58◆ 断頭台の英雄
不意を討った形となった俺は、それだけで幾許かの有利を取っている。
これを生かさないのは馬鹿のすることだ。
処刑台の上に放り出され、立ち上がったその一瞬後には、俺は処刑台の上に控える五人の衛兵のうち、巻き込んで転ばせた一人の腹に、情け容赦なく足裏を落としていた。
がはッ、と洒落にならない声を立て、彼が悶絶する間もなく意識を失う。
直後に突き出されてきた槍を躱して、乱暴極まりなくその柄を掴んで、
「どけっ!」
ぶん回す要領で、彼を後続の一人にぶつけて後ろに突き飛ばした。
よろめいた二人に一足飛びに肉薄して、寸分の躊躇いもなく、処刑台の下に突き落とす。
突き落とされて空中を泳ぐその瞬間、二人の表情を鮮やかに彩った恐怖の表情が、さあっと俺の腹の底を冷やした。
――でも、俺にとっては、トゥイーディアが大事だ。
処刑台の下では、落下した二人に巻き込まれた衛兵たちが何事かを叫んでいる。
そっちはトゥイーディアとコリウス、延いてはカルディオスとアーバスが対処するだろうことは分かり切っている。
二人を処刑台の下に叩き落とすや否や、俺は身を翻して次の二人の衛兵に向かっていた。
彼らは、片や剣を構え、もう一人はリリタリス卿の手枷に繋がる鎖にしがみ付き、動揺と恐怖のありったけを詰め込んだような表情で俺を見ていた。
「――おまえ、誰だ、どうして――」
衛兵の一人が口走る。
「“どうして”?」
処刑台が、全力で踏み込む俺の足の下で軋む。
俺は走るというより飛ぶようにしてその衛兵の目の前まで距離を詰めて、
「――んなもん、この人が無実だからに決まってるだろうが」
そのまま、振り抜かれようとする剣の刃を、一時的にその周囲の空気を圧縮することで止めて、
「だから、邪魔だ」
彼の顎の下を、抉り込むように殴り飛ばした。
――顎は人体の急所のひとつだ。
殴られて仰け反り、宙を飛ぶ衛兵が、冗談抜きに白目を剥くのが俺には見えていた。
吹っ飛ぶその衛兵の腹部を、駄目押しのように俺は蹴り飛ばした。
救世主としてはあるまじき行為だが、今だけは自分にそれを許した。
蹴り飛ばされ、なお勢いのついた衛兵が、身体をくの字に折り曲げて宙を飛ぶ。
ギロチン装置の――罪人の身体を固定するための――高さ一フィートほどの台を越えた彼が、狙い違わず死刑執行人にぶつかった。
死刑執行人は、咄嗟に斧を手放した。
何かの拍子に衛兵を突き刺してしまうことを恐れたからだろうが、まともにぶつかってきた彼を腹で受け止めることになった執行人もまた、踏ん張り切れずに後ろへよろめき、その場に倒れ込む。
二人分の体重を受け止めた処刑台が揺れるような衝撃があった。
仰向けに倒れた執行人は、仰々しい装束の裾をばたばたさせて立ち上がろうとしているようだったが、重石となった衛兵が完全に気を失っているために、すぐには立てないままでいる。
元より死刑執行人は、役人だ。
昔は実際に罪人の首に剣を落としていたから、剣の腕が立つ人も多かったが、今は違う。
今ではただの、ロープを切るだけの人だ。武官ではない。
元よりギロチン装置というものは、処刑人の腕前によっては長く苦しまなければならなくなる罪人を憐れむ気持ちから発明されたものだったはずだ。
執行人が手ずから罪人の頭を落とすような重罪など、昨今においてはそうそう無い。
「寝てて」
宣告して、俺は指を振った。
途端、ごんっ! と音を立て、執行人の頭の上に拳大の氷塊が落ちた。
――アナベルの真似事だ。
彼女ほど上手くはないが、人一人の意識を刈り取る程度ならば十分だ。
視線を翻す。
最後の一人となった衛兵は、リリタリス卿を盾にすればこの状況を乗り切れるのではないかと思ったらしく、もはや彼の陰に隠れんばかりだった。
俺は思わず眉を顰めたが、リリタリス卿は自分のその状況すら見ていなかった。
むしろ、俺がこの処刑台の上に降ってきたことすら、彼が知覚しているか危うかった。
――それほど熱心に、ひたむきに、彼はトゥイーディアを見ている。
とはいえ、彼を人質に取られてしまえば俺たちは動けない。
むしろ、なんで今この瞬間まで、衛兵側がその手段を採っていないのか謎だ。
手を出しあぐねて、俺が一瞬動きを止める――そのとき、ばきんっ! と、異質な大音響が耳を打った。
「――は?」
がくん、と足許が傾く。
胃の腑が持ち上がるかのような感覚――まるで支えを失ったかのように――
――違う。
実際に、支えを失ったのだ。
コリウスかトゥイーディアか、どっちかの仕業だろうが――この処刑台を支える支柱を一本――事によるともっとたくさん――叩き折りやがった。
ぐぅらり、と足許が揺れる。
まるで階段から突き落とされたかのような衝撃と共に、がたん、と足許が落ちる感覚――
――処刑台の下でも悲鳴が上がった。
危ない、と叫ぶ声と、リリタリス卿の転落を待ちかねて喝采する声が聞こえてくる。
ばきばきっ! と、連続した音が更に上がった。
木組みのどこかが壊れたのだろうが、じっくり考えていられる場合でもない。
咄嗟に踏ん張った俺とは違い、意識のないまま伸びていた衛兵二人と執行人が、傾いた処刑台の傾斜に従って、ずるり、と身体を滑らせる。
そして、リリタリス卿の手枷の鎖を掴んでいた衛兵もまた、俺に全神経を集中していたせいだろう、足場の異変によろめいた。
――さあっと背筋が冷えた。
彼が鎖を掴んだまま処刑台から転げ落ちようものなら、リリタリス卿も道連れになってしまう。
「――う、あ、あ」
変な声を出してその場に踏ん張ろうとする衛兵と、処刑台が傾くに至ってようやく、己の足許に目を向けたリリタリス卿――
――二人目掛けて、俺が飛び付いた。
同瞬、リリタリス卿の手枷に繋がる鎖――その、衛兵が握っているまさにその場所が、熱せられて真っ赤に光った。
悲鳴を上げて衛兵が鎖から手を離す――その掌の皮膚と肉が幾許か、白熱の鎖に張り付いて引き千切れたのが見えた。
悪いとは思うが、それだけだ。
鎖が波打つように揺れる。
妙にゆっくりとそれが見える。
鋼色に重々しく陽光を弾いて、じゃらっ、と鳴ってうねる。
その重みがリリタリス卿を引き摺ることを恐れて、俺は鎖の半ばを焼き切った。
赤熱して、千切れるというよりは溶けるように断絶する鎖。
処刑台に叩き付けられた鎖が、弾けるような音を立てて板木を浅く抉る。
その音を合図に、俺の体感時間が正常に戻った。
リリタリス卿と衛兵の間に割り込むように飛び込んで、衛兵を蹴り落とす。
歯を食いしばり、俺自身の身体でリリタリス卿の落下に歯止めを掛けようとする。
全体重を傾斜の上方に傾けて、膝を撓めて衝撃を殺す。
処刑台の傾斜が思ったよりも険しくひやりとしたが、驚いたことにリリタリス卿は、瞬間的に体勢を崩したようではあったものの、すぐさま自分自身で身体の均衡を保った。
手首に相当の重さの枷を着けられていることを思えば、驚異的な平衡感覚だった。
ぴた、と、自分とリリタリス卿の身体が安定を取り戻したことを確信してから、俺は大きく息を吐いて、手の甲で額を拭った。
「び――びっくりした……」
思わず述懐。
ってか、怖くてここから動けない。
一歩でも動こうものなら、均衡を崩した処刑台が崩れそうだ。
俺一人なら、ここから転落しても別にいいけど、リリタリス卿を落っことすわけにはいかない。
――そんなことを考えていること数秒。
馴染んだ魔力の気配が、するすると纏い付くように処刑台を包み込むのが分かった。
ディセントラだ。
俺たちが万が一にも落ちないよう、得意分野の魔法でこの処刑台の状態を〈止め〉てくれたのだ。
またも大きく息を吐き、俺は、一時的に肩を貸すような格好になり、今は一人でしゃんと立っている、リリタリス卿――トゥイーディアのお父さんを振り返った。
――間近で顔を見るのは初めてだ。
やっぱり、トゥイーディアとは全然似ていない。
温和そうな顔立ちで、目尻に微かに皺がある。
見るからに不健康そうに頬が削げていて、彼の投獄生活が、決して厚遇されたものではないことを物語っていた。
しかし、粗末な囚人服を着ていてなお、一切の矜持を損なっていないかのようにそこに立っている。
その青みを帯びた緑の目に、俺の顔が映っていた。
俺は生真面目な顔でリリタリス卿と目を合わせていた。
リリタリス卿は目を丸くしてはいたが、驚いているというよりもむしろ、感嘆しているような目の色だった。
――まずは何と言えばいいのか、自分の立場を明言するべきなのか、それとも彼を労わるべきなのか、言葉に迷って俺は息を吸う。
好きな人のお父さんだし、緊張もしている。
その緊張は一切俺の顔には出ないけれど、変な奴だとは思われたくない。
息を吸い込み、俺は外套を肩から外して脱いだ。
口を開いたが、やっぱり言葉が出なかった。
そんな俺をじっと見てから、リリタリス卿は、この場にはいっそ不似合いであるほどに泰然とした声で呟いた。
――本当に、この状況には似つかわしくない声音であり、口調だった――今まさに、広場ではリリタリス卿の無事を喜ぶ喝采と、彼が転落しなかったことを惜しむ落胆の声が、雷鳴のように轟いているのだ。
「――驚いたな。あなたはディアの友人かな」
口火を切らせてしまった、でもこれで普通に喋れるか、と思う自分がいる一方、出来れば友人じゃなくて、もうちょっと方向性の違う存在になりたいんですけど、と、こんな場合であっても考えてしまう自分がいる。
俺は曖昧に唸ってから、彼の手首を戒める枷を一瞥した。
――俺には外せない。
造りがややこし過ぎるし、頑丈過ぎる。
得意分野の魔法で溶かしてしまうことなら出来るけれど、それをやってしまえば、リリタリス卿の手首も灰になってしまう。
安全にこれを外すとなれば、やっぱりコリウスが適任だ。あるいはアナベルか。
ここまでで上がった息を整えながら、俺はリリタリス卿に応じた。
「――彼女と同じ救世主です。
ルドベキアといいます」
声高に宣言するわけにはいかず、抑えた声での名乗りとなったが、広場の喧騒があってなお、リリタリス卿にはしっかり届いた。
リリタリス卿は今度こそ驚きを籠めて目を瞠って、「これはこれは」と呟く。
俺はてっきり、救世主に対する挨拶が続くのかと思ったが、彼が口に出した言葉は、俺の予想の遥か斜め上をいっていた。
「娘は迷惑を掛けていないだろうか」
俺は思わず笑ってしまった。
この状況で、自分の命が懸かっているこの状況で、なんでこの人はこんなことを言うんだろう。
「そうですね――」
言いながら、俺は両手に持っていた自分の外套を、リリタリス卿の肩に掛けた。
――彼が、囚人服を着ていていい人ではないことは明らかだった。
俺の外套は、確かに汚れていたり破れていたりはするものの、それでも俺が身長に恵まれていることがあって、リリタリス卿の寸法と比べても、大きな違和感はなかった。
「――話に聞くあなたに似て猪突猛進で、いい迷惑です」
ほんと、前世まではトゥイーディアも、もうちょっと色々と立ち止まって考えてくれたんだけど。
半ばは本心からのその言葉に、リリタリス卿が苦笑した――肩を屈めて俺の外套を受けて、礼を言うように会釈した――
――そのとき。
「お父さま!!」
遂に、トゥイーディアがこの処刑台へ辿り着いた。
◆◆◆
処刑台の下には、なお混沌とした光景が広がっていたが、そこから身を捩って抜け出すようにして、トゥイーディアが傾いた処刑台に片手を掛け、膝で攀じ登り、よろめきながら立ち上がっていた。
処刑台のささくれに、彼女の掌が擦り剥けたのが見えた。
だが、トゥイーディアはそんなことに頓着しない。
一秒すらも間を置かず、ひたむきなまでに懸命に、俺たちまでの短い距離を走って来る。
上ばっかり見ているせいで、傾斜にふらつくトゥイーディア。
俺は出来れば、トゥイーディアに駆け寄って彼女を引っ張り上げたかったが、そんなことが出来るはずもない。
俺に出来たのは、冷淡な瞳で彼女を見守ることだけだった。
息を荒らがせ、髪は解れ、騎士装束にも肌にも、点々と返り血が飛んでいる。
彼女が右手に握る細剣の刃も血に濡れていて、しかしなお鋭利に陽光を弾く。
そんなトゥイーディアが、一心不乱に、まっしぐらにこちらを目指して走って来た。
「お父さま――お父さま」
繰り返し繰り返しそう呼んで、トゥイーディアの飴色の目がお父さんを見た。
朝の陽光がその瞳に映り込んで、まるで黄色い鼈甲のように見えた。
白い頬と額が陽光に映える。
解れた髪の影が頬に掛かる。
大きな双眸が彼女のお父さんを見て、トゥイーディアはとうとう、耐えかねたように表情を歪めた。
――その瞳が、突然に溶け出したかのようだった。
透明な涙がいくつもいくつも、ぼろぼろと頬を滑っていく。
睫毛を濡らした雫が震える。
それはトゥイーディアが震えているからだった。
トゥイーディアは、泣かない。
つらいときも悲しいときも、彼女は絶対に落涙しない。
彼女が泣くとすれば、涙を見せるとすれば、それは嬉しいときや、感極まったときだ。
――トゥイーディアが泣いている。
それだけで、俺の心臓がぎゅうっと締め付けられた。
泣きじゃくりながら、トゥイーディアがお父さんに飛び付いた。
感極まって我を忘れたように見えても、手にした細剣がお父さんを傷つけないよう注意を払ったことは分かった。
手枷が嵌められたままのリリタリス卿が、トゥイーディアの勢いに押されて、さすがによろめいて蹈鞴を踏む。
足場の傾斜もあって、俺は彼が転落するのではないかとひやりとしたが、幸いにもリリタリス卿はすぐに平衡を取り戻した。
ぶつかるように飛び付かれても、一向に怒る様子もなく、リリタリス卿はのんびりと呟いた。
「――元気だね」
「はい――はい」
頷いて顔を上げ、リリタリス卿から一歩離れて、トゥイーディアは左手でごしごしと顔を擦った。
そのせいで、頬に薄く黒い汚れがついた。
そして、トゥイーディアがお父さんを見上げる。
陽光を眩しく感じているかのように目を細めて、次から次へ涙を零れさせながら、唇を震わせる。
何を言おうか迷うように、あるいは言いたい言葉があり過ぎて、どれから吐き出したものかと迷うように、数度唇を開け閉めしてから、トゥイーディアは小さな声で囁いた。
「……お久しぶりです、お父さま」
トゥイーディアの声は、ともすれば喧騒に紛れてしまいそうなものだったが、リリタリス卿には寸分違わず届いたようだった。
「うん」
衒いなく頷いて――本当に、もっとトゥイーディアを歓迎してやれよ、と、俺が要らぬ気を揉んだほどだった――、リリタリス卿も目を細めた。
「元気なようで良かった。
私はきみからの手紙を、何通読み逃したのかな?」
トゥイーディアがしゃくり上げた。
そうしながら、戦慄くような声を絞り出す。
「……分かりません……」
リリタリス卿は首を傾げた。
唇が微かに綻んだ。
「その髪飾り、懐かしいね」
「お借りして来ました」
息を吸い込んで、トゥイーディアはお父さんの目を真っ直ぐに見上げた。
そのときばかりは、お父さんに再会した喜びや安堵よりも、緊張が強いように見えた。
「――これで、少しはお母さまに似て見えますか」
リリタリス卿は眉を寄せ、それから僅かに目を見開いた。
「おかしなことを言う」
小さく微笑んで、リリタリス卿はゆったりとした口調で断言した。
「きみは元より、シンシアにそっくりだ」
――トゥイーディアが左手で顔を押さえた。
肩が震えた。
嗚咽が漏れた。
リリタリス卿は、そんなトゥイーディアを持て余すかのようにじっと見てから、視線を空の向こうの方へ向けた。
目の前で娘が泣き出したときの対処の方法を、どうやら彼は知らないらしかった。
だが、そうしながらも、リリタリス卿は小さく呟いた。
喧騒の中にあってさえ、輪郭のはっきりとした言葉だった。
「……シンシアもきみも、本当に可愛らしい」
――俺ですら胸が詰まった。
リリタリス卿の声に詰まった膨大な愛情は、親子の情など一向に理解できない俺にすら、突き付けられるように鮮やかだった。
二人を見ていることすら差し出がましく思えて、俺は目を逸らした。
そしてその先に、今しも処刑台の上へ登って来た、コリウスを見付けて息を吸い込んだ。
コリウスは相変わらず、鉄面皮のような無表情でこちらへ歩を進めている。
処刑台の下の阿鼻叫喚など、歯牙にも掛けていないような冷ややかな表情だった。
だが、その濃紫の目が、リリタリス卿とトゥイーディアを見て、僅かに緩んだように細められた。
「――コリウス」
俺は思わず声を出して、リリタリス卿の手枷を指で示した。
「頼めるか。俺がやると大火傷だ」
コリウスの目が一瞬俺を見て、それからすっとリリタリス卿の手首へ動いた。
足早に彼との距離を詰めて、コリウスは極めて礼儀正しく、軽く膝を折って頭を下げる。
銀色の髪がさらりと揺れて陽光を弾いた。
「――失礼」
そして、静かな手付きでリリタリス卿の手枷に触れた。
――ばきんっ! と壮絶な音がして、手枷が見事に二つに割れて落ち、その場で砕け散った。
半ばが残っていた鎖が、ばんっ! と爆ぜるような音を立てて処刑台を叩くように落ちた。
紫色に鬱血したリリタリス卿の手首が露わになって、トゥイーディアが息を呑む。
怖々と患部に手を伸ばす彼女は、まるで小さな女の子が、重篤な怪我をした父親に動揺するかのよう。
「――お父さま、痛みは――」
言い差したトゥイーディアには答えずに、リリタリス卿が自由になった手首を確かめるように、腕をゆっくりと上げ下げした。
指を伸ばして、拳を作って、それからまた指を開く。
それから、コリウスに向かってひどく丁寧に頭を下げた。
それに対して、コリウスはおざなりに手を振った。
リリタリス卿は小さく微笑んで、心配と憂慮の色をいっぱいに浮かべるトゥイーディアの頬を、自由になったばかりの右手の指先で撫でた。
その動きは、まだやはり強張っていて、しかし繊細な愛情に満ちていた。
トゥイーディアが言葉を引いて、息を呑んだ。
また、ぼろ、と大粒の涙が転がり落ちた。
その涙を指先で拭って、リリタリス卿は少し屈んで、トゥイーディアの額に唇を落とした。
トゥイーディアが目を見開く。
それを、少しばかり照れたような目の色で見て、リリタリス卿はゆるやかな口調で囁いた。
「――これは、私を救いに来てくれた救世主さまへの感謝と、無鉄砲な娘への挨拶だ」
トゥイーディアが頷いた。
何度も何度も頷いて、その仕草の度に涙が落ちる。
そして、ぎゅう、とリリタリス卿に抱き着いた。
彼の体温を確かめるように額を肩に押し当てて、「お父さま」と呟く。
確かめるように、噛み締めるように、何度も何度も。
呼ばれる度にリリタリス卿が頷いてやるものだから、トゥイーディアもようやく、ここにちゃんとお父さんがいるのだと呑み込んだようだった。
ちょっとだけ恥ずかしそうに、すん、と鼻を啜って、お父さんにくっ付いたまま、トゥイーディアが俺とコリウスの方を向いた。
涙に濡れた飴色の瞳が、含羞の色と怪訝の色を湛えて俺を見る。
そして、小さく首が傾げられた。
「――外套……きみが?」
俺は素っ気なく頷いた。
トゥイーディアは瞬きして、おずおずと微笑んだ。
それが、本当に嬉しそうな――雨の後に差す陽射しのような微笑だったので、俺は彼女に百万回目の恋をした。
「――ありがと」
短く、柔らかく、歌うようにそう言って、トゥイーディアは視線を翻してコリウスを見た。
そうしながら、ようやく我に返ったように、お父さんから一歩離れる。
すると今度は逆に、お父さんの方がトゥイーディアを追い掛けるように手を伸ばして、彼女の小さな頭を撫で始めた。
嬉しそうに目を細めてお父さんの掌を受け容れながらコリウスを見る、トゥイーディアのその眼差しに、膨大な感謝が滲んでいた。
それを見たコリウスはぎゅっと眉を寄せて、先手を打つかのように、「トゥイーディア」と呼ばわる。
「礼を言うならまだ早いよ」
トゥイーディアは、吐き出そうとした言葉を引っ込めるかのように息を吸い込んで、それから、「そっか」と呟いた。
そして、やや冗談めかして呟く。
「――あんな風にルドベキアをここまで連れて来られるなら、私を運んでくれれば良かったのに」
確かに、と俺は思わず考えたが、コリウスは鼻を鳴らして一笑に付した。
「飛び込んできたルドベキアならともかく、ああまで乱闘になっているおまえを拾えるものか。
――だから後ろにいろと言ったのに、まったく」
口調は冷ややかなようでいて、最後の一言に、コリウスらしいぶっきらぼうな愛情が滲んでいた。
〈呪い荒原〉の傍で、俺に向かって、「おまえは魔王じゃない」と断言してくれたときと同じ、こいつらしい優しい声だった。
――それはそれとして、コリウス。
俺たちがこの広場に到着するまでの間に、トゥイーディアに対して後ろにいるよう助言していたのか。
機を見ろという意味だったのかも知れないが、それで頷くトゥイーディアではないだろうに。
――リリタリス卿に似て、猪突猛進を得意とするトゥイーディアが。
今生において、トゥイーディアは散々俺たちを振り回してくれたが、それはどうやらリリタリス卿の血筋のゆえらしい。
リリタリス卿は、俺たちの話を聞いているのかいないのか、ぼんやりとトゥイーディアの蜂蜜色の髪を撫でていたが、そのときふと視線を処刑台の下へ向けた。
「――アーバスがいるのかな?」
トゥイーディアが頷いた。
「はい」
リリタリス卿は瞬きした。
驚いたにせよ納得したにせよ、彼の表情は特段変わらなかった。
そんなリリタリス卿を遠慮がちに一瞥してから、コリウスがトゥイーディアに向かって言った。
「――父君をこの場から離脱させるのが最優先だが……」
トゥイーディアがコリウスを見て、首を傾げた。
「コリウス、お願い出来る? お父さまだけなら、すっごく速く運べるでしょ?」
「可能か不可能かを言うならば可能だが、するべきではない」
コリウスが即答して、周囲を見渡した。
「……あいつがもしも――」
俺とトゥイーディアが同時に息を呑んだ。
俺と彼女の挙動が重なるのはごくごく稀なことなので、常ならばそれだけでどきどきするものだが、さすがに今はそんな場合ではない。
――そうだ、ヘリアンサスだ。
ここまで策を弄して、全ての道理を排してまで、リリタリス卿をこの処刑台の上に立たせたヘリアンサス。
周到に準備したこの舞台が壊されたことに対して、あいつは憤るだろうか。
憤るとすれば、どうするだろう――俺たちを殺しに来るだろうか。
それともリリタリス卿を手に掛けようとするだろうか。
もしもヘリアンサスが後者の行動を取るとすれば、コリウス一人がリリタリス卿を連れてこの場を離脱するのは論外だ。
コリウス一人では、絶対にリリタリス卿をあいつから守り切れない。
トゥイーディアは深呼吸して表情を切り替え、コリウスを見て伺うように。
「――もう一回、私をここに連れて来たみたいに、お父さまをどこかに連れて行ける?」
コリウスが、はっきりと顔を顰めた。
嫌がったというよりは、自分に苛立ったように見えた。
「無理だ、さすがに――それに、仮に可能だったとして、あいつが僕を見逃すと思うか?」
「思わない」
俺が口を挟んで答えて、リリタリス卿をちらりと窺った。
彼は、恐らく俺たちの話の内容など欠片も分かっていなかっただろうが、いちいち尋ねて議論を止めることはせず、広場の喧騒をじっと見詰めているばかりだった。
「じゃあ――」
トゥイーディアが、細剣を握り直して眉を寄せた。
「私かルドベキアを一緒に連れて、出来るだけ早くこの場を離れられる?」
ヘリアンサス相手に、一秒ではあれ永らえる可能性があるのは、確かに俺かトゥイーディアだ。
だが、コリウスは、躊躇うようにリリタリス卿を見た。
「――あいつの目的が明確に分からない以上、予測がつかない……出来れば僕たちは離れるべきではない――」
トゥイーディアが、ちょっとだけ顔を顰め、処刑台の下の阿鼻叫喚を眺め遣った。
風が吹いて蜂蜜色の髪が靡いた。
そして彼女は、彼女らしい即断即決ぶりを発揮して頷いた。
「――じゃあ、合流しに行きましょ」
衒いもなくそう言い放って、トゥイーディアはお父さんに向き直った。
そして、しゃん、と清かな音を鳴らして右手の細剣を鞘に収めると、もう一方の細剣を鞘ごと剣帯から外して、両手で捧げ持った。
――彼女がずっと遣っていなかった細剣。
その鞘の上で、陽光が大粒の滴のように煌めく。
リリタリス卿が、瞬きしてトゥイーディアに視線を戻し、それからその細剣を見下ろした。
緑青の瞳が僅かに瞠られて、刹那、彼は面喰らったようですらあった――
――処刑台の下で、立て続けに幾つもの悲鳴が上がった。
これまでとは種類の違う悲鳴だった。
「止めろ! 持たせるな!!」
トゥイーディアの挙動を見てこそ、衛兵たちが悲鳴を上げている。
「あの方に剣を持たせるな!」
――手枷から解放されたばかりの、痩せこけた初老の男性だ。
その男性一人に剣を持たせることを、衛兵たちが恐れた。
今なお語り継がれる英雄の、その伝説の亡霊が、衛兵全員の耳許で恐怖を囁いたかの如くに。
――その叫びすら聞こえていないと言わんばかりに、トゥイーディアが剣を差し出し、頭を下げてリリタリス卿と向かい合っている。
「――何卒お許し願いたい。此度、お父さまを煩わせたのは私の不徳の致すところ、私の因縁にお父さまを巻き込んだがゆえのこと――」
顔を上げて、トゥイーディアがリリタリス卿を真っ直ぐに見上げた。
リリタリス卿が僅かに逡巡している、それを押し切ろうとするように、トゥイーディアは清冽な声で迷いなく、言葉を続けて声にする。
「ゆえに、お父さまのお手は煩わせないつもりではございますが、」
断言して、しかし語尾は柔らかく、トゥイーディアが首を傾げて希う。
「――稽古をつけてくださいますか、お父さま」
リリタリス卿の頬が、微かな笑みに緩んだ。
そして、英雄オルトムント・リリタリスが剣を取った。




