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57*◆叱って、生きて

「私を叱ってください、お父さま!」


 頑是ない我侭を叫んだ私の声が届いて、お父さまが息を呑んだ。


 肩を、腕を、衛兵に押さえ付けられて、お父さまは今にも断頭台の上に膝を屈しそうに見える。



 ――そんな人ではなかった。そんな人では、決して。



 雪崩を打って、衛兵が私を目指している。

 鬨の声が早朝の空気を震わせて空を揺らす。


 衛兵は、私の左手と、それから断頭台を回り込んで正面から、人数ゆえの重々しい足音を幾重にも響かせて迫って来ている。



 何人いるのか、数えることを私はしない。

 そんな無駄なことは考えない。


 この場にいるのは私だけではない。



 ――どいて、と叫ぶあの人の声がする。

 コリウスに私が連れて来てもらったあと、塔を脱出して、あの人もこの場に来てくれているのだ。

 多分、カルディオスもディセントラも、それからきっとアナベルも。



 民衆は衛兵が振り翳す武器を見て悲鳴を上げ、逃げ惑い始めている――あるいはこの場の空気に酔って、何のつもりか私に向かって走る者もいる――



 肩に誰かがぶつかる。

 気にしていられない。


 走る。

 水溜まりを踏んだ。

 曙光を含んだ水滴がぱっと散る。

 サーコートの裾が濡れる。


 どうでもいい。



 ――お父さま。



 細剣を構えたまま、お父さまに教わった通りの姿勢で走る。


 正面から来る衛兵の一団に突っ込むような格好になっているけれど、仕方ない。

 だって私が断頭台を目指すには、こうやって走るのが一番距離が短いのだ。



 ――お父さま。



 断頭台の上で、愕然として立ち尽くしているお父さま。

 お痩せになられた。

 絶対にお召しになるべきではない服装をしていらっしゃる。


 それでもその目――フレイリー戦役の後のあの日、私が、大丈夫だと確信した、あの目。

 お父さまは生きていってくださるのだと確信するに足るものだった、あの目。



 あの目が私を見ている。



 私の剣はまだまだお父さまに比べれば下手くそで、修練で打ち合うときも、私はお父さまから一本たりとも取ったことはなかった。


 だがそれでも、叙勲されるに足る腕だ。

 お父さまが鍛えてくださった、教えてくださったものだ。



 私の左手からこちらへ向かっていた衛兵の一団――その先頭の数名が、唐突に武器を取り落とした。

 視界の端にそれが見えた。


 あるいはそれは、武器が彼らの手の中から飛び出そうとしたかのようにも見える。


 事実、突然手の中で暴れ出した剣や槍を掴み直した結果、地面に叩き付けられて引き摺られる人が複数あった。


 衛兵の中で、わっと喚声が上がった。

 魔法だ、と叫ぶ声に、有り得ない、と叫ぶ声が重なる。



 ――私は思わず、ふっと笑った。



 有り得ない、というのは合っている。

 一人から武器を取り上げるならばともかく、複数人から――しかも、突進の最中の複数人から――武器を取り上げる魔法など、精緻すぎて普通は不可能だ。


 普通は。


 ――〈動かすこと〉の魔法において、尋常ではない才能と技量を持つ人を、私たちは知っている。

 その人でしか有り得ない。


 その人が、今、全身全霊を持って私を助けてくれているのだ。

 彼だって、ああまで精密な魔法を使うのは楽ではないだろうに。



 武器を取り落とした衛兵たちの反応は二つに分かれた。

 徒手となってなお私に向かって突進する者と、取り落とした武器を拾おうとする者と。



 どちらにせよ、気にしなくていい。

 コリウスがいる。


 コリウスが、私への手出しを許すはずがない。



 その考えを裏付けるかのように、左手から突進してきた衛兵の一団が、突如見えない壁にぶつかったかのように蹈鞴を踏んで立ち止まった。

 罵声が上がり混乱の声が上がる。


 視界の端に、見慣れた銀の髪が映る。

 面倒そうでさえある仕草で指を振って、コリウスが、衛兵の動きを留めてくれている。


「――ありがと」


 彼には届かないだろう声で囁くと同時、私は正面から向かって来た衛兵の一団の、その只中に突っ込んでいた。



 上段から振り下ろされる剣を躱す。

 躱しながら身を伏せて、二、三人に纏めて足払いを掛け、よろめいた彼らを、身を屈めた姿勢からの当身で後方へ突き飛ばす。


 左手を振って、目の高さで火花を爆発させる。

 手首を留める細紐に通された小さな世双珠が、陽光を捉えて煌めきながら宙を泳いだ。


 熱と光に怯んだ衛兵たちが、口々に何かを叫びながら後退る。


 ――それを追うように地面を蹴って、一人の衛兵の肩を捉える。

 そこに手を掛けて跳び上がって、彼の顔面に膝を入れた。


 げぶ、と珍妙な声を上げて、衛兵が目を回してその場に倒れる――それを待たずに体勢を整えて着地して、四方八方から突き出される白刃を、右手の細剣で薙ぐように払う。


 ぎゃいん、と、金属同士が擦れ合う音が耳を劈き、そこに生じた火花を私の魔力が捉えた。


 ぼんっ、と、間抜けなまでにお手本通りの爆音を立てて、増大した火花が火の粉を上げて爆発する。

 顔面を焼かれた衛兵が五、六人、顔を押さえ、悶絶しながら地面に転がる。


 ――気の毒だとは思うけれど、命までは取っていない。許してほしい。


 そう思いながらも、私は黒煙を細剣の刃で払うようにして、更に数歩を飛び込んで、身体を捻る。


 衛兵の目が、悉く私の右手の細剣を見ているのが分かる――だからこそ。


 サーコートが翻り、私は容赦なく、左脚で目の前にいた衛兵の鳩尾を蹴り上げた。


 ――軍服が甲冑から離れて久しい。

 帷子さえも仕込んでいなかったらしい彼は、がっ、と声を零し、白目を剥いてその場に()()と倒れた。


 直後、目の前に振り下ろされてきた長剣を、私は咄嗟に細剣で受けた。

 ぎん! と甲高い音がして、刀身の根元付近で受けた長剣が、上からの体勢の有利を生かして、ぐぐ、と押し込まれてくる。


 衛兵一人を蹴り飛ばしたあと、体勢を整え切れなかった私はその場に膝を突いて――


 ぎりぎりと刀身が唸る。

 筋力において、私は訓練を受けた大抵の男性に劣る。


 ゆえに、受け流し損ねた真上からの剣戟の勢いに、手首が震えた。

 二の腕がかっと熱くなって――



 目を上げる。

 私に向かって長剣を届かせんとする、名前も知らない衛兵の顔を見た。


 そしてその目の中に映る、私自身の顔を見た。



 ――救世主からは程遠い、好戦的なまでの表情をした、トゥイーディア・シンシア・リリタリス。



 衛兵たちが私の背中に向かって得物を振り下ろそうとしているのが、音というよりも気配で分かった。


 私の動きが止まったその隙を突こうとする、一瞬の何分の一かというその刹那――


「――舐めるなっ!!」


 叫んで身体を捩る。


 ぱっと白い光の鱗片が散って、私を突き刺すはずだった剣の切先が音もなく消滅した。


 それでも振り下ろされる勢いは止まらなかったが、それでいい。

 刀身の長さの不足から、振り下ろされた剣の、半ばが消失した白刃は敷石を噛んでぎゃりりと欠けた。



 ――私の固有の力。

 物を内側から自壊させる能力。

 狙いが逸れて人に当たれば、容易くその命を奪うに足る魔法。


 それが分かっていてなお、私は止まらなかった。



 通常有り得ない――絶対法に反する魔法を目の当たりにして、私の細剣に長剣を振り下ろしていた衛兵が、目を見開いて腕から力を抜いた。


 その瞬間、私は真下から撫で上げるように――長剣の下から細剣を抜き払うように――刃を跳ね上げていた。

 ぎゃいん、と耳障りな音が耳許で奏でられると同時、間一髪で仰け反った衛兵の頬から血が飛ぶ。



 鮮血の色。

 真っ赤な滴が宙を飛んで、罪の印をつけるように私の頬と胸元に掛かった。


 生温かい命の温度。



 軽く痺れた右手で細剣の柄を握り直し、ひゅん、とそれを振って、私は大音声に叫んでいた。



「――私はトゥイーディア・シンシア・リリタリス!! この国一番の剣士から、直々に剣の手解きを受けた騎士だ! ――死にたい者から前に出ろ!!」



 救世主らしさなど欠片もないその口上に、衛兵が更に数人、殆ど自棄になったかのように斬り掛かってくる。


 躊躇いなくそれを斬り捨てようとした私の目の前で、唐突に生成された拳大の白い氷塊が、ごつん、とその脳天に落ちて砕け散った。

 頭部への衝撃に意識を失う衛兵――あるいは目を回して、その場に膝を突く者――



 ――アナベルだ。



 どうやら本気で、アナベルは私が人殺しをしないかと案じているらしい。

 まあ、今のは私も相手を殺す気だったから、彼女が正しいと言えるわけだけれど――



 相手を無力化できたのなら、手段はどうでもいい。



 正面に向き直り、同時に打ち掛かってくる二人の衛兵を視界に収める。

 一人は下から、もう一人は上から、私に向かって刃を斬り下ろそうとしている。



 ――お父さまのご覧になっている前で、一太刀たりとも貰うものか。



 咄嗟に右側に大きく跳んで、二人の真横に当たる位置に飛び込む。

 細剣を振り上げ、二人の剣を纏めて、真上から叩き伏せるように打つ。


 ――膂力で私が衛兵二人に敵うわけもない。

 だが、その瞬間に〈重さ〉に関する世界の(のり)を書き換えた私の剣が、鋼鉄の塊の如くに二人の剣の上に圧し掛かり、ぱきん、とあえかな音と共に、その刀身を二本まとめて叩き折った。


 からん、と敷石の上に落ちた剣の切先が跳ねて、私は左手の一振りでそれを消滅させる。

 剣を失った衛兵が、よろよろと数歩後退る。



 断頭台の上を見上げる。


 距離はあと二十ヤードほどか。

 広場が無駄に広いのに腹が立つ。



 ――お父さま。



 断頭台の上で、お父さまもまた私を見ていた。



 青みを帯びた緑の目で、私が衛兵を相手取るのを見て――



 私がそちらを見上げたのが、まるで幼い日、修練の度にお父さまを見上げ、講評を求めたあの日と同じ意図であるのだと言わんばかりに――



「――トゥイーディアや、そんな……」


 お父さまが、何かを言おうとした。

 私の頭に、()()と血が昇った。



 ――違う、違う。


 お父さまは、――違う。



「お父さまは――、」



 食いしばった歯の間から声を上げる。

 歯を食いしばったのは、また一人衛兵と斬り結んだからだ。


 がっしりとした身体つきの衛兵が、全体重を掛けて私の剣を折ろうとするが、――()()()()



 ――この国一番の剣士から剣技を教わった私から剣を奪おうとするならば、そんなものでは足りない。

 命を奪おうとするならばもっと足りない。



 重さばかりのその剣を受け流して、返す刀で彼の利き腕をざっくりと裂く。

 肉を断つ剣先の感触が、柄を通して掌に伝わる。


 血がしぶく――またも重ねた罪が、真っ赤な滴になって私の長軍靴を染め上げるのを見ながらも、私は叫んだ。



「――私を叱るとき、そんな風には私をお呼びにならない!!」



 お父さまが大きく目を見開いた。



 ――やっと、ようやく、私がこうまでしてここにいる意味を、お父さまがお考えになったのだ。


 アーヴァンフェルンからレイヴァスまで私が戻っていることが、今こうしてお父さまの目の前にいることが、単なる私の義務感や気紛れではないと、ようやっとお父さまが確信なさった。



 その瞳に、頬に、私のよく知る表情が戻った。


 お父さまが息を吸い込むのが分かった。


 真っ青なら空から、お父さまが呼吸を得た。



「――ディア!!」



 本当に久し振りに、お父さまが私をそう呼んだ。



 ――涙が目を刺したが、さすがに今泣き出してしまっては、私はあっと言う間に串刺しにされるだろう。


 唇を噛んで涙を堪えて、またもどこかからか突き出される剣を受けて、乱暴にそれを払って、私は応じた。


「はいっ!」


「力み過ぎだ。――勝ちを焦って前のめりになるのは駄目だと、何度も何度も言っただろう!」


 私は息を吸い込んだ。

 その息に涙の匂いがした。



 ――大丈夫だ。大丈夫だ。


 お父さまは、生きていってくださる。



「だったら――」



 声が震える。

 お父さまに届くか危ういくらいの声しか出ない。


 胸がいっぱいで、心臓がぎゅっと掴まれているよう。



 ――でも、お父さまは聞いていてくださる。



「――また稽古をつけてください、お父さま!!」





◆*◆





「――お父さまは私を叱るとき、そんな風には私をお呼びにならない!!」



 トゥイーディアの声が轟いた瞬間、俺は偶然にも処刑台の上の彼女のお父さんを見ていた。


 トゥイーディアに殺到しようとする衛兵は刻一刻とその数を増やしていて、そんな衛兵の行く手を阻むのが、目下俺やカルディオスの役割となっていたが、最終的に処刑台を目指さねばならないのは変わらない。


 ゆえに距離を測るためだったが――



 俺は目を疑った。



 ――あれほど頼りなく、弱々しく見えていた男性が、大きく目を見開いたその一瞬後、唐突に、別人のように背筋を伸ばしたのだ。



 瞳の奥の色が変わった。

 表情が変わった。


 纏う雰囲気ががらりと変わった。



 その瞬間、彼は処刑台の上に()()()()()()()()()ではなくなった。


 そこに()()()()になった。



 彼の動きを戒めて、鎖に繋がる鉄の手枷が、単なる彼の付属物のように見えた。


 彼の肩を押さえ、腕を押さえ、その場にリリタリス卿を留めようとしている衛兵たちが、道化のようにさえ見え始めた。



 ――それほどの威厳。

 それほどの気迫。


 英雄オルトムント・リリタリスの。



「ディア!!」


 リリタリス卿が、トゥイーディアをそう呼んだ。



 ――俺たちは、救世主仲間は、トゥイーディアに対して愛称で呼び掛けるとき、「イーディ」と彼女を呼ぶ。

 それに対して、リリタリスの荘園の人々は、彼女を「ディアお嬢さま」と呼んでいた。

 トゥイーディアの従兄もそうだった。


 トゥイーディアの家族は、彼女を「ディア」と呼ぶのだ。



 ――遠目においてさえ、彼女の胸が詰まったのが分かった。


 しかしそれでも、トゥイーディアの手は揺らがない。

 迷いなく、自分の身体の一部であるかのように細剣を操って、またも一振りの剣を止めた。



 事ある毎に、強い強いと思ってはいたが、予想以上だ。

 俺たちのトゥイーディアは、今のお父さんの娘として生まれた今生において、今までとは桁が違う剣技を身に着けてしまっている。

 異例の早さで叙勲されるわけだ。



 ――だが、それでも、驚いたことにリリタリス卿は、トゥイーディアの戦いぶりに文句をつけた。

 案外彼は娘に厳しいのかも知れない。



 でも、そんなのどうでもいい。


 トゥイーディアが笑っていられるなら、今日を越えてトゥイーディアが安心していられるなら、俺は何だってする。



「だったら、――また稽古をつけてください、お父さま!!」


 僅かに涙ぐんでいることが分かるトゥイーディアの声が、清朗に俺の耳を打った。



 ――俺は息を吸い込んだ。



 トゥイーディアがそれを望むなら、彼女の他人の約束だろうが、俺には関係のないことだろうが、絶対に守らせてやる。



 そして今、俺の行動は、「無実の罪で裁かれようとしているオルトムント・リリタリスを救おうとしている」ものだとして、周囲に認識される。


 俺に課せられた代償は、致命的には働かない。



 目を上げて、俺は処刑台を見た。


 その上に聳える、不吉なギロチン装置を見た。

 執行人が、自分は何をどうすればいいのかと迷うように斧を上げ下げしている――そのすぐ傍の、刃を落とすためのロープを見た。



 ――視線を当てるだけでいい。

 この程度なら、仕草を合図に集中するまでもない。



 ぼッ、と、ロープの半ばに火が点いた。


 火の粉が舞って、一秒。


 執行人が絶句する中、刃を落とすためにぴんと張られていたロープが黒く焦げて燃え尽きた。



 張り詰めたロープによって空中に留められていた巨大な刃が、当然に支えを失った。

 しゃぁッ、と、不吉極まりない音がして、斜めに削がれた銀の刃が装置を滑り、ぎゃいん! と、装置の下を無為に噛む。


 そのまま俺は、腹いせに、鋼のその刃を溶かし尽くした。


「――なんだ!」


 真っ赤に輝いて溶けていくその刃に、処刑台の上の衛兵たちが動揺の声を上げる。


 リリタリス卿を放置して逃げ出すわけにもいかないが、有り得ない高熱が目の前で突如として発生したのは恐ろしいのだという、極めて人間らしい動揺だった。


 執行人もまた、何かを叫んで後ろへ飛び退いている。

 空気を伝って彼まで届いただろう熱から逃げるためだと思われた。



 処刑台の上で唯一リリタリス卿だけが、ギロチン装置に起こった異常事態に注意を払っていないようだった。



 ――彼は見ている。ただ一人を見ている。

 トゥイーディアが自分の許へ駆け寄ろうとしているのを、じっと見ている。



「ルド」


 俺からは少し離れたところにいるカルディオスが、数人の衛兵にまとめて炎弾をばら撒いて、後続を巻き込ませて後退らせながら、俺を見てにやっと笑った。

 そして親指を立てた。


 同じ仕草で俺も応えた。

 そうしてから、雨後の筍のように現れる、広場の端からトゥイーディアの方を目指そうとする衛兵たちの前に、赤々と炎上する一線を引いた。


 熱波が空気を撫でてここにまで届く。

 石が焼けて罅割れる音が微かに聞こえる。


 ごうごうと燃える炎が陽炎に光景を歪ませる。


 市民がまたも悲鳴を上げた。

 衛兵の中の魔術師が、どうやら対抗する魔法で炎を消そうとしたようだったが、有象無象の魔術師と一緒にしてもらっては困る。


 アナベルでもない限り、俺の炎に対処するのは無理だ。

 熱に関することでは、俺はこの世界で一番に優先される権能を持つのだ。



 ――広場はもはや阿鼻叫喚だった。


 トゥイーディアを目指して殺到しようとする衛兵が、俺たちに阻まれて罵声を上げる。

 俺たちと衛兵の戦闘から、市民が悲鳴を上げて逃げ惑う。

 そのまま広場を出て行ってくれれば話が早いが、彼らは彼らで、意地でもこの騒乱の結果を見届けるつもりらしい。

 悲鳴を上げてはいても広場からは出て行かず、むしろ騒ぎを聞きつけた市民が、まだなお次々と広場に向かって来ている状況。


 広場のどこかでアーバスの声がして、彼は彼で、衛兵の集団のどこかに斬り込んでいるらしかった。

 この広い空間において、さすがにどこにいるかまでは、すぐには分からないけれど。


「――殺せ! 殺せ!!」


衛兵(おまわり)を止めて――リリタリス卿をお助けしろ!!」


「反逆者の首を斬れ!!」


 耳を聾する叫び声が噴出している。



 俺たちはとにかく衛兵をトゥイーディアのところへ行かせまいとしていて、そうしながらもトゥイーディアの傍まで行こうとしている。


 コリウスが瞬間移動を使わないところを見るに、多分、この状況ではあいつはあれを使えないのだ。

 だがそれでも、次々に敷石が陥没していくような、重みのある音が立て続けに響いていた。

 それに伴って悲鳴も上がっている。


 視界に映るのは、衛兵の制服と見知らぬ彼らの顔、光る槍の穂先と剣の切先、敷石を踏み鳴らす軍靴の群れのみ。


 窒息しそうな人の群れが、混乱と狂気に駆け回る。



「――ああくそ、邪魔な……」


 業を煮やして呟いて、俺はカルディオスの傍に駆け寄りながら右手を振って、衛兵たちの前に引いた炎の一線を延長していく。


 蛇が身体を伸ばすように広がって、数ヤードの高さにまで炎を躍らせるその一線を、飛び込んで突破する度胸のある衛兵はいないようだった。


 ――助かった。

 マジで誰かが突っ込んで来たら、俺とて救世主、さすがにその人を焼き殺してしまう前に、火勢を弱めざるを得ない。



 鳥瞰して見れば、俺は広場の東側と中央を分断するように炎の一線を引いたように見えただろう。


 衛兵の多数をそれで足止めした上で、俺とカルディオスは並んで身を翻し、トゥイーディアを――というよりむしろ、大勢で彼女一人を止めようとしている衛兵の群れを――目指して敷石を蹴った。



 ――トゥイーディアが衛兵と斬り結びながら通った道は、足跡が残されているかのように明白だった。


 点々と倒れ伏す衛兵の姿が、明瞭に、彼女が辿った跡として残されていた。



 衛兵の全部を分断できたわけではないから、なお次々と目の前に衛兵が現れるが、それでもさっきまでよりはマシだ。


 異常事態の連発に、衛兵の方も目を回している。

 恐らく、市民の暴動は予想されていたのだろうが、まさか魔術師が乗り込んで来るとは思わなかったのだろう。



 衛兵を殴り飛ばし蹴り飛ばし、あるいは魔法で吹き飛ばしながら、カルディオスが、さすがに息の上がった様子で俺を振り返った。

 暗褐色の髪が、汗で額に張り付いている。


「――そういや、トリーとアナベルは!?」


「見てられると思うか!!」


 こちらはこちらで、向かって来た衛兵二人から剣を捥ぎ取って殴り倒している最中である。


 彼らを、鳩尾を殴った上に蹴り飛ばして、怒鳴るように俺がそう返した直後、今まで最大級の悲鳴が、俺たちの左手――すなわち、広場の西側で上がった。俺とカルディオスは咄嗟にそちらに視線を向け――



 ――ぱきぱきと音を立てて広範囲に亘って凍り付いていく、広場の様子を視界に収めた。



 透明な輝きを持つ氷が、急速に広がって敷石を氷漬けにしていく。

 真っ白な冷気がその上で漂って、すべすべした氷に足を取られた人たちが相次いで転倒していくのが見えた。



 俺は尤もらしく頷いて、そっちを指差した。


「うん、アナベルはあっちだ」


「俺でも分かるわ」


 カルディオスが食い気味にそう言って、翡翠の目で真っ直ぐにトゥイーディアがいるはずの方向を見た。



 広場は今や、東側を炎に、西側を氷に覆われて、中央部分のみが道のようになっていた。


 悲鳴も怒号も後を絶たないその中を、トゥイーディアがなお衛兵と斬り結んで進んでいる。



 俺たちもそちらへ走る。



 ――トゥイーディアは、騎士――すなわち、一代限りのものとはいえ、爵位を持つ貴族だ。

 彼女を殺めるようなことになれば、常ならばそれだけで重罪だ。


 だが今は、いくらでも言い訳が立つ状況。衛兵の側には大義名分がある――



 ゆえに、トゥイーディアに向かって振り下ろされる白刃には、明確な殺意があった。



 この状況になってさえ、市民の中にはリリタリス卿を、延いてはトゥイーディアを殺せと叫び続けている連中がいる。

 異常事態と相俟って、その声が衛兵たちの理性を根こそぎに刈り取っているのが見えるようだった。



 トゥイーディアが一人で何人を相手取ったのか、俺にはもう分からなかった。


 彼女が通った道に、点々と衛兵たちが倒れている。

 そんな連中を跳び越えて走りながらも、俺はその数を数えることをしなかった。


 敷石の上に、斑点のように血が散っているのが見えた――俺はその血が、トゥイーディアのものではないことを必死に祈った――



 トゥイーディアは目にも留まらぬ速さで細剣を振るい、踊るように衛兵たちを振り払っている。


 地面を踏むその足取りも、細剣の柄を握るその手も、俺と同じ人間であるとは思えなかった。

 無駄のない、まるで彼女のためだけに用意された舞台を踏むかのような、その姿。


 余りにしなやかに彼女が身体を動かすので、なんだか自分にも同じことが出来そうだと思ってしまいそうな――そして直後に、絶対に同じようには出来ないと悟ってしまうような――



 細剣が翻る。刀身が陽光を弾いて金に光る。

 蜂蜜色の髪が泳ぐ。髪飾りが煌めく。

 サーコートが靡く。



 血が飛んだ。

 カルディオスが息を引いたが、それはトゥイーディアの血ではなかった。


 彼女が斬り払った衛兵が、腕を押さえて地面を転がる。

 がらん、と、その手から零れた剣が敷石を叩く。


 一瞥もせず、トゥイーディアがその剣を消し去る。

 勢い余って、敷石の一部も消し飛んだ――



 三人の衛兵が、同時にトゥイーディアに打ち掛かった。


 状況判断としては妥当だったが、俺は迷わずその連中の背中を焼き払おうと指を上げ――



 ――どこからともなく、砲弾のように飛び込んできたアーバスが、トゥイーディアの背中を庇って立った。

 打ち合ったアーバスの剣と衛兵の剣の間で、ぎぃん! と耳障りな音が上がり火花が散る。



 本当に、彼がどこから来たのか俺には分からなかった。

 多分それは、俺がトゥイーディアばっかり見ていたせいだ。


 衛兵から分捕ったのだろう剣を手に、アーバスがトゥイーディアの背中側に立ち、彼女に何かを怒鳴る――



 カルディオスが、元より全力で走っていたものを、更にぐんと速度を上げた。


 考えるまでもない、見るまでもない、もはや数ヤードの距離に縮まった、トゥイーディアのためにカルディオスが走っている。



 そう理解すると同時に、俺の視線は意思に拠らずに動いていた。



 ――トゥイーディアに駆け寄って、トゥイーディアの援護こそをこなしたい、そう思うのは俺の恋心のゆえだ。


 だからこそ、俺に課せられた代償がその行動を削ぎ取った。

 この場で最も合理的な判断の方へ、強引に舵を切らされた。



 数ヤードの距離を、俺とカルディオスは幾秒と掛けずに猛然と走り切る。


 カルディオスが、トゥイーディアの背中を守るアーバスを追い越し、彼女の左側に飛び込んだ。


 同瞬、俺はトゥイーディアには目もくれず、その傍を駆け抜ける。

 風が肌にぶつかる。


 俺が切った空気を、トゥイーディアは感じたはずだ。



 ――トゥイーディアの飴色の目が、俺を追った気がした。



 敷石を蹴る。


 衛兵が、トゥイーディアを処刑台に進ませまいと立ち塞がり、十重二十重に彼女と処刑台の間の壁となっている衛兵が、一斉に俺に槍の穂先や剣の切先を向けた。


 ぎらぎらと輝く武器の先端が、白々と俺の目の前に並び――



 ――俺は息を吸い込んだ。


 ――こんなときに頼るべき相手の名前が、長年取ってきた行動が、何の違和感も躊躇もなく、俺の喉を震わせた。



 口が動いた。

 以前までのように。



「――コリウスっ!!」



 叫んだその瞬間、まるで剣や槍が突如として何倍も重くなったかのように――いや、事実そうなったのだろう――、得物を取り落とさんばかりによろめく衛兵たち。


 叫び声が上がった――腕が折れた者がいるのだ――だがそれに構っていられない。



 その、須臾に得た間隙を突いて、真上から俺の手首が掴まれていた。



 ――処刑台はもはや目の前、その短い距離を、ぐい、と上空に()()()()()()()状態で俺は越えた。


 爪先を衛兵の頭が掠める。

 目を丸くしてこちらを見上げる衛兵たちの顔は、どうしてだかどことなく幼く見えた――



 見るまでもない、コリウスが、文字通り飛んで来てくれたのだ。



 とはいえ、コリウスにも余裕はない。

 一般人を大勢相手取るのは、俺たちが最も不得手とする分野だ。


 風切り音を耳許で聞いた直後、どさ、と処刑台の上に放り出された俺が、コリウスがそれを狙ったのかそうではないのか、リリタリス卿を拘束する衛兵たちの間に突っ込んだ。



 処刑台を揺らすほどの衝撃と共に着地――膝を強かに打ってじんじんと痛みが拡がる。

 ついでに上半身は、衛兵の誰かが構えていた槍の柄に叩き付けられた格好だ。


 衛兵を巻き込んで、もんどり打って処刑台の上を転がる。


 ごんっ、と音がして、どうやらギロチン装置に衛兵が頭をぶつけたらしい。

 常であれば申し訳ないと思うところ、今の俺はざまあみろとしか思えなかった。


 ぎゃあ、と叫び声が上がる。



 同様に叫びたいのをぐっと堪えて、俺は跳ね起きると同時に怒鳴っていた。


「――トゥイーディアを連れて来い!!」


 どちらかと言えばリリタリス卿の内心を慮ったがゆえに、その言葉が声になった。



 俺に言われるまでもなかっただろう。


 コリウスが既に、空中を踏んで身を翻している。

 その姿を指して槍が投げられるのを、指を振るだけで遥か彼方に放り投げている。



 それを見る必要すら感じずに、俺は処刑台の上を見渡した。


 その一瞬未満を、俺は妙に長く感じ取った。




 ――ここが、この混沌渦巻く狂気の坩堝の最前線だ。

















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