20◆――晩餐会
使用人さんが進み出て来ては食事を配膳してくれて、晩餐会は粛々と進んだ。
俺はやっぱり、自分が何を食べているのかすら分からなかった。
キルディアス侯爵の隣の席の恩恵としては、俺に向かって誰かが声を掛けると、たまに侯爵が代わって返事をしてくれるというところにあった。
特に、俺に対するお誘いの文句に関しては、侯爵が殆ど打ち返してくれた。
俺は、果たしてそれがお役目にどう影響するのかを考えるのはいったん止めて、とにかく安堵することに集中した。
侯爵が俺に構い倒してくれたお陰で、俺は主に侯爵の方を向いて喋っていればいいという利点を得たが、同時に作法が全て侯爵の目に晒されるという、大き過ぎる欠点もあった。
侯爵は音も立てずに典雅に食事を進め、俺が音を立てたり作法を間違えたりする度に、機械のような微笑を浮かべて俺の手許をちらっと見た。
目が全然笑っていなくて、俺はその度に砂を噛むような感じがしていた。
――まあ、今から思えば、この人が鈍くさい人間を許容できるような心の広さを持っているわけもないし、相当に気難しい心根は、多分このときから変わっていないんだろうけど。
何を食べているのかも分からなかった俺は、恐らく口に入れたのが紙であろうが皿の欠片であろうが気付かずに飲み下していただろう。
そんな状態で食欲が振るうわけもなかったが、手を止めたら駄目だという雰囲気に押し流されて、ただひたすらに食べ物を口に入れ続けた。
そうしているうちにも、勿論のこと時計は平等に針を進めて、一番豪勢な皿の上のものが大方片付いた頃合いになって、立派な服装の使用人さんが、「お支度が整っております」と声を出した。
途端に席を立ち出す貴族たち。
俺は、このあとに立食形式の地獄が待ち受けていることを思い出して、更なる絶望に深く沈みそうになったが、立ち上がろうとしたレイモンドが泡を喰った様子で俺に合図をしてきたのには気付いた。
俺ははっとしてレイモンドに目を遣り、レイモンドが何やら訴えるような目をしながら、隣にいるチャールズの手を取って立たせ(チャールズも、なんか祈るような顔をしていた)、周囲を見るように手振りで小さく示してきたので、慌てて周りを見遣った。
貴族たちが立っている。
手前の席の貴族から、概ね順番に席を立っているようだ。
俺が混乱しているうちに、傍の貴族たちも立ち上がり始めている。
えっ、なに、レイモンドはなにを言いたいの。
上の人たちからの視線は感じるが、声はない。
何か言ってくれてもいいのに、と、俺は掠めるように考えた。
咄嗟に右の方を見た俺は、そのときちょうどトゥイーディアが立ち上がるのを視界の隅で目撃した。
隣に座っていたお爺さん貴族に手を取られて、柔らかい微笑を浮かべて何かを言いながら、優雅な仕草で立ち上がるトゥイーディア。
――何となく、本当に何となく、理由もなしに、俺の胸中がもやっとした。
それは、トゥイーディアが俺に一瞥もくれずに去って行くことに起因する感情だったし、俺を一瞥もしないトゥイーディアが、他の人間に気安く手を預けていることに対する感情でもあった。
なんでトゥイーディアが俺を見ないことで、自分がこんな気分になるのか、俺は一瞬未満の間不思議に思って、――はっとした。
これだ。
慌てて周りを見る。
――間違いない。
この場にいる女性は、悉くが男性に手を引っ張られて席を立っている。
俺の左にいるのは上の人たちで、男性。
対して右隣は――
俺は息を吸い込んで、今しもつんと澄まして立ち上がろうとしたキルディアス侯爵に、無言で手を差し出した。
本来ならば、「どうぞ」などの一言があって然るべきだったが、俺にそんなことが出来たわけもない。
キルディアス侯爵の右隣の、てかてか光る髭の公爵が、小さく舌打ちして席を立った。
俺は大いにびびったが、どうやら俺の行動は正解だったらしいと、微笑んだキルディアス侯爵の顔を見て悟った。
侯爵は、今までの、機械のような微笑とは違う――どことなく満足そうな、閃くような微笑を口許と頬と瞳に昇らせて、淑やかな仕草で俺の掌の上に自分の手を置いた。
俺は緊張で吐きそうになったが、何とかかんとか、彼女の手を取ったまま立ち上がることに成功した。
――で、どうすんの?
立ち上がったはいいものの、俺は冷や汗。
自分の掌の上に置かれた侯爵の手は、何というか、高級な宝石みたいだった。
冷たくて、絶対に落としてはいけない何か。
緊張のために息が上がりそうになるのを堪えつつ、俺はこっそりと周りを窺って、女性の手を取った男性たちが、そのまま階段の方へ歩いて行くのを見て取った。
――え? いつになったら手を離していいの?
切実にそう思いつつ、俺はどうにかこうにかキルディアス侯爵と一緒に階段の方へ。
緊張でがちがちになっていた俺は、自分が階段から転がり落ちるかも知れないと真面目に懸念していたが、キルディアス侯爵がちゃんと手を握ってくれていたので、そこまでの醜態は晒さずに済んだ。
とはいえ、感謝より恐怖が募るというもので、キルディアス侯爵は、俺の転落よりも侯爵自身が恥を掻くことを防いだようだった。
俺にとっては世界でいちばん長かった階段を下り切ったところで、侯爵はするりと俺の手を離した。
心の底から安堵する俺に、侯爵が典雅な仕草で頭を下げる。
灯火が映って、薄青い髪が煌めいた。
それを見て、俺も慌てて頭を下げる。
侯爵はふっと微笑んで、何事かを俺に告げた。
俺は階段を下り切った達成感の余りにそれを全然聞いていなくて、とにかく愛想笑いで頷いた。
侯爵は満足そうに目を細め、くるりと踵を返して歩き去って行った。
薄青い髪が波打つように揺れて、ドレスに縫い付けられた宝石が煌めく。
――助かった……。
俺は思わず片手で顔を拭って、ふう、と息を漏らした。
直後、とんとん、と肩を叩かれて、俺は思わずがばっと振り返る。
そしてそこに、なんかもう泣きそうなレイモンドとチャールズを見て、俺までちょっと泣きそうになった。
「れ――レイ……っ」
「よく頑張りました、よく頑張りました。完璧でした」
と、レイモンド。
万が一にも周りの貴族に聞かれるわけにはいかないから小声だったが、それでも溢れんばかりの安堵は伝わってきた。
「ほんと良かったよ。ちゃんと出来たな」
「お酒も飲みませんでしたね」
声を潜めて褒めちぎってくれる二人。
俺はうんうんと頷いて、目を擦った。
「さっきも、よく気付いてくれました。
先に言っておけば良かったんですが、うっかりしていました」
「俺らも結構焦ったんだよ。マジでなんで俺が野郎に手ぇ取られて立たなきゃいけなかったかね」
「僕の近くに女性がいなかったんだから仕方ないだろ」
ひそひそと遣り取りをする二人を見上げて、俺は疲れ切った声で呟いた。
「……もう帰っていい……?」
二人は口を噤んで俺を見て、揃ってにっこり微笑んだ。
レイモンドが俺の肩に手を置いて、慈愛深い表情で首を振る。
そして、きっぱりと言った。
「――駄目です。さあ、立食ですよ。頑張って来てください。
私たちは来賓のおまけみたいなものなので、大っぴらにうろうろ出来ないんです」
「う――」
呻いた俺を励ますように、チャールズは明るく言った。
「甘いものいっぱいあるぜ。大使さま、甘いもん好きだろ」
「あ――味が分からない……」
俺の呻きに、レイモンドとチャールズはちょっと気の毒そうな顔をした。
とはいえここで、「じゃあ戻りましょうか」となるわけもなくて、二人は揃って、俺に会場の方を指差してみせた。
「頑張って来てください」
「明日美味いもん食おーぜ」
斯くして俺は立食の場へと放り出された。
◆◆◆
さっきは全然見ていなかったが、会場は不思議な構造をしていた。
まずもって、屋内なのに水が流れている。
これにまず、俺としてはびっくりである。
――俺は階段の下から、建物の入口に当たる大きな扉側へ回って、そこから会場をおっかなびっくり見渡してみる。
天井が遥か高い会場の奥、二階部分の真下辺りに、壁一面を埋めそうなくらいに大きな石像が鎮座している――あるいは、建物を造るときに彫り出されたものかも知れない。
石像は、頭巾を被った女の人と、その女の人の足許で羽を休める巨大な鳥を彫り抜いたものになっていて、石像の足許は水の中だった。
壁にくっつくようにして、半円状の噴水が作られていて(繰り返すが、ここは屋内である)、石像はその噴水の中に立っているのだった。
噴水から溢れた水は小さな滝を描いて下に落ちて、そのまま建物を縦に貫く形で流れる川になっている(ここは屋内のはずなんだけど)。
噴水や川の水面の上には、薄紅色の花びらが無数に浮かんでいて、水流にくるくると流れていく花びらの動きを目で追えば、川は建物の入口よりも手前の位置で、地下に潜り込む形で滔々と流れ落ちていっていた。
川は幅広で、縦横に橋が架けられて四分割されていた。
縦に走る橋は幅広で、横向きに走る橋は華奢な感じがした。
更には、ここは屋内のはずなんだけど、二人程度が乗り込めばいっぱいになってしまう、洒落た形の小舟が二艘、川の上を漂っている。
小舟は、船首と船尾が高く反り返った形になっていて、特に漕がずとも勝手にするすると水の上を移動しているようだった。
川から目を逸らして、左手――階段とは反対側――を見遣れば、そっちの壁際には螺旋階段が掘り抜かれていて、その螺旋階段が、頭上のバルコニーまで続いているようだった。
俺が見ている間に、若い男性と若い女性が、連れ立ってその階段を昇って行くのが窺えた。
チャールズが言っていた「甘いもの」は、会場のそこここに置かれた、白いテーブルの上に並んでいるお菓子の類のことだった。
橋の上にも、会場の両の壁際にも、あちこちに色んな形の白いテーブルが置かれて、その上の硝子製のケーキスタンドの上にケーキが置かれていたり、他にも色んな甘味がこれでもかと並べられていた。
貴族たちがその周りをうろうろしていて、お互いに何かを話し掛けたり笑い合ったりしている。
ぱっと見渡しても、ここに王さまがいるようには見えないんだけど、王さまは前半だけの参加だったのかな。
ともかくも、いつまでも入口付近でぐずぐずしていると、そのうちにレイモンドが発狂しそうだったので、俺は怖々と足を踏み出して、取り敢えず正面に見える、川に架けられた橋の上を歩き始めた。
さらさらと流れる川の水が、灯りを反射してきらきらと光っている。
俺が五歩も歩かないうちに、見たこともない女の人が唐突に俺の隣に現れて、何かをぺらぺらと喋り始めた。
「はじめまして」という言葉を聞き取って、俺が同じ言葉を返しているうちに、何かすごい自己紹介が始まった。
とはいえびっくりするほど滑らかに、高い声でするすると滑るように話されるので、俺の頭の中には彼女の名前すら残らなかった。
俺が困惑しているうちに、今度は若い男の人が近付いてきた。
男の人は探るように俺を見ながら、唐突に俺の肩を抱いてきて、手にした酒盃を片手にぺらぺらと何かを喋り始めた。
こっちはこっちで、驚くほど滑舌が悪かったので、俺は相手が言っていることの三分の一も聞き取れなかった。
俺はとにかく愛想笑いを浮かべて、手近にあったテーブルからトライフルを掬い取った。
とはいえ、俺がちゃんと食べられたのは、その上部の柔らかいクリームだけだった。
というのも、滑舌の悪い男性が、執拗に俺の意見を求め始めたからである。
俺は何の意見を求められているのか皆目分からず、「えっ?」と、「ああ、そうかも知れませんね」と、「ちょっと……」と、「島の慣習にはなくて」という四種類の返答でその場を切り抜ける羽目になった。
なんかだんだん、緊張し過ぎてきて頭の中の螺子が数本飛んで行ったような感じだった。
所謂、酔っぱらった状態になりつつあったわけだ。
するすると喋る女の人は、滑舌の悪い男性が撃退したような格好になって、そのうちに俺からつんとして離れて行った。
この人はお役目の上では良好な関係を持たないといけない人なんだろうか、と不安になった俺は、去ろうとするその女の人がちらっとこっちを振り返ったタイミングで、辛うじて頭を下げることに成功した。
それで女の人は機嫌を持ち直した様子で、艶然と微笑んで、白い手袋に覆われた手を俺に向かってひらひらと振ってくれた。
滑舌の悪い男の人は、女の人を撃退したとみるや、俺の肩を抱いたままずんずんと橋を奥まで進んで行った。
この辺で、俺はようやく彼の言っていることが分かり始めてきた。
「狩りでも一緒に如何ですか。私の領地に良い場所がありましてね」
と、どうやら彼は言っている。
が、俺にはどうにも自信がなかった。
滑舌が悪すぎて、「一緒に如何ですか」と言っているのか、「いたたたたた」と言っているのか全然分からない。
困惑しているままに、俺は橋の真ん中辺りまで引っ張り出されて、そこで今度は上背のある浅黒い肌の男の人に引き合わされた。
その男の人は、他の人とは着ている服が何となく違って、上着には金色の肩章が着けられていた。
俺がまともな常識を持っていたならば、彼をちゃんと軍人だと判断できたはずである。
軍人の彼は、不愉快そうに眉を寄せたかと思うと、俺の肩を抱いている男性の手を振り払ってくれて、「知人が大変な失礼を」と、低い声で言った。
この会場に来てからようやく、落ち着いた声で喋る人に出会えて、俺はちょっとだけ安堵した。
軍人の彼は無口で、「こういった場はどうも苦手で」と照れながら、俺にあれこれ甘いものを食べさせてくれた。
俺はやっぱり全然味が分からなかったが、勧められるものは有り難く頂戴した。
そして気付くと、俺は彼の家まで訪ねる招待を近いうちに貰うことになっていた。
びっくりである。
軍人の彼が満足そうな顔をしたところで、また滑舌の悪い男の人が何かを喋り始めた。
俺が怪訝そうな顔をしているのが分かったのか、軍人の彼が、「ゆっくり喋れ」と彼に申し渡してくれる。
滑舌の悪い男の人はぎゅうっと眉を寄せて、「なんだよ、将軍さまだっていっても」などと言い始めたが、不自然に言葉を途切れさせた。
そのまま、まるで害虫でも発見したかのように顔を顰めたので、俺は慌ててその視線の先を追った。
――そして、こっちに向かって歩いて来るトゥイーディアを目の当たりにして、思わず瞬きを繰り返した。
あれ? トゥイーディア、俺と話すのはあの庭園で、偶然会ったときだけじゃなかったっけ。
それにしてもこれ、甘いな。
やっと味が分かったわ――と、俺は手許のケーキを見下ろしてみたり。
そして直後、俺はトゥイーディアがただのトゥイーディアとしてではなくて、パルドーラ伯爵として俺に話し掛けようとしているのだと気付いた。
というのも、魔力を見ないようにして視界を切り替えてちゃんと見れば、トゥイーディアの笑顔に、あの独特な、きらきらするような柔らかさがなかったからだ。
彼女の意図に気付いて、俺は何となくがっかりした。
滑舌の悪い男の人が、俺の腕を引っ張って、「行きましょう」と囁いてきた。
が、将軍と呼ばれた軍人の彼がそれを留めて窘める。
そうしているうちに、トゥイーディアは俺の目の前にまで足を進めていた。
トゥイーディアの翡翠色のドレスは、胸元に豪勢な刺繍をあしらってあって、腰の部分は金属の帯でかっちりと締められていた。
そこからドレスは豊かに広がって、襞を幾重にも描きながら足許に裾を広げ、トゥイーディアが歩けば引き摺るほどに長く続いていた。
トゥイーディアは俺の目の前で足を止めて、すっとその場で頭を下げた。
蜂蜜色の髪が艶やかに灯火を弾いた。
俺も慌てて頭を下げたが、なんか妙なくすぐったさがあった。
トゥイーディアはすぐに頭を上げ、俺と目を合わせてにっこりと微笑んだ。
それが、さながら装置のような笑顔だったので、俺のくすぐったさも消え失せた。
「――お初に御目文字仕ります、ハルティの大使さま」
と、トゥイーディアは言った。
全く、少しも、冗談の気配すらない声音だった。
「陛下よりパルドーラ伯爵位をお許しいただいております、わたくし、トゥイーディア・トリシアと申します」
知ってる――と思いつつ、俺は口を開いた。
「ルドベキア・ハルティと申します……」
「存じておりますわ」
と、やっぱり装置のような笑顔で、トゥイーディアは言って、また少し腰を屈めた。
「以後お見知り置きを」
以後どころか以前から知ってんだけど、と思いつつ、俺は頷く。
トゥイーディアはそのまま、俺の隣の将軍にも目を向けて、礼儀正しく頭を下げた。
「ライラティア将軍、お久しゅうございます。先の御前試合でのご優勝、まことにお見事でございました」
「お久しゅう、パルドーラ閣下。お言葉痛み入ります――特に貴女からのお言葉は」
将軍は、なんとなく含みのある言い方をして、何とも言えない目でトゥイーディアを見た。
それを見て、俺の方が落ち着かなくなった。
続いてトゥイーディアは、滑舌の悪い男の人へ目を向けて、やっぱり礼儀正しく頭を下げた。
「ジョーエルヌ男爵閣下、ご機嫌よう。ご嫡男の御誕生、おめでとうございます。賢女にもお障りございませんか」
「パルドーラ伯、お気遣い有り難く。――賢嬢は、いつ頃に御夫君を見付けられるご予定かな」
賢嬢って呼んだらいけないんじゃなかったっけ――と、俺は真面目に考えた。
そして直後にトゥイーディアの顔を見て真顔になった。
めちゃくちゃ怖かった。
トゥイーディアは装置のような微笑のままだったが、雰囲気が氷点下に落ちていた。
そして、おもむろに言った。
「ジョーエルヌどの、ご子息の教育係はお決まりですか?」
唐突な台詞に、ジョーエルヌ男爵と呼ばれた滑舌の悪い男の人が瞬きした。
「は、それはもう――」
「なるほど」
と、トゥイーディアは軽蔑の籠もった目で男爵を見て。
「貴君に付けられた者と同じ者でないことを切にお祈り申し上げますわ。――せめて爵位の上下は、ご子息にはお教えになるとよろしかろう。
貴君ご自身は、失礼、ご存知ないようでございますので。のちほどどなたかご親切な方にお聞きあそばせ」
ぶ、と、将軍が俺の隣で噴き出した。
俺は、トゥイーディアが躊躇いなく相手を殴り返しに行ったので、思わず目を見開いていた。
男爵は一瞬ぽかんとしたあと、さあっと頬に朱を昇らせて、それから無理やりのようににっこりと笑った。
「――失敬。若いお嬢さまを見るとつい。失礼申し上げた」
俺は後から知ることだが、別にこの国において、若い女性に向かって「いつ頃ご結婚か」と尋ねるのは非礼でも何でもなかった。
むしろ、縁組を狙う女性からすれば、待ちかねる部類の質問ですらあった。
だが、まあ、年齢に開きがあるにせよ、爵位において己よりも上位の者に対するには、口調からして有り得ない問いではあったことは確かだ。
トゥイーディアはいっそう深く微笑むと、ばっさりと切って捨てるように言い放った。
「酔うほどお飲みになったのですね。賢女に叱られますよ」
ここで男爵もぷつんと切れたとみえ、「失礼」と呟くと、俺たちの傍から足早に歩き去った。
その一瞬に男爵がトゥイーディアをちらりと睨んで、「妾腹の女の分際で」と呟いたのを俺は聞き取ったが、意味は全く分からなかった。
「まあ、お加減が優れませんのかしら」
と、白々しくもトゥイーディアは言って、俺の方を見てにっこり。
やっぱり装置のような笑顔。
「大使さまとはお話する機会も今までございませんで、残念に思っておりました。
――甘いものがお好きなんですの?」
俺は思わず、口をぱくぱくさせた。
トゥイーディアに会ったら色々話そうと思っていたのだが、それが悉くパルドーラ伯爵には言ってはいけないことなので、何を言ったらいいか分からなくなったのだ。
俺が何も言えないでいるうちに、将軍がトゥイーディアに話し掛けてしまった。
「閣下、この方はキルディアス閣下のお客さまでございますよ」
「ええ、然様でございますね」
と、トゥイーディアはにっこり。
飴色の目が細められて、俺は同じ人で、こうも表情が変わるのは驚きだと思いながらそれを見ていた。
あの庭園にいるときと全然違う。
「将軍は――魔法技術展にはいらっしゃいませんでした? まあ、そうですか。わたくし、あの席で侯爵閣下に、もっと仲良くいたしましょうと仰っていただきましたの。
ですから、将軍? わたくしがあの方のお客さまと仲良くさせていただいて、何か問題がございますかしら?」
将軍は何か言おうとして、しかし口を閉じて、息を吸い込んで首を振った。
「――いいえ、ございません」
トゥイーディアは微笑んで、「そうでしょう?」と頷いた。
それから、睫毛を瞬かせて俺を見た。
俺は、他の人の瞬きとトゥイーディアの瞬きで、どうしてこうも受ける印象が違うのか、その要因の解明のためにもじっとトゥイーディアの仕草を見ていたが、見ているうちに観察の主旨を忘れてしまった。
飴色の瞳が俺を映した瞬間に、めでたく俺の頭は真っ白になった。
「――大使さま、甘いものがお好きなんですの? 当家の料理人が、それはそれは製菓の腕にも長けているのですけれど、よろしければ一度ご賞味いただきたいものです」
俺は思わず頷きそうになって、直後に踏み留まった。
――あれ? 頷いていいんだっけ?
ここで頷くと、確実にキルディアス侯爵を怒らせるんじゃなかったっけ?
でも別に、お役目からすれば仲良くなる貴族は誰でもいいはずなんだけど……。
あれ、でも、俺がこの人に魔法を教わろうとしている時点で、お役目の中身を知られたら拙いんじゃないか?
冷や汗を掻きながら硬直する俺をちらっと見て、将軍が取り成すように呟いた。
「――先程からお勧めしておるのですが、なかなかお気に召されない様子で」
いや、それは味が分かんなかったからで、今はすごく甘いって分かってるよ――と思いつつ、なんで急に味が分かるようになったんだろう、と俺は内心で首を傾げてみたり。
「……まあ、そうですか」
と、トゥイーディアは一瞬、怪訝そうな顔をした。
そりゃそうだ。俺が林檎のパイを美味しいって言って食べたのをこの人は知ってる。
将軍は、何とも言えない顔でトゥイーディアを見下ろして、小声で呟いた。
「ご苦労如何ほどかと拝察いたします――男性に生まれてさえいれば……私も羨むほどの才気です、閣下。例の魔法も、軍籍にあればどれほど評価されたことか」
トゥイーディアは一瞬、妙に顔を硬くした。
飴色の双眸が、一瞬だけ俺を掠めた。
だが直後、将軍に目を戻した彼女は、ぱっと明るく表情を綻ばせた。
装置で測ったかのような無邪気さを載せた笑顔だった。
「まあ、将軍。今のわたくしをご覧になると、才気よりも女の身を羨ましくお思いになりますの?」
将軍がぽかんと目を見開いた。
なかなか面白い顔だった。
トゥイーディアはレースの手袋に包まれた手を合わせて、罪のない風を作って首を傾げてみせる。
琥珀の首飾りがきらっと光って、同時に俺は妙にどきどきしてきたので、視線を上に向けてそれをやり過ごそうとした。
どこか体調がおかしいのかも知れない。
「え、いや」
将軍がしどろもどろに言い差すのを、トゥイーディアは遮るようにして言葉を押し付けた。
「殿方は大変ですわね。――とはいえ今も、わたくしは己の才を謙遜する気はございませんが。
……軍用にはお使いいただきませんと、あれほど申し上げたはずです」
最後の一言は低かった。
それまでのわざとらしい明るさのある声と対照的で、俺はちょっとだけぞっとした。
それから、さっきの将軍の眼差しの意味に、不意に思い当たって息を引いた。
――あの、何とも言えない顔。
レイモンドが時折見せる顔にそっくりだった。
あれは、憐憫だ。
この将軍は、なぜだか知らないがトゥイーディアのことを憐れんでいたのだ。
――今から思えば、客人の前でする会話ではなかった。
この将軍が、わざわざ俺がいる前でトゥイーディアにあんなことを言ったのは、「この人は女性なんだから優しくしてやれ」という、俺への言外の合図を含んでいたのだ。
尤も、俺はその合図が投げられたことにすら気付いていなかったし、トゥイーディアはトゥイーディアで、そんな気遣いは要らんと蹴り倒しに行ったわけだけど。
将軍がちょっと眉を寄せ、――それから、さあっと蒼褪めた。
俺は、灯火ではない種類の光源が近付いて来るのに気付いて、振り返った。
トゥイーディアが満面に笑みを浮かべて、極めて上品にお辞儀した。
「――こんばんは、キルディアス閣下」
……まあ、そりゃあ、自分の賓客が政敵と長々と絡んでいたら邪魔したくもなるだろう。
むしろ発見が遅かったくらいだ。
今の俺ならそう思えるが、当時の俺は、こちらに向かって軽やかにドレスの裾を引き摺りながら歩いて来るキルディアス侯爵の笑顔が恐ろし過ぎて、自分の足許をじっと見詰めていることしか出来なかった。




