとつき)でダンスをこなせるようになりますか?」



 俺は首を傾げ、それから周りを見て、どうやら自分は詰んだらしいと悟った。

















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