19◆――理由も知らない
採寸に来たのはがっしりした男の人と、若い女の人が三人だった。
がっしりした男の人を見た瞬間に、俺は無意識のうちに逃げ出そうとしたが、それを読んでいたらしいレイモンドに腕を掴まれて阻まれた。
「――あちらもお仕事なんですから、絶対に大丈夫ですよ!」
と、声をひそめて囁かれ、俺は真っ青になりながらもこくこく頷く。
――でも、いや、顔が怖い。男の人の顔が怖い。
顔立ちじゃなくて、表情が怖い。
よく考えれば、先にあった受注を繰り延べてでも頼むと言って、相場の三倍の値を積んで急がせた客である。
相手の頭を金貨でぶん殴ったに等しく、そりゃあ愛想よく来られるわけもないよねって話なのだが、このときの俺にそんなことが分かるはずもなく。
完全に安全だと思っていた自分の部屋(一年限定)の中に、見知らぬ人間を四人も迎え入れることになって、俺は呼吸困難寸前だった。
――今朝は、トゥイーディアにも朝から予定があるとかで、彼女はさっさと帰ってしまった。
彼女がせっかく探してくれた卵の例え話を、俺が全然理解していないような顔で聞いていたものだから、トゥイーディアはちょっとしょんぼりしてしまって、俺は自分の頭の悪さがために胸が痛むことになっていたが、トゥイーディアは全然怒った風もなく、昨日と同じように俺に朝食を勧めてくれた。
俺は、また食欲がないということでレイモンドに心配を掛けるのを避けるため、朝食を勧められても断る心積もりでいたのに、気が付くと勧められるがままに食べていた。
すごく美味しい林檎のパイだった。
それを食べ終わったところで、トゥイーディアは時計を見て、そろそろ戻らないといけません、と言い出してしまったのだ。
俺は、この世の中から時計なんてものは滅び去ればいいと思いながら、促されるままに、トゥイーディアに先んじて庭園を出ることになった。
とはいえ、結果的に、そのお陰で助かった。
俺は採寸が何時から始まるのか知らなかったが、この人たちは朝食後すぐにやって来たのだ。
ゆっくりしていたら、もしかしたら色々と騒ぎになっていたかも知れない。
俺は、二日連続でレイモンドに心配を掛けるのを避けるために、辛うじて彼の目の前でも朝食を口にしてはいた。
ただし、常の三分の一程度しか食べられなかったのはお察しのところで、レイモンドはいたく俺の体調を案じてくれた。
――案じてくれるなら、採寸を中止してほしい。
切実にそう思ったが、さすがにそれは無理な相談なのだろうということは分かったので、俺は息を吸い込んで覚悟を決めた。
やってきた四人組は、それぞれ大きな鞄を抱えていて、がっしりした男の人が、不機嫌な顔のまま唸るような低い声で女の人たちに何か指示を出している。
女の人たちのうち、一人は頷きながらそれを聞いていて、あとの二人は呆れ顔だった。
女の人のうち一人が、大きな鞄の中から軸に巻いた布地を取り出して、チャールズに何かを確認している。
チャールズは頷いて、女の人に何か囁いたと思うと、素早く銀色に光る何かを女の人に握らせていた。
そのうちに俺はレイモンドの陰から引っ張り出されて、四人に取り囲まれることになった。
俺はその時点で、決めた覚悟さえ萎れていくほどにびびっていたし、取り出した巻尺で身体のあちこちを測られるに至って、完全に硬直してしまった。
俺の身体の寸法を測りつつ、四人はあれこれとチャールズやレイモンドに確認を取っている。
生地のこととか、意匠の細かい点とか、そういう確認のようだった。
俺は完全に竦み上がってしまって、どんどん背中を丸めてしまった。
それに気付いた男の人が、何度か俺の肩を掴んで姿勢を正させて、しかしそれでも背中を丸めてしまう俺に、最後には耳許で低く、
「――ちったぁしゃっきり出来ねえのか、このちびが」
と凄んで、見事に俺の頭を真っ白にしてくれた。
測った長さを忙しく紙に書き付けていた女の人が、男の人が切れたことに気付いたのか、
「あらごめんなさいね」
と、すっぱりと明るい声で言った。
「この人、気が立ってて。何しろお時間もございませんから」
「――通常なら一月頂くところだ」
男の人は物凄く低い声でそう呟いて、それを聞き付けたらしきチャールズが、「だからこの日程でいいって言ってくれてたところが吹っ飛んだんだって」と、どことなく言い訳の風情でぼそりと独り言ちる。
ともかくも怒濤の勢いで採寸が終了し、四人が引き揚げて行って、俺はその場に座り込むほど安堵した。
そんな俺の頭の上から、「じゃ、次は仮縫い終わったところでの試着だな」とチャールズが言って、俺は再び硬直。
レイモンドは慰めるように俺の頭の上に手を置いて、責めるようにチャールズを見遣った。
「チャーリー、脅かすな。――ルドベキア、大丈夫です、仮縫いはまだまだ先ですから」
俺がきょとんとしたのを見て取って、レイモンドは苦笑。
「あのね、今回のあなたの正装はね、幾つか手順を省略して作ってもらうんですよ。何しろ時間がないので、型紙から作ってもらっているようでは間に合いません。なので、あの仕立屋が既に持っている型紙の中から、あなたに合うものを選んでもらって、それで作成してもらうんです。仮縫いでの試着はありませんから、多少身体とずれることもあるでしょうが、あの仕立屋の腕は確かなようですから、大丈夫です」
型紙ってなに、と思いつつ、俺はこくこくと頷く。
レイモンドは肩を竦めた。
「一方、これから先一年、正装が一着だけというのは心許ない。なので、何着か作ってもらいます。大急ぎで仕立ててもらうもの以外は、ちゃんと一からあなたのために作られますから、仮縫いが終われば試着が入るんですよ」
俺が結構本気で絶望の顔をしたのが可笑しかったのか、レイモンドはふっと口許を隠して笑った。
それから、冗談めかして言葉を続けた。
「――なので、まあ、この先あなたの身長が伸びれば採寸のやり直しです。
私としては、二、三回は採寸をやり直すくらいに、あなたの背が伸びればいいなと思っているのですが――、本当に、昨日といい今日といい、朝の食欲がないのはどうしてでしょうね」
俺は思わず顔を伏せた。
後ろめたさは二つあって、一つは、こうしてレイモンドに心配を掛けている後ろめたさ。
そしてもう一つは、あの庭園でトゥイーディアと一緒に食べる朝食が妙に美味しく感じられるという、正体不明のむず痒い居心地の悪さを伴う後ろめたさだった。
――とはいえその翌日には、レイモンドは俺の朝の食欲が戻ったようだと安堵することになる。
それというのも、夜明け前にあの庭園に向かった俺が、トゥイーディアと会うことが出来なかったからだ。
まあ、伯爵さまだし、忙しいこともあるだろう。
そう思いながらも、なんだかがっくりときてしまって、俺はしばらく、東屋の長椅子に座り込んでいた。
庭園の植物は、いよいよ近付く本格的な春の訪れに芽を伸ばし、蕾を準備し、順調に活気づいている。
東屋の格子屋根に絡む蔦も、あちこちで葉を広げ始めていた。
俺はしばらく、不貞腐れて長椅子の背凭れに身を預けて、小川のせせらぎと小鳥の声を聞いていた。
そのうちにお腹がきゅうと鳴って、俺は宮殿へ戻ったものの、なんだか浮かない気分だった。
自分がどうしてそこまで落ち込んでしまったのか、なんとも分からなかった俺は、自分が思っている以上にトゥイーディアの魔法を教わることに拘っているらしいと結論付けることとした。
それ以外の理由が思い付かなかったということもあるが。
更には、俺のその執念は俺自身の想定をも上回っており、どうしても諦め切れなかった俺は、その日初めて、夕方に宮殿を抜け出した。
昼間にはレイモンドと庭園を散歩したが(レイモンドは俺の体調が戻ったようだと言って、申し訳なくなるほどに喜んでくれていた)、昼下がりには部屋に引き揚げられる。
夕食までの時間で、庭園まで行って戻ること自体は可能だ。
――そう算段した俺は、散歩のあとに昼寝をしたいと申し出て、部屋で一人になることに成功した。
パトリシアは、「お勉強……」と言って渋い顔をしていたが、レイモンドは、「せっかく体調が戻ったんですから無理しないで」と言って、あっさり俺に昼寝を許可してくれた。
斯くして俺は、早朝に宮殿を抜け出すよりも遥かにどきどきしながら――何しろ、使節団の人たちとうっかり出くわす可能性は早朝の比ではないということくらい、さすがの俺にも分かるので――、こっそり部屋を抜け出して、万が一レイモンドたちに見付かったときのための言い訳を必死に頭の中で準備しながら、こそこそと廊下を歩き、宮殿を出たところでちょっとほっとして、トゥイーディアの庭園まで走って行った。
――だが、トゥイーディアはやっぱり来なかった。
俺は斜陽が後ろから差してくる庭園で、東屋の端っこ、石段を上がってすぐのところに座り込んで膝に頬杖を突いて、トゥイーディアが庭園に上がって来る足音がしないかと耳を澄ませていたが、もうそろそろ戻らないと拙いだろうという時間になっても、トゥイーディアは現れなかった。
俺はなんだか、胸の中で膨らんだ何かがぱちんと弾けたような気持ちになって、のろのろと立ち上がって宮殿まで戻る道を進み始めた。
ろくすっぽ周囲に注意を払わなかった俺が、部屋に戻るまで使節団の誰にも見付からなかったのは奇跡だったが、俺はその後の夕食の席で、「やっぱり体調悪いんですか」と、レイモンドからひどく心配された。
ちゃんと夕食はたくさん食べたのに、なんでだ。
――ともあれ俺は、その日を含めて三日間に亘って、トゥイーディアに会うことが出来なかった。
三日のうち二日は、夕方に宮殿を抜け出すことが出来なかったので、もしかしたらトゥイーディアは、そのときあの庭園にいたのかも知れない。
だが早朝にあの庭園に来ることはなくて、俺は見事にトゥイーディアに魔法を教えてもらう機会を逸し続けた。
その三日間のうちに、途轍もなく不機嫌な顔をした仕立屋が、完成した俺の正装を届けに来たり、俺が話し掛けてはいけない貴族の名前を教え込まれたり(当然、その中にトゥイーディアの名前も入っていた)、付け焼刃で、なんとか貴族との会話を凌げそうな話題を仕込んでもらったり――、そんなことがあって、気付けば晩餐会当日である。
三日振りに顔を見ることになるトゥイーディアは、ただのトゥイーディアではなくて、おっかないパルドーラ伯爵ということになりそうだった。
◆◆◆
俺は常々、この王宮はちょっと大き過ぎるんじゃないだろうか、と考えていたが、晩餐会の会場もまた、例に漏れずに正気を疑うような大きさを誇っていた。
俺は緊張と憂鬱に吐きそうになりながら馬車もどきに揺られ、そこまで連れて行かれたわけだが、その間中ずっと、両隣に座ったレイモンドとチャールズが、揃ってこの数日間の学習の総復習をさせようというのか、早口に色んなことを囁いていた。
とはいえ、二人が二人とも別々のことを同時に囁いてくるので、俺は目を白黒させてしまった。
このままだと、俺の頭の中ではジョーエルヌ男爵に子供が生まれたばかりで、その子供が南方の国境防衛線で大活躍したという歴史が作られてしまう。
途中から俺は暮れ始めた空を見上げ、必死に何も聞かないよう、まだ明るさの残る空に浮かび始めた星を数えることに集中することにした。
上の人たちも――全員ではないものの――、勿論のこと今日の晩餐会には出席する。
馬車もどきに乗り込む前に、彼らはレイモンドをじろっと見て、俺を見て、「表に出せるようになったのだろうな?」みたいなことを低く呟いていた。
それに対して俺は大いに怯え、竦み上がったが、レイモンドは顔色ひとつ変えず、
「はい、どうにも本国の教育が不足していたようで。
古老長さまはどうやら、この子が全ての常識を備えた状態で生を享けたと勘違いなさっていたようです」
と言い返し、その直後に上の人たちのうち何人かに、物陰に引っ張って行かれていた。
戻って来たレイモンドが思いっ切り顔を顰めておなかを押さえていたので、俺はめちゃくちゃ狼狽えたが、チャールズは「大丈夫か」とレイモンドを気遣いつつも、
「おまえ、あんな暴言よく吐いたな……」
と、呆れ果てたかのように呟いていた。
上の人たちは今、俺たちの前を行く馬車もどきに乗っている。
俺は、どうか晩餐会ではあの人たちと離れた席に着けますようにと、甚だ分の悪い祈りを捧げていた。
――今日の晩餐会は、前半は決まった席に着いた食事会で、後半に立食形式の社交場に放り込まれるという、なんか悪夢の粋を集めたような構成になっているらしい。
この情報を獲得してきたときのチャールズの顔はげっそりしていたが、まあそれも当然である。
俺も今日の晩餐会が恐怖過ぎて、今朝だけはあの庭園まで行けなかったくらいだ。
使節団も、今日の晩餐会への参加は一部しか認められていないらしくて、上の人たちから五名程度、俺、そして若手はレイモンドとチャールズのほか、俺が名前を知らない二人しかいなかった。
仕立屋が、不平不満を抱きながらも大急ぎで仕立ててくれた俺の正装は、濃紺を基調としたかっちりした上下の揃えだった。
着たことのない形の服は窮屈で、上着の襟には繻子が使われていたり、白いシャツには襞飾りが付いていたりして、「絶対に汚してはならない」という重圧を俺に与えていた。
いざ会場が見えてくると、レイモンドは口早に、
「――立食の場で万が一衣服を汚してしまったときは、使用人に言いなさい。控室まで連れて行ってくれるはずです。使用人も礼服を着ますから、招待客と見分けづらいかも知れませんが、使用人の衣服の釦は真鍮製です。招待客が真鍮製の釦の服を着ることはまずありませんから、そこを見て判断しなさい」
俺はこくんと頷いて、「真鍮の釦、真鍮の釦……」と呟き始めた。
ところが一方、反対隣のチャールズが、そのときちょうど「上着の釦は閉めるなよ」と言ってしまったものだから、俺の呟きは「真鍮の上着、真鍮の上着……」に変わった。
日が暮れ始めた中、聳える会場は巨大な離れだった。
黄金で飾り立てられた白亜の巨大な建造物で、正面からは、玄関へと続く幅広の大理石の階段と、灯火に煌々と照らされる玄関――荘厳な感じの円柱で三角屋根の装飾を支えた奥に巨大な扉があるもので、俺はそれだけでぽかんと口を開けてしまったほどだった――、そして、玄関の上に位置するバルコニーの欄干が見えていた。
続々と馬車もどきがその会場に向かっているのが見えていて、俺はだんだんお腹が痛くなってきていた。
いざ、がたん、という振動と共に馬車もどきが停車した瞬間には、本気で逃げ出したくなった。
だが、そんなことが許されるはずもなく、俺はちょっとよろよろしながらも馬車もどきから降りた。
途端、会場の前で来賓を捌いている使用人さんが慎ましい笑顔で寄って来て、すっ、と俺に向かって直角に頭を下げ、「こちらへ」と俺を先導して歩き始めた。
上の人たちは、自分たちも使用人さんに先導されながらも怖い顔で俺を見ているし、レイモンドは俺の後ろに下がってしまったし、俺はなんかもう泣きそうになったが、辛うじて足を踏み出して、使用人さんの後ろについて歩き始めた。
続々と馬車もどきは会場の前に集まり、そこからどんどん人が出て来て、俺と同じように使用人さんに先導されて歩き始めていた。
その中の結構な人数が、俺を見て目を丸くしたり、連れの誰かと何かを囁き合ったりしていた。
俺は念のため自分を見下ろして、右手と右足が一緒に出ていないかどうかを確認。
――よし、これであの人たちが俺を見ている理由の推測のうち一つが消えた。
階段は、緩やかだったが結構な段数があり、俺は毎日庭園へ出歩いていた自分を現実逃避ぎみに内心で褒めながら、それを昇り切った。
階段を昇り切った先に、開け放たれた巨大な扉があり、その奥から水が流れる音が聞こえてきていた。
俺は緊張の余りに目を回しそうになりつつ、使用人さんの背中だけを見て、何とかかんとか足を進め続けた。
扉をくぐってすぐ、使用人さんは俺を、右手前方にある階段の方へ誘導した。
俺は全然周りを見る余裕もなく、滑らかな灰色の石造りの階段が、更に上方に向かっていることだけを認識し、使用人さんに付いて行った。
階段は真っ直ぐに続いていたが、一番下の数段は丸い形に広がって、階段が始まる前に踊り場を踏むような格好になっている。
なんで屋内なのに水音がするんだ? と怪訝に思いながらも、優雅に階段を昇る使用人さんを追い掛ける俺。
正直、他に目を向けたら転びそう。
そうしてようやく、二階――二階というのが正しいのか分からない。一階の三分の一ほどの面積で(とはいえ十分以上に広かったが)、一階部分を見下ろすことも出来る、大きな張り出しのような構造になっていた――に辿り着いた俺を、使用人さんはそのまま優雅に席まで案内してくれた。
二階には、俺がこれまでに見たことがないほど大きなテーブルがどんと据え置かれていて、背凭れの高い椅子が、そのテーブルを囲む形でぐるっと置かれていた。
高い天井からは、小さな凝った意匠の灯りが、様々な高さになるように幾つも吊るされていて、暖色の明かりがあちこちから差しているような具合になっている。
テーブルは石造りだったが、あちこちに花の模様の彫刻が施されていたために、何となく温かみを感じるものになっていた。
大きなテーブルではあったが、真ん中がすっぽりと抜けた――謂わば四辺だけから成るような――テーブルだったので、ぽっかりと空間が空いている真ん中の位置には、意味の分からない流線形の意匠の、大きな金属製の飾りが置いてあって、その飾りはゆっくりと回転して、明かりを弾いて煌めいていた。
俺の席は、奥の方――つまり、一階を覗き込める側とは反対側――で、一番奥の、明らかに他とは違う大きくて豪華な椅子の、結構すぐ近くだった。
俺は、自分の右側で二、三の椅子を挟んだ位置にある、仰々しく藍色の布が背凭れを覆っているその豪華な椅子をじっと見て、「これは、もしかして王さまの席なんじゃないか?」という、何とも言えない絶望を誘う予想を立てた。
振り返ってみると、レイモンドやチャールズは、俺とは引き離されて手前の方の席へ案内されているようだった。
俺はちょっと泣きたくなったし、レイモンドもチャールズも、そして若手のうち残り二人も、緊張と絶望が綯交ぜになったようなすごい顔で俺の方を見ていた。
そのうちに、俺の左側に上の人たちが纏めて腰を下ろしてしまって、俺は絶望と恐怖に目を閉じてしまった。
尤も、目を閉じてる方が怖くなってすぐにかっと見開いたけれども。
賓客は次々に到着し、次々に席に着き始めていた。
男性はみんな、俺となんとなく似ている格好をしていて、衣服の色も黒か濃紺だった。
一方女性の格好は色とりどりで、みんながみんな、袖がないことを共通点とするドレスを身に着けていた。
ドレスに袖は無かったが、女性はみんな肘の上までの長さのある白い手袋を着けていて、かつドレスの襟が前腕まで覆うほど大きかったり、あるいはストールを羽織ったりしていて、何某かに袖の代役をさせているような格好だった。
ドレスの裾はどれもこれも大きく膨らんでいるものばっかりで、俺は真剣に、「あんなのでどうやって座るんだ」と考え込んでしまったほどだった。
テーブルの上には、既に銀食器や背の高い銀の盃が整えられていて、磨き抜かれたそれらが、明かりを弾いて無数の星のように煌めいていた。
俺は緊張のために喉が干上がって、何度も生唾を飲み込んでいた。
――今の俺なら、卒なく堂々と座っていられるものを、このときの俺は冷や汗すら浮かべて動揺していたものだった。
そのとき、俺の右隣の椅子が使用人さんによってそっと引かれた。
同瞬、強い光源が近付いて来て、俺は思わず目を瞑り、いつかのように無理やり視界を切り替えた。
無意識にそうしてから、俺ははっとした。
――これほど眩しい光として認識される魔力を、俺は一つしか知らない。
あの人の魔力は、もっと柔らかく溢れるように輝くものだった。
これほどの輝度を誇る魔力であれば、それは――
俺は弾かれたようにそっちを見て、そして、自分の右隣の椅子に典雅に腰を下ろすキルディアス侯爵を認めて、時間が停まったようにすら感じた。
恐らく、レイモンドたちも凍り付いていたことだろう。
――嘘だろ、嘘だろ。上の人たちとキルディアス侯爵に挟まれてろって言うのか?
椅子に滑り込んだキルディアス侯爵は、お手本のような仕草でドレスを整えてから、ゆっくりと俺に目を向けて、にこりと微笑んだ。
俺は辛うじて微笑み返したつもりではいたが、実際には多分、唇が歪んだ程度の表情に見えていたことだろう。
キルディアス侯爵は、癖のない長い薄青の髪の半ばを豊かに背中に流し、半ばを複雑な形に編み込んで結い上げていた。
真珠を連ねた飾り紐を、結い上げた髪の上に通していて、真っ白な光沢のある宝石は、暖色の明かりを吸い込んでよく映えた。
背筋を正した姿勢に、真っ直ぐに下ろされた髪が華を添えていて、他とは違う存在感を放っているようだった――端的に言えば、めちゃくちゃ怖かった。
侯爵は、氷のような顔貌の上に、「今日は一日この表情でいる」と決定されたかのような微笑を引っ掛けていて、耳朶から下げられて揺れる金剛石の耳飾りは、いっそ氷で出来ているようにすら見えた。
ドレスは落ち着いた青色で、黒いレースの大きな襟が、上腕までを覆っていた。
耳飾りと揃いの意匠の金剛石の首飾りを身に着けていて、俺は、この人はどこまでも氷みたいな人だな、と恐れを成していた。
「――ご機嫌よう、大使さま」
と、唐突にその氷みたいな女の人が口を開いたので、俺は息が止まるかと思った――いや、実際に一瞬、呼吸が止まった。
だが、自失するには上の人たちが恐ろし過ぎて、俺はすぐにはっとして、少々上擦った声となったが言葉を返した。
「ご――ご機嫌よう、侯爵閣下」
侯爵閣下は完璧に左右対称の微笑を浮かべたまま、大粒の薄紫の双眸で俺を見て、首を傾げた。
ちりん、と耳飾りが鳴って、その音に紛れるほどの小さな声で、キルディアス女侯は笑みを零していた。
「この数日は、ご挨拶にも罷り越さず、大変失礼をいたしました」
この人が来なくて本当に良かった、と、俺は心から思った。
そして、必死になってパトリシアから教えてもらったことを総動員して口を開いた。
「こちらこそ……伺わずに失礼いたしました」
ここまでで、俺は今日の仕事を終えたような気分になったのだが、勿論のことそんなはずがあるわけもなかった。
侯爵は、流れるように言葉を繋いでいた。
「この数日、大使さまは何をなさっていましたの」
あなたの政敵に会ってました、とは絶対に言えない俺は、さりとて「勉強してました」とも言えず、咄嗟に言葉を吐き出した。
「――庭園……この王宮は、とても庭園が綺麗なんですね」
侯爵がゆっくりと瞬きしたので、俺は心臓を吐き出しそうになりながらも、なんとか言葉を付け足した。
「夏になったら、それは見事に花が咲くんでしょうね」
にこ、と侯爵は微笑んだ。
機械のような微笑だった。
「ええ、然様です。直に風信子が。その後には薔薇も咲きます。
ぜひご一緒に、観賞会なども催したいものですけれど」
絶対嫌です、と言ってはいけないということは分かったし、それより何よりも、左側からの上の人たちの視線が痛いほどだったので、俺は頷いた。
「はい、ぜひ」
「まあ、嬉しい」
と、侯爵はにっこりと笑った。
「実をいいますと、王宮にはそれは見事な薔薇園がありますの。
花の盛りになったら使いを遣りますわ。色々お話をいたしましょうね」
俺は一気に憂鬱になったが、もういちど頷いた。
「はい、楽しみです」
そのとき、侯爵の右隣の椅子がさっと引かれ、そこに壮年の男性が腰掛けた。
彼は黒い礼服を着ていて、腰掛けると尊大な仕草で上着の乱れを直した。
立派な髭を鼻の下に蓄えていて、その髭が余りにもてかてかつやつやと光るものだから、俺は思わずそっちに一瞬目を奪われてしまった。
「――やあ、侯爵」
と、その男性は言った。
俺は、キルディアス侯爵の唇が、一瞬だけ引き攣ったのを見た。
男性はそのまま俺を見て、幾分が慇懃になった声で続けた。
「ご機嫌よろしゅう、大使さま」
相手が誰なのか、全く以て皆目見当もつかなかった俺は、曖昧に微笑んで応じた。
「……ご機嫌よう……」
俺がそう応じてから、キルディアス侯爵がゆっくりと男性の方を振り向いた。
ちりん、と耳飾りが揺れて、薄青い髪が肩を滑った。
「ご機嫌よう、カリア公爵」
よく光る髭の公爵は、なぜだか知らないがはは、と笑って、俺と侯爵を交互に見遣った。
「侯爵、大使さまと何を話していたのだね?」
「大したことでは」
と、よく透る声で侯爵は呟いた。
「薔薇が咲いたらお会いしましょうとお話ししておりました」
「はは、薔薇か、いいね、はは」
と、髭の公爵はなぜだか知らないが膝を叩いて笑い、俺を見て目を細めた。
俺は、その表情が笑顔であると理解するのに三秒を要した。
「――大使さまは、庭園がお好きなのでしょうかね。
今に鬱金香の季節です。見事に群生して咲く場所がございましてな、御一緒に如何です?」
「…………」
俺は面食らった。
この誘いを受けるべきかどうか分からなかったからだが、すぐに、侯爵が絹の手袋に覆われた手指で口許を覆い、上品に笑い声を上げてくれたお陰で答えずに済んだ。
「ふふ、鬱金香」
と、侯爵は笑みを零して、薄紫の瞳で真っ直ぐに髭の公爵を見据えた。
「鬱金香の香りでは、薔薇の香りには及びもつきませんわ、公爵閣下」
髭の公爵が顔を歪めた。
そしてすぐに、気味が悪いほどの満面の笑みを浮かべると、「そうだねえ」と。
「確かにそうだ。色香においては敵わんね、ええ」
「ええ、そうでしょうね」
と、侯爵が即答した。
彼女の雰囲気が一変した。
まるで鋼鉄のような、自信と自尊心が滲み出る空気を纏って顎を上げた侯爵は、見事に整った笑顔のまま、寸分のぶれもなく唇を開く。
俺が感知しなかった何かの含みを、公爵の言葉の中に感知したようだった。
侯爵が口を開いたその瞬間に、俺は、この人も誰かに手を上げられたら、相手を殴り返せる人なのだと確信した。
「色も香りも、花の知恵ですわ。花に生まれたのならば磨かねば怠慢ですし――」
にっこりと微笑んで、侯爵はとくと相手の姿を見た上で、はっきりと言った。
「色も香りも備えることは、他の何かを備えないことの証明ではございませんわ、閣下」
公爵は目を細めた。
そして、少しだけ低くなった声で呟いた。
「――相手の言葉を勘繰り過ぎるのは悪い癖だね、侯爵」
「閣下のお言葉はお戯れが過ぎて、いつもどきどきしてしまいます」
と、悪びれなく侯爵は言い放った。
この場の空気に、むしろ俺の方がどきどきしてしまった。
テーブルは徐々に埋まりつつあった。
俺は侯爵が纏う空気に耐えかねて、こっそりとテーブルを見渡した。
そしてその拍子に、こっちを心配そうに窺うレイモンドと目が合った。
俺は、「助けて」という意味を籠めて首を振ったが、レイモンドはそれを、「心配ないよ」という意味に取った様子で、あからさまな安堵を顔に浮かべて、隣にいる俺の知らない貴族と喋り始めてしまった。
えっ、と思って目を泳がせた俺は、その拍子に更に数人の貴族と目が合ってしまってぎょっとした。
俺、結構見られてる。
どこを見ればいいのか分からず、俺は視線を斜め上に向けて、ぶら下がる灯りを観察した。
灯りは、花束を下に向けて吊るしたかのような精巧な意匠だったが、俺は美的感覚に恵まれていなかったがために、三秒でそれを眺めることに飽きてしまった。
そのうちに、視界の端っこを眩しい魔力の光が掠めた気がして、慌てて視線を巡らせる。
そうして俺は、使用人の先導でしずしずと自分の席まで進むトゥイーディアを見付けた。
トゥイーディアは、蜂蜜色の髪をキルディアス侯爵と同じような形に結い上げていた。
ただし、その髪を飾るのは真珠ではなくて、レース編みの飾りだった。
ぴんと背筋を伸ばして歩いていて、歩く度に耳許で翠玉の飾りが揺れている。
ドレスは翡翠色で、やっぱり袖は無かったが、肩には光沢のある白いストールを羽織っていた。
肘の上までを覆う長さの白いレースの手袋を着けていて、その手袋の上から銀の指環をしているのが見て取れた。
三日振りに見るトゥイーディアは、やっぱりパルドーラ伯爵としての顔をしていて、固定されたようにその顔に浮かんでいる微笑には、全く以て朝のいちばん眩しいところは感じられなかった。
だがやっぱり、仕草や表情には透明感があって、魔力の光を見ないようにしていてなお、目を惹く存在感があった。
トゥイーディアの席は、王さまの席(推定)の右側――つまり、俺たちの反対側のようだった。
席に着いてドレスを整える彼女に、その隣に座っていたお爺さん貴族が何かを話し掛け始めた。
位置関係があって、俺からはトゥイーディアの顔は見えなくなった。
俺はトゥイーディアの登場を大いに気にしたが、一方キルディアス侯爵も、トゥイーディアの方をちらりと見て眉を寄せていた。
それから更に十数分ののち、奥の方から(階段の方からではなかった)、一人のお爺さんが現れた。
俺は、これって誰だ? と真面目に考えたが、その人が現れた瞬間にテーブルに着いていた全員が立ち上がったために理解した。
慌てて立ち上がり、周りの人が頭を下げるのに従って頭を下げながら、俺はそのお爺さんが王さまであるということを思い出していた。
ここに来た当日に顔を合わせたはずだけれど、トゥイーディアやキルディアス侯爵の方が印象が強かったがために忘れ果てていたのだ。
王さまは、ゆっくりと自分のための豪華な椅子に腰掛けた。
それを見計らったように、周りの人が一斉に声を上げたので、俺はぎょっとした。
「――国王陛下、万歳!!」
この離れの中に反響するような声だった。
その木霊が収まってから、王さまは小さな声で、「良い」と呟いた。
俺は、何がいいんだろうと本気で訝ったが、冷静に考えれば意味は明白だった。
俺の周りの貴族たちが一斉に椅子に腰掛けた。
俺も釣られて腰を下ろしたが、まだ半数の貴族――手前側にいる貴族たち――が立ったままであるのに気付いて、まごまごしてしまった。
とはいえすぐに、王さまが手振りで座れと合図して、その人たちも座ったわけだけど。
――これは単純に、位階の高い貴族が先に座り、低い貴族が後に残されたというだけの話だったのだが、俺は何が起こったのか分からずに茫然としてしまっていた。
俺が茫然としているうちに、どこからともなく礼服姿の使用人さんたちが現れて、布越しに手にした瓶から、銀の盃にとくとくと濃赤色の透き通った飲み物を注ぎ始めた。
盃の三分目ほどまでその飲み物を注いで、さっと使用人さんたちが後ろに下がる。
俺はレイモンドを見た。
レイモンドは必死の色の濃い目で俺を見ていて、小さく首を振っていた。
――あ、これ、飲んじゃいけないやつだ。
そう理解して、俺は緊張に震える手を握り込む。
王さまが盃を手に取って、盃の脚部分を持って軽く掲げた。
みんながそれに倣うので、俺も倣って盃を持ち上げた。
右手が震えるのを根性で止めたら、今度は左手が倍の勢いで震え出した。
王さまはぐるっと広いテーブルを見渡して、それから左を――というか、俺を見た。
そして、物静かな声で呟いた――だがその声は、静まり返ったこの会場にあって、十分以上によく響いた。
「――我が国へようこそ、大使どの」
俺は瞬きして、直後に起こった貴族たちの大合唱に、危うく盃を落っことしそうになった。
「――大使さま、万歳!!」
無数の酒盃が灯りを弾いて白く煌めき、直後にそれらを呷る無数の貴族の喉が鳴る。
俺は酒を呷るどころか、盃に唇だけを付けるに留まったがために、なおいっそう、喉は焼け付くように干上がろうとしていた。
降り注ぐ視線がもはや、実体を持って突き刺さってきているかのようにすら感じていた。
酒盃がテーブルに置かれる、こん、という音が無数に響く。
俺はそれすら遠くに聞こえてくる心地で、晩餐会の開始の事実を、干上がった喉に落とすようにして呑み込み、テーブルの下で震える左手をぎゅっと握った。




