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10◆――朝食は家族のもの

 結論から言おう。


 俺は大失敗なんてしなかった。





◆◆◆





 謁見のときこそ頭が真っ白になっていたものの、そのうちひたすら存在感を消して顔を伏せておくという技を覚えた。



 キルディアス侯爵閣下は、恐らく早々に、俺を魔法一辺倒の無愛想な人間だと判定したらしい。無理に話し掛けてくることもなかった。

 王さまも然り。


 本当に助かった。

 俺とレイモンドたちの安堵が目に見えるものであったのならば、あの広々とした謁見の間はその安堵でいっぱいになっていたことだろう。


 俺は一言だけ、どうしても挨拶しないといけない場面に迫られたが、取り敢えず耳に残っていた()()()()()の台詞をそのまま拝借した結果、なんとか乗り越えられたっぽい。


 晩餐の広間に移動するまでの間、レイモンドはおなかを押さえて呻いていたが、「よく頑張りました」と俺を見て涙目で言ってくれた。

 レイモンドだけがそう言ったのなら、俺も、「もしかして気を遣わせたかな」なんて思うところだが、チャールズまでもが半分泣きながら俺を褒めてくれたのだ、まず大丈夫だったに違いない。


 何というか、「もうやらかしちゃったし今更どうしようもないから自棄やけで褒めとこう」みたいな感じじゃなかった。

「すっごい緊張したけどなんとか切り抜けた」みたいな感じだった。


 それに()()()()()も、俺に手を上げたりしなかったしね。


 俺としても、別に移動中に()()()()()とレイモンドの殴り合いが見たいわけじゃなかった。



 レイモンドは俺を守ってくれると言ったから、俺が誰かに殴られるなんてことになったら大変だ。



 晩餐に関しては、俺は()()()()()に挟まれる位置に座らされた上、周りにはよく分からないお爺さんとかがいっぱいいたけど、変なことを訊かれたら魔法の呪文を唱え、俺が作った魔法について訊かれたことを正直に答えていっていたら、そのうち話し掛けられなくなった。


 俺が話し掛けられなくなったとき、右側に座っていた上の人が俺を睨んできて、俺は自分でも分かるほど真っ青になった。


 とはいえ、俺はその場では手を上げられたりしなかった。


 女侯爵(マーショネス)だけは、俺の魔法についてもうちょっと詳しく聞きたそうな顔をしていたけれど、王さまに窘められて口を噤んでいた。


 侯爵が王さまに窘められた瞬間、周囲のお爺さんたちがあからさまに笑い始めて、俺はぎょっとした。

 俺が聞いても分かるほどに、友好的とはいえない笑い声だったのだ。


「また御本を(したた)められるので」とか、「甥御さまにも話して聞かせるので」とかと声を掛けられた女侯爵は、にっこりしたと思うと、


「失礼、わたくしとしたことが。

 会話には、著書と違って注釈を入れることが出来ないということを失念しておりました」


 と言い放って、その場の空気を凍り付かせていた。


 俺には、なんで空気が凍ったのかは分からなかったが、空気が凍ったことだけは取り敢えず分かった。

 俺は既に()()()()()に睨まれたことで凍り付いていたので、なんか周りの空気の温度が俺に合わせたみたいになった。


 それっきり女侯爵マーショネスは口を噤んだが、口を噤む瞬間だけ、ずっと微笑んでいた女侯爵が鉄のような無表情になったので、俺はそっちの方にも更に肝を潰した。


 このキルディアス侯爵、めちゃくちゃ顔は整っていたし人形みたいな姿をしていたが、無表情になったときの恐ろしさたるや。


 侯爵の無表情に肝を冷やしたのは俺だけではなくて、()()()()()ですら、ちょっと憚るように下を向いたくらいだった。

 なんだこの人、怖過ぎる。



 ちなみに晩餐には、見たこともないほど大きな肉と、透明に近い色に見えるのに、めちゃくちゃしっかり味のついたスープが出た。

 あと食後には、食べたことのない綺麗で素敵な何かが出た。


 俺はひたすら目立たないように身を縮めていたが、王さまや他のお爺さんたちから、食べろ食べろと勧められるので、必死になってそれらを口に入れた。


 分厚い布越しに食事が舌に触れているようで、味は殆ど分からなかったし、ともすれば胃の腑の中のものが逆流しそうになった。

 肉の繊維の食感ばかりがはっきりしていた。


 ()()()()()が俺を見ているのが分かったから、怖くて仕方がなかったのだ。


 俺は勧められるがまま、レイモンドに言われたこともすっかり忘れて酒も口にしそうになったが、それはレイモンドが阻止してくれた。


 レイモンドは、ものすごい真剣な顔で身を乗り出して俺を止め、「大使さまはお酒を飲まれるとご体調を崩されるので」と言い切っていて、王さまをひどく笑わせていた。


 俺は別世界からの声を聞く心持ちでその声を聞いていた。



 そのあと、俺やレイモンドたち――つまり、「大使さまはじめ使節団御一行」は、その広い建物の上の方に連れて行かれた。


 俺はそろそろ、()()()()()に挟まれている状況に限界を迎えつつあって、倒れそうになっていた。

 それを何となく察したらしいレイモンドが、席を立つなり俺の傍まで来てくれて、俺はぎゅうっと歯を食いしばることになった。


 別に痛かったわけでも悲しかったわけでもないのに、涙が出そうになったからだった。


 俺たちは粛々と上の階に連れて行かれて――驚くなかれ、格子扉を開けて変な小部屋に入ったかと思ったら、がたこんとその小部屋が動き出し(俺は卒倒を堪えるのに必死だった)、がたがたとその小部屋ごと上に吊り上げられたりもした。あれ、途中で落っこちたりしないんだろうか――、遥か地面から引き離された階にて、それぞれ一人一部屋ずつ眠るための部屋を貰った。


 本当にこれは眠るための部屋か、と、俺が後からレイモンドに確認したくらい、広々とした豪奢な部屋だった。


 俺たちをそこまで案内した女の人たちは、御用があればお申し付けくださいと頭を下げて、俺を大いに怯ませた。

 とはいえ、俺は運よく、レイモンドと隣り合わせの部屋を割り当てられて心からほっとしていた。

 ()()()()()に挟まれたらどうしようと、本気で案じていたもので。


 更に、俺が心から驚愕したことに、俺が晩餐の席で()()()()()の意に添わなかったことに対する懲罰は無いらしかった。

 ()()()()()()()()()()で、さっさと自分たちに宛がわれた部屋に戻って行ったし、頑として俺の傍一フィートから離れないレイモンドは、その距離のままでそれを見送り、「大丈夫ですよ」と俺に低く囁いた。


 俺は心底驚き、また一気に力が抜けた。

 絶対に櫃に入れられるか、あるいは食べたもの全部吐き出すまでは殴られたり蹴られたりすると思っていた。


 安堵によろける俺を見て、レイモンドはめちゃくちゃ厳しい顔をしていた。

 俺は、もしやレイモンドから懲罰が下されるのでは、と身構え掛けたが、レイモンドはすぐに女の人たちに顔を向け、湯殿を使う許可をその場で貰っていた。



 そう、レイモンドはちゃんと、俺が広い風呂を楽しみにしていたことを覚えていてくれたのである。



 レイモンドのお陰で、俺は王宮の、見渡す限りがお湯! みたいな広い湯殿を使わせてもらうことが出来た。


 湯殿に行く道々、俺はこっそりと、レイモンドに懲罰が無いのかを遠回しに尋ねたが、レイモンドはめちゃくちゃ怖い顔で俺を見て、「誰かがあなたに手を上げたら、あなたは殴り返してやりなさい」と低い声で言っていた。

 それから、竦み上がった俺の顔を見てはっとしたように微笑んで、俺の頭を撫でて、「手の届くところにいれば守りますよ」と言ってくれた。


 前を歩く女の人や、傍のチャールズには聞こえない程度の声だったが、俺にはしっかり聞こえていた。



 そこで、俺はようやく、今日は櫃に入れられることも手を上げられることもないのだと確信することが出来た。


 そうして確信してみると、なんだか足から力が抜ける気がすると共に、晩餐をちゃんと食べられなかったことが、猛烈に悔しくなってきた。



 そうして湯殿に到着したわけだが、そこは俺の想像を軽々と上回る広さと豪華さだった。


 床を円形に掘り抜いたような湯舟、そこからもうもうと漂う湯気に、思わず歓声じみた声を出したくらいだった。

 俺のそんな様子を見て、なぜかレイモンドが嬉しそうだった。


 俺を一人でそんなところに放り込んだが最後、予想されるのは溺れるか逆上(のぼ)せるかのどっちかだった。

 それを見越してくれていたのだろうが、湯殿にはレイモンドとチャールズが俺に同伴してくれていた。


 チャールズはなぜか、服を脱いだ俺の身体を見て絶句していて、レイモンドに後から何かを確認していた。


 俺は湯舟の中で、さっきの綺麗で素敵なやつは何なのかをレイモンドに尋ね、レイモンドは、あれはケーキというものだと教えてくれた。


「気に入ったんですか?」


 と尋ねられたので、俺は小声で、


「さっきはあんまり味が分からなかったから……」


 と告白した。


 レイモンドはしばし絶句したようだったが、すぐにばしゃんとお湯を叩いて、俺を励ますように言っていた。


「きっとまた食べられますよ。

 それにリーティには、ああいうお菓子を扱う専門店もありますから、予定の空く日に一緒に行ってみましょう。種類が沢山ありますから、好きなのを選んでいいですよ」


 そう言われて、俺はむしろぽかん。

 あれ一つをとっても摩訶不思議に綺麗で素敵だったのに、それに更に種類があると言われても困る。


 俺のそんな顔を湯気越しに見て、レイモンドは噴き出すように笑っていた。


 チャールズは反対に顔を強張らせていて、「ケーキくらい、島の子供にだって分かるだろ」と呟いていた。


 俺はてっきり、チャールズが俺の無知を責めているのかと思ったが、どうやら違った。

 湯殿から出て身体を拭うときに、チャールズは気遣うように甲斐甲斐しく、俺の髪を拭ってくれた。



 そのあと、俺は着たこともないようなすべすべした肌触りの寝巻を与えられて、レイモンドが約束したように、ふかふかの寝具で眠ることが出来た。


 寝台は、三人くらいが一緒に眠れそうなくらいに広くて、柔らかくて、静かで、とても良かった。


 俺は広くて綺麗なそんな部屋を観察したかったし、寝具はふかふかで気持ち良かったので、一秒でも長く起きていて、ちゃんとそういう部屋とか寝具とかを満喫する気満々だった。


 だが実際には俺は、横になると同時くらいに眠りに落ちて、そのままぐっすりと熟睡した。



 多分俺は、自覚している以上に疲れていたのだ。


 あと、懲罰が無かったことで気が抜けていたし、静かな環境で眠りに落ちること自体、俺には滅多にないことだった。




 そして翌朝に至る。




「――ルドベキア!」


 大きな声で名前を呼ばれ、続いてばさっと音がして、俺の顔に光が直撃した。


 俺は咄嗟に寝具の下に潜り込み、頭を庇って悲鳴を堪えたが、すぐにその寝具もばさっと取り払われた。


 俺は悲鳴を上げようとして、


「ああ、すみません、驚かせましたね」


 そこに立っているのがレイモンドだと認識して、目をしばしばさせながら、辛うじて口を動かした。


「……レイ」


「はい、私です」


 レイモンドは真面目腐ってそう言って、にこっと笑った。


「起きてください、朝食です」


「ちょうしょく……」


 ぼんやりと呟いて繰り返しながら、俺は寝台の真ん中で起き上がり、座り込んだまま周囲を見渡した。



 俺が座り込んでいるのは、天蓋付きの――ちょっと大き過ぎるくらいの寝台だった。

 天蓋は赤い天鵞絨で、金色の房飾りが揺れている。


 そして、燦々と差し込む日の光を部屋に呼び込む、大きな窓が開いている。

 さっきの、ばさっという音は、レイモンドが帳を開いた音だったようだ。


 この部屋は、外に向かう壁一面が、細い金属の格子に硝子を嵌め込んだような、一風変わった窓になっている。

 窓硝子の表面は不規則にカットされていて、そのために部屋の中には方々に陽光が飛び散っていて、外の景色も明瞭ではなかった。

 窓は一部が開くようになっていて、そのまま外の、これまたとんでもなく広いバルコニーに通じている。


 やっぱりこの王宮、人間よりも遥かに大きい別の生き物のために造られたんじゃないだろうか、なんてことを、俺は寝ぼけた頭でこっそり思った。


 窓を覆う帳は落ち着いた色合いの深紅で、鬱金色の飾り紐で留めておけるようになっている。

 目を上に転じれば、窓の上部は深紅の襞を寄せる垂幕みたいな帳に覆われていた。


 床には羊毛の絨毯。

 濃紺の地に、目を疑うほど緻密な金糸の模様が織り込まれている。


 寝台の傍には、ずんぐりした形の丸椅子がいくつか置いてあって、丸椅子全体がクッションで出来ているみたいだった。


 窓と反対側に目を遣れば、胡桃材の衣装箪笥。

 これまた大きい。中に何を入れるんだ、人か。

 でもまあ、櫃よりは随分大きいから、俺はこの中ならちょっとは頑張れそうだ。


 寝台は部屋の隅っこにあるので、部屋の真ん中の方に目を遣れば、ここでも晩餐が出来そうだなと思うくらいに大きな長テーブルと椅子。

 テーブルのこっち側には背凭れの無い長椅子が、あっち側には三脚の、背凭れの高い椅子が置かれている。


 更にその向こうに、チンツ張りのふかふかしてそうな椅子が二脚。


 その二脚を大まかに囲むようにして、低い本棚が置かれていた――本棚は、椅子を囲んで四角く配置されたものを、そのうち二辺が後から取り除かれたような具合に置かれていた。

 こっちから見ると、チンツ張りの椅子の向こうに低い本棚、そしてそれにぴったりくっ付けるようにして、椅子の左側にも低い本棚が置かれているように見えるわけだ。

 本棚は低くて、高さは俺の腰程度のものだった。

 その上に、風もないのにゆらゆらと揺れる、不思議な真鍮の飾りが幾つか置かれていた。


 そして、そのチンツ張りの椅子と本棚から視線を右にずらせば、そこには円卓と華奢な椅子が置かれている。


 そしてその向こうがやっと部屋の反対側の壁であるわけだが、壁には巨大な暖炉が口を開けて、暖炉の前にはその上で十分に眠れそうなソファが置いてあった。


 暖炉の上にはぴかぴかした燭台が置かれていた。


 部屋の壁は、象牙色と淡紅色がくるくると模様を描いている壁紙に覆われていて、あちこちに鏡や絵画が掛けてあった。


 天井からは様々な高さに幾つも灯りが吊るされていて、一つ一つが凝った意匠だった。

 花を象っていたり、鳥籠を象っていたり、円柱に蔦が絡むような意匠だったり――



 俺が存分に、まじまじとその部屋を観察し終えるまで、レイモンドは寝台の傍で辛抱強く待っていた。


 そして、俺がレイモンドに視線を戻すや否や、笑みを含んだ溜息を零して言った。


「気は済みました? そんなに頑張って観察しなくても、ここが向こう一年あなたの部屋ですよ。そのうち見飽きてくるでしょう」


 俺は目を見開いた。覚えず声が上擦った。


「――ここにいていいの?」


「当たり前でしょう」


 呆れたようにそう言って、レイモンドは微笑した。

 俺はなんだか嬉しくなって、寝具の上で拳を握ったり開いたりした。


「じゃあ、俺、あっちの椅子に座ってみたい」


 レイモンドは面喰らったようだった。


「好きなだけどうぞ。ここはあなたの部屋ですから――どこで何をしようがあなたの勝手ですよ。

 あ、ただ、借りているものですからね。物を壊したりするのは駄目です」


 俺はそわそわした。

 本棚とチンツ張りの椅子の方を指差して、俺は思わず言っていた。


「じゃあ、レイ。あっちで一緒に本を読もう。俺、まだあんまり、速くは読めないけど。御伽噺、聞かせてくれるんだろ」


 チンツ張りの椅子の上にはちょうど、凝った意匠の灯りが低く吊るされていたから、夜でも文字が読めるだろうと思われた。


 レイモンドは笑い出した。


「ええ、勿論です。でも、今ではありません」


 俺を手招きして、レイモンドは苦笑。


「朝食です、ルドベキア。そこから立って着替えなさい」


 言われるがままに、ふかふかした寝具を滑ってレイモンドの傍に足を突き、立ち上がりながら、俺は首を傾げた。


「ここで食べるの?」


「いいえ、眺めのいい部屋を貸してもらえるようです。案内しますよ」


 俺は瞬き。


 レイモンドはまた笑って、手を伸ばして俺の髪を指先で整えた。

 彼はもう着替えていて、金髪はいつものようにきっちりと結われていた。


 その髪の上で陽光が滑るのを、俺は何となく見ていた。


「これは、このレンリティスの言い回しなんですけどね――」


 そう言いながら、レイモンドはぐるっと寝台を回り込んで、衣装箪笥へ近付いた。


 俺もそれに付いて行きながら首を傾げる。


 レイモンドは衣装箪笥を開け放ってから一歩下がり、顎に手を当ててふむと考え込む風情。

 そうしながらもレイモンドは言葉を続けていた。


「朝食は家族のもの、昼食は友人のもの、晩餐は政敵のもの、晩酌は子供時代の友人のもの」


 歌うようにそう言って、レイモンドは衣装箪笥から、俺には見覚えのない白い服を取り出した。


「レンリティスの方々が、あなたのために用意していた服ですよ。

 ――まあ、多少寸法は合わないでしょうが仕方がない。それは織り込み済みの衣装が選ばれていることでしょう」


 気難しげに言って、レイモンドは俺の顔を見て微笑んだ。


「さあ、ルドベキア。上の方々は朝食の席にはいません。あの方々はあの方々で、のんびりとご老体向けのお食事をなさるでしょう。

 なので、そうです、()()()()()()()()


 白い服を寝台の上に広げて置いて、レイモンドはその服を指差した指を俺に向かって動かし、いっそう深く微笑した。


「我々の弟のルドベキア、着替えたら出ていらっしゃい。

 私は扉の外で待っていますから」









 俺は見覚えのない衣装に四苦八苦しながらもなんとかそれを身に着けた。


 これでいいのか分からないな、と思いながら外に出ると、廊下に立っていたレイモンドは、俺が彼を待たせたことは気にしていない様子で微笑んで俺を出迎え、俺の衣服の襟を直してくれた。


 そうしてから、「行きましょう」と。



 昨夜は疲れていたので周りをよく見ていなかったが、廊下はとても綺麗だった。

 特に床は寄木細工になっていて、俺は歩きながらもまじまじと足許を観察していたくらいだ。


 壁龕には花や彫刻が飾られていて、俺はそっちを見るのにも忙しかった。



 レイモンドに付いて歩くことしばし。


 階段を上がったり下りたり、湾曲する廊下を歩いたり真っ直ぐな廊下を歩いたりして、俺は自分の現在地の把握を諦めていたが、そうこうするうちに目的地に着いたらしい。


 若草色に塗られた扉を、レイモンドががちゃっと開ける。

 その向こうには光が溢れていて、俺は瞬きした。


 その部屋は、床と、俺から見て右側の壁、そして扉がある壁は白大理石で出来ていた。

 そして驚くべきことに、その他の壁と天井は硝子張りだった。

 明るいはずだ。

 昨日の曇天が嘘のような晴れた空から、これでもかとばかりに朝の陽光が差し込んできている。


 つまり、この部屋は東向きなのだ。


 目を丸くしながら自分の左側を見ると、生い茂る常緑の梢が部屋のすぐ傍にまで迫っていた。

 この部屋が何階にあるのか知らないが、少なくとも木の梢と肩を並べる高さにはあるようだ。


 左側の、全面が硝子張りの壁には小さな(これも硝子の)扉がついていて、それを潜って外に出れば、白っぽい石で造られた小さな踊り場に出ることが出来るようになっていた。


 踊り場からは、下に向かう狭い階段が続いているようだ。



 俺が唖然として足を止めたものだから、レイモンドも俺を待つように足を止めていた。


 俺はそれに気付いてはっとして、膝を屈めて、右手の指先を額に当てて、それからその指先をレイモンドの足許に向かって動かした。

 レイモンドは微笑んでそれを見て、「構いません」と。


 部屋の中央には円卓があって、その円卓には使節団の中の若手が七人ばかり、既に腰掛けて待っていた。

 円卓を囲む椅子は二つ空いていて、考えるまでもなくそれが俺とレイモンドのための席だった。


 とはいえ、俺はまごまごしてしまって、レイモンドに引っ張られてようやくその席に座ることが出来た。


 レイモンドとは反対側の俺の隣にはパトリシアがいて、その隣にチャールズがいた。

 チャールズは俺を見るなり、責めるようにレイモンドを見た。


「おまえ、白はないだろ。汚したらどうするんだよ」


「着替えればいい」


 レイモンドは肩を竦めて事も無げに言ったが、俺は瞬きも出来ずに凍り付いた。


 円卓の上には朝食の支度が整っていたが、急にそれが恐ろしい景色に見え始めた。

 俺の食事作法はまだまだだったから、服を汚してしまうこともままあって、もしそうなったらチャールズは怒るだろうか、と、そればっかりを考えたのだ。


 そんな俺を見たチャールズが、「しまった」とばかりに顔を顰めた。

 パトリシアがそっとチャールズの横腹を肘で押して、他の人たちも、何かをひそひそと言い始めた。


 俺はいっそう居た堪れなくなったが、俺が逃げ出す寸前に、レイモンドがやんわりと俺の肘を掴んで、俺に自分の方を向かせた。


 レイモンドは苦笑していた。


 硝子の向こうの葉っぱが揺れるのに合わせて、レイモンドの頬に当たる陽光に影が差して、緑の目の中にきらきらと光が揺れていた。


「――ルドベキア、あのね」


 ゆっくりとそう言って、レイモンドは俺としっかりと目を合わせ、噛んで含めるようにして告げた。


「もっと早くに言えば良かった。――あのね、ルドベキア。

 暴力というものは、人を叩いたり殴ったり、いわんや足蹴にするというのはね、()()()()()()なんです」


 俺は目を丸くした。


 そんな表情を見て、レイモンドは顔を顰めた。

 他の人たちも、唖然とした様子で俺を見ていた。


「もちろん、何か悪いことをして罰を貰うというのは有り得ることです。でもね、ルドベキア。

 程度というものがあります。

 食べ零しや、作法の多少のぎこちなさや、多少の無知では、暴力を振るわれるには値しません」


 俺は無言で瞬きした。

 俺の中での常識と遥か懸け離れたことを言われて、ただただびっくりしていた。


 レイモンドはそんな俺を見て、少しだけ目を細めた。


「――あなたがいたのは、本当に特殊な場所だったんでしょうね……古老長さまは、余程あなたが怖かったと見える」


 俺は愕然とした。



 あんなに怖い人が、俺の何を怖がるのかと驚愕した。


 レイモンドがおおよそにおいて正しかったとしても、これだけは絶対にレイモンドの間違いだと確信できた。



 レイモンドはそんな俺と目を合わせて、ゆったりとした口調で、教え込むように。


「今は、ルドベキア、環境が違います」


 ちょっとだけ微笑んで、レイモンドははっきりと言った。


「あなたはもてなされる側の人間です。――ですから、誰もあなたを叩いたりはしません。

 ()()()()()のことが怖いようですが――」


 俺は思わず身震いした。


 レイモンドはそれを見て、やっぱり顔を顰めた。

 そして、断固とした口調で言った。


「――仮にあの方々が、あなたに何か暴力を振るおうとしても、いいですか、ルドベキア。暴力は()()()()()()なんです。

 だから、人目がある限り、あなたは理不尽な暴力から守られます。そう怯えなくてよろしい」


 半信半疑にレイモンドを見上げる俺に苦笑して、レイモンドは俺の頭に手を置いた。


「一番怖いのは、あなたに暴力を振るおうとしている人間の真っ只中に放り込まれることですが――まあ、考えるのも怖いので、それはちょっと置いておきましょうね。

 取り敢えずルドベキア、あなたは、手を上げてくる人がいたら殴り返してやりなさい。

 それにね、私たちはあなたに手を上げたりしませんから、大丈夫ですよ」


 瞬きする俺に頷いて、レイモンドは俺の頭から手を下ろし、今度はその手で肩を軽く掴んで揺らした。


「衣服が汚れたら着替えればいいんですよ。もちろん、時間の許す範囲でね。何しろ今日は、魔法技術展ですから。

 ――というわけで、ルドベキア。あなたが着替える時間を確保するためにも、さっさと食べ始めてしまいましょう」


「――――」


 俺は茫然としていて、レイモンドから順に、円卓に座っている人たちの顔を見ていった。


 誰の顔も気遣わしげで、なんとなく、俺を憚るようですらあった。


 それから俺は、円卓の上に視線を落とした。

 半分溶けたバターが乗ったパンと、豆と肉を蕃茄で煮詰めたスープ、チーズとベーコンを包んで焼いたオムレツが目の前に置かれていた。

 円卓の真ん中には、何種類かの果物が乗った銀盆も置かれていた。


 レイモンドが軽く俺の背中を叩いて、すぐに両手の胸の前で組み合わせた。



 俺も慌ててそれに倣って、レイモンドが呟く食前の祈りを、口の中で同じように呟いた。


 呟いているうちに口の中にしょっぱい味がしてきて、俺は必死にそれを飲み下した。



 悲しくもないし痛くもないのに涙が出るようになってしまった、俺は何かの病気なのかも知れない。










 俺の、一番奥の方でずっと張り詰めていた気が抜けたことによって、俺の胃袋の底も抜けたらしかった。

 俺はその朝、かつてないほどいっぱい食べた。


 食べるものが全部、妙に美味しく感じるので、俺はどうやら、自分が罹患(かか)ったこの病気は、舌もおかしくするものであるらしいと思ったくらいだった。



 俺が余りにもいっぱい食べるので、途中でパトリシアが自分のオムレツを半分分けてくれた。


 思わぬ親切に俺がおろおろしていると、横からレイモンドが一般的な挨拶について教えてくれた。


「ルドベキア、『ありがとう』です」


「あ――ありがと」


 もぐもぐしながらそう言うと、パトリシアがにっこり。


「口の中のものは飲み込んでから話しましょうね」


「はい」


 チャールズがけらけらと笑った。

 同じように笑う人が他にもいて、俺はいっそうおろおろしてしまった。


 俺が口の中のものをごくんと飲み込んだところで、レイモンドは流れるように言葉を続けた。


「謝るときは『ごめんなさい』。より丁寧に言うなら『申し訳ありません』」


「ご――ごめんなさい」


「そうです。島での謝罪の仕草は、ここの人たちには分かりませんからね。

 ただし、あなただから言いますが、謝り過ぎないように」


「え? ――はい」


 レイモンドは微笑して、オムレツを切り分けながら滔々と。


「起きたら『おはよう』、眠るときは『おやすみなさい』。日中に会った人には『こんにちは』」


 俺は目を丸くしていて、レイモンドはそんな俺を見てくすっと笑った。

 それから、わざとらしく「ああ」と呟いて、いっそう目を細めて俺を覗き込んで、


「まだ言っていませんでしたね。――おはようございます、ルドベキア」


 俺は慌てて居住まいを正して、レイモンドと目を合わせて、ちょっと吃りながらも応えた。


「お――おはようございます、レイ」


 それに便乗したように、あちこちで「おはよう」が交わされ始めた。


 レイモンドは喉の奥で笑いながらそれを見て、俺に食事を再開するよう身振りで示しながら、まじまじと俺を見て唐突に言った。


「――ルドベキア、たくさん食べてたくさん動きなさい」


 俺はきょとん。ずず、とスープを飲んでから首を傾げる。


「なんで?」


「不健康です」


 と、大変きっぱりとレイモンドは言った。


「そんなに痩せて。たくさん食べてたくさん動いてたくさん眠れば、今からでもぎりぎり背は伸びるかも知れません」


 鞠遊びでもします? と真顔でレイモンドが言い出して、どっと笑いが起こった。


「レイ、そりゃないぜ」


「確かに。『鞠遊びをする大使さま』って話題になるぜ」


 むう、と顔を顰めたレイモンドは、俺を見て眉を寄せた。

 俺は瞬きした。


「じゃあ、道に迷ったとでも言って、王宮を方々歩き回りますか? 私も付いて行けば危ないことはないでしょうし、この王宮、階段も坂道もたくさんありますから、歩くだけでもいい運動になりますよ」


 ちょっと視線を泳がせてから、レイモンドは名案を閃いたとばかりに指を鳴らした。


「確か、湖もあります。夏になったら泳ぎを教えます」


 また、どっと笑いが起こった。


「レイ、鞠遊び以上の話題になるって」


「確かに。しかも、万が一溺れたら一大事だよ」


「俺たち全員で囲んだ上で泳ぎの練習してもらうか」


「それ、軽く事件として扱われるわよ」


「レイモンド、すっかり弟が出来た気分だな」


 俺は、周りがどうして笑っているのかいまいちよく分かってはいなかったが、笑われても別段嫌な気はしなかった。


 レイモンドは「うるさいな」と周囲を一蹴してから、俺を見て眦を下げる。



「ルドベキア、そんなに痩せて()()なようでは、長生きできませんよ」



 俺はスープの匙を置いた。


 さあっと血の気が引くように、櫃の中が思い起こされた。



 ――今はこんなに良くしてもらっているけれど、所詮は慈悲を貰って生かしてもらっている立場だ。


 一年後にはまた櫃の中だ。



 それが分かっていたので、俺は小さく鼻を啜って、呟いた。



「――俺、長生きなんてしたくない」



 笑い声が静まって、しん、と静寂が食卓に落ちた。



 レイモンドは絶句して、咄嗟に言葉が出ないようだった。

 パトリシアも、何か言おうとして言葉に詰まった。



 チャールズも大きく目を見開いて俺を見て、それからひゅうっと息を吸い込むと、唐突に椅子を蹴って立ち上がり、叫んだ。


「――待て、やべえ、時間だ。

 野郎ども、掻っ込め。大使さまと淑女諸君はおしとやかにな。

 急げ!」


 途端に食卓は騒々しさを取り戻して、がちゃがちゃと食器の鳴る音が再開された。



 俺は慌ててスープを飲んだものだから白い服を汚してしまい、爆笑するチャールズたちに見送られながら、「大丈夫、織り込み済みです」と言うレイモンドに連れられて一度部屋に戻り、同じような白い服に着替える羽目になったものの。







 ――斯くして魔法技術展の幕が上がる。





◆◆◆





 あの食卓に着いていた誰よりも、遥かに長い人生を自分が辿ることになるだなんてことを、このときの俺は知る由も無かった。






















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