21◆――あなたに降る雨を受けたい
さて、天下に轟く犬猿の仲の二人である。
共に女性、共に有り得ないほど不幸な偶然で降ってきた爵位を受け止め、逆風逆流の中であろうと睨み合い、啓沃の功を競う仲。
キルディアス侯爵は朗らかにトゥイーディアに挨拶し、「ご存知ないかも知れませんが」と前置きをした上で、途轍もなく親密な口調でトゥイーディアに囁いた。
「この方、わたくしがお招きした大使さまですの。わたくしを除け者にされてしまうと寂しゅうございますわ。お声を掛けてくだされば良うございましたのに」
まあ、ふふ、と笑い声を上げ、トゥイーディアも親しげに侯爵の方へ眼差しを向ける。
「存じ上げておりますわ。閣下がわたくしに、もう少し仲良くしましょうと仰ってくださったものですから、つい、お客さまともお話をしたくなってしまって。いけませんでした?」
キルディアス侯爵はにこにこと微笑んだ。
「まあ、いけないなんて。わたくしは閣下とお話がしたくて、方々捜しておりましたものを」
「あら、然様でございましたか。それは嬉しい」
――すごく仲良さげに話しているのに、どんどん空気が冷えていっているような感じがする。
「ええ、せっかく仲良くしましょうと申し上げましたのに、わたくしではなく大使さまを捉まえてしまわれるなんて。わたくしとはお話ししてくださいませんの?」
あどけない仕草で首を傾げて、キルディアス侯爵は薄紫の双眸でトゥイーディアの瞳を覗き込んだ。
「わたくし、何か致しました?」
俺は足許を見ていて、将軍は天井を見上げていた。
トゥイーディアは可笑しそうにくすくす笑って、「とんでもない」と。
「随分たくさんの方とお話されているようでしたので、気後れしてしまいました。――お許しくださいます?」
ふふ、と意味深に笑う侯爵。
「気後れだなんて、心にもないことを仰る」
そう言って、侯爵は俺を見た。
俺は顔を上げざるを得なかったが、心の底から、俺を巻き込まないでくれと考えていた。
俺と目を合わせて、侯爵はにっこり。
「薔薇が咲くまではまだ間がありますし、それまでにも、何かお会い出来る機会を設けますわね」
他の何でもない保身の心が、俺に即答を吐き出させた。
「はい、楽しみです」
トゥイーディアが、ちょっとだけ眉を寄せた。
俺は、ここでもしもトゥイーディアから、俺と彼女が庭園でこっそり会っていることを暴露されたらどうしようと考えたが、トゥイーディアはそんなことはしなかった。
――彼女は潔癖で、妙に頑固で、堅苦しいまでに平等に振る舞う人だった。
「……薔薇の観賞ですか。お天気に恵まれるといいですね」
トゥイーディアが、妙にゆっくりとした語調でそう言って、侯爵が応じて微笑んだ。
「ええ、大丈夫ですよ。王宮の天候くらいならばお任せください」
え? 魔法で天気まで変えるの? ――と、俺は目を剥いたが、トゥイーディアはいっそ無表情だった。
「然様でございますか。昨年は日照りの地域からの陳情をお断りになっていらっしゃいましたが、では、あのときから更に魔法の腕も磨かれたのですね」
薄紫の双眸を見開く侯爵。
俺はそろそろお腹が痛い。
この場の空気が突き刺さってくる。
「陳情? 何のことです」
「ローヴァーの地方のことですが。川の上流の天候について、あのとき申し上げたはずです」
「ああ、ローヴァー。今年は豊作でございましたね」
「昨年は酷いものでしたが。小作の中には家を失った者もいるとか」
トゥイーディアは幾分か無表情になっていたが、キルディアス侯爵は笑顔のままだった。
「ああ、そういえばそうでしたね。――ですが、ケッシュの者が努めた結果、それほど市場の流通量は変わりませんでしたわ」
トゥイーディアが何か言おうとしたが、キルディアス侯爵は困ったような微笑を作って、不意に親しげに俺の腕に手を掛けた。
俺は悲鳴を上げそうになったのを堪えた。
「――それはともかく、パルドーラ閣下。
わたくしの大切なお客さまに、どうぞ意地悪はなさらないでくださいましね」
トゥイーディアの顔から、最後に残っていた表情の一片までが消え失せた。
どうやらトゥイーディアはキルディアス侯爵に対する地雷を踏んで、それに対して侯爵が反撃に出たようだった。
「この方が、急にわたくしを嫌うようになっては悲しいですもの」
トゥイーディアは息を吸い込んで、精巧な硝子細工みたいな笑顔を浮かべた。
「……お心変わりは、わたくしの存じ上げるところではございませんね」
「そうでしょうね」
侯爵は言って、瞬きした。
薄紫の瞳が意味深に煌めいた。
「そうでしょうね、伯爵」
水音がさざめき、舟が通る。
舟の上では若い男女が談笑していた。
――俺はもうなんだか吐きそうだった。
「よく頑張りました」
と、宮殿に戻る馬車もどきの上で、レイモンドは盛大に俺を褒めてくれた。
俺はぐったりして、真鍮の手摺にべったりと掴まっているような有様で、チャールズが掌でぱたぱたとそんな俺を扇いでくれていた。
「よく頑張りました。キルディアス侯爵と、ライラティア将軍と、シャルス子爵の賢嬢のお付きの方から、今度あなたを招待したいというお言葉を頂きました。よく頑張りました」
俺は頷き、幾分か気を取り直して座席の上に座り直した。
「上の方々からもお褒めの言葉を頂きましたよ。庭園の話題で上手く侯爵から誘いを受けたと。ルドベキア、やれば出来るじゃないですか」
口を開くと吐きそうだったので、俺はとにかくこくこくと頷く。
――あのあと、トゥイーディアはさっさとどこかに行ってしまったが、キルディアス侯爵は相当ご機嫌斜めの様子だった。
にこにこしてはいたが、俺は居た堪れなかった。
将軍に至ってはさっさと逃げていた。
俺は、侯爵とトゥイーディアが言葉で殴り合っていた余波が抜けなくて、そこからずっと吐き気と戦っていた。
頷きまくる俺に、手を下ろしたチャールズが渋面を作る。
「けど、大使さま。パルドーラ女伯には近付くなって言ってあっただろうに。思いっ切り話し掛けられちゃって、侯爵閣下はさぞかしお怒りだっただろ」
俺は頷いた。
レイモンドは、「とはいえ、お誘いがあったんですから今日は大成功ですよ」と。
俺はすうっと息を吸い込んで、ようやく口を開いた。
「……ローヴァーってなに?」
レイモンドとチャールズは、訝しそうに顔を見合わせた。
首を傾げたレイモンドが俺に視線を戻し、不思議そうに答えてくれる。
「――ここよりも東にある穀倉地帯ですよ。それがどうかしました?」
俺は両手で顔を拭って、ちょっとだけ呻いた。
「ローヴァーがどうのって、トゥ――パルドーラ伯爵とキルディアス侯爵が、にこにこしながら喧嘩してて、すっげぇ怖かった」
「あー」
チャールズが呟いて、がしがしと頭を掻いた。
「あれだ、去年の。レイモンド、覚えてるか?」
レイモンドは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに「ああ」と手を打った。
そして口許に手を宛がって、
「噂だと思ってたけど、本当なのか……」
と。
俺がきょとんとしているのを見て、レイモンドは苦笑した。
「ああ、これはね、私たちも噂程度でしか知らなくて、確かな情報ではないんですが」
そう前置きした上で、レイモンドは肩を竦めた。
「昨年は、ローヴァーが日照り……ええっと、極端に雨が降らないことですが、そのせいで作物が採れなくなったそうで。
起死回生の一手として、キルディアス侯爵に雨乞いをしたそうですが、けんもほろろに断られたと」
「なんで?」
首を傾げる俺に、レイモンドは苦笑した。
「キルディアス侯のご領地にも、穀倉地帯があるんですよ。
ルドベキア、想像してください。例えば、私とチャーリーが小麦を売っていたとき、高いものと安いもの、あなたならどちらを買います?」
俺は瞬きして、
「高いと安いって、なに?」
チャールズが絶句。
同じ馬車もどきに乗っている、残り二人も愕然として絶句。
レイモンドは素早く、
「今度勉強しましょうね。――言い換えます。
あなたが私の手伝いを五時間しないと、小麦は渡さないと私が言ったとします。
一方、同じような小麦を売っているチャーリーは、三時間でいいと言っています。
どちらを選びます?」
俺はチャールズを指差した。
チャールズはお道化て手を振ってくれた。
レイモンドはにこっと笑って、「そうですよね」と。
「ところが、小麦を売っているのが私だけになったとしたら、どうです。
そこで私が、七時間働いてくれと言ったとしたら? あなたはどうしても小麦が必要だとしたら?」
俺は瞬きして、首を傾げた。
「レイ、そんなこと言わないよ」
チャールズが爆笑し、レイモンドの脇腹をつついた。
レイモンドはびっくりしたように目を丸くしたあと、照れたように微笑んで頬を掻いてから、「ありがとうございます」と。
「ただ、今は例え話ですからね」
む、と口を閉じて考えてから、俺は答えた。
「レイの、言う通りにする」
「その通りです」
レイモンドはぴんと指を立てて、「うるさいぞ」と、未だ笑い続けるチャールズに向かって言ってから、俺に視線を戻した。
「高いと安いっていうのは、購うのにどれだけのお金が掛かるかということなんですけどね。
――ローヴァーの小麦が出回らないとなると、この国の小麦市場を支える穀倉地帯のひとつが潰れるわけですからね。侯爵はご自身の領地にある穀倉地帯――ケッシュといいますが――を、それはそれは大事にしていますからね。昨年はケッシュの小麦が大変高く売れたとか。
――キルディアス侯が天候を操れるというのは、眉唾だと思っていましたが、本当だったんですね」
俺はちょっとびっくりした。
「自分のところの小麦を……ええっと、高く、売りたかったってこと?」
「あのね、ルドベキア」
と、レイモンドはますます苦笑した。
「キルディアス侯はね、ケッシュを含む、ご自身の領地から集めた税金で生活なさっています。そのために、ご領地に対して責任をお持ちです。ケッシュの小麦が高く売れるということは、ケッシュに暮らす人たちが豊かになるということです。
これは、領主としては真っ当なご判断だったと思いますよ」
――なるほど。
俺は瞬きして、そのことを呑み込んだ。
例えば俺は、名前も知らない使節団の誰かとレイモンドだったらレイモンドの方が大事で、キルディアス侯爵も同じだったというわけだ。
侯爵は自分が大事にしているところが、より幸せになるように采配したという、そういう話だ。
俺がなんとなく事態を理解したことを見て取ってから、レイモンドは付け加えた。
「ただ、パルドーラ伯爵とは大いに揉めたらしいですね」
俺は首を傾げた。
「トゥ――パルドーラ伯爵は、ええっと、ローヴァーを持ってるの?」
「違います」
レイモンドは首を振った。
「ただし、ローヴァーから運ばれる小麦が通る街道をご領地にお持ちです。ここで通行税を取るわけですから、ローヴァーから小麦が運び出されないとなると、大損失です。
通行税は、道の整備なんかにも使われるものですから、税金が少ないと悪路の整備も出来ませんしね。
なので、キルディアス侯爵に雨を降らせるよう直談判して、そこでまたお二人の関係は悪化したと、そういう噂です」
俺は瞬きした。
そんな俺をまじまじと見て、チャールズが指を鳴らした。
「――ローヴァーの話、伯爵が持ち出しただろ」
俺はチャールズに目を遣って、頷いた。
チャールズは唇を歪めて笑った。
「やっぱりな。女伯、侯爵が大使さまと仲良くやってるもんで焦って、大使さまに侯爵の悪い話を聞かせるつもりだったんだ。
――大使さまが世間知らず過ぎて大失敗したわけだけどな」
馬車もどきの上で笑い声が上がったが、俺はどうしても笑えなかった。
むしろ、腹が立ってきた。
俺が使節団の人に腹を立てたのは、恐らくこれが初めてだった。
――ローヴァー云々のときのキルディアス侯爵の判断が正しかったというなら、別にトゥイーディアだって自分のために行動したっていいじゃないか。
俺にはよく分からないけれど、ハルティの大使と仲良くなることは、それなりにみんなが執心することらしい。
じゃあ別に、トゥイーディアがキルディアス侯爵の邪魔をしたっていいじゃないか。
唐突にむすっと黙り込んだ俺を見て、レイモンドは、「疲れちゃいましたかね?」と首を傾げた。
俺は黙って首を振って、無蓋の馬車もどきの座席から、すっかり更けた夜空を見上げていた。
◆◆◆
翌朝、りんりんと鳴る音で俺は目を覚ました。
俺は呻きながら手を伸ばして、時計から世双珠を取り出して音を止める。
昨夜の疲れはまだしっかり残っていて、俺の瞼を引き下げようと重石を付けているかのようだったが、俺は目を擦って、掛布を撥ね退けて、欠伸を噛み殺しながら起き上がった。
――夜明け前である。
トゥイーディアも俺同様に疲れているだろうから、ぐっすり眠っている可能性もある。
とはいえ、行ってみなければ分からない。
噛み殺し損ねた欠伸を漏らしつつ、俺は寝間着を脱ぎ捨てて着替えを手に取った。
その着替えを頭から被り、靴を履いて、俺はそうっと部屋の中を歩いて慎重に扉を開け、廊下の左右を窺った。
――よし、使節団の人はいない。
使用人さんたちは、いつものように忙しく立ち働いていて俺のことなんて気にしない。
いける。
早朝の外出も、慣れてくれば伴うのは動悸くらいのものである。
心臓が止まるような思いは、俺はもうそうそうしていない。
――深呼吸して、俺は俯きがちの早足で宮殿を抜けた。
庭園まで入ってしまえば、人と会う可能性は殆どないことに、俺はそろそろ気付いている。
いつも最高潮に緊張するのは、宮殿の立派な出入口をくぐるときではあったが、今日も今日とて、俺はそこを無事に突破した。
空は低く垂れ込めた曇天で、今にも雨の滴を零しそうだった。
俺はどことなく湿った空気を吸い込んで、まだ薄暗い中を、あの庭園を目指して足早に進み始めた。
――正直、ここ数日ずっと空振りしていたせいで、今日もトゥイーディアはいないんじゃないかと思っていた。
あの庭園にトゥイーディアがいる光景を、どうにも想像しにくくなっているというか。
もうすっかり、道には迷わなくなった。
あの庭園に続く階段を昇りながら、俺は訳もなく鳩尾の前でぎゅっと手を握り合わせて、それから大きく息を吸って、石段の最後の数段を駆け上がった。
そして、思わず声を上げた。
「――トゥイーディ!!」
東屋の長椅子で、ぼんやりと本の頁を捲っていたトゥイーディアが、ぎょっとした様子で顔を上げた。
そして俺を見て、あからさまに顔を顰めた。
――そんな顔をされるとは思っていなくて、俺はその場から動けなくなってしまった。
数秒ののち、俺の様子に気付いたらしく、トゥイーディアが慌てた様子で膝の上の本をぱたんと閉じた。
そして立ち上がって、「失礼しました」と。
今日のトゥイーディアは、象牙色の簡素なドレスを着ていた。
同色のストールを羽織っていて、なんか今にも曇天に溶けていきそうに見える。
髪は解いて流しているように見えたが、よく見ると、緩い編み込みが施されているのが分かった。
ドレスの滑らかな生地を揺らして、トゥイーディアが東屋から進み出て来る。
「ルドベキア、偶然ですね――どうぞ」
そう言いながらも、トゥイーディアの表情がうんざりしたものになっていたので、俺はぎゅうっと心臓を誰かに握られているような気持ちになった。
とはいえ、せっかくトゥイーディアがいるのに、このまま踵を返すというのもなんだか嫌で、結局はおずおずと庭園の中に踏み込む。
俺が歩き出したのを見て取って、トゥイーディアはくるっと踵を返し、再び東屋に引っ込んで、長椅子に腰掛けて本を開いた。
その雰囲気がどことなく冷たくて、俺は居た堪れなくなりながらも、ゆっくりと庭園を奥まで進んで、東屋に続く苔生した石段に足を掛けた。
それから、一向にこっちを見てくれないトゥイーディアに、恐る恐る話し掛けた。
「……おはよう、トゥイーディ」
トゥイーディアは目を上げなかった。
むしろ、眉間に薄らと皺が寄った。
応じてはくれたが、声音は素っ気なかった。
「おはようございます」
俺は悲しくなってきた。
せっかくここでトゥイーディアに会えたのに、これではただのトゥイーディアではなくてパルドーラ伯爵だ。
来たら駄目だった? と訊こうとしたが、訊いた結果に「駄目でした」と言われたら、なんだか立ち直れなくなりそうなので、俺は別の言葉をそっと続けた。
「……この頃、朝にはいなかったな」
トゥイーディアの眉間の皺がますます深くなった。
「はい。私にも予定があります」
そっか、と口の中で呟いて、俺は東屋の入口で座り込んだ。
なんか、いつまでも立っていたら、そのまま帰れと言われそうだと思ったのだ。
石で敷かれた床はひんやりと冷たくて、まるで浅い水溜まりの中に腰を下ろしたような錯覚を俺に与えた。
数秒が無言のうちに流れ、そののち、「えっ」と小さく声を上げて、トゥイーディアが本から顔を上げた。
飴色の目が丸くなっていた。
「――来てたんですか、朝?」
俺は頷いた。
トゥイーディアはますます大きく目を見開いて、それからはっとしたように小さく叫んだ。
「っ、すみません、そんなところに座らせてしまって」
トゥイーディアが立ち上がって、俺に長椅子を譲ろうとするので、俺は東屋の地べたに直に座り込んだ格好のまま、慌てて両手と首を振った。
「いい、いい、ここで」
出て行けと言われないならどこに座っているのでも良かったので、俺は本心からそう言って、「でも、」と迷うように腰を浮かせるトゥイーディアに、「ほんとにいいから」と念を押した。
それでようやく、トゥイーディアが腰を下ろした。
とはいえ彼女の表情は優れないままで、俺はだんだん、自分の言動のどの部分がトゥイーディアの機嫌を損ねたのかと不安になってきた。
トゥイーディアは俺をじっと見たあと、何かを振り切るように息を吐いて、再び膝の上の本に目を落とした。
俺はそんなトゥイーディアをじっと見詰めて息を吸い込み、少しばかりの勇気を出して尋ねた。
「……来たら駄目だった? ――今日も」
トゥイーディアは顔を上げ、瞬きし、それから溜息を吐いた。
眉間の皺が取れて、トゥイーディアはちょっとだけ疲れた様子で、目と目の間をぎゅっと押さえた。
「――いいえ、構いません。
ですが、すみません、今日はお戻りになった方がいいかも知れません」
俺の心臓が一瞬止まった。
息も止めて、俺は目を見開いてトゥイーディアを見たあと、辛うじて尋ねた。
「……なんで?」
「申し訳ありませんが、」
トゥイーディアは俺を見て、本当に申し訳なさそうに眦を下げた。
俺の胸がぎゅうっと痛んだ。
「今日は……魔法のことには触れたくない気分で」
目を擦って――俺と同じで、トゥイーディアも眠いのかも知れない――、トゥイーディアは呟いた。
「どうしてもと仰るなら、多少は構いませんが、――あまり、お役に立てそうにはありません」
「…………」
俺はほうっと息を漏らした。
安堵が、胸を温めるようにして拡がった。
――良かった。
邪魔だから、とか言われなかった。
なんとなく嬉しくなって、俺は石段の方に足を投げ出して、庭園を望む格好で東屋の端っこに腰掛けた。
そして、深く考えもせずに背後のトゥイーディアに声を掛けた。
「――邪魔した?」
トゥイーディアの返答までに一拍の間があった。
「いいえ。なぜです?」
「一人になりたいのかと思って――」
そもそも、トゥイーディアがここに来るのはそういう動機だと言っていたし。
そう思って口に出した俺は、はっとして振り返り、念を押した。
「どっか行った方がいいなら、どっか行くよ」
トゥイーディアはぱちりと瞬きして、まじまじと俺を見た。
目が合っているうちに、俺はたじろいでしまった。
訳もなくどきどきしたので、俺は視線を外して、長椅子の下の方を見た。
そうすると、長椅子の周りに、疎らに雑草が顔を出しているのに気づく。
「……いいえ」
トゥイーディアが呟くように答えてくれたので、俺はほうっと息を吐いた。
それから、また庭園の方を向いた。
庭園は新芽に煙っている。
今日はそこに曇天が重なって、なんだかぼうっと霞んで見えた。
トゥイーディアが本の頁を捲る、かさかさと乾いた音。
小川のせせらぎ。
風が吹けば、枝葉が擦れて草花が靡く音。
風の音が、どこかで建物に捕まって甲高く鳴る。
そのまま数分が流れたのち、ぱたん、と軽い音がした。
トゥイーディアが本を閉じたようだった。
それから、彼女の遠慮がちな声が聞こえた。
「――ルドベキア、実を言うと」
俺は身体ごと振り返った。
トゥイーディアは、どことなくばつが悪そうに俺を見ていた。
俺は首を傾げた。
「なに?」
「今日は朝食がありません」
俺は目をぱちぱちさせて、それから長椅子脇の円卓の上を見て、確かに今日はそこに籐細工の籠がないことを確認した。
俺は頷いた。
「うん。――トゥイーディ、朝はどこで食べるの?」
トゥイーディアは目を泳がせた。
曇天のせいではなしに、その頬の色がいつにも増して白いように見えて、俺は訳もなく不安になった。
「家、ですね……。今日は午前中に予定がないもので、ゆっくり出来ると思いましたし、――きみがいらっしゃるとも思わず」
なんとなく、俺はほっとした。
トゥイーディアといると、訳もなく、なんとなく感情が動くことが多くて困るな、と、俺はちょっとだけ思った。
「ゆっくり出来るの? 良かったな」
「はい、あの、」
トゥイーディアは俺に視線を戻して、窺うように首を傾げた。
「大丈夫です? そちらの朝食、断ってしまったりしていません?」
瞬きして俺を見詰める飴色の目から、俺はまたちょっと視線をずらした。
「――うん、大丈夫。ほんと言うと、ここで朝ごはんを食べると、レイ――あ、えっと、一緒にごはんを食べる人が、俺に、食欲ないんじゃないかって心配するから、――良かった」
まあ、と、トゥイーディアが目を瞠った。
片手を軽く口許に宛がう。
昨夜はレースの手袋に覆われていた手は、今は指先までが露わになっていた。
指環のひとつもなくて、ほっそりとしていて、繊細だった。
「そうだったんですか。――あの、もしかして、朝食の持参はご迷惑でした?」
俺はぶんぶんと首を振った。
「違う、あの、そういう意味じゃなくて、――ここで食べるの、俺、好きだよ」
ふ、と、トゥイーディアの顔が和らいだ。
――俺はゆっくりと息を吸い込んだ。
これ、これだ。
この顔。
朝のいちばん眩しいところ。
その片鱗。
ほんのりと緩んだ顔のまま、トゥイーディアは片手を持ち上げて、蜂蜜色の髪を耳に掛けた。
そして、ちょっとだけ照れたように目を伏せて、小さく呟いた。
「……それは、良かった。では、これからもお持ちします。
偶然お会いできることがあれば、ご一緒しましょう」
「ありがとう」
すっとその言葉が出てきたので、俺は自分に大いに満足した。
トゥイーディアはちら、と目を上げて俺を見てから、膝の上でまた本を開いた。
その本に視線を落としながら、トゥイーディアは小声で。
「……いらっしゃるとは思いませんでした」
俺は狼狽えた。
「だ――駄目じゃない、って、言った……」
「ええ、私は」
そう言って、トゥイーディアはちょっと考えるように間を取ってから、呟いた。
「ただ――そうですね……。きみとは偶然ここで会っただけなので、関係がないと言えばないんですが、昨夜は恐らく嫌な思いを……」
はあ、と小さく息を吐いて、トゥイーディアは言葉を切った。
俺はしばしきょとんとしてそれを見たあと、はたと思い付いて、トゥイーディアほど自然な感じではないものの、空とぼけた口調を作って言い出した。
「――そういえば、昨日、なんか、おっかない人の喧嘩に巻き込まれて」
「おっかない」
トゥイーディアは顔を上げ、真顔で俺を見た。
俺は、うっと言葉に詰まったものの、結局はそのまま言葉を続けた。
「いや、なんか難しいことで喧嘩してて」
「それはですね、きっと、」
と、トゥイーディア。
物憂げに本を持ち上げて、文字を溜息で溶かしそうなほどに深い息を吐いている。
「身分の低い方の人が悪かったんですよ」
俺はちょっと考えた。
侯爵と伯爵では、確か伯爵の方が身分が低かったはずだ。
「そうなの?」
ちょっと身構えつつも尋ね返せば、トゥイーディアはそれには答えず、ちらっと顔を上げて俺を窺った。
そして、こてん、と首を傾げた。
「……パルドーラ伯爵って、ご存知です?」
おまえだよな、と思いつつも、俺は真面目腐って頷いた。
「うん」
トゥイーディアは本の方に目を落とした。
「噂はお聞きされました? ――頭が悪いとか」
「うん――えっ?」
「心が狭いとか」
「えっ?」
「誰彼構わず噛み付くとか」
「えっ?」
予想外の言葉を立て続けに聞かされて、俺は悉く聞き返してしまった。
トゥイーディアは顔を伏せたまま、ふふっと肩を揺らして笑ったものの、何かを誤魔化すような笑い声だった。
「――これはね、私の勝手な想像ですし、偶然ここで会っただけのルドベキアは、多分伯爵にお会いされることなんてないとは思うから言うんですけど」
俺はきょとんとしてしまったが、辛うじて言葉を返した。
「……うん。偶然ここで会っただけだから、おまえが誰だか、俺は知らない」
ふふ、とまた小さく笑って、トゥイーディアは本に視線を落としたままで呟いた。
「多分ねぇ、パルドーラ伯爵は、まさか自分に爵位が降って来るなんて思っていなかったから、今もまだびっくりしてしまっているんですよ。
しかも、いざ爵位を継いでみると、女性だという理由であれこれ言われて、過敏になってしまっているんですよ。ちょっとでも馬鹿にされたと思ったら、過剰に言い返しにいくわけです。
――別に馬鹿にされるだけなら、構わないと思っているんでしょうね。
実を言うとパルドーラ伯爵は、本もたくさん出していて、お金持ちです。多少馬鹿にされる程度、嫉妬の為せることだと理解できます。
ですが、――」
すう、と息を吸い込んで、トゥイーディアは小さな声で続けた。
「――憐れまれるのは耐え難いんでしょうね。可哀想なものを見るような目で見られたくないんです。
それに、過敏になって言い返してしまった自分の言葉を反芻して、多分今頃、すっごく落ち込んでいますよ」
落ち込んでたせいで機嫌が悪く見えていただけか。
――そう合点して、俺は大いに安堵した。
それと同時に、あの将軍にめちゃくちゃ腹が立ってきた。
あの人があんな目でトゥイーディアを見たから、だからトゥイーディアが嫌な思いをしたんじゃないか、と。
トゥイーディアはちらっと顔を上げて俺を見たあと、またすぐに顔を伏せてしまった。
「それにきっと伯爵は、親類縁者の中でも居場所がないので、落ち込むと一人になりたがるんでしょうね。
――そこに、例えば、」
トゥイーディアの声が更に一段階小さくなったので、俺は全神経を耳に集中させることになった。
「――自分の政敵の賓客であるにも関わらず、魔法を教える約束をしている人がいるとするじゃないですか。その人が、例えばですけど、王都で迷子になっちゃうくらいに世間ずれしていなさそうで、嘘を吐いている様子がなかったとするじゃないですか。
そうなると、魔法を教える約束というのは、その人にとっての弱味でもあるわけで――」
俺か。
「――その人は多分、自分の招待主にも、こっそり会っている伯爵のことを言い出せません。
そんな人が近くにいたら、ここぞとばかりに愚痴を言っていることでしょうね」
トゥイーディアは自嘲気味にそう呟いて、本の頁を捲った。
――俺は小さく息を吸い込んで、庭園の方へ向き直った。
どうしようもなく唇が緩んできたので、それを誤魔化すためだった。
なんだ。
それなら、トゥイーディアは案外俺に気を許してるんじゃないか。
パルドーラ伯爵としてじゃなくて、ただのトゥイーディアとして、気安く振る舞ってくれていたのは演技ではなかったわけだ。
――そう思うと、なぜだか知らないが顔が緩んだので、俺は唇を噛んでみたり、わざと眉間に皺を寄せてみたり、頬っぺたの内側を噛んでみたりして、なんとかして表情を元に戻そうとした。
俺がそうやって奮闘している間に、トゥイーディアは慌てたように言い添えていた。
「いえ、もちろん、魔法を教えようとしているなら、伯爵は本気だと思いますよ」
どうにかこうにか表情を繕って、俺は振り返った。
そして、とぼけた声を作って指摘した。
「魔法――教える約束なら、俺たちと一緒」
トゥイーディアははっとしたように顔を上げ、それから苦笑した。
「……そうですね」
俺は小さく息を吸った。
「それに、伯爵――ええっと、女の人っていうなら、有名な侯爵と一緒じゃないのか?」
「全然違いますよ」
と、トゥイーディアは微笑した。
悲しそうに見えたので、俺は焦った。
「あの方は嫡出であらせられる……」
嫡出ってなに、と、今日のうちにレイモンドに訊こう――と、俺は決意した。
――そのとき、たつ、と、地面を雨粒が叩いた。
「……ああ」
トゥイーディアが本を閉じて立ち上がり、俺が座り込んでいる場所の、すぐ隣まで進み出て来て、本を抱えたまましゃがみ込んだ。
「降ってきてしまいましたね」
俺は空を見上げた。
灰色の雲は低く垂れ込めて、雲が千切れて雨になっているみたいだった。
たつ、たつ、と、大粒の雨が地面を叩いて、すぐに、ざああ、と降る雨になった。
あっと言う間に、石段の上に投げ出していた俺の脚は濡れてしまって、苦笑したトゥイーディアに腕を引かれて立ち上がった俺は、彼女と一緒に長椅子の傍くらいまで下がった。
ぱらぱら、と、頭上で葉っぱを雨粒が叩く音がしている。
雨に打たれた葉が震えて、葉の上を伝った雨粒がぽつりぽつりと落ちてくる。
あるいは蔓と格子屋根の間を擦り抜けた雨が、さらさらと忍び込んでくる。
庭園は雨に染められて、灰色じみた暗さに一段色を落としながらも、濡れた草葉を艶やかに光らせた。
風が湿った匂いを含んで、土の香りが濃くなったように思えた。
俺はトゥイーディアを見て、その蜂蜜色の髪に小さな雨粒が光っているのを確認して、おずおずと尋ねた。
「……濡れちゃうけど、大丈夫なの?」
「ええ、もちろんです」
トゥイーディアは可笑しそうに微笑んでそう答えて、俺の目を覗き込んだ。
そして、悪戯っぽく睫毛を伏せた。
「――実をいうと、私、魔法使いなんです」
知ってる、と口の中で呟いて、俺は無理やりトゥイーディアから視線を引き剥がした。
――雨が霞になって、庭園の外の風景はもはや見えなかった。
俺は、まるでこの庭園が雲の中に浮かんでるみたいだ、なんてことを考える。
トゥイーディアは俺と並んで雨を見上げていて、何を考えているのかは分からなかったが、別にもう不機嫌そうではなかったし、悲しそうでもなかった。
それが一時的なことであれ、俺はほっとした。
――不幸な偶然で降ってきた爵位を名乗る人。
周り中から軽んじられている人。
それでも、相手を殴り返せるくらいに強い人。
手じゃなくて言葉で相手を殴ることが出来るくらいに、頭のいい人。
頭がいいのに不器用で、相手の言うことを抱え込んでしまう人。
あるいは自分が言ったことでさえ、思い返しては落ち込むほどに抱え込んでしまう人。
憐憫を寄せられるのを、耐え難いというほどに誇り高い人。
――ぽつぽつと落ちてくる雨がトゥイーディアに降り掛かるのを見て、俺は何となく手を伸ばして、掌でその雫を受け止めた。
それに気付いたトゥイーディアが、目を丸くして笑い出したので、俺も嬉しくなって微笑んだ。
――繊細な仕草をする人。
本の頁を捲る指先でさえ、瞬きでさえ。
親切な人、優しい人。
用心深くて、茶目っ気のある人。
花みたいに笑う人。
朝のいちばん眩しいところを集めたみたいに、透明で、明るい人。
――彼女が笑っている方が嬉しいと、このとき俺ははっきりとそう思った。




