08◆――友人に捧げる魔法
俺は慌てて頷き、もがくようにして立ち上がろうとした。
恐怖と驚愕のせいで、生憎と声は出なかった。
飴色の目の女の人は、数秒じっと俺に視線を当てていた。
俺はこのとき、妙に怖い顔をする人だな、と思って、心底びびりながらその視線に耐えていた。
とはいえ別に、女の人に俺を威圧するつもりはなかったようである。
女の人は俺を検分して、俺が転んだ拍子に骨を折ったりしていないことを確信したようだった。
膝を突いた姿勢から、すっと滑らかに立ち上がって、そのまま流れるように俺に手を差し出し、俺を助け起こそうとしてくれた。
蜂蜜色の長い髪が一房、肩を滑って艶やかに揺れた。
俺は一瞬、手を差し出した彼女の意図が理解できなくて、レイモンドに叩き込まれた、「相手が手を差し出したら、あなたも手を差し出しなさい」という教えの通りに、咄嗟に右手を伸ばしていた。
女の人がぱしりと俺の手を握って、そのまま後ろに下がるようにして、俺を助け起こしてくれた。
白くて細い指は非力だったが、年齢の割に目方の軽い俺一人を引っ張り上げるには十分だった。
俺はよろめきながら立ち上がり、女の人が俺の手を握ったまま、「どなたか警吏を」と周囲に呼び掛けるのを聞いていた。
俺は女の人よりも僅かに背が低くて、女の人の横顔がはっきりと見えていた。
白い頬の印象が強かった。
微笑の欠片もない、凛としたその頬。
にこりとも笑わずに周囲を見渡すその眼差し。
半ばがきっちりと結われている他には、艶やかに背中に流されている蜂蜜色の髪が揺れる。
人混みの中で誰かが、女の人の声に応えてどこかに走って行ったようだった。
それを認めてから、女の人は俺に向き直った――というか、握ったままの俺の掌に視線を落とした。
長い睫毛の影が見えた。
俺は左手に、乗合馬車に乗るときに使った、あのきらきらした小さな円盤の残り二枚を握っていて、女の人に握られているのは右手だった。
女の人は丹念に俺の掌を見て、ちょっと顔を顰めた。
俺がびびって掌を引っ込めようとすると、逆にぎゅっと手指に力を入れて俺の掌をそこに留め、俺の手を握っているのとは反対側の手を持ち上げて、俺の掌の上に翳した。
「やっぱり、擦り剥いていますね……失礼」
魔力が働く感覚があって、白い光がぱっと女の人の手の中で弾けた。
途端、俺の掌の傷が癒えた。
――魔法による治療が可能であるということは、俺は誰に教わらずとも知っていた。
何しろ魔法に関しては、自分で新しい魔法を作ってしまうくらいの才能には恵まれていたから。
だが、実際にその魔法を見るのは初めてだった。
俺はお許しなしに魔法を使うことなんて出来ないし、俺の傷が不自然に早く癒えたとなれば、俺は恐らく三日くらいは櫃に突っ込まれることになっていただろうから、自分で使ったことなどない魔法だったのだ。
それに、誰も俺の傷を癒そうなんてことは思わなかっただろうし、第一、治療の魔法は――感覚的な話だが――結構魔力を使うだろうという理解があった。
普通の人が使おうとすると難儀する魔法だろう。
治療の魔法が終わって、女の人がようやく俺の手を離してくれたので、俺は思わず安堵の息を吐いて後退った。
俺のその態度を失礼なものだと思ったにせよ、女の人は何も言わなかった。
ただ、無言で俺から顔を逸らした。
堂々と頭を上げて立つ彼女を、俺はおっかないと思ってちょっとずつじりじりと距離を開けていた。
とはいえ、俺は自分がどうすればいいのか分かっていなかったので、結局はその場でぼうっと突っ立ち、黒い服を着た物々しい雰囲気の人が二人(考えるまでもなく警吏だった)駆け付けて来て、なおもわざとらしく呻く掏りの男を立ち上がらせて連行する、その一部始終を見守ることになった。
掏りの男は、「違う、いきなりあの餓鬼がぶつかって来たんだ!」と喚いていたが、周囲の野次馬から一斉に、「嘘つけ!」と大合唱を喰らって、何やらぶつぶつと文句を言っていた。
思えばあの男、掏りの常習犯か何かで、警吏のお世話になるのも初めてではなかったのかも知れない。
恙なく掏りの男が連行されるのを見守ってから、女の人はドレスのかくしから小さな銀色の懐中時計を取り出し、時刻を確認。
そして、「あっ」と小声を上げた。
「しまった、もうこんな時間……」
それから女の人は、流れるように俺を振り返って会釈した。
そのときの俺に、ある程度の教養があれば、その仕草を見て彼女がそこそこの身分であろうと察することも出来ていただろうが、生憎とこのときの俺は、いよいよ切羽詰まってきたこの状況に絶望することしか出来ていなかった。
「もうここにいなくても大丈夫ですよ。不届き者は、きちんと然るべき処遇を受けるでしょう」
女の人はそう言って、「では」と声を掛けて立ち去ろうとした。
実際、ドレスの裾を翻し、三歩くらいその場から動いた。
それから、俺が絶望と当惑の余りに動けないでいるのを見て取って、時間を戻すみたいにして、動いた三歩の距離を戻って来た。
そしてちょこちょこと俺に寄って来て――その仕草はなんとなく、ヘリアンサスに会いに行く途中で通る山でときどき見掛けた兎を、俺に想起させるものだった――、首を傾げた。
そのときの彼女は、そんなに怖そうには見えなかった。
「――あの、もしかして」
女の人はそう言って、飴色の目でまじまじと俺を覗き込んで来た。
この人は、少なくともパトリシアよりは年上だな、と、俺は何となく頭の片隅で考えたが、それよりも何よりも近い距離に怯えて、俺は仰け反っていた。
吸い込む息が微かに震えた。
女の人はぱちりと瞬きした。
長い睫毛が閃いた。
それから彼女は、懐疑的な口調で呟いた。
「迷子――ですか?」
俺はちょっと躊躇ったものの、もう背に腹は代えられないと思って、小さく頷いた。
女の人はちょっと顔を顰めて――俺はびびって半歩下がった――、もう一度、手許でぱちんと銀色の懐中時計の蓋を開けて、時間を確認した。
それから何事かをじっと考え込み、すぐにまた顔を上げて、俺と目を合わせた。
さっきの兎みたいな仕草は鳴りを潜めて、やっぱりにこりともしないので、俺はいよいよこの人のことが怖くなり、それで逆に足が動かなくなった。
足が動けば逃げ出していたところだ。
「――私にも予定があるので」
と、女の人は言った。
不承不承といった口調だった。
「先にその予定を守らせてくださるなら、後回しになりますが、道案内くらいは致しましょう。――リーティの地理には明るいので」
俺は躊躇したものの、結局はこくんと頷いた。
如何な俺であっても、ここで一人でうろうろしているばっかりでは、事態が良くなっていったりはしないのだということくらいは、辛うじて分かったのである。
――とはいえ頷くのには相当な勇気が必要で、女の人はおろおろと視線を泳がせる俺を、若干の軽蔑が籠もった眼差しで見ていた。
多分、状況理解も出来ない、極度に頭の鈍い人見知りだと思われたんだと思う。
今から考えると、若干死にたくなるけど。
◆◆◆
そんなわけで俺は、女の人に連れられて幾つかの通りを抜け、建物を刳り貫いて作ったようなアーチを幾つか潜って、瀟洒な建物の前まで連れて来られていた。
通りに面する門壁には、鋳物で文字が作られて打ち付けられていた。
曰く、『チェルシー孤児院』。
俺は孤児院が何だか知らなかったので、綺麗な建物だな、なんてことをちらっと思った。
狭い芝生の庭を備えた敷地に、背の高い白亜の建物が建っていて、門を潜って中に入ってみれば、すぐに中庭を望む大きな窓に出くわす造りだった。
芝生の敷かれた中庭では、数人の子供が毬を蹴ったり投げたりして遊んでいて、女の人に気付いたらしき子供が、陽気に女の人に手を振った。
女の人は手を振り返したものの、義理みたいな手の振り方で、やっぱりにこりともしなかった。
そのままずんずん建物の中を進んで行って、途中で擦れ違うここの住人と思しき人たちにも、一言も掛けずに会釈だけして階段を登り始める女の人の後ろを、俺は大いにびびり上がりながら付いて行っていた。
擦れ違う人たちが、「だれ?」みたいな目で俺を振り返るのが怖かった。
――本当は、建物の前で待っているように勧められたのだ。
俺も勿論それに賛成したのだが、女の人はしばらくじっと俺を見詰めたあと、「やっぱり付いて来てください」と言った。
当時の俺は、「なんで?」と思ったものの、後から考えれば理由は明白だった。
人混みに簡単に流されて行きそうな俺が、それなりに上等な服を着て立っていれば、否が応でも人目を引く。
他の場所なら別に良かったのだろうが、ここは孤児院の前である。
色々と具合が悪いと判断したのだろう。
女の人はすたすたと階段を登って、俺はびくびくしながらそれに続いた。
あちこちに窓が開いているお陰で、建物の中はそれなりに明るい。
冷えた風が吹き込んできていて、女の人はドレスの上に羽織ったケープをぎゅっと胸の前で強く押さえていた。
四階まで登ってから、女の人は階段の上で振り返り、俺に向かって首を傾げて、唇に指を当てて見せた。
それから、小さな声で言った。
「――これはお願いなのですけど。これから会う人は、ちょっとだけ人より繊細なんです。なので、余り大きな音や声は出さないようにしてください」
俺はこくっと頷いた。
今は何よりも、この女の人の機嫌を損ねるのが怖かった。
何しろ、やっと掴んだ状況の打開策。
それに、万が一怒らせたら、この人なら指の一振りで俺を殺しそうだと、俺は真面目に考えて怯えていた。
女の人は、飴色の目を眇めて俺を眺めた。
どことなく不機嫌そうに見えて、俺は身を縮めた。
そんな俺を見て、女の人ははあっと小さく溜息を零すと、ちょうど俺の後ろに開いている、アーチ型の窓の向こうを見て眉を寄せた。
「――はい、ご協力ありがとうございます。雨も降りそうですし、それまでには目的地にお送りしないといけませんね。
……あの子がいれば天気も言い当ててくれるのですけど」
後半は独り言じみた調子で零して、女の人はすたすたと廊下を進んだ。
俺もおっかなびっくりそれに続いた。
廊下は狭くて、足許は冷たい床で、等間隔で花台が設けられてその上に花瓶が置かれていたが、大抵の花瓶は空っぽだった。
壁は白い漆喰、天井は低くて、部屋の数だけある扉は木で出来ていたものの、黒い鉄のリベットで補強されていて、全部が全部アーチ型だった。
女の人はそんな扉のひとつの前で足を止め、上品な仕草で扉をノックした。
こんこんこん、と音が響いて、ややあってから、中から「どうぞ!」と女性の声がした。
女の人が真鍮のドアノブを捻って、ゆっくりと扉を開けた。
そして、やけに大仰に足音を立てて、部屋の中に入って行った。
俺はこそっと、開け放された扉から部屋の中を窺った。
部屋は案外広くて、奥の壁に窓があって、扉から見て左手の奥に寝台が置かれていた。
寝具は真っ白で、ふわふわしてそうで、レースもふんだんに使われていた。
床に毛足の長い絨毯が敷いてあって、俺はちょっとだけそれが羨ましかった。
扉から見て右側の壁には、長テーブルが設けられていたが、普通のテーブルと違って、板を壁に打ち付けたみたいな造りだった。
木目が際立つ深い色のテーブルで、なんというか温かみがあった。
華奢な造りの椅子が三つ、間隔を開けてそのテーブルに向かって置いてあって、そのうちの一つ、一番奥のものに、この部屋の主と思われる女性が腰掛けていた。
女性は白に近い金色の髪を長く伸ばしていて、それはふわふわした三つ編みに編まれて、左肩から胸に向かって流されていた。
水色の質素なドレスを着ていて、肌は不健康なまでに青白かった(まあ、俺も他人のことは言えないが)。
柔らかそうな室内履きを履いた足を揺らして、首を傾げてこちらを見ていた――その目の焦点が、妙に合っていなかった。
俺をここまで連れて来た女の人は、その女性を見て嬉しそうな顔をした。
俺がちょっと目を疑ったくらい、唐突に、柔らかい微笑が顔いっぱいに拡がった。
そうすると女の人の印象はがらりと変わって、なんだかふわふわした毛並みの兎みたいになった。
女の人は、小走りで部屋の主の女性の方へ向かって進み、大きく手を広げてその女性を抱き締めた。
なんか綿毛みたいな抱き締め方だな、と俺は思った。
「――メーナ、会いたかったわ」
女の人はそう言った。
声音も、俺に向かって何かを言っていたときとはまるで違った。
声が光っているみたいな、そんな口調だった。
「あたしもよ、トゥイーディア」
部屋の主の女性はそう言って、女の人の身体を確かめるみたいな、妙に慎重な手付きで彼女を抱き締め返した。
名前を呼ばれて、女の人がちょっとだけ気まずそうにこちらを振り返った。
俺はそのときになってようやく、この人の名前を知らなかったことに気付いたが、金輪際もう二度と会うこともない人だろうから、別に今さら覚えようとも思わなかったし、そろそろ事態の拙さに気が遠くなり始めていたので、些細なことはどうでも良かった。
俺はぐっと奥歯を食いしばって、歯が鳴らないように堪えていた。
俺は入口のところで身動ぎして、そのときになって、部屋の主の女性がはっとしたようにこちらを見た。
少なくとも、こちらに顔を向けた。
そして、怯えたように囁いた。
「――だ、誰かいるの?」
「――――」
そのときになってようやく、俺はその人が盲目なのだと気付いた。
俺をここまで連れて来た女の人は、抱き着いていた女性からちょっと身を離すと、ちらっと俺を振り返り、また冷ややかになった口調で端的に説明した。
「迷子を拾ったの。先にきみに会いに来たかったから、ここまで連れて来たんだけどね。フィロメナ、ごめんなさいね」
女性はふるふると首を振り、手探りで女の人の手を握った。
「ええ――いえ、大丈夫よ。でも、ねえ、トゥイーディア。時間は大丈夫なの?」
女の人はくすっと笑った。
そうすると、やっぱり温かみのある雰囲気になった。
俺は段々、この女の人が見せる些細な二面性が怖くなってきた。
いや、元より芯から怯え切っていたけれども。
「ええ、大丈夫よ。気にしないで。
――あのね、一昨日、お庭に花一華が咲いたのよ。紫みたいな青みたいな色なの。今日はそれを見てほしくて」
そう言いながら、女の人は別の椅子を引っ張って、部屋の主の女性と向かい合う形で置いて、そこに腰掛けた。
そして、女性の手をぎゅうっと握り返した。
――俺は息を吸い込んだ。
女の人の、俺よりも大きな魔力が、見たことのない独特な動きでこの世界の法を書き換え始めたのを感じたのだ。
白い光の鱗片が、誰の目にも見えるだろう形で、ぱっと散った。
二人の女の人の周囲に、まるで大きな雪片が散ったかのようだった。
更に加えて、俺の目には別の様相も見えていた――その魔法が、目の前の女性に絡み付いて、その内側に潜り込んでいる様子が、はっきりと。
そして、その魔法がどのように働いているのかも、俺から見れば一目瞭然だった。
――盲目の女性に、この女の人の魔法が、直接景色を伝えているのだ。
色とか形とか香りとか、そんな全ての体験を、五感に拠らずに女性に送り込んでいる。
俺も、ちょっと手を出せばその景色に触れられそうだった。
「――わぁ」
と、女性が呟いた。
頬が少しばかり上気して、焦点の合わない瞳が僅かに煌めいた。
「すごい、こんな風に咲くのね――ねえ、この黄色い花はなあに?」
女性が弾んだ声で尋ね、魔法を使っている女の人がふふっと微笑んだ。
口角が上がって笑窪が浮かんだ。
「側金盞花よ――去年も見せたでしょ」
「そうだったかしら――黄色い花といえば向日葵でしょ。それに上書きされちゃってたわ」
空とぼけた様子の女性に、女の人はわざとらしくも唇を尖らせる。
「あらひどい。確かに向日葵の方が大きく咲くけれど」
盲目の女性は声を上げて笑った。
それから、「あっ」と、盲た目を見開いて。
「待って待って、覚えてるかも……。毒のある花じゃなかった?」
俺は目を剥いた。
知識が乏し過ぎた俺は、花の中には毒を持つものもあるのだということを知らなかった。
魔法を使う女の人は嬉しそうに目を細めて、首を傾げた。
「そう、そうよ。――あ、待って……この日は晴れてたの……」
しばしの沈黙ののち、ほう、と、盲目の女性の唇から感嘆の息が漏れた。
「……綺麗な空ねえ。吸い込まれそうって、こういうのを言うのね。
あっ、小鳥がいる。かわいい……」
――俺は息を止めて、瞬きもせずに女の人が使う魔法を見ていた。
教えてほしいと、切実に思った。
見ているだけでは、同じ魔法を使えるようにはなれそうになかった。
――もし、俺がこれと同じ魔法を使えるようになったら、
地下神殿で膝を抱えるヘリアンサスが、瞼の裏に浮かんだ。
空の色が分からないと言っていた、あの。
海ってなに、と俺に訊いた、あの。
――ヘリアンサスに、もっと色んなものを見せてあげることが出来る。
そうすれば、ヘリアンサスも面白がってくれるだろう。
俺を番人としておくことに、ちゃんと価値を置いてくれて、〝えらいひとたち〟が俺を殺そうとすれば、多少は守ってくれるかも知れない。
だが、思わず口を開いた俺は、すぐにその口を噤んだ。
――教えてもらったとしても、これほどに大きく魔力を動かす魔法だ。
〝えらいひとたち〟が勘付かないわけがない。
そして勘付かれてしまえば、俺は櫃に入れられる。
それに、単純に怖かった。
この女の人に向かって、魔法を教えてくれだなんて、とてもではないけど言えなかった。
「この頃はね、川にも氷が張らなくなって――」
「あら、ほんとだ。お魚が見えるわ」
くすくすと笑う二人の女の人。
額を寄せ合って、内緒話をするみたいに。
魔法を使う女の人は目を閉じていて、微笑んでいて、ほんのりと頬が赤くなっていた。
「もうすぐ藤が咲くわ。木香薔薇も。その後に薔薇が咲くんだけど――ああ、見える? この噴水ね、枯れてしまってるんだけど、あの子が上手い具合に薔薇の蔓を這わせてくれたの……きっと今年は去年よりも綺麗に咲くわ」
盲目の女性の目が泳いだ。
「噴水――あっ、見えた。これね」
ふふっと肩を揺らして笑って、魔法を使う女の人は声をひそめた。
「あの子はね、一回しかこのお庭に入れてあげてないの。結局働いてもらっちゃった。穏やかな子だから、怒ったりはしなかったけれど」
「人使いが荒いのね」
悪戯っぽく盲目の女性が言って、魔法を使う女の人は、こつんと彼女の額に額をぶつけた。
そして、やっぱり悪戯っぽく言葉を返した。
「あら、そんなことを言うなら薔薇は見せてあげないわよ」
きゃあ、と小さく声を上げる盲目の女性。
楽しそうだった。
一方の俺は、櫃を予感して絶望の心境に拍車が掛かっていたけれど。
「ひどい、楽しみにしてるのよ。――ねえ、今年も藤はちゃんと咲くかしら」
魔法を使う女の人は、うっと言葉に詰まったあと、慎重に答えた。
「た――多分ね。去年も咲いたもの、私が致命的な大失敗をしていない限りは、きっと大丈夫よ」
「あなた、ときどき信じられないくらいドジだから心配だわ」
「まあ、失礼しちゃう。きみの知らないところで、私だって大活躍したりしてるのよ」
声を合わせて二人が笑うのを見ながら、俺は扉のところで蹲った。
レイモンドたちから逸れてより、そろそろ洒落にならない時間が経過しているということを、俺の胃袋が痛みを訴えることで俺に報せていた。
背中にはびっしょりと冷や汗が伝っていた。
「分かってるわ。あたしをここに居させてくれているものね――ありがと」
盲目の女性が穏やかにそう言って、魔法を使う女の人がぱっと目を開けた。
ちょっと不満そうな表情だった。
「なに言ってるの。きみがいなくなっちゃったら私が困るでしょ。誰に私のお庭を見てもらうのよ」
盲目の女性が軽く笑った。
そして、そうっと女の人から離れるように身を引いた。
――その瞬間、女の人が余りにも寂しそうな顔をしたので、俺はどきっとした。
俺は他人のそんな顔を見たことが無かったのだ。
盲目の女性には、勿論のことその顔は見えていない。
女性は、遠慮がちに口を開いた。
「――あの、迷子を拾ったって言っていたけれど。おうちまで送ってあげて」
女の人は瞬きした。
飴色の目にさっと翳が差した。
「え……もういいの?」
「また来てくれるでしょう?」
首を傾げた盲目の女性から、飴色の目の女の人は視線を落っことすようにして目を伏せた。
彼女が唇を噛んだのが、俺からは見えた。
そして驚いたことに、盲目のはずの女性も、何かを感じ取ったようだった。
握り合わせたままのお互いの手を持ち上げて、窺うように女の人の手の甲に頬を当てたのだ。
「……何かあった?」
「ううん――うん」
女の人は不明瞭な声を出して、視線を落としたまま呟いた。
「……ちょっとだけ――でもいいの……頑張ればいいだけの話だもの。
あちらが成果を出したなら、こちらも成果を出せばいいだけ――」
呟く彼女に、盲目の女性は気遣わしげに顔を顰めた。
「あの……あたしにはよく分からないけれど、でも、無理はしないでね?」
ぱっと顔を上げ、女の人は微笑んだ。
どうしてだか、その笑顔が硬く見えた。
「ええ――ええ、もちろん。大丈夫よ」
「トゥイーディア」
そう呼び掛けて、盲目の女性は女の人の手の甲を擦った。
「ほんとに、無理をしてここに来るのはやめてね。
あたし、あなたに税金を納めてはいないのよ」
飴色の目を困ったように細めて、女の人は穏やかに呟いた。
「メーナ――フィロメナ。きみがいないと、私はぺしゃんこになっちゃうわ」
盲目の女性はふふっと笑った。
飴色の目の女の人は椅子から立ち上がって、もういちど盲目の女性を抱き締めた。
そして、確認するように言った。
「ちょっと向こうに戻らないといけない日もあるから、いつになるとは約束できないんだけど、近いうちに来るわ。そうね……藤が満開になる頃に」
盲目の女性は女の人を抱き締め返して、嬉しそうに頬を緩めた。
「嬉しいわ。楽しみにしてる」
「私も」
そう言って女の人は、盲目の女性の白っぽい金髪に、愛おしそうに手を触れた。
しばらくそうしていて、それから何かに踏ん切りをつけるように唇を噛むと、女性から手を離して一歩下がった。
そして、また短く挨拶の言葉を述べると、くるっと踵を返した。
そうやって俺の方を振り向いた女の人は、ぎょっとした様子で目を見開き、唇に両手を宛がった。
恐らく、声を出しそうになったのを堪えたのだろう。
――いつの間にか俺が無言で蹲っていたので、相当に驚かせてしまったらしい。
ぱたぱたと俺に駆け寄って来た彼女は、俺の傍で屈み込み、限界まで声を潜めて、俺の耳許で囁いた。
口調は切迫していた。
「――ちょっと、どうしたんです。具合が悪いんですか?」
俺は息も絶え絶えで首を振った。
別に具合は悪くない――これから死ぬような目に遭うだろうってだけだ。
女の人は、なんだか不気味なものを見るような目で俺を見てから、無言で俺を引っ張り立たせた。
それから、極めて明るい声で盲目の女性に声を掛け、部屋の外に出て、ぱたん、と扉を閉めた。
そのまま俺を引っ張って数ヤード進んでから、女の人は俺を振り返り、俺から手を離して腕を組んだ。
やっぱり怖い顔だった。
俺はそろそろ泣きたくなってきた。
「――で」
と、女の人。
「どこまで行きたいんです? 迷子になっていたということは、この辺りの出身ではないんでしょう?」
俺は鼻を啜り、息を吸い込み、目を擦ってから、ぼそっと呟いた。
「……一緒にいた人のとこ――」
女の人は、一瞬ぽかんとした様子で目を見開いた。
そうすると、ちょっとだけ幼く見えた。
「――話せるんですね……」
そう言われて初めて、俺は自分がこの人の前で口を開いたのはこれが最初だったと気付いた。
女の人は、しばしぽかんとした様子であったにせよ、すぐにぎゅっと表情を引き締めて、やや厳しい声で俺に向かって言っていた。
「あのですね、一緒にいた方たちのところに行きたいというのは、いくら私でも分かるんですよ。なので尋ねているのは、その方たちがどこにいると推測されるのか、ということなんですね」
ゆったりした口調ながらも厳しく言われて、俺はなんだか古老長さまに詰め寄られるときよりも落ち込んでしまった。
俺は俯いて、辛うじて声を絞り出した。
「……たぶん……王宮――」
俺は、最初に王宮に行くはずだったので。
「――――」
女の人は、しばし言葉に詰まった様子だった。
大きく目を見開いて俺を見て、瞬きして、「王宮?」と鸚鵡返しに呟く。
そして、はっとした様子で、今度は俺の全身を検めるように見た。
その顔色がみるみる変わった。
「もしかして――」
呟くや、女の人が突然手を伸ばして、がっと俺の右手首を掴んだ。
俺は喉の奥で悲鳴を上げたが、女の人は頓着せず、ぐいぐい俺を引っ張って階段の方へ進んだ。
そうしながら彼女は、押し殺した悲鳴じみた声を上げた。
「――どうして早く言わないんですか! ああ、もう……っ! 雲上船から降りたのは何時です!?」
問い詰められて、俺は言葉に詰まった。
どうして俺が雲上船を使ってここまで来たことが分かったのかとか、そういう細かいところには頭が回らなかった。
俺が答えないので、階段を駆け下りようとしながら、女の人が俺を振り返った。
飴色の目が、これ以上なく不機嫌に煌めいていた。
「何時頃だったんですか!」
「えっ、あっ、あっ」
吃ってから、俺は必死に言葉を捻り出した。
「お――お昼……」
昼、と呟いて、女の人は俺の手首を掴んでいる手とは反対の手で、ドレスのかくしから懐中時計を取り出し、ぱちんと蓋を開けて一瞥。
階段を駆け下りながらのその芸当に、俺は平時であれば感心していたところである。
「今が五時ちょっと前……確か予定は……、間に合います!」
力強くそう請け合って、女の人は階段を下りる足を速める。
三階に辿り着き、踊り場をターンしてそのまま飛ぶように階段を下り続ける。
手首を掴まれて引き摺られて、俺は今にも足を踏み外して落っこちそうだった。
「大事にはなっていないはず――あの方はそういう人だから……。
馬車を飛ばせばなんとか……所持金は!?」
独り言じみた呟きの後に唐突に問い詰められて、俺はびくっとしてから、左手の拳を開いた。
馬車についての呟きの後に訊かれたことだから、乗合馬車に乗ったときに使ったこれを出せばいいだろうと思ったのだ。
俺が階段を駆け下りる足取りに合わせて、掌の上で小さな円盤が跳ねていた。
階段を駆け下りながら、女の人が俺の掌の上を一瞥。
そして、ぎゅうっと眉を寄せた。
ドレスの裾を絡げて階段を駆け下りつつ、女の人は悪態じみた声を上げた。
「全然足りません! ああもう……っ、いいです、任せてください!」
目を白黒させる俺を引っ張って、女の人はものすごい勢いで階段を下り切り、そのままの勢いでこの白亜の建物を飛び出した。
俺は転びそうになった。
さすがに俺とドレス姿の女の人では歩幅が違って、ともすれば目の前のこの人に躓いてしまいそうだったのだ。
通りに飛び出し、足を止めそうになった俺を急き立てて、俺の手首を掴んだまま、女の人がすごい勢いで走り始めた。
その勢いたるや、道行く人が俺たちを振り返って見てきたほどだ。
通りを抜けて、大通りの方へ走りながら、女の人は怒濤のように俺に言い聞かせ始めた。
「――いいですか、任せてくださっていいですが、一つだけ条件があります!」
「えっ」
頭が事態についていかない俺。
女の人はそんな俺に向かって、きっぱりはっきりと。
「絶対、絶対、誰にも、私のことを話さないでください!」
俺はこくこくと頷いた。
生憎と、残念ながら、俺にそれほどの語彙はない。
素直極まりない俺の動きを横目で見て、女の人は初めて、俺に向かって笑みらしきものを浮かべた。
だが、それも一瞬だった。
来たときとは比較にならない勢いで、俺たちは来た道を引き返していた。
アーチを潜って通りを抜けたところで、女の人が奇妙な仕草を取った。
俺の手首を掴んでいるのとは反対側の手をすっと持ち上げて、その手の人差し指をぴんと立てる。
そして走りながら、その指先にふうっと息を吹き掛けた。
俺の目には、女の人の魔力が周囲に伝播して伝わっていくのが見えた。
女の人はその魔力を通して、何某かを知覚したようだった。
走りながらもしばらく首を傾げていたが、すぐに大きくひとつ頷くと、俺の手首を掴む手指にいっそう力を籠めた。
「こちらです!」
俺はこくこくと頷く。
多分、位置関係からして、俺のその仕草は女の人には見えなかったと思われる。
女の人は俺の反応には無頓着に、時折敷石に躓きそうになりながらも、息を上げて走り続けた。
大通りっぽいところ(俺は混乱していたので、自分が女の人に出会った場所の付近に戻って来たのか、それとも他の大きな道に出たのか、全く分からなかった)に出て、女の人は一切歩調を緩めずに前へ向かって邁進。
それに引っ張られる俺という奇妙な構図に、お店の陳列窓を覗き込んでいた人たちが次々に俺たちを振り返った。
通りの端っこに馬車を停めて主人の帰還を待っている御者さんたちなんかは、俺たちを見て口笛を吹いて囃し立てたくらいだ。
女の人は思いっ切り顔を伏せていた。
俺は、まず見られているということが恐怖すぎて、顔は凍り付いていたことだろう。
辺りは暗くなり始めている。
雲のせいで太陽の位置は分からなかったが、そろそろ太陽も眠りに就く時間らしかった。
あちこちで、ぼうっと白い光が灯り始めている――世双珠だ。
建物の壁や通りの敷石に埋め込まれた世双珠が、夜陰を散らすように光り始めているのだ。
白い光が幻想的に照らす大通りを、蜂蜜色の髪を翻す女の人に手を引っ張られて走る。
俺はなんだか現実感が失せてきてぼうっとし始めたが、女の人からすれば、現実感は大ありだったらしい。
盛んに懐中時計を開いて時間を確認しつつ、ぐいぐいと俺を引っ張ってくれる。
雑踏を潜るようにしてしばらく進んだところで、女の人が俺の手を引いたまま、勢いよく道の真ん中に飛び出した。
俺は内心で悲鳴を上げたが、別にどこからともなく馬車が走って来て轢かれるなんてことにはならなかった。
女の人は、道の向こう側に停まっていた黒塗りの馬車に飛び付くようにして、その馬車の御者さんに向かって捲し立て始めていた。
「――王宮まで、急いで!」
「えっ、王宮?」
訊き返す御者さん。
そりゃそうだ――と今なら思えるが、当時の俺はひたすら身を縮めていた。
「ええ、そうよ。大手門の前までなら行けるでしょ。そこまでうんと急いでちょうだい」
言いながら、女の人はドレスのかくしから何か取り出した。
ちらっと見えたそれは、俺が御者さんが貰ったきらきらする小さな円盤と同種のものに見えた。
ただし色が違った――俺が貰ったのは茶色っぽい赤っぽい銅の色で、女の人が取り出したのは、ぴかぴかする金色だった。
それを三枚、御者さんに突き付ける女の人。
御者さんは咄嗟のようにそれを受け取って、目を剥いた。
「半モナーク――えっ、モナークだ!」
「お釣りは要らない、とにかく急いで」
ぴしゃりとそう言ってから、女の人は俺を振り返って怖い顔をした。
「何してるんです、乗ってください」
そう言いながら、女の人はてきぱきと黒塗りの馬車の扉をがちゃっと開けて、一人で乗るには広々とした車内に俺を詰め込んだ。
座席は赤み掛かった革張りで、俺は借りて来た猫みたいにその座席に浅く腰掛けた。
――それは乗合馬車じゃなくて、辻馬車だった。
しかも、結構高級な部類の。
とはいえこのときの俺に、そんなことは分かっていなかったが。
俺が不安でいっぱいの顔をしていたからか、扉を閉める前に、女の人の表情が少しだけ緩んだ。
そして、背伸びして俺の方に顔を近付けると、潜めた声で囁いた。
「――登城が初めてなら、これは単なる助言なんですけどね。大手門は誰でも通れますから怖がらなくてよろしい。大手門を入ると、広いお庭があります。大きな噴水がありますから、その左側に進んでください。白亜の大きな建物があります。
賓客の方々は、奥へ正式に通されるまではそこで待つことになっているんですよ。もちろんそちらの建物は警護も厚いはずなので、恐らくすんなりとは通れないと思いますが――」
吐き気がしてきた。
そんな俺を見て、女の人は眦を下げる。
「もしかしたら、心配したお連れの方が外に出ているかも知れません。
もしそれが見当たらなかったら、見張りの衛兵に素直に名乗ることをお勧めしますよ」
俺はこくこくと頷き、「門を左、大きい白亜の建物」と復唱した。
女の人はやや満足そうに頷いて、顔を引っ込めて一歩下がり、ばたんと扉を閉めた。
途端に外の喧騒が遠くなって、俺は不安になってきた。
女の人が御者さんに何か言うのが、硝子窓越しに見えた。
がたん、と馬車が動き出し、慎重な動きで通りをターンし、大通りを都市の中心部を指す方へ方向転換した。
俺は思わず、座席の上を尻で動いて、反対側の窓へ寄って外を覗き込んだ。
蜂蜜色の髪の女の人はそこに立っていて、ひらひらと手を振っていた。
暗くてよく見えなかったが、心配そうな顔に見えた。
その顔を見て初めて、俺は、自分はあの人に親切にしてもらったのだ、ということに気付いた。
がらがらと馬車が走り出し、女の人が言ったとおりに、ぐんぐんと速度を上げていった。
そのために馬車の中は盛大に揺れ、俺は色々あって胃の腑の中のものを全部吐きそうになって、それを堪えるために両手で口許を押さえた。
◆◆◆
――今の俺から考えると、このときの俺をぶっ飛ばしたい。
めちゃくちゃいい思いしてんじゃねえか、俺。




