50◆ そのために
救世主が六人揃い踏みした事態に、アーバスは途轍もない居心地の悪さを覚えたらしい。
トゥイーディアに向かって、「俺はどっかぶらぶらして、救世主さま方のメシでも買って来るわ」と宣言し、実際にさっさと町に繰り出して行った。
玄関までとたとたと駆けて行ってアーバスを見送るトゥイーディアが可愛くて、俺はうっかり彼に付いて行きそうになったほどだった。
――とはいえ、代償が俺のそういう馬鹿な行動も封じてくれるので、俺たちは恙なくアナベルとの情報共有に移った。
コリウスは、少なくとも俺たちと一緒にイルスには行っていないはずなのに、なぜかディセントラと一緒に情報共有を円滑に進めてくれた。
あの場にコリウスいたっけ、と俺が思わず考え込んでしまったほど、順序立った分かりやすい説明だった。
コリウスさすが、と思って、俺とカルディオスとトゥイーディアは、話し手の役割をディセントラとコリウスにぶん投げて黙っていた。
俺とトゥイーディアの魔法の一部が封じられたと聞いて、アナベルは驚きこそしたものの、顔色ひとつ変えずに、「じゃあこれからはあなたが一番前に立ってね」と、俺に向かって臆面もなく言い放った。
確かに、俺は自分自身のことならば守ることが出来るままだ。
だからアナベルの言い様は正しい。
正しいんだけど、うん……。
とはいえ、一番前に立つということは、即ちトゥイーディアのことを守れるということである。
なので、異論なし。
俺はアナベルに向かってめちゃくちゃ素っ気なく頷いておいた。
トゥイーディアはちょっと嫌そうな顔をしていて、もしもそれが俺の身を慮っての表情だったのだとしたら、俺は三日三晩踊り続けられるくらいには嬉しいんだけど、と、ついつい考えてしまった。
アナベルはまた、俺が現在ルインに頼んでいることを聞くや、鼻に皺を寄せて、「で、なんでまだ書状は見付かってないの?」と言いやがった。
このやろう……俺がどんだけ弟のこと心配してると思ってやがる……。
確かに、ルインがさっさとあの書状を見付けてくれさえすれば、俺たちは危険を冒すまでもなく大団円、リリタリス卿には四方八方から丁重な謝罪が送り付けられ、リリタリス卿に死刑判決を下した誰かさんの首が代わりに飛んでいくことになろう。
だが実際には、ヘリアンサスがどこまで手を回しているか分からない状況なのだ。
書状を見付ければ大金星というところを、アナベル、いけしゃあしゃあと普通に抜かしやがって……。
いや、まあ、分かってんだけど。
アナベルにとっては、ルインよりもトゥイーディアが遥かに大事なのだ。
だからこそ、ルインに対する気遣いがごそっと抜けた台詞を吐いたのだ。
別にルインのことを死んでもいいとまでは思ってないはずだ。
アナベルは、こう見えて愛情深い奴だ。それは分かってんだけど。
――とはいえ、俺が結構本気でわなわなと震えたのを見て取って、ディセントラがすかさずアナベルを窘めてくれていた。
そのあと、さしものディセントラも無言で鳩尾の辺りを押さえて俯いていて、彼女の心労の程が窺えた。
それに気付いたトゥイーディアがめちゃめちゃ申し訳なさそうにディセントラを見ていたので、俺は思わず手を挙げて、「この中で誰よりおまえのことを考えて、おまえがつらそうにしてるのを見て堪えてるのは俺だから!」と主張したくなった。
そんなことを言っても困らせるだけだから、たとえ代償がなくとも言わないけど、トゥイーディアにこっちを見てほしい。俺を見てほしい。
この頃は本当にこっちを見てくれることすら少なくなったから、余計にそう思う。
トゥイーディアのお父さんの処刑自体は一箇月先のはずだったが、ここでぼーっとその日を待つ道理もなくて、お父さんの救出の決行は――誰も何も言わずとも――今夜だという前提の下で情報共有の話は進んだ。
つまり、何というか、俺がルインに頼んだ無茶は空振りになりそうだった。
こんなことで弟の命を危険に晒しているのかと思うと、俺はこのまま地面に穴でも掘って隠れたくなったが、俺の顔色からその心情を察してくれたらしいディセントラが、先回りして、「ルインくんだけれど」と切り出してくれた。
「あの子が上手く書状を見付けてくれさえすれば、私たちはリリタリス卿に逃亡生活を強いなくて済むわけね。このままだと、首尾よくお助けすることが出来ても、そのままどこかに隠れていただかないといけなくなっちゃう」
――なるほどね。
リリタリス卿は高名な騎士だから、隠居生活みたいなのを強いるのは心苦しい。
しかも、危うく死刑になりそうだったところを助け出して、そのまま彼をリリタリスの荘園まで送り届けることは出来ない。
追手が真っ先に差し向けられるだろう場所に、おめおめとリリタリス卿を戻すことは大馬鹿者のすることだ。
だから、リリタリス卿の潔白をちゃんと証明しないと、リリタリス卿は――延いてはトゥイーディアは――あの荘園に帰ることが出来ないのだ。
――それは問題だ。
何しろトゥイーディアは、あの荘園を郷里と思って慕っている。
引き離されたままでいるのは辛いだろう。
納得しながらも、俺は顔を顰めた。
それは単純に、この状況に対する不快感からのものだったが、ディセントラは違う風に捉えたようだった。
肩を竦めて溜息を落とすと、言い聞かせるように俺に向かって言った。
「リリタリス卿をお助けした後に、イルスに戻ればルインくんにも助勢できるから」
俺は頷いた。
――イルスに着いた当初、俺たちは、政治的な柵がなくなれば――即ち、リリタリス家が中立を示せば、トゥイーディアのお父さんの冤罪を晴らす手立てもあると考えた。
それが、ヘリアンサスが手を出して、救世主そのものの立場が危うくなった後に、めでたくリリタリス家が現王派からも切り捨てられてこの状況。
順序が違えば状況の好転もあっただろうものを、ヘリアンサスは周到な順序で駒を動かした。
本当に、盤面を俯瞰しているかのように。
俺が頷いたことでルインの話はお仕舞いになって、コリウスが続いて、ベルフォード侯の館のすぐ近くにある塔について説明を始めた。
城壁の中にあるだとか、見張りがかなり厳重だとか、内部構造までは分からないだとか。
でも、まあ、殴り込みを掛けるのが俺たちなのだから、如何に厳重な警備といえども障害にはなるまい。
アナベルだけは難しい顔をしていたが、これは十割が、トゥイーディアがうっかり人を殺してしまうのではないかという懸念によるものだ。
大体の話が終わったところで、頑なにコリウスの顔を見ずに目を伏せていたカルディオスが顔を上げて、トゥイーディアの方を向いた。
そして、気遣わしげに言った。
「――イーディ、ちょっと休んできたら? アーバスのおっさんがメシ持って来たら呼ぶよ。
今晩、徹夜になりそーだし、今のうちに休んでた方がいいって」
トゥイーディアと行動を共にする全員が、今日は夜を徹して動くことになりそうだったが、カルディオスがトゥイーディアを名指ししたのも尤もだった。
心労のゆえだろうが、トゥイーディアの顔は疲れ果てている。
今日の未明にお父さんの刑罰が決定したことを知ってから、恐らく息すら苦しいほどの心痛があるはずだ。
トゥイーディアはきょとんとしたように目を見開いて、数秒の間カルディオスを見ていた。
それから、少し迷うように視線を泳がせて、こくんと頷く。
俺はほっとした。
カルディオスもほっとした様子で身体から力を抜いた。
トゥイーディアが、コリウスに向かって口を開いた――恐らくは、この家の間取りを聞こうとしたのだ。
コリウスも、どこの部屋で休めばいいのかをトゥイーディアに伝えようとした様子で、濃紫の瞳をトゥイーディアに向けた。
――そのとき、どんっ、と、地鳴りがした。
かたかた、と小さく窓枠が揺れて、俺たちは一様に眉を寄せた。
そして、申し合わせたようにコリウスを見遣る。
コリウスは思い切り顔を顰めて、「僕じゃない」と。
いや、コリウスの魔力の気配はしていないから、それは分かってんだけど。
ただ、俺たちの知る限り、魔法で地震も起こせる人間はコリウスだけだから、思わず見ちゃったというだけで。
トゥイーディアが立ち上がった。
眉を寄せて、出窓の外をじっと見ている。
「――何かあったのかな」
俺も出窓を振り返った。
レースの帳越しに見える窓の外は穏やかな夕刻の光景――そしてそれゆえに、先程の地響きが何の所以のあるものかが気に掛かる。
カルディオスが、トゥイーディアを追うように立ち上がった。
「俺、見て来るよ――あぁ」
語尾が吐息に変わって、カルディオスは呆れたように天井を仰ぐ。
「――休めっつったじゃん……」
愚痴のようにそう呟いて、カルディオスは、彼の言葉を聞きもせずに玄関に足を向けたトゥイーディアを追い始めた。
俺はしれっとした態度で座ったままでいたが、次いでがたがたと立ち上がったディセントラに腕を引っ張られ、不承不承立ち上がった。
いきおい、俺たちは六人揃って、夕焼けを移して薄らと橙色に染まる空気の中に踏み出して行くこととなった。
怪訝そうな顔で家から顔を突き出したのは、何も俺たちだけではなかった。
突然の地響きに不安そうな、あるいは迷惑そうな顔をして、ちらほらと通りに出て来る人たちがいる。
市の方からも、なんだなんだと騒ぐ声が聞こえてきていた。
空は薄雲を被っていて、包んだ夕日を半ば逃がしているかのように赤みを帯びた真珠色に染まっている。
レイヴァスの短い夏は終わりつつあって、ほんの一箇月前と比べても、日の入りは明らかに早くなっていた。
カルディオスが、トゥイーディアの騎士装束が目立つことを警戒した様子で、するりと自分の黒い外套を脱いで彼女の肩に掛けた。
トゥイーディアはびっくりしたように肩を揺らしてから、外套に袖を通すことはせずに襟元をぎゅっと押さえて、カルディオスを見上げて何か呟いた様子。
恐らく、「ありがと」とでも言ったのだろうが、俺はカルディオスが羨ましくて血を吐きそうだった。
外套なら俺も着てるし、代償さえなければ同じことが出来るのに……。
むしろ、一回は裾が血の海に沈んだこともあるカルディオスの外套よりも、俺の外套の方が清潔だ。
「――さっきのあれ、なあに」
「どっちから聞こえた?」
「あっちじゃないかしら……」
四方八方から不安そうな囁きが聞こえてきて、人々の動きは二分された。
即ち、ぐるっと周囲を見渡して、特段何も起こっていない様子であることを確かめて、再び家の中に引っ込む人と、それでなお地響きが聞こえてきた方向に足を進める人と。
俺たちは無論のこと後者に属していたし、幸いにして周囲の人々よりも幾分か注意深かったので(年の功というやつだ)、都市の中央に向かう方向で、薄らと夕空に向かって立ち昇っている粉塵に気付いた。
トゥイーディアが、俺たちを振り返ることもなく、さっさとその方向に足を進め始めたので、俺たちは若干溜息を吐きながらそれに続いた。
――なんつーか、やっぱり今生のトゥイーディアは猪突猛進の独断専行だな。
前まではここまでじゃなかった気がする。
お父さんに似たんだろうか。
まっしぐらに突っ込んで行く、今までには見られなかったトゥイーディアの姿にも、俺は既に惚れてしまっているわけだけど。
地響きは、無論のことだが、その発生源に近ければ近いほど大きく聞こえたはずだ。
ゆえに、足を進めて行くにつれて、どんどん野次馬の数は増えていった。
俺たちは、狭い脇道を幾つか抜けて、大通りを渡って、更に脇道を幾つか通り、いつの間にか数が膨れ上がっていた野次馬の半ば辺りの位置で、ベルフォード侯の館を囲む円環型の広場に到着した。
そしてそこまで来れば、トゥイーディアの即断即決が正しかったことは明白だった。
粉塵は、どうやらベルフォード侯の館の一部が崩れたことによるものだった。
落ちていこうとする斜陽の明かりが、斜めに赤くその惨状を照らし出していて、そしてそれゆえにその光景はいっそ絵画じみて見えていた。
館の端っこの塔がひとつ崩れ、瓦礫の山と化しているようだったが、その光景にまるで現実感がない。
群衆は――ベイルの内側の街区に住んでいるのだから――それなりに金持ちが多いはずだったが、それでも騒ぎ方は庶民のそれだった。
なんだ、どうした、と、あちこちから当惑した声が上がっている。
俺たちも、丸っきり群衆の一部のように周りと同じ顔をして、伸び上がって状況を見ようとしていた。
まあ、俺とカルディオスに関していえば、周りよりも上背があるので、特段伸び上がる必要もなかったが。
とはいえ、アナベルやトゥイーディアは、結構頑張って背伸びをしているようだった。
女性の平均的な背丈を授かっている二人からすれば、目の前に立つ大の男が壁のように感じられていることだろう。
カルディオスが、トゥイーディアに向かって(アナベルに向かって声を掛ける度胸はなかったらしい)、「だいじょーぶ?」と声を掛けて、軽く屈んで彼女を抱き上げようとした。
俺が嫉妬に息を詰めたその瞬間、ひょい、と、横からカルディオスではない別の人物の手が、トゥイーディアを浚って片手で抱き上げた。
いきなり地面から足が離れたものの、トゥイーディアはさすがだった。
ぎょっとした様子のひとつもなく、ぱっと表情を華やがせる。
「――アーバス小父さま! 買い物はお済み?」
「おーよ」
と応じたアーバスは、トゥイーディアを抱えたのと反対側の手を軽く持ち上げる。
そこに紙袋がぶら下がっていて、中には夕飯になるものが入っているのだろうと想像された。
アーバスはそのまま、灰色掛かった青い目を眇めて侯爵邸の方を見遣る。
夕日がその顔半分を照らし出して、陰影が鮮やかに見えた。
「買い物ついでに、オルトが本っ当にあそこの塔にいるのかどうか、それとなーく聞き回ってみたんだが、さすがにもうあそこにいるみたいだわ」
あそこ、と示されたのは、当然ながら、侯爵邸のすぐ傍に聳えている塔である。
俺たちから見ると、侯爵邸の右手側、侯爵邸と同じ城壁の奥に見えている、堅牢な塔。
「昨日の夜中に連行されてんのを見たって連中がかなりいる。まだ西の方にいれば、乗り込んで行くのも楽かと思ったんだが」
しれっとそんなことを小声で言ってから、アーバスは首を傾げた。
「――にしても、どうした? あっちからだと割とはっきり見えたが、我らが領主さまのお屋敷がえれぇことになってんぞ」
あっち、と言いつつ、左方向に顎をしゃくるアーバス。
トゥイーディアはこてんと首を傾げたあと、大変可愛らしい仕草でアーバスの肩にしがみ付いた。
おいちょっとそこ替われ、と、俺はアーバスに物申したかった。
トゥイーディアは本当に、指先までが奇跡みたいに可愛い。
「――私が、地震に気付かなかったほど鈍感……ってわけではないわよね?」
ね、と見渡されたのは俺たち全員で、俺は素っ気なくそっぽを向いているだけだったが、俺以外の全員が一斉に頷いていた。
「地震はなかった」
あちこちで同じような遣り取りがされているようだった。
揺れなかったよね、と確認する声に、揺れてない、それに他にどこも崩れてない、と応じる声、似たような遣り取りの声があちこちから聞こえてきている。
ややあって、侯爵邸から衛兵の格好をした一団が走り出て来て、群衆を散らし始めた。
槍で威嚇してくる衛兵たちに、群衆がわらわらと引き返し始める。
衛兵たちも疲れた顔をしていて、「リリタリス卿絡みの揉め事だけで騒ぎは沢山だ!」と怒鳴っている者までいた。
俺たちからすれば、衛兵如きに怯む理由もなかったけれど、その場に留まって要らぬ注意を引くのは得策ではなかった。
群衆に紛れるように踵を返して、アーバスがトゥイーディアを地面に下ろす。
七人になった俺たちは、宙に紗を重ねるようにして密度を増そうとする夕闇の中を、足早に借家へと戻り始めた。
トゥイーディアが、念を押すようにコリウスをもう一度見て、コリウスが唇を引き結んで首を振った。
その遣り取りは全て無言だったが、コリウスが首を振ったのを見たトゥイーディアは、冷淡な声をぽつりと零した。
「――そう」
そう呟いた彼女が何を考えているのかは、さすがの俺にもはっきりと分かった。
――俺たちの知る限り、〈動かすこと〉という魔法を大規模に扱えるのは、まずはコリウスだ。
堅牢な建物の一画を、ああも見事に崩すとなれば、コリウス以外には――俺たちであっても難しい。
魔力量からいえば可能だろうが、魔法の向き不向きというものがある。
俺がやると、崩すのではなくて爆発させることになってしまうしね。
トゥイーディアに至っては、残骸すら残さず消し飛ばすことになるし。
だが、俺たちには、コリウス以上にその魔法を扱えるだろう存在にも、一つだけ心当たりがある。
「……拙いかも知れない」
ディセントラが呟いた。
珍しいほどに焦燥に駆られた声だった。
「拙いかも知れない。
あいつ、私たちが思ってる以上に急いでるんだわ」
◆◆◆
借家に戻った俺たちは、アーバスが購入してきた夕飯を腹に詰め込んだ。
肉汁から作ったソースに浸されたごろごろっとした肉を分厚いパンに挟んだもので、市で店主が大急ぎで紙袋に詰め込んだのだろうと分かる潰れ方をしていた。
だが、もはや誰も何も言わず、立ったままそれを口に入れながら、コリウスとディセントラの話に耳を傾けていた。
コリウスもディセントラも、高貴な生まれが相次いだせいか、めちゃくちゃ作法には厳しいが、それも時と場合による。
今は、口の中にものが入っていようが喋ってくれていた。
「アーバスさん、質問は全部後に回してくださいね」
と、最初にディセントラが釘を刺し、その語尾を浚うようにしてコリウスが言葉を続ける。
「侯爵邸は、明らかにあいつのしたことだろう。ここにいる誰でもないなら、あんなことが出来るのはあいつだけだ。
――あいつが、今どこにいるのかは知らないが、」
小さく息を落として、コリウスは眉間に皺を刻む。
「イルスからであっても、あいつならあれくらいはこなすだろう」
アーバスは、「あいつ」というのが誰なのか、当然に疑問を持っただろうが、ディセントラに言われたように口は挟まなかった。
飄々とした態度でパンを大きく齧っており、もぐもぐと口を動かしながら、発言者に視線を向けている。
「――あいつ、ベイルに来ているかも知れない?」
トゥイーディアが首を傾げて尋ね、コリウスをじっと見た。
「イルスからベイルまで、あいつは移動できる?
私たちがイルスを出たときには、あいつはまだ王宮にいたはずだけど」
「可能だ」
肯って、コリウスはしばし、空中を見据えるような目付きをした。
「僕の魔法を使っていると仮定すれば――、いや、瞬間移動でなくとも……」
そこまで呟いて、コリウスは議論が脱線するのを嫌うように首を振った。
「――とにかく、あいつが今、ベイルにいる可能性も十分にある」
「あいつが何をしようとしているのか、正確なところが分からないことが痛いんだけれど」
ディセントラが言葉を引き取って、「私が話している間に食べて」と言わんばかりにコリウスを一瞥した。
それから俺たちに視線を向け直して、きっぱりとした口調で言葉を並べる。
「この状況はあいつが狙って作ったものだろうけれど、手続きはそうじゃないのよ」
そう言われて、俺も気付いた。
――ヘリアンサスがトゥイーディアのお父さんを貶めているがゆえのこの状況だが、司法の手続きは規定通りのものであるはずだ。
ゆえに、お父さんに判決が下るまでに非常に長く掛かったわけだし、これから刑の執行までも一箇月の余裕があるわけである。
「一箇月は、多分、あいつにとっては長いの」
ディセントラがそう言って、気難しげに眉を寄せた。
「私たちは確かに、あいつに傷ひとつ付けたことはないけれど、――あいつだって、私たちが暴力沙汰でリリタリス卿をお助けしようとすれば、並の人間ではそれを止めるのが難しいことくらいは認めているでしょう」
ディセントラが言葉を切って、無言でパンを食べ切ったコリウスが、それを合図にしたかのように口を開いた。
「――仮に、あいつの狙いを、トゥイーディアの父君の命であるとしよう」
トゥイーディアの顔が強張ったが、コリウスはそれを無視した。
アーバスの表情にも険が載ったが、俺たちはそれを気にしていられない。
「そうすると、あいつは父君の命を直接奪うことは出来ない」
――『対価を、僕のために僕以外の者が手に入れること、それが僕の支払う〝対価〟だ』、と――ヘリアンサスは確かにそう言っていた。
「つまり、あいつは、父君を死刑台に立たせなければならない」
トゥイーディアの顔がいよいよ蒼白になって、俺はそれを見ていられなかった。
思わず目を逸らした俺の仕草を、代償が極めて淡白なものに変えて、俺の手は勝手にパンを口に運んでいる。
味がしないが、噛んで呑み下す。
「これまでは、あくまで、父君の罪状がどのように決着するか、あいつも待たねばならなかった。
――その過程でも、散々手を出してくれたようだが」
目を眇めてそう言ったコリウスは、恐らくはディセントラから伝え聞いた、謁見の間での貴族の殺人や、陳情団の皆殺しのことを念頭に置いているのだろう。
「だが、今は違う。あいつは恐らく、刑の執行を急がせるつもりだ」
「――さっきの騒ぎを、」
と、顔を上げたディセントラが言葉を引き継いだ。
「なんとかして、“リリタリス卿の擁護者が起こしたことだ”ってことにすれば、下手すれば異議申し立ての機会が丸ごと削られてしまうわ」
パンを食べ切って、トゥイーディアがその場で足踏みした。
飴色の目が強張っている。
「――じゃあ、急がないと」
「ああ、そうだな」
頷きつつも、コリウスはすぐには動かなかった。
濃紫の目でトゥイーディアを見て、軽く首を傾げた。
「――トゥイーディア。ガルシアで言っていたな」
俺は一瞬、コリウスが何のことを言っているのか分からなかった。
恐らく、トゥイーディアとディセントラ以外の全員がそうだった。
トゥイーディアが息を吸い込むのを眺めながら、コリウスはやや厳しい声で続ける。
「おまえの父君が、ご自身のことには執着なさらないと――はっきり言っておくが、」
ディセントラがコリウスをちらりと見たが、コリウスはそれには応じずに言葉を続けた。
「助かるつもりがない人を、あいつの手からお助けするのは不可能だ」
トゥイーディアが口を開いた。
何かを言おうとした様子だったが、結局は声にならずに口を閉じてしまう。
そのまま目を伏せるトゥイーディアから、コリウスがアーバスに視線を移した。
突然に救世主の瞳が自分を向いて、アーバスはわざとらしく目を丸くしてみせる。
「――救世主さま、嬢ちゃんをあんまり苛めねぇでくださいよ」
「アーバスさん」
アーバスの軽口を完全に無視して、コリウスは呼び掛けて目を眇める。
「あなたはリリタリス卿と親しい、そう思ってよろしいですね」
斬り付けるような声でそう言われて、アーバスは瞬きしたあと肩を竦めた。
「よろしいと思いますぜ、多分ね。
まあ、シンディがいなくなってからこっち、あいつが腑抜けになったのは確かですがねぇ」
「分かりました」
アーバスの言葉の要点だけを聞き取ったような顔で、コリウスが短く頷き、立てた指をアーバスに向けた。
「アーバスさん、あなたを戦力として数えるつもりはありません。ただし、リリタリス卿を説得していただきたい。
僕たちの目的は、彼の無事の確保です。本人に足を引っ張られるようでは話にならない」
「承知、承知」
俺が心配になるほど軽い口調でそう言って、アーバスが手を伸ばしてトゥイーディアの頭に手を置いた。
ぽすん、と置かれた掌の下で、トゥイーディアの頭が揺れる。
蜂蜜色の髪に挿された髪飾りがきらりと光る。
「おう、ディア嬢ちゃん。俺もまあ口は出すけどよ、主戦力は嬢ちゃんだぜ。ちゃんとオルトを説得しろよ。
――シンディの髪飾りまで着けて来て、何を心配してるか知らねえが、あいつはあんたが生まれたとき、そりゃもう手が付けらんねぇほど喜んでたんだからな」
トゥイーディアが目を見開いた。
アーバスの言葉で、俺はようやく、トゥイーディアが着けている金細工の髪飾りが、彼女のお母さんの形見である――彼女のお父さんからお母さんへ贈られたものである――ことを察した。
アーバスの掌の下から彼を見上げて、トゥイーディアは茫然と呟いた。
「……ほんとに?」
ぽつん、と、外見年齢相応の声で、トゥイーディアが尋ねた。
「私のせいで、お母さまが患うようになったのに?」
それを聞いて、アーバスの顔から、一切の軽薄さが抜け落ちた。
「は?」
腰を屈めてトゥイーディアの顔を覗き込んで、アーバスが声を荒らげた。
「おまえ、そんな風に思ってたのか?」
トゥイーディアが目を泳がせる。
――妊娠や出産を機に、女性が体調を崩すことがあるということは知っている。
それまで抱えていても気付かなかった病気が、出産を機に顕在化することもあるという。
恐らく、トゥイーディアのお母さんもそうだったのだ。
トゥイーディアは多分、ずっとそれについて罪悪感を抱えている。
両親に似ていない自分、お母さんの命を縮めるきっかけになった自分、お父さんを危機的状況に立たせている原因である自分――そういうこと全部に、積み上げるほどに罪悪感を抱えているのだ。
――何か声を掛けたかったが、出来なかった。
俺には代償があるし、たとえそれがなかったとしても、俺には親子の情が分からない。
今生の両親の顔ですら、もはや覚えていないほどに。
だから、掛ける言葉が分からない。
コリウスは、数秒の間トゥイーディアを見ていたが、そこから視線を翻し、唐突にカルディオスを見た。
そして、声を出した。
「――カルディオス」
俺の隣で、カルディオスがびくっと肩を揺らした。
コリウスから名前を呼ばれるのは、本当に久し振りのことだっただろう。
あからさまに怯んだ様子で、コリウスの頭の上辺りに視線を向けて、息を吸い込んでから、カルディオスはやや上擦った声を出した。
「――な、なに?」
「カルディオス、いい加減に自然にしろ」
コリウスが厳しい声でそう言って、俺たち六人の間の空気が凍り付いた。
――カルディオスとコリウスの間のことは、そして代償のことは、俺たちの中でいつの間にか、禁忌じみた色を帯びるようになっていた。
カルディオスは雷に打たれたように目を見開いて、ようやくコリウスにその翡翠の瞳を向けた。
それでも何も言えない様子の彼に向かって、コリウスが殆ど苛立たしげなまでの声で続ける。
「あいつが敵に回っているんだ、内輪揉めしている場合じゃない。
僕に対しても――アナベルに対してもだ。自然にしろ」
自分の名前が出て、アナベルが顔を上げた。
ちらりとカルディオスを見てからコリウスを見る薄紫の目から、感情を読み取ることは不可能だった――それこそシオンさんでもない限り。
カルディオスが瞬きした。
表情がはっきりと強張っている。
何も言えない様子で自分を見詰めるカルディオスに対して、コリウスが溜息を零した。
「――気にしていないと言っただろう」
嘘だと分かった。
――コリウスは嘘が上手いが、それでも、この言葉は嘘だと明白に分かった。
カルディオスが何か言おうとして、言葉に詰まった。
コリウスに向いていた翡翠の目が床を見た。
彼の肩が震えた。
コリウスは、持て余すようにそんなカルディオスを見てから、ふい、と目を逸らして俺たち全員を見た。
俺は思わずコリウスから視線を外したが、コリウスが主に俺に向かって声を掛けたことは分かった。
「全員だ。――あのときに言われたことは気にしないでおこう。少なくとも今は」
「――――」
俺たちは縦にも横にも首を振ることが出来ずに、揃いも揃って押し黙った。
その反応も織り込み済みだった様子で頓着せずに、言いたいことは言ったとばかりの顔で、コリウスはトゥイーディアに視線を向けた。
トゥイーディアは、懸念と心配がありったけに詰まった眼差しでカルディオスを見ていたが、コリウスの視線が自分を向いたことを感じたのか、カルディオスから眼差しを引き剥がすようにしてコリウスを見た。
コリウスは、またちらりとカルディオスを見てから、トゥイーディアに視線を戻して首を傾げた。
そして口を開いたが、声音は随分と優しかった。
「――今夜でいいね」
確認するようなその言葉に、トゥイーディアが頷いた。
躊躇いがちな仕草だったが迷いはなかった。
小さく息を吸い込んで、トゥイーディアは言った。
「――みんなが助けてくれるなら」
極めて珍しいことに、コリウスが微笑んだ。
そして、はっきりと応じた。
「そのために来た」




