46◆ 正しいこと
新聞によれば、トゥイーディアのお父さんが断頭台に登ることになるのは、およそ一箇月後のことであるらしい。
無機質な活字が、淡々と彼がこれから辿る手続きを説明していたが、俺の目は滑ってばかりで、今ひとつ意味がよく分からなかった。
――審判ヘノ異議申立テノ期間ヲ経テ――
――其ノ後半月ニ亘ッテ懺悔ノ時ヲ与ヘラレ――
……懺悔って、何をだ?
トゥイーディアのお父さんに罪がないということは明白な事実だ。
それよりもよっぽど、トゥイーディアにつらい思いをさせるこの世界に罪がある。
罪の数だけ世界が滅べばいいのに、と、極めて魔王らしいことを考えながら、俺は目を上げて、意味もなくトゥイーディアを見てから、カルディオスやディセントラに視線を向けた。
トゥイーディアが壁際でしゃがみ込んだ。
膝に顔を伏せて頭を抱えて、本当に――初めて見るほど追い詰められて、幼く見える仕草だった。
それほど弱々しい彼女を見たことがなかったからだろうが、カルディオスが瞠目した。
俺は、痛み続ける心臓を、どうにかして自分の胸から抉り出したいと思いながら、視界の隅にトゥイーディアの姿を見ていた。
トゥイーディアの後ろでは、ジョーもへなへなとその場に頽れている。
新聞を手から取り落としそうになりながら、カルディオスが俺の方を向いた。
その翡翠の瞳に自分の顔が映るのを恐れて、俺は視線を逸らした。
――俺は今、どんな顔をしているだろう。
恐らくは、無関心な、冷めた顔をしていることだろう。
そんな、本心から懸け離れた、トゥイーディアを傷つけるばかりの表情をしている自分を、俺は見たくなかった。
カルディオスも、普段であれば俺の態度に咎める声のひとつやふたつを上げるところを、今は一言も俺には言葉を掛けなかった。
ディセントラに視線を移して、何か言おうとして、しかし声が出ない様子で唇を開け閉めする。
そんなカルディオスの長い指から、ディセントラが新聞をひったくった。
何事かを盛んに呟きながら――もしかしたら、俺と同じように目が滑るから、頭の中に記事の内容を入れるために、文字を読み上げていたのかも知れない――、食い入るように新聞を読んで、文字に従って瞳を動かす。
ディセントラの、そんな張り詰めた様子を数秒見てから、不意にカルディオスが声を出した。
まるで、唐突に声の出し方を思い出したかのような、出し抜けな言葉だった。
「――異議申し立ては、まだ出来るんだろ?」
「……意味ないだろ」
俺が、ぼそっと呟いた。
俺は確かにそう思っていたが、それを口に出した自分に戦慄した。
――トゥイーディアの傍に行って、何の根拠もなくとも、「大丈夫だ」と彼女に請け合って、本当に、現実を彼女にとって「大丈夫」なものに変えるために努力することが出来るなら、俺は何でもするというのに。
それなのに実際には、俺は苛立ったようですらある声で、言葉を並べて押し付けるみたいにして言っていた。
「一回決まった審判を、司法官が引っ繰り返す理由があるかよ」
カルディオスが、結構物騒な目で俺を見た。
俺はぼんやりと、カルディオスが俺を刺して黙らせてくれればいいのに、と思う。
だが、カルディオスが俺に手を上げる前に、がさ、と新聞を足許に放り投げたディセントラが、蹲ったトゥイーディアに駆け寄りながらはっきりと言った。
「――ルドベキアが正しいわ。審判は引っ繰り返らないと思う」
ぴくりとも動かないトゥイーディアの傍に跪いて、労わるように彼女の髪を撫でながら、ディセントラは視線を俺とカルディオスに向けた。
灯火を弾いて、淡紅色の瞳が、薔薇を宝石にしたかのように影のある煌めきを躍らせていた。
「でも、異議申し立ての期間を置くことは事実だわ。まだ一箇月ある」
しっかりとした口調でそう言って、ディセントラは放り出した新聞を顎で示して見せた。
「場所が書いてないの。びっくりよね。普通なら、どこの町のどこの広場で刑が執り行われるものなのか、はっきり書くでしょうに。最後にある審判の――異議申し立ての審判も、どこで行われるのが全然書いてないわ」
どこかの誰かが新聞社に圧力を掛けたのかも知れない、と、俺は即座に思った。
――リリタリス卿の人望は、一部で毀損されたにせよ、未だにオールドレイやニードルフィアでは健在だ。
明確にリリタリス卿の居場所が知れれば、そこを狙って暴動が起こりかねない。
トゥイーディアの髪を撫でていた手を止めて、今度はその手を彼女の肩に置いて、ディセントラがゆさゆさとトゥイーディアを揺すぶった。
「イーディ、イーディ。ほら、しっかりして。大丈夫よ。なんとかなるわ。
こういうときのために、コリウスとアナベルが領都に行ったんじゃない」
トゥイーディアが顔を上げた。
途方に暮れたようなその表情を見て、俺は胸が潰れそうになった――いや、実際に胸を潰せるものならば、誰かに是非そうしてほしかった。
トゥイーディアのこんな顔を見る胸の痛みに比べれば、物理的に胸を潰される痛みの方が遥かにましだということを、実際に胸を潰されたこともある俺には分かる。
トゥイーディアは――彼女のことだからやっぱり――、泣いている様子は欠片もなかったが、飴色の目が茫然として泳いでいた。
表情の全部が、彼女が今抱いている恐怖を掬い損ねて零しているようだった。
唇が震えて、ぼろ、と、声と言葉が転び落ちた。
「……どうしよう。トリー、どうしよう」
「大丈夫、大丈夫よ」
あやすようにそう言って、ディセントラが微笑んだ。
強張ったものではあったが、トゥイーディアを安心させるための、彼女に対する愛情に満ちた微笑みだった。
「きっと、明日――いえ、もう今日ね。コリウスがここに飛んで来るわ。みんなでベイルに向かいましょう。救世主が六人揃って、たった一人を助けに行くのよ――贅沢な話じゃない」
わざとお道化たようにそう言って、ディセントラは、廊下にへたり込むジョーに視線を向けた。
そして、いっそう元気付けるように微笑んだ。
「――ジョーさん、大丈夫ですから。ですからまず、私たちが今日から頑張ってあなた方の旦那さまをお助け申せるように、美味しい朝食を準備してくださる?」
ジョーが、茫然とした顔のまま頷いた。
気遣われたことにすら気付いていないようだった。
立ち上がろうとしてよろめき、壁に手を突いて、よろよろと老人のような仕草で立ち上がる。
そのまま、ふらふらと厨房に戻って行く彼の背中を見送ってから、ディセントラが低く呟いた。
「……ヘリアンサスが定めた『対価』は、イーディのお父さんの命だっていう線が濃厚ね」
――分からない、まだ分からない、と、俺は叫びたくなった。
ヘリアンサスが、本気でトゥイーディアのお父さんの命を狙っているのならば、俺たちではそれを止められるのか分からない。
だからどうか、他のものであってくれと思った。
それでも声は出なくて、俺はむしろ一歩下がったような冷静さを持って、その場を見渡しているようですらあっただろう。
カルディオスが両手で顔を押さえて呻いたあと、トゥイーディアに向かって短い距離を跨いで、彼女をぎゅっと抱き締めた。
まるで、トゥイーディアを吹雪から庇おうとしているような仕草だった。
そのまま、「立てる?」と彼女を気遣って、トゥイーディアの手を握って立たせるカルディオス。
トゥイーディアは、膝が砕けたかのような不安定さで、カルディオスにしがみ付くみたいにして立ち上がった。
そして、細かく震えながら、床に落ちた新聞を飴色の瞳で見詰めて、震える唇で呟いていた。
「……六人じゃない」
その声は本当に小さくて、カルディオスですら気付かなかったようだったが、トゥイーディアを一心に思っていた俺の耳には、如何なる作用かその声が届いた。
――繰り返し繰り返し、まるでそれが自分の罪状であるかのように呟くトゥイーディアの、その声。
「……六人じゃない、六人じゃない、六人じゃない――」
――まるで、足許で王手を掛けられていることに遅まきながら気付いて、それに怯えているような。
◆◆◆
俺たちがさっさと領都ベイルへ向かって、コリウスとアナベル(と、ついでにアーバス)と合流するという手もあるにはあったが、ディセントラはコリウスを待つ姿勢を示した。
「もうコリウスがベイルを出てるとすると、私たちが移動し始めたら、その分コリウスが無駄足になっちゃうでしょ?」
と、至極真っ当なことをディセントラは言っていたし、実際、コリウスがこちらに来てくれるのであれば、あいつなら俺たち四人を汽車よりは早くベイルに運ぶことが出来る。
トゥイーディアは朝食すら放棄して広間のソファに座り込み、かと思うと広間をうろうろと歩き回って、檻に入れられた狼のように落ち着きなく動いた。
ジョーはトゥイーディアの傍に朝食を乗せた皿を運んでいたが、どうやらトゥイーディアは、物を食べようとすると吐き気が込み上げてくるようだった――ということを、俺はカルディオスから聞いた。
全く信じ難いことに、俺は平然と朝食を摂ったのである。
ティシアハウスの中にいる人間で、表情ひとつ動かさずに平然としていたのは俺だけだった。
ディセントラもカルディオスも、一応は朝食を摂ったものの、俺と比べれば態度は雲泥の差だった。
ディセントラは冷静な振りをしようとしてはいても、ぼろぼろとカトラリーを手から落とし、けたたましい音を定期的に立て、かと思うと何かをじっと考え込んでいたし、カルディオスは、ちょっと食べたと思うと居間から走り出して行って広間のトゥイーディアの様子を確認しに行き、また戻って来ては少し食べ――ということを繰り返していた。
ジョーは、朝食を作るだけ作って、トゥイーディアのためにそれを広間に運び、その後はずっと厨房に籠もっているようだった。
ジョーが竈に頭を突っ込んで自殺したりはしないかと、俺は頭の隅っこの方で心配になった。
メリアさんとナンシーさんは、半ば茫然としながらも機械的に俺たちの給仕についたが、実際はぼんやりと立っているだけだった。
それを見かねたように、シャルナさんが途中から給仕を始めてくれたが、彼女の手が細かく震えているのを俺は見た。
突然の報せに、ティシアハウス全体が奇妙な渦の中に巻き込まれたかのようだった。
どこかで何かを踏み間違えて、唐突にこの屋敷だけが異次元に吸い込まれたかのような。
ナンシーさんは実際に、「町まで行ったら全部間違いだって分かりませんかね?」とうわ言のように呟いていて、居間の大きな円卓の上に放り出された新聞を、質の悪い悪戯ではないかと疑うような目で見ていた。
カルディオスが、何度目かの広間と居間の往復を終えて、俺の隣にがたがたと音を立てて座って、すっかり冷めてしまった朝食を、作業のように口に入れながら、ぼそっと呟いた。
「――イーディ、全然食ってない。あれじゃ倒れる」
俺は無関心に頷いたが、その実、内心では発狂寸前だった。
ちょうどそのとき、何の前触れもなく、くすんだ青いつなぎ姿のケットが居間に飛び込んで来た。
薄茶の目を大きく見開いて俺たちを見渡して、殆ど悲鳴のように叫んだ。
「――旦那さまが!」
がしゃん、と音がした。
ディセントラが、手にしていたフォークを落っことした音だった。
その音に触発されたかのように、ケットは視線の行方をディセントラに定めて、大声を出そうとして失敗したみたいな、妙に掠れた声を吐き出した。
「――大丈夫だって言ったじゃないですか……!」
ディセントラは何も一言も発さず、上の空で頷いた。
カルディオスは一旦席を立ち、それから思い直したようにまた座って、傍目には平然として見えるだろう俺の方をちらっと見て、息を吸い込んで首を振った。
――ディセントラもカルディオスも、そして俺も、リリタリス卿への斬首刑が言い渡されたことに対する衝撃はさほど無く、俺たちの動揺の全部はトゥイーディアのためのものだった。
そのことを感じ取ったのか、あるいは俺たちに用はなかったのか、ケットはその場で足踏みしながら、茫然と突っ立つメリアさんの方を見た。
「――メリア、お嬢さんはどこ?」
メリアさんは瞬きして、息を吸い込んで、まるで知らない言葉で話し掛けられたかのようにきょとんとしてから、はっとしたように答えた。
「――広間に」
ケットが踵を返し、居間を飛び出して行った。
ややあって――恐らくはあの壮麗な階段から叫んだのだろう――彼の叫び声が小さく聞こえてきた。
「――お客さまです!!」
本来ならば、客人の来訪をここまで大声で宣言する必要はない。
ティシアハウスの広間から奥へ入った階段、そこから居間までの距離を思えば、俺たちの耳にまで届くほどの大声は、間近で聞けば轟くほどのものだったことだろう。
もしかしたらケットは、今にも斧や槍を持った誰かがティシアハウスに踏み込んで来るのではないかと思っていて、それゆえに思わず大声を張り上げたのかも知れない。
――だが、ともかくも、それが聞こえた俺たちはカトラリーを放り出して立ち上がった。
客人と聞いて真っ先に頭に浮かぶのはコリウスだった。
コリウスが到着したのであれば、出迎えて、情報を共有して、ここを出発しなければならない。
カルディオスも、コリウスの顔を思い浮かべて一瞬逡巡した様子ではあったものの、すぐに立ち上がって居間を出る方向へ動いた。
俺は内心で、自分の身体がぴくりとも動かないのではないかと恐れたが、幸いにも俺の足はちゃんと動いた。
俺たちは廊下を走り抜けて、階段を一足飛びに駆け下りて、そのまま広間の方へ、雪崩れ込むような勢いで到着した。
俺とカルディオスは、ディセントラの足に合わせたから余裕の足取りではあったが、ディセントラは軽く息を上げていた。
大きな広間を突っ切ってみれば、ティシアハウスの二重の玄関扉はどちらも開け放たれたままになっていて、その傍に、庭番のオーディーが茫然とした様子で突っ立っていた。
扉の外から、真新しい朝日の光が燦々と差し込んでいる。
そして、ソファに座り込むトゥイーディアの傍に、足早に歩を進めているのは、コリウスではなかった。
今のトゥイーディアの従兄――ヒルクリード公の長男のアルフォンスが、つかつかとトゥイーディアに歩み寄っていた。
レイヴァスの短い夏はそろそろ盛りを終えようとしているが、それでも彼は薄く汗を掻いている様子だった。
ディセントラはなぜか、扉の外の方へ視線を向けた。
俺とカルディオスは、アルフォンスの方を見ていた。
――アルフォンスは、王都にいたはずだ。
その彼がここにいるということは、アルフォンスもまた、俺たちを追い掛けるようにして王都を出発していたということ。
俺たちはここに戻って来るまでの間に、キルトンで一泊することを余儀なくされていた。
汽車の乗り継ぎが上手くいっていたのなら、アルフォンスがここまでの道程に掛けた日数は俺たちよりも短かったかも知れないが――
トゥイーディアは、立ち上がってアルフォンスを歓迎することはしなかった。
ソファに腰掛けたまま、茫然とアルフォンスの顔を見上げていた。
扉からの逆光を背負って、アルフォンスの表情は影になって見えていたに違いない。
アルフォンスはトゥイーディアの傍まで行き着くと、彼女の隣に腰掛けることはせず、彼女の足許に膝を突いてトゥイーディアの顔を覗き込んだ。
そして、はっきりと憂いの表情を目許に昇らせた。
――俺は足を止めた。トゥイーディアまではまだ距離があったが、釣られたようにディセントラもカルディオスも足を止めた。
アルフォンスが手を伸ばして、トゥイーディアの肩に触れた。
指先を乗っけるみたいな、遠慮がちな仕草だった。
そうして、低く苦々しげな声を出した。
「……新聞に載ったか。
間に合えばいいと思っていたんだが……」
挨拶も抜きに発せられたその言葉が、トゥイーディアのお父さんのことを指していると、言われずとも全員が理解していた。
トゥイーディアが両手で顔を覆った。
泣き出した様子ではなくて、単に人に顔を見られたくないがゆえの仕草のようだった。
アルフォンスはその様子を、痛ましげなまでの瞳で見て、絞り出すように言葉を続けていた。
「――ディア、僕が来たのは……分かるだろう、父上の誠意だ――」
ディセントラが息を吸い込んだ。
カルディオスと俺が、同時にディセントラの方を見た。
俺たちには、アルフォンスの言葉の意図するところが分からなかった――あるいは、分かりたくなかった。
トゥイーディアは動かない。
まるで時間が停まったかのようにぴくりともしない。
そんなトゥイーディアの肩からおずおずと手を離して、アルフォンスは――痛ましげなまでの口調で――
「……出来れば新聞からではなくて、僕から伝えたかった――ディア、本当に……」
「――アル従兄さま」
アルフォンスの言葉を、まるで聞くに堪えない悪罵を途中で遮るかのように遮って、トゥイーディアが掌から顔を上げた。
肩が小さく震えていた。
「分かります……お供の一人もなく、従兄さまがお一人でここにいらしたんですもの――」
息を吸い込んで、震える声を叩き伸ばして必死に真っ直ぐにしたかのような掠れ声で、トゥイーディアが呟いた。
「――伯父さまは、お父さまの力になってはくださらない」
――俺は息を止めたが、それが分かった人間はいなかっただろう。
アルフォンスは一瞬言葉に詰まったあと、まるで何か正しいことを主張しようとするかのように、やや口早になって言い募っていた。
「ディア、もうこうするしかなかった――叔父上を庇い立てすれば、陛下はいっそう不利になる。
斬首は避けられるよう、最後まで異議申し立ては行うが、表立って大々的には動けない――」
――その言葉の羅列を聞いて、ようやく俺にも事態が呑み込めた。
国王は、延いてはヒルクリード公は、リリタリス卿を切り捨てることを選んだのだ。
高名な騎士を一人犠牲にすることで、派閥として立て直しを図ることを選んだ。
――トゥイーディアは動かなかった。
凍り付いたように微動だにしない彼女から目を逸らして、アルフォンスは呟くように。
「――宰相閣下に国政を任せるわけにはいかない、分かるだろう……」
すう、と、トゥイーディアが息を吸い込んだ。
呼吸の仕方を意識して、それでようやく息を吸い込めたかのような動きだった。
そして、言った。
「……ええ、もちろん、分かります」
声は明瞭だった。
トゥイーディアの中で、何かが完全に切り替わったことが分かった。
――平易な言葉で言えば、トゥイーディアが、これまでは理性で以て忍耐を続けてきた彼女が、完全に切れたのだ。
トゥイーディアが立ち上がり、それに釣られたように立ち上がったアルフォンスと、至近距離で目を合わせた。
飴色の目が真っ直ぐに相手を見ている――俺の好きな眼差しだった。
「――そして、それでも、私がお父さまをお助けしたい気持ちも、もちろん分かってくださいますね?」
もういちど息を吸い込み、トゥイーディアは緩く編んだままの髪に手を差し入れた。
飴色の目が、唐突にアルフォンスから逸らされて、斜め下辺りを見た。
「一国と比しても重きを置く、その私の主観ゆえにこんなことになっている……」
呟いたトゥイーディアの言葉の意味は、アルフォンスには分からなかっただろう。
だが、俺たちには十分によく分かる言葉だった。
――ヘリアンサスが『対価』としてトゥイーディアのお父さんを選んだのは、彼に価値があるからこそ。
その価値を決めたのは、トゥイーディアの主観であり、その他の多くの人々の主観。
『世界とは客観で、客観とは無数の主観だ。だから〝対価〟の価値は、その主観に遵う』――ヘリアンサスはそう言っていた。
「――ディア?」
訝しそうに名前を呼ぶアルフォンスに、トゥイーディアは目を戻して微笑んだ。
俺たちをして、背筋が凍るような微笑だった。
アルフォンスが一歩下がった。
「当然、分かっています。お父さまにも天寿はある。
私たちに比べれば、遥かに短い命しかない人です。――それでも」
くるり、とティシアハウスの広間を見渡して、トゥイーディアは断言した。
「――少しでも長く生きていてほしいと思うのが情というものでしょう。
少なくとも、」
アルフォンスに視線を戻して、トゥイーディアは断言した。
教本に書かれていることを読み上げるかのような、迷いのない口調だった。
「お父さまには、ご自身が納得される形で人生に幕を引く権利がある。
お父さまには、私たちが納得する形で世を去る義務がある。
お父さまが築き上げてきた愛情と敬慕のゆえです――責任をとっていただく」
乱暴な理論を丁寧な口調で並べて、トゥイーディアは低い声で呟いた。
「……断頭台に、納得の欠片もあるものか」
俺は――そして恐らくは、カルディオスもディセントラも――、トゥイーディアがどういう決意を胸の中で固めたのかを察していた。
伊達に長い付き合いをしてきたのではない。
これまではぎりぎりまで避けようとしていた手段であっても、ぶち切れたトゥイーディアは躊躇すまい。
アルフォンスが息を吸い込み、掠れた声を押し出した。
「――ディア? どうするつもりだ」
「どうするもなにも」
首を傾げて、唇のみで微笑んで、トゥイーディアは親愛の籠もった仕草でアルフォンスの腕を取った。
その表情に背筋が冷えるものを感じて、俺も覚えず息を吸い込む。
アルフォンスは、自分の腕に掛けられたトゥイーディアの手指を見てから彼女の顔に視線を移し、瞬きした。
「……ディア?」
「ご長男をここまで遣わしたのは、伯父さまの誠意でしょうね」
アルフォンスの目を見て、トゥイーディアはまるで確認するかのような口調で。
「使者で事足りるところを、わざわざ大事な跡取りを遣わしてくださったんですもの。
――あるいは私が滅多なことをしないと、思い込まれたがゆえのことかも知れないですけれど」
にこ、といっそう唇で大きく微笑んで、トゥイーディアは言い放った。
「アル従兄さまはご存知ないかも知れませんけど、私、こういうときにお利口にしているのは苦手なんです」
――そうだ。
俺は瞬きもせずにトゥイーディアを見詰めながら、記憶に横面を殴られるようにして思い出していた。
――いつも理性的で、優しくて、我慢強くて、感情的な自分を抑えることを知っていて、自分の行動を俯瞰的に見ては、正しいことをしようとするトゥイーディア。
だが同時に、彼女は――
「私だって、たまにはご期待を裏切るんですよ」
ぎゅ、と、アルフォンスの腕に掛けた手指に力を籠めて、トゥイーディアは理の当然の如くにそう言った。
――そうだ。
いつでも忍耐強い彼女だけれど、トゥイーディアは、何百年と生きてきた今でもなお、めちゃくちゃ子供っぽい奴でもあるのだ。
しかも今生のトゥイーディアは、お父さん譲りなのか何なのか、独断専行を得意とし、猪突猛進を慣例としている。
――トゥイーディアの言葉の意味をとりかねた様子で、アルフォンスが訝しげに瞬きした。
カルディオスが、足音も立てずに、猫みたいに動き出した。
俺の隣から、広間をぐるりと回って扉の方へ。
アルフォンスから見れば扉との間の障害物となる位置に向かって、まるで舞台役者が所定の位置に向かっていくかのような、当然のことをしていると言わんばかりの仕草で歩き始めた。
「――ディア?」
怪訝そうに名前を呼ばれて、トゥイーディアは親愛を籠めてアルフォンスを見上げた。
そして、あっさりと告げた。
「ここで私のための人質になってください、アル従兄さま」
アルフォンスの顎が落ちて、瞳が大きく見開かれた。
――同瞬、ディセントラが一歩前に出た。
瞳に憂慮の色があって、彼女が片手を軽く挙げて唇を開く。
「――イーディ、それは……」
しかし、ディセントラの言葉は遮られた。
――かつり、と、軽い靴音と共に、玄関扉のすぐ傍に、銀髪を揺らすコリウスの姿が、忽然と出現していたのだった。




