52◆ 縁と命は繋がれぬ
俺は濡れた髪を掻き上げながら、トゥイーディアに細剣を突き付けられた衛兵の、恐怖と驚愕に強張った顔を見ていた。
じゅう、と小さな音がして、俺の髪から雨水が逃げていく。
軍服からも濃霧のように水気が立ち昇り、俺はようやく、衣服が肌に張り付く不快な感覚から逃げ果せた。
熱気に汗が浮いたが、俺は火傷を負わない。
みんなもそれぞれ、自分自身から雨水を取り除いたらしい。
加えてディセントラは手を振って、アーバスに向かっても魔法を行使した模様。
雨音さえも届かない堅牢な石の塔の中に、俄かに水の匂いが立ち込めた。
トゥイーディアの長軍靴の足跡も、数歩分こそ水気を含んで点々と続いているものの、半ばからはぱたりと途絶えて、彼女が雨水を払い切ったことを示している。
掌が濡れていれば、握った剣の柄も滑るだろうが、トゥイーディアにそんな様子は微塵もなかった。
衛兵に突き付けられた細剣の切先は小動もせずに灯火の光を鋭く撥ね返し、たとえその上に岩石が降って来ようとも微動だにしないのではないかと思わせるほどに堅固に、彼の喉元を脅かしている。
ひく、と、アナベルに蹴り倒されて床に倒れ込んだ姿勢のままの衛兵の喉仏が動いた。
見開かれた彼の目が、自分に付き付けられる剣の切先を凝視して、それからトゥイーディアの顔を向いた。
灯火の明かりにも、彼の瞳孔が開いていくのが見て取れたほどだった。
頬は瞬時に蝋の色へと変じた。
は、と、衛兵の唇から小さく声が漏れた。
乾いた息が、声を含み損ねたかのように吐き出された。
そのことに苛立ったかのように、トゥイーディアが彼の喉に触れんばかりに細剣の切先を動かした。
「聞こえないの? オルトムント・リリタリス卿はどこ」
アナベルが、じり、とトゥイーディアに向かって一歩動いた。
それはむしろ、衛兵の彼からすれば助けとなる挙動ではあったが、本人にそんなことが分かるはずもなく、衛兵は純粋に怯えたようにアナベルに視線を走らせた。
そして、唐突に、堰を切ったように声を出した。
「し――知らない!」
トゥイーディアの表情が冷ややかになるのが、俺からですら見て取れた。
彼女が目を上げて、頽れて意識を失っている他の三人をちらりと見遣る。
そして口を開いたが、語調は冷淡を通り越して冷徹だった。
「――別に、あなたに訊かなくても、他に代わりが三人いるけれど」
「だから知らないと言っているだろうっ!」
衛兵が叫び、途端にトゥイーディアの飴色の瞳が氷点下の冷たさで彼を見て、衛兵はごくりと息と唾を呑んで黙り込んだ。
彼の額と頬に冷や汗が伝っているのが、灯火の明かりで仄見えた。
「声が大きい」
まるで、何かの講義中に邪魔をされたかのようにそう言って、トゥイーディアは眉を顰めた。
それを見て、ディセントラが短く、「大丈夫よ」と、抑揚のない声で囁いた。
――ディセントラの固有の力は、〈止めること〉。
空気の振動を止めて、階上階下へ音が伝わらないようにすることなど、朝飯前にこなしてみせる。
ディセントラのその言葉を聞いて、トゥイーディアは瞬きした。
そして、三度目となるその台詞を繰り返した。
「――リリタリス卿はどこ。この塔にいるんでしょう」
「知らない――我々は!」
歯を食いしばり、声を低めて、衛兵は怒濤のように言葉を並べ立てた。
「我々は今日の夕刻からの番だ! それ以前のことは――」
トゥイーディアは束の間、じっと衛兵を見下ろした。
そして、彼の言葉に嘘がないことを見て取った様子だった。
――衛兵だからこそ、一通りの訓練は受けているだろう。
拷問に耐える訓練すら積んでいる可能性もあるが――いや、地方の領主お抱えの衛兵程度ではそこまではしていないか――、生憎と積んできた人生経験が違う。
俺たちの前では、大抵の虚偽は無意味だ。
「――なるほど」
短くそう言って、トゥイーディアは飴色の目を眇めた。
――外から見ただけでも、この塔は相当に広かった。高さもある。
房の数は推して知るべきだ。
ひとつひとつ中を確認している余裕はない。
つまり、リリタリス卿が地上にいるのか地下にいるのか、そして大体そのどの辺りにいるのか、当たりを付けてから行動することが必要になるのだ。
如何に五感を拡張できるトゥイーディアとはいえ、この塔全体を一気に見ることは不可能だ。
「他の看守は?」
出し抜けにコリウスが口を挟んだ。
灯火に映える銀色の髪を光らせながら、コリウスがトゥイーディアに並ぶ位置に立つ。
水晶のような濃紫の目で衛兵を見下ろして、彼は淡々と、呟くように質問した。
その瞳が、灯火の及ばない部屋の四隅から闇を集めてきたかのように暗く映った。
「他の看守はどこにいる。おまえたちだけではないだろう」
「――――」
衛兵はさすがに答えなかったが、その瞳が僅かに一瞬、上方へ向かって動いたことを俺たち全員が見て取った。
「上か」
コリウスがわざとらしく呟いて、その言葉に衛兵がびくりと身体を震わせたのを見て、確信を深めた様子で視線を翻した。
その視線の先には、上階へ続くと見られる階段――それを守る鉄格子の扉がある。
コリウスが視線を当てた瞬間に、ばきんっ、と音がして、鉄格子の扉の鍵が弾け飛び、軋みながら蝶番が回った。
トゥイーディアがそちらへ向かって走り出すのと同時に、喉元から細剣が退いたためか、ほっと全身の力を抜いた衛兵の方へ、再びコリウスが目を向けた。
「見張りの交代はいつだ?」
抜き身の細剣を手に持ったまま、トゥイーディアが一足飛びに階段に飛び込み、石造りの段を駆け上がって行く。
階段は螺旋を描いているようで、すぐに右に折れた彼女の後ろ姿が、閃いたサーコートの裾を最後に見えなくなった。
即座にそれに続くアナベルとアーバス。
数拍遅れて、コリウスを残して俺たちが続いた。
靴音が反響して数秒、灯火の暖色の明かりが見えて、俺は二階の床を踏んでいた。
階段を上がってすぐの場所は、胸の高さの木の仕切り板で区切られた小さな広間だった。
仕切り板のこっち側には階段しかなく、向こう側に、看守の役割を持つ衛兵のためのデスクや椅子が見えている。
更にその向こうに、同階の監獄へ続く廊下と上階へ続く階段が口を開けている出入口があり、それぞれが鉄格子の扉で守られていることが、壁に掛けられたカンテラの明かりで見えている。
窓はなく、晩夏にしては冷えた、湿った臭いがした。
衛兵のためのデスクは、幾つかが整然と並んでいる様子で、ここで恐らくは囚人の名簿の管理もしているのだろうことが窺えた。
デスクの上には書類が山と積み上がっており、整理されていたようだったが、今は違った。
広間を区切る仕切り板の一部は、通行のための扉となっている。
だが、そんなところを暢気に通るトゥイーディアではなかった。
衛兵が侵入者に気付いて各々立ち上がったときには、抜き身の剣を右手にしたトゥイーディアが、仕切り板を文字通り跳び越え、偶然にもそこにあったデスクの上に着地していた。
だんっ、と長軍靴の底がデスクの天板を叩く音が響き、積み上げてあった書類が崩れて宙を舞う。
深緑のサーコートの裾が、ふわりと夜風を具現化したように翻った。
蜂蜜色の髪が煌めき、金細工の髪飾りが、真夜中の狼藉には似つかわしくないほどに可憐に灯火を弾く。
同瞬、侵入者に慌てふためいた衛兵たちが、各々のデスクの上の書類を引っ繰り返して身構えていた。
「――くせもの――」
衛兵の誰かがそう言った。
とはいえ、驚愕の余りに声に勢いを載せ損ねたらしく、声音は囁き声と大差なかった。
そしてそのときには俺も、仕切り板を跳び越えて、その向こうの床に着地していた。
衛兵は全部で七人、物の数ではない。
全員を気絶させた上で書類を漁り、トゥイーディアのお父さんの居所を探るという手もあるが、時間が掛かり過ぎる。
そもそも、ここの書類にお父さんの居所が記載されているとも限らない。
「――くせもの?」
行儀悪くもデスクの上で背筋を伸ばして立ち上がり、トゥイーディアがぐるりと広間を見下した。
そのまま、鼻で笑って足を進める。
かつんかつんと軍靴が天板を鳴らし、トゥイーディアはデスクを幾つか踏み捨てて、書類の山を足で崩して奥へ向かった。
まるで、小さな子供が悪戯をしているかのような足取りだった――だがそれにしては、右手に閃く抜き身の細剣が、余りにも不似合いに目に映った。
――敢えて、衛兵を怯ませるために悪人みたいな立ち居振る舞いを意識してるんだろうけど、堂に入り過ぎ、板につき過ぎだった。
俺とカルディオスが、ほぼ同時に動いて広間を回り込み、奥へ通じる鉄格子の扉へ駆け寄った。
言うまでもなく、向こうから更なる衛兵がやって来たときのためである。
ディセントラとアナベル、そしてアーバスは、七人の衛兵のうち、身を翻そうとした連中を素早く押さえに向かった様子。
デスクを飛び石のように渡ったトゥイーディアが、どうやら最初に声を上げたのはこいつだと目星をつけたらしい衛兵の前まで、そうやって進み出た。
咄嗟に腰の剣を抜こうとしたらしき彼の腕を軽く蹴って得物から遠ざけ、ぐい、と細剣をそいつの喉元に突き付けて――デスクの上に立っているだけあって――少しばかり腰を折って、切先で促して顔を上げさせたそいつの目を覗き込むようにする。
「曲者とは随分な言い様ね。これでも爵位を賜った勲功爵なのだけど」
にっこりと唇だけで微笑んで、トゥイーディアは言葉で相手を殴り付けるみたいにして言っていた。
「――私は公明正大な騎士ですから、無実の人を助けに来ました」
衛兵が一歩下がろうとする。
それを、トゥイーディアの左手が素早く相手の胸倉を掴んで止めた。
いつの間にかトゥイーディアはデスクの上に膝を突く格好になっていて、左手で衛兵の胸倉を掴んで、引いた右手に翳した剣を彼の喉に突き付けている。
そういう姿勢の変更の間にも、衛兵の喉に届かんばかりの位置に突き付けられた細剣の切先は、見事なまでにぴくりとも動かなかった。
ぎりぎりと音がしそうな程に力を籠めて衛兵の制服に皺を刻みながら、トゥイーディアは明瞭に尋ねた。
「オルトムント・リリタリス卿はどちらです」
衛兵が何か答えようとして、しかし息が詰まった様子で声を途切れさせた。
それを見て取って、トゥイーディアが左指の力を緩める。
その途端、衛兵が吐き出すように喚いた。
「――誰が言うのものか、この賊――」
ひゅ、と、翻る白刃が光の尾を引いたかと思うと、がんっ、と、耳に痛い音が上がった。
トゥイーディアが、一瞬の躊躇いもなく衛兵の側頭を剣の柄で殴りつけていた。
表情ひとつ変えない早業に俺はぞっとしたし、白目を剥いて崩れ落ちる同僚を見た他の六人の衛兵は、それ以上にぞっとしたことだろう。
まるで要らなくなったぬいぐるみを足許に放り捨てるかのように、頓着なく衛兵の襟首から手を離して彼を床に倒れさせながら、トゥイーディアが振り返り、他の六人の衛兵を順番に見遣った。
飴色の目に、無数の針のような無慈悲な光が浮かんでいた。
「七人もいて良かった。このうちの誰かは賢明でしょう」
あっさりとそう言ったトゥイーディアに、アナベルとカルディオスが絶句している。
どさ、と音を立てて床に倒れた同僚に、六人の衛兵の視線が集中していた。
咄嗟に剣を抜こうとした者が殆どだったようだが、ここで無駄に抵抗を許す謂れもないので、適宜俺たちで対処。
見えない手に腕を押さえ込まれたように感じただろう衛兵たちが、口々に怪訝の声を上げ始めた。
「――世双珠はここでは使えないはず――」
世双珠って利用を制限されたりもすんの、と、俺は軽く目を瞠ったが、トゥイーディアは軽い仕草で床に飛び降り、すぐさま真っ直ぐに姿勢を正しつつ、傲然とその声を遮って断言していた。
「ああ、それ、無駄なの」
やっていることはひとつも褒められたことではないが、それが分かっていてなお格好よくサーコートを翻し、トゥイーディアが次に目を付けた衛兵に向かって歩を進めた。
「イーディ――」
アナベルが制止するような声を上げたが、トゥイーディアはそちらを一瞥だにしなかった。
彼女が容赦なく詰め寄ったのは、偶然にも俺が魔法で動きを止めている衛兵だった。
つかつかと歩を進めたトゥイーディアが、動くに動けない(そりゃそうだ、俺が動きを止めてる。得意分野の魔法ではないとはいえ、その辺の魔術師と一緒にしてもらっては困る)衛兵を間近でじっと見てから、無表情に首を傾げた。
「――リリタリス卿は?」
「――――」
衛兵は、歯を食いしばって答えない。
見上げた根性だ。
俺なら、こんな顔のトゥイーディアに詰め寄られた時点で洗い浚い全部吐いてる。
トゥイーディアは眉を寄せ、その表情のまま、左手でぐっと衛兵の襟首を掴んだ。
――ここまで横暴に振る舞うトゥイーディアを、俺は見たことがなかった。
俺が見たことのないトゥイーディアなのだから、みんな同じことを考えていることだろう。
特にカルディオスは、我が目を疑うといった顔をしていた。
「イーディ」
見かねたように、アナベルとディセントラの声が揃った。
二人が二人とも、憂慮を籠めた声音だった。
トゥイーディアはそちらをちらりと見て、二人を安心させるように、乏しいカンテラの明かりでも分かる笑顔を唇の端っこに浮かべて、
「――――っ」
がんっ、と、襟首を掴んだ衛兵の頭を、手近にあったデスクの上に叩き付けた。
デスクが揺れたのみならず、床が揺れたかと思うほどの衝撃があった――それが、トゥイーディアの挙動による物理的な感覚なのか、それとも精神的な驚愕によるものなのか、俺には分からなかった。
衝撃に揺れたデスクの上から、詰み上がっていた書類が崩れ、ひらひらと宙を舞う。
ぱさ、と、俺の足許にも書類が一枚落ちてきて、そのときになってようやく、俺は自分の魔法がトゥイーディアによって棄却されたのだと気付いた。
――当たり前だ。俺があの衛兵の動きを止めていたのだから、その魔法を解除しない限りは、あの衛兵相手に狼藉を働くことも出来ない。
だが、それにしても、――さすがというべきか。
俺に違和感の欠片すら与えることもなく、トゥイーディアは見事に魔法を打ち消していた。
衛兵は低く呻いて、トゥイーディアの掌の下で暴れようとしている。
それを悉く押さえ込みながら、トゥイーディアは徹底的に醒めた声で呟いていた。
「リリタリス卿は無実なの、普通に考えれば分かるでしょ? だから助けに来たのよ」
ばんばん、と、衛兵がデスクを叩き、その挙動が、デスクの上に辛うじて留まっていた書類を床の上に払い落とした。
トゥイーディアはそのささやかな抵抗を歯牙にも掛けず、明らかに体格差がある相手をいとも容易くデスクに縫い留めている。
暴れる衛兵の足が、傍の椅子を蹴り飛ばして転倒させた。
床と椅子が衝突する大音響が轟くなか、トゥイーディアはぎゅっと唇を引き結び――そして、食いしばった歯の間から落とすようにして囁いた。
「――これまで散々、他人に対して善人であれと説いてきたんでしょう」
衛兵という職業を論うようにそう言って、トゥイーディアは左手で衛兵の後頭部を押さえたまま、右手の細剣を握り直した。
気配でそれを察したのか、暴れていた衛兵が息を呑む。
「今度はあなたの番よ」
トゥイーディアの左手に、ぐっと力が籠もった。
彼女が少しだけ前に身体を傾けて、衛兵の耳許に囁いた声が、ぞっとするほど――妙にはっきりと俺の耳に届いた。
「――善人として死んでみなさい」
俺ですら鳥肌が立った。
アナベルとディセントラが前に出た。
――そして、とうとう耐えかねたように、衛兵が喚くような声を上げた。
「知らないっ!」
トゥイーディアの表情に、明瞭に、焦燥と苛立ちが走った。
「そんなわけが――」
「知らないんだ、本当だっ!」
衛兵が、デスクに声で穴を穿とうとしているのではないかと思うほどの大音声で言い募った。
トゥイーディアが、緊張を籠めた瞳をディセントラに向け、ディセントラが頷く――大丈夫、声は外には漏らしていないという合図だ。
その合図を受け取って、トゥイーディアが壮絶な眼差しで衛兵を見下ろした。
「――知らないはずがないでしょう。あなた、ここで何をしていたの」
「知らないっ、俺は知らない!!」
衛兵が、もはや無様でさえあるほどに必死になって叫んだ。
そしてその言い回しに、残った他の五人の衛兵たちが、一様にびくりと震えたのが分かった。
――俺は知らない、と、衛兵は言った。
つまり、他の者であれば知っているという可能性を提示したのだ。
トゥイーディアが顔を上げ、五人の衛兵を順番にじっと見詰めた。
飴色の瞳が、人の目であるとは信じられないほどに無感動に、一人一人を眼差しの中に収めていった。
――今まさに、全ての抵抗を押さえ込まれているという事実があって、恐怖の箍が外れたかのようだった。
「お――俺も知らない!!」
一人が叫んだ。
アナベルが傍に立っている一人で、アナベルはその声を聞いて、さながら等身大の塵の山か何かを見るかのような目で、眉間に皺を寄せてそいつを眺め遣った。
その視線の冷ややかさは十分に感じられるところだったのか、衛兵は魔法に囚われたまま身を竦ませて、顔を伏せて、まるで逃げるように絶叫した。
「知らない――知らない!!」
そこからはあっと言う間だった。
残る四人が「知らない」と異口同音に大合唱し始めて、トゥイーディアの表情には焦燥の他に危機感が昇った。
「リリタリス卿は――あの方の所在は――伏せられていて――」
「自分たちには教えられていない! そもそも我々は、今日の夜からの番だ!」
「知らないことをどう答えろと言うんだ! そもそも、あの方の処刑はまだ先だろう!」
「異議申し立ての期間だ! 私たちを殺す前に――正当に――申し立てるのが筋だろうが!」
トゥイーディアの右手に、ぎゅっと力が籠もった。
――普通ならば、衛兵たちの言葉は、その場凌ぎの嘘を疑うようなものだが、――違う。
連中は嘘を吐いていない。
それが分かったがゆえの焦燥と危機感が、水槽に水を溜めるかのように、彼女の内側に注ぎ込まれているのが分かった。
押さえ込んでいた衛兵からゆっくりと手を離して、トゥイーディアは唇を噛み――
――解放された衛兵が、表情に半信半疑の安堵を浮かべながら、恐る恐る身体を起こそうとして――
トゥイーディアが指を鳴らした。
途端、不自然に息を詰まらせて、五人の衛兵が一斉にその場に倒れ込んだ。
一人が倒れる際に椅子を巻き込んで、がたんっ、と椅子が倒れる騒々しい音が響いた。
――魔法で呼吸を詰まらせて失神させたらしい。
普段のトゥイーディアなら採らない乱暴な手段だ。
「……なんで――っ」
トゥイーディアが顔を伏せて呟いた、ちょうどそのとき、軽い足音と共に階下からコリウスが現れた。
コリウスは、場を一目見て状況を察したらしい。
きぃ、と軽い音を立てて、仕切り板の扉になっている部分を押し開けて、足早にこちら側に踏み込んできた。
そのまま、倒れ伏す七人の衛兵にも、危機感のありったけを籠めてトゥイーディアを見詰めるアナベルにも、ディセントラにも、カルディオスにも一瞥もくれず、ただ真っ直ぐにトゥイーディアの傍に歩み寄った。
足許に紙が散乱しているからか、足取りは幾分か慎重だった。
トゥイーディアが顔を上げ、コリウスを見た。
「コリウス、ここの人たちは――」
「――父君の居場所は知らなかったんだね」
トゥイーディアの言葉を引き受けるようにそう言って、コリウスはしばし考えるように顎に手を当てた。
そして、すぐにトゥイーディアと目を合わせて、淡々と言った。
「階下の衛兵に訊いておいた――見張りの交代は朝までは無いらしい。だからそれは心配しなくていいよ。
地下は二階、地上は七階だ――正確にはもう少し上に階があるそうだが、七階より上は人が入れないらしいから、気にしなくていい」
トゥイーディアが頷いた。
焦ったように足踏みして、トゥイーディアは喉に絡んだような声を出す。
「全部の房は見ていられない――」
「居場所が分からないなら仕方ない」
コリウスは端的に言って、目を細めた。
「――それに、見回りの衛兵がいるはずだ。その連中まで、おまえの父君の居場所を知らないということはないだろう。途中で出くわした連中を叩きのめして聞き出せばいい」
俺は思わず瞬きした。
――コリウスにしては、随分と乱暴な意見が出てきた。
いや、こいつは、いざとなったらなりふり構わないし、何かの都合で犠牲が出ても、割と平然としている方だけど――でもそれにしても――
「――トゥイーディア、上を見て来い。上階であればあるほど可能性が高い。
まずは七階まで上がって、それから順番に下りて来るように」
コリウスの指示に、トゥイーディアが頷いた。
そのまま、他の――俺たちが――地上か地下か、どちらに向かうかを指示されるのを聞く前に、身を翻して奥へ走り、上階へ続く階段を守る鉄格子の扉に手を掛ける。
ぱっ、と白い光の鱗片が舞って、すぐさま扉が開かれた。
寸分たりとも躊躇せず、トゥイーディアが階段を駆け上がって行く。
翻る蜂蜜色の髪と濃緑のサーコートの裾が遠ざかり、闇の中に消えていく。
「――行っちゃったんだけど」
アナベルが、唖然とした様子で階段の方を見つつ、トゥイーディアに続こうとするように足を踏み出した。
「ちょっとコリウス、なにあの子を一人で行かせてるのよ。何をしでかすか分からないのに――」
「アナベル」
コリウスが呼んだ。
アナベルが、ちょっとびっくりしたように振り返った。
――コリウスもまた、最近はずっと、アナベルの名前を面と向かって呼ぶことはなかった。
カルディオスがコリウスに罪悪感を覚えているように、コリウスもまたアナベルに罪悪感を覚えているから。
振り返ったアナベルの薄紫の双眸と、コリウスの濃紫の双眸が、ぴたりと視線を合わせたのが分かった。
「おまえは地下だ、アナベル」
宣告するようにそう言ったコリウスに、アナベルがわざとらしく目を剥いて腕を組んだ。
「はあ?」
あからさまに不機嫌にそう言ったアナベルにも、コリウスは眉ひとつ動かさなかった。
そして、ディセントラを指で示して、有無を言わせぬ口調で断言した。
「ディセントラもだ。
アナベルと僕と一緒に、地下だ」
「コリウス、それは」
ディセントラが口を挟み、トゥイーディアが去った方向をちらりと窺ってから、愁いの色の濃い淡紅色の瞳でコリウスをじっと見た。
「その分け方はおかしいわ。あんたが地下に行くなら、私が地上に行くし――それに、」
柳眉を寄せて、ディセントラは心持ち声を低めた。
「――どうしてイーディを上に行かせたの。
あの子の父君がいらっしゃるのは、地下の方が可能性が高いでしょうに」
「ディセントラ、おまえも地下だ」
頑としてそう言って、コリウスは濃紫の目で真っ直ぐにディセントラを見据えた。
「――地下にあいつの父君がいるとして、――地下に入れられるということは、それなりの待遇を受けているということだ。
あいつに、わざわざそんな父君の姿を見せるつもりか」
ディセントラが息を吸い込んだ。
俺も、目を見開いてコリウスを見た。
――こいつ、そんなこと考えるんだ。
そんな気遣いをするんだ。
ディセントラは一瞬、自分の考えがそこに及ばなかったことに対して、混乱したかのように頭を振った。
だがすぐに顔を上げて、コリウスを見て眉を顰める。
「――イーディを上に行かせたのは……ええ、そうね……分かったわ。
でも、ねえ、コリウス――」
「おまえとアナベルは地下だ。僕も一緒だ」
コリウスが繰り返しそう言って、珍しいほど頑なな瞳でディセントラを見た。
――この二人の意見が割れるのは、滅多にないことだった。
だから、咄嗟にどちらに従えばいいのか分からず、俺はおろおろしてしまった。
カルディオスも同じ状態で、奴はまた、コリウスに対する気まずさもあって、余計に狼狽しているようだった。
うろうろと翡翠色の目を泳がせて、ディセントラをじっと見ては、遠慮がちにコリウスにも視線を掠めるように当てている。
アナベルもまた、納得しかねるという顔をしていた。
アーバスは、先に行ったトゥイーディアの様子が気になるらしく、ちらちらと階段の方を見ている。
その顔に、「救世主同士で揉めるのはやめてくれ」という率直な意見が、ありありと浮かんでいた。
そんな俺たちの様子をぐるりと見渡して、コリウスが小さく息を吐いた。
そして、口早ながらも明瞭に、はっきりと言った。
「いいか、何か勘違いをしているようだが――」
軽く首を傾げて、コリウスは。
「今の僕たちは救世主としての行動はしていない。だから、いいか、命の価値に高低をつけていいんだ」
ディセントラが瞬きした。
アナベルが、はっきりと眉を寄せてコリウスを見た。
俺とカルディオスは、むしろきょとんとしていた。
――俺たちは今、救世主として振る舞ってはいない。
そんなことは分かっている、先刻承知だ。何を今さら。
コリウスは、そんな俺とカルディオスの方には目もくれず、ディセントラとアナベルを見ながら続ける。
「もっと言えば、命の取捨選択をするべきだ。トゥイーディアの父君の命を最優先に置くならば、他のある程度のものは切り捨てるべきだ」
「そんなことをしたら――」
顔を顰めて、アナベルが言い差した。
明確に、トゥイーディアを案じる声だった。
だがそれを遮って、コリウスは断言する。
「トゥイーディアもそのつもりで来ているはずだ。
――いいか、おまえたちには分からないかも知れないが、」
息を吸い込んで、コリウスは、認識に線を引くような声を出した。
「――死ねばそれまでだ」
「――――」
カルディオスが、打たれたように怯んだ。
アーバスには、コリウスが何を言っているのか、その意図が分からなかっただろう。
だが、俺たちには明瞭に分かった。
――俺は、今回のことについて、コリウスが妙にトゥイーディアに優しかったこと、協力的だったこと――その全部に、ようやく合点がいっていた。
“死ねばそれまで”。
――俺たちのことじゃない。
俺たちは、死んでもまた会える。
ゆえに、死すらも俺たちの逃げ道や救済とはなり得ないが――、一方で、他の人たちは、トゥイーディアのお父さんは違う。
彼に、自我を保った転生は有り得ない。
俺たちが常識として認識しているそのことを、コリウスは骨身に染みて知っている。
――他でもない、カルディオスに殺された彼の恋人の存在を通じて。
アナベルであっても、シオンさんと二度と会えないことは分かっているだろうが、コリウスとアナベルに決定的な差があるとすれば、恋人が天寿を全うしたか否か、その点だ。
コリウスは――自分の死後だったとはいえ――恋人を殺されている。
だからこそ、自分よりも遥かに短い生しか持たない大事な人を、不当に早く奪われる気持ちが分かる――
――カルディオスが俯いた。
彼が、いっそうコリウスに対する罪悪感を募らせたのは明白だった。
俺はそのことを認識すると同時に、コリウスがどういった意図で地上と地下に行く者を選んだのかを悟っていた。
――トゥイーディアを上階に行かせたのは、万が一地下に彼女のお父さんがいた場合、厚遇を受けたとはとても言えないだろうその姿を、彼女に見せないようにするため。
そしてディセントラとアナベルをトゥイーディアから引き離すのは、二人がトゥイーディアの邪魔になるから。
トゥイーディアが道理をへし折ってでも進もうとするときに、二人はトゥイーディアを止めるだろうと、コリウスは真っ当に予想した。
だから二人に、トゥイーディアとの同道を避けさせた。
そして、そのコリウス自身が、そんな二人と同じ場所へ向かうのも道理で――
――コリウスが、俺たちを信じていないからだ。
トゥイーディアが、彼女のお父さん救出のために尽力するのは、彼女自身のためだ。
だから、その努力を疑う必要はない。
その一方、俺たちにはコリウスを納得させるだけの動機がない。
だからこそ、コリウスは、自分自身がトゥイーディアとは別の場所へ向かって、お父さんを捜索しなければ気が済まないのだ。
自分までが地上に向かっては、たとえ地下にお父さんがいたとして、俺たちがその救出を怠るのではないかと疑っている。
――そこまで分かってしまえば、俺には何も言えない。
ディセントラもアナベルも、恐らくは俺と同じ結論に行き着いただろう。
そして、それでもなお、アナベルが何か言おうとした。
だがそれを、ディセントラが首を振って止めた。
「――コリウス、分かった。
アナベル、行きましょ」
コリウスを、何とも言えない感情が浮かぶ瞳で見遣って、ディセントラがアナベルの腕を取って歩き出す。
腕を引かれたアナベルは、明らかに納得していない様子で、ディセントラの手を振り解こうとしていた様子だったが、結局は折れた様子でディセントラの後に続いた。
だが、コリウスを徹底的に冷ややかな瞳で睨み据えて行くのは忘れなかった。
睨まれたコリウスは、対照的な無表情でそれを見送ってから、俺たちの方へ視線を向けた。
コリウスに見られることを恐れるように、カルディオスが一歩下がった。
「――おまえたちは上へ。アーバスさん、あなたも」
そう促してから、コリウスはカルディオスを見た。
濃紫の目に、薄く後悔が漂っているのが俺には分かった。
――多分、カルディオスがいる場所で、彼の罪悪感を煽るようなことを言うつもりはなかったのだ。
コリウスの表情の機微は、目を伏せていたカルディオスには分からなかっただろう。
見えなかっただろう。
数秒の間カルディオスをじっと見て、コリウスが口を開いた。
何か言おうとして、だが結局はその言葉を撤回するように口を閉じて、一秒。
また唇を開いたコリウスが、小さく言った。
「――カルディオス、気を付けて」
「…………」
カルディオスは答えなかった。
まるで、眼差しそのものに鉛の重石を括り付けられてでもいるかのように目を伏せたままだった。
そのまま足早に、踵を返して階段に向かう。
俺も、アーバスを促してそれに続きながら、最後にもう一度振り返った。
コリウスは、彼にしては珍しく、後悔と逡巡の色濃く浮かぶ表情でこちらを見ていて、俺が振り返ったことに気付くと、一瞬の躊躇ののちにはっきりと言った。
「――ルドベキア。カルディオスが無茶をしないよう、見ていてくれ」
俺は頷いて、前に向き直って階段へ飛び込んだ。
カルディオスとアーバスの後ろ姿が見える。
トゥイーディアの方は――俺が案じて止まない彼女は――、もはや足音すら聞こえないほどに先に行っているが、彼女から漏れ出している魔力の気配は、闇の中の灯火のように明確に分かった。
――コリウスが、カルディオスのことを俺に頼んだ。
それは、俺がカルディオスのことを大事に思っていることを、あいつが知っているからだ。
別に、あいつが俺を信じているからじゃない。




