24◆ それは息が止まりそうなほど
リリタリスの令嬢が――即ちトゥイーディアが到着する予定の日。
ガルシアは前日の夜から大いに浮足立ち、令嬢を迎えるに当たっての準備に粗がないか、最後の総点検のために夜明け前から多くの人々が駆け回った。
令嬢の到着は――天候に大きな乱れがなければ――昼過ぎの予定。
それまでに尽くせる手を尽くせとの、テルセ侯爵直々のご意向に、公爵邸から派遣されてきた侍女さんたちは泣きそうな顔をしていた。
宿舎は徹底的に掃き清められ、砦の目に付くところには全て清掃の手が入った。
とはいえ、そのガルシアの浮ついた雰囲気も、俺の内心に比べれば落ち着いたものである。
前日は興奮のあまりなかなか眠れず。
ようやく寝付けば百発百中であいつが夢に出て来たりして、俺はもはや病気である。尤も、何百年にも亘る片想い、客観的にみれば既にじゅうぶん病気の域。
朝起きて俺が一番にしたことは、窓硝子に映る自分の顔を確認することだった。
ぼんやりとしか見えなかった自分の顔は、しかしそれでも酷い隈を作ったりすることは避けられたようだと分かるもので、俺は胸を撫で下ろした。
あいつが俺を見るときの心持ちは、いつもならどうやったって良いものになるはずがないけれど、今日だけは別。
今日のあいつは、あいつの代償のために記憶を失った状態であるはず。
既に記憶を取り戻している可能性も無きにしも非ずだけれど、今までの事例から鑑みるに、あいつが記憶を取り戻すきっかけとなるのは、いつだって俺たちだ。
俺たちの顔を見るか、あるいは俺たちの中の誰かが救世主となった噂を聞いたときに、あいつは記憶を取り戻していたのだ。
今回においては、まだ誰もあいつと会っていないし、噂になるようなこともしていない。
ゆえに、まだあいつが記憶を取り戻していない公算の方が大きい。
つまり今日だけは、俺とトゥイーディアは初対面(トゥイーディアの主観においては)。
俺はどうやったってあいつに愛想よくすることは出来ないが、せめてクールでかっこいいと思ってもらいたい。
それには、上手くあいつの視界に入ることが大前提となるわけだけれども。
制服に着替え、今日も今日とて常と変わらず開催される早朝訓練のために部屋を出る。
その間際に、昨日の夜にコリウスから受け取っていた、救世主の変幻自在の武器を撫でつつ、俺は目を閉じて本日の予定を思い返した。ちなみに俺は、武器を細くて緩めのチョーカーにして身に着けている。
本日、朝食までは常時と変わらぬ流れ。
朝食が終わると、俺たちはガルシアの港に出る。そこで、令嬢を迎えるに当たり、不審物の有無や不審者がいないかどうかの最後の総点検を行うのだ。
その点検は昼までに終わらせることになっており、港で配給される簡単な食事を摂った後、俺たちはそのまま港に立って令嬢を待つ。
実際に令嬢を出迎えるのはテルセ侯爵とその子息、そしてガルシア軍部のお偉いさん(確か、ルルエト将軍とかいったか)。
その一同に加え、これから令嬢の身の回りの世話をすることになる侍女さんたちが数名控えることになる。
俺たち三千人は完全に添え物なので、俺個人がトゥイーディアの視界に入ることはかなり難しい。
その気になれば何とかなるかも知れないけれど、俺はその気になれないからね、どうしたものか。
対して、トゥイーディア側。
先日詳しい情報が入ってきたところによると、今日ガルシアを訪うのは主に三人。
トゥイーディアと、そのお父さんと、トゥイーディアの婚約者候補(死ね)である。
そこにずらずらと、トゥイーディア付きの侍女やら護衛やら、婚約者候補(死ね)の侍女やら護衛やらがくっ付いてくるというわけ。
ちなみにトゥイーディアのお父さんは、五日間の滞在の後にレイヴァス王国に帰還する。
トゥイーディアの留学期間は、今のところ一年の予定。
一方で婚約者候補(死ね)は、トゥイーディアよりも一年長く滞在する。
なんでわざわざ婚約者候補を選定してからの留学開始だったのか疑問に思っていたが、この滞在期間の差をみるに、思うに留学のメインは婚約者候補なんだろうな。
名だたる騎士の家系の娘を娶らせるに際して、ガルシアの技術をしっかり学ばせてから婿に来させようという、リリタリス家の思惑が透けている。
あとディセントラが言っていたところによると、レイヴァスの方で何かしらの政治的な問題が起きているのではないかということ。
その問題が片付くまで、取り敢えずトゥイーディアとその婚約者候補(死ね)をガルシアに避難させておく心積もりなんだろうと。
長いこと王侯貴族を経験してきただけあって、ディセントラはそういうことに鼻が利く。
ドアノブに手を掛け、俺は深呼吸。
今日こそ十八年間待ちに待ったトゥイーディアとの再会の日。記念すべき日。
この部屋の中で緊張を発散し切っておかねば、俺は他の人の目が届くところではこの緊張を表に出すことすら出来ない。
――今日が、全く別の意味で記念すべき日になるということを、このときの俺は当然ながら知るはずもなく。
「――よしっ」
小声で気合を入れ、俺は部屋を出た。
訓練場までの道すがら、一人で颯爽と歩くコリウスに追い着いた。
俺を見ると、コリウスはきりっとした顔を崩して微笑み、「いよいよ今日だな」と囁く。
曖昧な声で反応した俺に、コリウスは非難がましく濃紫の目を細めた。
「ルドベキア。少しは愛想よくしたらどうなんだ。僕たちと再会したときには泣き崩れていたとは思えない淡白さだな」
「うるせえ」
条件反射で罵り、俺は半眼でコリウスを睨み、小声で言った。
「おまえだって、十年先に生まれちゃったときには号泣してただろ」
「昔の話だ」
コリウスはさらりと言って、眉を寄せて俺を見た。
「以前にトゥイーディアが言っていたんだが――、おまえ、最初に再会したのがトゥイーディアだったときでさえ、会釈ひとつで挨拶を済ませたそうだな?
僕たちと合流するまでの間、身の置き所がなかったと嘆いていたぞ」
ぐっと言葉に詰まる俺。
マジか、トゥイーディア、顔には全然出してなかったじゃん――と思ったが、よく考えれば俺があんまりトゥイーディアの顔を見ていなかっただけだった。
あのときは確か、俺は生まれて早々親を亡くし、剣奴として闘技場に売られたんだっけな。
俺はそれを名を上げる好機と捉えて連戦連勝、みんなの中の誰かが噂を聞きつけて迎えに来てくれねぇかなーと思っていた。
来てくれたのがトゥイーディアだったときは嬉しかったね。
その嬉しさを、顔にも言葉にも仕草にも出すことは出来なかったけどね。
闘技場を脱走してから他のみんなと再会するまで、俺は確かにトゥイーディアと二人で過ごしたが、無愛想の権化みたいな男と二人で、トゥイーディアはさぞかし居心地悪い思いをしただろう。
そのときの救世主はアナベルだったかな……。
「……その手の説教はカルディオスからだけで腹いっぱいだよ」
結局、俺はそんな憎まれ口を叩いた。
はあ、と盛大にコリウスが溜息を落とすと同瞬、後ろから肩を叩かれた俺が振り返る。
「おはようルドベキア!」
ララだった。
今日という非日常を楽しみ尽くす心意気の透けたにっこり笑顔に、俺は思わず苦笑で応じる。
「ああ。おはよう、ララ」
「いよいよ今日だね! リリタリスのご令嬢って――あ」
俺の隣にいるのがコリウスだと気付き、ララはさっと蒼褪めた。
非礼を詫びる言葉を絞り出そうと彼女が唇を開く寸前、柔和に微笑んだコリウスが先手を打った。
「お早う、ララさん――でしたね。僕もルドベキアとは仲良くさせてもらっているので、彼に対するのと同じように気楽にしてくださって構いませんよ」
ララが安堵の息を漏らし、言葉に詰まりながらもコリウスに返事をする一方、俺は呆れた目を隣を歩く旧友に向けていた。
――これである。
コリウスという男、俺たち以外の人間に対しては等しく、この丁寧な口調で喋るのである。
何ならずっと昔は俺たちに対してですらそうだった気がする。
他人と徹底的に線引きをしたがるこいつの、これがその一線なのかも知れないが。
コリウスから柔和に許しの言葉を貰ったララが、中断していた言葉の続きを俺に向かって捲し立ててきた。
「リリタリスのご令嬢って、どんな人なのかな。すっごく楽しみなんだけど、立ち位置によってはお顔なんて見られないよねぇ」
リリタリスのご令嬢はな、蜂蜜色の髪に飴色の目をしていて、どんなときも絶対に折れないし、諦めないし、救世主の鑑みたいな心意気をした、めちゃめちゃすごい奴だよ――なんて答えられるはずもなく。
曖昧に唸る俺を見かねたのか、コリウスがにこやかに口を挟んだ。
「ララさんがもしもご令嬢を見られない位置に着いてしまったときは――、そうですね。後日僕の方から、ご令嬢がどんな人だったか話しましょうか」
コリウスとカルディオスは――というか、隊員の中に紛れている貴族連中は、出迎えの場における立ち位置が既に決まっている。
前の方、トゥイーディアの目に届くだろう場所が与えられているのである。
それは当然とも言えると分かってはいるが、俺が何度悔し涙を呑んだことか。俺だって一応、カルディオスの遠縁の親戚ということになっているのに。
ララもまた、少しばかり頬を膨らませた。
「お気遣いには痛み入りますけれど――、少しずるいと思ってしまいます、コリウスさま」
鷹揚に微笑むコリウス。その様子、完璧に貴公子。
「ふふ、気楽に接してくださいと言ったでしょう、敬語は不要ですよ。――とはいえ、ご令嬢は一年滞在されますからね。今日でなくとも後々に、お近づきになる機会はいくらでもありますよ」
ララはにっこりして、「そうですね」と。それから俺の方を向いて、「訓練場でまたすぐ会おうね」と手を振って、ぱっと駆け出して行った。
コリウスと一緒に歩き続けるのは落ち着かなかったんだろう。
コリウスと俺は目的地が違うので――俺は訓練場を目指すし、コリウスは野外訓練のための広場を目指す――、それからすぐに別れ、俺はそそくさと訓練場の中に入った。
訓練場の中でいつものように隊列を組む。
俺に遅れることしばし、小走りで俺の隣に滑り込んで来たティリーは、いつもは見ない髪飾りを着けていた。やっぱり今日はみんな浮足立っている。
早朝訓練はおざなりに片付けられ、上官からの終了の合図で、全員がそそくさと朝食に向かった。
その人波に従って足を進めながら、俺は同じグループにいるカルディオスとディセントラを捜して首を巡らせる。
いつもはそれぞれの四人組でまとまって食事を摂る俺たちだけど――まあ、ティリーはいつもさっさと貴族のお友達のところへ行くから、俺たちは三人でメシを食うわけだけど――、今日だけは別だという気がしたのだ。
幸いにも平均以上の背丈を授かっている俺は、すぐに難なくディセントラを発見した。
陽光を弾いて目立つ見事な赤金色の髪。緩く波打つその髪を揺らして、どうやらあっちも俺たちを捜しているらしかった。
ディセントラも女性としては背が高いが、すぐには俺たちを見付けられないらしい。
いつものように話し掛けてきてくれるニールとララに一言断りを入れてから、俺は手を振って声を上げた。
「――ディセントラ!」
声が届いたのか、人混みの中でぱっと振り返るディセントラ。
淡紅色の目が俺を見付けて、嬉しそうに輝いた。
「ルドベキア!」
呼ばわって、人波を縫ってディセントラが駆け寄って来る。
傍に来たディセントラが余りにも嬉しそうな笑顔なので、周囲の男どもの嫉妬の目が痛かった。
違う、こいつは俺を見て嬉しかったんじゃなくて、今日とうとう旧友の一人と再会できるのが嬉しいだけだから、と、俺は内心で言い訳を並べて唇を曲げる。
俺に並んで足を進めるディセントラが、少し声を潜めて言った。
「いよいよ今日ね、長かったわね」
「ああ、まあな。――カルはどこだ?」
そう言う俺に、ディセントラはむっと頬を膨らませる。
「ルドベキア、淡白すぎない?」
仕方ないだろ。
内心で代償に向かって毒づいた俺を、ディセントラは肩を竦めて見上げた。
「まあいいわ。――ねえ、ご令嬢を待つ待機の列では、頑張って近くにいましょうね。アナベルも」
カルディオスとコリウスは既に立ち位置が決まっているので、固まっていられるとすれば俺たち平民トリオだ。
立ち位置が決まっていない隊員は四人組ごとに適当に並ばされるらしいので、意識して前以て近くにいれば、お互いに傍にいられないこともなかろう。
「ああ、そうだな」
そう答えて、俺はそのときちょうど発見したカルディオスに向かって手を振った。
――朝食を流し込むようにして摂った俺たちは、食事を終えた者から順番に港に下りた。
ガルシアの西にある港に行くためには、二棟に分かれて建つ、役所を一箇所に集めたみたいな建物の間を抜けていかなければならない。
灰色の石造りのこの建物は、険しい崖を望んで建っている。
棟と棟の間を抜けるようにして、崖を下る広く長い階段が掘り抜かれているのだ。
二棟は二階部分で渡り廊下を以て繋がっているから、階段を下りる途中で、その渡り廊下の下をくぐることになる。
崖の下に広がる港は、もしかしたら土石を人の手で積み上げて、海を埋め立てて造られたものかも知れない。
本日は快晴。
東の空で輝く太陽を受けて、目の前に大きく開けて見える海が、燦然と煌めている。
蒼穹を映した青色が、波立ってきらきら光っている。
潮の匂いを吸い込んで、まだ微かに冷たい初春の風に吹かれながら、俺はカルディオスとディセントラと連れ立って、港へと続く長い階段を下りていた。
階段の幅は、十人くらいなら並んで通れそうなくらい。
一つ一つの段差は浅く、その分段数が多い。
そこを、はしゃいだ様子でカルディオスが二段飛ばしで駆け下り、遅れて進む俺とディセントラの方へ駆け戻り――そんなことを小刻みに繰り返している。
周りにいる他の隊員たちは、そんなカルディオスの様子に目を丸くしているが、気にした様子はない。
やっとのことで六人揃うのが嬉しくて仕方がないと見える。
「はしゃぎ過ぎじゃない? カルディオス」
笑いながらディセントラが言って、「別にいーじゃん!」と元気よく返すカルディオスに苦笑してから、これ見よがしに俺の方を向いて溜息を吐いた。
「こっちは落ち着き過ぎだし……」
仕方ねえじゃん。内心はすっげえはしゃいでるよ。
そんなことを思いながら、眼下の港を見遣る。
舗装された港には、既に黒い制服姿がかなりの数で見えた。
海上にはガルシアの所有する小型船が何隻か係留されているが、リリタリスの船を迎える邪魔にならぬよう、平時に比べて港の隅の方の船着き場へ追い遣られているようだった。
階段を下り切った場所で、その場を監督しているらしき上官を見付け、指示を仰ぎに寄っていく。
上官は――胸に着けた徽章からして中隊長らしい――、俺たちがどの四人組に所属しているかを確認し、それぞれに担当を伝えてくれた。
俺は海岸を検めることを命じられ、ディセントラは崖付近を点検することを命じられた。
対してカルディオスは、今夜のリリタリスのご令嬢の歓迎会の打ち合わせが――などと告げられて階段を逆戻りしていった。
「俺、聞いてない!」と言わんばかりの表情だったが、たぶん浮かれ過ぎて言われたことを忘れていただけだろう。
ていうか歓迎会とかあるのね。
それなりの身分の人たちだけで晩餐でもするんだろうけど、カルディオスが羨まし過ぎて、出来るものなら歯軋りをしているところだ。
「――コリウスも、うっかりこっちに来たりしてね……」
カルディオスを見送りながら、ディセントラがしみじみと呟き、俺は半笑いで頷いておいた。
あのコリウスに限って、「浮かれて聞いていませんでした」となることは考え難いが、カルディオスと一緒にいるときでも、コリウスが一度も今夜の晩餐会の話題を出さなかったことは確かだ。
ともかくも、俺とディセントラは手を振って一旦分かれ、俺は海辺に、ディセントラは崖の方へと歩いて行った。
点検って言ったって、何をしたらいいのかね。
港の端へぶらぶらと寄って行く。
海を望む海岸は概ね一直線に伸び、船着き場以外の場所には転落防止の欄干が設置されている。
欄干はなかなか洒落た細工が施された鉄製で、寄り掛かるとひんやりした感覚を肌に伝えた。
船着き場は小さな半島のように、海上に少し突き出る形で幾つか平行して設けられており、勿論のこと今日は、一番大きくて真ん中にある一つに、リリタリスの船を誘導する予定。
船着き場の先端には、世双珠の力で船の発着時に灯台の役割をする細長い柱が立っていた。
欄干に体重を掛けて眼下の海面を見遣る。
青緑に澄んだ海水が、ちゃぷちゃぷと穏やかに波を寄せていた。
――そのときふと、俺の肌が粟だった。
背筋がすっと冷え、思わず一歩飛び退る。
「…………?」
原因が分からず、俺は首を捻った。
何かが見えたわけでも、何かが聞こえたわけでもない。
強いていえば、何かを感じたとしか言いようがない。
なんとなく覚えがある感じだ。
空気が少しぴりっとする剣呑な気配、これは――
「あっ、いたいた!」
唐突に掛けられた声に、俺の思考は霧散した。
微かな感覚は瞬時に意識から溶け消え、僅かな気懸かりとして残りつつも、もう捉えようがない。
軽く溜息を吐いてから俺は振り返り、軽く片手を挙げてみせた。
「――よお、ニール」
ぽっちゃりした身体を小走りで俺の傍まで運んで来たニールは、軽く息を弾ませていた。
立ち止まり、ふう、と息を吐き、灰色の目を細めてにっこりと笑う。
「やあ。――ララは?」
「まだ見てない」
そっか、と呟いて、ニールは少し不思議そうに瞳を瞬かせた。
「さっき、どうしたの? 何かいた?」
「いや……」
俺は肩を竦める。欄干から不自然に飛び退いたのを見られていたらしい。
「ちょっと虫がいてびっくりしただけ」
「へえ」
そうとだけ言って、ニールは海の方を向いて伸びをする。
「あー、やっと準備が終わるね」
「そうだな」
頷きつつ、俺は今日が恙なく終わることをこっそり祈った。何しろ今生の俺は運が無いので。
「――で、点検って何すりゃいいわけ?」
首を傾げてそう問えば、ニールはにやっとした。
「正直、点検なんてもう何回もされてるよ。ぶっちゃけすることなんて無いと思うな」
俺は思わず噴き出した。
「なんだ、単なる休憩か」
「そういうことだと思うよー」
笑いながら海を見る。
こっそりと感覚を研ぎ澄ませてみたが、さっき一瞬感じた剣呑な気配はもう捉えられなかった。
海鳥が鳴き、穏やかな波音がする周囲は穏やかそのもの。
気のせいだったかな……?
――海を見て、思い出すのは予期せぬ海賊船での密航と、その後に受けた歓待である。
キャプテン・アーロの船だっけか。あいつら、まともな商売に転向したかな。
そのあと合流したララとも、だらだらと喋って時間を潰した。
軍事施設がこんなことでいいのかは大いに疑問だが、準備のメインはカルディオスとコリウスが参加している晩餐の打ち合わせの方だろう。
その間に俺たちに訓練をさせない理由としては、万が一にも令嬢の到着前に訓練で怪我人が出たりするのを避けるためか。
昼食の配給の合図の笛が鳴ったとき、俺は偶然アナベルを見付けた。
どうやら、係留されている船の内部を検めることを命じられていたらしい。船着き場をのんびりと歩く姿を発見して手を振ると、向こうも俺に気付いたのか、軽く手を振り返した。
「――ルドベキアって、アナベルとも仲がいいのね」
その遣り取りを見て、ララがふと呟いた。
仲がいいか悪いかで訊かれれば、無論仲がいいと言えよう。
なので、俺は頷く。
「ああ、まあな。――なんで?」
なんでそんなこと言う? との意味を汲んで、ララは苦笑する。
「いや、なんか……アナベルって冷たくて取っ付きにくいというか。あんまり喋ったことないのよね」
俺はちょっと黙り込んでから、笑って頷いた。
「まあ、それは否定しない」
本人が聞いていたら冷たい目で一瞥されそうなことを言って、俺はさり気なく歩調を落としてアナベルを含む四人組が追い着いてくるのを待った。
――配給の昼食(硬い黒パンで作られたサンドウィッチだった)を立ったまま食べている最中に、港へ続く広い階段を降りてくる貴族出身者たちを発見した。
察するに既に昼食を済ませているらしい。
並んで歩くカルディオスとコリウスが、遠目でも確認できた。
勿論のこと、ティリーもあっち側にいるので、海を眺めながらの雑談なんてしていたはずもない。
その一団は、そのままさっさと船着き場の近くに進んで行った。
太陽は中天に達しようとしている。
青く煙る水平線には、まだ船影はない。
だが、着実にトゥイーディアはここに近付いて来ているはずだった。
ぼんやりとサンドウィッチを飲み込みながら、俺は最後に見たトゥイーディアの顔を思い出す。
――怒ったような顔だった。
それが、俺がトゥイーディアを庇って(トゥイーディアの主観では、ディセントラを庇って)無謀にも飛び出したことへの怒りだったのか、つまらなさそうな顔で俺の首を叩き斬ろうとしていたヘリアンサスに対しての怒りだったのかは分からない。
死に際にちょっとだけ顔を見ようとして振り返って、辛うじて見えたあいつの顔。
出血が多かったから、あのときのあいつの顔は青白かった。
汗と血で汚れて、蜂蜜色の髪をその頬に張り付かせていた。
飴色の目が、燃えるような意志の強さを湛えて俺を――あるいは、ヘリアンサスを見ていた。
笛が鳴って、俺ははっと我に返った。
この笛は確か、整列しろとの合図だ。
え、まじで? まだ船の影すら見えてないんですけど。何かがあって到着が遅れるのかも知れないのに、もう並ぶの? 俺たち、ずっと立ちっぱなし?
――とか何とか思いつつも、俺は慌ててサンドウィッチの残りを食べ切って、動き始めた隊員の波に押し流されるようにしながら歩き始めた。
ちらっと振り返ると、近くにアナベルがしっかり付いて来てくれている。
俺たちには一応、所属している小隊がある。
小隊は中隊を成し、中隊は大隊を成し――という形で指揮系統が作られているわけだけれど、この場においては特段、小隊ごとに並べという指示はなかった。
いつもの四人組さえ一緒にいればいいらしい。
そっくり同じ制服を着た三千余人が、港に整然と並んだ。
俺は中ほどよりやや前の方に押し込まれ、姿勢を正して立ちつつも、その一糸乱れぬ行列にちょっと息が詰まりそう。
右隣にニール、その更に右隣にララ。左隣には名前も知らないにきび面の、俺よりちょっと年下と見える少年。
その前――俺の左斜め前にアナベル。
ディセントラがいつの間にか俺たちを見付けてくれていて、しれっと俺の右側の、何人かを挟んだ後方にいた。
びしっと整列する俺たち。しっかり軍帽まで被っているので、ますます全員同じに見える。
っていうか、マジでずっとこのまま待つの? 疲れるんだけど。
今生の俺は運が無いので、トゥイーディアの到着が夕方になりましたと言われても全然驚かない。
どんだけこのままの姿勢でいなきゃいけないのか、俺は軽く絶望し掛けた。
ふとアナベルを見ると、後ろ姿でも分かる――立ったまま居眠りする態勢に入っていた。
器用だな、おい。
ちら、と右隣に視線を向ける。ニールと目が合った。
「つらくね?」と唇の形で伝えると、切実な頷きが返ってきた。ちょっと微笑ましい。
――まあ、いいか。見知らぬ令嬢の歓迎のためならやってられないけど、これは一応、トゥイーディアのためだし。
漂流に比べたらまだ全然マシだし。
そう思い直した俺は、無言で天を仰いだあと、こっそり気合を入れ直したのだった。
整列してからどのくらいだろう――体感と、太陽の動きから推すに、一時間くらいか。
暇を持て余して、目に入るあらゆる物を数えたり、その数と別の何かの数を足したり掛けたり、またそれを別の何かの数で割り戻したりしていた俺は、前の方で微かなざわめきが起こったのを聞き付け、軽く背伸びした。
背が高く生まれついて良かった。
幾人もの頭越しに海が見える。
藍色に煙るその水平線に、今、一隻の船が見えていた。
――心臓の動きが速くなったのを自覚した。
代償がなければ、俺は興奮の余り叫んでいたかも知れない。あるいは顔を赤くしていたかも知れない。
トゥイーディアの船だ、と確信した。
この海は広い。
他の船がたまたま視界に入っただけだということも十分に考えられるのに、そのときの俺は確信していた。
あれは、トゥイーディアが乗っている船だ。
リリタリスの船が接岸する予定の船着き場で、灯台代わりの柱の、その先端がぴかりと強く白く光った。――合図だ。
ぴかりぴかりと、予め決められていたのだろう符牒として、不規則に明滅する柱の先端の光。
それに応えて、遠くに見える船の船首が光った。
こちら側とは異なる不規則さで、しかし確かな符牒として、相手方の船首で白光が明滅する。
「――リリタリスの船だ」
「ご令嬢だ」
「船でけぇ……」
周囲で、堪え損ねた声が漣のように広がった。
俺は胸が詰まって言葉にならない。
代償さえなければ泣いていたかも知れない。
トゥイーディアと再会するとき、俺はいつもこんな気持ちになる。
俺が人生の最後に見るトゥイーディアは、いつも傷を負ってぼろぼろで、それでも決して泣き言は言わず、強烈なまでに確固たる意志を持って死へと突き進んでいく姿だから。
だから、また生きているトゥイーディアと会えるのが、いつもいつも、本当に、心の底から嬉しいのだ。
「……イーディ――」
アナベルが小さく呟くのが聞こえた。
多分、他の人には聞こえなかっただろうくらいに小さな声。
俺たちの最後の一人が近付いてくる。
長かった。長かったけれど、やっと会える。
また沢山嫌な思いをさせるだろう。
歯痒い思いをすることになるだろう。
だけど俺は、トゥイーディアの姿を見られることが嬉しい。
声を聞けることが嬉しい。
無事で、元気で、生きていてくれるのだと、目で見て確認できることが、言葉を聞いて確信できることが、――嬉しい。
慌ただしく誰かが崖を登る階段を上がっていった。
恐らく、まだここに来ていないテルセ侯爵たちを呼びに行くのだろう。
上官からの号令が掛かる。静粛に、姿勢を正せ、無礼は罷りならん。
俺はその声も上の空で聞き流して、早く早くと念じながら、海上に見える船影を見詰める。
早く来い、もっと速く。
トゥイーディアを連れて来てくれ。
俺の心情からすれば、遅すぎるほどにのろのろと、船影は徐々に大きくなってきた。
船の仔細が見て取れるようになると、俺の知っているどの船とも形が違うことが分かった。
まず、特筆すべきはその大きさ。
俺が見たことのあるどの船より大きい。密航に使ったキャプテン・アーロの船の三倍の大きさはあるんじゃないだろうか。
そして、やっぱり外輪船。
世双珠を使って蒸気を起こし、それを動力として動いている――その証拠に、やっぱり船には煙突が付いて、もくもくと煙を吐いている。
甲板が随分と狭い。甲板――というのが正しいのか、あるいは単なる通路というべきか。通路というには広いが、甲板であると断言するには狭い。
そして上構がでかい。船の上に建物が載ってるみたいだ。
船全体が白く塗られ、上構――何層構造なんだろう――の硝子窓が、陽光を燦然と弾いて白く輝いていた。
外輪はどうやら船体の後ろにある様子。
船首の方から、上構に入るアーチ形の入口が見えた。
扉は開け放たれていて、そこに誰かが立っているのが、豆粒のような大きさで見える。
――トゥイーディアではない。全く見知らぬ――男だ。
まさかあいつが婚約者候補ではなかろうな。
もしそうならば、俺はあいつの転落を全力で祈るが。
護衛艦がくっ付いてくるのかと思っていたが、見る限りでその船は一隻限りでこちらへ向かっていた。
新興国に押されて国力を落としつつあるというレイヴァスに、王侯でもない娘のためにそこまでの船を準備する余力がなかったのかも知れないし、あるいは途中の海上で、それこそレヴナントに襲われたりして犠牲になったのかも知れない。
そんなことを考えているうちに、テルセ侯爵とその子息が到着した。
彼らが最前列に向かって歩く最中は、一応全員が頭を下げる。
俺は今、トゥイーディアが乗っている船から一秒たりとも目を離したくないので、内心で痛罵を並べながらの礼だった。
代償さえなければ、俺は間違いなく、一人だけ頭をしゃんと立てたままだっただろう。
侯爵たちも定位置に着き、無事に全員集合。
港は静まり返り、全員が等しくその船の到着を待った。
いよいよリリタリスの船は接近し、窓硝子の数を数えられるほどの距離になった――そのとき。
唐突に、水柱が立った。
船の後方、こちらから見れば左側。
船との距離はあるように見えたが、波立った海面に、巨大な船が上下に揺れるのが分かった。
まるで砲弾が着弾したかのような水柱――だが、何かが着水したがゆえに立ったものではないということは、誰の目から見ても明らかだった。
「――なんだ……?」
「レヴナントか……?」
「いや、違う――」
「なんだあれ……?」
周囲が一気にざわめきに満ちる。
今までの浮かれたざわめきではなく、軍人が危機に対処するがゆえのざわめき。
――その中で、俺は一気に真っ青になっていた。
顔を見なくても分かる、アナベルも、ディセントラも、俺と同じ顔をしているだろう。
リリタリスの船の後方で立った水柱。
何かが着水したがゆえのものではない、逆だ。
海中から勢いよく、何かが飛び出したがゆえに立ったものだ。
海中から海上へ、屹立したそれは巨大だ。
誰かがさっき、レヴナントかと口走っていたが、状況が許すなら「おまえは馬鹿か」と突っ込んでいただろう。
明らかに違う、絶対に違う。
そして、俺たちはあれが何なのかを知っている。
吐き気がする。冗談抜きに眩暈がした。
「なに――あんなの見たことない……!」
慄いたララの声が聞こえてきたが、返答どころではない。
だってあれは――あれは――
海面の波は徐々に落ち着いている。
船が大きな揺れをやり過ごすことができた一方、唐突に現われたそれに、船上がパニックになっているのが見て取れた。
何人もの人が上構から飛び出して来ては悲鳴を上げている。
海上に屹立するそれは、一見すれば鋼鉄で出来た楕円。
本体と思しき楕円の周囲に、同心円を成す鋼鉄の輪を幾つか備え、よくよく見れば本体は高速で回転しているのだと分かる。
鋼色の筐体には幾つも凹みがあり、本体である楕円も、下部が一部欠損している。
同心円を成す鋼鉄の輪のうち最も内側のものは無残にぶった切られ、欠けた状態になっている。
息が止まりそうなほどに見覚えがある。
前回の人生で危うく殺され掛けた。
――あれは前回、魔王ヘリアンサスが海を越えて大陸を攻撃するのに使った、そして俺たちを大いに苦しめた巨大兵器、そのものだ。
気が遠くなり掛けた俺だったが、ざわめきを貫いて轟いた声にはっとした。
「下がってください! 危険です! 船に警告を! 離れるように合図してください!」
コリウスの声だ。
あいつは貴族だから、最前列に近いところにいる。
たぶん、あいつの周囲は相当なパニックなんだろう。
落ち着かせるための大喝といったところか。
でも俺は、正直それどころじゃない。
いっそ自分を殺したい。
――魔王城から逃げ出した直後、確かに疑問に思ったじゃないか?
どうして追手が来ないんだろうと不思議に思ったじゃないか?
――あれだ。
慄然としながらも、俺は確信した。
――俺に掛けられた追手はあれだ。
魔界から逃げ出した魔王に、南の島の魔族たちは、彼らの技術の粋を集めて百数十年前に造り上げられた、最高の兵器を差し向けてきたのだ。




