23◆――花も綻ぶ
俺はトゥイーディアの言葉を冗談かと思ったが、存外に彼女は真面目だった。
とはいえ、瞑想と言われても俺がぽかんとしているばかりだったので、トゥイーディアは幾分か素っ気なく、庭園の方を指差して見せた。
「見て回ってきていいですよ。色々見て、庭園を見る自分の意識の端っこを自覚してみてください」
指差された方向を見てからトゥイーディアに視線を戻し、俺は息を吸い込んだ。
ちょっと嫌な汗が浮いてきたので、俺は意味もなく衣服に掌を擦り付ける。
「……俺、邪魔?」
トゥイーディアがぱちりと瞬きして、俺と目を合わせた。
彼女が首を傾げたので、蜂蜜色の髪が肩を滑ったのが見えた。
「はい?」
少しだけ眉を寄せたトゥイーディアから視線を逸らして、俺は長椅子に施された彫刻を目で追った。
そして、呟くばかりの小声で言った。
「……いや、ここにいたら邪魔なのかな――って」
トゥイーディアが呆れたように息を吸い込み、噴き出した。
そして、ひらひらと手を振って応じた。
「いいえ、いいえ。邪魔なら、このお庭から叩き出していますよ。何しろここにいるルドベキアは、特段の身分もない方ですし、偶然ここで会っただけですし」
俺はほっと息を漏らして、長椅子を回り込んでトゥイーディアの正面に立った。
トゥイーディアは膝の上に置いていた本を開いたが、俺が正面に来たことに気付くと、その本ではなくて俺の顔を見て、ちょっと首を傾げてみせた。
さら、と額髪が揺れて、また俺の心臓が変な風に動いた。
「もしかしたら、何か見慣れないものを見付けるかも知れませんけど、放っておいてくださいね」
俺は怪訝に瞬きしたものの、頷いた。
それからトゥイーディアに軽く手を振って、庭園へ続く石段を下りた。
庭園は雨を吸い込んで、それを朝に向かって振り撒いているように輝いていた。
俺はまず枯れた噴水に近付いて、それをまじまじと観察しながら、意識の端っことやらを自覚しようとしたが、何のことだか全く分からなかった。
俺は首を捻りながら歩き、庭園をもう一段下りて、小川の傍でしゃがみ込んだ。
いつもよりも流れの速い中、いつも泳いでいる小魚の姿が見えない。
もしかして雨で流されちゃったんじゃないか、などと、水を棲み処とするものに対して大変に失礼なことを考えていると、川底のごろっとした岩の傍で、気取って身体をくねらせる魚が何匹か見えた。
なんだ良かった、とほっとした俺は、違う違うと首を振る。
そうじゃなくて、自分の意識を自覚してだな――と必死に考えるも、一向に分からず。
そのうちにトゥイーディアが俺の傍まで歩いて来て、「そろそろお戻りにならないと」と言い始めた。
その瞬間に俺ががっくりと項垂れたのを、よっぽど俺がトゥイーディアから魔法を教わることに執心しているせいだと思ったのか、トゥイーディアは慌てた様子で俺の傍に屈み込んだ。
それを見て俺の方が慌ててしまって、「ドレス濡れるよ」と。
トゥイーディアはちょっとだけ笑って、ちゃんとドレスを押さえて軽く持ち上げて、地面に触れることがないようにしているのを示すように、ひらひらとドレスの裾を揺らしてみせた。
それから俺と目を合わせて、どことなく慰めるように。
「ルドベキア、そう気落ちすることはありません。私も、この魔法を思い付いてからちゃんと形にするまでに、二年くらい掛かりましたから」
「――二年」
俺が顔を強張らせたのを見て、トゥイーディアは気まずそうに首を振る。
「もちろん、ルドベキアにはそんなに時間もありませんし、お噂を拝聴する限り――あ、いえ、なんとなくですけど、ルドベキアはもっと早くこの魔法も使えるようになりそうですし、大丈夫ですよ。
数日で身に着けられてしまったら、私の立つ瀬がなくなります」
お道化たようにそう言って、トゥイーディアは姿勢を正した。
軽く首を傾げて、促すように。
「また偶然お会い出来ることもあるでしょう。
――ですから、ほら、そろそろお戻りにならないと」
窘めるようにそう言うトゥイーディアの顔を見て、俺はぼんやりと、このままこの庭園の時間を停めたいなと考えていた。
俺が作った例の魔法を使えばそれも出来るけど、トゥイーディアは嫌がるだろうな、とも思った。
大きく息を吐いて立ち上がり、俺はトゥイーディアと視線を合わせた。
次はいつここに来るの、と訊こうとして、だが俺は自重した。
――今日、彼女がここに来ることを予め教えていてくれたのは、昨日に魔法の話をしなかったことの埋め合わせだ。
実際、トゥイーディアは微笑んで俺を見守るばかりで、次の予定を合わせようとする様子はなかった。
俺は小さく息を吸い込んで落胆を押し隠すと、ぺこっと小さくトゥイーディアに向かって頭を下げた。
「……じゃあ」
トゥイーディアはにこっと笑って、ドレスを摘まんだまま、優雅に小さな礼をした。
「はい、では」
こいつの仕草は綿毛みたいだな、と思いながら、俺はのろのろと踵を返した。
その一秒後に、「あっ」とトゥイーディアが声を上げたので、俺は思わずくるっと振り返った。
トゥイーディアは、俺があんまり素早く振り返ったものだからびっくりしたようだったが、すぐにふわっと微笑んで、穏やかに言った。
「――お足許。滑りやすいので、お気を付けて」
俺は瞬きし、自分の足許を見下ろして、それからもういちど目を上げてトゥイーディアを見て、頷いた。
そのまま再び踵を返そうとした俺は、しかし寸前ではたと思い留まって、トゥイーディアと視線を合わせ直すと、小声で呟いた。
「……ありがとう。おまえも」
トゥイーディアは微笑んだまま、頷いた。
「はい。ありがとうございます」
その笑顔を見てなんとなく満足したので、俺はさっきよりはてきぱきした仕草で踵を返して、歩き始めた。
確かに足許は滑りやすくなっていたが、俺はすっ転んだ挙句に服を汚して、レイモンドに心配を掛けるようなことにもならず、そのまま無事に居室まで帰り着いた。
とはいえ、またしても俺に食欲がなくなったということで、レイモンドは朝食の席でいたく俺を心配してくれたが。
俺は大丈夫だと連呼してレイモンドに安心してもらって、今日は晴れたということで朝食の後はレイモンドと一緒に庭園に出た。
あちこちを歩き回りながらふと気になって、これからの俺の予定について尋ねた。
「なんか、どこかに行かなきゃいけなかったりしないの」
「お声掛けはいただいていますが、今のところ具体的なお話はまだですねえ」
レイモンドはそう言って、ちょうど傍を通り掛かった低木の枝の上を、ぴょんぴょんと移動する小鳥を指差してみせた。
「駒鳥です」
「へえ」
そう言って見上げた枝の上で、駒鳥は胸の赤さを自慢するように胸を反らしていた。
俺たちに気付いた様子で、小さな黒い瞳でこちらを見下ろしてきたかと思うと、俺たちに翼がないことを憐れむかのように首を傾げ、立派な羽を自慢するかの如く、これ見よがしに羽ばたいて飛んで行ってしまった。
――あんな鳥、トゥイーディアの庭園にもいたな。
ふとそう思ったものの、その感想は口には出せなかった。
レイモンドは小鳥が行ってしまったことにちょっと残念そうな顔をしたものの、すぐに俺を促して歩き出し始め、直前の俺の質問への回答を続けた。
「今は恐らく、あちこちの貴族が顔色を窺い合って、誰が最初にあなたをお誘いするかを水面下で争っています」
俺は首を傾げた。
「……キルディアス閣下じゃないの?」
俺の率直な疑問に、レイモンドは小さく笑った。
「ええ、普通は。ただ、ライラティア将軍からもお声が掛かっていますからね。侯爵閣下といえど、軍部の方を疎かには出来ません」
なるほど、と頷いた俺は、ライラティア将軍とやらの顔を思い浮かべて、またちょっと腹を立てていた。
――あの人が変な目でトゥイーディアを見たから、トゥイーディアは嫌な思いをしたのだ。
俺がレイモンドと歩いている道は、トゥイーディアの庭園の方へ続く道とは全く別だった。
整然と並べられた花壇の間を縫って歩きながら、レイモンドはあれこれと貴族の話をしてくれた。
昔は、貴族は爵位を持たない軍の人間を大いに馬鹿にしていたが、国境紛争が続いた結果、軍部の発言力が増してしまったのだとか。
爵位を持った軍人も多くいるのだとか。
更には貴族の多くは私軍を抱えるのが常だが、その私軍の人数に応じて、王さまに税金を納めないといけないのだとか。
「貴族が大き過ぎる軍事力を持つのは、王族からすれば脅威ですからねぇ。沢山の軍人を抱えるなら、その分財産を切り取って、いざ内紛となったときの体力を削ろうとするんですよ」
よく分からないまま俺は頷いて、レイモンドは俺がよく分かっていないことを見透かしたような顔で頷きつつも、言葉を続けた。
「この国の歴史には色々とありましてね……。たとえば過去に、主人を殺して、まだ赤ん坊だったそのお子さまを当主に据えた家令があれこれと悪さをしたこともあって――、以来、一家の当主になる資格は十三歳で与えられるようになったとか」
「なんで十三歳?」
「事の善悪の区別がつく年齢と考えられているようですね。十三なんて、まだまだ子供だと思うんですが」
当年取って十七歳になった俺は、自分の常識知らず振りを恥じて俯いた。
十三の子供でも一家の当主としてあれこれ判断する能力があるというのに、俺は自分の身の振り方ひとつ分からない。
レイモンドはそんな俺をちらっと見て、肩を叩いてくれた。
俺とレイモンドはそのまま、ぐるっと庭園を幾つか渡り歩いて、昼下がりに宮殿に戻った。
俺は、あわよくば夕方にも宮殿を抜け出してトゥイーディアの庭園に行きたいと考えていたが、生憎とレイモンドの目が俺から離れるタイミングがなかった。
夕食のあとは、レイモンドが誰かに呼び出されてどこかへ行ってしまったので、やろうと思えば抜け出せないこともなかっただろうが、さすがに夜陰が深くなってから、トゥイーディアがあの庭園に来るとは思えなかった。
俺は早々に部屋に引き揚げて、付いて来てくれたチャールズから書写の指導を受けていた。
チャールズは俺の、蚯蚓がのたくったような字を遠慮なく笑ったが、その分惜しみなく俺にあれこれと教えてくれて、手本も沢山見せてくれた。
その結果、俺の字はちょっとだけマシなものになった。
その翌朝も、俺は夜明け前に起き出してトゥイーディアの庭園に向かった。
時計が鳴る随分前に起き出してしまったものだから、俺があの庭園に着いたとき、まだ空は暗いままだった。
トゥイーディアは庭園にいなくて、俺は空っぽの東屋を見てがっかりしてしまった。
――まあ、伯爵さまだし。忙しい朝もあるだろう。
いや、むしろまだ夜か。
東屋の入口で座り込み、石段に足を投げ出して、膝の上に頬杖を突く。
石の床の冷たさがやけに切なく感じられた。
頭上にはまだ星が煌めいていて、小川がさらさらと流れる音が聞こえる。
小川の流れがちらちらと光るのを見て、俺は目を閉じて溜息を吐いた。
――トゥイーディアと一緒にいるのは好きだった。
彼女が笑っているのは嬉しかったし、目が合うのは喜ばしかった。
だから余計、彼女がここにいないとがっかりしてしまう。
頬杖に項垂れて、はあ、と大きく息を吐く。
さあっと風が吹いて、枝葉が擦れる微かな音があちこちから聞こえた。
それと同時に、こつこつ、と、足音――
俺ははっとして顔を上げ、トゥイーディアがゆっくりと石造りの階段を昇って来て、この庭園に足を踏み入れるのを見た。
俺の目を通せば、彼女は、彼女自身が灯火になりそうなほどに眩しく輝いているわけだが、俺以外にこの特異な瞳を持っている者はいない。
ゆえにトゥイーディアは、自分に先行させる形で、小さな光の球を浮かべていた。
握り拳大の白い光の塊が、ぽわぽわと光の残滓を引きながら浮かんで、トゥイーディアの顔を下から照らし出している。
トゥイーディアは最初、俺には気付かなかったようだった。
籐細工の籠と二冊の本を大儀そうに抱えて、足許に気を付けていることが分かる仕草で小道を辿り始める。
俺はしばしぼうっとそれを眺めて、それから慌てて立ち上がった。
「――トゥイーディ、俺、持つよ」
思わず出した声で、トゥイーディアは俺の存在に気付いたらしい。
ぎょっとしたように足を止め、同時に光の球がふわっと高く浮き上がり、俺の方までをも照らし出した。
俺は眩しさに目を細めたが、トゥイーディアはますますびっくりしたように飴色の瞳を見開いた。
「えっ、ルドベキア――?」
ぽかんとしてトゥイーディアが口走る間に、俺は庭園を駆け下りてトゥイーディアの傍まで進んでいた。
手を伸ばして、トゥイーディアが抱える荷物を受け取ろうとする。
トゥイーディアは咄嗟のように、遠慮して首を振ったが、俺がなおも手を伸ばすと、そのうちに籐細工の籠を俺に明け渡してくれた。
俺はほっとして、籠の持ち手をぎゅっと握ったあと、トゥイーディアを見て首を傾げた。
「――おはよう。転ばなかった?」
トゥイーディアは瞬きして、俺を頭のてっぺんから爪先まで見てから、頷いた。
「……おはようございます。大丈夫ですよ、いつものことですから。
――それより、随分と早いお出ましですね?」
俺は急に恥ずかしくなって目を伏せた。
「いや、偶然……ちょっと早く起きたから」
「そうですか」
まだちょっとびっくりしているような口調でそう言ってから、トゥイーディアは歩き出す素振りを見せた。
俺も慌てて、東屋までの道を引き返し始めた。
長椅子脇の円卓に、俺が籐細工の籠を置いて、トゥイーディアが抱えていた本を置く。
それからトゥイーディアは俺に長椅子を勧めてくれたが、俺は首を振って固辞した。
トゥイーディアはふふっと笑って長椅子に腰掛け、口許に手を宛がったと思うと、ふわぁ、と欠伸を漏らす。
俺は目を丸くしてしまった。
「……眠いの?」
「いいえ」
反射のようにきりっとしてそう答え、トゥイーディアは俺を見上げて首を傾げた。
彼女が浮かべている白い光が飴色の瞳に映り込んでいて、俺はそっと目を逸らして、トゥイーディアの額の辺りを見るようにした。
「ルドベキア、今日もあちこち見て回りながら、瞑想――というか、昨日のようにします? それとも読書の方がよろしければ、お持ちしたのですけれど」
手を伸ばして円卓から二冊の本を取り上げ、トゥイーディアはそれぞれを左右の手に持って俺を窺い見た。
それを目の当たりにした瞬間に、俺は自分がまだまだ字を読むのが下手なのだということを忘れてしまった。
「えっと、じゃあ、本」
「はい」
にこ、と笑って、トゥイーディアは本を二冊、ずい、と俺に差し出した。
「中を見て、お好きな方をどうぞ」
俺は咄嗟に二冊とも受け取ったものの、きょとん。
「す――好きな方?」
「はい」
頷くトゥイーディアから二冊の本に視線を戻し、俺は取り敢えず、東屋の入口に胡坐を掻いて座り込んだ。
石の床はやっぱり冷たいが、そんなに悪くない。
とはいえトゥイーディアは焦った様子で、「こちらへ」と俺にまた長椅子を勧め始めてしまったが。
「大丈夫、大丈夫」
ぶんぶんと首を振ってから、俺は一冊の本を開いた。
小難しい言葉がいっぱい並んでいるだけではなくて、あちこちに手書きの文字で注釈や覚書が書き加えられていた。
そんな頁を見ているだけで眩暈がしてきたので、俺は別の方の本を開く。
こちらの本の頁には、何の手も加えられていなくて綺麗なままだった。
どちらの本も、魔法の応用について書いている本だった。
長椅子のトゥイーディアが、興味深そうに俺を見ているのが分かったので、訳もなく緊張してきた。
俺は二冊の本を開いたり閉じたりして見比べたが、どちらも難しいことに変わりはないので、好きな方とかそういうのは――
――いや待て、気付いた。
はたと表紙に目を留めて、俺はこっそり息を吐く。
あちこちに手書きの文字が書き加えられている方の本、表紙をちゃんと見れば、著者名が書いてある――金箔押しの飾り文字だったが、辛うじて俺でも読めた。
アナベル・ガルダ=キルディアス。
これ、キルディアス侯の著作だ。
対して、何にも書き加えられていない方の本。
こっちの表紙の著者名は、トゥイーディア・トリシア=パルドーラ。
パルドーラ伯――つまりは目の前にいる、このトゥイーディアが書いた本だ。
俺は無言でぱたんと本を閉じ、立ち上がって、キルディアス侯の本をトゥイーディアに向かって差し出した。
そして、パルドーラ伯が書いた方の本を、軽く持ち上げてみせた。
「――こっち。こっちがいい」
トゥイーディアがにっこりした。
ちょっと得意そうな笑顔だった。
俺は、この人はこんな風に、子供みたいにも笑うんだな、と考えて、釣られて思わずにっこりした。
「はい、承知しました」
トゥイーディアは、俺の手からキルディアス侯の本を受け取りながらそう言って、また首を傾げて、「お掛けになります?」と。
俺はやっぱり首を振って、東屋の入口のところにまたしても座り込んだ。
トゥイーディアの本で使われている言葉はいちいち難しくて、俺には意味の理解すら出来ないものもあった。
目の前にレイモンドがいれば意味を訊くんだけど、と思いつつも、トゥイーディアに無知がばれるのは何となく心情的にも嫌だったので、俺はだんまりを決め込んで頁を捲った。
トゥイーディアはトゥイーディアで、俺から返却されたキルディアス侯の本を読んでいるようだった。
こっそりとその顔を見上げると、案外に真剣な顔で文字を追っていて、俺はまた訳もなくどきどきしてしまった。
やがて曙光が東屋を照らし始め、頭上の星は消えていった。
赤金色の曙光に、トゥイーディアはびっくりしたように顔を上げ、猫が顔を洗うように手で目許を擦った。
それから、本を脇に置いて立ち上がったので、俺はぎょっとして顔を上げた。
「――トゥイーディ? どこか行くの?」
「ええ……」
ふわ、とまた欠伸を漏らして、トゥイーディアは俺を見て、いつもよりも気が抜けた感じの笑顔を見せてくれた。
「お水を遣らないといけません。昨日は雨が降りませんでしたから」
トゥイーディアが東屋を出るのだと察して、俺も立ち上がった。
俺が出口にどっかり居座っていたら、トゥイーディアがここから出て行けないからね。
そんな俺ににこっとしてから、トゥイーディアは長椅子を指差して、
「どうぞ、お掛けになっていてください」
と。
俺はちょっと迷ったものの、石の床の冷たさに足が痺れ掛けていたのは事実だったので、ここは有り難く長椅子を使わせてもらうことにした。
庭園に下りたトゥイーディアは、庭園の二段目の小道の脇に置かれた、青いブリキの荷車の上から真鍮の如雨露を取り上げると、またひとつ欠伸を漏らしてから、屈んで小川から水を汲み上げた。
俺は本よりもそんなトゥイーディアの後ろ姿を見ていて、トゥイーディアが庭園のあちこちに水を撒いていくのをぼんやりと眺めていた。
トゥイーディアは、無頓着に水をさあっと掛けることもあれば、丁寧に屈み込んで、葉や茎に水が掛からないよう、土の間近から水を掛けてやっていることもあるようだった。
庭園の広さゆえに、何度か如雨露は空っぽになった様子で、その度にトゥイーディアは小川まで戻って水を汲み上げていた。
一度だけ、「わっ」と声を上げていたのは恐らく、意図せずして魚まで捕まえてしまったものと思われる。
びっくりしたー、とトゥイーディアが小さく呟くのに続いて、「ほらお逃げ」と声を掛けているのが、俺にも微かに聞こえてきたから。
庭園をぐるっと回って水を遣り終えたトゥイーディアが、如雨露を元の場所に戻して東屋の方を振り返った。
そして俺を見て、ぽん、と両手を合わせて首を傾げる。
「――朝ごはんにしません?」
俺は頷いて、本を閉じて、長椅子から立ち上がった。
――トゥイーディアは、何というか、分厚いハムとかベーコンとか、そういうがっつりしたものを俺に勧めたがる。
俺は長椅子の後ろに立って、勧められるがままにそういうのを食べた。
トゥイーディアはスコーンなんかを食べながら、なんとなく嬉しそうに俺が食べるのを見ていて、俺はなんだか途中から落ち着かなくなった。
朝食のあと、俺はトゥイーディアに勧められて庭園に下りて、またしても自意識の自覚に励むことになった。
俺は小川の流れに沿って歩いて、庭園の端っこで小川がいくつかの段差を描く小さな滝になり、ここよりも下にある別の庭園に降り注いているらしいと発見したが、それだけだった。
俺はしょんぼりして東屋で待つトゥイーディアの方に戻って、「全然何も分からない」と自己申告。
長椅子に腰掛けたトゥイーディアは首を傾げてそれを聞いて、「困りましたねぇ」と頤に指を当てて呟いた。
「――ごめん」
俺がいっそうしゅんとすると、トゥイーディアは笑みを零した。
「どうして謝るんです? 私の力が及ばなくて、こちらこそ申し訳ない限りです。
――ですが、そうですねぇ。もういっそ、哲学書なんかを読むべきかも知れませんねぇ」
普段はそういうの、読まれます? と尋ねられて、俺は首を振った。
そもそも哲学書ってなんだよ。
俺の挙動を見て、「そうですか」と呟いたトゥイーディアは、考え深げに睫毛を伏せて、独り言めいた呟きを漏らした。
「私が普段読むものを、参考までにお持ちしてもいいのですけれど。――明日は私はここへは来られませんし、」
鳩尾の辺りを誰かに殴られたかにも思える落胆の念に、俺は呻くのを堪えた。
そっか、そっか、まあ、トゥイーディアも忙しいもんな――
「――明後日も、きみの方がここへ来るのは難しいでしょう」
――うん?
「えっ?」
思わず聞き返した俺に、トゥイーディアの方も面食らったようだった。
そのまましばし見詰め合い、どちらからともなく二人して首を傾げる。
ややあって、トゥイーディアが瞬きを挟んでから、幾分か慎重な口調で呟いた。
「――ええっと、あの、予定が空いているなら、明後日の朝なら私はここに来ると思うんですが……」
視線を泳がせ、トゥイーディアはあやふやな語調で。
「……あの、ええっと、ある御方が、ハルティの大使さまを観劇にお誘いになったと聞いたのですけれど。もちろん、ルドベキアは大使さまとは関係のない人ですから――というか、私はルドベキアがどのような方か存じ上げないわけですから、これは単なる噂話なのですけれど」
俺はきょとん。
「――観劇?」
「はい」
「明後日?」
「ええ」
何も聞いてないな――と思いつつ、レイモンドが知っているかも知れない、とも考え、俺はすうっと息を吸い込んだ。
誰だ? 俺を誘ったの、誰だ?
多分キルディアス侯爵か、ライラティア将軍だと思うけど――。
トゥイーディアがこっちを怪訝そうに窺っている。
その顔を見て、俺の口から有り得ないほど馬鹿な質問が転がり落ちた。
「――トゥイーディも行くの?」
ぷっ、と噴き出して、トゥイーディアが首を振った。
「いえ、まさか。私がお誘いいただくわけがありませんよ」
そこまで言って、トゥイーディアははっとして取り繕うかのように、言葉を続けた。
「――もちろん、きみは私がどういう者なのかご存知ないわけですけれど」
トゥイーディアの言い様で、俺は自分を観劇に連れ出そうとしているのがキルディアス侯爵であると確信した。
観劇って何するんだろう、と思いつつ、微妙な顔で唸る俺をちらっと見てから視線を外し、トゥイーディアはわざとらしくも斜め上の方を眺めながら呟いた。
ちょっと拗ねたような口調だった。――もしかしたら、自分の政敵であるキルディアス侯爵がハルティの大使を何かに誘ったことが気に入らないのかも知れない。
そう考えて、俺はなんとなく申し訳ないような気分になった。
「……ただ、大使さまはお気に召さないと思うんですよね。有名な歌劇ですけれど、大使さまはあんまり興味を惹かれないのではないかと思います」
「……へえ」
相槌のように呟いて、俺はぼそっと。
「――お……大使さまのお付きまで数えたら、だいぶ大勢、招待したんだな」
観劇って何だか知らないけど、上手いことレイモンドの近くに居られたらいいな――と、保身十割で考え込んでいると、トゥイーディアが俺に視線を向け直して、きょとりと瞬きしてみせた。
「いえ? ご招待は大使さまの他は一名か二名とお聞きしましたが……」
その瞬間に俺が鉛を呑んだような顔をしたので、トゥイーディアはさっと顔を背けて、ややわざとらしく手を打ち合わせた。
「――まあ、私たちには関係のないことですよ。まあ、ここで偶然お会いしただけですから、私はきみのことを存じ上げないわけですけれど。
……えっと、それで、そうそう」
俺を見て、トゥイーディアはにこっとした。
花が綻ぶような笑顔だったので、俺は危うく観劇云々のことを忘れ去るところだった。
「もしかしたら私、次にここに来るときには、哲学書なんかもお持ちするかも知れません。
また偶然お会い出来ましたら、是非きみも読んでみてくださいね」
◆◆◆
「レイっ、レイっ!」
朝食に向かおうと部屋を出たところで、同じく部屋を出て来たレイモンドを捉まえて、俺は思わず彼に飛び付いた。
俺には珍しい挙動に、レイモンドはびっくりした様子だった。
「はい? どうしました?」
「俺が――観劇に呼ばれてるって本当?」
レイモンドはいよいよびっくりした様子で、飛び付いた俺を見下ろして緑の目を見開いた。
「ええ。耳が早いですねぇ」
「耳が早いってなに?」
条件反射じみて知らない言葉を尋ね返した俺に、レイモンドは軽く笑った。
「噂を聞き付けるのが早いですねって意味です。
――どうして知ってるんです? 私も昨夜聞いたのに」
俺はぐっと言葉に詰まった。
まさか、パルドーラ伯爵から聞きましたなんて言えない。
うっ、と目を伏せた俺は、苦肉の策として、実在しない誰かのせいにすることにした。
「……さっき、――目が覚めちゃって、下の方に降りたときに、知らない人が喋ってた」
レイモンドは目を細めた。
「――ほう?」
俺はどっと冷や汗を掻きつつも、決死の思いでレイモンドを見上げる。
「……勝手に部屋から出て、ごめん」
レイモンドははっとした様子で、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ああ、いえ、いいんですよ。あなたはもうちょっと自由にしていいんです」
なんとか誤魔化せた、と、内心で汗を拭いつつ、俺は最も気になる点について、恐る恐る尋ねた。
「――レイも一緒に来るんだよな?」
レイモンドは俺から目を逸らし、それから嫌な予感に硬直した俺に視線を戻して、心底申し訳なさそうに呟いた。
「……すみません、ルドベキア。
今回は、あなたとアークソンさま――ええっとですね、上の方のうちお一人、それだけのご招待です……」
俺は思わず、がくっとその場に膝を突いた。
慌てた様子でレイモンドがそんな俺の傍に屈み込んで、背中を擦ったり肩を叩いたりしてくれているうちに、別の部屋からチャールズが起き出して来た。
チャールズは、部屋を出るなり俺が蹲っているのを目撃して、さすがに度肝を抜かれた様子だった。
「おい――おい、どうした!?」
と、切羽詰まった様子で叫んで駆け寄って来てくれる。
レイモンドはチャールズの方を見上げて、困り切った風情で応じた。
「この子が――観劇の予定をどこかからか聞いてしまったらしくて……」
「観劇? そんな予定あんの?
――別にいいじゃん、座って劇見とくだけだよ。まあ、その後に晩餐の流れにはなるだろうけどさ」
チャールズが呆れたように言ったが、レイモンドは首を振って、
「違う、僕たちは付いていてやれなくて、アークソンさまとこの子にだけ招待が来たんだ。分かるだろ、席もそんなに急に取られるものじゃないし……」
ああ、と、納得の声を漏らしたものの、チャールズは割と楽観的に俺の背中を叩き、言った。
「だぁいじょーぶだって、大使さま。いくらアークソンさまだって、人前で大使さまをぶん殴ったりは出来ねえし、宮殿まで戻って来たところに、俺たちがちゃんと待ち構えといてやるからさ。
――一昨昨日の晩餐会みたいにしとけば大丈夫だって、心配すんな」
俺はよろめきながら立ち上がり、レイモンドとチャールズの、心配そうに俺を見る顔を見上げた。
そして口許を押さえ、冗談ではない吐き気の予感に呻きながら、そろりと一歩後退った。
「……食欲ない」
「でしょうね」
と、レイモンドは憂い顔。
「朝食の後に伝えるつもりだったんですが、――すみません」
俺は首を振った。
レイモンドは俺の肩を叩いて、心底から気遣わしげに俺を覗き込んだ。
「軽いものなら食べられますか? 部屋に運びましょう」
俺はまた首を振る。
実際、朝食はもう食べたっていうのもある。
「いい……お昼まで要らない……」
「そうですか……」
レイモンドはちょっと悲しそうにした。
が、それを見た俺が狼狽えたのを見て取って、すぐにぱっと笑顔になってくれる。
「――では、お部屋でゆっくりしておいてください。
ルドベキア、大丈夫ですよ。一昨昨日、あれほどちゃんと振る舞えたんですから、心配要りません」
いや、あれはレイモンドもチャールズもいたからで、もっと言うとトゥイーディアの顔が見られたのも大きいんだけど、と思いつつ、俺は力なく頷いた。
チャールズは心配そうに俺を見て、
「大使さま、たぶん寝ちまうと思うから。
感想言わなきゃならなくなったときの躱し方は、後で教えてやるからな」
と、頼り甲斐のありそうな親指を立ててくれた。
――俺が寝るとすれば、それは気絶だと思う。
確信じみてそう考えつつ、俺は俯くついでに頷いて、のろのろと部屋まで戻って行った。
――トゥイーディアには向こう二日間会えないし、レイモンドとは引き離された挙句に上の人たちのうちの誰かと二人にされるし、――最悪だ。
■過去編丁寧にやりますとは言いましたが、気づくと20万字近く消費しており、丁寧にどころの話ではないし第一飽きてしまわれそうなので、ちょっとずつ巻いていくかもしれません。
 




