23◆ 待ち人来るまで
リリタリスの令嬢のご来訪は、俺にとって指折り数えて待つべき重要なものになった。
今や遅しと待ちかねて、夜中に一人で部屋の中をぐるぐる回ってみたりする。
他の誰の目も耳も届かない所でなら、代償は俺にこの感情の発露を禁じないからね。
顔を見られるのは嬉しいが、だがしかし一方で、あいつに婚約者がいるというのは気に掛かる。
トゥイーディアが嫌がる素振りを見せてくれれば、俺たちがあいつを攫って逃げられるけれど――あいつに記憶がなかなか戻らなければ、下手したら俺たちはあいつから誘拐犯呼ばわりされるけれど――、問題は、あの新聞の書きぶりだ。
婚約者を選ぶのに時間が掛かった、と書いてあった。
つまりあいつには、相手を選ぶ余地があったということ?
それとも周囲が、あいつに適当な男を見繕うのに時間を掛けた?
後者であることを切に願う。
俺は絶対にあいつに気持ちを伝えられないし、記憶にある限りずっと犬猿の仲で過ごしてきた俺に、あいつが好意を抱いていてくれることなど絶対に有り得ない。
でも、そうと分かっていても、俺があいつを見てきた時間の何百分の一の時間しかあいつを見ていないのに、あいつのこれまでの人生を全然知らないのに、そんな奴にあいつが横から掻っ攫われるのはなかなかにつらい。
まあ、代償がある限り、俺がこの妬心を表に出すことも不可能なんだけど。
――そんなこんなで二箇月は過ぎていった。
二箇月はおよそ訓練(と称したトゥイーディア歓迎の準備)に費やされたが、その間にも色々あった。
訓練中に世双珠を壊した廉で隊員の一人が厳罰に処されたり(世双珠は相当硬いので、滅多なことでは壊れないらしいが、ごくごく稀にこんなこともあるのだとのこと)。
その翌日にガルシアの目と鼻の先でレヴナントが目撃され、カルディオスを含む六十人が指名され、討伐に赴いたり(カルディオスは散々文句を垂れていたが、「人助けでしょ!」というディセントラの一声で黙った)。
討伐には二日掛かり、戻ってきたカルディオスは薄汚れていた。薄汚れていてもなお様になる、こいつの天与の美貌には嫉妬すら起きない。
カルディオスはいかにも将軍の息子らしく、他人の前では疲れも見せずきりっとしていた――というのに、周りが俺たちだけになるや否や、疲れただの腹が減っただのと甘え始めた。
ちょっと呆れたものの、俺がガルシアに辿り着いたときには世話になった覚えもあるので、俺は甲斐甲斐しくカルディオスの世話を焼いた。
カルディオスは仏頂面で、「毎回思うが、俺たちなら世双珠を使わない方が強い」といった趣旨のことをつらつらと垂れ零し、急遽与えられた任務明けの休日を惰眠に費やしていたようだ。
その直後に俺もまた、ガルシア着任以来初めてレヴナントの討伐に赴いた。レヴナントの被害は斯くも頻繁に発生するものらしい。
任務も無論のこと、訓練と同じ四人一組が基本になって動く。
俺たちが動いたその任務には、総勢三十二人が赴いた。
向かったのはカーテスハウンの少し東にあるセルトンという町だった。カーテスハウンが交易の町ならば、セルトンは産業の町といったところか。
町中に突如として出現したレヴナントのために、俺たちが到着したときには町は阿鼻叫喚だった。
海で見たレヴナントよりも明らかに大きい。身の丈は優に三十ヤード。
その巨体が、轟音を立てながら町並みを破壊している様に、俺は覚えず総毛だった。潰れた家屋、踏み拉かれ陥没した敷石、折られた街灯――
長年に亘ってひたすら弱者を守ってきた俺としては、大いにやきもきするところではあったが、一人で動いて指揮系統を乱しても事態をややこしくするだけなのは火を見るよりも明らかである。
目の届く範囲でこっそりと、空気を盾として圧縮して守れる範囲の人を守るだけに留めた――多分、同じことをあいつらも常習でやっているだろうと思う。何しろ俺たちは救世主だから。
世双珠を使わない魔法の気配に、この時代の人間は驚くほど鈍感だ。
誰一人として俺のしていることに気付いた様子はなかったが、唯一、同じ任務に指名されたアナベルだけが、無理するなと言わんばかりに俺を見てきた。
自分もせっせと同じようなことをこっそりやっているくせに。
一応は魔王である俺よりも、アナベルの方が無理をしてることになると思うんだけれど、アナベルは――普段はそうは見えなくとも――根は優しいからそんな目付きになるのかも知れない。
この時代の戦い方は、部隊を複数のグループに分け、それぞれが一つの世双珠を使って攻撃あるいは防御に徹し、チームワークで敵を斃すというものだった。
確かに効率はいいが、俺は世双珠が壊されないかと始終ひやひやしていた。ちなみに世双珠は、グループの筆頭者が保持する。
俺が――というか、俺とニールとララとティリーが割り当てられたのは、攻撃部隊の一翼だった。
使用するのは〈動かすこと〉に特化した世双珠。重力に関する世界の法について、改変の枠を予め与えられた世双珠は、確かに攻撃において都合がいい。使い方によっては、地面を引っぺがして投げ付けることも出来るからね。
レヴナント本体を動かすことはどういうわけか出来ないみたいだったけれど。
あと、上手く使えば自分自身の身体能力を飛躍的に向上させることも出来る世双珠だ。
そんなわけで、レヴナントを挟んだ反対側から、〈燃やすこと〉に特化した世双珠を使う部隊が高熱の塊をレヴナントに撃ち続ける中、俺たちの部隊は接近戦をこなすことと相成った。
ばきばきと地面は引っぺがされ、瓦礫の一部が投擲具として使用される。
周囲には風切り音と殴打の音、そして燃え盛る炎が空気を焦がす音が満ちた。息を合わせるための掛け声がそこに混じって響く。
瓦礫から粉塵が舞い上がり、稀に炎が粉塵に引火して弾ける。
炎弾と物理攻撃の挟み撃ちを受け、レヴナントは何度も吼え猛った。
それはそれでただうるさいだけだったけれど、それよりも、逃げ惑う町の人たちの悲鳴で耳が痛い。
幸いにもこのレヴナントは、俺が海上で対峙したものと同じで、それほど知能は高くない個体だったようだ。「運がいい……」と誰かが呟く声を俺の耳が拾った。
確かにこのレヴナントは、己が殺されようとしているというのに、およそ反射の賜物としか思えないような反撃しかしてこない。回避は容易く、回避し損ねたとしても、防御班がレヴナントの動きを読んでしっかりとカバーできるというもの。
後でカルディオスに聞いた話だが、つい先日にあいつが討伐に赴いたレヴナントはこれよりも図体も大きければ知能も高く、相当手を焼いたうえに結構な数の怪我人も出たらしい。
それに比して、目の前のこのレヴナントは――何というか――子供じみていた。
魔法が当たれば痛みを感じたかの如く叫び、長い手足を振り回して暴れる。
如何にレヴナントの中ではそれほど脅威度の高くない個体とはいえ、この大きさのものが確かな質量を持って暴れ回るのである。
俺たちは有効打となる魔法を使えるからいいけれど、魔術師ではない人々からすれば手の打ちようがない災害だろう。
――どォしてぇ――どォしてぇ――
レヴナントの咆哮が耳を劈く。
灰色に滲む輪郭に似合わぬ、確かな質量と膂力を持つ腕が、俺の頭のすぐ上を掠めた。俺を案じてくれたのか、ニールの切羽詰まった声が聞こえたが問題ない。
俺は軽くしゃがんで避けて、すぐにまた立ち上がりながら、足許から引っぺがした敷石の塊を、危うく俺に激突しそうになったレヴナントの腕目掛けて投擲した。
狙い違わず命中した、魔法を纏ったその石榑が、ぼぐッと殴打の音を立ててレヴナントの腕を欠損させる。前腕に当たる部分が不格好に欠け、またしてもレヴナントの絶叫が上がった。
そうやって、地面を引き剥がして投げ付けたり、あるいは空中に駆け上がって手近な瓦礫なんかをレヴナントに向かって投げつけたりしながらも、俺としてはちょっと落胆する役回りである。
暴力沙汰が嫌いな俺としては防御班に回りたかったし、それが無理なら〈燃やすこと〉に特化した世双珠を扱いたかった。なにせ俺の得意分野だからね。
ここにはいないコリウスこそが、〈動かすこと〉を固有の力として持つ男だ。
念動の最高峰、あいつは救世主の地位にないときでさえ、自分自身ならば瞬時に任意の場所に移動させる――いわゆる“瞬間移動”を扱える唯一の魔術師だった。色々と制約はあるらしいが、それでもあいつ一人なら相当な長距離を瞬きの間に移動できる。
魔王の城からの脱出も、奴に掛かれば容易かっただろう。救世主の地位にあるときのあいつは、地形すら変動させてみせたことがある。
――なんていうことを、俺はコリウスに比べれば随分としょぼい魔法を使いながら考えていた。
俺たちは――というか、俺たちが使っている世双珠では――、地面から敷石を引き剥がしたり、あるいは瓦礫を投げたりする程度が関の山だけれど、コリウスが本気になれば、この地面を陥没させてレヴナントを生き埋めにすることも出来るだろう。
一方のアナベルは防御班に割り振られ、生真面目な顔で〈風を起こすこと〉に特化した魔法を使って防御に当たっていた。
極めて狭い範囲に強風を呼んで盾と成しているようだ。
自分の得意分野に近いものがある世双珠で、さぞかし使いやすいだろう。
とはいえ、アナベルはアナベルで、「なんで自分が防御班……」なんて考えているんだろうか。長い付き合いとはいえ、無表情が基本のアナベルの感情は読み難い。
――ちなみに、俺たちの中で最も防御に抜きん出ていたのはディセントラだ。
何しろみんなして破壊の方向でしか法を超えられない中、防御方面に応用できる能力は相当貴重。
彼女の固有の力は〈止めること〉。
救世主の地位にあるときの俺の能力――相手の時間を支配下に置くこと――や、物体の動きを自由に操ることの出来るコリウスの能力の下位互換に思われがちだが、全然違う。
俺が救世主のときに授かる能力は、相手が生物でないと発揮できないもので、利便性において大幅に劣るし、ディセントラの能力の真骨頂は、その存在そのものを縫い留めることなのだ。
コリウスの能力があくまでも物体の移動に限定されるのに比して、ディセントラの能力は、〈状態を推移させる〉アナベルの能力と双璧を成す。物事の変化を根底から留める能力だ。
準救世主の地位にあるときですら、僅かながらに――〈あるべき形からの変容は出来ない〉という――絶対法を超えている。
とはいえディセントラもやっぱり救世主。防御のために絶対法は超えられず、あくまでも破壊のためでしか大きな力は揮えない。防御はあくまでも応用。
ちなみにディセントラは俺と同じで、正当な救世主の地位にあるときには別方向の力を授かる。
それもずばり、〈戻すこと〉。破壊の方向でしか法を超えられないがゆえ、たとえば若返りだとか、負傷した箇所を元の状態に戻したりして癒したりだとかは出来ない。
授かるのは、物質を原子にまで徹底的に戻して破壊する能力。
ディセントラはその能力を生かして、俺たちが口喧嘩に留まらぬ魔法を使っての喧嘩に突入したとき、それを牽制できる貴重な存在だった。
とはいえカルディオスの能力には手を焼くことが多い。
カルディオスの固有の力は、〈実現させること〉。
準救世主の地位にあるときでさえ、〈無から有を生み出すことは出来ない〉と定める絶対法に真っ向から逆らう能力だ。
しかしながらこの能力は扱いが相当難しいらしく、カルディオスは滅多に使いたがらない。
いざ使うとなれば、何も無いところからすくすくと植物を生やしてみせたり、上空に巨岩の群れを作り出して雨霰と降らせたりと、相当に好き放題できる能力である。
いかなディセントラといえども、前触れなく発生する事象へ対処することは難しい。
一方このカルディオスの能力はリスクも非常に大きくて、この固有の力を使っている最中のカルディオスは一種の瞑想状態に強制的に没入する。
俺たちのうち誰かが傍にいるときでなければ、カルディオスは絶対にこの能力を使おうとしない。
――カルディオスがいれば、俺の漂流生活は段違いに楽だっただろうに。
――と、まあ、そんなないものねだりの思考を織り交ぜながらも討伐は順調に進んだ。
唯一ひやりとしたのは討伐終盤、手柄を焦ったらしきティリーがレヴナント目掛けて突進しようとしたときか。
断末魔を迎えようとしていたレヴナントは地面に横倒しになりながらも激しく身を捩って暴れており、そんなところに突っ込む馬鹿がどんな目に遭うのかは火を見るよりも明らかだ。
憤然としてティリーの腕を掴み、彼女を押し留めた俺に掛かる「よくやった!」との複数の声。
そうしている間に、俺たちよりも少しばかり年長と見える男性が、恙なくレヴナントに留めの一撃を入れていた。
弱り切った胸部に灼熱の鉄槌を受け、レヴナントはみるみるうちに溶け出し、断末魔の絶叫を薄れさせながら空中に向けて儚い一筋の煙となって消えていった。
前は海に沈めたから分からなかったけれど、あれがレヴナントの散り際か、と、俺は思わず目を見開く。
町の人々の、安堵の歓声と失ったものを嘆く悲鳴が半々の声を聞き、滅茶苦茶になった町並みを見て苦いものを胸に感じていた俺だったが、自分のすぐ傍で恨み節が上がってぎょっとした。
「……なんで――」
思わず半歩下がりながら傍を見遣れば、怒れるティリーが俺を凝視している。
怖い、助けてアナベル――と思って視線を巡らすも、視界に捉えたアナベルは「関係ありません」とばかりにそっぽを向いた。短く整えられた薄青い髪がこれみよがしにふわっと靡いた。このやろう。
公爵令嬢というだけあって、ティリーの身分はガルシアでも上位に数えられるのだろう。
さっきは俺に「よくやった」と声を掛けてくれただろう人たちでさえ、雰囲気を察知して目を逸らしている。そりゃないぜ。
「なんで邪魔したのよ。あんな――あんな奴が――折角のいい機会だったのに――!」
もはや途切れ途切れの恨み節は、戦闘で息が上がっているゆえか、それとも口惜しさのゆえか。
手柄を立てて出世組に戻りたい気持ちは分かるが、それで命を捨てては元も子もない。
取り敢えず両手を軽く挙げ、「申し訳ない」というポーズをとってから、俺は端的に呟いた。
「いや普通に――危ないと思って……」
ぎゅっとティリーが唇を噛む。
ついでに拳を固く握った。すうっと大きく息を吸い、ゆるゆるとその息を吐く。
そうして少し落ち着いたのか、ティリーは存外に冷静な声を出した。
「――そうね。確かに短慮だったわ、無謀を止めてくれてありがとう……とでも言っておこうかしら」
少々嫌味の籠もった言葉ではあったが、俺は鈍感な振りをして、「いやいや」と返しておく。
俺の挙動を鳶色の目で見守って、ティリーは無為に怒ることをやめたらしい。自身の行いの無謀さは理解の範疇だったようだ。
代わりに、少しばかり面白そうに唇を歪ませて、彼女は言った。
「そういえばあなた、訓練よりは実戦でいい動きをするのね、ルドベキア?」
あのティリーが他人を褒めた――という雰囲気が満ち溢れる中、アナベルが笑いを堪えようとして後ろを向くのが俺の視界の隅に映った。
そりゃ、あいつはガチの本気の俺を知ってるから笑うわな。
俺は至極真面目な顔を作り、軽く頭を下げてみせた。
「必死だったからあんまり覚えてないけど。――ありがとう、ティリー」
ニールとララが、ほっと息を吐いた気配がした。
――それからというもの、ティリーの態度がなんとなく軟化して、俺が内心で安堵したのは余談。
何しろ俺としては、トゥイーディアを連れてこの砦から逃げ出すつもり満々だからね。
ティリーには残る二人と仲良くやってもらわないと、気のいいニールとララが気の毒だ。
二人は俺に非常に良くしてくれる。
砦の外の町にどういう店があるのかも、いちいち案内してくれたくらいだ。
昼時の食事は隊員の一日を支える楽しみとなっているので、俺にも是非美味いもん食ってほしいとのこと。
滅茶苦茶いい人で驚きである。
――二箇月の間に俺は、この百数十年で進化したメシの味を覚え、ガルシアの町並みとそこに軒を連ねる店を覚えた。
魔法研究院でのくっそ退屈な講義を凌ぐための、バレない居眠りの仕方も覚えた。
季節は春に向かって日の長さを伸ばし、寒さは緩み、朝に中庭を見ても、そこに霜が降りていることはなくなった。
制服以外に衣服を全く持たない俺を、非番の日のためにと、アナベルとディセントラが仕立屋へ引っ張って行ってくれたりもした。
その道中、行き交う男どもの視線に含まれる嫉妬の棘に俺は身が縮まる思いをしたものである。
辿り着いた仕立屋では、(これまで高貴な生まれが連続した影響で)身なりに気を遣うディセントラのみならず、普段はつんとしているアナベルも、真剣に俺に似合う布地を吟味してくれた。
店を切り盛りする初老の男性は微笑ましげにそれを眺め、含みのある視線で俺を見遣ったが、誤解ですとの意味を籠めて激しく首を振っておいた。
結局、その仕立屋で二揃えの衣服を仕立てたことで、俺の初めての給料は吹っ飛んだわけである。
「次の給料が払われるまでどうやって生きていきゃいいんだよ!」と猛抗議する俺に(俺は一着でいいと言ったんだよ)、アナベルが「それまではみんなで養ってあげるから」と、大変心温まる言葉を掛けてくれた。
ちなみにそれから次月の給料が支払われるまでの間、アナベルはびた一文たりとも俺のために支払うことはなかったということを言っておく。
――色んな意味で待ちに待った次の給料日。
その翌日こそが、トゥイーディアがガルシアに到着する予定の日だった。