02◆ 魔法の話
第7話のご感想で指摘していただいた矛盾点につきまして、この話の表現を一部変更いたしました。
俺が生まれて六年経った。
今日も今日とて俺は図書室に引き籠り、六歳児が読むにしては物理的にも内容的にも重過ぎる本を膝の上に乗っけて窓際で読み耽る。
護衛のみんなは退屈だろうけど、でもある意味楽だと思うよ。
俺動かないから。
幼児にありがちな、目を離した隙にどっか行ったっての、まずないから。
図書室の出窓に座って膝の上に本を抱えて没頭する俺の異様さよ。
文字を覚えるだんとつの早さたるや、教育係のじいやを絶句させたほど。
だってこれまで繰り返し生まれてきた大陸と言葉変わらねぇんだもん、余裕に決まってる。
乳兄弟は俺の優秀さの前に委縮してしまったので、一緒に授業を受けるのをこの頃は俺の方から断っている。
窓際は明るくていい。
光で劣化しがちな書籍が山ほど積んである図書室の窓が採光性に優れた出窓っていうのも不思議だけど。
図書室はこの建物の四階にあるので、顔を上げれば広々と外の景色を見渡せるのもいい。
真下を見下ろせば庭園、そこから更に目を転じれば、大の男を二段重ねにしたよりもなお高い塀を挟んで向こうが訓練場。
訓練場だけは見たくないな。俺は暴力沙汰が嫌いだからな。
訓練場のその更に向こうには、絶対に立ち入ってはならんと言い含められている機織り塔のてっぺんが見えている。
目を伏せて文字を辿る俺の視界に、さらりと漆黒の髪が滑り込んでくる。
俺は鬱陶しい気持ちを隠さずそいつを払い除けた。他でもない俺自身の髪だ。
生まれてこの方短く整えることは許されず、髪は肩より長く伸びている。
なんでもこっちの文化では、身分が上の者は髪をある程度は伸ばしておくのが儀礼らしい。うぜぇ。
ちなみに俺の今の母親は金髪、父親は赤毛だ。
なんで俺が黒髪なのか、母親の不倫の可能性含めて議論の声が一時期飛び交ったらしいが知らん。俺はずっとこの髪色だ。
何回も何回も生まれた経験はあるが、記憶にある限り俺の顔も髪色も目の色も変わらん。
生まれた地域によって肌の色が白くなったり黒くなったりはしたけど、そんなのは大した差じゃない。
俺の目の色は深青。
いつものように、日差しなんかの明るい光を浴びれば空色に映るはずだ。
幼いながらに無口でミステリアス、しかもありとあらゆる教養を一度で呑み込む天賦の才(ごめん、元から知ってただけなんだ)に、貴族の令嬢なんかは俺を見る度に目の色を変える。
親から、俺に取り入れって言われてんだろうな。
だが、俺は何回生まれようが絶対に、宿命のお独り様だ。
はあ、と溜息を零して窓に目を遣る。
前回から百数十年。技術も進歩したんだろう。窓硝子は曇りなく透明だ。
その透明な硝子越しに眼下に目を転じれば、庭園をそぞろ歩く貴族の令嬢たちの姿が。
なんだかなぁ、と内心で呟く。
ここは、普通だ。
前回もそのまた前回も前々回もその更に前も、俺は他の五人と一緒にここに殴り込みを掛けてきた。
救世主の義務を俺自身に求められることもあったし、救世主になった他の奴に付き合ってそうしたこともあった。
だから、ここがどこなのか、割と正確に分かっている。
ここは――認めたくはないが認めざるを得ない、ここは魔界と呼ばれる地だが――、俺がずっと何回も生まれ落ちてきた二つの大陸の、南の方に位置する孤島だ。
大陸二つとこの島で、さながら三角形を描くような位置関係のはずだ。
さすがに大陸を飛び出して生まれたのは俺も初めてだけど。
峻険な崖が天然の要塞を成す巨大な島で、南方の海の恵みと温暖な気候のために非常に豊かだ。
住んでいるのは「魔王」を頂点とする「魔族」。
殴り込みを掛ける度に思っていたがやっぱり、魔族は人間と変わらない。
角があったり牙が生えていたり、はたまた魔力の内蔵量が人間より多いとか、そんなことも一切ない。普通の人間に見える。
――とんでもないのは魔族ではない。魔王だけだ。
魔王といえば思い浮かぶのはあいつの顔だ。
雪のように白い髪に黄金の目。
いつもにこにこ笑顔で俺たちを追い詰め惨殺していったあいつ。
いつも決まってあいつが魔王だったのに、今回はどうしたことだろう。
まさかあいつが俺の代わりに救世主になるのか。
あいつが攻め込んで来たらこの島は吹き飛ぶぞ。六人掛かりで一回も勝てたことはないんだからな。
俺以外の後の五人があいつと一緒にここに来る図は、どうにも頭に浮かばないけど。
窓の外を見下ろしたまま溜息。
我ながら、幼い割には重過ぎる溜息が出た。
俺が魔王なのは、ほぼ確定的だ。
今まで知らなかったが、魔王というのは家系で決まるのではないらしい。
魔王の力を顕わした男児が魔王として育てられて、然るべき年齢で形式的な儀式を終え、正式に魔王の玉座に着く。
俺は胎児の頃から魔王の前兆を振り撒いた、典型的かつ理想的な魔王らしい。
今のような、魔王がいない空位の時代においては魔王輔弼がこの島を治めているらしいが、俺が即位すれば、俺がこの島の面倒を見なければならなくなる。
――冗談じゃない。
何が悲しくて、これまで十回超えで死地になった場所のために奮闘しなきゃならないんですかね。
帰りたい。
帰りたい……。
帰りたいと思って脳裏に描くのは、五人の顔だ。
いつもいつも一緒にいた五人。
俺を含めた六人で、常に輪番制で救世主を担当してきた。
正直何回も生まれ過ぎて、家族ですら特別な相手だと思えなくなっている現状で、あいつらだけが俺の特別な相手だ。
生まれるときには自分が救世主ではないことを祈り、誰が貧乏くじを引いたか分かれば取り敢えず笑ってやり、しかしながら全員でその一人に付き合う。
辛いときには支え合い、互いの幸福を喜び、誰かが怪我をすれば全力で心配し、死地に赴くときも毎回みんな一緒――まあ、中の一人の幸運は、俺は喜べなかったりするわけだけど……あっやべっ、郷愁余って涙が。
今回は誰が救世主なんだろう。
いつも魔王だったあいつが、まさかみんなの所に行ってないだろうな。
再び溜息。
連続の重い溜息に、傍に立つ護衛の一人がごほんと咳払いした。
「――ルドベキア様?」
ルドベキア、それが俺の名前だ。
記憶にある限りはずっと。
運命的に、俺たちは延々と同じ名の許に生まれつく。
即座に俺は郷愁に耽っていた表情を、いつもの無関心な無表情に切り替えて振り返る。
「なに?」
問い返す声は高い。なにしろまだ六歳だから。
「どうかなさいましたか?」
訊かれて俺は首を振る。
「ううん、なんにも」
そうとだけ答え、俺は再び本に目を落とした。
本日の俺のお供は歴史の本。
それも近世について詳しくまとめた本だ。自分が生きてた時代のことは知ってるからね。
問題は前回俺が死んでから、こうやってもう一度生まれるまでの間に何が起こったか。
ちゃんと把握しておかないと、下手に前回の常識が意識に染み付いた状態で生まれてしまっている分、どこかでボロが出かねない。
とはいえここにある歴史の本は、魔界の――この島の歴史を編纂したもの。
大陸の文化やら歴史やらについての情報は、無いに等しい。
この本はここ百年ばかりの歴史を中心にまとめられている。
俺たちがここに殴り込みを掛けたことも、丁寧に書かれている。
俺たちは完全に悪者だ。
大陸に向かって、悪意満点で季節風に載せて瘴気を撒き散らしたのは魔王だというのに、そこについては触れていない。ものすごい兵器で海を越えて爆撃してきたのは魔族の方だというのに、そんなことは無かったことにされている。
唐突に俺たちが殴り込んで来たみたいな書かれ方をしている。
くそぅ、これだから勝者の歴史は。
何回生まれて何回挑んでも、俺たちは魔王に勝てたことがない。
だからか、大陸では救世主として起つ度に、まるで歴史上初の救世主であるかのように持て囃されてきた。
敗者の歴史は残酷で、失敗した過去の救世主についてはまるっと無かったことにされるらしい。
同じ理屈で、前回は実は魔王が負けてたのにそれを隠してこの本が書かれてる可能性、無きにしも非ずでは?
実際にあいつらに会って、前回の結末を教えてもらうまでは何も信じまい。何しろここは敵地。
――前回の救世主は、あいつだったな。
そう思い出して、ふと意識が本から逸れた。視線は文字を追ったまま。
――もしあいつが前回も負けたなら、あいつの頑張りも、やっぱり今回も無かったことにされてるのかな。
あいつ、最後まで生き残ったかな。どんな殺され方したんだろう……痛くなかったなら、苦しくなかったのならいいんだが。
俺が目の前で死んじまったから、あいつは少なからずショック受けちゃったかな。ちょっとは泣いてくれたかな――いや、それはないか。
ページをめくって、瞼の裏に思い起こされる飴色の瞳の幻想を払う。
それにしても、危ない危ない。
この護衛たち、実を言うと俺の監視も兼ねている。
俺が余りにも異常かつ、魔王になる身としてはあるまじきことに戦闘事に興味を示さないから、周囲が俺を見る目は年々険しくなるばかり。
俺が魔王になることは確定しているから、下級貴族の連中は、俺と同い年くらいの自分たちの子供を使って俺に取り入ろうとするが、対して政権の中心部にいる人たちが俺を見る目の冷たさたるや。
勉強は真面目にやってんだからいいじゃんね。
事あるごとに、「ルドベキア様、訓練場にて武闘会が」やら「ルドベキア様、少し魔法の練習を致しましょう」やら。
こんな小さい子供に武闘会見せてどうすんだ。俺が見た目通りの精神年齢ならギャン泣きするぞ。
それともあれか、歴代魔王はそんなの平然と見てたのか。にこにこしながら俺の腕を引きちぎったこともあるあいつならそうだろうな。
魔法の練習なんて要りません。俺はもう十分です。
ていうか魔王として生まれついたからか、これまでより俺の魔力はかなり大きい。
あと多分、俺たちを散々苦しめてきた、魔王特有の力だって使えるはずだ。
使いたくないけど。どうしたってあいつの黄金の目を思い出すから使いたくないけど。便利だとは思うけど。
――魔法とは、魔を以て法を変えること。
自分自身の魔力を以て、この世界の法を少しだけ変えて望む結果を導くこと。
魔力は人であれば大なり小なり備えているものだけれど、魔力を自覚している人は結構少ない。
そして、自分が内包している魔力の大きさによって、変えられる法に差が出てくるというわけ。
ちなみに、俺たち救世主――まあ、みんなが同時に救世主になるわけじゃないから、救世主と準救世主としておくが――は、ただでさえ魔力潤沢に生まれつくが、それ以外にも特別に許された、予め変えることが可能であると決められた法がある。
これを俺たちは、「得意分野」だとか、「固有の力」だとか、仲間内で呼んでいた。
固有の力として、万人が扱うことの出来る魔法を(威力としては上位互換で)持っている奴と、絶対にそいつにしか使えない、本当の意味での固有の力を持っている奴がいる。
ちなみに俺は準救世主のときは前者に当て嵌まる。
何がいいって、この得意分野を発揮するときは、他の魔法を使うときに比べて段違いに少ない魔力で済むんだよな。それでも威力は折り紙付き。
感覚だけど、俺は魔王としての魔力も、準救世主としての固有の力も、どっちも備えて生まれてきてるっぽい。
みんなに再会した暁にはどんどん頼ってもらえそうだ。
何しろ魔王と救世主が使う魔法は、他とは意味合いが違うから。
魔法で出来るのは、法を変えることだけ。
この世界の法を誤魔化して、自分の望む結果に近付くことだけ。
そして絶対に変えられない大原則――絶対法と呼ばれるが――も幾つかある。
〈時間を操ることはできない〉こと。
〈失われたものを取り返すことはできない〉こと。
〈死んだものは蘇ることはない〉こと。
〈魂は巡り巡って決して滅びない〉こと。
〈無から有を生み出すことは出来ない〉こと。
〈あるべき形からの変容はできない〉こと。
――この世界の法を超えられるのは、魔王か救世主だけだから。
あるいは多分、準救世主にもちょこっと絶対法を超えることが許されている気がしないでもない。
何しろ転生という形ではあれ、記憶を持った同一人物として一応毎回復活してるからね。
他にも、固有の力が絶対法に触れてんじゃないかと思う奴もいる。
とはいえ顕著に絶対法を超えることが出来るのは、正当な救世主と魔王のみ。
顕著といっても、予め定められた方向性でしか超えられないけど。死んだ相手を任意で復活させることが出来ればどんだけいいかと、何回思ったことか。
――救世主が破壊の力で法を超えるのに対して、魔王は守りの力で法を超える。
だから俺たちは今まで、あいつに傷一つ付けられたことはなかった。
「ルドベキア様」
回想を打ち破る声にまた呼び掛けられた。しかも何か、促すような声音で。
え、この後予定あったっけ。
顔を上げ、呼び掛けてきた護衛の一人を見上げて首を傾げる。
ただでさえ所業が異常なのだから、たまには幼い仕草もしておかないとな。まあ、やりすぎると俺の自尊心が修復不可能なレベルで砕け散りそうなんだけど。
俺に見上げられた護衛は、眼差しで図書室の奥を示した。
俺はきょとんと視線をそっちに移す。
窓際の明るさに慣れた目は、図書室の中を暗く捉えてなかなか護衛が示した対象を見付けられない。
ぱちぱちと数回の瞬きを挟んで、俺はやっと護衛が声に出さずに対象を示した理由を悟った。
図書室に並ぶ書架の間から、一人の令嬢がこちらをちらちらと見ていた。
身に着けているのは淡い紅色のドレス。令嬢と言っても年齢は俺と同い年か少し上かと言ったところ。金色の髪をリボンで結い上げ、緊張からか幼い頬を赤くしてこっちを窺っている。
「…………」
あー。
多分どっかの下級貴族の娘だろう。
どっかで見た覚えはあるが、どこで見掛けたのかも思い出せなければ、肝心のどこの娘かということも思い出せない。
多分親から、俺とお近づきになるよう言われてんだろうな。
健気だとは思うが相手には出来ない。
護衛も、この子が近付いてきたことを声高らかに言っていいのかどうか迷って、俺に視線で伝えてきたんだろう。
可哀想にな。無駄なのにな。
ぱたんと本を閉じる。
そのまま出窓から飛び降りると、俺は護衛を見上げて言い放った。
「本を戻して部屋に帰る」
令嬢が踏み出そうとした足を戻したのが視界の隅に映る。
いいんですか? と言わんばかりに眉を上げる護衛たちに、俺はふいっと顔を逸らすことで応えた。
俺は宿命のお独り様で、まずもって恋愛事とは縁がない。
俺とお近付きになりたいなら、俺の話について来られるだけの知識を持った学者でも連れて来てほしい。
あと、俺とお近づきになったって無駄だ。
――俺は絶対に、魔王になんかならないんだから。
◆◆◆
俺が生まれて十年が経った。
この頃の俺は針の筵だ。
やる気がないのがバレバレ過ぎて大顰蹙。
遂に魔王輔弼直々にお叱りを頂いた。
国がどうこう言ってくるが、ここ、何十回と俺の死地になった場所だから。
そこのために頑張れないから。
「勉学において熱心にお励みになる、その姿勢は大変よろしい」
どうもどうも。勉強というか復習だけどね。でもこの百数十年で発展してきた技術の勉強は新鮮で楽しいよ。
――なんて心の声は顔に出さず、俺はしらーっとした顔で明後日の方を向いておく。
「ですが、その態度。一国を背負う覚悟があるようには見受けられませぬ」
だってそんな覚悟ないもん。押し付けないでくれよ。
「あなた様の身の回りの全て、口にされる全ては民からのものですぞ」
そうみたいだね。未来の魔王の父母となった俺の父母は大満足だ。生まれるや否や俺は魔王城の一番いい部屋貰ったらしいね。でも贅沢してないし。何なら追い出してくれてもいいし。
「そして何よりも、なにゆえあなた様は己の力を磨かれませなんだ」
磨いてるじゃん。知識は力だよ。
「それだけの魔力を授けられていながら、一度も魔法を使われないとは何たること。武勇は魔王の絶対の条件。このままでは誰も、あなた様を主と仰ぎはしませんぞ」
別に仰いで要らないし。
――これだから魔族は。
俺はしらーっとした視線を魔王輔弼に向けた。
白髪の目立つ灰色の髪の、痩せた老人。
額に青筋を立てて、まあまあ落ち着けよそんなに怒ったら寿命も縮むぜ、なんて言ってやりたくなる。
武勇の何が力だ。そんなものは要らない。俺は平穏無事に生きていきたい。今回は俺が魔王なんだから、俺が魔王としての役目を放り出して逃げ出せば、救世主は救世主たる役割を求められずに済む。
そうすれば六人全員でほのぼのと生きていける道も見える。
俺の白けた視線に、魔王輔弼の血管が切れた音が聞こえた気がした。
「このような魔王、史上一人もおりませぬぞ!」
怒鳴られても俺は気にならない。
こんな魔王は他にいないって?
まあそうだろうよ。今まで魔王はずっと同一人物がやってきたんだから。
齢十にして、俺は大人たちを舐め切り、友達も一人もおらず、毎日ただただ図書室で本を読み漁る変人となっていた。
ちょっと調子に乗り過ぎたなと思ったのは、十三のときだ。
危うく殺され掛けたのだ。