05◆――世界のことを少し
俺は字は読める。
それを知ったレイモンドは光り輝くような安堵の表情を見せたが、直後に俺があんまり長い単語は読めないと知って、急転直下の絶望の表情を見せていた。
だが納得もしたようで、
「まあ、バーシルもそんなものだったから仕方ないか……」
などと呟いていた。
確かに俺は、地面に木の棒で文字を書いて読んでくれたバーシルから字を教わっていたので、バーシルが読めない単語が読めるはずもない。
ちなみにヘリアンサスは、そんな俺から灯りも乏しい地下神殿で文字を教えられたので、知識は更なる劣化の濾過の下で伝えられているはずだった。
俺はレイモンドが絶望の表情を見せた瞬間に、頭を庇って後退っていたが、レイモンドは俺に手を上げなかった。
むしろ俺のその仕草を見て、なんだかつらそうな顔をしていた。
その顔を見て、俺は頭を庇っていた手を下ろした。
――船旅は五日に及ぶらしい。
つまり、諸島からレンリティス王国まで五日掛かるということだ。
当時の俺は、「ふうん」という感じでそれを聞いていたが、世界の大きさを知っている今の俺からすれば、「ちょっと待て」と突っ込みたくなる速さである。
船旅初日の夜に、ちょっと訳が分からないくらいに沢山の肉団子が入った、蕃茄がベースになったスープで夕食を貰った(レイモンドは、俺が盛大に口の周りを汚して食事したものだから、引き攣った顔で俺を見ていたものである)あと、俺はレイモンドに髪を切ってもらった。
レイモンドは重々意図を説明した上で鋏を持ち出してくれて、俺は内心でびびり上がりながらも平気な振りをしたものの、しゃきん、と鋏の刃が鳴った瞬間に気絶した。
俺が椅子の上で恐ろしいほど静かに身動ぎもせずに気を失ったものだから、レイモンドはそれに気付かずに快適に散髪を終え、「はい、終わりましたよ」と俺の肩を叩いた瞬間に、俺がずるりと椅子の上から倒れたもので、大いに慌てたらしい。
翌朝になって目覚めた俺は、恨みがましげなレイモンドからそれを聞いた。
レイモンドのその顔を見て、俺は、どうやらここでは、多少のことでは殴られないらしい、と、半信半疑ながらも仮説を立てた。
更にその朝、ごく普通に朝食の前に座らされた俺は、ここではどうやら定期的に食事をもらえるらしいと仮説を立てた。
俺はその朝食のときに初めて、温められたミルクを飲んだ。
朝食においても、木の実を練り込んで焼かれたパンが出て来たので、俺は半ば息を詰めながら、レイモンドに、「これはなんていう木の実?」と尋ねた。
声は震えていた。
俺が自分から口火を切って話し掛けたのは、ヘリアンサスの他には初めてだった。
レイモンドは俺を見て、微笑んで、「これは胡桃です」と教えてくれた。
そのとき俺は、どういうわけだか泣いてしまった。
レイモンドはぎょっとしていたが、俺も自分の情緒にぎょっとした。
俺は痛かったり苦しかったりして泣いたことはあったが、ほっとして泣いたことはなかった。
そのあとレイモンドは怖そうな女の人に呼び出され、俺にまで聞こえる大声で、「僕じゃねえって! 泣かせてねえって!」と絶叫していた。
俺は、人を泣かせるようなことをすれば叱られるということを知らなかったので、何をあんなにレイモンドは慌てているんだろうと、ぼんやり考えながらミルクを飲んでいた。
そのときのミルクに張っていた薄膜の感触を、俺は随分長いこと覚えていた。
――今では、俺はもう忘れてしまっていたけれど。
食事の後に、俺は地図の前に立たされて、大体の地理を教えられた。
目指すレンリティス王国は、東の大陸の北方、西の海辺に広がって、今の俺もよく知る半島を抱えた、広大な王国だった。
その南方、東の大陸の南の海辺に、カロック帝国が広がっている。
――そう、そこにあったのだ。
西の大陸を描いた箇所に目を転じれば、そこにはヴェルロー連合王国が、ふざけた大きさで広がっていた。
もはや大陸ひとつを呑み込まんばかりで、周辺の数少ない独立国も、実態はヴェルローの属国なのだとか。
連合王国と名がつくだけあって、幾つかの王国や公国が連なって一つの国体を成しているわけだが、実際には中枢国の力が強過ぎて、単なる一個の王国と変わりないのだとか何とか。
広く世界で信じられているエイオス教の総本山もこの国にあって、というか女王は大僧正でもあるとか何とか。
王権と宗教が非常に強く結びついているとか何とか。
俺にはちんぷんかんぷんだったが、自分がいた諸島とレンリティス王国を地図上で見比べて、こんなにレンリティスは広いのか、と驚嘆した後にヴェルロー連合王国の国境を示されて、余りの桁違いの大きさにぽかんとしていた。
一方南に目を転じ、俺がいた諸島よりも更に南を見れば、大陸よりは小さいものの、諸島よりは何十倍も大きな島がある。
島の輪郭はややあやふやに描かれていた。
こっちに国はないのかと俺は尋ねたが、レイモンドは大笑いして、「そこは人も住んでいませんよ」と応じた。
なんでもカロックの皇子が雲上船をここまで大きくして初めて、海を越えた先にでかい島があると分かったのだとか。
最近はこの島をどこの国の領土とするかで、睨み合いが絶えないのだとか。
――そんなにたくさんの土地を持ってどうするつもりだろう、と俺はこっそり考えたが、自分がこの島を持つと考えると楽しそうだった。
取り敢えずヘリアンサスを呼んで来て、延々とどうでもいい話をしていたい。
その後、昼食の席を利用する形で、俺はエイオス教の祈りを教えてもらった。
食前の祈りだけは何が何でも諳んじられるようになれ、と言われ、他のときには、誰かが諳んじる教義やら祈りやらの後に、「斯くあれかし」と言え、と教わった。
俺はなかなか祈りの文句を覚えることが出来ず、そもそも慣れない言葉に口が回らなくて、レイモンドがゆっくり発音する祈りの言葉を復唱することすら難しかった。
そんな有様だったので、俺は目の前のごはんを食べられないと思ってしょんぼりしたが、レイモンドは呻きながらも俺に食事を許し、そこでは作法の指導を続けた。
バターで炒め焼きされた鶏肉が目の前に出されて、大変に美味しそうな匂いがしていたが、俺はなかなかそれを口に運ぶことが出来なかった。
ナイフとフォークの扱いに、多大な難があったからである。
俺はナイフとフォークの扱いに四苦八苦して、それを見守るレイモンドは泣きそうになっていたが、一度も俺に手を上げることはなかった。
俺はフォークやナイフが音を立てたり、手から食器を落っことしてしまう度に身を竦めていたが、レイモンドは俺の反応をまるっと無視して(もしかしたらそこに頓着していられる精神状態ではなかったのかも知れない)、「肘を引っ込め過ぎです」だの、「今度は肘を上げ過ぎです」だの、「手首が硬い」だの、「あのですねあなたが今切っているのは拳サイズのお肉であって切り株ではないんですよ、そんなに身体を揺らさないで」だの、全部言葉と手本で教えてくれた。
レイモンドが余りにも鮮やかに食事を進めるので、俺はぽかんと目を丸くしてそれを見ていたくらいだった。
俺は昨日と同じ六角形の部屋で昼食を食べていたが、途中で知らない人がその部屋を覗き込んで来て、
「――番人ってその子? 大丈夫か、大使が務まるのか?」
と声を掛けて来て、俺はさあっと蒼褪めて全身の動きを止めた。
このお役目に自分が適さないと判断されれば殺されるだろうという確信は、俺の心に根強く残っていたのだ。
レイモンドは俺を見てから入口の方を振り返り、「引っ込んでろ!」と怒鳴った。
俺はびくっとした。
「この子は人より繊細なんだから脅かすな!」
レイモンドの剣幕に、俺はますます硬直し、そんな俺を見て、部屋を覗き込んで来た人も真顔になった。
「えっ、ごめん、なんか想像と違う――」
「違うだろうさ!」
とレイモンド。
俺を振り返って、「食べてて」と告げたものの、すぐまた入口の方を向いて、
「相手が古老長さまじゃなけりゃ、引き返して襟首締め上げてるとこだ。――まったく、この子のことが島ぐるみだったとしたら、僕はあの島の人間を軽蔑するよ。差し詰め、この子のことは古老衆以外からは隠していたんだろうけど」
部屋を覗き込んできた人は大きく目を見開いて、「レイモンド!」と。
「滅多なこと言うなよ、聞かれたらえらいことになるぞ」
レイモンドは鼻を鳴らした。
「だったらおまえ、この子を風呂に入れてみろよ。それでおまえの心が動かないなら、僕はおまえを軽蔑するよ」
「そこまで言うか。
ていうか、風呂に入れるって、おまえ。その子、見たとこ十五にはなってるだろ。一人で入れるだろ」
入口の人がそう言って、俺はレイモンドの奥歯がぎりっと鳴る音を聞いた。
そこで耐えかねて、俺は思わず両手で頭を庇った。
手からナイフとフォークが滑り落ちて、フォークがからんっ、とテーブルを叩き、ナイフが床まで落ちてしゃーっと滑った。
入口の人が目を丸くするのを見ながら、レイモンドは苦々しそうに。
「十七だ。おまえも聞いてただろ」
入口の人は俺を見て、それからレイモンドを見て、目を丸くしたまま頷いた。
「そっか、分かった。おまえの気持ちも分かるけどさ、古老長さまのなさることには口を出したら駄目だろ」
レイモンドはふーっと鼻から息を吐いて、テーブルの上に置いてある、控えのフォークとナイフを、ぐいっと俺に押し付けた。
俺は頭を庇うのをやめて、恐る恐るそれを握った。
レイモンドが怒っているのが怖かった。
「――分かってるよ、あの方は絶対だから」
そう言って、レイモンドははっとしたように俺を見て、慌てた様子で微笑んだ。
頬に浅く笑窪が浮かんだ。
「ああ、ルドベキア、大丈夫ですよ。あなたは悪くない」
俺はなおもびくびくしていたが、辛うじて頷いた。
そこで入口のところにいた人が部屋に入って来たので、俺はばくばくと脈打つ心臓を吐き出しそうになった。
入口のところにいた人は、レイモンドとおおよそ同じ格好をしていた。
こちらの人は茅色の短い髪をしていて、レイモンドよりはやや背が低かった。
赤っぽい色の目でまじまじと俺を見て近付いて来たその人は、俺とレイモンドの正面にするっと滑り込んでくると、おもむろに俺に手を差し出した。
俺はびくっとしたが、辛うじてナイフとフォークは落とさずに済んだ。
俺は震える手でテーブルにそれらを置いて、レイモンドに教わったように、おずおずと差し出された手を握った。
手を握るためには長椅子から立ち上がらなくてはいけなくて、俺はちょっとよろめいた。
俺がそうっと握った手は、すぐにぎゅうっと俺の手を握り返してきて、その感触に俺は息を詰めた。
だが、痛くはなかった。
「俺はチャールズ、よろしく」
名前を知っている人が五人になった。
覚え切れるかそろそろ心配だ。
俺は息を吸い込んで、レイモンドに教わったように名乗り返した。
「――る、ルドベキア……」
「いい名前だ」
チャールズはそう言って、俺の手を離した。
俺は一瞬茫然としたあと、すとんと座り直した。
そのときになって俺は、隣のレイモンドも息を詰めていたことに気付いた。
ゆるゆると詰めていた息を吐き出して、レイモンドは俺の肩に手を乗っけた。
俺が首を傾げると、レイモンドは低い声で、「よく出来ました」と言った。
俺はそれまでの人生で褒められたことがなかったので、ただただ瞬きを繰り返してレイモンドを窺った。
レイモンドは俺の肩に手を乗っけたままチャールズの方を見て、「チャーリー、おまえさ」と切り出していた。
「僕より作法には詳しいだろ。この子に教えてやってくれ。僕じゃ限界だ」
俺は、目の前にいるこの人の名前はチャールズなのかチャーリーなのかどっちだ、と考えてしまったが、チャールズ(あるいはチャーリー)は、きょとんとして俺を見て首を傾げていた。
「俺は別にいいけどさ、きみ、ルドベキア。俺が教えても大丈夫かい?」
俺は瞬きしたあと、レイモンドを見上げた。
そして、小声で尋ねた。
「――この人、チャールズなの、チャーリーなの?」
チャールズ(あるいはチャーリー)の顔色ががらっと変わった。
ここまで驚愕を露わにする人間はそうそういないだろうと思われた。
レイモンドはぐっと何かを呑み込むような顔をしてから、一呼吸を置いて。
「……ルドベキア。私のことは、『レイ』と呼んでいいと言ったでしょう。あれと同じです。
『チャーリー』というのはこいつの愛称で――愛称というのは、親しい人間に呼ばれる名前です」
了解を示して、俺は頷いた。
同時にチャールズが身を乗り出してきて、俺は仰け反った。
「レイモンド、分かった、仕草の作法は俺が教える」
そう言って、チャールズは真剣な眼差しでレイモンドを見た。
「おまえ、振られそうな話題の想定問答でも作ってやれよ。侯爵閣下はこの子のこと、すんげぇ学者だと思ってんだぜ」
レイモンドは両手で目頭を押さえた。げっそりしていた。
「眩暈がする……」
「それにこの子さ」
チャールズはそう言って、俺を見て肩を竦めた。
流れるような仕草だった。
「人に慣れとかないとやばいだろ。侯爵閣下に話し掛けられた途端にこの子が逃げ出してみろよ。俺たち全員悪夢よりひどい現実にご対面だぜ」
俺はぽかんとしていたが、自分がレイモンドを困らせていることは何となく分かったので、自分の右手を額に当てて、それからその指先をレイモンドの方へ動かした。
レイモンドは軽く手を振ってそれをあしらって、渋面でチャールズを見た。
「だからって、いきなり上の人たちと会わせるわけにもいかないだろ。あの人たち、古老衆の仰ることを真に受けてるんだ。多分この子のこと、すっげぇ化け物か何かだと思って顔出さないんだよ」
そこまで言って、レイモンドははっとした様子で俺を振り返った。
俺はきょとんとしていて、それを見たレイモンドは申し訳なさそうに眉を寄せて。
「この船にね、実はもっとたくさん人がいるんですよ。上の人たち――ええっと、私たちより随分年上の方たちは、上の方にいるんですけどね」
上、と言いながら、レイモンドは人差し指で天井の方を示した。
俺は、天井に人が張り付いているのかと、びくびくしながらそちらを見上げたが、別に誰かと目が合ったりはしなかった。
俺の挙動に微笑んでから、レイモンドはチャールズに目を戻して首を振った。
「駄目だ。言っただろ、この子、人より繊細なんだよ」
「いや繊細なままじゃいらんねーんだって」
チャールズは真顔でそう言って、その顔のままテーブルの向こうから手を伸ばし、俺の皿からカットされた林檎を取り上げて口に放り込んだ。
もぐもぐと林檎を咀嚼するチャールズに、レイモンドが「おい!」と声を荒らげる。
「この子のだろ!」
「いいじゃん一切れくらい」
「この子から取るな!」
頑として言ったレイモンドが、自分の皿から俺の皿に林檎を一切れ移してくれながら、ちょっと顔を顰めて言った。
「ルドベキア、今みたいなときは怒りなさい」
「おこ……?」
俺はぽかんとして繰り返した。
俺は慈悲を貰って生かされているので、何かに憤る権利を認められたことはなかった。
「そうです、怒るんです」
繰り返して俺にそう言い聞かせるレイモンドを見ながら、ごっくんと林檎を飲み込んだチャールズが、ぽん、と手を打った。
「どっちにしろ、我らが大使さまには人に慣れてないと困るからね。
おまえの言う通り、上の方たちはこの子に会いたがらないだろうから、ちょっとずつ俺たちで会っていけばいいじゃん。
――手始めに、あれだ。言葉遣いはパットから教えさせよう。あいつ上品だし」
パットというのは女の人だった。
パトリシアというらしい。
愛称がパットで、彼女が俺の、名前を知っている六人目になった。
俺は乗船二日目の昼下がりに彼女に引き合わされた。
パトリシアは赤い巻き毛の半ばを黒いリボンで纏めていて、レイモンドとチャールズから俺の話を聞いていたらしく、まずは両手を頭の後ろで組んで俺の前に登場した。
後から考えれば笑ってしまうような絵面ではあったが、みんながみんな真剣だった。
レイモンドは二十六歳ということだったし、チャールズもおよそその同年と見えたが、パトリシアは俺の年齢に近かった。
多分十八か十七だった。
最初こそ俺を気遣っての登場だったが、すぐに興味津々な眼差しで俺を見てきた。
俺にとって幸いだったのが、パトリシアがどちらかといえば内向的でおっとりした性格だったことだろう。
ここでぐいぐい来られていたら、俺は泡を吹いて気絶していたかも知れない。
パトリシアは、好奇心に満ちた目で俺を見ていたものの、俺の隣のレイモンドを見てどことなく尻込みした様子で、「言葉遣い、言葉遣いですよね」と確認。
手始めに俺はパトリシアに向かって自己紹介をさせられ、遠慮がちににこっと微笑んだ彼女から、「ぜんぜん駄目です」と酷評を喰らった。
「まずですねぇ、あなた。丁寧語すらなってないです。名乗るときに自分の名前だけ伝えないでください。『ルドベキアと申します』と、ここまでは必ず言ってください」
ゆったりした口調ながらも厳しくそう言って、パトリシアは俺が素直に復唱するのを見守って、そこから俺の発言をいちいち丁寧語に直してくれた。
俺はいたく感激したが、同時にめちゃめちゃ噛んだ。
チャールズは天を仰いで呻き、レイモンドは全てを諦めた様子で笑い、パトリシアは笑いを噛み殺した。
「名乗るときは、大使と名乗ってくださいね。あなたの肩書は、一応、ハルティの大使ということになっているので」
「た――大使」
「姓がないと格好がつかないので、取り敢えず、『ルドベキア・ハルティ』で名乗りましょうねえ」
「分かった」
「“分かりました”、です。
あと、偉い人に呼び掛けるときは、基本的には敬称で呼び掛けてくださいね。間違っても女侯爵を名前で呼んだりしないでくださいね」
「――えっ?」
俺が混乱そのものの顔をしたので、レイモンドが横からそうっと。
「ルドベキア。たとえば他の人は、あなたに呼び掛けるとき、『ルドベキア』ではなくて、『大使』と呼び掛けるんです。
同じようにあなたも、爵位を持っている方に対しては『閣下』と呼び掛けてください。爵位をお持ちの方がその場に複数いらっしゃった場合は、『閣下』の前に爵位をつけるか、あるいは家名をつけるんですよ」
俺にはちんぷんかんぷんだった。
その顔を見て、レイモンドは絶望の表情。
チャールズは切羽詰まった様子で、堰を切ったように、俺に対して貴族の位階を説明し始めた。
俺にはよく分からなかったが、とにかく爵位には色々あること、名前の前か後に爵位をつけて自己紹介してきた人は偉いのだということ、そんな人には「閣下」と呼び掛けることを学んだ。
「とにかく、あなたが確実に話すことになるのはキルディアス侯爵閣下です。彼女に対しては、『閣下』あるいは『キルディアス閣下』と」
「き、きる……?」
「――『閣下』でいきましょう。
とにかく彼女の方を向いて、誰に呼び掛けているのか分かるようにすればよろしい」
「国王陛下には『陛下』だからな」
「王太子さまにも姫さまにも会うことになると思いますよ。『殿下』です」
三方からそれぞれ捲し立てられて、俺は頭から湯気が出そうだった。
「あなたの招待主の方は別ですが、通常爵位は男性が継ぎますからね。女性に対しては家名に夫人をつけて呼ぶこと――例えば、例えばですが、デリー男爵の賢女に呼び掛けるときは、『デリー男爵夫人』です。名前が分からなければ、単に『賢女』と」
「け――えっ?」
訊き返した俺に、レイモンドは顔を覆った。
俺は思わず身を縮めたが、やっぱりレイモンドは俺に手を上げなかった。
「――レンリティス王国ではね、既婚の女性を『賢女』、未婚の女性を『賢嬢』と呼んでおけば間違いないんです。
内助の功で夫君を支える方ですとか、将来そうなさる方を呼ぶ意味です」
「ないじょ……?」
「ごめんなさい忘れてください」
俺の頭に余計なことは一切入れないでおこうと決意した様子のレイモンドである。
チャールズが更に言葉を重ねた。
「未婚か既婚かは、髪型で分かるから。どこの国でもそうだけど、項を見せていれば既婚、そうじゃなければ未婚だ」
そう言いながらチャールズは、半ば下ろされた髪でしっかり隠されたパトリシアの項をつつこうとして、割とガチな声で、「やめてください」と鬱陶しがられてしゅんとしていた。
俺は詰め込まれる知識に茫然としながら、辛うじて声を絞り出した。
「……“きこん”と“みこん”って、なに」
一拍置いて、その場が騒然となった。
――おまえは婚姻の何たるかを知らないのか、と詰め寄られた俺は、ふるふると首を振って無知を自白。
チャールズが愕然と椅子に座り込む一方、パトリシアはぽかんと口を開け、レイモンドは、「ハルティに引き返せ! 何が何でもあんまりだ!」と絶叫。
それを必死にパトリシアが宥め、懇々と俺に婚姻の何たるかを説明。
俺が納得してこくこく頷き、レイモンドの機嫌を取ろうとして、「もう分かったから大丈夫」と告げると、レイモンドは「何が大丈夫なんですか」と一蹴。
どうすればいいのか分からず俺がおろおろしていると、レイモンドは手を振って、溜息混じりに呟いた。
「あなたには怒ってないんですよ……」
俺がますます困っていると、気を取り直したらしいチャールズが、「あのさ」と割り込んできた。
「大抵の女の人には、取り敢えず髪型を見て『賢女』か『賢嬢』で呼び掛ければいいけど、いいか、絶対にそう呼び掛けたらいけない相手もいる」
俺は瞬き。
チャールズは指を立てて、いやに真剣な顔で言った。
「年増の未婚女には、絶対に『賢嬢』とは言うな」
ぽかんと口を開ける俺に、パトリシアがおっとりと解説した。
「あのですねえ、私たちみたいなのならいざ知らず、あなたはこれからお貴族さまに会うわけですしねえ。貴族さまの女性の間ではね、十八を過ぎて未婚だと嫁き遅れなんですよ。そういう方に『賢嬢』と言っちゃうと、何て言うんですかねえ、嫌味と取られる方もいらっしゃるので」
ちなみに、と手を挙げて、パトリシアは真面目腐って続けた。
「十八の目安は私です」
俺は瞬き。レイモンドの方を向いて尋ねる。
「……けっ――結婚してないのは、駄目なの?」
パトリシアが割と真顔で、「そこ、私に訊くところでは?」と呟いていたが、俺に対して質問を許可したのはレイモンドである。
他の人には怖くて訊けない。
レイモンドは穏やかさを取り戻した顔で微笑んで、「そうですね」と。
「レンリティスでは、何といいますか、女性は嫁いで子供を作ってこそ、という風潮があるんですよ。東の大陸では、大抵の国ではそうですけど。
だから、ご結婚をなさらない女性というのは、役目を果たしていないと思われがちなんですね」
大いに納得して、俺は頷いた。
お役目を果たせないのは怖い。
チャールズはそんな俺を見ながら、尤もらしく指を立てた。
「『賢嬢』なんて呼んじゃいけない代表的なお二人が、キルディアス侯爵閣下と、パルドーラ伯爵閣下だ」
「このお二人は女性ですけど爵位を継いでいらっしゃいますから、例外中の例外ですよ」
レイモンドが顔を顰めてそう言った。
「お二人の前では、決してご家族の話はしないように。それぞれご不幸があって爵位を継がれた――ええっと、つまり、身内が亡くなって、代わりがいないから爵位が降ってきたんですよ」
俺は正直分かっていなかったが、取り敢えず頷いた。
レイモンドはちょっと切なそうにそれを見ていた。
チャールズはレイモンドに向かって思いっ切り鼻を鳴らして、
「ご不幸ってなんだよ。あれだけ親族がばたばた死んだんだ、爵位を狙った二人の呪いじゃないかって噂だろ」
レイモンドは溜息を吐いた。
「いくら大魔術師といってもな、不可能だって――あの方たちは母石の存在を知らないんだから。噂になってるのは抽象的な意味での呪いだろ。母石の存在も知ってる僕らは呪いを掛けるには足りないし、呪いを掛けるに足るかも知れないあのお二人は母石の存在を知らない。
母石の存在も知らないのに本当の呪いを成功させたっていうんなら、あれだ。お二人はもはや、大魔術師じゃなくて魔王だよ」
チャールズとパトリシアが同時に笑い出した。
俺は話が分からなくてぽかんとしていて、レイモンドを見上げて首を傾げた。
「……のろいって?」
レイモンドは俺を見て、眦を下げて、目を細めた。
そうすると目尻に浅く皺が寄った。
「それはねえ、あなたに教えるわけにはいかないんですよ」
俺は瞬きして頷き、もういちど首を傾げた。
「まおうって?」
レイモンドは一瞬絶句したあと、無理をしたように笑い出した。
チャールズとパトリシアは顔を見合わせて、いよいよ驚愕に目を見開いていた。
「例え話ですよ。御伽噺にはよく出て来るんです。
お作法の勉強が終わったら、いくつか話してあげましょうね」
俺は頷き、そして五分後には、御伽噺は話してもらえそうにないなと悟っていた。
――俺の作法は壊滅的だった。
誓っていうが、別に俺の物覚えが悪かったんじゃない。
単純に、元々の知識の下地が無さ過ぎただけなのだ。
その日の夜、例の深紅の部屋で夕食の前に座った俺は、ようやくまともに食前の祈りを復唱できるようになった。
まだ諳んじるには程遠かったが、レイモンドはいたく感動した様子でそれを聞いていた。
そのあと、チャールズから食事作法を叩き込まれながら食事を進めた俺に、レイモンドは「疲れたでしょう」と笑った。
俺としては、生涯でいちばん充実した食事を摂らせてもらっているので疲れてはおらず首を振ったが、レイモンドはそれを俺の強がりだと思ったらしかった。
いそいそとテーブルの上の瓶から脚の長い硝子のグラスに深紅の液体を注ぐと、それを俺に勧めてくれて、「お酒は初めてでしょう」と。
「もう十七なら飲んでも大丈夫だと思いますから、どうぞ。
カロックは葡萄酒の名産地でもあって――そこの葡萄酒ですよ。これは甘くて飲みやすいですし」
俺はふんふんと頷いて、レイモンドからグラスを受け取った。
チャールズはレイモンドから瓶を奪い取るようにして自分のグラスに葡萄酒を注いで煽って、「こっちが疲れたわ」と述懐している。
俺はグラスに顔を近付けた。
くらっとする香りがした。
なんだかよく分からないながら、俺はグラスを傾けて、葡萄酒を一口飲んだ。
苦いような甘いような不思議な味がして、喉の中を不思議な熱さが通り抜けていった。
――翌朝、酒を飲んだ瞬間から先のことを、全く何も覚えていない状態で目を覚ました俺は、レイモンドから怖い顔で、「絶対に、何があっても、今後一切酒は口にしないよう」と言い含められた。
俺はこくこく頷いて、妙に頭が痛いなと考えていた。
さもありなん。
今から思えば、俺が酒を飲むのは自殺行為に他ならない。
◆◆◆
斯くして俺は、レイモンドを困らせたり、チャールズを怒らせたり、パトリシアを絶句させたりしながら五日間の旅路を辿った。
彼らの心労を思えば、今となっては胸が痛いが、ある程度のところまで俺の常識と教養を引き上げてくれた彼らには感謝が尽きない。
――もしも俺が何も知らないままレンリティスに辿り着くことになっていたら、俺はまず間違いなく、こうして全部を思い出したあとに首を吊ることを選んでいたはずである。
俺が何をしてでも、どれだけ背伸びをしてでも、その人の前では格好つけたいと思う人――何が何でもその人の前でだけは、俺の、憐憫すら誘うほどの常識知らず振りを見せたくはない人。
――そんな人との出会いは、時計が針を進めるように着々と迫っていた。




