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12◆――カウンテス

 あの人、大魔術師だったのか。



 唖然として考えた俺はしかし、直後にはたと思い当たった。


 そりゃそうだ。

 あれだけ甚大な魔力を受け取る器が、そう頻繁にいるはずがない。


 大魔術師に違いないと直ぐに気付かなかった、俺が余りにも馬鹿過ぎる。



 ざわめきはますます大きくなっていた。


 席から立ち上がって舞台を見下ろす人も多かったが、当の女伯爵(カウンテス)は、それもあまり気にしていないようだった。


 ざわめきが大きくなってきたがために、もう彼女の声はここまで届かなくなっていたが、悠揚迫らぬ態度で、演者にトップハットを引き渡すように繰り返しているようだ。



 俺は思わずレイモンドを振り返り、小声で尋ねた。


「……そんなにこだわること?」


「こだわることですね」


 と、レイモンド。

 舞台の方を見ながら、ゲシュナー氏を憚るような小声で。


「この実演ではね……優秀者に賞金が出るんですよ……。

 世双珠を使えば、簡単に優秀者に選ばれることも出来ますから……」


 演者は真っ青になって、トップハットにしがみ付くようにして首を振っている。


 俺はそれを見て、なんとなく彼が可哀想になってきた。

 一方の女伯爵はそれを見て、ちょっと困った様子だった。


「女伯も大人げの無い……」


「後からそっと申し立てればいいものを、このような」


「キルディアス閣下からすれば、面白くはありませんでしょうなあ」


 あちこちから笑い含みの囁きが聞こえてきて、今や会場の目は全て、パルドーラ女伯とキルディアス女侯に注がれているようだった。


 ゲシュナー氏が息を吸い込み、「失礼」と呟くや、座席を離れて通路に出て、無言で歩き始めた。

 恐らく向こうの貴賓席に向かったのだろうけど、この円周を辿るのにどれだけ時間が掛かるのか。


 別に俺が何かをしたわけではないんだけど、俺はおろおろしてしまった。



 そうしているうちに、向こう側の貴賓席から、キルディアス侯爵が立ち上がったようだった。


 彼女は舞台を望む欄干まで進み出て来て、欄干に腕を預けてゆったりと立った模様。


 同瞬、演者を囲んでいた水の帯が、音もなく消失した。

 間違いなくキルディアス侯爵が、それを消し飛ばしたのだと俺には分かった。



「――ルドベキア、あちらの声をこちらまで聞こえるように出来ます?」


 レイモンドが、ひそひそと俺に向かって囁いた。


「空気の流れを変えれば出来るんでしょうが、世双珠なしでは私にはとても」


 俺はびっくりしてレイモンドを振り仰ぐ。


「えっ、魔法、使っていいの?」


 レイモンドも目を見開いて、それからちょっと()()が悪そうにした。


「いえ、もちろん……まあ、その、目的からは少々ずれますが……」


 貴族の力関係を知ることは大事ですし云々と呟くレイモンドを見上げて、俺は瞬き。


 ――そういえば、俺たちの目的は魔法を殺すことだった。

 それを鑑みれば、あんまり魔法は使ってはいけないんだろうけど、でも、俺が言ったのはそういう意味じゃない。


「いや、あの、そうじゃなくて……」


 〝えらいひとたち〟は、俺が魔法を使うことを蛇蝎のように忌み嫌っていたけれど、使節団の人たちは違うのか。


 レイモンドは訝しそうにしている。


 ――本当に、俺は魔法を使っていいみたいだ。


 そう思った俺は、こっそりと()()()()()を窺って、彼らに不快そうな様子が見られないことを確認してから、息を吸い込んだ。


 多分、空気を震わせるあの人たちの声を、こっちに向かって増幅させればいいんだろう――ただそれはちょっと難しそうなので、あちらからこちらに向かって、いい具合の風を吹かせて声を運んでもらうこととする。


 俺が息を吐き出すと同時に、ふわっと風が吹いた。

 その風が、ちょうど良く舞台と向こう側の貴賓席から声を運んで来てくれた。



「――パルドーラ閣下、ご厚意に心から感謝申し上げます」


 と、キルディアス侯爵が言った。

 感謝している割には氷のような声だった。


 ここからでは侯爵の顔は見えないが、さぞ恐ろしい顔をしているのだろうと俺は想像した。


 薄青い髪が陽光を弾いて流れているのが、いっそう冷ややかな印象に映った。


「わたくしも、虚偽のために賞を下したいわけではございませんもの。前途ある者のための賞を守ってくださり、何と御礼を申し上げれば良いか。

 ――とはいえ、」


 侯爵の氷のような声が、淀みなくはっきりと続いた。

 その声が笑い声を含んでいるのが、むしろもう恐ろしかった。


「もう少し仲良くさせてくださいな。後ほどわたくしに耳打ちしてくだされば良うございましたものを、寂しいことをなさいますこと」


「まあ、ご謙遜を」


 と、パルドーラ伯爵は言った。

 少し声を張っていて、その声は羊毛の縁を辿るように柔らかいのに冷ややかだった。


「わたくしが申し上げるまでもなくお気づきでしたでしょうに、()()()()席をお立ちにならないので、てっきりわたくしにお役目を譲っていただいたものかと」


 キルディアス侯爵が笑い始めた。


 余りにも上品に、笑い声という発声をなぞるように声を出すので、俺はそれを新種の感情表現だと思うところだった。

 可笑しみは欠片もなかった。


 同時に、向こう側の貴賓席の他の人たちも笑い始めた。


 パルドーラ伯爵はしばらくそれを仰ぎ見てから、「あるいは、」と声を出した。


 キルディアス侯爵は、義理のように笑い声を収めてパルドーラ伯爵を見下ろしたが、他の人は笑い続けていた。


「――()()()()()()()()()を、ああも手前に置かれるのですもの。

 もしかすると閣下がお疲れなのではないかと、わたくしは要らぬ気を回してしまいましたわ」


「まあ、失礼をいたしました」


 キルディアス侯爵は真顔で言った。


「なにぶん浅学なもので。閣下の御推薦とは申しましても、ご製作者の方が、存じ上げないお名前だったもので――とはいえ価値がある作品ならば、なるほど主催者の手落ちでございましょう。後ほど言い聞かせておきますわね」


 ――『あれほど優れた作品』?


 あ、そうか。あれだ。

 なぜか一番手前の壁龕に飾られていた、あの作品だ。


 ――俺がそう思い当たると同時に、レイモンドが小さく手を打った。


「なるほどね。――あの妙に素晴らしかった作品、女伯爵(カウンテス)が推挙して展示物の中に入れたんですね。伯爵お抱えの技術者の作品といったところなんでしょうか」


「それを、仇敵の女侯爵(マーショネス)が低く扱って、一番手前にぶっ込んだのか」


 チャールズが顎を撫でて呟き、「謎が解けたな」と周囲と笑い合った。


「キルディアス閣下が、パルドーラ閣下の推薦を素直に受けるもんか。逆もまた然りだろうけどな」


「確かにな。パルドーラ伯の領地では、キルディアス侯の著作は禁書の扱いだとかって聞くしな」


 よく分からずにきょとんとする俺を置いて、みんながこそこそと囁き始めた。


「で、自分の推薦が蔑ろにされたことを、女伯が今になって言い出したと――」


「これ、腹いせじゃないですか? わざわざこんな目立つ形で不正を言い立てるなんて、技術展自体にけちが付きますもの。よっぽどあの作品が気に入ってたんですかね」


 パトリシアが声を殺して囁いて、別の女の人がくすくすと笑った。


「確かにね。一昨年も、あたしたちここに来たじゃない。そのときは女伯、最初から最後まで大人しくしてらっしゃったものね」


 俺にはちんぷんかんぷんな話だったが、そういえば女侯爵(マーショネス)女伯爵(カウンテス)は仲が悪いとレイモンドが言っていた。



 つまりこれは、自分が推薦した作品が不当な評価を受けたことに怒った女伯が、女侯が出資している(出資というのが何か俺には分からなかったが、取り敢えず女侯とこの技術展の関係が深いのだと理解した)技術展にけちをつけるために、演者の不正を大々的に言い立てていると、そういう構図らしい。



 ()()()()()は無関心そうにだんまりを貫いている。



 舞台に立つパルドーラ伯爵は、失笑じみた声を漏らしていた。


「まあ、浅学などと。――御著書を拝読いたしました」


 そうとだけ言って、パルドーラ伯爵は蹲っている演者を見下ろした。

 そして、素っ気なく声を掛けた。


「そう無様を晒していても、既に侯爵閣下もご存知のところですよ」


 演者はのろのろと顔を上げた。

 当然だが、もはや得意げな顔は欠片もなかった。


「素直に規則に従えば良かったものを。

 ――来年は正々堂々となさい、それほど結果を悲観する実力でもないでしょう」


 責めてるんだか褒めてるんだか分からないようなことを言って、女伯が踵を返そうとしたとき、向こう側の貴賓席で誰かが何かを言った。

 キルディアス侯爵ではない誰かだ。


 笑い含みのその声は小さくて、風に乗っても言葉はここまでは届かなかった。


 だが、どうやらパルドーラ伯爵には聞こえたようだった。

 彼女が足を止めて、貴賓席を振り仰いだ。


 同時に、軽く振り返ったキルディアス侯爵が、ぴっちりと手袋に覆われた指先で口許を隠すのが見えた。


「――まあ、ええ、そうですわね。興醒めなこととは存じますが……」


 キルディアス侯爵がパルドーラ伯爵を見下ろした。

 薄青い髪がさらりと流れて、いっそう人形じみた姿に見えた。


「わたくしもパルドーラ伯も、畏れながら技術展で披露できるような魔法は持ち合わせておりません」


 ささやかな風が、パルドーラ伯爵の半ばが結い上げられた蜂蜜色の髪を揺らすのが見えた。



 俺の後ろで、レイモンドが小難しそうな声を出した。


「――ああ、絡まれてますね」


 俺はレイモンドを振り仰いだ。


「そうなの?」


「ええ、たぶん。差し詰め――」


 レイモンドは、なんとも言えない顔をしていた。

 声音は低く、至近距離の俺ですら耳を澄ませるようなものだった。


「――不正があって興醒めだから、お二人のうちどちらかが魔法を披露してはどうかと言われたんでしょう。

 あのお二人のどちらも、ここにいる全員の度肝を抜くことなど容易いでしょうが、キルディアス閣下からすれば、ご自身が出資なさっている技術展に御自ら手を出すというのは褒められたことではないですし、パルドーラ伯にしても、手を出しづらいでしょうねえ」


 俺は眉を寄せた。


 ちらっと()()()()()を見て、彼らがこちらを見ていないことを確認してから、俺は声を潜めて口早に尋ねた。


「……じゃあ、なんでそんなこと言い出す人がいるんだ? あの人たちが困るだろ」


 レイモンドは肩を竦めた。


「あのお二人が()()()()()ですよ。雲上船で言ったでしょう――爵位を継ぐのは男性であるのが通常で、あのお二人については不幸な偶然が重なったがために爵位が降ってきたんですよ。

 この国では――というか、大抵の国では、女性は嫁いで子供を作ってこそ、という考えですからね。なんというか……女性は頭が悪いと思われがちですから。

 ――あのお二人は、女性であるというだけで、他の貴族から大変に冷たくて軽い目で見られているんですよ」


 俺は瞬きした。

 あんまりピンとこない話だった。


 レイモンドはそんな俺の顔を見て、「分からなくていいですが、知っておいてくださいね」と。


「なのでお二人とも、手柄を立てようと(しのぎ)を削っているんですよ。

 周りを見返したいのか、自分の代で家を廃れさせたりして、(じき)に爵位を手渡さないといけない方に苦労をさせたくないのか――とにかく、周りの他の貴族はおろか、特にお互いには絶対に負けまいとしていらっしゃるようで、だからこそ仲がお悪いんですよ」


 俺がぽかんとしているので、レイモンドは苦笑した。


「――あなたも、そうやって手柄を立てたいキルディアス侯が招いたんですよ。

 ハルティとの縁故を作ればとんでもない功績になる」


 やっぱりピンとこなかったが、俺はそういうものなのだと頭に置いて、舞台の方に視線を戻した。



 パルドーラ伯爵は向こう側の貴賓席を見上げていた。


 そして、徹底的に静かな声で、はっきりと言った。


「――キルディアス閣下の仰る通り。

 勿論わたくしも、出し惜しみをするわけではありませんから、」


 女伯は肩を竦めたようだった。


「魔法をご覧になりたいのでしたら、どうぞいつなりとお申し付けください。

 わたくしの著作にあるよりも、幾分か平易にご説明申し上げますわ」


 向こう側の貴賓席で、どよめきじみた声が上がった。


 多くが笑い声じみたものに聞こえたが、その中に怒気が混じっているのが分かって、俺は無自覚にびくりとした。


 貴賓席の様子には無頓着に、パルドーラ伯爵が踵を返した。


 同時に、不正を暴かれた演者もこそこそと舞台から退出する。

 豪奢な橙色のドレスを翻す女伯が、演者のその様子を一瞥したのが分かった。



 俺はちょっとだけ目を細めた。


 ささやかに――本当にささやかに、女伯が魔法を使ったのが分かった。


 キルディアス侯爵はもしかしたら気付いたかも知れないが、俺の他にそれに気付いた様子の人はいなかった。



 女伯が、〈明るさ〉に関する世界の(のり)を書き換えたのが分かった。


 そのせいで、舞台の上がついさっきと比べて明るい。

 光が当たるような派手な演出ではなくて、影が際立つような、視線を引っ張り寄せるような、そんな明るさの追加だった。



 俺は、どうして女伯がそんなことをしたのか分からなかったが、女伯と入れ替わるようにして、舞台袖から緊張で吐きそうな様子の演者が出て来るのを見て、何となく理解した。


 ――上手いこと舞台を目立たせるためだ。


 色んな意味で注目を集めた見世物の後に出番が回ってきて、次の演者からすれば悪夢のようだっただろう。


 この実演会、優秀者には賞金が出るらしい――賞金というのが何かは知らないが、みんなが欲しがるものなんだろう――が、大騒ぎの後の出番とくれば、誰も自分のことは見ないだろうと思ったのか、次の演者は絶望したような顔をしていた。


 だが、舞台の上が際立つように明るいがために、観客は自然に舞台に目を遣っている。

 つい今しがたの出来事を語り合う声も、そのうち小さくなっていった。


 観客の目が自分を向いていると分かって、演者の顔が輝いた。


 ひらひらする派手な袖を翻して大袈裟にお辞儀をし、演者が朗々と口上を述べ始める。

 ちょっと声が上擦っていたが、元気な声だった。



 ――俺は、舞台の上と向こう側の貴賓席からこちらに向かって吹かせていた風を止めて、そんな演者をまじまじと見た。


 目には演者が映っていたが、俺はパルドーラ伯爵のことを考えていた。



 変な人だな、と思う。



 技術展をぶち壊すためかと思うほどに大々的に不正を言い立てたかと思えば、演者を気遣ってこんなことをしたり。

 俺に冷たくしたと思ったら、馬車まで引っ張って行ってくれたり。

 あの盲目の女性にはあれほど優しい顔をしていたのに、今さっきの舞台ではこの上なく冷ややかな顔をしていたり。



 ――不幸な偶然で降ってきた爵位を名乗る人。


 ――周り中から軽んじられているらしい人。


 ――そのくせ、舞台の上で堂々と貴賓席に向かって言い返してみせた人。



「誰かに手を上げられたら、あなたはそいつを殴り返してやりなさい」と、レイモンドは俺に言った。


 俺からすれば、〝えらいひとたち〟を殴り返すなんてことは想像も出来ないことで、レイモンドに言われたことを実践できる日がくるとは思えない。



 だけど、多分、あの女伯は違うだろう。



 ――きっとパルドーラ伯爵は、誰かに手を上げられたりしたら、殴り返せる人なのだ。





◆◆◆





 恙なく、とはいえないものの、魔法技術展が終わったあと、俺たちの傍まで戻って来たゲシュナー氏は大量の冷や汗を掻きながら、あれこれと謝ってくれた。


 その勢いがむしろ怖くて、俺はレイモンドの後ろに立っていたくらいだ。


 後からレイモンドが、「きっと女侯爵(マーショネス)にこっぴどくお叱りを受けたんでしょうね」とこっそりと囁いてくれたが、実演会の後の晩餐において、侯爵に不機嫌な様子は見られなかった。



 俺はレイモンドが間違っていると断じるべきか、侯爵が目には見えない仮面を被っていると判断すべきか、大いに迷ってひたすら料理を飲み込むことに専念した。



 朝食はあれほど美味しく食べられたのに、晩餐の味はいまいちよく分からなかった。


 部屋に戻りながら、()()()()()がそれぞれ自室に向かって俺から離れたタイミングで、俺がそのことをレイモンドに向かってぼそっと呟くと、レイモンドは気の毒そうに噴き出した。

 それから、宥めるように俺の肩を叩いた。


「大丈夫ですよ。明日は晩餐の予定はありませんから、こぢんまりと食べましょうね」


 それを聞いて、俺は胸を撫で下ろした。



 その翌日は、俺には何の予定もないらしい。

 俺はその辺を全部レイモンドに頼り切っていたものだから、他人事みたいな顔でそれを聞いていたものだ。


 ()()()()()はあちこちの貴族のところに顔を出すらしいし、当初は俺もそれに付いて行くはずだったのだが、いざ実物の俺を見た()()()()()が考えを翻し、俺を置いて行ってくれることになったのだとか。


 まあ、()()()()()()を堂々と大勢の貴族の前に連れて行く奴がいれば、そいつは自殺志願者だろうなと、()()()としては思う。



 ()()()()()はレイモンドたちに、「数日の(いとま)が出来たのだから、あれを表に出せるようにしておけ」と命令したらしい。


 パトリシアたちが食事作法を優先するべきか、それとも言葉遣いを優先するべきかと、だだっ広い廊下で作戦会議を始めたのを、「まずは健康だろう」とレイモンドが思いっ切り遮って言い放った。


「おい、正気か」


 と、チャールズが恐れ戦いたかのように呟いたが、レイモンドに迷いはなかった。

 俺の肩をぎゅっと掴んで、レイモンドは真剣に言っていた。


「当然。――このままだとこの子、早晩倒れるよ」


 当の俺は目をぱちぱちさせていたが、チャールズたちは一斉に俺を見て、「確かに」と。


「でも、」


 と、パトリシアがぎゅうっと胸元で手を握り合わせて。


「さすがにお作法を仕込まないのは(まず)いです。言葉遣いも」


「食事のときに軽く教える程度でいいだろ、しばらくは。日中は――」


 レイモンドが言い差すのに、チャールズは大仰に額に手を当てた。


「まさかおまえ、本気で大使さまをあちこち歩き回らせるつもりか」


 俺は、自分が話題になっていることは分かったものの、どう振る舞えばいいかは皆目分からなかったので、周りを見ながらおろおろしていた。


 そんな俺をふと見て、レイモンドは微笑んだ。

 それからチャールズの方へ目を戻して、顔を顰めて見せた。


「部屋に籠もって常識の勉強するより、外を歩きながらの方がいいだろ。それに、遠目に人の姿を見ていれば、この子が人に対してびくびくするのもなくなるはずだ」


 ちらっと俺を見たレイモンドは、「たぶん、いつかは」と言い添えた。

 それから、チャールズたちの反応は待たずに俺と目を合わせて、にこっと微笑んで言った。


「ただ、せっかく広いお部屋があるんですから、散歩に気分が乗らない日や雨の日は、お部屋で文字の勉強でもしましょう。

 あと、夜にちょっと時間を作って勉強するのもいいでしょうね」


 俺は瞬きをして、頷いた。


 ぶっちゃけ、あんまりよく分かっていなかったが、レイモンドが()()というなら()()んだろうと思った。


 チャールズたちは若干呆れたような顔をしていたが、結局のところはレイモンドの意見が通ったようだった。


 みんながそれぞれに宛がわれた部屋に戻って行く中、レイモンドは俺の頭を軽く撫でた。


「今日はもう疲れているでしょうから、おやすみなさい」


 俺は瞬きをして、今朝レイモンドに教わったことを思い出して息を吸い込んだ。


「お――おやすみなさい、レイ」


「はい」


 笑顔で頷いたレイモンドだったが、直後、自分の部屋の方に行き掛けていたのを引き返してきて、俺と目を合わせて真顔で言った。


「――ルドベキア、まさかと思いますが、一応言っておきますね。

 眠るときは、寝間着に着替えるものですからね」


 俺はその辺のことをよく分かっていなかったので、きょとんと目を見開いた後に頷いた。

 寝間着とは何だろうと思いながらも、俺は言った。


「――分かった」


 レイモンドは懐疑的な顔をして、結局俺の部屋まで付いて来てくれて、寝間着と部屋着の何たるかを俺に教えてから部屋に引き返して行った。



 ()から思えば、本当に忍耐強い人だった。



 俺は着替える前に、灯りが点った部屋をぐるりと歩いてみて、ずっと気になっていた、低い本棚の傍のチンツ張りの椅子に腰掛けた。


 最初はちゃんと座ってみたが、そのうち落ち着かなくて椅子の上で膝を抱えた。

 椅子は広くて、ふかふかしていて、俺は自分が雲の上に座っているような気がしてきた。


 高い天井から吊り下げられて、頭の上近くにぶら下がっている灯りは綺麗だった。

 円筒に蔦が巻き付いたような意匠で、暖色の光を放って美しい。


 俺はその明かりを頼りに、本棚に並べられた本の背表紙をなぞるように見ていったが、意味の分かる単語は少なかった。


 それでも何となく興味を惹かれて、深緑の革の背表紙の本を一冊、本棚から引っ張り出して膝の上に載せて開いてみる。

 少しだけ甘い、嗅ぎ慣れない紙の匂いがした。


 深緑のインクで記された文章は、全部の頁で先頭の一文字が大きな飾り文字になっていて、意味の分かる文章は少なかった。


 ぺらぺらと捲っていくうちに眠くなってきたので、俺はその本を本棚に戻した。



 灯りを見上げて膝を抱えながら、俺はヘリアンサスのことを考えた。



 母石の他には光るものもないあの地下神殿で、ヘリアンサスは今どうしているだろう。



 絵を描いているだろうか。

 腕輪はまだ着けてくれているだろうか。


 ――俺を覚えているだろうか。



 ――俺を待っているだろうか。





◆◆◆





 翌朝、俺は誰に起こされることもなく目を覚ました。


 目を開けてからまた閉じて、すべすべでふかふかしている枕にいちど頬擦りをしてから、俺は身体を起こして伸びをした。



 外は晴れているらしく、帳の間からは眩しい日光が零れ落ちていた。



 俺はそーっと床に降りて、素足のままで窓に寄って行き、両手で帳を掴んでよいしょとそれを開け放った。


 何しろこの部屋、壁一面が窓なので、帳を開けるのにも一苦労だ。



 帳を開けると、陽光が押し寄せるように部屋を照らし始めた。


 俺は目を細め、しばしばと瞬きしながら、窓の硝子がカットされているがために四方八方に乱舞する朝陽を目で追った。



 それから、窓の一部、開け閉めが出来る小さな扉みたいになっているところに手を掛けて、ちょっともたつきながらも掛け金を上げ、遠慮がちにそこを開いた。


 きぃ、と小さく軋んで開いたその小さな扉をくぐった先は広々としたバルコニーで、ここはかなりの高層階のはずだけれど、滾々と水が湧く小さな噴水まで設けられていた。

 さらさらと水の流れる音がしている。



 朝の空気が光っている。

 空は雲一つない晴天だった。



 俺がしばらく、ぼんやりとそれを眺めて、目に朝を焼き付けていると、こんこん、とノックの音が聞こえてきた。


 俺は弾かれたように振り返り、広過ぎるくらいに広い部屋を駆け抜けて、慌てて扉に飛び付き、焦るが余りにノブをがちゃがちゃいわせながら、それを開いた。



 ノックをしたのはレイモンドで、レイモンドは俺が慌てて飛び出して来たのを見て目を丸くしていた。


 俺はレイモンドを見上げて瞬きし、それからはたと気付いて呟いた。


「お――おはようございます、レイ」


 レイモンドは微笑んだ。

 目尻に小さな皺が寄った。


「はい、おはようございます、ルドベキア。

 ――朝食にしますよ。着替えてらっしゃい。


 そのあとは、この王宮をちょっと歩き回ってみましょうね」


















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