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18◆――作法も礼儀も

 ――いつも朝食を食べるあの部屋で、俺に食欲がないことをレイモンドが発表すると、使節団の若手たちはどよめいた。


 チャールズは特に、俺の顔を覗き込んで顔を顰めて、


「どうした、大使さま」


 と、心配八割、揶揄からかい二割の声音で尋ねた。


「いつもあんなにいっぱい食べるのに」


 訊かれた俺がおろおろしてしまったので、周囲から一斉に、「大使さまをいじめるな」という声が上がっていた。



 円卓には朝食の支度が整っていたが、結局俺は食べられなかった。


 俺の分はみんなが手分けして食べてくれたが、レイモンドはそんな俺をいたく心配して、「今日は庭園の散歩はやめましょう」と言い出した。


「いや、顔色はいいじゃん。体調不良じゃねえだろ」


 チャールズはそう言ったが、「無理はいけないと思います」とパトリシアが神妙な顔で言ったことで議論が決着して、俺はどうやら、今日はずっと部屋で過ごすことになりそうだった。



 願ったり叶ったりである。

 ちょっとでも知識をつけておかないと、なんだかトゥイーディアが俺に魔法を教えることを諦めてしまいそうだし。



 そんなわけで、俺は部屋に引っ込むことになったが、今日はレイモンドと一緒にパトリシアが付いて来てくれた。


 更に、せっかく晴れているのだからということで、部屋の外のバルコニーで勉強することになった。

 まだ寒いですよ、とパトリシアは渋い顔をしたが、レイモンドはどうも、俺を一定時間日光に晒さねば不安になるようだった。



 燦々と陽光が降り注ぐバルコニーは広い。

 俺は従前から、この宮殿は人間よりも大きな何か他の生き物のために造られたのではないかと思うことがあったが、その例に漏れぬ大きさである。


 ぽこぽこと水の湧く噴水もあるし、どっしりと大きな石造りのテーブルと椅子も置かれている。


 眩しい陽光のお陰で、紙の白さはいっそう際立ち、インクの色はますます濃く見えていた。


 本を開き、風に靡いて捲れてしまいそうになる頁を他の本を重石にして押さえつつ、俺はひたすらに本を書き写していった。

 分からない言葉があると、俺は最初はレイモンドに訊いていたが、そのうちレイモンドが誰かに呼ばれて席を外してしまったので、パトリシアに訊くようになった。


 パトリシアは、訊かれたことに答えるだけではなくて、関連することもついでに教えてくれることが多かったので、俺は大いに助かった。


「――なあ、この、ルーレクスってなに」


「地名です。西の大陸に昔あった町らしいですよ。今はありませんけれど。その隣にあったと言われているのがアルサムです」


「なるほど……」


 よく分からないまま頷く俺に、パトリシアは微笑んだ。


「経典はつまらないでしょう」


 つまらないも何も、まず分からない単語が点在している時点で難読だ。

 ――そう思いつつ、俺は首を振っておいた。



 しばらくするとレイモンドが戻って来て、俺の向かい側に腰を下ろした。


 そして、ごく普通の声音で言葉を掛けてきた。


「――ルドベキア」


「うん?」


 俺は手を止めて、顔を上げた。


 その拍子に、左手の甲にインクが飛んでいるのに気が付いて、そっとペンをインク壺に立て掛けて、右手の指先でインクを擦って落とそうとした。

 インクはちょっと掠れたものの、頑固に俺の皮膚の上に留まった。


 俺のそんな様子を見ながら、レイモンドはごくあっさりと言葉を続けた。


「ルドベキア、明日、採寸があります」


「さいすん」


 復唱して、俺はぽかんとした。


 パトリシアは痛ましそうに顔を顰めたが、レイモンドは「やっぱりね」と言わんばかりの諦めの表情だった。

 そして、ゆっくりと説明してくれた。


「あのね、あなたのために服を作るんです」


 俺はますます目を見開いて、部屋の中を指差した。


「あるよ、いっぱい」


「あれはね、この国の方たちがご厚意で用意してくださったもので、ある程度の寸法違いは許容できる意匠の、既製服です」


 取り敢えず、俺は頷いた。

 レイモンドは微笑んで。


「仕立屋の都合がついたので、明日、ここに呼びます。そこであなたの寸法を計ってもらって、正式な場で着られるような、あなた専用の服を作るんです」


 あんまりよく分かっていなかったが、急遽、明日に予定が入ったということは分かったので、俺は頷いた。


 そんな俺を横目で見つつ、パトリシアがレイモンドに向かって、確認するように言った。


「予定より少し遅くないですか。晩餐会に間に合います?」


 不穏な単語に俺はびくついたが、レイモンドはそれを無視してパトリシアに向き直った。


「見繕ってた仕立屋が、〈洞〉が開いたせいで廃業してたんだよ。店舗と従業員の半分をやられたってね。だから他のを当たるしかなかった。

 ――とにかく大枚を払って、他の仕事を後に回してくれって頼み込んだ。交渉はほとんどチャーリーに任せたけど。工房総出で当たってくれるらしいから、最初の一着はぎりぎり間に合うだろうってさ」


「ああ、人海戦術で何とかしてもらうんですか……。何て工房です? あとでお礼に行かないといけません」


「相場の三倍払ったんだぜ? これ以上の礼があるか?」


「工房の方たちは、先に貰っていた仕事の依頼主に頭を下げるんでしょうに……」


 なんか大変なことになっているらしいぞ、と思いながらも、俺はこそっと声を上げた。


「あの、晩餐会……?」


「言ってませんでしたっけ」


 と、レイモンド。


 俺は何も聞いてないよ、という意味を籠めて首を振ってみると、レイモンドはにこっとした。


「今日含め、あと四日は予定がないでしょう。その後に、晩餐会があります」


 俺は慄いた。


「ここに来た日にあったのに……」


「あれはね、」


 と、レイモンドは噛んで含めるように。


「王さまと、キルディアス閣下と、その他有力な貴族が参加したものです。

 キルディアス閣下の敵陣営の方はいませんでした」


 その割には、キルディアス閣下も()()()()してたけど……? と思いつつ、俺は頷く。


 レイモンドは、なんとなく俺を憐れむように見て、はっきりと言った。


「今度の晩餐会は、それよりも大きくて、正式なものです。

 公式の場における、あなたの歓迎の晩餐です」


 歓迎するなら放っておいてくれ、と、俺は結構真剣に思った。


「以前のものより遥かに沢山の人がいらっしゃいますし、事によると立食形式になります」


 俺が怯えた顔をしているのを見て、レイモンドは苦笑した。


「ここがヴェルローじゃなくて良かったじゃないですか。もしヴェルローに向かっていたら、あなた、初日に舞踏会に引っ張り出されていましたよ」


「ぶとうかい……?」


 茫然として反復した俺に、レイモンドはちょっと顔を顰めて言葉を選ぶ風情を見せてから。


「ええっと……一番正式な社交の場ですよ。踊らないといけないので、まあ、地獄だったでしょうね」


 俺は半ば以上が理解できていなかったが、一生涯絶対にヴェルローに行くものか、ということだけは決意した。


 そんな俺の表情を見て、レイモンドはふふっと笑った。


「ヴェルローは、女王の気質でしょうが、派手好きですからね。客人のためにも舞踏会を開きます。

 それに対して、レンリティスでは舞踏会は()()()()()()()()ですから。例えば、王さまやお貴族さまはご自身のお誕生日に舞踏会を開くんですけどね。

 ――我々使節団は、勿論のことレンリティスで舞踏会が開けるような会場を持っていませんから、私たちのために舞踏会を開くことは出来ませんし、この国の方々に、他人の歓迎のために舞踏会を催す慣習はありません。命拾いしましたね、ルドベキア」


 その代わり、と、パトリシアが後を引き継ぐようにして、ごく穏やかに言った。


「――レンリティスの、客人のための晩餐会は豪華ですよ」


 う、と呻いた俺を気の毒そうに見て、パトリシアは溜息を吐いた。


「それに、あなたを歓迎する正式な晩餐会ともなれば、キルディアス閣下であってもパルドーラ閣下を招待名簿から除外することは出来なかったでしょうから。――きっとパルドーラ女伯もいらっしゃいますよ」


 俺は瞬きした。



 今朝会ったばかりのトゥイーディア――彼女が大笑いしていた姿を思い出すと、晩餐会を嫌がる気持ちがすうっと遠のいた。


 ()()()()()()()()()()ではなくて、()()()()()()()として晩餐に参加する彼女は、恐らくおっかない顔をしているだろうが、俺の礼儀知らずを、笑いはしても怒りはしないだろう。


 それに彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ような人だ。


 魔法技術展の舞台上で凛と頭を上げていたように、毅然とした態度で晩餐会にも臨むに違いない。



 ――だったら、まあ、大丈夫だろう。


 公式な立場では、むしろ俺はパルドーラ伯の敵対陣営の一人だというのに、その事実をすっかり忘れて、そんなことを俺は根拠なく考えていた。



 俺の表情の変化をどう見たのか、レイモンドがテーブル越しに身を乗り出してきた。


「――ルドベキア、絶対に女伯に近付いてはいけませんよ。キルディアス閣下のお怒りを買ってしまいますし、第一、あのお二人の間に立ってしまうと、命が幾つあっても足りませんからね」


 俺は、なんとなくむっとした。


 なんで自分の感情がそういう風に動いたのかは分からなかったが、俺は不承不承頷いた。



 ――あの庭園で会うのは、()()()()()()()()()()だし。

 多分、本当に多分だけど、伯爵っていうのは偉い人だから、()()()()()()()()()()と会う機会のある人はそうはいないだろう。


 大抵の人が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()としか会ったことがないはずだ。



 そんなことを考えながら、俺はもういちど頷いた。


「……うん、分かった」


 ほんとに分かってんのかこいつ、という目で俺を見てから、レイモンドはパトリシアと目を合わせた。


「――ルドベキアには、あのお二方の仲の悪さを後でまた言い聞かせるとして、……立食形式になれば作法も変わるぞ。どうする」


 パトリシアは肩を竦めた。


「今日から、夕飯を立って食べます?」


 レイモンドはにこりともせず、頷いた。


「いいね、それ。チャーリーと相談しようか」


 それに対してパトリシアが乾いた笑いを漏らしたところで、レイモンドは俺を見た。


 さっきと違って、温かい眼差しだった。


「――ルドベキア、ずっと書写をしていたのでは疲れたでしょう。何か飲みます?」


「私、お茶の支度をして来ます」


 そう言ってパトリシアが腰を浮かせたのを、レイモンドが見上げて瞬きした。


「僕が行くのに」


「レイモンドさん、戻られたばかりじゃないですか。それに、ちょっと肩掛けが欲しいということもありますので、お気になさらず」


 パトリシアはそう即答して、素早く部屋の中に戻って行った。



 俺がまたしばらく書写をして、分からない単語をレイモンドに訊いたりしている間に、日が翳って、そしてまた雲を抜けた陽光が降り注ぎ始めた。


 レイモンドは、俺が触っていない本を手に取って読み始め、俺とは比較にならない速さで文字を追い掛けて情報を拾っていっていた。


 俺は何度か、質問のためにその読書を遮ったが、レイモンドには苛立った様子すらなかった。

 むしろ尋ねる度に笑顔を見せてくれたので、俺もなんだか嬉しかった。



 そうこうしたりしているうちに、肩掛けを羽織ったパトリシアが戻って来た。


 パトリシアは、お茶の準備のためのワゴンと一緒に戻って来たが、そのワゴンには車輪がなかった。

 というか、地に足をつけていなかった。

 宙に浮かんで、押されるがままに動くのである。


 使われている世双珠はそんなに質のいいものではなさそうだったが、〈動かす〉には至らない、〈浮かせる〉程度の魔法を恒常的に掛けておくには、確かに十分な世双珠ではあった。


 パトリシアはそんな風変わりなワゴンを押して登場して、いきおいそのままお茶の支度をしてくれた。


 白磁の茶器は簡素な意匠だったが、レイモンドは俺がそれを割ったら大変だと思ったのか、「ぱっと見ですが、めちゃくちゃ高級品ですよ」と念を押した上で俺にそれを触らせた。


 パトリシアは甲斐甲斐しく、俺たちそれぞれの前に紅茶を淹れた茶器を出してくれたが、途中で冗談なのか本気なのか分からない声で、


「女性を立たせるものじゃないですよ、もう」


 と呟いて、俺を大いにぎょっとさせた。


「おまえから立ってくれたんだろ」


 と、レイモンドが応じる一方で、俺はちょっと茫然としつつ、「……そうなの?」と。


 レイモンドが俺を見て、首を傾げた。


「何がです?」


 俺はレイモンドを見て、それからパトリシアを見て、もういちどレイモンドに視線を向けたうえで、小声で尋ねた。


「女性は、立たせるものじゃないの?」


 パトリシアが笑い出した。

 同じ笑い声でも、俺はその声を花みたいだとは思わなかった。


 一方のレイモンドは苦笑して、「そうですね」と。


「一般に、例えば女性が来たら席を譲るとか、そういう風潮はありますが、――あなたはそれほど気にしなくていいですよ。何しろ大使さまです。大抵の人よりは、気を遣ってもらっていい立場ですから」


 かくかくとした仕草で、取り敢えずその場は頷きながらも、俺は内心で蒼白になっていた。



 ――気にしなくていいなんて、そんなわけがない。



 今朝のトゥイーディアは俺に対してどれだけ呆れていたのかと、そう考えを馳せて、俺はだんだん怖くなってきた。









 その日の夕方、俺は出来れば庭園まで行きたかったのだが――トゥイーディア曰く、夜明け頃と夕方は、彼女に会える可能性が高いらしいので――、残念ながらそれは無理だった。


 バルコニーでの勉強は、昼食を挟んで続行され、夕食の時間に終了した。

 つまり、それまで俺から人の目が逸れることがなかったのである。


 昼食を俺がちゃんと食べたことで、レイモンドは大いに安心したようだった。

 心配させて申し訳ない限りだ。


 夕食前に、レイモンドはいちど席を外したものの、そのときには俺はチャールズたちと一緒にいたので、今さら抜け出して庭園まで行くことは出来なかった。


 チャールズたちは、迫る晩餐会に向けて、俺の礼儀知らずをどう誤魔化すかを真剣に話し合っていた。


「――粗相をしてみろ、さすがに侯爵もご立腹だろうな」


「身近なところで言うと、上の方々も切れそうだな」


「通常の、席に着いて食べる晩餐なら何とかなるのでは――」


「逆だ。立食の方が誤魔化せる」


「立食なら、最悪食べなきゃいい」


「馬鹿、食べなきゃその分喋らなきゃいけないだろ。食べるより喋る方が難易度高いんだって」


 などなど。


 当事者たる俺は、今ひとつ危機感を共有できずにぼけっとしていた(し、自分では島を出発した直後に比べたら全然マシだという免罪符を持っているつもりでいた)が、チャールズたちの目はガチだった。


 レイモンドが戻って来たところで夕食となったが、俺の隣に着いたチャールズは、いつもよりいっそう俺の作法に目を配った。

 あれこれと隣から言われて、俺は目を回してしまった程である。


 とはいえ疲労困憊具合はチャールズも変わらず、彼は、「腹が痛い……」と自己申告していた。



 そのあと、レイモンドは「疲れたでしょう」と苦笑して、俺を湯殿に連れて行ってくれた。


 広々とした湯殿で、俺はめちゃめちゃ元気になった。


 レイモンドと並んでお湯に浸かりながら、俺は(くだん)の晩餐会の後の予定を訊こうとしたが、これはもうレイモンドでも把握していないらしかった。


「実をいうと、まだ白紙なんですよ」


 湯気の中で笑って、レイモンドは汗の浮いた額を掌で拭う。


「どなたにどういう場にお誘いいただけるか、ですね。出来るだけ沢山、色んな場所にお誘いいただけるといいのですけれど」


 俺が不安な顔をしたことを湯気越しに見て取って、レイモンドは安心させるように俺の肩を叩いた。


「ああ、大丈夫ですよ。そういうお誘いは、あなたに直接いくのではなくて、私たちを経由するようにしますから」


 ――いや、誘いが来ること自体が不安なんだけど。


 そう思いはしても、さすがにお役目のことを考えると、お誘いがないと(まず)いのは分かる。

 俺は辛うじて頷いた。



 湯殿から部屋に戻って、また少し本を読んだあと、レイモンドは自分の部屋に戻る前に、俺に時計をくれた。


「これ、言っていた、音が鳴る時計ですよ」


 俺は両手で時計を受け取った。


 時計は俺の握り拳程度の大きさだったが、ずっしりと重かった。

 盤面は時計の真ん中にあって、小さくて、陶器のように真っ白だった。

 時字は実直な数字で描かれていて、針は黒くて真っ直ぐだった。

 時計を裏返してみると、簡単に開閉できる蓋があって、そこを開くと世双珠が設置されている。


 世双珠は二つあって、一つは、かちこちと動く針の動きに従って動くもの。

 そしてもう一つが、好きな時字の裏側の位置の窪みに設置するようになっているものだった。


 どうやら、この世双珠を設置しておいた時字の位置に針が来ると、二つの世双珠の間で魔力の干渉があって音が鳴るらしかった。



 俺はレイモンドを見上げ、こういうとき何て言うんだっけ、とちょっと考えてから、口を開いた。


「――ありがとう、レイ」


「どういたしまして」


 レイモンドは目を細めてそう言って、首を傾げた。


「仕組みは分かります?」


「うん」


 俺が躊躇いなく頷いたので、レイモンドはいっそう微笑んだ。


「魔法と世双珠に関して言えば、あなたは本当に天才ですね」


 俺は瞬きして、首を傾げた。


 レイモンドは笑って俺の肩を叩き、「おやすみなさい」と。



 レイモンドを見送ってから、俺は広くてふかふかしている寝台の真ん中で胡坐を掻いて座り込み、時計の世双珠を夜明け前の時刻の位置に置いた。

 これで、ちゃんとあの庭園まで行く時間が出来るはずだ。


 ついでに世双珠にちょっとだけ干渉して、部屋の外には音が漏れないようにしておく。


 特技を使うにも、俺は結構どきどきしたが、ここには俺以外の人はいないし、()()()()()()()()()だから、()()()()()も大っぴらに俺を櫃に閉じ込めたり――あるいはその代わりとなる懲罰を与えたりすることは出来ないはずだった。



 そういう一連の作業を終えて、時計の蓋を閉める前に、俺はふと思い立ってもういちど世双珠を手に取った。



 ――今、この世界には数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの量の世双珠が溢れている。


 だから、このひとつだけに、()()()の意識が向くかは分からないけれど。



「――ヘリアンサス、俺のこと覚えてる?」



 世双珠を覗き込んで呟いて、俺はその緑色の光に目を細めた。



「面白い人に、面白い魔法を教わるんだ。

 俺が、ちゃんと出来るようになったら、おまえも面白がってくれると思うな」



 もちろん応答はなかったが、俺は言葉を続けた。



「――番人ルドベキアは、守人ヘリアンサスにおやすみを言う」



 そう言って、いったん元の位置に世双珠を収めたところで、俺は慌てて世双珠をもういちど取り出した。



 ――おやすみ、って、なに?



 あの黄金の目を瞬かせてそう言うヘリアンサスの顔が思い浮かんで、俺は睡眠をとらないあいつのために、おやすみの意味をちょっとだけ変えて教えてやることにする。


 この声があいつに届いているかどうかは知らないが。



「――おやすみっていうのは、夜の挨拶だよ、ヘリアンサス」



 そう言って、今度こそ俺は世双珠を元の位置に戻して、時計の蓋を閉めた。





◆◆◆





 枕の傍に置いた時計がりんりんと音を鳴らしてくれたお陰で、俺は夜明け前に目を覚ますことが出来た。


 世双珠をいったん時計から取り外して音を止めて、俺は昨日と同じように、そうっと寝台から滑り降りて着替え、そうっと靴を履いて、足音を忍ばせて部屋を出た。



 二回目となっても、抜け出すのはどきどきする。


 実際に俺は、さっきの時計から世双珠を取り外したように、自分の胸から心臓を取り外せるものならばそうするのに、と真剣に考えていた。



 とはいえ、今日も昨日と変わらなかった。


 忙しく立ち働いているのは使用人の方々だけで、俺に見向きする人はいなかった。

 俺は顔を伏せて、こそこそと宮殿を抜けて、やっぱり心臓を口から吐きそうになりながら、清掃の人に紛れて宮殿の外に出た。


 衛兵さんの視線が突き刺さるような気がして、階段の下まで辿り着いたときに初めて、俺は自分が息を止めていたことに気付いたくらいだった。



 すう、と大きく息を吸い込んで、俺は顔を上げた。



 今日は曇っていて、空はどんよりとした灰色で、朝日を閉じ込める心積もりのようだった。

 そのために、昨日と比べても周囲は薄暗い。


 冷えた風の吹く中を、俺は肩を窄めながら足早に湖まで歩いて、今度こそ絶対に迷うものかと思いながら、昨日辿った道を思い返して足を運んだ。



 ――いや、実際は迷ったが、昨日ほどひどく迷うことはなかった。

 一回だけ、曲がるべきところを直進してしまっただけだ。


 すぐに気付いて引き返したから、俺は昨日よりも随分速く、あの庭園に辿り着くことが出来た。



 蔦の絡む狭い階段を昇りながら、俺はどきどきしてきた。

 宮殿を抜け出すときとは、また種類の違うどきどきだった。


 俺の心臓は変に忙しい。


 今日は、トゥイーディアは庭園にいるだろうか。

 ここでは知らない振りをしているけれど、実際の彼女は伯爵さまだ。

 さぞや忙しい毎日だろう。


 連日来てくれることなんてあるんだろうか。


 人知れず心臓をばくばくさせながら、石段の最後の数段を昇り切り、俺は広い庭園を覗き込んだ。


 そしてすぐに、大きく息を吸い込んだ。



 ――トゥイーディアは、今日もちゃんとそこにいてくれた。



 今日は東屋で、膝の上に本を置いて頁を捲っている。


 濃緑色の繻子の、やっぱり簡素な形のドレスを着ていて、今日はその上から白い天鵞絨のストールを羽織っている。

 蜂蜜色の髪は、昨日と違って半ばを結い上げてふわっとした形の髷にしていた。


 時折片手を持ち上げて、額髪をぼんやりといじっている様子だった。



 俺は吸い込んだ息を吐き出して、強いてゆっくりした足取りで、庭園の中に踏み込んだ。

 こつ、と、靴裏が石の小道にぶつかって小さく鳴ったが、トゥイーディアには聞こえなかったようだった。


 庭園の一段目を越えた辺りで、トゥイーディアが全然こちらに気付いてくれないのに訳もなく少し焦って、俺は、まだ距離のある彼女に向かって声を掛けた。


「――トゥイーディ、イーディ、ディア」


 ぱっ、と、トゥイーディアが顔を上げた。


 そして俺を見て、飴色の大きな双眸を、ますます大きく見開いてまんまるにした。



 ――やっぱり、()()()()()()()()()()()()

 昨日は晴れてたから、何かの加減でトゥイーディアに光が集中していただけ――なんてこともあるかもと思っていたが、違うらしい。


 曇天の下であっても、トゥイーディアはやっぱり明るく見える人だった。



 そんなことを考えながら、小川を渡って奥へと進む俺。


 トゥイーディアは膝の上の本をぱたんと閉じて立ち上がり、籐細工の籠を乗せている長椅子脇の円卓の、他の本を積んだ上にそれを置いた。


 そして、俺に席を譲るように一歩長椅子の前から退きつつ、ふわ、と微笑んで、俺に向かって軽く頭を下げた。


「――おはようございます。偶然ですね、ルドベキア。

 今日もいらっしゃるなんて、ちょっとびっくりしてしまいました」


「おはよう。うん、偶然だな」


 真面目腐ってそう言った俺に向かって、トゥイーディアはくすくす笑いながら長椅子を示してみせた。


「では、せっかくですからお掛けください」


 俺は息を吸い込んで、首を振った。


 トゥイーディアは不思議そうに瞬きして、首を傾げた。

 額髪が揺れて、大きな瞳が強調された。


「……どうされました?」


「す――座ってて」


 と、俺は若干緊張ぎみに応じた。


 俺は学習したのだ。

 二日続けて、同じことでトゥイーディアを呆れさせてはならない。


「俺、立ってる。あの……トゥイーディは、女の人だから」


 トゥイーディアはますます大きく目を見開いて、一秒後、噴き出した。



 ――やっぱり、花みたいに笑う人だった。



 朗らかに一頻り笑ってから、トゥイーディアは目許を拭いつつ、やや上目遣いに俺を見て、笑みの残滓を残した声で、探りを入れるように尋ねた。


「――どなたかからの入れ知恵ですか?」


 俺がぶんぶんと首を振ると、トゥイーディアはまた少し笑って、肩を震わせながら円卓に歩み寄り、本を一冊取り上げた。


 そうして、長椅子にすとんと腰を下ろして、俺を見上げて首を傾げた。


「分かりました。では、ルドベキア。お話のしやすい場所にいらしてください」


 俺はほっと息を吐いて、おずおずと長椅子を回り込んで、トゥイーディアの斜め後ろに立った。


 トゥイーディアは視線だけでこちらを振り返る素振りを見せてから、すぐにぱたりと本を開いた。

 俺からは、トゥイーディアの長い睫毛の輪郭がよく映えて見えていた。



 そして、トゥイーディアは歌うように口を開いた。


「――色々と考えたんですけれど、この本にある、卵の例え話がとっても分かりやすいんですよ。

 図解もありますから、ご覧になって」



 トゥイーディアはたいそう嬉しそうにそう言って、本を持ち上げて俺の方に示してくれた。



 きらきらした眼差しで見られて、俺は心ならずもほっこりしてしまったが、その本に書いてあったことを俺がちゃんと理解できたかどうか、それはもはや語るに及ばず、割愛する。
















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