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55◆ 返報ならざる信頼

 灯火の明かりは俺たちには届かない。


 ただトゥイーディアの足許のすぐ先に、まるで海が細波(さざなみ)を寄せるかのように、暖色の光が鉄格子の影を映しながら揺蕩った。



 その光の奥にいる数人が、警戒するように手にしたカンテラをゆらゆらと動かしている。

 小部屋の中央のテーブルの上に置かれたカンテラの明かりだけでは不足だと言わんばかりだった。


 カンテラの明かりが目に眩しくて、その奥の人物がどんな連中なのかは分からない。



 俺たちは息を殺している。

 普通なら、緊張と動揺に動悸がする場面だろうが、俺は案外にも冷静なままだった。


 ここに仲間が六人全員揃っているということが、今もなお俺の中で確固たる安心を築いている。



 鉄扉が開かれた向こうで、空が白んでいるのが見えた。


 俺たちが行動を開始したのは真夜中だったから、確かにもう夜が明けてもおかしくないくらいの時間だろう。

 それにしては全然眠くないが、これは緊張のゆえだろうか。


 雨はもう止んでいるようだった。雨音はしない。

 それにカルディオスが、夜中のあの雨は通り雨だと言っていた。


 だが代わりに、遠くから驟雨の音のような、あるいは遠雷のような喚声が聞こえてきていた。



「――どういうことだ」


 カンテラを携えた誰かがそう言ったのが聞こえてきた。


「外の見張りといい――何があった」


 かしゃん、と小さな音を立ててカンテラが揺れて、いっそう高く掲げられた。


 靴先を明かりが掠めそうになったトゥイーディアが、無言で階段を一段上がって、それを予期していたアナベルも、息を合わせたように、後ろ向きに一段を上がった。


「すぐ応援が来るけどよ――それよりこいつをさっさとぶち込もうぜ」


 また別の声がそう言って、その声に別の誰かの呻き声が重なった。


 カンテラがすっと下げられて、トゥイーディアがまた一段を下りた。


「いや、侵入者があった以上、一度引き揚げるべきだろう」


 カンテラを掲げている誰かがそう言って、「侵入者、ねえ」と応じるもう一人の声。


「侵入者かね、これ。誰かが持ち込んだ酒を飲んでぶっ倒れたとか、そういうオチじゃねえの?」


「ならばいいが――」


 カンテラを持っている方は、もう一方に比べて随分と慎重な性格らしい。

 こつこつ、と靴音が響いて、光源がこちらへ向かって移動してきた。


 コリウスがすっと手を伸ばして、それを合図に光の進み方が変わった。

 トゥイーディアの目の前で、強制的に屈折させられていく光。


 ――さすがというべきか、コリウス。器用すぎる。


 靴音を響かせながら、小部屋の中で引っ繰り返った見張りたちを検分した一人が、ぴたりと足を止めて、もう一人を振り返った。


 後ろを向いた彼の身体にカンテラが隠れて、俺たちはようやく、鉄格子越しの小部屋の様子の仔細を見て取ることが出来た。

 カンテラを隠した衛兵の身体の輪郭が、仄かに金色に輝いて見えていた。


 塔に入って来たのは衛兵の二人連れで、やはり雨はとうに止んでいたのか、二人とも濡れた様子はなかった。

 その二人のうち一人がカンテラを持っていて、もう一人が粗末な身形の男性を羽交い絞めにして連れている。


 カンテラを持つ方の衛兵が、相方に向かって厳しい声を掛けた。


「いや、駄目だ。下がれ。――痣がある。殴られるか何かしたんだ。侵入者だ」


 羽交い絞めにされている男性が、ばっと顔を上げた。

 その双眸が、異様な熱に爛々と煌めいた。


 それと同時に、彼を羽交い絞めにしている衛兵が、「げっ」と声を出す。


「本当か。なんでだよ――」


 トゥイーディアが、前方に体重を傾けた。


 ――恐らくは、このままこの二人を外に出しては後が面倒だと考えている。

 アナベルもそれを察したのか、彼女を止めようとするかのように手を伸ばし――



()()()()()()()()()()()()だろうがよ」



「――――っ」


 トゥイーディアが息を呑んだ。

 全く彼女らしくない失態だった。


 直後、かしゃんっ、とカンテラが揺れる音がして、カンテラが再び高く掲げられてこちらへ向けられた。


「誰だ――」



「リ――リリタリス卿のっ!」



 衛兵が声を上げようとするのと全く同時に、もう一人の衛兵に羽交い絞めにされた男性が叫んだ。



 ――ここに侵入者があることを知って、近くにその侵入者がいるかも知れないことに賭けた声だった。

 侵入者の目的が、リリタリス卿とは全く違う何かであることも十分に考えられる中、それでも一縷の望みを託すような声だった。



()()()()()()()!! ()()()っ、()()()()()()だっ、もう時間がない!」



 トゥイーディアとアーバスが凍り付いた。


 俺たちですら、頭を殴られたような衝撃を受けて目を見開いた。



 ――今日?


 そんなはずはない。一箇月後のはずだ。


 早まるにも限度がある。早過ぎる。



 同瞬、ただでさえ羽交い絞めにされていた彼が、容赦なく腹を蹴り上げられて咳き込む。



 ――トゥイーディアに向かって伸ばされていた、アナベルの手が空を切った。


 蜂蜜色の髪一筋を残滓にして、トゥイーディアが階段から飛び降りて、音を立てて鉄格子の扉を開け放っていた。


「――イーディっ!」


 アナベルが小さく叫んだが、その声は小部屋には届かなかったに違いない。

 トゥイーディアが鉄格子の扉を開け放つ音が、余りにも荒々しく響いていたから。


 がしゃんっ! と鳴った扉の音に、衛兵二人が絶句する。

 まさか、侵入者がここまで堂々と姿を現すとは思わなかったに違いない。


 だがそれでも、カンテラを持つ一人が、空いている右手で腰の剣を抜き放った。

 灯火を浴びて白刃が輝いたが、トゥイーディアはそちらを見ていなかった。


 恐らくは何かの(かど)で囚われることとなったのだろう男性を羽交い絞めにしたまま、もう一人の衛兵がじりじりと後退って鉄扉を出ようとする。


 それをさせじと、コリウスが鉄扉に視線を当てた。

 まるでその眼差しが、他の何にも勝る命令であるかのように、重い鉄扉が音を立てて閉じる。


 背中が鉄扉にぶつかって、男性を羽交い絞めにした衛兵はぎょっとしたように目を見開いた。



 ――その衛兵を、いや、彼に羽交い絞めにされる男性こそを、トゥイーディアは真っ直ぐに見ていた。



「どういうこと」


 尋ねるその声が震えている。


 トゥイーディアの全身から魔力が漏れ出して、ゆらゆらと光景を歪ませる。



 剣を抜いた衛兵が、がしゃん、とカンテラを取り落とした。


 石の床に叩き付けられたカンテラが跳ねて転がり、硝子が割れて灯が消える。


「――トゥイーディア卿……?」


 衛兵が、戦慄く唇で呟いた。


 ――どうやらこいつは、トゥイーディアの顔を知っていたらしい。

 あるいは騎士装束で察したのか。


 その呟きを聞いて、鉄扉に背中を押し付けるもう一人が、裏返った声で叫んだ。


「は? ――フレイリーで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()か!」


「――その呼び方はお勧めしない」


 低く低くそう呟いて、トゥイーディアは烈火の如き飴色の瞳で三人を見渡した。


 その手が震えているのを、俺は見た。


「どういうこと。お父さまの処刑は一箇月後のはずでしょう」


「早まったんだ!」


 衛兵の腕から逃れようと身を捩りつつ、男性が叫んだ。

 石造りの小部屋に、その声が反響して砕けた。


 その次の瞬間、アーバスが階段から飛び出した。


 剣を抜いた衛兵には目もくれず、飛ぶように小部屋を走り抜けて、もう一人の衛兵へ。


 衛兵が咄嗟に剣を抜こうとしたようだったが、捕らえられた男性が、させじとその腕にしがみ付くのが見えた――一秒後、アーバスが鮮やかに衛兵の胸倉を掴み、何をどうしたものか、瞬く間に男性を衛兵から引き剥がし、背負い投げの要領で衛兵を床に叩き付けていた。


 どすん、と、石の小部屋が揺れるような衝撃があって、剣を抜いたままの衛兵が、さすがに判断に迷った様子で目を泳がせる。


 元よりトゥイーディアをトゥイーディアと見て取って、彼には動揺がある。


「――ああもうっ」


 ディセントラが小さく舌打ちして、階段を下りる挙動を取った。

 まるでそれが許可の合図だったように、俺たち全員が小部屋に向かって数段の階段を駆け下りる。


 数の劣勢がますます明らかとなって、衛兵は茫然と立ち尽くした。


 それに一瞥もくれずに、アーバスが、気絶させた衛兵から手を離し、翻って突然の解放に立ち竦む男性の襟首を掴む。


「――どういうことだ!!

 オルトの処刑は一箇月後だろうがっ! なんで早まる!?」


 がくがくと揺らされて、男性は目を回した様子で声もない。


「小父さまっ!」


 トゥイーディアが、剣を抜いた衛兵などは見もせずにそちらへ駆け寄って、アーバスを男性から引き剥がした。


 そして、両手で男性の肩を掴んだ。



 トゥイーディアを横目に見ながら、俺はディセントラを振り返った。

 そして、立ち尽くす衛兵を指差して、「どうする?」と首を傾げる。


 恐らく、今この小部屋にいる人間の中で、俺が一番落ち着いて見えることだろう。


 他の全員が、アナベルでさえも、顔色を変えるほどに焦っているこの状況において。



 ――俺がトゥイーディアのために動かす感情の全部は、代償によって阻まれる。



 ディセントラは美しい頬を象牙色にするほどに動揺していたが、冷静さは残っていた。

 俺を見て、無言で首を振ったのだ。


 相手に戦意がない、まだ気絶させるなという意味だ。



「――お父さまは、リリタリス卿はどこですか!」


 トゥイーディアの、悲鳴じみた詰問の声が、俺の耳の中で跳ね返って響いた。


 ――トゥイーディアは、こんな声を出すのか。

 これほど切羽詰まった、危機的な、喚くような声を出すのか。



 心臓が痛む。


 誰より焦り、恐れ、気も狂わんばかりになっているのはトゥイーディアだろうから、だからこそ俺の心臓も痛む。

 蟀谷がどくどくと脈打つのが分かる。



 男性は咳き込み、喉から声を絞り出すようにして答えた。


「――西の塔……処刑が今日になったと、夜更けに喧伝屋が走って――」


 トゥイーディアの呼吸が詰まった。

 頬どころか、指先までが真っ白になった。


 瞳ばかりが見開かれて、彼女は瞬きを忘れたように見えた。


「は……? なんで――?」


 茫然と声を零したトゥイーディアに、男性は言い募るようにして。


「侯爵閣下の――お屋敷を、リリタリス卿のお身内が襲撃して壊したのだと審判されて――異議申し立ても懺悔も認めないと、審判が」



 ――昨日の夕暮れに見た、一部が崩壊した侯爵邸の光景が、鮮やかに俺の脳裏に(よぎ)った。


 そうだ、コリウスもディセントラも、あれがリリタリス卿の不利に働くことを警戒したのだ。



 ――だが、まさか、()()()()



 トゥイーディアが、よろめくように数歩下がった。


 その吐息が、ひとつの名前を象ったのが俺たちには分かった――「ヘリアンサス」。



 あの魔王に、一箇月を悠長に待つつもりなどなかったのだ。



 ――だが、それでも、早過ぎる。


 侯爵邸の破壊がリリタリス卿の派閥の者の所業だと断定されてから、異議申し立てと懺悔の期間が剥奪された。

 そして、それから僅か数時間後に刑の執行とは。


 審判が下るのも早過ぎるし、執行までも早過ぎる。



 有り得ない。



 ――俺の中の常識と良識が、有り得ない、これは嘘だと判断する。

 そして、脳裏にちらつくあの黄金の瞳の幻影が、全て事実だと肯定する。



 ヘリアンサスは、トゥイーディアを軽んじていない。


 そう宣言していた。


 だからこそ、彼女が行動を起こす間もない決着を望んでいる。


 相手の番を待たずに駒を動かしている。



「それを聞いて、だから、俺たちがこの近くで抗議して、俺は捕まって――ここに」


「夜明けだと?」


 アーバスが、まるで狼が牙を剥くような顔で詰め寄った。


「早過ぎやしねえか?」


「でもそう聞いたんだ!」


 男性が、悲鳴のように叫んだ。


「夜明け――でも多分、喧伝屋が走ったってことは、()()()が集まってからだ!!」


 トゥイーディアが、吐き気を覚えた様子で口許を押さえた。


「どういうことだ――オルトはこの塔にいるはずだっただろうが!!」


 アーバスが怒鳴り、男性も泣きそうな顔で首を振った。


「俺もだ! 俺も、あの方が連れられるのを見たんだ! だが西の塔にいらっしゃると――」


「西って――」


 アーバスが息を吸い込み、怒号を上げた。


「街区の端っこじゃねえか! 何を見間違う!!」


 カルディオスが息を呑んだ。

 翡翠の目を見開いて、彼が、ほとんどうわ言のように呟いた。


「――違う、見間違えてない、()()()()――」


 俺はカルディオスを見た。


 カルディオスは、愕然とした様子でトゥイーディアを見ていた。



()()()()()()。俺なら、有りもしない幻覚を見せられる――実物を創るより簡単だ。

 だから――だから、()()()()()()()()()()()()()()



 カルディオスの固有の力――〈実現させること〉。


〈無から有を生み出すことは出来ない〉という絶対法に反する唯一の魔法。



 その魔法を扱える人間は、この世にただ一人カルディオス。


 そして、人間以外ではもう一人――



「……ヘリアンサス――」



 その名前が誰の唇から零れたのか、俺には分からなかった。



 ――そこまで周到に、あらゆる手を尽くして、ヘリアンサスが道を整えている。

 トゥイーディアのお父さんを断頭台に上がらせるために、彼の前に道を敷いている。


 その道を阻む者を、無情に、徹底的に排除している。

 冷徹に王手を掛けている。



 トゥイーディアが男性を押し退け、飛び付くように塔の鉄扉に手を掛けた。



 ――これから西の塔に向かっては間に合わない。


 だからこそ、ここから通りをひとつ挟んだ北側にある、処刑台を押さえようとしたのだと俺にも分かった。



 茫然と突っ立っていた衛兵が何か言おうとしたが、声は出なかった。



 トゥイーディアが鉄扉を引き開けた。

 途端、喊声が耳を劈いて、俺は絶句した。


 ――視線を巡らせる。


 扉の外を見る。


 トゥイーディアが立ち尽くしているその肩越しに、無数の衛兵がこちらへ向かって進んで来るのが見えていた。

 昨夜の雨が乾き切っていない、舗装もされていない泥の道を、衛兵たちが進んで来る。



 ――すぐに応援が来ると、そういえば、既に床に倒れている衛兵はそう言っていたか。



 有り得ないほど速く心臓が脈打った。



 ――空は白く明るい。

 夜が明けようとしている。


 滲むような曙光が、ゆっくりと東の空に手を伸ばそうとしている――



「トゥイーディア、閉めて!」


 ディセントラが叱り付けるようにそう言って、そして実際にはトゥイーディアの動きを待たずして、彼女自身で魔法を使って、鉄扉を叩き付けるように閉めた。

 同時に、鍵を掛けるようにして扉が固定されたのが分かった。


 分厚い鉄扉と石壁に阻まれて、喊声が途切れる。


 トゥイーディアが鉄扉に両手を突き、肩を震わせた。

 指先から頭のてっぺんまでが震えていた。


「――どうしよう」


 トゥイーディアが呟いた。


 彼女が、ふらつくような動きでこちらを振り返った。



 そして俺は、初めて見る彼女の表情に、愕然として言葉を失った。



 ――トゥイーディアは、膝から力の抜けた様子で、鉄扉に凭れ掛かるようにその場に立って、途方に暮れて表情を失くしている。

 視線が定まらず、ただ茫然としている――そんなトゥイーディアを、俺は初めて見た。



 いつでも真っ直ぐに前を見て、絶対に折れないのだと、全世界に向かって宣言するかのように、強い瞳をしているはずの彼女が。



 ――息が詰まる。

 トゥイーディアのために何でもしたい。

 今から侯爵を殺すことで全てが解決するならば、俺は寸分の躊躇いもなくそれをしてみせるのに。



 この町全部を巻き込む大災害を起こすことも、俺たちならば可能だ。

 だが、トゥイーディアのお父さんを巻き込むことが出来ない以上、それは不可能と同義。


 トゥイーディアの固有の力で、人の〈内側に潜り込んで〉、精神を弄ることが出来れば、恐らくは審判すらもこれから引っ繰り返すことが出来るけれど、ヘリアンサスにその手は封じられている。



「どうしよう、どうしたらいい――」


 トゥイーディアが顔を覆った。



 ――俺たちは凍り付いていた。


 トゥイーディアは、俺たちの中で最も打たれ強いといっていい精神性を持っていた。

 その彼女が、迷子のように顔を覆って全身を震わせている、そのことが、まるで横腹を刺されたかのような衝撃をもたらしていた。



「これから西の塔に向かって――」


 アーバスが言い差した。

 だが、顔を伏せたまま、トゥイーディアが首を振った。


「間に合わない。もう夜が明ける」


 顔を覆った指に力を籠めて、額に爪を立てるようにして、トゥイーディアが声を押し出した。


「――先に処刑台に行こうにも、私たちが行けば、お父さまをそこまで連れ出すわけがない……!

 お父さまが、どこか他のところに連れて行かれちゃう……!」


「そんなの――、っ」


 カルディオスが言い差して、しかしはっとした様子で言葉を切った。



 ――処刑台まで先回りして、リリタリス卿が姿を現すまで身を潜めればいい――そう言おうとしたのだ。


 だが、それは出来ない。


 外にあれだけの数の衛兵がいるのだ。

 突破するにせよ、全員を振り切るのは不可能だ。


 そうなれば、追手が付くこととなる。


 処刑台のある広場の近くで身を潜めることなど、到底不可能になってしまう。


 コリウスがたとえ俺たちを上空経由で運んでくれたとしても、目で見て分かる影は、どんな馬鹿でも目で追うだろう。

 目くらましの魔法で凌いでもいいが、少なくとも、()()()()()()()()()()()()()という情報を相手方に渡してしまえば、能のある人間ならば、馬鹿正直にリリタリス卿を断頭台の上に引き摺り出すことは躊躇うだろう。


 そうなれば、ヘリアンサスの関与がある状況だ、リリタリス卿がどことも知れない場所で首を斬られかねない。


 リリタリス卿が実際に処刑台まで引き出されたことを確認してから事を起こせばその心配はなくなるが、彼が処刑台に引き出される正確なタイミングが分からない以上、それは出来ない。



 だから、この塔から、()()()()()()()()脱出して、処刑台を押さえる必要がある。



 だが、そんなことは不可能だ。


 この塔には窓もない。

 出入口は、目の前にあるこの鉄扉一枚のみ――



 俺たちは、まるで、この塔の中に閉じ込められたかのような。



 ――さしものディセントラも沈黙した。

 口許に手を当てて、必死に何かを考えている。


 だが、さすがの彼女も妙案をすぐには思い付かないのか、ぎゅっと目を瞑って――



 がん! がん! と、外から鉄扉が叩かれ始めた。


 茫然と立ち竦んでいた衛兵が、はっとしたように動き出そうとして、しかしすぐさまカルディオスが抉るようにその鳩尾を殴って意識を刈り取った。


 どさ、と放り出された衛兵を一瞥して、アナベルが唇を開いた。

 だが、そのまま口を閉じて唇を噛む。

 彼女の表情から、何か思い付いたわけではなくて、トゥイーディアを諦めさせる何事かを言おうとしたのは明白だった。



 がん! がん! と、乱暴な音が繰り返し響く。



「――どうしよう……お父さま……っ」


 トゥイーディアが頭を掻き毟った。


 彼女の足許がよろめいた。



 ――コリウスが息を吸い込んだ。


 そして、かつん、と靴音を立て、一歩を踏み出した。



「トゥイーディア」



 呼び掛けに、トゥイーディアが顔を上げる。


 血の気の失せた蒼白な顔。

 動揺と恐怖のありったけに揺れる飴色の瞳。



 その瞳を見て、コリウスが手を伸ばし、トゥイーディアの手を取った。

 そのまま、半ば強引に彼女の手を引いて鉄扉から離れさせる。



 ――がん! がん! がん!



 トゥイーディアの足が縺れた。

 そんな彼女を、俺は初めて見た。


 コリウスはしっかりとトゥイーディアの手を握って彼女を支え、しかし小部屋中央にまで彼女を引っ張り出すと、その手を離した。


 濃紫の目が、迷うように伏せられて泳ぐ。


「……コリウス?」


 トゥイーディアが首を傾げる。

 掠れた震え声でその名前を呼ぶ。


 名前を呼ばれたことが契機となったかのように、コリウスが目を上げ、深い紫の瞳でトゥイーディアの飴色の双眸を覗き込んだ。


 彼の両手が、トゥイーディアの肩を掴んだ。



 ――がん! がん!



「トゥイーディア」


 もう一度名前を呼んで、コリウスは息を吸い込んだ。


 覚悟を決めるように――決心をつけるように――


 夜のまま時間が停まったかのような小部屋で、灯火の明かりを吸い込む濃紫の目が、トゥイーディアの大きな瞳を映している。


「――こんなことを言っても、皮肉にしかならないことは分かっている――僕がこんなことを言う権利は欠片もないが――」


 コリウスの声は躊躇いがちで、しかしそれでも、腹を括ったような色があった。



 ――がん! がん!



 鉄扉が揺れる。

 アーバスが身構える。



 それら一切に注意を払わず、コリウスは、トゥイーディアを――トゥイーディアだけを見据えて、押し殺した声で囁いていた。



「――僕を信じてくれる?」



 ――俺は息を呑んだ。



 トゥイーディアが頷いた。


 寸分の躊躇も逡巡もなく、疑いなどあろうはずはなく、何度も何度も頷く。



「信じる。信じてる。心の底から」



 コリウスの唇が、強張った微笑を描いた。

 濃紫の目が、翻って塔の入口の鉄扉を見た。


「カルディオス、僕とトゥイーディアの前に立て」


 いつものような冷静な声でそう言われて、反射じみた動きでカルディオスがそれに従った。


 コリウスとトゥイーディアを、さながら扉から庇うかのように立つ――



 直後、コリウスがトゥイーディアを抱き締めた。

 彼女の背中に手を回して、トゥイーディアの肩口に顔を埋めて、コリウスが囁く声が聞こえる――


「――合図で息を吸って、そのまま呼吸を止めて」


 トゥイーディアが、コリウスの着衣の背中部分をぎゅっと握り締め、彼の肩に額を預けたまま頷いた。

 彼女の全身が今も震えていたが、迷いは欠片もなかった。



 ――誰も手を触れていないにも関わらず、鉄扉が大きく開け放たれた。



 鉄扉を槍尻で繰り返し叩いていたのだろう数人が、突然のことに体勢を崩して塔の中へ転がり込んで来る――男性がぎょっとしたように飛び退り、アーバスがその襟首を引っ掴んで自分の後ろに彼を庇う――



「――吸って」



 コリウスの声が聞こえた。


 そして、俺たちにとっては耳に馴染んだ微かな音がした。



 しゅん、と、小さく耳を擽るその音は――



 雪崩れ込んで来る衛兵たちを相手に身構えながら、俺は、俺たちは、驚愕以上の衝撃を覚えて目を見開いていた。



 ――今の音は、コリウスの固有の力、彼だけに許された最高速の移動、()()()()()()()()だ。



 コリウスは今まで、誰一人として瞬間移動に同行させたことはなかった。


 危険だから、加減を間違えると相手を殺してしまいかねないから、と。



 カルディオスが壁になって、衛兵たちには端からコリウスとトゥイーディアの姿は見えてはいるまい。



 そして――



 衛兵の最初の一人を、とにかく後ろへ向かって殴り飛ばしながら、俺は堪え切れずに後ろを振り返った。


 トゥイーディアの無事を案ずる俺の恋心がそれをさせた。

 コリウスの無事を案ずる仲間に向ける親愛が、俺にその挙動を許した。




 ――振り返ったその先から、二人の姿は掻き消えていた。

















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