01◆――三つめのお役目
活動報告で色々予告をしています。
ごとん、と音がして、真っ暗だった視界が白く薄く照らされた。
その光はゆらゆらと揺蕩って、爆発しそうな肺を抱える俺は、その光を掴もうとして必死に手を伸ばすが、掌はすぐに石の壁にぶつかって伸ばしようがない。
水を掻く、独特な抵抗が指先に伝わった。幾つも薄膜を重ねたものを、必死に指先で抉っているような。
石の壁を掻き毟り、めちゃくちゃに振り回そうとしても動かない俺の腕が、上から伸びてきた大きな掌に掴まれて、ぐい、と引っ張られた。
ざばっ、と水が割れて、俺の頭が水面から出た。
途端に水を吐き出し、咳き込み、焼き切れそうになっていた肺に必死になって空気を送り込み、震えながら櫃の外に出ようとする俺を、俺を引っ張ってくれた掌がもういちど捕まえて、両脇の下に手が差し込まれた。
ずぶ濡れになった俺が櫃の中から持ち上げられて、地面の上に下ろされる。
げほげほと咳き込む俺は、ぼたぼたと大粒の滴をいくつもいくつも剥き出しの地面に落とし、既にぬかるんだその泥を、水滴の重さで浅く抉った。
足許の泥が沈んで、俺はよろめきながらも、しばらくは周囲の眩しさに、目を開けることすら出来なかった。
息を吸うと、ひぃぃ、と、小さな音がした。
脇の下から手が抜かれると、俺は立っていられなくてその場に転ぶ。
びしゃん、と泥が跳ねて、強張った手を咄嗟に動かして身体を支えることが出来なかった俺は、そのまま前のめりに転び、横に倒れそうになって、ついさっきまで自分がその中にいた櫃に頭をぶつけた。
「――落ち着け、落ち着け」
声がして、頭の上に掌が載せられる。
俺はびくっと身体を強張らせたが、声は止まらなかった。
「可哀想にねえ。今度は何をやったんだ」
ひぃ、ひぃ、と漏れていた息は、徐々に落ち着いてきた。
それと引き換えに、全身の痛みが鮮烈になった。
肩も爪先も、無理に押し込められていたために、引き攣れるように痛む。
びっしょりと濡れた衣服が身体に張り付いて、上から吹き込んで来る微風にすら冷たく体温を奪われた。
今はそこに泥が跳ねて、水ばかりではない重さが全身に纏わりついていた。
俺は腕を持ち上げて、なおもじんじんと痛むその腕を動かして、手首で必死に顔を拭った。
水と一緒に涙が拭われて、代わりに、手に付いていた泥が頬に広がった。
よたよたと立ち上がり、俺は鼻を啜り上げ、まだ眩しさに慣れない目を伏せて俯いたまま、声を出した。
その声は、今の俺からすれば信じられないほど、恥ずかしくなるほどに高くて、吃っていて、不安定だった。
「――いっ、市で、気付かなくて、ひ――火を点けた」
「なんでまた」
呆れたように訊かれて、俺はぎゅっと目を瞑った。
「て――天幕の中が、暗かった、から」
なるほどねえ、と、納得したようなしていないような声を出した目の前の人は、おもむろに俺の前に屈み込んだ。
咄嗟に一歩下がった俺は、櫃にぶつかって小さく叫んだが、目の前の人はそれに頓着しなかった。
「――市に行ったのか」
痙攣するように頷いて、それで俺ははっとして、懐に入れておいた買ったばかりの品を――いや、もう買ったばかりではなかった。かれこれ三時間は経過していた――、痺れる手指にもたつきながら取り出し、予想に違わずぐっしょりと濡れそぼった布袋に、がっくりと項垂れた。
「……濡れてる」
「そりゃ、そうだろうなあ」
目の前の人はそう言って、膝を伸ばしてぐっと背中を反らせた。
「島の人間の前で、古老長さまのお許しもなく魔法を使ったんだから、そりゃ、こうなるよ」
俺は下を向いたまま肩を窄めて、膝を折って、自分の額に当てた右手の指先を、相手の足許に向かって動かした。
――これが、この島における、無礼を謝罪する仕草だった。
なおもぼたぼたと全身から水を滴らせる俺の傍に、どっしりと黒い石櫃がある。
大きさは、長さ五フィート足らず、高さと幅は二フィート足らず。
黒々として、重々しい。
重い石蓋は、今はその傍に放り出されていて、水にぬかるんだ泥の地面に、半ば沈んでいるように見えた。
――ここは懲罰部屋で、部屋というか穴の底で、地面を深く掘って作った竪穴のような場所だった。
俺の目の前に立つ人の後ろには傾斜が急な木組みの階段があって、十フィートほど上の地上に続いている。
頭上は、いつもは木の板で光が遮られるが、人が入って来たとあって今は板が取り払われて、陽光が斜めに差し込んできていた。
懲罰部屋は、おおよそ十六フィート四方の広さがあって、壁は剥き出しの土のままだった。
地下水が湧き出す場所を掘っているから、足許はぬかるんで、傾斜の付いた足許をしばらく辿れば、数フィートの深さの水場に達することになる。
この部屋は櫃のためにあり、櫃は俺のためにあった。
重々しい櫃は、昔から、俺がその中に入れられるためにあった――
俺が櫃の中に入れられる理由は様々だった。
決められた時間に決められた場所にいなかったために入れられたり、許しもなく外出して入れられたり。
だが最も長く俺が櫃の中に閉じ込められるのは、〝えらいひとたち〟の言うことを聞かなかったときや、魔法を使ったときだった。
〝えらいひとたち〟は、俺が魔法を使えば俺をこの櫃の中に閉じ込めた。
それは、俺が物心つく前から繰り返されていることだった。
――今になって思えば、それは調教に等しかった。
懲罰が魔法のゆえに課されるときは、重ねて、櫃の中に水を注ぎ込まれることも多かった。
俺がまだ小さかったときは、櫃の大きさは十分なものだったが、この数年、俺は櫃に入れられれば身動きも取れなくなっていた。
何しろ、俺はもう十七歳になってしまった。
水が中に注ぎ込まれると、昔は櫃の上の方に顔を向けて呼吸が出来たが、この頃はそれも出来なくて、息を詰まらせながら、どうか早く誰かが櫃を開けてくれますようと、祈ることしか出来なかった。
――櫃から出るために、魔法を使ってはいけない。
魔法を使ったことを感知されると、俺はなおいっそう櫃の中に長く閉じ込められる。
しかし一方で、魔法は純粋な禁忌というわけでもなかった。
この島においては、特にそうだ。
〝えらいひとたち〟は、俺が許しなく魔法を使えば俺をここに閉じ込めたが、島の外からの来訪者があったときには、むしろ俺をその前に招いて、魔法を使うように命じた。
俺が言われた通りの魔法を満足に使うことが出来なかったり、あるいは〝えらいひとたち〟が思い描いた通りの魔法から、僅かのずれのある魔法を使ったりしてしまったときにも、来訪者が帰った後に、俺はこの櫃の中に閉じ込められた。
〝えらいひとたち〟がうっかり俺の存在を忘れてしまえば、次のお役目の時間がくるまで、そのまま閉じ込められ続けることもあった。
半日も櫃の中に入れられていると、俺の身体は固く強張って、満足に歩くことも出来なくなる。
とはいえ〝えらいひとたち〟は、俺がよろめいたり転んだりすることも嫌った。
そういうことが重なると、俺はひどく殴られたり蹴られたりすることになるし、もっと悪ければ二日くらいは食事抜きになってしまう。
――だから、今日、この人が俺を出しに来てくれたのは運が良かったのだ。
俺はようやく顔を上げて、おずおずと目の前に立つ人を見上げた。
この人の名前はバーシル、俺が名前を知っている三人のうちの一人だ。
〝えらいひとたち〟のうちの一人ではあるけれど、他の人が俺に名前を教えてくれないのに比べて、この人は俺に名前を教えてくれて、ときどき俺にパンをくれた。
見上げたバーシルは、顔を顰めて俺を見ている。
その胸の辺りに、ぼうっと光が見えていた。
――俺には魔力が見えた。
その人がどれだけの魔力を受け取る器であるのかを、こうしてはっきりと目で見て捉えることが出来る。
この視界が特異なものであることを、俺は七歳のときに知った。
〝えらいひとたち〟にこの目のことがばれたときには、危うくそのまま殺されるんじゃないかと思うくらいに気味悪がられたが――何しろ、俺の命はいつだって風前の灯で、お役目があるから慈悲を貰っているに過ぎない――、なんとかこうして今日まで生きている。
バーシルは唇を曲げて、顎に片手を当てた。
俺と会話をしてくれるのはバーシルだけだったので、俺の話し口調は十割がバーシルの影響で定まっていて、この頃はあっちにもそれが感染しつつあった。
「――まあ、市があるって教えたのは俺だからな。なに買ったの」
「…………」
俺は黙っていた。
無視しようと思ったのではなくて、咄嗟の質問に声が出なかった。
左手に握り締めた、濡れた布袋をぎゅっと握って、言葉を探したが見当たらなかった。
ただ唇だけが無意味に開いて、俺のその様子を見て、バーシルは肩を竦めた。
「どうやって買ったの。おまえ、金はないだろう」
こくこくと頷いて、ついでにくしゃみをしてから、俺は呟いた。
やっと声が出た。
「……かね……無いから、世双珠でお願いして……」
バーシルは眉を上げた。
唐突に彼が前に出たので、俺は悲鳴を上げてその場に蹲った。
頭を庇った俺を見下ろして、バーシルは、「世双珠を商人に渡したのか」と。
――なんでだよ、世双珠なら毎日毎日、いっぱい海を渡って運んでいくじゃないか、と思いながらも、俺は必死になって首を振った。
「違う……違う! 世双珠を変えたの、それだけ!」
「……ああ」
バーシルが一歩下がったようで、ぬちゃ、と泥がぬかるむ足音がした。
俺はびくびくしながら顔を上げて、バーシルの両手が下ろされていて、俺を殴る様子がないことを見て取った。
よろめきながら立ち上がって、俺は自分が嘘を吐いていないことを強調しようとして、小声で続けた。
「……火の世双珠がないって言ってたから、冷やすための世双珠を火のものに変えたの」
なるほどね、と呟いて、バーシルは溜息を吐いた。
「そういうことね。――おまえ、古老長さまのお許しもなく、島の外から来た商人のとこに行って、挙句そこで特技を使って、魔法で火を点けたのを見付かったわけね」
俺はこくんと頷いた。
バーシルは頬を掻いて、呆れたように。
「普通なら三日は櫃の中だな。――新しいお役目がきた後で良かったじゃないか。さすがに今、おまえに死なれると困るからな」
俺はまた膝を屈めて、額に当てた右手の指先を、バーシルの足許に向かって動かした。
それをじっと見てから、バーシルは肩を竦めて、「まあいいや」と投げ出すように言った。
それからくるっと踵を返して、後ろの階段に手と足を掛ける。
「――俺は先に出てるから、おまえ、動けるようになったら出て来いよ」
俺は頷いて、バーシルが階段を登って、地上に向かって姿を消すのを見送った。
バーシルが去ってから、ゆっくりと百数えて、俺も階段に足と手を掛けた。
手はまだ震えていたが、あんまり長くここにいたくなかった。
バーシルの靴底に付いていた泥が付着して汚れた階段を、落っこちないように慎重に昇って、俺は地上に顔を出した。
――息を吸い込む。
冬が終わり掛けて、辺りは春を待つ枯れた原野になっていた。
吸い込んだ息は凍りそうなほどに冷たく胸を刺したが、少し前よりはまだ温い。
這うようにして地上に到達して、俺はもう一度、深く息を吸い込んで、その息を吐き出した。
ここは島の端っこの、ちょっとした窪地だ。
荒れ放題の原野ではあったが、櫃から出たばかりの俺にとっては、この上なく嬉しい光景だった――逆に、地上からここまで引き摺って来られるときには、その場で泣き叫ぶくらいに絶望的な光景になるんだけど。
一度だけ、泣き叫ぶが余りに引き摺られながら気を失ったことがあって、そのとき俺は懲罰部屋の中に上から放り投げられて入れられて、泥の中ではっと目を覚ました後に、改めて櫃に入れられた。
以来俺は、何が何でも意識だけは失うまいとしながら、ここを引き摺られることにしている。
上を向けば、窪地を囲むなだらかな崖。
その上には鬱蒼とした森が広がっている。
この辺りに人が住んでいないことを、俺は知っていた。
立ち上がって、俺は崖の上に続く、細い道を目指して歩き始めた。
足許の小石に躓いて一度転んだ他は、俺は順調に道に到達して、その細くて頼りない上り坂を歩き、森の中に踏み込んでいった。
森の木は細くて、長年の往来だけが刻んだ細い道が、うねりながら森の中を続いている。
俺にとっては通い慣れた道だ。
こんもりとした山を覆う森は、昔はとてつもなく大きなものに見えていたが、今となっては家より親しい場所である。
小さなその山を越えて、俺は海岸線を望む場所にまで来た。
森が途切れた先は岩山になっていて、その岩場を更に進めば海に辿り着く。
ここから左へ――つまりは、東へ――進めば、岩場が疎らになって砂浜になっていることも、俺は知っていた。
知っていたというより、調べ上げたという方が正しいけど。
海の方を見て、俺は目を細めた。
――時刻は既に夕方になっていて、西日が薄く内殻と外殻を照らして、中空に白い光の薄膜としてその形を描き出していた。
――外殻の維持は、〝えらいひとたち〟の管轄だと教えられていた。
この諸島への招かれざる客を阻む絶対障壁は、“母石”から魔力の供給を受けて、堅固無比の守護殻となっている。
そして内殻は、俺の管轄だった。
この島ひとつを覆い、母石と“守人”を閉じ込めて庇う守護殻。
外殻と同じように、母石から魔力の供給を受ける内殻を維持し、制御するのは、俺たち番人の、二つの大きなお役目のうちの一つだった。
二つの守護殻で囲われた、狭くて規律正しいこの島々。
――それが、このときの俺の世界の全てだった。
二つの大陸に挟まれた位置、大陸よりも少しだけ南方に位置する諸島。
ハルティ諸島連合と呼ばれる、この世界で最も犯し難い共同体。
俺はその中心で生まれた。
◆◆◆
俺は番人として生まれ、二つの大きなお役目を、生まれながらにして与えられていた。
そのお役目ゆえに慈悲を垂らしてもらって、俺はこうして生きているわけだ。
一つめは、内殻の維持。
この島を、ありとあらゆる人間から守る、その要となるお役目。
そして、もう一つは――
森を出て、岩場を歩く。
斜陽に照らされる岩場をしばらく歩いて、俺は海を目前にするところまで進んで、海に向かって突き出す岩礁の、その少しだけ手前に大きく開いた、洞穴への入口へ向かった。
ざああん、と、夕暮れの中に海が響いている。
海鳥すらも内殻に阻まれて、この島の上空には来ないから、辺りは非常に静かだった。
洞穴への入口は海に向かって開いているから、こうして歩み寄りながら斜め後ろから見ると、まるで岩で出来た大きな獣が、半ば身を起こしているようにも見えた。
――その入口の傍に、少し前から奇妙な女の子が立っている。
島にこんな子はいなかったし、どこから来たのかも分からない――第一、他所からここに来られるはずがない。
奇跡が起こって外殻を超えることが出来たとしても、内殻は絶対に無理だ。
維持している俺が言うんだから間違いないが、内殻の堅固さは外殻以上なのだ。
それでも女の子はここにいて、来る日も来る日も毎日ここに立っている。
身動きもせず、何も言わず、ただぼんやりと立っている。
――何より奇妙なのは、この女の子に注がれているはずの魔力が見えないことだった。
魔力のない人間なんて有り得ないから、この子は人間ではないのかも知れない。
それを納得させる姿であることは確かだったし。
女の子は長くて黒い髪を、足許に幾重にも重なるほどに長く伸ばしている。
俺の髪もものすごく黒いが、この女の子の髪はそれに加えてきらきらしていて、それがいっそう気味が悪かった。
肌は黒く、一点の染みも汚れもなく、こんな肌の色の人を、俺は見たことが無かった。
双眸は銀の色で、何を見ているのかも分からないような、ぼんやりとした目付きで、いつも真っ直ぐに前だけを見ている。
そして何よりもぞっとするのが、その全身に走る罅割れだった。
――女の子の全身に走る、石を割ったかのような罅割れ。
元の顔立ちも分からないほどに、顔までも覆う、夥しい数の亀裂。
初めて見たときには鳥肌が立って、その日の夢にまで見たほどだった。
以来俺は、この子の顔を見ないようにしている。
この子がここにいていいのかどうかも知らないけれど、〝えらいひとたち〟に変なことを言うわけにもいかないから、俺はずっとこの子のことを黙っていた。
それに俺が言わなくても、〝えらいひとたち〟は、この子のことを知っているかも知れない。
あの人たちはなんでも知ってるから。
女の子から顔を背けて、俺は洞穴の入口を通った。
地下へ緩やかに続いている傾斜があって、俺は息の音を反響させながら、そこを黙々と通っていく。
洞穴の中は暗くて、俺は目の高さに小さな炎を浮かべて歩いた。
――ここは、ここだけは、俺が自由に魔法を使うことが出来る場所だ。
〝えらいひとたち〟のうちの誰かは、基本的には常に俺を見ているし、俺が言い付けに背くことがないよう監視していたが、こうしてここに来るときだけは別だった。
番人としてのお役目にだけは、あの人たちも譲ってくれるのだ。
おまじないを口の中で呟きながら、俺は目的の場所で足を止めた。
屈んで、地面に彫り抜かれたような跳ね戸を上げる。
――それは、竪穴が延々と地下に向かって続いている入口だった。
竪穴の壁一面に木組みの枠を設けて、ぐるぐると階段が下へ下へと続いている。
俺は跳ね戸を跨ぐようにして、階段の一番最初の段に足を掛けた。
そして、ゆっくりと足許を踏みしめるようにしながら、その階段を下り始める。
何しろ、ここで階段から落ちようものなら、まず間違いなく、誰も俺がここにいるなんて気付かないだろうから。
いくらバーシルでも無理だろう――だって今日は、本来ならば俺がここに来る日ではない。
ぎぃ、と、足許で階段が軋む。
俺が浮かべた炎は忠実に、俺の目の高さに従い続けて小さく闇を払い続けている。
ぐるぐる、ぐるぐると階段を下りて行くこと十数分で、俺は一番下に着いた。
ここが海の水より遥かに下の位置だとは、俄かには信じられないほどに空気が乾いていた。
階段を下りたそこは円形のホールになっていて、しんと静まり返って耳が痛いほど。
――それでも俺にとっては、安心できる場所だった。
静まり返った空気を掻き混ぜるようにして、俺はホールの奥の、横穴に続く入口を潜って、更に奥へと向かった。
もう、眠っていてもこの道なら歩けるんじゃないかと思うほどに通い慣れた道。
またもう一度、今度は石を彫り込んだ階段を下りて、俺は小走りになってその奥へと向かって行った。
ぼんやりと光を放つ物があって、その仄かな明かりを切り取る影がある。
――通路を進んだ先は、ここもまた円形のホール。
この諸島、ハルティ諸島連合の、ここが真髄だ。
〝えらいひとたち〟は、ここのことを「地下神殿」と呼ぶけれど、俺にはそれは馴染まない。
――ホールの中央の床は少し窪んでいて、その上に、俺が見上げるほどの大きさの、巨大な世双珠が安置されている。
これが母石だ。
全ての世双珠の根源の、その片割れだ。
母石の色は日々によって変わるけれど、今日は象牙のような白い色に光っていた。
薄らとした輝きが周囲に漏れ出して、影を生むほどでもないその光は、ホールのほんの中央部分だけを控えめに切り取って、柔らかく闇を散らしている。
光は、まるで小さな粒が舞っているかのようにも見える不安定さで、やわやわと暗くなったり明度を持ち直したりを繰り返していた。
――それから。
灯火の明かりと足音に、俺が来たことに気付いたのだろう、母石の光を切り取る影の主が、ゆっくりとこちらを振り返っていた。
心底からほっとして、俺は微笑んだ。
影の傍には、絵筆や絵具入りの硝子の容器が散乱している。
壁一面に絵が描いてあって、昨日よりも更に密度を増して絵具を塗りたくられたその壁は、いっそ圧巻だった。
影の主が俺を俺と認めて、眩しそうに目を細めた。
世双珠の明かりしかない暗闇の中にいて、急に俺が伴ってきた灯火の明かりを目の当たりにしたからだろうが、俺はこいつとは違う――暗過ぎると周囲が見えない。
――こいつは人間ではなくて、だからこそ、俺の目でもこいつに注がれる魔力の大きさは見えない。
こいつは俺の生まれるずっとずっと以前から、この姿のままここにいたらしい。
番人は血筋で決まるもの。
一代に一人限りいて、延々と連なっていく役割だ。
俺の母親が番人だった時代のことも、その先代のことも、訊けばこいつは要領を得ないながらも教えてくれる。
それでも、見た目は人間そのものだった。
むしろ俺にとっては、島の誰よりも親しい存在だった。
俺が伴う灯火の光に、黄金の瞳が僅かに朱色を帯びて見える。
真っ白な髪が、光を弾いてぱっと煌めいた。
肌すら透けるように白く、陽光など見たこともないだろうこいつが、影に生きているということを強調している。
――俺は昔は、こいつのことを「父さん」と呼んでいた。
島で、俺の他の子供が、年長の男を見てはそう呼んでいるのを見ていたから、てっきりそう呼ぶものだと思ったのだ。
だがやがて、こいつを父というには歳が近い――少なくとも、そのように見える――と気付いて、俺はこいつのことを「兄ちゃん」と呼ぶようになった。
今でも油断するとその呼び方が口を衝くが、普段はもう違う。
だって俺は、いつの間にか、見た目においてはこいつに並ぶくらいの年齢になってしまった。
――番人のお役目の、二つめ。
それは、こいつの――守人の許を、二日に一度訪って、異常がないかを確かめること。
黄金の目の守人の顔には、およそ表情と呼べるものはない。
それでも俺を安心させる、小さくてゆっくりとした声で、守人は呟いた。
「……ルドベキア」
俺は頷いて、相手への最後の数歩を足早に進んで、呼び掛けた。
俺はもう、こいつのことをちゃんと名前で呼ぶようになったから。
「俺のこと待ってた? ――ヘリアンサス」
――番人である俺には二つのお役目があって、どちらも自分の命よりも大事にするようにと教わった。
一つめの、内殻の維持というお役目は、俺がどこにいようと可能なものだ。
どれだけ離れていても、俺が番人である限り、俺は内殻と繋がっていられる。
でも、二つめのお役目は――守人に会いに来るというお役目は、俺がここにいないと出来ないことだ。
――三日前に言い渡された、新しいお役目――言い付けに背くこと甚だしかった今日の俺の行動から、俺の命を救った新しいお役目――それを思い出して、俺は息を吸い込んだ。
どうやら〝えらいひとたち〟にとっては、その三つめのお役目は、二つめのお役目よりも価値があるらしい。
――これから俺が他所の国へ行って、この世界の全ての魔法を殺すというお役目は。
 




