04◆――五人の大魔術師
うおおおお、と、俺は声を上げた。
胸の中で。
レイモンドに引っ張って小部屋を連れ出され、象牙色の通路を歩いて別の部屋に連れて来られた俺は、嗅いだこともないような甘い匂いにびっくりした。
その部屋はそんなに広くはなくて、さっきの小部屋とは違って、内部を石のタイルで覆って造られている感じだった。
天井付近にロープを張り巡らせてあって、そのロープに布が引っ掛けられて仕切りになっていた。
布は薄紅色で、そんな色の布を間近に見たことがなかった俺は、それだけでもう胸の中がふわふわしてきた。
入口の扉があるのと同じ壁には大きな鏡が嵌め込まれていて、鏡の下にはこれも大きな化粧台が据え付けられて、座面がクッションで出来た丸椅子がその前に置かれていた。
化粧台の上に、色んな大きさの硝子瓶とか丸くて平べったい容器とかが置かれているのを見て、俺はてっきり、それが絵具かと思った――それまでの俺の人生で、そういう容器は絵具のもの、という認識が育っていたのだ――ので、ふらふらとそっちに近寄って行こうとして、レイモンドにがっきと肩を掴んでそれを阻止された。
俺は咄嗟に頭を庇ったが、レイモンドは思いっ切り胡乱そうに、「何してるんですか」とそれを一刀両断し、俺の腕を掴んで、垂らされた布の前まで進んで行った。
そこで俺の腕を離して、俺がただ突っ立っているのを見て、噛んで含めるように言って聞かせてきた。
「――ルドベキア、入浴です」
俺はぽかん。
その瞬間のレイモンドの顔は、今から思えば笑いを誘うほどに見事なものだった。
「……もしや、入浴の経験が、ない?」
俺は動けなかった。
どう答えればレイモンドが怒らないのかが分からなかった。
レイモンドはしばらく顔を覆って何かを考えていたが、そのうち割り切れたのか、腕捲りして頷いた。
「――分かりました。今回限り私が介助しましょう。
ルドベキア、服を脱いで」
「えっ?」
「引き剥がしますよ?」
真剣な顔でそう言われて、俺は慌てて服に手を掛けた。
着替えること自体、俺にはあんまりないことだったのでもたついた。
途中からレイモンドにも手伝ってもらう形で裸になった俺は、そのまま垂れ布の向こうに追い遣られて、そこにどんと据え置かれた、真っ白でつるつるした浴槽に、更に唖然とした。
まあ、このときの俺は、浴槽なんて言葉は知らなくて、「真っ白でつるつるした大きな入れもの」として認識したわけだけど。
天井から細いパイプが伸びていて、そのパイプは浴槽の端っこに掛かる形で終わっている。
そのパイプの終点のちょっと上のところにバルブが取り付けられていて、レイモンドがきゅっきゅっと音を立ててそのバルブを捻ると、どぼぼぼぼ、と、すごい勢いで水が出て浴槽の底を叩き始めた。
しかもその水からはもうもうと湯気が立ち昇っていて、俺は怯んだ。
――これ、お湯だ。
ぶっ掛けられるのがお湯のときは、俺はぴんぴんしていられたが、煮えた油のときはそのあと身体がべたべたして困ったものだ。
どうやらこれは櫃の代わりのものらしい、と、俺が絶望の中で考えていると、レイモンドは俺の背中を押して、「中に入って」と。
そして、俺がこの世の終わりのような顔をしているのに気付いて、それからまじまじと俺の全身を見た。
はっきりとレイモンドの顔が強張った。
それからちょっと考えて、レイモンドはゆっくりとした口調で言った。
「――ルドベキア、痛いことはありません。中に入って」
……痛いことがない?
俺は目を見開いて、それから浴槽に目を落として、早速数インチの高さまでお湯が張られつつあるその浴槽の縁を跨いで、その中に、そうっと足を入れた。
じわっ、と、温かさが爪先を浸した。
俺が浴槽の中で突っ立っていると、レイモンドが唐突に、床から手桶を持ち上げて、パイプから噴き出すお湯をそこに受けた。
手桶はすぐにお湯でいっぱいになって、レイモンドは一切何の躊躇いもなく、俺の頭からそのお湯をぶっ掛けた。
――俺は硬直し、ざばあ、とお湯が身体の上を流れる音を聞きながら、しばらく呼吸を止めた。
俺が凍り付いたことが分かったのか、レイモンドが慌てた様子で、お湯で流れて顔に張り付いた俺の髪を退けて、掌で俺の顔を拭ってくれた。
「ああ、すみません、いきなり。ルドベキア、大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのかは分からなかったが、俺は恐る恐る呼吸を再開した。
それを見て取ってから、レイモンドは屈んで、床に置かれた幾つかの小瓶を手に取って見比べ始めた。
それから納得したように頷いて、ひとつの小瓶の中身を手の中に出して、その手を擦り合わせた。
摩訶不思議にも、手の中から泡が発生し出した。
真っ白な、いや、ちょっとだけ薄桃色掛かったふわふわした泡が、もこもことレイモンドの手の中から出て来ている。
俺はぽかんと口を開けてそれを凝視し、レイモンドはそれを見て、「口を閉じて、頭を下げて」と指示を出した。
俺が言われた通りにするのを見てから、レイモンドは付け加えるように、「目を閉じて」と言った。俺はぎゅっと目を閉じた。
すぐに、頭にレイモンドの手が触れた。
俺は恐怖に拍動が速まるのを感じ取ったが、レイモンドの手は別に俺を殴るものではなかった。
指の腹が俺の頭を押さえて、髪を掻き分けるようにしながら頭を揉んで、擦っているだけだった。
――痛くない。むしろ、気持ちいい。
レイモンドの手の中にあった泡が俺の頭に移って、甘い匂いがすぐ傍でしていた。
俺が、初めての経験に戸惑いつつも身を任せていることしばし、レイモンドの手が退けられて、そのあと手桶にまたお湯を溜める音がして、ばしゃあ、と頭からお湯が掛けられた。
今度はお湯が掛けながら、レイモンドの片手が俺の髪を梳いている。
何度かに亘ってそうやってお湯が掛けられたあと、髪がぎゅうっと絞られて、「顔を上げて」と声が掛けられた。
俺は顔を上げて、ぱちくりと瞬きした。
その顔を見て、レイモンドはなぜか笑った。
深緑のレイモンドの装束のあちこちに、お湯と泡が飛んでいた。
それには無頓着に、レイモンドは俺に、「ちょっと待っていてくださいね」と声を掛けて、垂れ布の向こうに消えていった。
どぼどぼとお湯が浴槽に溜まっていく。
既に水位は俺の膝の上に達していた。
透明なお湯に、俺から洗い流された泡が浮かんでいた。
しばらくしてレイモンドは、何かの布を持って戻って来た。
広げてみると布は二枚で、レイモンドは一枚を俺に渡し、二枚目を自分で持って、浴槽の中にその布を浸けた。
お湯を孕んで、もわっと広がった布を引き上げてぎゅうっと絞り、レイモンドはまた、床に置かれた小瓶の中身を布の上に滴らせる。
そうして布を揉み合わせると、またしてももこもこと泡が発生し始めた。
俺が瞠目してそれを凝視していると、レイモンドは、「真似をして」と。
俺はちょっとたどたどしい手付きでレイモンドの仕草を真似て、レイモンドは俺が絞った布の上にも、小瓶の中身を垂らしてくれた。
俺が布を揉み合わせても、レイモンドがするのと同じように泡が立った。
うおおおお、と、俺が胸の中で声を上げていると、レイモンドはどことなく微笑ましそうに。
「背中は洗ってあげますから、前は自分で洗ってください。ほら、こっちに背中を向けて」
ばしゃばしゃとお湯を動かして、俺はレイモンドに背中を向けた。
すぐに布が背中に触れて、俺は思わず震えた。
――痛いことはない、と言われてはいても、俺が経験してきたことには、痛いことが多すぎた。
俺がびくびくしていることが分かったのか、レイモンドは呟いた。
「大丈夫ですよ」
背中がゆっくり擦られて、その温かさに、半強制的に俺の身体から力が抜けた。
レイモンドはそれに気付いた様子で、
「こら、自分の身体を洗いなさい」
と。
俺ははっとして、見様見真似というか、背中に感じる感覚を真似て、自分の胸の辺りを擦った。
「――ルドベキア、あなた……」
レイモンドの低い声がした。
どことなく、驚愕しているようですらあった。
「……ちゃんと食事はしていたんですか? こんなに痩せて……」
バーシルの顔が浮かんで、俺は頷いた。
「食べてたよ」
「――そうは見えない」
押し殺したような声でそう呟いて、レイモンドは指で俺の背中をなぞった。
正確に背骨を辿っていた。
このときの俺の背中には、恐らく骨が浮き出ていたことだろう。
「痣だらけだ……身体つきも、十七にしては小さ過ぎる……。運んだときも、妙に軽いと思ったんだ……」
それから、レイモンドは声の調子を変えて、俺に尋ねた。
「ルドベキア、食事もしないといけません。何か好きなものはありますか」
「――――」
俺は絶句した。
まさしく、言葉がなかった。
――好悪を決められるほどに沢山のものを、俺は食べたことがなかった。
レイモンドはしばらく押し黙り、それから思い出したように、俺が自分の身体を洗うのを急かした。
浴槽には順調にお湯が張られて、俺はお湯の中でせっせと自分の皮膚を擦る具合になった。
擦った肌が赤くなった。
お湯の表面に、泡がいっぱいに浮かんでいた。
「――耳の後ろも洗ってください」
「うん」
「膝の裏も擦って」
「うん」
「指の間、洗いました?」
「うん」
「いったん出て」
腕を引っ張られて、俺は浴槽からよたよたと出た。
レイモンドは手桶にお湯を溜めてから、その手桶を俺に渡して、「これで軽く濯いでください」と指示し、バルブを操作して、パイプから浴槽に注ぎ込むお湯を止めた。
それから袖をもう一度捲り上げると、浴槽の中に手を突っ込んで、何かを操作した。
途端、がこん、と音がして、浴槽に溜まっていたお湯が抜け始めた。
それを見守り、なおかつ俺が手桶にもたついているのを見て取ったレイモンドが、手桶を俺から受け取って、俺の全身を洗い流してくれた。
お湯が跳ねて、レイモンドの装束はもう水浸しだった。
床も水浸しになったが、これは構わないらしかった。
そのうちに浴槽から完全にお湯が抜けて、レイモンドはもう一度浴槽に手を突っ込んで何かを操作してから、バルブを捻って、再び浴槽にお湯を溜め始めた。
どどどどど、と、浴槽の底を叩くお湯。
レイモンドは俺に向き直って、浴槽を示した。
「中に入っていてください。胸くらいまでお湯が来たら、このバルブをこっち向きに捻って止めること。あんまり浸かっていると逆上せますから、呼んだら出て来てください。呼ぶ前に出て来てもいいですよ」
俺は頷いて、もういちど浴槽の中に入った。
それを見守ってから、レイモンドは垂れ布の向こうに消えていった。
それからすぐ、「すっげぇ濡れてんじゃねえか!」と叫ぶレイモンドの声が聞こえてきて、俺はびくっとした。
だが、しばらく待っても、レイモンドが俺を殴りに戻って来る様子はなかった。
浴槽の中で膝を抱えて、俺はぼんやりと数を数えていた。
教えられた位置までお湯が達したので、俺はバルブを両手で握って捻り、お湯を止めた。
途端に部屋は静かになった。
湯気は籠もったような良い匂いがした。
温かさが身体の中心まで緩めていくようで、こんな経験は初めてだった。
汗が浮いてきたので、俺は濡れた掌で顔を拭った。
俺がじっとしていても、お湯の水面は時折漣を立てて揺れた。
忘れがちだったが、ここは船の上なのだった。
どことなく気分がふわふわしていたが、俺は三百六十まで数えると、ばしゃん、とお湯を波立てて立ち上がり、そうっと浴槽の縁を跨いで床に立った。
おずおずと垂れ布を掻き分けてその向こうに顔を出すと、化粧台の前でレイモンドが何かを準備していて、俺に気付いて――あるいは、鏡に映った俺に気付いて――振り返った。
「ああ、もういいんですか」
そう言って、レイモンドは大判の布を抱えてこちらに歩いて来て、その布をばさっと俺の頭に被せ、わしゃわしゃと俺の髪を拭い始めた。
急なことに俺はびっくりして、ゆらゆらと揺れながらされるがままになっていた。
レイモンドはそのまま俺の首筋も拭って、背中を拭いて、はい、と俺に布を渡した。
俺はびくっとしてそれを受け取った。
「残りは自分で拭いてくださいね。着替えを準備しますから」
頷いて、俺は周囲をきょろきょろと見渡した。
俺が脱いだはずの服も靴もどこにもなかった。
俺がもたもたと身体を拭き終わると、レイモンドが服を順番通りに手渡してくれた。
信じられないくらい触り心地のいい服だったので、俺は下着を手渡されたとき、びっくりしたが余りにしばらくそれを手で擦っていたくらいだった。
下着を身に着け、生成り色の胴着を身に着け、生地の薄いズボンをふらつきながら履く。
その上から袖がたっぷりした形の、裾が引き摺るほどに長い深緑の上衣を羽織って、俺がどうしたものかともたついていると、レイモンドが手伝ってくれた。
てきぱきと上衣の前を合わせて、紐を結んでちゃんとした服の形にしてくれる。
それから太い布帯を取り出して来て、レイモンドが苦労しながらそれを俺の腰に巻いてくれて、そのときに、それこそ手品みたいに、床に引き摺っていた裾を持ち上げてその帯で押さえて、裾の長さを俺の足首の辺りまでにしてくれた。
上衣の裾と袖には、黒い糸でよく分からないが精緻な刺繍が施されていて、今までこんな服を着せてもらったことがない俺はそわそわしてしまった。
そのあと靴を貰って――先の尖った黒い革靴だった――、慣れない靴にふらふらしている俺は、そのまま化粧台の方へ引っ張られた。
「髪も少し切りますか?」
訊かれて、俺は鏡を見た。
そして目を見開いた。
俺は鏡というものを初めて見たし、自分の顔というものを初めて見た――そのはずだった。
実際には、俺には俺の顔が見えなかった。
レイモンドの姿は鏡の中に見えたが、自分の方は見えなかった。
――鏡の中の俺は、馬鹿みたいな話だが、全身が光り輝いていた。
通常は胸の辺りにぼんやりと見えるだけのはずの魔力が、こうしてちゃんと自分の姿を眼中に収めてみれば、胸の辺りを中心に、頭のてっぺんから爪先、指の先までを覆って、そこから溢れて輝いているのがはっきりと見えていた。
俺はまるで、真っ白な光で象られた人形のようだった。
俺が微動だにしないので、レイモンドが訝しそうに俺の顔を覗き込んできた。
レイモンドは俺よりも随分背が高かった。
「――どうしました? 気分が悪いんですか?」
俺は首を振って、息を吸い込んだ。
目に力を入れて、無理やり視界を切り替えた。
そうするとようやく、鏡の中に自分の姿が見えた。
――今の俺からすれば、見るに堪えない姿だった。
俺は別に自分の容姿に自信があるわけではないが、それにしても酷かった。
今よりも小さくて、背中が曲がっていて、げっそりと痩せて、顔色も悪かった。
肌は青白くて不健康そうだった。
髪は肩の上くらいまで伸びて、どことなく、濡れてはいてもぱさぱさと傷んだ感じがしていた。
俺は下を向いて、首を振った。
「……分からない」
レイモンドは少し困ったようだったが、すぐに言った。
「寝る前にでも、少し髪を整えましょう」
俺は頷いた。
レイモンドはじっと俺を見て、試すように言った。
「――ルドベキア、背筋を伸ばせますか?」
俺はきょとんとした。
このときの俺に、自分の姿勢が悪い自覚はなかった。
「えっ?」
訊き返すと、レイモンドは眉を寄せて。
「背中です。――胸を張って立てますか?
もしかしたら骨が歪んでいるのかも知れない」
レイモンドが俺の肩を掴んで、もう片方の手を俺の背中に当てて、姿勢を介助した。
俺の身体がちゃんと動いたので、レイモンドはどことなく安心したようだった。
胸を張って、肩を開いて立ったとき、俺はなんとなくくすぐったいような、変な気分になった。
レイモンドが手を離すと、俺の姿勢はまたすぐに元に戻ってしまったが、それでもレイモンドは笑顔になって、俺の肩に手を置いて言った。
「――では、食事にしましょう、ルドベキア」
◆◆◆
レイモンドに連れられて、浴室――当時の俺は、「お湯の部屋」と内心でそれを呼んだ――を出た俺は、また通路をしばらく歩いて、擦れ違う人全員にびくびくしながら、広い部屋に案内された。
歩いている最中に船が大きく揺れて、俺は見事にすっころんだ。
レイモンドは俺を助け起こしながら、「気流の乱れでしょう」と言った。
俺はとにかく頷くのに精一杯で、「気流ってなに?」とはとても訊けなかった。
案内された部屋は一風変わった――といっても、このときの俺にはそういった常識もなかったが――六角形で、象牙色を基調にしている船内にあって、色鮮やかな深紅で飾り立てられていた。
部屋の壁は、やっぱり下の方で出っ張っていて椅子みたいになっていて、壁には深紅の垂幕が、幾重にも襞を寄せて垂らされていて象牙色を覆い隠していたし、出っ張りの上にはこれまた深紅のクッションがあちこちに置かれていた。
床にも深紅の絨毯が敷かれていて、俺は目がおかしくなったのかと思って擦った。
部屋の中央には、テーブルとそれを囲む椅子があったが、これもまた一風変わっていた。
テーブルは楕円形で、床から直接生えてきたかのように固定されていたし、それを囲む椅子も、床が盛り上がって高い背凭れの付いた長椅子を作ったかのようだった。
長椅子はぐるっとテーブルを囲んでいたが、楕円形の端が途切れていて、楕円の中に入って椅子に座れるようになっていた。
レイモンドは俺を促して椅子に座らせ、自分もその正面に座った。
俺たちは、楕円の短い直径の端と端に座った具合だった。
俺は徐々に、どうやらここでは許しなく動いても罰されることはないらしいと気付いていたので、きょろきょろと周囲を見渡してみた。
この部屋を照らしているのは、頭上にある天井そのものだった。
天井がぼんやりと白く光って、柔らかく部屋全体を包み込む明るさを放っている。
世双珠の気配があちこちからして、俺は落ち着かなくて尻をもぞもぞと動かした。
右手には俺たちが入ってきた、この部屋へのアーチ型の入口があって、左手の壁にはよく分からないぐちゃぐちゃの形の図形が書かれた、大きな絵が飾ってあった。
俺はそれを見て、今度はヘリアンサスに緑色の絵具を持って行ってやりたいなと考えていた。
その絵は、茶色と緑と青を基調にして描かれていたのだった。
俺があちこちを見渡しているので、レイモンドはとうとう笑い出した。
「ルドベキア、落ち着きなさい。朝食には遅い時間で、昼食には早い時間です。誰も来ませんよ」
俺はようやくレイモンドに視線を移し、頷いた。
俺と目を合わせて、レイモンドは柔らかい声で淡々と。
「食事の準備は、先ほど頼んでおきました。直に運ばれて来ますから、それまでに少しお話をしましょう」
俺は身を縮めた。
何か不興を買ったのだと思った。
そんな俺をちょっと困ったように見ながら、レイモンドはテーブルに肘を突いて手指を組み合わせた。
必要以上にしっかりと指を組んで見せたのは、今から思えば、もしかしたら、「私はあなたを殴らない」ということを示して、俺を安心させてくれようとしていたのかも知れなかった。
「まず、ルドベキア――その様子だと、恐らく私たちのことは何も聞かされていないようですね」
迷ったものの、俺は頷いた。
レイモンドも頷いて、口を開いた。
口調は明瞭に苦々しかった。
「もう少し――なんというか、前提知識は持っているものと思っていました。
古老長さまによく確認しなかった、こちらの手落ちです」
俺は瞬きした。
何を言われているか、よく分かっていなかった。
レイモンドは溜息を吐き、それに対して俺がびくっとすると、取って付けたように微笑んで、言葉を続けた。
出来るだけ平易な表現をしようとしているのが、当時の俺にすら分かった。
「――ルドベキア、私たちはハルティの、各国使節団です。
ええとですね、この世界には沢山の国がありますから、それぞれに力関係というものがあるんですよ。
例えば、ヴェルロー連合王国と境を接する国は、あの連合王国の女王に逆らえません」
よく分からなかったが、俺は頷いた。
レイモンドはどことなく諦めたような笑顔だった。
「ハルティは、――あなたには分からないでしょうが――統治形態、つまり、国を纏めるやり方が、他とは全然違います。普通は国王や女王や皇帝といった偉い人がいて、その下に特権階級――つまり、普通の人より偉い人がいて、その下に普通の人がいて――というように、上から下に命令が行き渡ることで国というのは治まるのですが、ハルティは……国というより、共同体ですから」
やっぱりよく分からなかった俺は首を傾げた。
あそこにも、〝えらいひとたち〟がいるのに。
レイモンドは、俺が頷こうが首を傾げようが、話を進めようと心に決めている様子だった。
俺の反応には無頓着に言葉を続けた。
「お分かりと思いますが、ハルティが独立していられるのは世双珠のお陰です。つまり、守人のお陰です。
世双珠がなければ、この世界はとても立ち行きませんからね。
どこの国も、ハルティから縁を切られたら大事と、ハルティを大変に重んじているんですよ。何しろハルティは、世双珠がどのように生まれるのかを、一切外部に漏らさない」
俺は頷いた。
これには心当たりがあった。
何しろ、世双珠の母石と守人を、外部から守り続けているのは俺だからね。
レイモンドは、ちょっとだけ不満そうだった。
「――私たちですら、守人のいる島には近寄らせてもらえませんからね……。まあ、いいんですけど。
――そう、それで、私たちですが、」
気を取り直したように語調を戻して、レイモンドは言った。
「如何なハルティといえど、侵略に警戒は必要です。どこかの国が戦争を起こして、ハルティを占領して、世双珠を我が物としようとする――なんてことになったら大変ですからね」
戦争ってなに、と訊こうとしたが、俺は黙っていた。
話を遮ってしまって、レイモンドが怒ったら大変だと思った。
「そこで私たち、各国使節団が、ハルティの代表として色んな国に行っていましてね。
私たちを迎える国からすれば、ハルティと誼を結ぶ――ええっとつまり、ハルティと仲良くなって、世双珠をたくさん融通してもらえる機会になるわけです。
そして私たちからすれば、色んな国の内情を探って、ハルティに危険がないか探ることが出来るわけです」
俺は瞬きした。
世双珠はヘリアンサスと母石から生まれるものだから、何も〝えらいひとたち〟と仲良くなったところで得られるものではない。
そう思ったからだったが、俺は黙っていた。
「――それで、今、私たちは重大なお役目を任せられています。魔法を殺すことです」
そう言って、レイモンドは息を吐いた。
「……まさかね、こんなお役目がくるとは思いませんでしたよ。
あなた、どうして魔法を殺す必要があるか教えてもらってます?」
俺は首を振った。
レイモンドはびっくりしたようだったが、瞬きをして斜め上を見上げ、「そうか」と呟いた。
「じゃ、僕からも教えない方がいいってことかな……」
独り言の調子でそう呟いてから、レイモンドは俺に目を戻した。
「まあ、とにかく、重大なお役目ですから。頑張りましょうね」
「――――」
俺は黙っていたが、レイモンドは頓着しなかった。
「あなたが作り出した魔法は特殊なもので――まあ、自分でも分かっていると思いますが。そのために、是非あなたに会ってみたいと言っている人がいましてね。私たちはその人に会いに行きます。
というか、対外的には、あなたがその人に会いに行きます」
レイモンドは組んでいた指を解いて、俺の左側の壁に掛けられている絵を指差した。
「見たことはないですかね……あれ、地図なんですけど」
俺は瞬きした。
俺の顔を見て、「やっぱりね」と苦笑したレイモンドは、「地図の読み方は、明日にでも教えてあげますよ」と言った。
「とにかく、私たちは、ずーっと北の方へ向かっています。
そこに、レンリティス王国という大国がありましてね。
あなたに会いたいと仰せなのはその国の、女侯爵です」
レイモンドがそこまで言ったとき、がらがらと音がして、この部屋に別の人が入って来た。
その人は両手でワゴンを押していて、ワゴンの上には銀色の蓋を被せられた皿がいくつも載っていた。
俺は近付いて来る人に飛び上がったが、レイモンドは俺に向かって、「そこでじっとしていなさい」と言うと、立ち上がってワゴンの方に歩いて行って、何事かをワゴンを押している女の人に囁き掛けた。
女の人は頷いて、殊更にゆっくりとワゴンを押しながらこちらに向かって歩いて来ると、銀色の皿を被せられたままの皿を慎重な手付きで持ち上げて、俺の前のテーブルに並べ始めた。
レイモンドもそれを手伝っていて、俺はそわそわしてしまった。
ワゴンの上が空になると、女の人はワゴンを押して離れて行った。
レイモンドは硝子の大きな水差しから、同じく硝子のコップに水を注ぐと、それを俺の目の前に置いてくれた。
こと、と音がして、俺は喉の渇きを思い出した。
とはいえ、手を出していいのかどうか図りかねたので、俺はじっとしていた。
レイモンドは俺をしばらく眺めてから、はっとしたように促した。
「お水です、飲んで」
お許しが出たので、俺は両手でカップを掴んで、ごくごくと水を飲んだ。
飲んでびっくりしたが、妙に甘い水だった。
喉が潤って、俺は思わず大きく息を吐いた。
皿の蓋を開けないまま、レイモンドは俺の向かい側の席に戻って頬杖を突き、
「――で、どこまで話しましたっけ」
と。
俺がただ瞬きをしていると、自力で記憶を辿ったらしい、「ああ、そうそう」と呟いて言葉を続けた。
「――レンリティスの女侯爵が、あなたの招待主です。
まあね、あなたに会いたいと言われたときは、どうやってそれを躱すかが問題だったんですけど、魔法を殺すとなると話は変わる。この招待は渡りに船です。
影響力を言うならヴェルローの女王の方に会いに行きたいものですが、いくら私でも古老長さまであっても、あの化け物の前にあなたを出す勇気はない」
俺は瞬きした。
レイモンドは慈愛深い笑顔を浮かべて、軽く身を乗り出して俺を見た。
「ルドベキア、魔法を殺すのは簡単ではありません。この世界は魔法があってこそ、色々と便利になっているわけですから」
だからね、と言葉を継いで、レイモンドは指を立てた。
「影響力の強い国に行って、偉い人に会って、何とかして魔法を殺していく、そういうことが必要なんですよ。それを一年でやれっていうんですから、古老長さまも大変な無茶をお言いですけどね。
――この場合の影響力が強い国というのは、魔法が発達している国を指します」
レイモンドは、立てた指を三本に増やした。
「この世界で一番魔法が発達している国は三つあります。
西のヴェルロー連合王国、東のレンリティス王国、それからこれも東のカロック帝国」
未知の名前ばっかりが出てくるので、俺は目が回りそうだった。
レイモンドは、「もうちょっと頑張ってください」とずけっと言って、容赦なく言葉を続けた。
「更にその三国の魔法の発展を支えたと言われる大魔術師が四人います。まあ、最近では大魔術師は五人と言われ始めていますがね。
有史以来の魔法の天才が、今この時代に五人いるんですよ」
よく分からなかったが、取り敢えず俺は頷いた。
レイモンドは、「絶対分かってないでしょ」という目で俺を見てから、今度は片手の指を全部開いた。
そして、それを折りながら数え上げた。
「まず一人目、ヴェルローの女王です。
この方は……確か在位六十年だったかな。これまでにない勢いで国土を拡大した、他国からすれば最悪の暴君ですよ。まあ、ヴェルローに行ってみたところだと、自国では最良の女王と言われているみたいですけどね。とにかくこの方が一人目。ヴェルローを西の最強国家に伸し上げた、大魔術師の中で一番恐ろしい方です」
俺は頷いた。
よく分からなかったが、とにかく自分はその人に会いに行くのではないということで安堵していた。
「そして二人目。カロックの皇子です。
この方が、こういう雲上船の技術を生み出したわけです。それまではあんまり噂にも聞かない方でしたが、最近ではあちこちでお話を聞きますね。最近ご婚約されたとか」
婚約とは? と思いつつ、俺は黙って頷いた。
いよいよ目が回ってきていた。
「そして三人目と四人目は、同じ国の方です。レンリティスの女侯爵と女伯爵です。
このお二人は……ええ、まあ、とにかく仲がお悪いので有名ですが、あなたの招待主は女侯爵ですからね。非常に厳しい方と有名で、国益のためなら何でもすると」
レイモンドはそこまで言って、残り一本の立っている指をひらひらさせた。
「残り一人、誰か分かります?」
俺は首を傾げた。レイモンドは溜息を吐いた。
「あなたですよ、ルドベキア」
レイモンドの指が全部折り畳まれて、手が拳の形になった。
レイモンドは素早くその手をテーブルの下に隠して、ものすごく微妙な目で俺を見た。
「五人目の大魔術師として、巷で噂です……何しろ古老長さまは、あなたの魔法を隠さなくていいと仰いましたからね。
時間に手を出す魔法なんて前代未聞ですよ。ヴェルローの女王がそれを知っているのではないかとは言われてはいますけどね、あなたのは本当にすごい」
俺は頷いた。
何を言われているのか、よく分かっていなかった。
レイモンドは深々と息を吐いて、額を掻いた。
「まあ、とにかく、レンリティスからのお誘いは渡りに船なんです。この世界で唯一、大魔術師が二人いる国ですからね。
そこに行って、あなたは女侯爵に取り入る。取り入ったところで、何とかして魔法の発展を止めて殺しに掛かる――何だったら、そのときには私から、どうして魔法を殺さなければいけないのかを話してもいいかも知れません……」
いよいよぼうっとしてきて、俺は頷いた。
頭を落っことすように頷いた俺に、レイモンドは憂慮の表情。
「ただね、覚えておいてほしいのは、女侯爵からすればあなたは政治の道具ですし、敵対陣営からすればあなたは邪魔物だってことなんですよね。
ハルティは影響力も大きいですし、本当に、何があるか分かりません。
だから、ルドベキア、いいですか」
俺は瞬きして、頷く。
頷いてばっかりで頭痛がしてきた。
「最初のうちは、魔法を殺しに来たとか言い出したら駄目ですよ。
下手したら斬首されますからね」
ごく、と唾を飲んで、俺はこくこくと頷いた。
レイモンドはにこっと微笑んで、目の前の皿の蓋を取り去り始めた。
ものすごく良い匂いがしたが、俺は唇を噛んで気にしないようにした。
レイモンドは俺を見てきょとんとしてから、「何してるんです?」と。
「蓋を取って。あなたも食べるんですよ」
「えっ?」
目を見開いた俺に、レイモンドはその一瞬、途轍もなく怖い顔をした。
俺が固まってしまったのが分かると、慌てたように口角に笑みを浮かべたが、緑色の目は険しいままだった。
「……やっぱりね」
そう呟いて、レイモンドは次々に蓋を取り去りながら、俺にも同じようにするように合図した。
俺がもたもたと蓋を取り始めて、やがて全部の皿の蓋が取られた。
俺はぽかんとした。
目の前の皿の上に、俺が見たことがないほど豪勢な食事が乗っていた。
レイモンドの言葉が本当であれば、俺もこれを食べていいらしい。
何かの鳥の丸焼きとか、よく分からない木の実を練り込んで焼かれたパンとか、魚のスープだとか、ごろごろっとした肉団子とか、チーズとか。
他にもたくさん。
煌めくほどに瑞々しい果物もあって、俺は隣にヘリアンサスを呼びたくなった。
びっくりし過ぎて声もない俺を見て、レイモンドはにこっとした。
「今日は別にいいですが、レンリティスはエイオス教の国家ですからね。食前には祈りがあります。明日、教えます」
レイモンドがカトラリーを手に取った。
目で促されて、俺も同じようにした。
レイモンドはふっと笑って、「やっぱりね」と呟くと、カトラリーを置いて席を立ち、なぜか俺の隣まで来て座り直した。
俺はびくびくしてしまって、逃げ出しこそしなかったものの逃げ腰になった。
無意識のうちに手が震えた。
レイモンドは俺の頭の上に手を置いて、どことなく神妙な顔で俺を見詰めた。
「――私もまだ二十六ですからね、あなたの先代はあまりよく存じ上げない。十になった頃にはこの使節団に入れられましたから、あなたのことも存じ上げない。
とはいえあなたの先代は、普通に古老長さま方と食事なさっているようでしたし、あなたほど世事に疎くはなかった。それは覚えています」
俺は何を言われているのか分からなくて、謝罪の仕草をしようとした。
だがカトラリーで手が塞がっていたのでまごついた。
瞬きして俯くと、レイモンドは俺の頭の上に置いた手を動かした。
俺は全身を強張らせたが、レイモンドが手を動かしても、別に痛くはなかった。
「あなたのことは色々聞いています――特殊な体質だと伺っていますが、――これほど追い詰めるとは」
何となく暗い声で言われたので、俺は何とか声を絞り出した。
「じ――慈悲をもらって」
「慈悲、ね」
目を細めてそう呟いて、レイモンドは俺の目を見て言った。
「ルドベキア、知らないことは私に尋ねなさい。
この船にいる間に出来る限りのことはしますが、それでも不足は大きいでしょう。レンリティスに着けば、あなたは政治的に利用される立場です。弱味を見せれば命取りですから、世間知らずなところは見せてはいけない。
私に尋ねなさい」
びくびくしながら俺は頷いた。
レイモンドは息を吐いて俺の頭から手を離すと、カトラリーを拳で握り締める俺の手を取って、にこっと微笑んだ。
「はい、ではまず、最低限の食事作法から始めましょうか」
俺は首を傾げ、それから頷き、五分後に後悔した。
食器の掴み方に作法があるなんて知らなかったし、そもそも食べ慣れない食事だったので、最初の一口を口に入れるだけでも一苦労だった。
――だが、今の俺からすれば、レイモンドは正しかった。
ここで俺に普通に食事をさせていれば、俺は恐らくがっついて食べていただろうから、直後に腹痛で倒れていたはずだ。
敢えて作法を教えて、ゆっくり食事をさせたのは正しい。
とはいえ、まあ、目の前から初めて嗅ぐようないい匂いがしている中で、なかなか食事を口に運べない俺としては、なんというかじれったい苦しい経験だったけれども。
初めて口にした大きい肉に、俺が思いっ切り顔を輝かせたのを見て、レイモンドは微笑んだ。
そして次に、俺にスープの飲み方を指導しながら、音を上げそうになりつつも空腹と美味に釣られて言うことを聞く俺を、励ますようにこう言った。
「頑張りましょうね。
このお役目に成功したら、あなたは世界を救った英雄になりますよ」
俺はスープに浸けていたスプーンから顔を上げ――その拍子に、かちん、とスプーンが音を立てて、レイモンドが顔を顰めるのに眦を下げながらも、「尋ねなさい」と言われた通りに尋ねていた。
「――えいゆう、ってなに?」
レイモンドの顔が強張った。
その顔に無理やり笑顔を貼り付けて、レイモンドは腹の底から溜息を吐いて、絞り出すように言っていた。
「――お勉強しましょう。
あなた、字は読めます? 読めると言ってください、お願いします。
――あ、読めないのに読めるとは言わないでくださいね」




