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22◆――雨上がり

 雨は止む気配もなく、それどころか遠雷すらも轟き始めた。


 庭園のあちこちに小さな水溜まりが出来て、水溜まりは雨粒に忙しく波紋を広げて落ち着きなく揺れている。


 やがて、銀色の懐中時計をぱちんと開いて時刻を確認したトゥイーディアが、真顔で俺と視線を合わせた。

 俺もトゥイーディアの方を見ると、彼女は本を小脇に抱えたまま、小さな拳を作って振ってみせた。


「――ルドベキア、これはもう走って戻るしかありません」


 俺は瞬きした。

 きょとんとした表情の俺が、トゥイーディアの飴色の瞳に映り込んでいた。


「走る」


 トゥイーディアはわざとらしい真顔で頷き、尤もらしく言った。


「ええ。幸い、この時期の雨は恵みの雨です。きっとお身体にもいいはずです」


 もの知らずにも程があった俺はそれを真に受けて、思いっ切り目を見開いてしまった。


「えっ、そうなの?」


 トゥイーディアは一瞬、面食らったように瞬きしたが、すぐに弾けるように笑い始めた。


 その笑い声があまりにも朗らかで明るいので、俺は絶対に陽が差してきたに違いないと思って、庭園の方を確認したくらいだった。

 ――雨はざあざあと降り続いて、空は黒雲にぴっちりと閉ざされたままだった。


「もう、からかってるんですか? 真に受けないでください、ばかもの。――この時期であっても、濡れて冷えれば風邪も引きます」


 笑い声を落ち着かせてからそう言って、トゥイーディアは右手の人差し指をぴんと立てた。


「きみも私も魔術師ですから、濡れずに帰ることは簡単でしょう」


「――――」


 お許しなしに魔法を使うことに、未だに恐怖ゆえの抵抗を覚える俺は黙り込んだが、トゥイーディアはそれには気付かなかったようだった。

 何か考え込むように俯いて、それからぱっと顔を上げて俺を見た。


 そして、唇を綻ばせて、小声で囁いた。


「――今日はもう、私はここへは来ませんが、きっと明日の朝はいます」


「えっ?」


 俺はびっくりして目を見開いた。


 大っぴらに約束は出来ないと、トゥイーディア本人が言っていたのに、ちゃんと予定を教えてくれるなんて。


 びっくりしている俺に、微かに含羞のある頬を見せて視線を逸らせたトゥイーディアは、それからまるで自分が言ったことをすっかり忘れてしまったかのように、額髪を揺らして俺に視線を戻した。

 そして、「ほら」と、促すように。


「そろそろ戻らないと、きっとお付きの――いえ、あの、おうちの方も心配なさいますよ」


「…………」


 俺は黙り込んだ。


 まだここにいたいと思ったからだが、トゥイーディアはそれを別の意味に取ったらしい。

 ちょっとだけ眉を下げて、声の調子を落として呟いた。


「……あの、今日は、せっかくいらしたのに――お役に立てなくて。次にお会いしたときは、ちゃんとしますよ」


 俺は慌てて首を振り、柔らかい砂浜に埋まった脚をずぼっと引き抜くくらいに力を入れて、トゥイーディアの隣から離れた。


 同時に、トゥイーディアがわざわざ自分の予定を教えてくれたのは、単純に今日の埋め合わせを確実にするためだったのだ――と気付いて、なんとなくがっくりしてしまった。



 石段を下りて足を踏み出すと、ざあざあと降る雨が惜しげもなく全身に降り注いだ。


 雨は柔らかくて、仄かに暖かい。

 足許から濡れた土の香りが昇ってきて、俺は息を吸い込んだ。


 俺が、まさか何の魔法も使わずに歩き出すとは思っていなかったのか、トゥイーディアがびっくりしたように声を上げた。


「――ルドベキア、お風邪を召しますよ」


「後で乾かすから、平気」


 振り返ってそう答えた俺を心配そうに窺いながら、トゥイーディアは「そうですか」と呟いたようだった。

 唇の動きは見えたが、雨の音で声は聞こえなかった。


 俺は頷いて、踵を返した。


 雨は真っ直ぐに降り続いて、石を敷き詰めた小道の上で跳ねて俺の足を濡らした。

 土は雨を吸い込んで黒々と濡れていて、草花の陰になっている部分だけがまだ乾いているのが、なんとなく面白かった。


 庭園の段差を一段降りて板木の道に立てば、板木も濡れて色を濃くしている。

 小川はさらさらと流れながらも、雨粒に無数の波紋を広げて、その波紋の下に泳いでいる小さな魚が見えた。

 いつぞや、危うく彼らを殺してしまいそうになったことを思い出して、俺は気まずい思いでそっと目を逸らした。


 雨の音は間断なく続く。


 庭園から出る寸前に俺が東屋の方を振り返ると、トゥイーディアは格子屋根のどこかに気になるところでも見付けたのか、そちらをじっと仰ぎ見ていた。


 象牙色のストールを、胸元でぎゅっと握っているトゥイーディアは、やっぱり雨の中に溶けていってしまいそうだったし、俺が振り返ったことには気付いてくれなくて、俺は理由もなしにしゅんとしてしまった。


 ――けど、まあ、明日も会えるし。


 そう思うと妙に嬉しくなって、俺は軽い足取りで、庭園から下る蔦の絡んだ石段を降り始めた。


 とはいうものの、すぐに濡れた石段は滑りやすいのだと気が付いて、俺は慎重に一段一段を下り始めた。









 島にいるとき、〝えらいひとたち〟のお許しなしに俺が魔法を使うのは、ヘリアンサスのためだけだった。

 櫃に入れられるのは恐ろしかったが、ヘリアンサスに嫌われるのも怖いという、俺の感情の均衡がそうさせていたわけだ。


 とはいえ、この王宮において、俺はレイモンドの庇護下にある。


 ここでは滅多なことでは手を上げられないのだ――と頭で理解はしていても、俺は自分に降り注いだ雨を魔法で拭うことにすら、結構な勇気を必要とした。


 だが結局、目を瞑って意を決し、一瞬で自分を乾かしたわけだが。

 ――何しろ、びしょ濡れになった俺を見てしまえば、レイモンドが肝を潰すだろうということは、俺の乏しい想像力でも予想のつくところだったので。



 その日の朝食は遅く、レイモンドもみんなも、疲れたような顔でオムレツを切り分けて口に運んでいた。

 昨日の晩餐会に参加した中では、俺が一番元気だったかも知れない。



 朝食のあと――さすがにこの天気で、庭園の散策に行くわけにもいかないので――、俺は自分の部屋に引き返した。

 レイモンドとチャールズが勉強を見るために付いて来てくれたが、パトリシアは、「雨のせいで頭痛がする」と言って、自分の部屋の方へ戻っていった。


 帳を開けても、窓から差し込む光はごく僅かだった。

 風が時折強く吹いて、その度に硝子に雨粒が叩き付けられるぱらぱらという音がしていた。


 俺は途中から、「この雨は明日には止むだろうか」と考えて気もそぞろになってしまった。

 なにしろ、雨の中を縫ってまで、トゥイーディアが庭園まで来てくれるかは分からないわけで。


 朝から部屋には灯火が入れられ、部屋は暖色の光に照らされていた。

 俺は窓際の円卓にレイモンドと向かい合わせで座っていて、チャールズはチンツ張りの椅子にどっかりと腰を下ろし、適当な本を見繕っては本棚から引っ張り出し、ぱらぱらと捲って眺めていた。


 レイモンドはちょくちょく欠伸を漏らしていて、チャールズもあからさまにやる気なさそうに座り込んでいるので、そのうちに俺は書写から顔を上げた。


「……どうしたの?」


 首を傾げて尋ねると、レイモンドは苦笑した。

 俺は瞬きして数秒考えて、なおも首を傾げた。


「……疲れた?」


「おう、大使さま、気遣い出来るようになったじゃねえか」


 と、チャールズがチンツ張りの椅子の上からそう言って、俺は褒められたことが嬉しくてにっこりしたが、レイモンドは呆れ顔でチャールズを見ていた。

 それから俺に視線を向けて、柔和に微笑んだ。


「いいえ。ただ、あなたが想定以上に立派に立ち回ってくれたので、ちょっと気が抜けたんですよ」


 俺は眉を寄せた。

 そんな俺の顔を見て、チャールズが「喜べよ」と突っ込みを入れる。


 俺は首を傾げて、ぼそっと呟いた。


「俺、知らないこといっぱいあるよ」


「何か分からないところ、ありました?」


 レイモンドが俺の方にちょっと身を乗り出してきたので、俺は瞬きした。


 そして、訊きたかったことを訊くなら今だと思い、レイモンドを見上げて、たった今書写している本を、ちょっとだけ自分の方へ引っ張り寄せた。

 何しろ、意味を訊こうと思っている言葉はこの本に書かれていない言葉で、それが知れたらレイモンドが不審がるかも知れないと思ったのだ。

 本を引っ張り寄せたのは俺の、ささやかな警戒心の表れだった。


「――『嫡出』ってなに?」


 出し抜けに尋ねた俺に、レイモンドとチャールズが揃って絶句したので、俺は少しばかり慌ててしまった。

 訊いたらいけない類のことだったのかと思ったのだ。


 レイモンドがチャールズと視線を合わせ、それから驚いた顔のままで俺を見て、少しだけ大きくなった声を出した。


「それ、どこで聞きました?」


「えっ?」


 と、俺は冷や汗。

 そんなに尋常じゃないことなのか、これ。


 取り敢えず書写していた本を抱え込むと、レイモンドは勝手に、そこにその言葉が書いてあったのだろうと結論付けてくれた様子だった。

 チャールズは不審そうだったが、レイモンドは軽く首を振って、びびる俺に向かって微笑んでみせた。


「ああ、すみません。――キルディアス侯とパルドーラ伯のことをお聞きになったのかと思って」


 ――トゥイーディア。


 本を抱える掌に、訳もなく汗が浮いてきた。

 トゥイーディアが、あんなに悲しそうな顔をする言葉だ。


 俺は取り敢えず首を傾げてみせて、レイモンドはそんな俺を見て肩を竦めた。


「嫡出っていうのはね、正式な婚姻関係にある人たちの間に生まれることです」


 俺は瞬き。

 婚姻の何たるかを、俺は雲上船の中で教えてもらったが、――うん?


「婚姻――結婚してないと、子供って出来ないんじゃないの?」


 確か、婚姻するということは夫婦になるということで、夫婦の間に子供が儲けられるはずだ。

 結婚していないのに子供が生まれるとはこれ如何に。


 きょとんとする俺から、レイモンドが目を逸らした。

 珍しく、本気で困ったように見えた。


 レイモンドはチャールズを見て、「頼む」と拝む仕草をする。

 チャールズはチンツ張りの椅子の上で軽く笑って、「あのな、大使さま」と、こっちに向かって身を乗り出す。


 俺はチャールズの方を向いた。


「うん」


「結婚――婚姻っていうのは、世間的な手続きだ。子供が生まれるかどうかは、結婚してるかどうかに左右されるもんじゃねえんだよ」


「…………?」


 ますますきょとんとする俺に、チャールズは爆笑した。


「マジか。番人ってのはそこそこの年齢(とし)になったら子供作るもんじゃねえの? バーシルは何にも教えなかったんだな」


 バーシルを悪く言われて、俺はむっとした。


 バーシルは、島においては俺の命綱だった。

 何回も櫃から出しに来てくれたし、パンをくれたし、靴紐の結び方を教えてくれた。


 俺が眉間に皺を寄せたのを見て取って、チャールズは手をひらひらさせた。


「悪い悪い。――まあとにかく、あれだ。子供は、出来るときゃ出来る。正式な夫婦の間に生まれたら嫡出子、そうでないなら妾腹だ。嫡出の生まれなら、正式な子供だ。世間一般、ご令息ご令嬢っていうなら嫡出子だってのが前提だ」


 俺はぎゅっと眉を寄せた。



 トゥイーディアは、キルディアス侯爵のことを指して、「あの方()嫡出」と言っていた。


 つまりトゥイーディア自身は、いわゆる嫡出子ではないということだ。

 ――正式な子供じゃないってこと?



 訳が分からず混乱した俺は、ぼそっと呟いた。


「……なんで――嫡出、じゃない人がいるの?」


 チャールズが目を泳がせて、レイモンドと視線を合わせようとしたようだった。

 が、レイモンドはそのときちょうど、手許の本に非常に興味を惹かれた様子で、じっと本の頁に視線を落とし、それには気付かなかった様子である。


 チャールズはそれを見て、「このやろう」と口走ってから、俺に視線を戻して首の後ろをがしがしと掻いた。

 そして、極めて真顔で言った。


「――まあ、ほら、あれだ。恋に手綱はつけらんねえから」


「…………」


 俺は瞬きした。

 また意味の分からない言葉が出てきたためだった。


 ()()()()()()


 ――とはいえ、これ以上何かを尋ねてチャールズとレイモンドを困らせるのも本意ではなかったので、俺は慌てて抱え込んでいた本に視線を落として、咄嗟に目についた言葉について尋ねていた。


「ふうん。――なあ、『形而上』ってなに?」


「形を持っていないことですよ」


 と、本に気を取られていたはずのレイモンドが素早く答えてくれた。


 俺はなるほどと頷いたが、唐突に立ち上がったチャールズがつかつかとレイモンドに歩み寄り、「面倒な質問だけ俺に投げるな」と言ってレイモンドの頭をぱこんっと叩いたので、思わず目を見開いてしまった。


 レイモンドは、「いってぇな」と頭を擦ってからチャールズを()()()()と追い払い、なんとなく警戒ぎみの顔で俺に向かって微笑み掛けた。


「――ルドベキア、大丈夫ですよ。面倒なんてことはないですから、分からないことは訊いてくださいね」


 俺はその親切に素直に頷いたが、チャールズは「あっ」と声を上げて本棚に歩み寄り、膝を突いてまじまじと本の列を眺め始め、名案を思い付いたとばかりに声を上げていた。


「ここ、辞典とか事典、ないの」


 間もなくして、チャールズは嬉しそうな顔で本棚から分厚い本を引っ張り出し、その後しばらく、俺はチャールズから辞典の引き方の指導を受けることとなった。


 レイモンドはちょっと嫌そうな顔をしていて、「ルドベキア、面倒だったら今まで通り私たちに訊きなさい」と言ってくれたが、俺は心底ありがたくチャールズの説明を聞いていた。



 ――トゥイーディアが難しい言葉を遣っても、これでちゃんと自力で調べられるな、と思うと、ほっとしたような嬉しいような、そんな気分になったのだ。



 日中降り続いた雨は夕方には小雨になり、夜には完全に止んだ。


 俺はすっかり日が落ちて暗くなった中、夕飯の後にバルコニーに出て、欄干から雨の名残の水滴が滴る音を聞きながら、世双珠に照らされる眼下を見下ろしてにっこりしてしまった。



 ――晴れていれば、きっとトゥイーディアもあの庭園に来てくれるに違いない。





◆◆◆





 翌朝、俺は時計がりんりんと音を立てる前に目を覚ました。


 目を開けたとき、まだ辺りが暗かったので、俺はてっきりまだ夜中なのかと思ったが、手許にささやかな明かりを点して時計を確認すると、直に時計の音が鳴る時間だった。


 俺はむくっと起き上がり、予め時計から世双珠を抜き出して音が鳴らないようにした上で、いつものように足音を殺して床に下り、衣装箪笥を開けた。



 いつもならば、動悸を伴う緊張と共に廊下に踏み出す俺だったが、今朝ばかりはそうではなくて、用意を整えた俺が慎重に扉を開けたときに覚えていたのは、いつもならあの庭園に続く階段の真下辺りで覚えるだろう、動悸とは別の心臓の鼓動だった。



 普段に比べて注意散漫に廊下に踏み出した俺を、使用人さんたちはやっぱり見咎めなかった。


 唯一、扉を守る衛兵さんのうち数名が、目を眇めて俺を見てきたものの、特段の咎め立てをされることはなかった。



 俺は広々とした階段を駆け下りて、湖までの道を足早に進み、湖を過ぎた辺りでまた駆け出した。


 足許は、昨日の夜まで降り続いた雨がまだ乾き切ってはいなくて、土は濡れ、石畳の上には水溜まりが点在するままだった。

 走る俺は幾度か水溜まりを踏み抜いてしまって、ばしゃん、という音と共に足許に水を被ったが、あんまり気にならなかった。



 俺がトゥイーディアの庭園に続く階段の真下に辿り着いた辺りで太陽が顔を出し始めたので、何かの手品のように頭上の空は透き通り始め、藍色に澄んだ色を呈し始め、星は次々に姿を隠していった。


 黄金の曙光が雲間を縫って上方に差し、世界が陰影を思い出したかのように鮮やかさを取り戻していく。



 俺が庭園を覗き込んだその瞬間、庭園に届く曙光はまだ僅かだった。


 東屋の辺りだけが建物の間を縫った金の曙光に照らされていて、格子屋根に絡む蔓のあちこちに残り、あるいは滴る雨粒が、曙光を弾いて無数の宝石のように煌めいていた。



 そして、その格子屋根の下で、軽く手を振って石造りの長椅子や円卓から雨水を拭い去り、円卓の上に籐細工の籠と、抱えていた本を置いている――


「――トゥイーディ、イーディ、ディア」


 俺が声を出すと、トゥイーディアがぱっとこちらを振り返った。


 今日の彼女は薄紅のドレスを着ていて、その上からドレスよりもやや色の濃い紅色のレースのガウンを羽織っている。


 半ばを結い上げてふんわりと結い上げた蜂蜜色の髪が揺れて、それからトゥイーディアがにこりと笑ったのが見えた。



 ――なんと言えばいいのか分からない温かさが胸の中に広がって、俺は少しの間息を止めた。



 トゥイーディアはちゃんと本と籐細工の籠を円卓の上に置いたあと、すっ、と品よくドレスの裾を摘まみ、東屋から出て来て石段を下って、ドレスの裾を濡らさないよう注意を払っていることが分かる仕草で、俺の方に向かって歩き始めた。


 それで俺もはっとして、慌ててトゥイーディアの方へ向かった。

 通る小道の両脇で、雨に濡れたままの草花が伸びているものだから、やっぱり俺のズボンの裾は少し濡れた。


 斯くして俺たちは、庭園の二段目の、小川よりちょっと手前で顔を合わせることになった。


 小川は、少し水量が増していて、いつもよりも勢いよく流れている。


 ざあざあといつもよりも大きく響く水流の音を背景に、ふわっと笑ったトゥイーディアが、心底可笑しそうに俺を覗き込んだ。


 ――俺は心臓が止まるかと思った。

 別に今は危ないことも、緊張しないといけないこともないはずなのに、急に心臓の鼓動が早くなった。


「――おはようございます、ルドベキア。()()ですね。……私も、今来たところなのですけど。今日は随分と早いお出ましですね」


 俺はこくこくと頷いた。

 それから数秒して、ようやく声の出し方を思い出した俺は、辛うじて呟いた。


「お――おはよう、トゥイーディ」


 トゥイーディアはいっそう微笑んで、――それに連動して俺の心臓はきゅっと縮んだものである――繻子のドレスの裾を摘まんだまま、わざとらしい鹿爪らしさを籠めて首を傾げた。


「そんなに、私の魔法はきみの興味を惹いたんですね。大丈夫ですよ、今日はきちんとお教えしますから」


 そう言って、ふわっと髪とドレスを靡かせて踵を返すトゥイーディア。

 こつこつ、と、トゥイーディアの靴の踵が濡れた板木の小道を踏む音がして、俺は咄嗟に言いそうになった言葉を喉の奥に押し返した。



 ――別に、今日もトゥイーディアの気分が乗らなくて、魔法の話が出来ないというならそれでもいい、と、俺は言いそうになった。


 その言葉を押し込めた理由は二つあって、一つはヘリアンサスの顔が思い浮かんだからだった。

 俺はあいつに飽きてしまわれないように、ちゃんとトゥイーディアの魔法を覚える必要がある。


 そしてもう一つは単純な話で、別に魔法のことはいいと言ってしまえば最後、俺がここに来る理由もなくなってしまうと気付いたからだった。



 トゥイーディアに数歩遅れて歩き出した俺は、東屋に戻ったトゥイーディアが長椅子を勧めてくれるのを、ぶんぶんと首を振って断って、また先日のように長椅子の後ろに立った。


 トゥイーディアは可笑しそうにふふっと笑って長椅子に腰掛けて背筋を正し、手を伸ばして持参していた本の一冊を手に取った。

 だがすぐに、はっとした様子で、


「――そういえば、ルドベキアは理論より実践でしたね」


 と呟いて、本は開かれることなくトゥイーディアの膝の上に載せられた。


 トゥイーディアは、俺が先日、危うく小川を干上がらせそうになったことを覚えていたのか、火に関する魔法についての言及は避けて、あれこれと例え話をしながら俺に魔法を教え込もうとした。


 とはいえ、トゥイーディアが指導する独特な世界の(のり)の書き換え方は、俺の理解が及ぶのも容易ではなく、「自分の意識を疑似的に魔法の方へ持って行って……」だの、「仮想の鏡を自分の目の前に置いて、そこから自分の方を見る感じで……」だのと言われて、俺は盛大に疑問符を飛ばすこととなった。


 当然、俺の魔力は見事に空振りを続けて、のりを書き換える気配は一向にない。


 トゥイーディアは長椅子の上で半ば俺の方を振り返り、身振り手振りを交えてあれこれと俺に助言をくれたが、俺は悉くぽかんとした顔を返すことになってしまった。


 トゥイーディアは、「こいつ実は結構な馬鹿なのでは?」みたいな目で俺を見てきたし、何度か頭が痛そうな溜息を零したが、怒ったりはしなかった。

 蟀谷を押さえて、「何と言えばいいんでしょう……」と真剣に考えてくれているので、俺は申し訳なさにおなかが痛くなってきた。


 トゥイーディアはしばしうんうん唸っていたが、そのうちに切り替えたのか、軽やかにぽんと手を打って、「朝ごはんにしません?」と。


 俺を振り返ったトゥイーディアの飴色の瞳と目が合って、俺は訳もなくたじろいだ。

「ね?」と首を傾げられ、正体不明の衝撃に心臓が跳ねた俺は、とにかくこくこくと頷く。


 トゥイーディアはにこっとして、優雅な仕草で立ち上がった。


 トゥイーディアが籐細工の籠を持ち上げて、それを長椅子の上に置く。

 そしてぱたりとその蓋を開いて、俺にも中が見えるようにしてくれた。


「お好きなものをどうぞ。たくさん食べてくださると助かります」


 トゥイーディアがそう言った瞬間に、俺は朝の食欲がないと心配してくれるレイモンドへの罪悪感を綺麗に忘れ去った。


 トゥイーディアは、紙で包まれたベーコンを載せたマフィンを取り出して、紙を捲ってはむはむと齧り始めた。


 俺は例によってどれを取るべきか迷ったが、トゥイーディアがどうぞどうぞと勧めてくれた、分厚いハムとチーズが挟まれたパンを取り上げて、かぶり付いた。



 日は少しずつ高く昇って、今は庭園の半ば以上が朝陽を浴びて輝いていた。

 雨粒の残った庭園は、宝石がばら撒かれているかのように煌めいて、風が吹く度に涼やかに雫を落としている。



 トゥイーディアは食事中ずっと、何かをじっと考えている様子だった。


 俺は、なんでこんなにここで食べるごはんは美味しいんだろうということを馬鹿丸出しで考えているだけだったのに、ちゃんと食事中も考え事が出来るトゥイーディアは素晴らしい。



 食事が終わって(今日も今日とて、トゥイーディアは籠の中身の半分以上を俺の方に譲ってくれた)、籠を円卓の上に戻してから、トゥイーディアはじーっと俺を見上げてきて、俺は思わず顔を擦った。


「――あの、何かついてる?」


 馬鹿には目印でもつくのかな、と思いつつ尋ねれば、トゥイーディアははっとした様子で目を逸らして、


「失礼しました」


 と。

 それから、またもういちどおずおずと俺を見上げて、半信半疑――といった様子で呟いた。


「――どうして上手くいかないのかと考えておりまして。

 もしかしたら、ルドベキアには意識の自覚がないのかも知れません」


「意識の自覚」


 思いっ切り真顔で復唱した俺に、「ええ」と頷いて、トゥイーディアは顔を顰めた。

 不機嫌になったような表情ではなくて、自分の考えを言葉にするのに苦心しているような表情だった。


「何というか――私がこの魔法を使うときは、自分の()()()()()()を自覚しているような感覚があって――ルドベキアにはそれがないのかも知れません」


「ないと思う」


 素直に認めて、俺は首を傾げた。


「――どうしたらいい?」


 トゥイーディアは瞬きして、肩を竦めた。


 そして、困ったように微笑んで、俺と目を合わせて眦を下げる。



「……ええっと、――瞑想でもします?」
















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[良い点] ばかもの 普段なら悪口とも捉えられるたったこの一言でここまで気持ちが暖かくなるとは 言葉って不思議なもんだ
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