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45◆ 人の審判

 陳情団の方々は、その夜のうちに湖から引き揚げられ、イルス郊外の共同墓地に埋葬されることとなった。

 彼らの家族には簡単な書簡だけが飛ばされるということだが、家族が遺体を引き取るまでの間、遺体を腐敗させずにはいられない。


 ゆえに、埋葬を待つことは出来ないという判断らしかった。



 陳情団が、突然、何の前触れもなく、一人残らず死亡したという報せは、王宮内で疑念を持って様々に囁かれた。


 俺たちからすれば、ヘリアンサスの仕業であるということはもはや明白だったが、それを証明する手立てがなかった。



 俺はこっそりと、疑念が王弟派へ向かうことを祈った。

 そんなことを口に出していれば、トゥイーディアには心底軽蔑されただろうが、それでも祈らずにはいられなかった。


 ――陳情団を手に掛けたのは王弟派だと噂が流れて、それを以て王弟派が不利になればいい。

 現王派が勢力を巻き返して、それを察したベイルの司法官が、トゥイーディアのお父さんには罪なしと判断すればいい。



 俺だけではなくて、恐らくカルディオスも、ディセントラもそれを考えていた。



 ディセントラはこれまで、「救世主は中立である」という立場の許で行動してきた。

 救世主の――延いてはトゥイーディアの立場を良くするにはそれが一番だったからだ。


 そして今、それをディセントラが痛むほど後悔しているのが、俺には分かった。


 中立であるという立場を翻さねば、ディセントラは王弟派を糾弾できない。

 そして今、あからさまに旗幟を変ずれば、王弟派は――というか、あの抜け目のない宰相が――それを捉えて声高に主張するだろう、「無実の罪を着せるため、無辜の民草を犠牲にしたのはそちらではないのか」。


 ディセントラに出来ることは、中立の立場から、王弟派に疑いが向くよう、そっと促すことだけだ。



 ――そして、それすら難しい可能性を、俺たちは言葉に出さずとも感じていた。



 トゥイーディアも重々分かっていただろうが、そうだと察していてなお、彼女の前では、その可能性を口に出すことすら恐ろしかった。


 ――即ち、()()()()()()()()()()()()()()可能性。


 今はヘリアンサスに封じられている、トゥイーディアの固有の力ならばそれも可能だ。

 彼女の得意分野の魔法は、人の精神に働き掛けることの出来るこの世で唯一の魔法だ。


 ヘリアンサスは、彼女の固有の力の、まさにその部分を潰したわけだが――



 ――ヘリアンサスは、俺たちの固有の力を扱うことが出来る。



 ゆえに、ヘリアンサスであれば、陳情団の人々に、自ら湖へ身を投げさせることも可能なのだ。



 そしてもしも、ヘリアンサスがその方法で彼らの命を奪ったのならば、現王派は王弟派を攻撃できない。


 俺たちはそれを分かっていて、だからこそトゥイーディアの眼前でその可能性に言及することが出来ない。


 トゥイーディアは、ただでさえ自分の固有の力を忌み嫌っている。

 その魔法が彼らの命を奪うために使われたと、彼女に意識させることは余りにも残酷だった。



 ――陳情団の方々が命を落としたその夜、俺とディセントラのみならず、トゥイーディアとカルディオスもまた、王宮に泊まり込んだ。

 誰も何も言わずとも暗黙の了解で、ディセントラの部屋に四人で肩を寄せ合っていた。


 ディセントラは、涙の痕は残れども既に涙のない(おもて)で、ひたすら冷静にトゥイーディアに事態の経緯を説明した。

 トゥイーディアは黙ってそれを聞いて、静かに短く、一人で不安だっただろうとディセントラを労った。

 本心でないことは明らかだったが、それを指摘させないくらいには疲れ切った声音だった。



 俺はまだ現実感が湧き上がってこなくて、脳裏には、この頃頭の中によく浮かぶ、馴染んだ遊戯盤が浮かんでいた。


 盤上には、対局の途中を思わせる配置で駒が置かれていて、黒と白の駒が乱立するその盤上に、突如として赤い駒が大量に投入される。


 白の指し手のヘリアンサスは、つまらなさそうに卓上に頬杖を突きながら、その赤い駒を摘まんでは遊戯盤の外へ、どことも知れない暗がりへと叩き落していく。


 そして、その駒を使って、黒いトゥイーディアの駒を一緒に叩き落せないかを考えるような顔をして――



 ――俺は顔を覆った。



 陳情団が城を訪れることを知っていれば、ディセントラは恐らく、獲得すべき立場を微妙に変えて考えていたことだろう。

 彼らを織り込んで考えていたはずだ。


 本当に、彼らがここに来たことは計算外だった。



 ――だが、()()()()と思いたくはなかった。



 ここまであの人たちが来てくれた、その誠意が逆にトゥイーディアのお父さんを追い詰めようとしているのだとは、何が何でも思いたくなかった。











 その翌々日の新聞に、陳情団の不可解な死亡についての記事が小さく載った。


 俺たちが受けた衝撃からすれば、笑ってしまうくらいに小さな記事だった。

 実際、その記事を見たカルディオスは、小さく乾いた笑い声を立てていた。



 そして、まるでその記事に触発されたかのように、俄かに王宮内で、「陳情団がイルス湖に身を投げるのを見た」という証言が相次ぎ始めた。


 出来ることならば、俺はそんなことを言い出した奴を殺して回りたかったが、たとえ代償がなくともそんなことが出来るわけはなかった。



 ヘリアンサスは、場当たり的でいながら、極めて周到に盤面を動かしたのだ。


 俺は盤面の上をトゥイーディアとディセントラが歩き回って、なんとかして体勢を立て直そうとするのを、何も出来ずに眺めていた。



 ――陳情団が自らイルス湖に身を投げたのだと証言が出た以上、現王派の貴族は声高に王弟派を責めることが出来ないでいた。

 そしてそれ以上に、「()()()()王弟派を不当に貶める材料を作るために、彼らに身を投げるよう迫ったのだ」という流言を防ぐために、躍起にならざるを得ない状況だった。



 確かに人が亡くなっているのに、それすら政争の道具にされている状況は、まともな感覚からすれば異様だった。



 ヒルクリード公は、もはや完全に自陣が不利にあることを悟って、最初にトゥイーディアを戦線から退かせた。

 自らの町屋敷(タウン・ハウス)に彼女を匿って、目立つことを控えよと厳に言い含めた。


 カルディオスはトゥイーディアの傍に張り付いて、感情を顔に昇らせる方法を忘れてしまったような彼女が、一人になることがないようにしてくれた。



 ――今や王宮内に、見えない大きな渦が巻き起こっているかのようだった。


 陛下はご乱心召されたのだ、と、廊下を歩く度に囁く噂が聞こえるようになった。


 ――救世主を私利のために使い、そのためにリリタリス卿を利用して、アールディート男爵を殺し、今や王弟殿下の名誉を貶めるために、リリタリス卿へ忠義を尽くした者たちをも自ら命を絶つよう仕向けたのだ、と。



 国王は、今でもこの国の最高権力者だ。

 だからこそ、その気になれば箝口令を敷き、強権を以て貴族を縛り上げることも、法律上は可能だ。


 ――だが、それが出来ない状況らしかった。


「――そんなことをしてごらんなさい、今度こそ、国王陛下御乱心って新聞に載るわよ。

 昔と違って、今では足許にまで情報が行き渡りかねないのだから。

 下手を打って暴動にでもなったら、王政の維持すら危ういわ」


 と、ディセントラが事実を言葉にして展示するみたいに言っていた。



 ――とはいえ、ディセントラは、乱心の疑惑を向けられている国王を案じてはいなかった。


 この政局の一大事にあって、国王には生き残る術が残されているからだ。

 むしろそちらの方へ、ヘリアンサスが糸を手繰って駒を動かしているようですらあった。



 国王が生き残る目は一つ、全ての咎をリリタリス卿へ被せること。



 ――救世主を私利のために用いたのはオルトムント・リリタリスであり、アールディート男爵の死も、彼が如何様に拠ってか仕向けたものであり、更に輪を掛けて、彼は己へ忠義を捧げた人々を、罪からの脱却を目論んで死なせたのだ――と、王宮内の論の流れを作れば、国王はこの窮地を脱することが出来る。


 長年彼に騎士として仕えた男を切り捨てることによって、国王は己の活路を切り開くことが出来るのだ。



 ディセントラはそれを警戒し、延いてはヒルクリード公に、何度か釘を刺すために会いに行った。



 ――ヒルクリード公は、()()()だ。()()()擁し守ることを最善とする。



 その公爵としての考えは、実弟を案じる兄としての情を上回るだろうか。



「――今さら王弟派に救世主を売り込もうにも、」


 と、ディセントラはぼんやりと呟いていた。


「もうだいぶ、救世主の株は下がってしまったものねぇ。

 宰相か王弟が靡いてくれる可能性は低いでしょうねぇ」



 トゥイーディアもそれは十分に了解しているようだった。


 ヒルクリード公とディセントラが面会する際には、彼女も顔を見せることがあったが、硬く強張って沈んだその表情に、俺は会う度に心臓を大きな手で鷲掴みにされているような心地を覚えていた。



 ――陳情団の方々が命を落としたあの日を境に、トゥイーディアは笑顔を見せなくなっている。



 俺はとにかく彼女に笑ってほしくて、今この瞬間に彼女の代償が発動して、トゥイーディアが全部を忘れてしまえばいいのに、なんてことを考えている。



 次の人生では、トゥイーディアは全部を忘れた状態で生まれてくるだろう。

〈正当な救世主を経験した直後の人生において記憶を失う〉という彼女の代償がそれを約束している。


 俺はそのことに、卑怯にも安堵めいたものを覚えている。



 ――次に生まれてくるときには、トゥイーディアはこれだけ傷付いて悲しんだ人生のことを忘れていられる。


 一生俺たちと会わなければ、そのまま忘れて生きていくことも出来るかも知れない。

 彼女に俺のことを思い出してもらえないのは身を引き千切られるほどに辛いが、トゥイーディアの心の平穏が第一だ。



 そういえば――と、俺は遠い記憶を脳裏に見る。



 ――アナベルをシオンさんのところへ帰してやれなかった人生でも、俺は同じようなことを考えていた。



 俺は自分勝手な人間だから、まず何よりもトゥイーディアのことを優先して考えてしまうのだ、昔から。



 ――アナベルが殺されたその瞬間に、俺は、次の人生で、トゥイーディアが罪悪感の全てを忘れて生まれてこられるだろうことに、心の底から安堵していたのだ。










 陳情団の人々が殺されて十日を数えた頃に、ヒルクリード公がディセントラに、王宮からの撤退を求めた。


 王宮内での情勢は、救世主に攻撃的だ。


 ディセントラも、そろそろ限界だろうと思っていたのか、それにはあっさり頷いた。



 ――そして同時に、現王派であるヒルクリード公が、王宮内で危うい立場にある救世主と懇意であるということを強調することもまた、避けるべき事態だった。


 そうなると、俺たちがヒルクリード公の町屋敷(タウン・ハウス)に身を寄せているというのもよろしくない。


 そして、救世主がどこかの宿屋に泊まり込むということも避けるべき――何しろ、今のイルスでは、何が起こるか分からないから。



 ディセントラはそういうこと全部を、トゥイーディアと話し合った。


 俺とカルディオスも一応はその場にいたが、重んじられるべきはトゥイーディアとディセントラの意見なので、俺たちはじっと黙っていた。


 ディセントラはトゥイーディアに、救世主が侯爵邸に身を寄せていることは(まず)いということ、ただし、トゥイーディアはヒルクリード公の姪であるという身分に因ってここに留まることも可能だと説明した。


「――ただ、残念だけれど、あんまり意味はないわ」


 ディセントラは、丁寧に作り込んだみたいな冷静さを持って、トゥイーディアに向かって淡々と言った。


 ヒルクリード公の町屋敷の居間(パーラー)で、時刻は昼。

 窓からは燦々と陽光が差し込んでいる。


「本当にごめんなさい。私は完全にしくじったから、ここにいても、出来ることはもうあんまりないわ」


 ちら、と、ディセントラの淡紅色の瞳が俺を向く。


「――ルドベキアの弟くんが上手くやってくれれば、逆転も十分に有り得るけれど」


 ルインには、トゥイーディアのために(したた)められた書状を探すように頼んであって、以来あいつからの接触は一切ない。

 王宮に潜り込んだ鼠を捕えたという噂は聞かないから、無事でいてくれているだろうとは思うけれど、ルインのことを考えると胃の腑が痛む。


「ルドベキア、弟くんとの合流は、イーディのおうちでっていう話なんでしょ?」


 ディセントラに念を押されて、俺は無言で頷いた。


 ディセントラと同様に、俺のその挙動を見守ってから、トゥイーディアがぽつんと呟いた。

 全くの無表情で、声にもおよそ色というものがなかった。


「……分かった。ここにいても、意味がないどころかお父さまが不利になるわ。いったん、オールドレイまで戻りましょう。

 ――みんな、本当に、付き合わせてごめんね」


 言葉の後段の、謝罪の部分には色があった。


 絞り出したような謝罪は恐らく本心で、ディセントラとカルディオスが揃って首を振った。


 俺はぴくりとも動けなかったが、トゥイーディアが謝罪したということにさえ、耐え難い苦しさを覚えていた。


「――イーディ、謝んな」


 カルディオスが呟くようにそう言って、ディセントラがその言葉を引き継ぐようにしてきっぱりと言う。


「私たちは、自分で決めてここにいるんだから――イーディのためになることがしたいのよ」


「――――」


 トゥイーディアは息を止めたように見えた。

 ディセントラをじっと見て、目を伏せて、ぎゅうっと握った両手を額に当てた。


「……ありがと」


 それから、トゥイーディアは息を吸い込んで顔を上げ、ディセントラに視線を当てた。

 飴色の瞳が、彼女の内心を映したかのように、黒に近い色合いで目に映った。


「――陛下は、お父さまを切り捨てるかしら?」


 ごく静かな声で、しかし軋むほどに危機感の籠もった声でそう尋ねられて、ディセントラは束の間動きを止めた。


 そして、ゆっくりと息を吐いて、呟いた。


「……ごめんなさい、分からないわ」


 トゥイーディアは無言で顔を覆った。


 ディセントラは、咄嗟に彼女の頭を撫でようとした様子で手を伸ばし、しかしすぐにその手を膝の上に戻して、俯いて声を落とした。


「そうならないように手を打ちたいけれど、――今の私にどれだけのことが出来るかは分からない」


 息を吸い込んで、ディセントラは顔を上げた。


「――少なくとも、あなたの伯父さまには、非道なことをなさらないように念を押しましょうね」


 トゥイーディアは頷いた。


 顔を覆ったまま頷いたので、彼女の顔は見えなかった。

 だが、安堵の欠片もない顔をしていることは、見ずとも察せることだった。



 ――ディセントラの言葉は気休めだと、トゥイーディアも、俺たちも、分かっている。





◆◆◆





 その翌日に、俺たちはイルスを出た。


 俺はルインのことが気になって、なんだかあいつを見捨てて行くような感じがして、公爵家の馬車に揺られて駅まで向かいながらも、何度も王城の方を振り返っていた。


 トゥイーディアとカルディオスは、窓際に頬杖を突いてずっと町並みを眺めていたが、本当に町並みを目で追っていたのかについては疑問の余地がある。

 二人とも、ただ考え事をしているようにも見えた。


 ディセントラはずっと、膝の上に置いた自分の手の指先を見詰めているようだった。



 ――誰一人として、一言も喋らないままに、俺たちは駅に着いた。


 御者さんが予め汽車の時間を調べておいてくれたから、駅に入って切符を買うや否や汽車が到着し、俺たちは足踏みしている間もなく、汽車に乗り込んでがたごとと揺られることとなった。


 当然のように四人で向かい合って座席に掛けたから、いつもなら俺は、トゥイーディアとの距離の近さに喝采しているところだった。

 だが、さすがに今はそんな心情ではない。



 窓の外を見詰めるトゥイーディアの瞳は暗い。

 それが視界の隅にあるだけで、俺は肺腑を押し潰されるかのように呼吸が苦しくなるのを感じる。



 トゥイーディアは窓際に、カルディオスがその向かい側に、そして俺はカルディオスの隣、ディセントラの向かい側に座っていたから、通路側だった。


 重い息を吐きながら、通路の向こうへ視線を向ける。


 なんだか見覚えのある砂色の髪が見えたような気もしたが、気のせいだったかも知れない。

 何かを考えることすら億劫で、俺は背凭れに身体を預けて目を閉じた。


 ――レイヴァスの汽車の座席には、座面と背凭れにクッションが設けられている。

 何百人という乗客の尻と背中で押し潰されてきたのだろうそのクッションは、柔らかさを概ね失って、硬い感触を俺の背中に伝えていた。




 ――曇天はあれど雨天はなく、イルスを出立してから二日後の夕方に、俺たちはキルトンへ到着した。


 ちょうどよい乗り継ぎの汽車がなかったために、已む無くキルトンで一泊。


 古い城塞を刳り貫いて造ったかの如きキルトンの駅と、もしかして棟続きになっているんじゃないだろうかと思うほど、よく似た雰囲気の湿っぽい宿で休むことになった。


 宿は薄暗く、カルディオスと相部屋となったものの、殆ど喋ることもなく朝を待つこととなった。


 空室のある安宿を選んだのは俺たちだが、それにしても――と思わざるを得ない宿だった。

 天井を見上げれば、隅っこの方に蜘蛛の巣が掛けられているのが見えたくらいだ。

 寝具からは黴の臭いがして、俺は思わず、どうかトゥイーディアは――というか、彼女と相部屋のディセントラもだけど――これよりはマシな部屋に通されていますようにと祈っていた。


 カルディオスは外套に包まって無言で寝転がっていたものの、この部屋が気に入っていないことは雰囲気で分かった。


 部屋の中の空気は淀んでいて、空気を入れ替えようとして窓を開けると、古びた窓は盛大に軋み、硝子が窓枠から外れそうな音を立てた。


 結構洒落にならない音がしたので、俺もカルディオスもびくっとしてしまった。



 色々と考えてまんじりともせずに夜を明かし、翌日早朝、俺たちはキルトンの駅から汽車に乗った。



 トゥイーディアは、宿の帳場で新聞が売られているのを発見し、そこで一部購入したらしい。

 汽車を待っている間、ずっと新聞を読んでいた。


 トゥイーディアが新聞を読み終わると、今度は汽車の中で、ディセントラが黙々と活字を追い始めた。


 だが、特段トゥイーディアのお父さんに関する記事はなかったようだった。

 ふう、と息を吐いてかさかさと新聞を畳み込みながら、ディセントラは心配そうに眉を寄せるカルディオスに向かって、肩を竦めて微笑んでみせていた。




 キルトンを出て三日後、俺たちはモールフォスの駅へ到着した。


 前にこの駅に着いたときには、エディとか何とかいう青年がうるさくはしゃいでいたな、と、もはや懐かしいような気持ちでぼんやりと思い返す。



 白い蝶がひらひらと飛ぶ、山腹に敷かれた階段を下ってモールフォスの町へ向かう。


 トゥイーディアは珍しく怯えた様子を見せていて、モールフォスの町にさえ、もはや自分たちの味方がいないのではないかと恐れているようだった。



 もし仮に、モールフォスの人間が態度を反転させて、トゥイーディアに石でも投げようものならば、俺は代償を掻い潜ってこの町を火の海にする方法を真剣に考えていただろうが、幸いにもそんなことにはならなかった。



 トゥイーディアの姿を見るや、やっぱり町の人は駆け寄って来て、王さまが酷いの貴族が酷いの、新聞の書きぶりが悪いだの、身体は大丈夫かだのと、寄って集ってトゥイーディアに声を掛け始めたのだ。


 トゥイーディアは、町の人が自分を見付けて声を上げた瞬間こそびくっとしていたが、すぐに彼らの声音と表情に親愛を見付けたようで、ほっとしたように身体から力を抜いていた。



 ――多分だが、モールフォスの町からも、陳情団に加わって、結果として命を落とした人はいるはずだ。

 その報せも、既に届いているはずだ。



 それでも、トゥイーディアに駆け寄る人たちの顔からは、彼女に対する心底からの気遣いがあった。



 俺は内心で、これ以上ないほどほっとして胸を撫で下ろしたし、ディセントラとカルディオスは、実際に大きく胸を撫で下ろしていた。



 トゥイーディアは、駆け寄って来ては彼女に抱き着いたり肩を叩いたりしてくれる町の人たちの間に埋もれながらも、どうやら涙ぐんでいる様子だった。


 ――トゥイーディアが涙を見せるのは、嬉しいときや、感極まったときや、悲しみの出口にあるときだ。


 トゥイーディアの飴色の瞳に、涙の膜が薄く張っているのを見て、俺はこのところずっと重くなっていた心の奥が、少しだけ軽くなるのを感じていた。



 初めてこの町に来たときと同様に、俺たちはミドーの親父さんの貸馬車屋を訪ねて、彼の御する馬車に乗ってリリタリスの荘園を目指した。


 がたごとと揺れる馬車の上で、トゥイーディアは覚悟を決めたように、御者台の方へ身を乗り出す。


「――ねえ、王宮まで、お父さまのために行ってくださった方は? モールフォスからも、きっと何人かはいらっしゃったでしょう?」


 ミドーの親父さんは、一瞬びくっと肩を揺らしたが、すぐに大らかな笑い声を上げてみせた。


「あ、あー、ディックの奴が行ってましたかね。ま、今は旦那さまのことが一番ですからね」


「……ディックさん」


 暗い顔で呟いたトゥイーディアに、ミドーの親父さんは振り返って苦笑を向けた。


「――あんまり気に病まんでくだせぇよ、お嬢さん。お嬢さんはなあんも悪かねぇんだから」


 そう言われた瞬間に、トゥイーディアが鞭で打たれたかのように怯むのを、俺は見た。


 カルディオスが、さり気なくトゥイーディアの肩を叩いて、そのまましばらく彼女の背中を撫でてやっていた。





 ――相変わらず、絵の中のように美しい景色の中をくぐって、俺たちはリリタリスの荘園――ティシアハウスへ戻った。



 屋敷の扉を叩いた俺たちのために扉を開けたのは、がっしりとした、すっかり白くなった髪の初老の男性で、トゥイーディアを見るや否や、両手で彼女を抱え上げて歓迎した。


 トゥイーディアは一瞬、小さな子供のようにされるがままになってから、「ちょっとオーディー!」と物申す。


 この人が庭師のオーディーか。



 ティシアハウスの使用人さんたちは、全員が広間(サルーン)に総出でトゥイーディアを出迎えた。


 料理人のジョーは、トゥイーディアを見るなりめそめそと泣き出して、ケットに脇腹をつつかれていた。

 無理もないことだが、相当不安な思いをしているらしい。


 トゥイーディアは、自分までが不安そうな顔をしていてはいけない、と思ったらしく、俺の見慣れた救世主としての笑顔を物柔らかに浮かべて、シャルナさんに客人(つまり、俺とカルディオスとディセントラ)の部屋を用意するように申し付けていた。


 その後で、メリアさんをちょいちょいと手招きして、ここに預けていたムンドゥスの様子を尋ねる。

 メリアさんはちょっと困ったような顔をして、「変わりなく……」と答えていた。



 ――ティシアハウスの人々は、明るい気分を演じるように俺たちを歓迎してもてなし、トゥイーディアを労わった。


 王宮で何があったのか、一切尋ねることもなく、まるで屋敷の用事を恙なく回していれば、そのうちに自分たちの主人がここに帰って来るに違いないと、自分たちに言い聞かせているようですらあった。



 そんな彼らを見て、トゥイーディアはつらそうに眉を寄せていた。

 もしかしたら、自分のせいで彼らに無理をさせていると感じているのかも知れない。


 それでも、自分から彼らを不安にさせるような話は出来ないと判断したのか、トゥイーディアはまるで使用人が用意した舞台を演じるように、元気いっぱいである風情を装って、彼らと軽口を叩き合っていた。


「……――見てらんねぇ……」


 カルディオスが顔を覆ってそう呟いていて、それは俺も全く同感だった。



 無理をしていることが明らかなトゥイーディアは、どうやらじっとしていると不安に苛まれてしまうらしく、あちこちを歩き回って過ごすことにしたらしい。


 ティシアハウスに帰り着いたその日には、身嗜みを整えてお母さんに挨拶をした後、ひたすら庭園をオーディーと連れ立って歩き回っており、次の日には更に足を伸ばして、彼女が幼い頃に遊び回ったという離れを巡っていたようだった。



 俺も不安の余り、常に胃の腑が身を捩っているような感覚に襲われていたが、その不安の十割がトゥイーディアへの思慕に基づくものである以上、不安そうな顔のひとつも出来なかった。


 俺はティシアハウスの蔵書室にお邪魔して、興味の惹かれる本を適当に読んで過ごしていた。


 古い紙の匂いに包まれながら、トゥイーディアも同じ本を読んでいたのかと思うと、素っ気ない活字のひとつですらも愛おしかった。



 ――だが、そうやって文字を追いながらも、俺は否応なく王宮の情勢について考えている。



 国王はリリタリス卿を切り捨てるだろうか。

 ヒルクリード公は弟を守るだろうか。


 トゥイーディアのお父さんは、今どうしているだろうか。




 答えの出ないがゆえに不安な日々は四日間に亘って続き、五日目の朝、俺たちはジョーの悲鳴で目を覚ました。




 朝というより夜明け前。

 まだ鳥の声すらしない時刻だった。


 とはいえ只事ではない気配だったので、俺は廊下に飛び出した。


 カルディオスとディセントラも、訝しげな顔で俺と同じ行動を取っていた。



 ジョーは厨房にいるはずで、厨房で上げた声が客間のあるここまで届くものだろうか、と俺は疑問に思ったが、何てことはなかった。

 声の聞こえた方に足を向けてみれば、ジョーは厨房ではなくて、客間からは程近い、トゥイーディアの部屋の前にいた。



 トゥイーディアは無論のこと起き出していて、夜着の上にガウンを羽織り、蜂蜜色の髪を緩く編んで肩に流したその姿は、乏しい灯火にすら際立って見えた。



 トゥイーディアは、恐らくはジョーから押し付けられたものと見える新聞を手に、蝋のような顔色でそれを読んでいた。



 ――新聞は、まずは厨房に運ばれる。

 そこでアイロンを当てられてインクを完全に乾かした後に、主人の部屋に運ばれるものなのだ。


 つまり、ティシアハウスの中で最初に新聞に目を通すのは、厨房を守るジョーなのだ。



 ジョーは、大の男としては情けないくらいに膝を震わせて、ぼろぼろと涙を零しながら、「どうしよう、お嬢さま、ねえ、どうしよう、ねえ」と、繰り返し繰り返しトゥイーディアのガウンを引っ張って、縋るように捲し立てている。



 何が起こったのか、具体的なことは分からずとも、トゥイーディアにとって良くないことが起こったことは明らかだった。



 ――呼吸が早くなろうとした。

 心臓が肋骨を激しく叩き始めた。



 俺たちがそこに駆け付けたことに、瞳を上げたトゥイーディアが気付いた。


 彼女の頬は蒼白で、俺は今にも彼女が倒れるのではないかと思った。

 飴色の目に、嵐のようにありとあらゆる感情が迸って見えた。


 胸が波打って見えるほどに激しく呼吸を繰り返して、トゥイーディアは手にした新聞を――普段の彼女からすれば有り得ないことに――乱暴な仕草で床に投げ捨てる。


 そして、自分のガウンを引っ張るジョーに向かって、断固とした小声を向けた。


「――ジョー、落ち着けとは言わないから、いったん下がって」


 まるで打たれたように怯んで、ジョーがトゥイーディアから手を離して後退った。



 トゥイーディアは髪に手を差し込んで、よろめくように壁に凭れた。

 その唇から、名状し難い呻き声が漏れた。



 カルディオスが、トゥイーディアが床に投げ捨てた新聞を、飛び付くようにして拾い上げ、俺とディセントラにも見えるように、がさりと音を立てて大きく開いた。



 ――そして、喉の奥で呻いた。



 ディセントラが、悲鳴を堪えるように唇に手を当てた。

 淡紅色の目が大きく見開かれ、瞬きもせずに文字を映す。



 俺は、背骨全てが氷に取り替えられたのではないかと思うほどの戦慄に息を詰めた。


 吐き気がする。


 目から飛び込んできた文字が、そのまま実体を得て頭の中を飛び回り、がんがんと内側から頭蓋を叩いているかのような衝撃を覚えた。



 灯火の明かりに浮かぶ黒々とした文字は、鮮明で、読み間違えようがなかった。



 そこには、明々白々に、こう書いてあった――




 ――『オルトムント・リリタリス卿、反逆ノ罪ニテ斬首刑トノ裁断下ル』と。





















記念すべき200話目。

活動報告も書いています。よろしければご覧ください。





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