07◆――運命は丁字路から
俺は泣きそうになっていたが、恐らく周囲の方が泣きたかったことだろう。
俺はこのとき、どちらかといえば被害者側だったし、ここで堂々と待ってさえいれば、そのうち俺を落っことして来たことに気付いたレイモンドたちが戻って来ただろうから、実際は慌てる必要はなかったわけだ。
ただし、生憎とこのときの俺にそういう冷静さはなかった。
御者さんが御者台から腰を浮かせ、遠ざかっていく黒塗りの馬車を振り返るような仕草をした。
顔の皺一本一本に、気遣いと危機感が浮かんでいた。
ぶっちゃけ、俺がどういう立場の人間かは分かっていなかっただろうが、あの黒塗りの馬車の造作や、出迎えた人たちの態度、更に言えば俺の格好が上等であることも相俟って、そこそこ偉い人間であるとは推測できていたことだろう。
「――どうするね? 追い掛けるかね?」
御者さんが言い出して、俺を取り囲む一団の中でも一等巨漢の浅黒い肌をした男が、唐突に被っていた帽子を地面に叩き付けて踏み付けた。
「ちくしょうめ!」
俺はびくっとして硬直したが、周囲は「まあまあまあ」と、反射のようにその男を宥め始めた。
とはいえ、その男の肩を叩こうとした幾つかの手は悉くが空振って空中をノックしており、彼らの受けている衝撃の大きさが窺えた。
「これが落ち着けるか! 〈洞〉には遭遇するわ、逃げたと思ったら賊に当たるわ、それからも逃げたと思ったらまた〈洞〉が目の前で出来てきやがる! 死ぬかと思ってやっと着いたらこれか!!」
俺は、この男が何を言っているのか分からなかった――俺は非常に狭い世界で生きてきたので、〈洞〉を見たこともなかったし、船内に引き籠もっている間に、船が〈洞〉を避けて飛行していたとしても、そんなことには気付きようがなかったからだ。
ただ、男が非常に怒っているということは理解できたので、その場にしゃがみ込んで頭を庇った。
御者さんと、あとひょろりと痩せた男が俺を見て、ちょっと訝しそうな顔をした。
だが浅黒い肌の巨漢はそれに気付かず、御者さんに向かって喚き立てた。
「追い掛けるだと!? ふざけんな! そんなことしてみろ、俺たちは誘拐で打ち首だ!」
御者さんはおろおろ。
ついでに、ひょろっとした男もおろおろ。
「しかしね、あんたさん――」
「ぶっ殺すぞ!!」
浅黒い肌の男が怒鳴って、俺は卒倒し掛けた。
ひょろっとした男が俺の傍に座り込んで、「おい、おい坊主」と。
「何してんだ? おい、立て。船長は――今はそりゃ、死ぬような目に遭ったのを乗り切って酒盛りして、やっとここまで着いたと思ったらこれだからさ、そりゃあ気も立ってるけどさ、大丈夫だって」
俺が恐る恐る頭を庇っていた手を下ろすと、ひょろりとした男は俺の二の腕を掴んで立ち上がらせた。
それから奇妙な顔をして、傍にいる別の巨漢に、「おいおい」と話し掛け始める。
「ちょっとおかしいぜ。裕福な連中ってのは、あれだろ、結構ふにふにしてるもんだろ?」
話し掛けられた側は、訝しそうに眉を寄せた。
「“ふにふに”って何だ。――太ってるってことか」
「そうそう! けどさ、こいつがりがりだよ。マジ、骨浮いてるよ。どういうことだろ」
巨漢はぎりっと歯軋りし、ひょろりとした男の襟首を唐突に掴んだ。
「今そんなことを気にしてる場合か!」
俺は腰を抜かした。
座り込まなかった理由はただ一つ、ひょろりとした男が俺の腕を未だに掴んでいたからである。
御者さんは御者さんで、ぎゃんぎゃん吠える浅黒い肌の男(船長というらしい)を宥めるのに必死だった。
「災難だったね――えぇ、災難だっただろうとも。近頃は随分〈洞〉も多いしね……リーティにも最近また一つ出来て、街区がひとつ空っぽになったよ……」
「なんだとっ! 俺たちの拠点は無事かっ!?」
「あんたさんの拠点を知らんからなあ。何とも言えんが、〈洞〉が出来たのはコーチャスの商店の辺りだよ」
御者さんの応答に、ようやく船長は落ち着きを取り戻した。
顎に手を宛がって、「ふむ」と。
「コーチャスか……あいつにゃあ気の毒だが、街区は違ぇ……俺たちの拠点は無事だな」
それから、船長は俺を見た。黒い目が盛んに瞬きしたと思うと、船長はぱちんと指を鳴らした。
その音にさえ、俺はびくっとして半歩下がった。
「……こうしよう――俺たちは悪くない」
「船長それは無理があるっす」
ひょろりとした男が、別の巨漢に襟首を掴まれたまま真顔でそう言って、「黙れええっ!」と襟首をがくがくと揺らされてあわあわと声を漏らした。
そんなひょろりとした男に腕を掴まれたままの俺も、連鎖してがくがくと揺れた。
船長は、「ええい黙れ黙れ!」と両腕を振り回してから、その丸太のように太い腕をぐっと組んで、正真正銘の真顔で言った。
「悪くない――悪くないんだ。いいか、この坊主は自分から間違って俺たちの方に来たんだ――俺たちはこの坊主がここにいることには気付いたが、何しろやんごとない身分だろう相手だ、声を掛けることも憚った、――これで、どうだ?」
どうだ? と言いつつ、周りを見渡す船長。
「いいと思います!」と即答したその部下たちは、自棄になっていたのか酔っていたのか。
次いで船長はずかずかと俺に近付いて来ると、仰け反る俺にぐっと顔を近付けて、
「いいな?」
と。
熊のような巨漢に低い声で凄まれて、俺に出来たことと言えば、こくこくと頷くことのみだった。
本音を言えば、殺されないならもうなんでもいいと思っていた。
「なるほどこいつは理解がある」
船長は顔を上げて満足げにそう言って、唖然とする御者さんを見上げて、どこかの金持ちみたいに手を振ってみせた。
「話はついた。乗せてくれ」
「いいのかね……」
御者さんの顔も引き攣っていたが、事を荒立てたくない気持ちは大きかったのか、ひとつ首を振ると、「乗れ」と手振りで合図してくれた。
幌馬車は四頭立てで大きく、側面からは幌が取り払われ、乗客自らが、手を伸ばせば届くところに収納された舷梯を取り出して、設置して、車内に乗り込むようになっていた。
舷梯には鎖が括り付けられていて、その鎖で馬車の支柱と繋がれていた。
舷梯を設置する場所――即ち、車内への入口――以外は、ちゃんと低い欄干で転落が防止されていて、ささくれた木の欄干は、昔は赤い塗料で塗られていたのだろうが、今となっては色が落ちてしまっていて、赤色は斑に残るのみとなっていた。
車内の座席は、ぐるっと馬車内を巡るように設けられている長椅子状のもののほか、広々とした車内の真ん中に、小島のような座席も設けられていた。
小島の外側が長椅子になっている格好で、馬車内の座席に腰掛ければ、必ず誰かと向かい合わせになるような具合だった。
俺はひょろりとした男に引っ張られるようにして、舷梯を踏んで車内に上がった。
車内に誰かが既にいれば、船長は恐らく、その人の口止めのためにまたしても大声を出さなくてはならなかっただろうが、幸いにも車内に人はいなくて、俺を確保した一団が、思い思いの場所に座り込み始めていた。
俺はどうしたらいいのか分からず茫然としていて、ひょろりとした男に腕を引かれるままに、小島のようになっている座席に腰掛けた。
板木を張った馬車の床がぎしっと軋む。
しゃん、と、身動ぎの度に小さく金属の輪が鳴った。
馬車に乗り込んだ最後の一人が、舷梯を車内に引っ張り上げて、御者さんに合図した。
馬に鞭が当てられて、がたん、と馬車が揺れて動き始めた。
俺は盛大にびくついたが、雲上船に乗った経験のお陰で叫ばずに済んだ。
しかし、ゆるゆると流れ始めた外の光景を見ているうちに、ひたひたと現実が俺の足許に波を寄せて来た。
――どうしよう、逸れてしまった。
離れないようにと言われていたのに、離れてしまった。
これはさすがのレイモンドでも、俺に手を上げないなんてことはないだろう。
盛大に言い付けに背いてしまった。
どうしよう、ここにも櫃みたいなものはあるんだろうか。
現実を呑み込み始めると同時に、すごい勢いで真っ青になっていく俺を見ながら、ひょろりとした男は首を捻った。
「おまえ、どういう人なの? どっかの偉い人か?」
「――――」
俺は黙っていた。
無視したというよりも、何と答えていいものか分からなかったし、口を開けばその場で吐きそうだったからである。
島にいたときと違って、今の俺の胃の腑の中には、吐き出せそうなものがちゃんと詰まっていた。
俺の顔色が尋常でないのを見て取って、ひょろりとした男は無言で目を逸らした。
雲上船の停泊所は平らで広く、馬車は霧の中を潜るようにして進んだ。
不規則に揺れる車内にも、がらがらと車輪が回る音にも、どちらにも慣れない俺はいよいよ目が回りそうだった。
ひょろりとした男は、俺が吐くかも知れないと察したのか、いつの間にか俺から距離を置いていた。
雲上船は、そう頻繁に離着陸を繰り返すものではないらしい。
発着所は概ね静かで、俺の耳の中には車輪が回る音と、馬の蹄の音だけがぐるぐると回っていた。
そんな俺を放置して(まあ、関わる理由もないからね)、船長をはじめとする皆さんは、不平たらたらの口調で話し込み始めていた。
「――おい、〈洞〉の発生はどの辺だった?」
「アーヴェル河のとこの湖の上空っす」
船長は溜息。
「くそが……役所に届けなきゃなんねえ。俺たちの目の前で発生しやがったんだ、さすがに俺たちより早く届けてる奴はいねえだろうからな。
おい、てめえ、リケッズ、行って来い」
船長に指差された、雀斑の浮いた顔の長身の男は露骨に嫌そうに身を捩った。
「ええっ、船長、言ったじゃないですか。僕、こないだ子供が生まれたばっかりですよ? 早く帰らせてくださいよー」
船長は舌打ち。
「だからだろうが。役所からの謝礼金は貴様の懐にくれてやる」
たちまち、長身の男は態度を翻して諸手を挙げた。
「マジっすか! 行って来ます!」
そんな長身の男に呆れた目を向けてから、船長は首を振って掌で額を拭う。
「しっかし、この調子で〈洞〉が増えてみろ。最近は特にそうだ――すごい勢いだ。発見の度に謝礼金を出しているままだと、国の方も金が尽きるぜ」
途端、周囲の巨漢たちが不満そうな声を上げ始めた。
「謝礼金出ねえなら〈洞〉の場所なんて教えねえっすよ。商売仇があそこに突っ込んでくれたら万々歳だ」
「それな」
船長は手を振ってそれをあしらった。
「黙れ黙れ、滅多なことを言うな。人には死ぬ権利がある。〈洞〉に呑まれるのはそれとは違ぇ。
――おい、待て。てめえら、俺の帽子はどこだ?」
「船長、さっき地面に放り投げて踏み付けてたじゃないですか……」
ちょっと可哀想なものを見る目で見られ、船長はくわっと目を見開いた。
「貴様ら、それを拾って来なかったのか?」
「嫌ですよそんなの。船長、犬のクソでも踏んでそうじゃないですか」
船長は頭を掻き毟った。
「減給だ!」
「嘘でしょ勘弁してください、今でもかつかつですよ!」
大変愉快な会話だったが、俺はそれを聞いてすらいなかった。
意識の端っこの方には留めていたが、それどころではなかった。
そうこうしているうちに、馬車は停泊所の端っこに着いた。
停泊所は低い石垣で囲われていて、馬車を停めておくための大きな厩と、小さな小屋が慎ましく建っていた。
停泊所の出口は、石垣が途切れた場所に設けられた鉄製の門で、今はその門は広々と開け放たれている。
がたこん、と停車した馬車の中、俺はどうすればいいのか分からず茫然と座っていたが、同乗していた人たちは、そそくさと馬車を駆け下りて行っていた。
俺と一緒にいるところを万が一にも誰かに見られて、誘拐犯の扱いをされたくはなかったのだろう。
あっと言う間に空っぽになった幌馬車の中で、俺は自失。
座り込んだままの俺を、御者台からよっこらせと降りた御者さんが、わざわざ覗き込みに来てくれた。
「坊や、坊や」
と、御者さんは、塗料の剥がれた欄干を握り、馬車の外からこっちを覗き込みながら、俺を手招き。
俺は正直、高齢の人が怖かったが――〝えらいひとたち〟に見えるからだった――、もうどうすればいいのか分からなかったので、よろよろと立ち上がって、ふらふらと御者さんに近付いた。
御者さんはわざわざ、舷梯を俺が降りやすいように設置してくれて――先に車内から飛び出して行ったあの人たちは、舷梯に頼ることなく馬車から飛び降りて行ったのだ――、何やら懐を探ったあと、覚束ない足取りで舷梯を降りた俺の腕を掴んだ。
俺は喉の奥で悲鳴を上げたが、御者さんはその反応を、俺が供と離れて不安なせいだと解釈したらしい。
痛ましそうに目を細めて、俺の顔を覗き込んだ。
「リーティは初めてですかな?」
俺はこくこくと首肯。
多分、「あなたは鳥ですね?」と訊かれていたとしても頷いていたと思う。
それくらい、動揺で頭が回っていなかった。
御者さんは、「そうですか」と呟くと――正確には、「そぉぉうですか」という感じだった。引っ張るようなゆっくりとした話し方で、その語調の緩やかさは、〝えらいひとたち〟よりも、むしろヘリアンサスを思わせた。お陰で、俺はちょっと冷静になった――、俺の腕を掴んでいた手を離し、すぐにまた、今度は俺の手を握って、ぐいっと掌を上に向かせた。
俺は恐怖に硬直したが、そんな俺の掌の上に、御者さんは小さな、妙にきらきら輝く薄い円盤を数枚落として、俺にそれをぎゅっと握らせた。
「これで、乗合馬車には乗れるはずですからな。お付きの方がお持ちで、ご自身ではお持ちではないでしょうからに。すみませんなあ、お気を付けなさいませな」
訥々と言われたその言葉の大半を、俺は理解できずに聞き流した。
ただ、御者さんが俺の手を離してくれたので、俺は握らされた何かを手に持ったまま、一目散に停泊所から離れる方向に走り出していた。
しゃんしゃんしゃん、と金属の輪が鳴って、俺はいよいよ泣きそうになった。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
停泊所から出てみれば、そこは綺麗に石畳が敷かれた並木道だった。
遠くから薄らと喧騒が聞こえてきて、俺の足は竦んだが、ここで永久に立っているわけにもいくまいと思って――いや、多分俺が黙って突っ立っていた方が、レイモンドたちからすれば助かったんだろうけど、このときの俺にそういう考えはなかったのだ――、止まりそうになる足を無理に動かし続けた。
馬車の往来も出来るだろう幅広の道の両端に、一定の間隔で行儀よく木が植わって、霧を掻き混ぜる風に、そよそよと枝を揺らしている。
春が来たばかりで、一見してその木の枝は枯れて見えたが、俺がそれをよく観察する余裕を持ち合わせていれば、枝先に新芽が芽吹きつつあるのを見て取れたはずである。
並木を透かしてその向こうを見れば、どうやら一面が荒地になっているようだった。
霧が濃いことも相俟って、俺からはそれは赤紫の枯れた海みたいに見えた。
やがて喧騒がはっきりと聞こえ始めて、永久に続くかと思えた並木道が終わった。
俺は当惑して足を止めた。
並木道が終わってみれば、そこは円形の大きな広場だった。
広場の外側に、馬車が通るための幅広の道がぐるっと設けられて広場を迂回できるようになっている。
広場の中央には、俺からすれば信じられないほど大きな噴水が設けられていた――その大きさたるや、俺に泳ぐ技能さえ備わっていれば、俺が中で悠々と泳ぐことが出来るほどだった。
噴水の真ん中に、壺を抱えた女の人の石像が聳え立っていて――その高さたるや、俺を三人積み重ねたほどだった――、その壺から、絶えず勢いよく水が噴き出して、水面を叩いて飛沫を上げていた。
その音が広場の根底に流れていて、広場の喧騒を緩やかに包んでいるような感じがした。
噴水の周りに、噴水を囲むようにして、いくつか石造りのベンチが置かれていた。
そのベンチには例外なく人が腰掛けていて、二人連れの人もいれば三人連れの人もいて、あるいは一人で座っている人のところに、別の人が声を掛けに行ったりしていた。
その他にも沢山の人が広場を流れるように歩いていて、これほど沢山の人を始めて目の当たりにした俺は、今度こそその場に根が生えたように突っ立ってしまった。
広場から脱出する道は三つあって、一つは正面――広場が余りにも広いので、俺からすれば遥か彼方に見えた――で、正面の道が一番道幅が広そうに見えた。
他にも左右に道が開いていて、そちらを恐る恐る見遣れば、道の両端にあらゆる店が軒を連ねて客引きをしているようだった。
俺は、市にすら生涯でただ一度しか行ったことがなかったので、その余りの賑やかさに眩暈がした。
俺が愕然として佇んでいると、広場を歩いていた二人連れの女の人が、突然方向転換をしてこちらに向かって歩いて来た。
俺は最初、それが自分を目指しているものだと気付かなくて、ただただ途方に暮れて立ち尽くしていた。
「こんにちは」
唐突に声を掛けられて、俺はびくっとした。
瞬きすると、俺の隣にまで二人連れの女の人が距離を詰めていた。
二人が二人とも、大きな襟の付いた日用のドレスを着ていて――片方は赤、片方は黄色だった――、頭の上にちょこんと帽子を乗せていた。
小さな鞄を持つ手には手袋をしていて、二人とも、半ばを編み上げたほかの髪は背中に下ろしていた。
俺が大仰にびびったことに、二人は軽く目を見開いた。
しかしすぐに微笑んで、黄色のドレスの方が俺に向かって一歩踏み出して来た。
俺は二歩下がった。
「良いお日和ですね。お供の方を捜していらっしゃるの?」
黄色のドレスの方が言葉を重ね、俺がおろおろするのを見てふふっと笑った。
赤いドレスの方と何かこそっと言い交わすと、また俺を見て微笑んだ。
「よろしければお手伝いしますけれど――」
俺は更にじりっと下がった。
口の中は完全に干上がっていて、眩暈がした。
ちょうどそのとき、正面の道から、がらがらと馬車が広場の方にまでやって来た。
その馬車は、全体が濃緑に塗り込められて艶々していた。
馬車は広場に入ってすぐ停車して、御者さんがぼーっと空を仰ぐ中、馬車の中から小柄な男性がぴょんっと飛び降りて来て、気取った帽子を脱ぐや、その帽子をひらひらと振りながら高い声を上げ始めた。
「ウィンカームの乗合馬車でーすっ!
二十三番街、十五番街、十六番街、それから七番街と十一番街まで行くよー!」
その声を聞いた瞬間、俺の脳裏にさっきの御者のお爺さんの言った言葉が蘇った――『これで、乗合馬車には乗れるはずですからな』。
乗合馬車ってなんだ。あれか。
あれは何だ。
でも、あれに乗ればいいのか。
そんなことを怒濤のように考えた俺は、目の前の二人連れから逃げたい一心で、くるっと踵を返した。
「あ、ちょっと」と後ろで声が上がったがそれも気にせず、というか気にしていられず、俺は広場を突っ切るようにしてダッシュ。
ぜぇぜぇ言いながら石造りのベンチを回り込み、噴水を回り込み、何度か躓いたり人にぶつかりそうになったりしながら、俺は息せき切って広場を縦断し、よろよろと乗合馬車に近付いた。
広場が思ったより広くて、完全に息が上がったし眩暈がした。
歩調も途中で緩めざるを得なかった。
乗合馬車は、濃緑色に塗り込められた長い車体を持っていて、六頭の馬でそれを牽くようになっていた。
馬車の前方に折戸式の扉がついていて、大きな窓がずらっと開いているから、中から外もよく見えるだろうし、外から中もよく見えた。
乗合馬車の外でひらひらと帽子を振っている小柄な男性――というか、よく見れば、俺よりも随分年下に見えた。多分、十三か十四といったところの、まだ少年だった――は、既に寄って来た人たちから目的地を聞き、それに応じて何かの数を応答し、更にそれに応じて何かを受け取っていた。
受け取った何かを、少年は首から下げた革袋に入れていて、革袋の中身はちゃりちゃりと音を立てていた。
俺は緊張の余りに喉をからからにしながら、恐る恐る少年に近付いた。
このときの俺には、乗合馬車が何か大きな怪物のようにも見えていた。
ぶるる、と馬が鼻を鳴らして、それも怖かった。
おずおずと近付いて来た俺を見て、少年は屈託なくにこっとした。
「はいっ、お兄さん、どちらまで?」
「――――」
俺、硬直。
少年はぱちぱちと瞬きし、そうしている間に、黒い外套を纏った中年の男の人が、俺を押し退けるようにして少年の前に進み出た。
そして、ぴかぴかする小さな円盤を差し出しながら、低い声で言った。
「七番街まで」
少年は、ちらっと俺を見たものの、すぐに愛想を全開にして男の人を見上げ、ぴかぴかする何かを受け取って、革袋の中から別のぴかぴかするものを取り出して男の人に渡した。
「半モナークでのお支払いですから、ひい、ふう、みい――レイブラー四枚のお返しです!」
男の人は眉を寄せた。
「セプターで返せんのか」
少年はけろっとして返した。
「すみません切らしてて」
「まったく」
そう言いながらも、男の人は馬車の中に入って行った。
俺は意識を吸い込んだ。
口の中はからからだったが、やるしかないと思っていた。
このときの俺に、レイモンドたちが自分を捜してくれるだろうという考えはなかったのだ。
俺はちょっとだけ息を止めてから、少年に向かって思い切って声を掛けていた。
ついでに、あのお爺さんから握らされた手の中のものを、ずいっと少年に向かって突き付けた。
「――な……七番街まで」
七番街って何か知らんけど。
少年は俺を見て、それから俺の手の中を見て、俺の掌の上できらきらする小さな円盤を、四枚取り上げた。
「はい、レイブラー四枚でいただきます」
俺の掌の上には、きらきらする円盤が二枚残された。
俺はぎゅうっとそれを握り直して、どきどきしながら乗合馬車に続く舷梯を踏んで、車内に踏み込んだ。
車内には、前を向いた座席が二列ずつ綺麗に並べられていた。
両方の窓際に二列ずつ並んだ座席の間を、車内を後ろまで進むことが出来る通路が開いている。
中には既に人が数人いて、俺からすれば十分いっぱいだった。
吐きそうになりながらも、俺は自分の直前にこの馬車の中に入って行った男の人を見付けて、その人の後ろの席にそうっと滑り込んだ。
この人が降りるところで付いて行けばいい、と思ったからだった。
俺が座ったのは、馬車の真ん中よりやや後ろだった。
右側に窓があって、窓には硝子も何も嵌められていないから、吹く風が直接肌に当たった。
座席は木で出来ていて、座るところには申し訳程度に毛氈が敷かれていたが、長年たくさんの人のお尻で擦られた結果、毛氈は毛羽立って薄くなっていた。
俺はどっきんどっきんと鳴る自分の心臓の音以外、あんまり何も聞こえていなかった。
掌にびっしょりと汗を掻いていて、蟀谷からも汗が伝った。
油断すると歯が鳴りそうだったので、俺はぐっと奥歯を食いしばっていた。
――どうしよう……櫃に入れられてしまう。
ここにバーシルはいないから、誰が俺を櫃から出してくれるんだろう。
通路を挟んで俺の隣の二人掛けの席に、二人連れが座った。
老人と老婦人で、二人はそれぞれ杖に縋るようにしてどっかりと椅子に腰掛けながら、ぼそぼそと言葉を交わしていた。
「――ケッセル港にも〈洞〉が開いたそうだよ」
「あら、そうなんですか」
「あそこの宝石商が言っていたからねえ……。なんでも、真珠はしばらく入ってこないとさ」
「まあ、困った。エレインの出産祝いは真珠の耳飾りにしようと思っていたのですけど」
「他を当たるといい……」
「キーファーの焼き菓子、とても美味しいんですの。それと、レース編みにしようかしら」
「いいと思うよ……きみのレース編みは本職も顔負けだ……」
ややあって、がたん、と馬車が揺れて、動き出した。
俺はぎゅっと目を瞑った。吐きそうだった。
しばらくしてから恐る恐る目を開くと、馬車は広場から伸びる大通りを走っていた。
大通りは緩やかな上り坂になっていて、両脇には硝子張りの陳列窓を備えた立派な造りの店舗が軒を連ねていた。
陳列窓の上には、色とりどりの小さな天幕屋根が備えられていて、見慣れない光景に俺は言葉どころか息まで吸い取られていくようだった。
建物は高く聳え、あちこちから世双珠の気配がした。
走っているうちに、大通りから分岐する道がいくつも見えて、単純に道が枝分かれしたようなものもあれば、あるいはそのまま階段になっているものも、蛇行しながら続く坂道になっているものもあった。
人通りは多く、毛皮のケープを羽織った人たちが、店から店へ渡り歩いたり、あるいは路肩に小さな馬車を停めて、その前で人を待っていたりするのが見えた。
路肩にはたくさんの馬車が飛び石のように停まっていたが、それでもなお大通りは、馬車が悠々と擦れ違うことが出来る程度には広かった。
がらがらと上り坂を昇り続けた馬車が、しばらくしてその坂道の頂点に達したようだった。
窓からそうっと顔を出して前方を見て、俺は絶句した。
そのときちょうど、霧の切れ間がやって来ていたのだった。
――緩やかに起伏を繰り返す丘陵地帯、その一帯全てが都市だった。
見渡す限り延々と町並みが続き、町並みは湖や小さな森を抱き込んで続いている。
そして遥か前方、他より高く聳えた丘の上に、他のものとは比較にならないほど大きな建造物が、雲を衝かんばかりに高く聳え立っているのが、ここからでも朧気に見えた。
その建造物も、今はぽつねんと小さく見えた――それが、ここからそこまでの距離の遠大さを示していて、俺はいよいよ眩暈を堪えるために両手で頭を抱えた。
――なんだここ。なんだここ。
町一つで、島一つよりもしかしたら大きいじゃないか。
なんだこれは。
こんなことがあってもいいのか。
大混乱の俺を乗せ、馬車はがらがらと平和に進んだ。
下り坂を調子よく進んで、曲がり角を折れて、大きな池の傍を通った。
池の真ん中には小島があって、小島からは大きな時計がにょきっと生えていた。
池の周りには木のベンチが幾つかあったほか、小さな森みたいに木々が植えられていた。
馬車は時々、大通りを横断する人を待つために停まったり、他の馬車が脇道から飛び出して来たのに衝突しそうになったりしていたが、こんなことは日常茶飯事なのか、いちいち顔色を変えてびびっていたのは俺だけだった。
馬車が延々と一時間ほど進んだ頃だった。
車内の一番前で、御者台に通じる覗き窓から顔を突き出し、御者さんと何やらぺちゃくちゃとお喋りしていた少年が、ぱっとこちらを振り向いて、陽気な声で宣言した。
「二十三番街でーすっ」
馬車の中から一名が立ち上がり、のっそりと馬車を降りて行った。
代わって、今度は家族連れと見える四人組が馬車の中に入って来た。
女の人が甲高い声で喋り続ける声が怖くて、俺は身を縮めた。
「――だから、ジェンキンスさんに謝ってって言ってるでしょ。せっかくこの子たちに魔法を教えてくれようとしたのに、あなたったら」
「しかしおまえね、魔法を覚えたところで偉くなれるとは限らんのだから――」
「そんなこと言って、魔法なしでこれからやっていけると思いますか」
「お母さああん、おなかすいたあああ」
「さっき食べたばっかりじゃないの!」
「お母さあん、喉かわいたああ」
「さっき大丈夫かって訊いたでしょ!」
家族連れは馬車の前方の方に座ったようで、わいわいと騒ぐ二人の子供の声に、俺はどんどん気分が悪くなっていった。
俺は小さい子供の傍に寄ったことすらなかったのだ。
島では誰もが、俺を見るとあからさまに避けていたし。
案内役みたいな少年は、座席の上でぶらぶらと足を揺らして大声を上げる子供たちを見て、「可愛いですねー」なんて言っている。
どこがだ。
馬車は更に二時間ほど進み、少年が元気よく「十六番街でーすっ!」と宣言して停まった。
どやどやと家族連れが降りていったほか、通路を挟んで俺の隣にいた老人と老婦人も降りて行った。
代わって、妙にものものしい雰囲気の人が乗り込んで来た。
後から思えば軍人だったのだろうが、俺は怖くなって、前の座席の背中にしがみ付くようにして身を縮めていた。
それから四半時間ほどでまた馬車は停まり、少年は「十五番街でーすっ」と宣言した。
降りる人はいなくて、派手に飾り立てた格好の女の人と、地味な格好の女の人が乗り込んで来た。
一向に、俺の前に座った人が動かないので、俺は不安になって来た。
この人、どこまで乗るんだろう。
俺はこの人に付いて行っていいんだろうか。
もう降りてしまった方がいいんだろうか。
馬車は更に半時間進んで、少年は「十一番街でーすっ」と宣言した。
その辺りの空気は良い匂いがして――恐らくは高級な食事処が軒を連ねている場所だったのだろうが、このときの俺からすれば、吐き気を催すような臭いにしか感じられなかった。
――どうしよう、もうレイモンドたちと離れてから随分経ってしまっている。
絶対に櫃だ。
どうしよう、殺されるかも知れない。
俺が余りにも悲劇的な雰囲気を醸していたからか、途中で軍人らしい男の人が、何か言いたそうにこちらを見てきた。
話し掛けられたら、もしかしたら口から内臓が出て行って死んでしまうかも知れないと思った俺は、俯いて歯を食いしばっていた。
軍人さんらしい男の人は空気を読み、黙ってくれていた。
曲がり角には多く、それぞれの行き先を矢の形で示した標識が立っていて、標識にはそれぞれ行く手に何があるのかが書いてあった。
俺はバーシルから字を教わって、レイモンドからもうちょっと詳しく教わり直していたので、なんとなくそれも読めた。
『チェルシー孤児院』『アーバレット劇場』『世双珠市場』
俺がその文字を拾って読んでいるときに、がたこん、と馬車が停まった。
少年がぴょん、と床の上で跳ねて、元気よく宣言した。
「はい、七番街。この馬車はここまででーすっ」
俺の前に座っていた人が、のっそりと立ち上がって出口に向かったので、俺もそれに続いた。
――言うまでもなく、俺にはここがどこだか分かっていなかった。
よろよろしながら馬車を降りると、馬車の右手には小さな池があった。
白い石のブロックで縁を固められた池の水は緑色に濁っていて、何だかよく分からないどろっとした葉っぱが水面に浮かんでいる。
ちょっとだけ、生臭いような臭いがした。
池の向こう側は小さな林になっていたが、池をぐるっと回るように、白い石で固められた小道が続いていた。
そっちには誰もいなかった。
馬車の左側には町並みが続いていて、人通りもあった。
大通りもまだまだ先へどんどん続いていて、ちょうどここは丁字路に当たるらしく、左側に突き抜けるように、もうひとつ大きな道が開いていた。
相変わらず建物は大きいし、人は多いし、俺は泣きたくなってきた。
馬車から降りた人がみんな、躊躇いなく町並みの中に踏み出して行ったので、俺もちょっとふらつきながらそちらに向かって歩いてみた。
肺腑の中に異物が詰まったようで、息がちょっとしか吸えなかった。
頭痛がしてきた。
どっちに向かって歩けばいいかも分からなかったので、俺は取り敢えず、馬車から見て左側に向かって進み、そのまま真っ直ぐ歩くことにした。
大通りから枝分かれする、大通りに負けず劣らず広い道幅の道路に向かって歩いて行ったのだ。
俺はそれも大通りと認識した。
周囲にはお店もあったし邸宅もあって、当時の俺には何が何だか分かっていなかったものの、邸宅は鉄製のとげとげした柵で囲われた敷地を持っていた。
お店は硝子張りの陳列窓から商品を見せびらかしており、装身具を取り扱う店が多いように見えた。
ぺちゃくちゃと喋りながら行き交う人、大通りの端っこで馬車を停めて、主人の買い物が終わるのを待っている御者で、道は混み合っていた。
時折はがらがらと馬車が走っていて、俺はその中にレイモンドがいたりしないかなと思って、期待と恐怖が半々の気持ちでその馬車を見送ってばっかりだった。
「やあね、紅玉が高くなっちゃって」
「仕方ないよ、ローレアの街道に〈洞〉が開いたからね、輸送にお金が掛かるんだ」
「あら、高くなっても買ってくださるの?」
「――もちろん!」
擦れ違う男女の声が耳に突き刺さって、俺は逃げるように足を速めた。
「ねえ、さっきのお店の帽子と、こっちのお店で見た帽子、どっちの方がいいと思って」
「今度のお茶会で被っていくの? だったらさっきのお店の方がいいんじゃないかしら……」
「あら、そう?」
「ねえ、そろそろ春よ。新しい日傘を買わなきゃ」
「それに付き合ったら、十一番街でパルドーラ伯の新著を買うのに付き合ってくれる?」
周囲からどんどん話し声が押し寄せてくるので、俺はすっかりパニックになっていた。
何しろ俺は、このとき初めて人混みというものを体感していた。
「カロックから、また雲上船の新しい型が出たんだって」
「え、もう? どんどん新しくなるねぇ」
「ねえ、あっちのお店の金剛石の首飾り見た? ヴェルローの女王陛下も、同じ意匠師がお作りになった首飾りを使ってらっしゃるのですって」
「ねえ、レースの日傘の――」
「指輪はシャリアンのお店の――」
「このケープどう思って――」
とうとう吐き気に耐えかねて、俺は足を止めた。
なんだかお腹が空いてきて、このまま三日くらいここを彷徨うことになったら、俺は死んでしまうぞと考えていた。
が、よく考えてみれば、櫃に入れられるくらいなら静かに飢え死にした方がマシかも知れない、なんてことも思った。
俺が足を止めたのは、大通りと小道が丁字路を成す場所だった。
陳列窓のすぐ傍の、煉瓦造りの壁に手を突いて下を向き、思いっ切り息を吸う。
そのまま片手で口を押さえた。
なんだここ、なんだここ。
なんでこんなにいっぱい人がいるんだ。
しかもなんでこんなに喋ってるんだ。
――地下神殿の、あの静かな暗いホールで、母石の明かりだけに照らされるヘリアンサスの顔が浮かんだ。
あの場所は、静けさとか無人っぷりとか、そういう点においては懐かしかった。
俺がこんなところで死んだと知ったら、あいつはどうするだろう。
ていうか俺がこのまま死んだら、誰が次の番人をやるんだ。
あ、駄目だ、死ねない。
俺、一年経ったらヘリアンサスのところに戻るって約束してたんだった。
でも、どうしよう。
レイモンドは全然どこにもいないし――
レイモンドの穏やかそうな顔が、怒りに歪められるところを想像して、俺のおなかの中身がきゅっと縮んだ。
どうしよう、絶対に怒ってる。
さすがに殴られるだろうし、櫃がここにもあるなら俺は櫃の中だ。どうしよう。
曇天はいよいよ重く垂れ込め、その様はまるで俺の心情に寄り添うが如きだった。
――うん?
――曇ってる……よな?
ふと違和感を覚えて、俺は顔を上げた。
見上げた空は曇っていて、陽光などは一片も通さんと言わんばかりに、びっちりと雲が暗い要塞を築き上げている。
だが、――なんだろう、辺りが妙に明るい。
思わず、きょろきょろと周囲を見渡そうとした――そのとき、俺の後方で叫び声が上がった。
複数の悲鳴や喚き声に、俺の背中が凍り付く。
硬直した俺の耳が、張り上げられた女性の声を聞いた。
「――つかまえて!」
俺はいよいよ真っ青になった。
俺が逃げ出したことがばれて、誰かが俺を捕まえに来て、このまま櫃まで引き摺って行かれるのだろうと思った。
もはや足が凍り付いたかのように、俺はぴくりとも動けなかった。
そのとき、誰かの手が俺の腕を掴み、強制的に俺の踵を返させた。
恐怖の余り、「うぇ」と声を漏らしつつそっちを見れば、恐怖に眩む視界に映ったのは、なんか身形のいい若い男性。
今の俺が見れば、「成金だな」と判断していただろうが、当時の俺にそういう判断基準はなかった。
「えっ、えっ」
思いっ切り上擦った声を上げる俺。
俺の腕を掴んだ男性は、俺の方はちらとも見ずに、俺の腕を掴んでいる手とは反対の手で、自分の山高帽をはっしと押さえて、
「さあ、行きましょう!」
と。
俺は唖然。
今の俺であっても、こんな局面では唖然とする自信がある。
「は――?」
茫然としているうちに、成金男は俺を引っ張って動き始めていた。
引っ張られながらも、俺はぱちぱちと瞬き。
ぶっちゃけ、俺は正面なんて見ていなかった。
――直後。
どんっ! と衝撃があって、俺の正面に誰かが激突した。
俺はそいつの喉に頭をぶつけるような形になって、目方が軽かったこともあって弾き飛ばされ、思いっ切り尻餅をついた。
成金男は、そのときにはしれっと俺から手を離していた。
そして俺にぶつかった方も、喉に頭が直撃したものだから呼吸が詰まり、「ぐえ」と呻いて白目を剥く。
更にはそいつが唐突に足を止めたことで、そいつの後ろにいた人が「きゃあっ」と悲鳴を上げてその背中に激突した。
――な、なんだこれ……。
茫然としながら、俺は額を押さえて呆気に取られる。
喉への衝撃と背中への衝撃のために、俺にぶつかった男性が、堪らずその場に膝を突いた。
げほげほと咳き込んで苦しそうだ。
そしてその後ろにいたらしき人も、目の前の人がいきなり膝を突いたものだから、その背中にぶつかっていた体勢が災いしてその場に転んだ。
三者三様、見事な転びよう。
俺は目を白黒させているばかりで、何なら目も回っていたが、最後尾の一人は違った。
転倒したもののすぐに顔を上げて、そのまま膝を突いた男性に飛び付き、その手から小さな鞄を取り上げて叫んだのだ。
その声は女性の声だった。
少しハスキーな声。
「――ああ、良かった!」
何が?
何が起こったのか分からず茫然とする俺。
続いて最後尾で転倒したその女の人は、立ったままの山高帽の成金男を見上げて、少しばかり責めるような声を出していた。
「――あなたご自身が身体を張って止められたのなら、とても勇敢なことだったと思いますけれど。行き掛かりの人を巻き込むとは褒められたことではありませんよ」
山高帽の男は悪びれなかった。
帽子の鍔に指を掛けて、しれっと言った。
「なに、一人では心許なかったので。こちらの方が手持無沙汰そうになさっていたもので、ついね」
つい、じゃないんだよ。
というかほんとに何が起こったの。
目が眩んでいたので、俺は両手で目を擦った。
女の人は、すう、と一呼吸置いてから、手にした小さな鞄を、山高帽の成金男に差し出したようだった。
「――では、縉紳の士。こちらの鞄を、あちらの――」そう言いながら、女の人は後方を示した様子。「賢嬢に届けてくださいますか。こちらの不届き者に隙を突かれて、大変お困りのようでしたので」
「なんと」
と、成金男。
俺はいよいよ目がおかしくなったかと思うほどに目が眩んでいたので、必死に瞬きを繰り返していた。
「あなたのお持物ではなかったのか。他人のためにお身体を張るとはなんと勇敢な。
仰せの通りに、賢嬢」
女の人が、含みのある様子で鼻を鳴らした。
そして、釘を刺すようにして言っていた。
「あなたがその鞄を本来の持ち主に届けないとなれば、周りにいる沢山の方々から非難があることでしょうね」
成金男は、少しばかり不快そうに声を低めた。
「言われるまでもありませんよ」
そうして、鞄は女の人から成金男の手に渡り、成金男は衆人環視の中でそれを本来の持ち主へ返還した様子だった。
――当時の俺はただただ茫然としていたが、これ、普通に考えて掏りの現場だった。
掏った鞄を手に逃走を図った男を、後ろからこの女の人が追い掛けて、そこに成金男が俺を衝突させて止めたのだ。
周囲からぱらぱらと拍手が起こる。
掏りはわざとらしく倒れ込み、喉を押さえて呻いており、なんだか周りからの憐憫を誘おうとしているようでもあった。
そんな掏りの後ろで、女の人が立ち上がった。
ドレスからぱんぱんと砂塵を払うと、その人は地面に尻餅をついたままの俺に向かって数歩の距離を歩いて来て、俺の目の前で膝を突いた。
――俺は大きく息を呑んだ。
俺の目は相変わらず眩んでいたが、別に目がおかしくなったのではないということが、事ここに至ってはっきりと分かっていた。
さっき――ついさっき、辺りが妙に明るいと思ったのはこのせいだった。
俺のこの特殊な目は、女の人がどれだけの魔力を受け取る器であるのかを、如実に映して認識している。
それはいつもながら光として認識されていた。
俺は鏡で自分の姿を見たときに、自分を光の人形のようだと捉えたが、目の前のこの女の人に見える魔力はそれ以上だった。
頭のてっぺんから爪先まで、銀にも見える白い光で満ち溢れ、光り輝き、身体ひとつには収まり切らない魔力が、周囲に向かって光の鱗片を振り撒いている――ここまで魔力が一つの器に集中することがあるのかと、驚愕するような魔力の渦だった。
直視して、眩しさの余りに目が眩んだのも納得だった。
女の人が身動きする度に、千切れた光がふわふわと漂うのが見えている。
圧倒的な魔力に、女の人の姿はすっぽりと隠れてしまっていた。
「――大丈夫ですか?」
と、女の人が言った。
俺はぎゅっと目を閉じて、眉間に力を入れて、無理やり視界を切り替えて目を開けた。
そうすることでようやく、女の人の顔が見えた。
半ばが結い上げられた、緩い癖のある艶やかな蜂蜜色の髪。
こちらを見て傾げられている、形のいい小さな頭。
額髪の下で心配そうに寄せられた眉。
――整った顔立ちの中で、俺を映している大きな飴色の瞳。
大きな襟の付いた、微妙にサイズの合っていないドレスを着た彼女が、そよ風に靡く蜂蜜色の髪を耳に掛けながら瞬きして、俺に向かってもういちど尋ねた。
「大丈夫ですか?」




