54◆ 計算違い
リリタリス卿の人望は未だに篤い。
それは、リリタリス卿を擁護したがゆえに牢に放り込まれた人数からも明らかだった。
七階だけで二十人以上に及んだそれは、四階に降りる頃には倍の数に膨らんでいた。
そして、七階にこそ最も多く彼らが収容されていたという事実が、六階から先の俺の捜索のやる気を削いだ。
――だって、普通、リリタリス卿本人をこそ最も厳重に閉じ込めるだろう。
だから、七階に彼がいなくて、代わりに彼の擁護者が山ほどいたということは、地上にリリタリス卿はいない。
地下だ。
コリウスたちが当たりを引いたのだ。
だが、とはいえ、捜索を疎かにした結果として卿を見逃しましたなんて、笑い話にもなりはしない。
七階で駆け付けて来た衛兵たちは、トゥイーディアがほぼ単独で叩きのめした後にリリタリス卿の居場所を問い詰めたものの、知らないの一点張りだった。
トゥイーディアは、心情的には、そこで一人か二人の腕を落としてでも更に問い詰めたかったのだろうが、背後に脱獄囚たちがいるということ――彼らがリリタリス卿を知っているということ――ゆえに自分が、リリタリス卿の娘として恥ずべき行いはすべきではないということ、そういう理性の制動が働いたらしかった。
とはいえ、唇を噛んだまま、衛兵五人を順番に気絶させていった彼女の手付きは、相当に乱暴だった。
――いや、暴力を振るって相手を気絶させるのだから、乱暴も丁寧もないのだが。
一方の脱獄囚たちは、五人の衛兵を一人で叩きのめしたトゥイーディアに、確かにリリタリス卿の面影を見たらしい。
そこでまた盛り上がってしまって、トゥイーディアは隠密行動を完全に諦めた顔をしていた。
アーバスが、そんなトゥイーディアの肩を慰めるように叩いていたが、俺からすれば、おまえだって大はしゃぎで走って行ってたじゃねえか、という感想を抱かざるを得ない。
トゥイーディアは、開き直ってしまえば非常に適応能力の高い人なので、細剣片手に采配を振るい、人数に任せてまずは七階を徹底的に捜した。
アーバスを見張りとして階段の傍に置き、トゥイーディア自身を含めた救世主三人で、まずは房の中は無視して七階全体を網羅して歩き回って安全を確保、その後に二十人以上となるリリタリス卿の擁護者である脱獄囚で、一斉に卿を捜し始めるという作戦だった。
人数がいるとはいえ、塔そのものが広いので、相当に時間を喰う作業ではあった。
――結果は空振り、俺はそこでやる気の半分を失ったのだが(いやマジで、捜しているのがトゥイーディアのお父さんでなければ、そこで塔の外の見張りを買って出ていたかも知れない)、気を持ち直して階下へ。
六階でも同じような作戦で捜索を開始し、見張りの衛兵に関しては、俺が三人を、カルディオスが二人を昏倒させて事なきを得た。
はしゃいだ振りをしてはいても、内心では相当に焦燥を溜め込んでいるらしきアーバスが、見張りの一人を叩き起こし、締め上げながらリリタリス卿の居所を尋問したが、これも知らないの一点張りだった。
「オルトはどこだ!」と怒鳴るアーバスの迫力は、彼よりも遥かに年長の俺たちをしてひやりとさせるものだったから、看守の衛兵が味わった恐怖は推して知るべし。
それでなお、嘘を吐いている様子は衛兵にはなかった。
――ここまでくると、不安を通り越して不穏である。
普通、控えめに言っても重要な囚人であるリリタリス卿の居場所くらい、看守の衛兵ならば知っていそうなものだが――
――いや、むしろ、リリタリス卿が重要で特殊な立場であるがゆえに、居所にまで箝口令が敷かれているのか?
脱獄囚たちも、五階までは箒が叫んでるんじゃないかと思えるほどに大騒ぎし、その階を掃くように走り回っていたものを、四階に降りる頃には大人しくなっていた。
トゥイーディアの纏う、鬼気迫るといって余りある危機感のためかと思われた。
脱獄囚が黙り込んでしまうと、あらゆる外界の音を遮断する厚い石壁を備えた塔の内部は静かだった。
大勢の靴音が反響するその音が、むしろ静けさを強調して目の前に突き付けるかのようだった。
トゥイーディアは、焦っているからといって周囲に八つ当たりするような人ではないが、それでも彼女の理性が崖っぷちでぐらついていることは十分に分かった。
伊達に数百年もの間、重過ぎる片想いをしているわけではないのだ。
明かりが不十分だろうが、彼女の後ろ姿しか見えなかろうが、そんなの分かるに決まってる。
四階を、掃き清めるようにして隅々まで(人数に任せて)捜索し終えて、さしものトゥイーディアも狼狽を露わにした。
通常ならカルディオスを頼りそうな彼女が――仲間なら俺もいるけど、トゥイーディアは自分が追い詰められているときほど俺から距離を取るので――、このときばかりはアーバスの手をぎゅっと掴んで、「地下にいらっしゃるのかしら」と呟く。
トゥイーディアですらその状態なのだから、彼女よりも遥かに若年のアーバスの焦りは限界を超えていたらしい。
「地下にあいつがいりゃあ、お仲間が教えてくれるんだろうが、え?」
とトゥイーディアに向かって言い放ち、俺は危うくアーバスを殴りに行くところだった。
とはいえ、そんなことも俺の代償がきっちり禁じてくれるので、俺は逆に、アーバスに物申そうと動き始めたカルディオスの腕を捕まえて、「落ち着け」と言い聞かせる羽目になったのだが。
「だってイーディが……」
と、カルディオスは不満を全面に表して呟いていた。
――俺たちに親子の情は分からないが、トゥイーディアが苦しんでいることは分かる。
俺に止められたカルディオスは、「さっきの衛兵をもうちょっと強く殴っとけば良かった」と思っていることがありありと分かる顔で黙り込んだ。
脱獄囚たちも、不穏な空気は存分に感じ取っているところだろう。
ぼそぼそと、各々がいつ投獄されたのかを話し合い始めた。
「――正確にゃあ分からんが、俺は多分十日くらい前……」
「閣下はその頃西の塔にいらっしゃっただろ」
「ああ、だが近々ここに移されるとは噂になってた……」
「俺もそれ、聞いた。食事差し入れられるときにさ、看守が言ってた……」
トゥイーディアはとうとう堪りかねた様子で、三階の捜索を脱獄囚たちに放り投げて、先に二階へ――つまりは、俺たちが二手に別れたまさにその場所へ降りて行った。
恐らく彼女も、地下にお父さんがいるということを、薄々確信しているのだ。
だからこそ、コリウスたちとの合流を急ぎたかったのだろう。
一階一階を捜索するのには、相応の時間が掛かっているから、そろそろ我慢の限界だったのだと思われる。
アーバスは視界の端にトゥイーディアの動きを捉えて、何も言わずに彼女の付き添った。
アーバスはアーバスで、旧知の友人であるリリタリス卿の居所が分からないことに、焦燥余ってパニック寸前なのかも知れない。
これを自分に置き換えて考えると、俺にとってはカルディオスやディセントラが、どこかで死刑を待っているような状態――ということになる。
なので俺からすれば、アーバスの気持ちは察するに余りあるというものだ。
脱獄囚たちから目を離せば最後、なんかとんでもない事態が起こりそうだったので、俺とカルディオスは最初、その場に留まる心積もりだった。
階下から、コリウスたちに牢から連れ出されて来たお父さんと再会したトゥイーディアの、歓喜の声が聞こえてこないかな――と思いつつ、俺は下へ向かう階段を一瞥。
直後、階段を伝ってディセントラの怒鳴り声が聞こえてきて、俺とカルディオスは揃って背筋をぴんと伸ばした。
別に目の前でディセントラに怒られているわけじゃないんだけど、でもなんだろう、あいつの女王様気質があって、ディセントラが怒ってるとこうなっちゃうんだよな。
それにあいつ、怒りが一定の容量を超えてくると泣くし。
言葉の内容までは聞き取れないものの、ディセントラが相当腹を立てていることが分かる声がりんりんと響いてくる。
そして数秒後、それに対して倍の勢いで言い返し始めるトゥイーディアの声が聞こえてきた。
――珍しい。
トゥイーディアも例に漏れず、ディセントラが怒っているときには身を縮めることが多かったのに。
いや、今はそんな場合でもないんだけど。
俺がそんなことを眉を寄せて考えていると、同じような表情で階段の方を見ていたカルディオスが、唐突に、「待てよ」と声を上げた。
思わずそっちを見ると、カルディオスは翡翠の瞳を巡らせて、俺と目を合わせて囁いた。
「――おかしいだろ。なんでトリーがもう二階に戻ってんだ?」
俺は瞬きした。
そんなの、地下の方が早く捜索が終わっていれば――
しかし俺が何を言うよりも早く、カルディオスはむしろ恐怖すら感じさせる声を落としていた。
「――なんでイーディのお父さんがいない?」
俺もはっとした。
――そうだ。
ディセントラはコリウスと行動を共にしていたはずだ。
だから、地下の捜索が終わらない限り、地上に出て来ているはずがない。
地下が何階に及んだのか俺は知らないが、さすがに地上よりは階数が少ないはずだ。
だから、既に地下の捜索が終わっているとしても違和感はない。
だが、地上にリリタリス卿がいなかった以上、地下に彼がいなければおかしいのだ。
つまり、コリウスたちが彼を救出していないはずがないのだ。
俺はカルディオスと目を合わせ、どちらからともなく階段の方へ足を踏み出した。
そうしながらカルディオスが脱獄囚たちを振り返って、「じっとしてて」と声を掛ける。
同時に俺が、彼らのために廊下に浮かべていた灯火を消し去った。
帳が下りたような暗闇の中で、脱獄囚たちは一瞬当惑した声を上げたものの、すぐに黙り込んで息を潜め始めた。
ここまで、俺たちがいなければ衛兵相手に何人かはやられていただろうということを、正しく理解しているらしい。
脱獄囚の側に人数の優勢があるとはいえ、訓練を受けた人間を侮ってはいけない。
それは取りも直さず、破落戸数十名を相手にするのと、衛兵数十名を相手にするのとでは全然違うということでもある。
俺とカルディオスは並んで、足早に階段を降り始めた。
石壁を伝って、ディセントラとトゥイーディアの、口論の声が反響しながら聞こえてくる。
反響のために声が割れて、言葉の内容は定かではなかったものの、階段も半ばを過ぎてくると、それも聞き取れるようになってくる。
「――なに考えてるのよ! 大勢で掛かればいいってものじゃないでしょう!」
「そんなのどうだっていいでしょ! なんでお父さまがいないのよ!」
俺の心臓が、厭な音を立てて脈打った。
――「お父さまがいない」?
トゥイーディアのお父さん、ここにいるはずじゃないのか?
カルディオスも全く同じことを考えたらしく、そこから飛び降りるようにして階段を一気に降りた。
鍵が開けられたままの鉄格子の扉をくぐって、俺たちは元の、書類が積み上げられたデスクの並ぶ広間に入った。
床に散乱した書類はそのままになっていて、部屋の中央くらいに、気絶した衛兵たちがお互いの制服の袖を結び合わされて、円になるように座らされていた。
まだ意識が戻っていない彼らは、がくりと項垂れてぴくりとも動かない。
いや、一回は目が覚めたのか、彼らの周囲に散乱していた書類が、蹴って押し遣られたような痕跡がある。
多分、自由になろうともがいたけれども上手くいかず、疲れ切ってまた意識を失った――というようなところだろうか。
七階から四階までの捜索で、もう随分と長く掛かったわけだし。
――それにしても、俺は全然気付かなかったけど、こいつらが目を覚まして騒ぐとまずかったわけだ。
これは多分、最後までこの広間に留まっていたコリウスがやってくれたことだろう。
コリウスならこんなの、五秒くらいでこなすだろうし。
アナベルは階下へ続く階段のすぐ上に立っていて、アーバスはデスクの上に座り込んで額を押さえ、項垂れている。
そして広間の中央、まさに衛兵たちが縛られているそのすぐ傍で、ディセントラとトゥイーディアが口論を繰り広げていた。
珍しくもコリウスが、その間に立とうとしている。
俺とカルディオスが広間の中へ進み出たのに気付いて、コリウスがぱっとこちらへ視線を向けた。
その顔が、恐ろしいほど険しかった。
「――リリタリス卿は、いらっしゃらなかったのか」
低い声で尋ねられて、俺とカルディオスは同時に、打たれたように頷いた。
ディセントラがトゥイーディアとの口論を打ち切って、こちらを見た。
トゥイーディアがそんなディセントラの肩を掴んで、なおも何か言い募ろうとするのを、コリウスが彼女の方に掌を向けて止めた。
濃紫の視線は俺たちを向いたままで動かず、表情も表情も冷厳なままだった。
「本当に捜したのか」
そう問われて、俺はむしろぽかんとした。
――本当に捜すも何も、こっちにはトゥイーディアがいたのだ。
彼女が捜索で手を抜くことなど有り得ないだろう。
いつもの信条を曲げてまで、暴力に訴えてでもお父さんを助けようとしているトゥイーディアが。
それに、アーバスもいた。
リリタリス卿とは旧知の友人であるアーバスが。
俺とカルディオスが、並んで訝しそうな顔をしていることを、乏しい灯火にも見て取って、ディセントラが低い声で付け加えた。
「――本当に、ちゃんと、あんたたち自身で捜したの?」
俺とカルディオスが、同時に息を吸い込んだ。
「いや――」
カルディオスが呟いて、さっと眼差しをトゥイーディアの方に走らせた。
それからもう一度ディセントラに目を戻して、呟く。
「――牢屋から出した人たち。あの人たちに、だいぶ手伝ってもらった」
「だろうな」
コリウスが吐き捨てるように言った。
カルディオスがびくっとして目を見開いたが、その反応にもコリウスは気付かなかったらしい。
ディセントラと目を合わせて、苦々しげに呟く。
「ここまで降りて来るのが早過ぎる。四人で地上を捜したなら、これほど早いはずがない」
「なに――」
カルディオスが言い掛けたのを遮って、ディセントラが大きく息を吐いて、言った。
「――地下に、リリタリス卿がいらっしゃらないの」
俺は息を吸い込んだ。
頭が真っ白になった。
――そんなはずはない。
だって、地上にも彼はいなかった。
ディセントラの淡紅色の目が、俺を見て眇められた。
「本当に、牢屋から出してあげたって人は、ちゃんと協力してくれたの? ――ここで私たちの邪魔をして、リリタリス卿を賊から隠し果せれば、間違いなくその人たちの罪は吹き飛んで余りあるのよ。
――そういう悪知恵を働かせた人がいないって、断言できるの?」
「――――」
俺は息を止めた。
ディセントラの瞳が、薔薇の花びらを灯火に透かしたような色合いで、瞬きもせずに俺を見ている。
――トゥイーディアは、状況を既に彼女と共有していたのだ。
最初に連中を牢から出したのが俺だということを、ディセントラに伝えている。
「あんたたちだって、大抵の人の嘘も誤魔化しも分かるでしょうけれど、大勢を一気に牢から出したんでしょ?
――ちゃんと、全員と目を合わせて話を聞いたの?」
「――――」
俺とカルディオスは、揃って黙り込んだ。
――その可能性を、俺たちは考慮しなかった。
俺たちよりも機転が利くトゥイーディアも、それを考えた様子はなかった。
なぜならば彼女は、誰よりもリリタリス卿に心酔している。
周囲にいるのがその仲間なのだと思い込んでしまえば――
俺たちの表情を見て、ディセントラがコリウスに視線を移した。
表情が切迫していた。
「コリウス、もう一度、地上を捜し直す必要があるわ。――だから、私とあんたは別行動にしましょうと言ったのに」
コリウスが唇を噛んだ。
彼が自分の判断違いを後悔することがあるのだとすれば、それは十割が俺のせいだ。
俺が、コリウスの予想を遥かに超える馬鹿だったせいだ。
アーバスが顔を上げて、何かを言おうとした。
だが結局は何も言わず、またも片手で顔を押さえる。
銀の柳眉を顰めて、コリウスは息を吸い込んだ。
「――予想よりは早かったとはいえ、もう時間がない。夜明けが近い。
ここまでで時間を使い過ぎた」
ディセントラも一瞬、強く唇を噛んだ。
だがすぐに目を上げて断言する。
「いいえ、夜明けと同時に見張りの交代があるわけじゃない。
この塔は窓もないし、明るくなっても侵入は露見しないわ」
コリウスが首を振った。
そして、トゥイーディアを見た。
「――こちらは見張りの衛兵を、気絶させただけで殺してはいない。そちらは?」
「同じよ」
トゥイーディアが即答し、息を吸い込んで言葉を続けた。
「――起きて騒がれたら、さすがに捜索しながらあの人たちの相手をするのは難しいわね」
階段の傍に立っていたアナベルが、さっと顔色を変えた。
「イーディ、待って」
トゥイーディアはそちらを見なかった。
コリウスとだけ目を合わせて、いつもよりは幾分か小さな声を出した。
「必要があれば彼らは私が殺すから。――でも、ねえ」
ぎゅっと拳を握って、トゥイーディアはやや声を大きくする。
「――お父さま、本当にここにいるの?
上にいる人たちは――牢から出した人たちは――本当にお父さまの味方をしてくれていると思うの。なら――」
「トゥイーディア、考えが甘い」
ディセントラが、切り捨てるようにそう言った。
情に脆い彼女にしては、珍しいほどに冷淡な声だった。
コリウスは、それよりはいくらかトゥイーディアの言葉を吟味したようだったが、結局はまた首を振った。
「いや、卿がここへ連れられるのを見たという証言が多かった。他の場所は有り得ない」
「でも――」
トゥイーディアがなおも食い下がって、なぜか、ちらりとカルディオスを見た。
カルディオスが、まるでトゥイーディアが自分に救援を求めたと思ったかのように、彼女の方へ一歩踏み出そうとした。
そのとき、アーバスがはっとしたように顔を上げた。
「――誰か来る」
「は?」
訊き返したのはコリウスだったが、アーバスは、黙れというように彼に向かって片手を振った。
この状況にあって、アーバスから俺たちへの、なけなしの敬意も擦り切れたと見えた。
「コソ泥の勘を舐めないでいただきたい――階下だ。誰かが扉を開けようとしてる」
俺は思わず階段の方を見た。
直後、そのすぐ傍に立っていたアナベルが顔色を変えた。
「――本当。誰か、入って来るわ」
俺たちは息を吸い込んだ。
――階下には、入り口から入ってすぐの場所には、俺たちが気絶させた衛兵がまだいるはずだ。
あそこに踏み込まれれば、すぐに事が露見してしまう。
いや、それ以前に、この塔の入口に立っていた見張りが失神しているのを、ここに踏み込もうとする者が見逃すはずがない。
恐らくは異常事態を察して、外にそれを報せているはずだ。
つまり、相手がどんなに間抜けでも、この塔からの脱出は至難を極めることとなるのだ。
そして最悪の場合、今からここには衛兵が雪崩れ込んで来ることになる。
トゥイーディアが動いた。
鞘に収められた二振りの細剣が、彼女の腰できらりと光った。
仕切り板をひらりと越えて、トゥイーディアが階下へ向かおうとする。
アナベルがそれを追う。
恐らくはトゥイーディアの援護のためではなく、彼女が取り返しのつかないことをする前に止めるために。
そしてそれとは真逆に、トゥイーディアの援護のためにアーバスが動く。
そしてアナベルを妨げるためにコリウスが。
彼らに数秒の後れを取って、俺とディセントラとカルディオスが、足音を殺して階段へ走った。
トゥイーディアは階段を下り切ってはおらず、最後の二段目の上で身を屈めていた。
得物を狙う野猫のような姿勢で、右手は既に細剣の柄に掛かっている。
――彼女が抜くのが、二振りの剣のうち、鞘に細かな傷が無数に走っている方ばかりであることを、なんとなく俺は不思議に思った。
わざわざ二振りを腰に差しているというのに、片方ばかりを遣うようでは意味がない。
トゥイーディアの真後ろにアナベルがいて、その手は今にもトゥイーディアの後ろ襟を掴んで引き留めそうだったが、さすがにそこまでの暴挙には至っていなかった。
その後ろに俺たちが息を潜めて立って、視線はひたすら塔の入口の鉄扉へ向かう。
――今しもその鉄扉が、慎重に押し開けられようとしていた。
扉の外に立つ誰かが捧げ持つ灯火の光が、淡い橙色に、斜めに視界を照らし出した。




