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44◆ 覆水

 俺とカルディオスは、レヴナントという災害の出現に怯え続ける人々を何とか宥めて、足早に王宮へ向かった。


 夕暮れ時になっても、イルス上層街には街灯と邸宅の窓から漏れだす光が溢れており、夜陰に乗じての行動には向かない。

 そんな中を、派手に移動するわけにもいかないほどに注目が集まっていたので、全く間抜けなことに、俺たちはしばらく地面の上を移動することになった。


 人目につかないところまで離れた時点で、目くらましの魔法を使って姿を隠し、その上で王宮まで――文字通りに――飛んで行ったけれども、俺たちが王城の前へ辿り着く頃には、既に夕闇が空を覆いつつあった。



 移動しつつ、俺はカルディオスに事の前後を大まかに伝えた。


 ――オールドレイとニードルフィアからの陳情団が到着したこと。

 彼らの身の安全が懸念されたから、俺とディセントラで彼らを城外に出そうとしたこと。

 ただし彼らの意思が堅く、俺たちでは説得が難しそうだったから、トゥイーディアにその説得を頼もうとしたこと。

 そのために城外に出たものの、レヴナントを発見してそちらへ走ったこと――



 カルディオスは細大漏らさず俺の説明を呑み込んで、「なるほどね」と短く言った。



 正面から王城に入ろうとしても、まともに取り合ってもらうことは出来ないだろうと容易に想像がついたので、俺たちはそのまま、目くらましを維持して王城の中へ入った。


 俺がカルディオスと自分の姿を隠すその魔法を維持しているがために、カルディオスは何度か申し訳なさそうに俺を見てきたが、今の俺たちを比べれば、明らかに魔力に恵まれているのは俺だ。

 当たり前の役割分担だし、――そんな小さなことを云々していられる状態でもなさそうだった。



 王城を半ばまで進んだ辺りで、明々白々にトゥイーディアの魔力の気配が肌を刺し始めていた。


 意識して魔法を使っているという感覚ではなかった――単純に、彼女の魔力が荒らいでいるような感覚だった。



 ――何かあったのだ。



 カルディオスも同じ感覚を得ているらしく、表情は相当に深刻だった。



 誰何を受けるのも躱すのも面倒なので、俺たちは目くらましを維持したまま、二人で一つの影のようにぴったり寄り添って、王宮を奥へと進んで行った。


 ディセントラの魔力の気配は、残り香程度のものしかなく――トゥイーディアの魔力の気配は、王宮のずっと奥の方から漂ってきている。



 王宮を進めば進むほど、人の流れが俺たちと同じ方向に向かっていくのが分かった。

 大勢の慌てた顔の人たちが――文官も衛兵も――、王宮の奥へ向かっていく。



 俺が入ったこともない王宮の深部に辿り着いたときには、そこには大勢の人間が詰め掛けていた。

 湖を望む、廊下の壁一面が窓になったその先を見て、口々に何かを囁き合う人たち。


 姿を隠して人混みを掻き分けると、それそのものが騒ぎになりかねない。


 そう考えて、俺たちはいったん壁際まで下がってから目くらましを解き、何食わぬ顔で群衆の中に紛れ込んだ。

 そのまま、二人で人込みを掻き分けて最前列を目指す。


 壁一面が硝子の折戸になっていて、その向こうに湖を望む回廊があった。

 回廊までが人で一杯になっていて、折戸は開け放たれている。

 折り畳まれた硝子戸が、灯火を弾いて燦然と輝いている。


 宵闇と湖の冷たさを映した風が、ゆるゆると廊下に忍び込んで来ていた。


 ぐいぐいと群衆を掻き分けて、前へ前へと進む俺は、そのときようやくトゥイーディアの声を耳に捉えた。



 ――怒っている……いや、揉めている?



 トゥイーディアが他人に向かって声を荒らげることなど滅多にないのに。



 厭な予感が加速して、俺は、同じように人波を押し分けるカルディオスと視線を分け合った。


 カルディオスの表情いっぱいに、愁いの色が拡がっていた。



 回廊は、廊下の灯火の光が溢れて暖色に照らされている。

 その明るさがよりいっそう、頭上の空の暗さを強調するようだった。



 最前列近くになって、ようやくトゥイーディアの言葉の内容が聞こえてきた。

 激しい語調ではあったが、まるで声を限りに叫んだ後であるかのように、疲れ切ったような掠れた声だった。


「――引き揚げさせてください。お許しをいただければ私がしますから。もう夜になります。あのままにするおつもりですか」


 それに答える男性の声――こちらは潜められていて、言葉の内容までは聞き取れない。

 しかし、応じるトゥイーディアの言葉が聞こえてきた。


「いいえ、いいえ、分かりません。お会いしたことはありません。引き揚げさせてください」


 頑是ないほどに主張を繰り返すトゥイーディアの声は、語調は激しいながらも妙に平坦だった。

 対面している相手が何を言ったのであれ、トゥイーディアの応答は変わらなかっただろうと思えるような――



 最後の数人を掻き分けて、ようやく俺はトゥイーディアの姿を見た。


 回廊の胸壁の傍で座り込んで、衛兵の格好をした男性にひたすらに言い募っている。

 ――お顔は分かりません、引き揚げさせてください、(じき)に夜になります。


 その顔を見て、俺は足を止めた。

 本心を言えばすぐに駆け寄って、訳を訊いて、トゥイーディアのためになることをしたかったが、代償がそれを許さなかった。


 そんな俺には一瞥もくれず、堪りかねた様子でカルディオスがトゥイーディアのすぐ傍にまで駆け寄っていた。


「――イーディ? どうした?」


 衛兵の彼がカルディオスの方を見て、怪訝そうな顔をした。


 トゥイーディアも視線を動かして、そのときようやく俺たちに気付いたような顔をした。


 座り込んだまま、トゥイーディアがカルディオスに向かって手を伸ばした。

 縋るような身振りだった。


 彼女には、滅多に見られない仕草だった。


 ――俺は息を吸い込んだ。

 厭な予感が確信へと変わって、俺は無意識に周囲を見回す。

 ディセントラ、ディセントラはどこだ。あいつが一緒にいたはずだ。


 王宮には、陳情団の傍には、あいつがいたはずだ。


 人波の中にディセントラの姿はない。


 カルディオスは、トゥイーディア以外の誰の姿も見えていない様子で、滑り込むように彼女の傍に膝を突いた。

 伸べられた彼女の手を握って、もう片方の手で安心させるように肩を叩いて、トゥイーディアの顔を覗き込む。


「イーディ?」


 語尾を上げて名前を呼ばれて、トゥイーディアが堰を切ったように言葉を吐き出し始めた。


「――ディセントラがいないの。捜してくれる? 近くにいたと思うの」


 声が震えている。


 俺はようやく足を動かして、トゥイーディアには見向きもせずに胸壁に歩み寄って、その下を見下ろした。

 この回廊に人が殺到している以上――そして、回廊に注目を集めるようなものが見当たらない以上、何かがあるとすれば、それはイルス湖だと思ったからだ。


 夕日の残滓すらも溶け出して、イルスの湖面は暗い。

 この回廊から漏れ出す明かりが湖を淡く光らせてはいたが、湖面はなお黒々と、艶やかなまでに闇に沈んでいた。


 息を吸って、瞬きする。


 それを合図に、ぱっと湖上で火の粉が散った。

 金に輝く火の粉が、帯のように滞空して黄金の雪のように舞い散って、湖上をしばし照らし出す。


「――――」


 俺は息を止めた。


 湖から視線を外して、トゥイーディアとカルディオスを見下ろした。


 カルディオスは懸念と気遣いをいっぱいに浮かべた翡翠の瞳で、困惑そのものの表情でトゥイーディアを覗き込んでいる。


「トリー? 分かった。でも、イーディ――」


「カル」


 カルディオスを遮るように名前を呼んだ俺を、カルディオスがぱっと見上げた。

 そして俺の表情を捉えて、目を見開いて言葉を呑み込んだ。


 そんなカルディオスの手を握ったまま、トゥイーディアは小さく震えている。

 動揺のためだと分かった。



 ――ガルシア戦役の、ヘリアンサスが手を下した凄惨極まる殺戮現場を見たときですら、トゥイーディアはこれほど動揺しなかった。

 傷付いていたし、悲しんでいたし、自分を責めてもいたけれど、それを全部胸の内に仕舞い込んでみせていた。


 その彼女が、ここまで動揺を露わにしている。


 ――それだけ、トゥイーディアにとってお父さんは特別であるということだろう。


 陳情団の人たちは、トゥイーディアに会ったことはないようだった。

 それは逆もまた然りだろうが、トゥイーディアは、()()()()()()()()()()()が命を落としたということに、これほどに衝撃を受けている。



 カルディオスはしばし、迷うようにトゥイーディアを見ていた。


 そののちに、今の彼女をここに置いては行けないと判断したのか、怪訝そうに物言いたげにしている衛兵の彼を完璧に無視して、再び俺を見上げた。


 そして、断固として言った。


「――ルド、トリーを捜して来い。心配だ。

 俺がイーディといる」


 俺が頷いたタイミングで、衛兵の彼は痺れを切らしたらしい。


「誰だ、きみたちは」


 少々荒らげた声の誰何を、俺は荒っぽいとは思わなかった。


 衛兵――権力側の人間からすれば、突然に名家の令嬢に駆け寄った不審な二人組である。

 襟首掴んで問い質すくらいのことをする人もいるだろうに、彼は随分と穏便に質問した。


 ――尤もそれは、トゥイーディアの挙動が明らかに、俺たちを知人であると物語っていたためかも知れなかったが。


 カルディオスが、翡翠の瞳を閃かせて衛兵の彼の方を見た。

 普段の笑みなど欠片もない、凄みすらある真顔だった。


 たったそれだけで、衛兵の彼は誰何を諦めたらしい。

 二、三度、惑うように口を開け閉めしてから、無言でトゥイーディアから離れるようににじり動いた。


 それを傍目に見ながら、俺はトゥイーディアの傍を足早に離れ、トゥイーディアやその向こうの湖面の方を伸び上がって見ようとしている連中を掻き分け、さっきとは逆方向に人混みを抜け始めた。


「――誰がこんな……」


「――陛下には奏上したのか」


「――本当に陳情の者たちか」


「――登城の名簿には――」


 口々に交わされるざわめきを振り切るように人混みを抜けて、俺は無意識のうちに詰めていた息を吐いた。



 廊下の天井に吊るされたシャンデリアの光が大理石の床に反射して、妙に現実感がない。


 いや、現実感を持ってこの現実が腹の中に落ちてきたら、俺はその場で吐くかも知れないけれど。



 夜が太陽という光源を奪っていたことに感謝しながら、俺は鳩尾の辺りを片手で押さえた。


 乏しい明かりで見ただけとはいえ、湖上に力なく浮かんでいた数十の人の姿は――あるいは、ついさっきまで人だったものは――、確実に俺の精神を蝕んだ。


 ――トゥイーディアは、まだ明るいうちにあの光景を見たんだろうか。


 それを考えると、よりいっそう暗澹たる気持ちになる。



 顔を押さえ、息を吸い込んで、俺は目を閉じた。


 感覚を研ぎ澄ませてみても、ディセントラの魔力の気配はない。

 残滓のような――彼女がもうそこにいない中で残っているだけというような気配はあったが、肝心の、彼女がどこにいるのかを示す気配がない。


 顔を上げ、当てもないが歩き出す。

 とにかく動いていなければ発狂しそうだった。



 ――湖面に、まるで飛び石のように浮いていた、あの。



 歩きながら目を擦り、両手で顔を拭うように擦る。


 そのまま、王宮の奥から折り返すように元来た道を辿る。

 まずは、恐らくは無駄足になるだろうが、ディセントラに与えられている部屋を覗いてみるべきか。



 ――もしも……。



 厭な予感が、忍び込むようにして俺の頭に滑り込んできた。



 ――もしも、ヘリアンサスがディセントラに何かしたのだったら、どうする。



 そんなことが起きていたのならば、今度はディセントラの命を危ぶまなければならなくなる。


 そして、言っては何だが、名前も知らない陳情団の人たちの死よりも、ディセントラの死の方が、俺たちにとっては何千倍も重く響くだろう。

 ――たとえ、次の人生でまた会えるにしても。


 トゥイーディアがこれ以上つらい思いをすることになりませんよう、と祈りながら、俺は一縷の望みを懸けてディセントラの部屋へ向かおうとしていた。


 まっすぐ前だけを睨むように見ていて、視野は狭まっていた。



 ゆえに、足許から声を掛けられたとき、俺は不覚にも飛び上がるほど驚いた。



「――あら? 騒がしいと思ったら、ルドベキアさん。

 反対側へ行かれるのね。あちらに何がありまして?」


 どきりとして、俺は視線を下に向けた。

 そしてそこに、こちらを見上げて首を傾げる、まだ幼い令嬢を発見した。


 ――数秒考えて、俺はやっと思い当たった。

 カリッシュ伯爵令嬢、エレノアだ。


 大きな瞳で俺を見上げるエレノア嬢を、名前と顔を一致させたのちに更に数秒間見下ろした後、俺ははっとした。

 思わず一歩下がって、エレノア嬢の行く手を遮る形で手を伸ばす。


 視線を上げて周囲をぐるりと見回したが、エレノア嬢は――全く不可解かつ呆れたことに――護衛の一人も伴っていなかった。

 良識ある大人が傍に居なければ、この令嬢はふらふらと惨劇を見に歩いて行ってしまうだろう。


 ――いくら貴族だろうが間抜けだろうが、この先にある光景は、まだ幼い子供に見せていいものではない。


 存在すら伏せるべき光景だ。


「――面白くもないものですよ」


 絞り出すようにそう言ってから、俺は投げ遣りに尋ねた。


「それより、救世主さまがどちらにいらっしゃるかご存知ありませんか?

 恥ずかしながら、護衛の身で見失ってしまいましたもので」


 すらすらと喋る自分の声を、どこか他人のもののように聞きながら、俺はさり気なくエレノア嬢に踵を返すことを迫った。


 エレノア嬢はしばし、きょとんと大きな目を見開いて俺を見上げていた。

 それから、衒いなく、こくりと大きく頷いた。


 ――俺は目を見開いた。


 そんな俺を不思議そうに見ながら、エレノア嬢は得意げに胸を張る。


「ええ、窓越しにお見掛けいたしましたわ。

 ――わたくしがご案内させていただきましょうか」


 一も二もなく頷いて――というのも、ディセントラがどこにいるのか、その手掛かりはどんなものでも欲しかったから――、それから俺は、付け加えるように言っていた。


「恐れ入りますが。――途中までお供させてください。救世主さまがどちらにいらっしゃるのか伺えれば十分ですし、畏れながらご令嬢、貴女はお早く父君の許へお戻りになるべきかと」


 俺の言葉に、エレノア嬢は何も考えていなさそうな顔で、ふわりと微笑んだ。


「あら。お父さまのお言い付けを破ってふらふらしていると、お分かりになりました?」



 ――この時間に一人でうろついているとすれば、考えられる事態はそれくらいだろうがよ。



 そう言いたいのをぐっと堪えて、俺は息を吸い、「それで、救世主さまはどちらに?」と、この頭の回転の鈍い令嬢を促した。





◆◆◆





 ディセントラは無事であり、その事実に、俺は腰が抜けるほど安堵した。



 彼女は王宮の、馬蹄形に広がる棟の一階の、片隅の小部屋にいた。


 どうやら普段は使われていない応接室のような設えの、その小部屋がもはや洪水になるのではないかと危ぶむほどに泣いていたが、傷一つなかった。


 その姿を見た瞬間に、俺は思わず堅い床の上に膝を突いた。


 エレノア嬢に小部屋の場所を聞いて、付いて来ようとする彼女をさすがに怒鳴りつけて、ディセントラに何かあったらどうしようと思いながら走ったのだ。

 安堵は胸を突き破りそうなほどだった。



 ディセントラはディセントラで、扉が開いたということに驚愕した風情だった。

 床に座り込んでいたところを立ち上がって、扉を開けたのが俺だということすら俄かには分からなかった様子で、()()()()()こっちに突進してきたくらいだ。


 小部屋の中にはディセントラの魔力の気配が渦を巻いていて、彼女が何かしらの方法でこの中に閉じ込められていて、それを突破するために力を尽くしていたことが窺えた。

 そして同時に、この小部屋の中で揮われた魔力の一切が、如何なる道理によってか、部屋の外へは気配としてすら伝わっていなかったことも分かった。



 突進して来たディセントラを受け止めた瞬間に、ディセントラには相手が俺だと分かったらしい。

 その途端に輪を掛けて涙を零し始めて、そんな場合でもなかったが、俺は大いに狼狽した。



 ディセントラから見た、一連の事の経緯を聞くのはかなり難しかったが――何しろ、ディセントラがかつてないほど泣きじゃくっていたから――、しゃくり上げるが余りに声が言葉にならないこと以外、ディセントラが順序良く説明しようという意思を持っていたがために、俺が彼女を小部屋から連れ出して、トゥイーディアとカルディオスがいるはずの方へ向かうまでの間に、俺は概ねの事情を了解することが出来た。


 ディセントラの手は、動揺を残して激しく震えていて、俺は彼女を安心させるためだけに、手を繋いで歩くことを選んでいた。


 廊下はぱたりと人通りが絶えていて、奇異な目で見られることもない。

 恐らく、あらゆる人間が湖を望む窓の方へ走っているのだろう。



 ――曰く、俺を送り出した後。


 レヴナントの出現が確認されて、衛兵がディセントラを呼びに行ったらしい。

 だが、彼らが向かったディセントラの居室は無論のこと無人。

 あわや救世主失踪か、と騒ぎになり掛けたがために、已む無くディセントラが「救世主はここに」と名乗りを上げる羽目になったのだという。



「……陳情団の方たち、目が転げ落ちそうな顔をなさっていたわ」


 そう言って、ディセントラはぼろぼろと涙を零した。

 淡紅色の瞳が溶けていきそうだ。


 ――俺はまだ何も言っていないのに、ディセントラはもう既に、陳情団の人たちに何があったのか、分かったような目をしていた。



 ――名乗りを上げたディセントラは、それからしばしの板挟みだ。

 レヴナント討伐を依頼してくる衛兵を無碍には出来ないが(何しろ、救世主としての風評に関わるからね)、さりとて陳情団を放置も出来ない。


 俺かトゥイーディアかカルディオスが、遅かれ早かれレヴナントを討伐するだろうと確信してはいても、自分が動く風情を見せねば政治的につつかれかねない状況。

 その状況にあって、ディセントラは妥協案を採ったらしい。



 ――つまり、陳情団を自分の魔法で保護した上で、少しだけその傍を離れたのだ。



 ディセントラの声音には自責の念が溢れていたが、俺は特段の口を挟まなかった。


 ディセントラは、一人で二つを守らなければならなくて――陳情団の人々と、救世主の名前の価値と――、それを考えれば、彼女の判断は最上だったはずだ。



 しゃくり上げて息を吸ってから、ディセントラは泣き過ぎて掠れた声で続ける。


「――それで、衛兵さんに付いて少しだけ離れて、……あんたが駄目でも、イーディなら絶対に動くと思ったから、ほんとに、十ヤードくらいしか離れなかったの。言い訳に聞こえるでしょうけど、誓って」


「別に言い訳だなんて思わないよ」


 めそめそ泣いているのが、もしも他人だったならば、俺も鬱陶しく思って、「早く喋れよ」とでも考えていたことだろうが、ディセントラは――というか、救世主仲間のみんなは――もはや他人とはいえない間柄である。


 端的な否定を返すと、ディセントラは鼻を啜った。

 そして、嗚咽に震える声で続ける。


「――そこで、ヘリアンサスに行き当たって……」


 俺は思わず息を呑んだ。

 慌てて、改めてディセントラを眺め遣ったが、彼女に怪我をした様子はない。


 俺が彼女の安否を確認したことにすら気付いた様子はなく、ディセントラは泣き過ぎて真っ赤になった鼻の頭を袖で押さえつつ。


「……いつもと様子が違って」


「いつもと?」


 訊き返した俺の言葉に、ディセントラは涙に濡れた長い睫毛を瞬かせてから、ぽつんと答えた。


「――いつも、私たちを見ると馬鹿にしたように笑うじゃない。あれがなかったの。

 すっごく――そうね、無表情だった」


 そのときのことを思い出したのか、ディセントラの背中がふるりと震える。


「……それで、ちらっと私を見て、――気付くとあそこにいたの」


「いきなりか」


 尋ねたというよりは確認するような俺の語調に、ディセントラはこくんと頷く。

 そのまま、こくんこくんと何度か繰り返し頷いて、小さな震える声で続けた。


「――何をどうやっても出られなくて、そのうちに、私が、」


 言葉を切って、啜り上げるように息を吸って、ディセントラは消え入りそうな声で。


「……あの方々を守っていた魔法が駄目になったのが分かったの」


「――――」


 俺は黙っていた。


 ――ディセントラがどれだけ複雑で強力な魔法を掛けようが、ヘリアンサスならば息吹のひとつでそれを掻き消すだろうということを、これまでの数百年の人生の全てで分かっていたからだった。



 ――ディセントラは、恐らく、ヘリアンサスがすぐさま陳情団の排除に動く可能性は、それほど高くないと思っていたのだ。

 警戒するべきではあっても、確実ではないと踏んでいた。


 だからこそ、僅かの間であれ陳情団の傍を離れた。


 そしてもしも、ディセントラが強硬に陳情団を守ろうとしたのであれば、ヘリアンサスの機嫌が悪ければ、彼女も今頃イルス湖に浮いていたことに間違いはないだろう。

 ヘリアンサスの機嫌が良ければ、腕の一本くらいを飛ばされる程度だったかも知れないが。



 俺たちは、ヘリアンサスの意向を挫くには余りにも弱過ぎる。


 だから先手を打たなくてはならないのに、それすら出来なかった。



 ディセントラを閉じ込めていたあの小部屋は――そこにヘリアンサスが付与していた魔法は――、恐らく内側からの破壊を封じていたはずだ。


 だからこそ、俺はあっさりと扉を開けて、ディセントラを小部屋の外に出すことが出来た。


 エレノア嬢は、窓越しにディセントラを見たと言っていたから――あの小部屋には、確かに庭園に向かって開く窓があった――、もしもそのときに、エレノア嬢が窓を外から開ける何かの働き掛けをしていれば、ディセントラはもっと早くにあの部屋を脱出することが出来ていたはずである。



 灯火の明かりが妙に眩しく目に映った。


 まだ、現実感がまるでなかった。

 頭の芯が痺れているかのようですらあった。



 しばらく無言のままに進んでいると、はたとディセントラが立ち止まった。

 手を繋いでいたがために、俺は後ろに引き留められる格好になって足を止める。


「……どうした?」


 振り返って尋ねると、ディセントラは蒼白な顔で俺を見た。


「――イーディのところに向かってる?」


 瞬きしてから、俺は頷いた。

 そして、俺の頭では思い付かないような不都合があるのかと思って、首を傾げて尋ねた。


「――なんか、……駄目なのか?」


 ディセントラは首を振って、俺の手を離した。

 そして、両手で顔を覆って、くぐもった声で答えた。


「……いいえ」


 またもぼろぼろと涙を零すディセントラを、俺は持て余す気持ちで見ていた。



 ――トゥイーディアは、つらいときも悲しいときも、絶対に泣かない。

 彼女が泣くのは、嬉しいときや感極まったときだ。それから、――悲しみの出口で、初めて涙を見せるような人だ。


 だから、彼女が涙ぐんだりするのを見ると、俺は内心でちょっとほっとすることもあるのだが、ディセントラは違う。


 この赤金色の髪の女王さまは、嬉しいときも、感極まったときも、悲しいときも、つらいときも、感情のままに涙を零すような人だ。



「いいえ、いいえ、イーディに会わないといけないわ」


 くぐもった声でそう言って、しかしディセントラは、顔を覆ったまま動かなかった。


「……ディセントラ?」


 しばしの沈黙ののちに、俺が遠慮がちに声を掛けると、ディセントラはゆるゆると首を振りながら、縋るように呟いた。


「――ちょっと待って、少しだけ……」


 その場に座り込みながら、ディセントラは涙に溶けていきそうな声を出した。


 赤金色の髪が灯火を弾いて、やっぱり現実感なく目に映った。



「……もう手遅れなら、少しだけ待って、泣き止ませて……」



 震える声でそう言って、ディセントラはなおも嗚咽を漏らした。

 歯を食いしばってなお漏れたような、そんな嗚咽だった。


 ――トゥイーディアはおまえの泣き顔くらい見慣れてるだろ、と、俺は言いそうになった。


 そしてそれを察したかのように、ディセントラの、涙を含んだ声が呟いていた。



「――私なんて比べ物にならないくらいつらい思いをしてるあの子に、私が泣いてるところを見せる権利なんて、あるわけない……」



 俺は息を止めて、それから、ゆっくりと肺腑に息を落とした。



 そして、一歩の距離をディセントラの方へ戻って、本物の護衛よろしく、しばらくはその傍に立っていることを選んだ。
















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