43◆*湖面の影
トゥイーディアの飴色の目がぱっちりと見開かれて俺を見ている。
周囲には粉塵が立ち込め、なおも瓦礫が崩れていく音が轟いていたが、それすら俺の意識から遠ざかった。
斜めに差し込む陽光が粉塵を白く照らしている。
埃っぽいだけのはずのその光景が、不意に神々しく目に映った。
トゥイーディアはそんな俺の視界の真ん中で、頬どころか耳まで赤くして俺を見上げ、驚きの余りにあどけなくさえ見える表情で瞬きし――
――くしゅん、と、くしゃみをした。
息を吸い込んだ拍子に、粉塵を吸ってしまったらしい。
きゅっと目を閉じて小さくくしゃみをした拍子に俺から顔を背けて、ついでにちょっとよろけた。
彼女の足許には、ぼろぼろに破れてくしゃくしゃになった絨毯が落ちていて、よろけた彼女の靴の踵は、その絨毯越しに瓦礫に当たって、くぐもった硬質な音を立てた。
俺はもちろん、手を伸ばして彼女を支えて、大丈夫か、と声を掛けるような真似は出来ない。
そのために、ただそこに立っているだけの一秒ではあったが、内心では叫びながら悶絶したい気持ちでいっぱいだった。
――なんだこれ。なんだこれ。
可愛い。
くしゃみまで可愛いってなに?
余りの可愛らしさに、心臓が張り切れんばかりに膨らんだかのようだった。
息が苦しい。
可愛らしさって、行き過ぎると毒にもなるんだな、知らなかった。
――そんな間抜けなことを考えている俺は、直後に自分の、氷点下の声を聞いた。
「――なにしてんの?」
自分の言葉を聞いて、俺は自分の耳を疑った。
トゥイーディアが顔を上げた。
もう一度俺を映した彼女の飴色の目に、俺は自分の、徹底的に不機嫌な顔を見た。
トゥイーディアが瞬きした。
その表情が、ぐるりと変わった。
一瞬未満の間、恥ずかしそうな――はしゃいでいるところを咎められたかのような表情が浮かんだかと思うと、直後に、見事なまでの真顔になったのだ。
まるで、夢から覚めたかのようだった。
一瞬、彼女が息を詰めたように見えた――その表情が、眼差しが、まるで何か激しい痛みに耐えているようにも見えて、俺は内心で大いに狼狽えた。
だが、トゥイーディアが直後に出した声は平静そのものだった。
まるで、手品でどこからか引っ張り出してきたかのような声だった。
「――何かあったの?」
「あった」
無愛想極まりなくそう応じながら、俺はレヴナントに視線を移した。
実際のところ、俺はレヴナントの存在を半分くらい頭の中から追い遣っていたのだが、代償に促される俺の冷静さは、この薄墨色の巨人のことを忘れてはいなかったのだ。
「カルは? 近くにいるんだろ」
トゥイーディアは、俺の挙動でレヴナントの存在を思い出したかのように、俺から視線を外して、くるりとレヴナントに向き直った。
彼女の左手が、全く無意識の様子で、ぎゅっと胸に押し当てられるのが見えた――本当に、何かの痛みを堪えているかのようだった。
それでいて全く冷静に落ち着いた声で、トゥイーディアは俺に答えた。
「ええ、一緒に来たから――今、周りの様子を見てくれているはずだけど」
「ならいい。おまえ、さっさと王宮に向かえ」
俺の端的な言葉に、トゥイーディアが怪訝そうに俺を振り返った。
もう完全に、いつも通りの彼女に見えた。
「……もうちょっと分かりやすく言って、意思疎通を円滑にする気はない?」
いつものように、俺の無礼極まりない言葉に対して嫌味を籠めて反駁するトゥイーディア。
とはいえ今は――俺の気のせいかも知れないが――言葉尻に力がないように思えた。
それは気になったが、気にしていられる場合でもない。
レヴナントが苛立ったように吼え猛る騒音が、今しも耳を劈いている状況なのだ。
顔を顰めてレヴナントの咆哮をやり過ごしてから、俺は心持ち声を張って、トゥイーディアに向かって言っていた。
「王宮に――ニードルフィアとオールドレイの代表の陳情団が来てる」
トゥイーディアが目を見開いた。
今度こそ完全に、彼女の頭の中からレヴナントが消え去ったのが分かった。
「……え?」
茫然と俺を振り仰ぐトゥイーディアの表情に全神経を集中しながらも、俺は後ろにいる二人が――正確には、「奥さま」と呼ばれていた彼女が――現王派と王弟派、どちらに属する貴族なのかが分かっていない現状を、辛うじて覚えていた。
二人とも、恐らくは恐怖と混乱でまともに頭は働いていないだろうが、気を付けておくに越したことはないだろう。
トゥイーディアがリリタリス家の令嬢であると、明言はしない方がいいに違いない。
「何があるか分からないから、おまえはとっとと王宮に向かえ」
――トゥイーディアも、ディセントラから話は聞いている。
彼女がどういう風に考えて、それに基づいてどのように行動したのかということを、三日前に登城して来たときに。
だからこそ、含みを持たせた俺の言葉を聞いたトゥイーディアはすぐに、陳情団の人たちの命が危ないということを理解したようだった。
俺の言葉を聞いて、目を見開いて一秒、返答すら投げず、レヴナントには一瞥もくれず、瓦礫を蹴って空中へ駆け上がった。
――空気を圧縮して足場にしているのか、それとも重力に関する法を書き換えているのかは分からないが、相変わらず、惚れ惚れするような鮮やかな魔法を使う。
まるで透明な回廊を駆け上がるようにして、トゥイーディアが上空へ向かう。
それを見送ることも出来ず、俺は彼女の存在を忘れ去ったかのようにレヴナントに向き直っていた。
「そこから動かないで」
後ろの二人に声を掛けて、俺は瓦礫を踏んで一歩前に出た。
さっきまでトゥイーディアが立っていたその場所へ。
剣を握っていない左手を軽く上げて、振り下ろす。
――カルディオスが近くにいるなら、大抵の事象から周囲を守り切ってくれるだろう。
その信頼に基づいて、上空から真っ直ぐに降った熱閃が、白く輝きながらレヴナントの頭部に命中し、金と白の光を周囲に振り撒くようにして爆発した。
ごっ、と、熱風が吹き荒れ、瓦礫がなおも崩れて行こうとする。
その瓦礫が白く凍り付いていくのを、俺は視界の端に捉えた――カルディオスが、周囲を熱から守ろうとしているのだ。
アナベルが使うほど見事な冷気の魔法ではないが、それでも短い間、この周囲という限定的な範囲を庇うには十分だろう。
ぱきぱきと小さな音を立てて、レヴナントの足許が凍り付いていく。
冷え切った瓦礫に霜が降りる。
白い薄氷がみるみるうちに範囲を広げ、俺の足許にまで達した。
冷えた瓦礫とその周囲の温度差から、瓦礫の上を靄のような霧が漂う。
俺の後ろにいる二人は悲鳴を上げ、突如として周囲を席巻した冷気と、正面から吹き付ける熱気に混乱した様子だったが、構っていられない。
周囲――俺からは見えない所からも、悲鳴や驚きの叫び声が聞こえてきていた。
レヴナントの頭部が、薄墨色の霞となって溶け出そうとしている。
――あああああ!
絶叫し、レヴナントがその巨大な両腕を振り回そうと、
「――カル、もう一発いくから頑張ってくれ!」
どこにいるのか、正確なところは分からないカルディオスに一声掛けてから、俺は今度は右手に握った真珠色の長剣の切先を、真っ直ぐにレヴナントに向かって振った。
どんっ! と、大砲のような音がして、レヴナントの足許が炎に巻かれて爆発する。
小さな瓦礫が吹き飛んで、どこかに激突する騒音が轟いた。
吹き荒ぶ熱風に目を細めながらも、俺は薄墨色の巨人が、炎を受けてほの赤く照り映えながら溶け出そうとしている様子を見ていた。
がむしゃらに振り回されたように見える巨大な両腕が、こちらに向かって伸ばされた。
もう既に頭部は溶け出していて、首を失ってなお動くような異様さがそこにあった。
――バンニ……ン
切れ切れにだが確かに、通常ならば絶叫を象ることしかしないはずのレヴナントの声が――あるいは、この災害が持つ作用としての音が――そう言葉を作ったのを聞いた気がした。
――頭部は既に消失している。
この災害が人型を持つからこそ、頭部のない姿から発される声にはよりいっそうの異様さがあった。
周囲の気温が下がり続ける。
俺が使う炎の魔法に対抗しようと、カルディオスがひたすらに冷気を生み出し続けているのが分かる。
周囲にはきらきらと氷の粒が舞い、しかしレヴナントの周囲のみは熱気に陽炎すら立つほどで――
「……くたばれ」
しつこく形を保つレヴナントに眉を寄せて、俺はこの薄墨色の亡霊に向けていた剣の切先を振り下ろした。
キン、と、高く、凍った瓦礫を真珠色の切先が抉る音が耳に届いた。
それと同時に、今度はレヴナントの胸の位置で爆炎が噴き出した。
――あああああ!
レヴナントが絶叫する。
足許の爆発があって、遂に両足が完全に消失した。
そのために頽れようとする巨体が、しかし頽れるのを待たずして、爆炎に巻かれた胸部から周囲に向かって溶け出していく。
陽炎と粉塵を纏いながら消失していく灰色の巨人の姿が、氷の粒できらきらと光る空気越しに見えている。
レヴナントの巨大な掌が、今際に一矢報いようとしたかのようなその指先が、俺目掛けて振り下ろされた。
あるいは全くの偶然で、レヴナントが末期に暴れたというだけだったかも知れないが。
後ろの二人が悲鳴を上げたが、俺は表情を変えなかった。
レヴナントの消失はもはや時間の問題で、掌が振り下ろされるよりも、明らかにその掌が消失する方が早いと判断したがためだ。
――その直感は当たった。
俺の頭上で、力を無くして空中へ解けていくように、レヴナントの巨大な手首が、掌が、そして指先が、薄墨色の霞へ変じた。
まるで何かの作用で固まっていた煙が、その作用が解けて元の煙に戻ったかのようですらあった。
――後にはただ、踏み躙られた瓦礫のみが残っている。
息を吐き、粉塵を吸い込まないよう左手で口許を覆って息を吸い込んで、それでもやっぱり少し咳き込んでから、俺はこの場の後始末よりも何よりも、真っ先にトゥイーディアのことを考えていた。
――トゥイーディアは大丈夫だろうか。
俺と話していたときの、あのつらそうな、痛みを堪えるかのような表情は、何に起因するものだろうか。
彼女は王宮に着いて、首尾よくあの人たちを説得できるだろうか。
瓦礫の上に斜めに差し込む陽光が、浮かぶ氷の粒を鋭利に煌めかせている。
その氷の粒も、一呼吸をする間に、まるで身を隠すかのように消えていった。
――人声がする。
恐怖の声、驚きの声、困惑の声。
ここから黙って立ち去るか、それとも一応は事態の説明を試みるか、カルディオスと相談しないといけない。
――そう思いつつも、俺は覚えず祈るように、王宮の方角を数秒の間見上げていた。
◆*◆
――千年に及ぶ片想いというものは、諦めると決めたところで、容易く忘れられるものではないらしい。
「おまえに会いに来たんだ」と、あの人の声で言われた瞬間に、私はそのことを思い知った。
胸のどこかが爆発したのではないかと思うほどに嬉しかった。
目を疑い、耳を疑い、果ては現実を疑って、これは夢かと真面目に考えたほどだった。
――あの人が、あそこまで友好的な言葉を私に向けたことはない。
目を見て名前を呼んでくれたのも、恐らく初めてだ。
私が舞い上がるにはそれで十分だったし、そんな自分を嫌悪するには、直後のあの人の冷ややかな視線だけで十分だった。
私は本当に馬鹿で自分勝手だ。
――一人で勝手に恋焦がれて、一人で勝手に失恋して、一人で勝手に諦めようとして、それも出来ずに格好いいあの人に惚れ惚れしてしまう。
真珠色の剣を片手に背筋を伸ばして立つあの人は、本当に、びっくりするくらい格好よかった――瓦礫が、何かの舞台に見えるくらいには。
上背があって均整の取れた身体つきをしていて、顔立ちが整っているということもあるだろうけれど、仕草が、表情が、本当に――いつものことだけれど――私の理想の救世主だった。
王宮にいたはずなのに、私よりも早くあの場に到着していて、何の手品かと思ったほどだ。
しかもそれが、如何にも当然というような顔をしていて――気負ったところも衒いもなく、平然と後ろに人を庇って。
――その顔を見ているだけで、諦めると決めた恋心が、暴力的なまでに心臓を締め上げるほどに。
追い掛けないと決めた。
気持ちに蓋をすると決めた。
恋心は見ないことにすると決めた。
――それなのに、……本当に、私は。
否応なくそんなことを考えながら、それでも意識の殆どは、王宮にいるという、ニードルフィアとオールドレイの陳情団の安否の方へ割いて、私は迷うことなく目くらましの魔法を纏い、姿を隠して王宮へ入った。
正式な手続きを踏んで登城するには時間が惜しかったからだ。
あの人が、私の目を見て名前を呼ぶほどの事態なのだ。
――ニードルフィアとオールドレイからの陳情団。
間違いなく、お父さまを擁護するための陳情をしてくれるはずの人たち。
かつてお父さまが命懸けで助けた人たち。
その恩に報いるためだろう、ここまで来てくれた人たち――
その人たちを、ヘリアンサスはどう捉えるだろう。
――あいつの目的である、お父さまの罪の確定のための、障害物として捉えるだろうか。
もしそう捉えれば、あいつはどうするだろう。
彼らの言を信じるに足らないものと貶めるのが、権力闘争の常道だ。
罷り間違っても、彼らを手に掛けるなどということは有り得ない。
なぜなら、通常ならば、お父さまを擁護する陳情団が何者かの手に掛かったなどと公になれば、その疑いは王弟派へ向くからだ。
延いてはお父さまへ同情が集まりかねず、翻ってお父さまの有利になりかねない。
――その常道は、ヘリアンサスに通じるだろうか。
お父さまの有利に働くことは、ヘリアンサスとて避けるだろう。
だが私の中の、この千年を掛けて積み上がってきたあいつへの恐怖が、そんなまともな思考を許してくれない。
――城壁を越えて、屋根を渡って、王宮へ。
リリタリスの娘が王城へ不法に侵入しているのだから、これが露見すれば伯父さまから特大の雷を喰らうことになるだろうけれど、今はとにかく急ぐことが肝要だと思った。
ルドベキアは、どんな風に王宮を出たんだろう。
屋根を渡ったのだろうか、それとも地上を走ったのだろうか。
あの人のことだから、入り組んだ地上の道を行くよりは、屋根の上を走りそうだけれど――
――西日は橙色を帯びて、視界を暖色に染め上げている。
東の空は透明な藍色。怖くなるほどに澄んだ青い色。
上層街から王宮まで一気に走って、さすがに息が上がってきた。
陛下の居城を守る最後の城壁を越えて、私は頭の中で素早く王宮の見取り図を描く。
――歓迎されない陳情団。通されるとすれば、恐らくは王宮の奥――独立した部屋は控えるに当たって与えられまい。
恐らくは廊下の一部が区切られた、そんな待合場所で待機させられるはずだ。
弾む呼吸を抑えて、目くらましの魔法を維持したまま正面玄関を通る。
衛兵は私に気付かない。
勿論のこと、そうだ。
如何に私が救世主としては相応しくない振る舞いをしているとはいえ、この魔力は正当な救世主のものだ。
言っては何だが、凡百の人間にそれを見抜かれるはずもない。
真っ直ぐに奥へ向かう――この先に、確か待合場所があったはずだ――
白大理石の磨き抜かれた床は、その上を行き交う人々の影を朧気に映し出している。
それでも私は影すら落とさず、足早に、行き交う人々の間を縫って進んで――
――そこで、違和感に気付いた。
肌が粟立つ。
ディセントラの魔力の気配がする。
それも相当に濃い。
私はルドベキアほど魔力に敏感ではないが――何しろあの人は、相当離れたところからでも、馴染んだ魔力の気配を察するほどだし、さして強くもない魔力も、気配を辿って人を見付けることもあるほどだから――、そんな私が明瞭に拾うことが出来るくらいに。
――ディセントラ、何かあった?
思わず走り出す。
目くらましを維持したのは無意識だったが、私がぶつかった人たちの混乱の声が、後ろで点々と上がるのが聞こえてきた。
筒袖の文官服姿の男性が声高に、「誰だ!」と声を上げているが、気にしていられない。
靴音を殺すことも忘れて走り、目指していた場所――廊下の一画が柱で区切られた控室まで辿り着いて、私は頭の芯が鈍く痺れたような感覚を覚えた。
――誰もいない。
がらんとしている。
長椅子は全て無人。
ただ、色濃く――本当に、目に見えるのではないかと思うほどに鮮やかに、ディセントラの魔力の気配がしていた。
――訳もなく呼吸が早くなった。
まさか、ヘリアンサスがここに来た?
あいつ本人が?
――だがそれにしては、長椅子のひとつにも傷がない。
床や壁にも、傷どころか汚れひとつない。
つまり、ここで戦闘が勃発したのではない――
――いや、そもそも、ここでディセントラとヘリアンサスが戦ったのならば、周囲は阿鼻叫喚の様相を呈していることだろう。
柱に手を突き、浅くなる呼吸を繰り返す。
――ディセントラはどこ?
陳情団の方々の傍にいたの?
周囲を見渡す。
いつでも目を惹く、赤金色の髪の彼女の姿はない。
息を吸い込む。
自分に向かって落ち着くよう言い聞かせながら、私はとうとう目くらましを解いた。
傍目には、私が唐突にその場に現れたように見えただろうが、柱の陰になっていたことが幸いした。
こちらを見て騒ぐような人はいない。
だが、柱の陰から一歩出るや、周囲の視線が私に集中した。
当たり前だ。部屋着も同然の格好でうろついていい場所ではない。
それは重々分かっていたが、そこにまで意識が回らない。
「――あの」
通り掛かった文官の制服姿の人を呼び止める。
相手の顔が見られない。
意識がそこに回らない。
異様なまでの厭な予感が、胸を塞いで目を眩ませる。
「……はい?」
相当に胡乱な声で返答されたが、それにすら感想は湧かない。
私は必死に声の震えを抑えて尋ねる。
「ディセントラ――救世主をお見掛けになりませんでした?」
相手はどうやら、まじまじと私を見たようだった。
そうしてから、やや面倒そうな声で応じる。
「――詳しくは存じませんが。
レヴナントが出たでしょう。衛兵がお呼びしていたようですが……」
――息が詰まった。
それはそうだ。
レヴナントが上層街で出たのだ。
貧民街でレヴナントが出現したのならばともかく、貴族の多い上層街で。
発見次第、軍は動く。
そして今は、城内に救世主がいる状態。
レヴナントが出現したのだから、救世主を頼るという思考が働くのは至極当然――
額を押さえ、後退る。
礼の言葉を口に昇らせたと思うが定かではない。
――ディセントラは、軍からの頼みを無碍には出来ない。
彼女は私のために、救世主に対する風当たりを柔らかくしようとしてくれていた。
レヴナントが出現したにも関わらず、救世主が出陣を渋ったなどということがあればそれは、救世主の名をこれ以上なく貶め、攻撃の対象にさせてしまいかねない振る舞いだ――
胸中に焦りが募っていく。
これでも千年生きてきたのに情けない。
旧友のディセントラのみならず、お父さまが心を砕き、身を挺して守った方々の無事を確かめられていないということが、容易く私から冷静さを奪っていた。
――軍からの頼みを受けたディセントラは、どうしただろう。
それを考えるには、私には情報が足りない。
私には前後の流れが分からない。
ディセントラはそもそも、陳情団の方々の傍にいたのか?
自分が陳情団の方を守り、レヴナントが出たからルドベキアを城下に行かせた?
違う、ディセントラはそんなことをしない。
城内にいながらにしてレヴナントの出現を察していたのなら、公に救世主を名乗っている彼女自身が城下へ赴き、ルドベキアを陳情団の守護に当たらせたはずだ。
つまり、ルドベキアはレヴナントの出現前に王宮を出ていた――
――何のために?
王宮の奥へ足を向けながら、私は必死に考えている。
――ルドベキアは、「私に会いに来た」と言っていた。
私はてっきり、陳情団の方々を守るために私が必要になったのかと思ったが、よく考えるまでもなく、陳情団の方々を守るに当たって救世主が必要になったのだとすれば、適任なのはカルディオスだろう。
私が直接陳情団の守護に当たれば、口さがない貴族たちに、身贔屓だなんだと、格好の餌を投げることになりかねないのだから――
ディセントラが、レヴナントの出現前に、私を連れて来るようルドベキアに指示した。
――ならば、考えられる状況は一つだ。
私に特筆すべき点があるのだとすれば、それは、「オルトムント・リリタリスの娘である」という事実のみ。
つまりディセントラは、まずは陳情団の方々を安全圏に避難させようとした。
そして陳情団の方々が――恐らくはお父さまのために――それを渋った。
だからこそ、お父さまの娘である私を、陳情団の方々の説得に当たらせるつもりだったのだ。
ディセントラが私の方へ向かわなかったのは、恐らく、彼女が引き続き陳情団の方々を説得するため。
ルドベキアは優しいし礼儀正しいが、口下手なところがある。
彼に説得を任せるのは良くないと判断したに違いない。
――ここまでの考えが当たっていれば、ディセントラは、レヴナント出現の報を受けたその瞬間、陳情団の傍にいたことになる。
救世主として、堂々と陳情団の傍に付いていたわけではないだろう。
中立の立場を強調しなければならない身で、陳情団に会うには身分を伏せたはずだ。
彼女のことだから恐らく――
――ぎゅっと眉を寄せて、私はありありとそのときの様子を想像する。
――ディセントラは部屋を明けていて――仮病か何かを使ったに違いない――それでも、レヴナントが出現したとあって、軍部の人間が彼女の部屋を訪ねて――救世主が不在だと騒ぎになって――已む無く救世主はここだと名乗りを上げた――
ディセントラの、責任感の強い、情に厚い淡紅色の瞳が目に浮かぶ。
――衛兵に呼ばれた彼女は、恐らく陳情団の方々を振り返って――彼らをこのまま無防備にしておくわけにはいかないと判断して――
――魔法を掛けた。
色濃く漂っていた、ディセントラの魔力の気配。
あれは恐らく、あの場にいた陳情団の方々を守るための、彼女の魔法の残滓だ。
――ディセントラは間違いなく、城下にいる救世主のうちの誰かが、速やかにレヴナントを討伐すると信じてくれたはず。
だから、ほんの数分の間と思って、陳情団の方々を囲む――恐らくは空気――そこに得意分野の魔法を付与して、疑似的な盾としたに違いない。
不動の魔法を付与された空気は、ややもすると内部の人間の呼吸すら奪ってしまうが、不動不変であるがゆえに、強固な盾としても機能する。
そして、救世主を呼びに来た衛兵をあしらい始めたに違いない――急いでいる振りをしながらも、レヴナント討伐の報を待ったに違いない――
いや、でも。
――ここまでの私の考えが正しければ、陳情団の方々はあの控室から出られなかったはずだ。
あそこには誰もいなかった。
どうして。
ディセントラが魔法を解いて、彼らをどこかへ連れて行った――?
考えながら私は、王宮を成す二つの建物――馬蹄形に広がる棟と、尖塔を備える棟――の、中間に位置する庭園に出ていた。
擦れ違う全員から、私の格好を胡乱な目で見られたが、構っていられなかった。
優美な回廊で繋がる二つの棟。
目を上げれば、西日を拾って燦然と輝く、夥しい数の窓硝子を振り仰ぐことが出来る。
額に手を当てて、必死に考えを検める。
私はコリウスやディセントラほど頭が良くないから、自分が想定した状況以外に考えが及ばない。
――ディセントラは陳情団の傍にいたはずだ。
陳情団が通されたに違いないあの控室に、彼女の魔力の残滓が残っていたことが何よりの証拠。
それに状況からしても、ルドベキアに私を呼びに行かせたのは彼女のはず。
あの人が自発的に私を頼ろうとするはずがない――
――だったら、今、ディセントラはどこにいる?
回廊に足を踏み出す。
夏の、肌に纏い付くような暑さを孕んだ空気が頬を撫でた。
庭園を渡った風は緑の匂いを含んでいて、気の早い日暮れを連れて来ようとするかのように、暑さの底にも、どこかひんやりとしたものを含んでいる。
あるいはこれは、湖の冷たさかも知れない。
回廊の向こうから、何かを慌ただしく言い交わす二人の文官がこちらに向かって歩いて来た。
私のような格好の者を見ても、一瞥だにくれずに足早に進んでいる。
いや、あるいは私のことなど見えていない?
二人とも、尋常でない汗を浮かべた焦りの表情だ――
二人が、靴音も荒々しく私と擦れ違った。
「――だから、誰があれを見ていたのだと訊いている!
あんなものでも一応は陳情のために来ていたのだ、陛下の思し召しによってはただでは済まんぞ!」
「分かっている。ただでさえ陛下は、ニードルフィアに親和的でいらっしゃる――」
私は思わず足を止め、たった今自分と擦れ違った二人を振り返った。
――陳情。ニードルフィア。
厭な予感が喉元までせり上がってきた。
二人の文官が来た方向へ走る。
あの二人を呼び止めて話を聞こうという気にはなれなかった。
切迫した動悸と吐き気で頭がぼんやりとしていた。
回廊を走り、壮麗な入口をくぐって、尖塔を備える王宮内部へ。
陽光に慣れた目には廊下は暗く映るが、そこを行き交う人々が、異様に浮足立った様子であることは十分に分かった。
――息が詰まる。
「どうしてあんな――」
「どういうことだ。陳情団というのは本当か」
「湖に舟を出さんことには何とも言えん、まだな」
「そうだ、確認中だ。下手なことを言うな、陛下への上奏も待て」
あちこちから、厭な予感を煽る声が聞こえてくる。
私は一瞬、茫然と突っ立った。
色鮮やかな彩色が施された大理石の床の上を行き交う人々が、唐突に夢の中のもののように見えてきた。
高い天井、広い廊下、迷子になりそうな程に大きな王宮――
何があったのか、すぐには分からない。
私の姿を見た人たちが、一様に声を低めてしまって、得られる情報は限られている。でも、
――湖? 湖に舟を出す?
そこに何かあるの?
息を吸い込み、私は妙にふわふわする足許を踏みしめて、廊下を足早に歩き始めた。
確か王宮の一階には、イルス湖を望む回廊があったはずだ。
王宮の深部を歩くにしては不相応な私の格好に、時折制止の声が掛かる。
衛兵らしき人に一度肩に手を掛けられたが、無意識のうちに荒らいでいた魔力がその手に反応してしまい、ばちッと凄絶な音と共に弾けた。
驚きと痛みに目を見開く衛兵さんに、謝罪の言葉と共に名前を告げた――そのつもりだったが、上手く言葉になっていたかが分からない。
異様なほどに動悸がしていた。
とはいえ、何とか名乗ることは出来ていたらしい。
衛兵さんはそのまま、少し迷ったようではあったが、私を先導するように歩き始めたのだ。
潜められた声で、「父君のお知り合いのお顔は分かりますか」と尋ねられたが、私は何とも言えなかった。
――“顔が分かるか”? なぜそんなことを訊く?
衛兵さんはそのまま、王宮を突っ切るように歩いた。
私も無言でそれに従った。
広い廊下は徐々に明るくなって、行く手に大きな窓が見えてきた。
――窓というか、王宮を東西に走る廊下の壁一面が硝子の折戸になっていて、その向こうに回廊があるといった様子だった。
私たちが歩いてきた廊下は、王宮を南北に貫く廊下だ。
つまりは、王宮の突き当たりで、湖に面する廊下に行き当たろうとしているというわけだ。
――湖を見下ろす形で設けられている回廊には、なぜだか人が大勢いた。
王宮とイルス湖の間には断崖絶壁がある。
イルス湖は、王宮から見れば遥か下に横たわっているのだ。
その地形が、数百年の長きに亘って、この城に堅牢な守りを与えてきたのだから。
私を先導した衛兵さんが、がたがたと硝子の折戸を開いた。
その向こうにいた、混乱した風情の文官の方々に何かをひっきりなしに叫んでいる同僚らしき人に声を掛け、私を示して何事かを説明している。
私はその横を擦り抜けて、広い回廊を横切り、湖を見下ろす欄干まで、詰め掛ける人々を押し退けるようにして進み始めた。
衛兵さんが、ちょっと待て、というように私に向かって手を伸ばしてきたが、待っていられる心情ではなかった。
――妙に現実感がなかった。
私が押し退けた人が、私に向かって何かを怒鳴った気もするけれど、声が言葉として意味を結ばない。
どうしてこれほどに――頭がいっぱいになるほどに、心臓が壊れそうになるほどに――厭な予感がするのか、私にも分からなかった。
欄干が見えた。
蔓草の彫刻が施された、石造りの堅牢な胸壁だ。
有事の際には矢間となるのだろう凹凸を備えつつも、芸術的な見目を壊さない、優美な胸壁。
――胸壁に手を掛ける。
ざらりとした石の感触。
北向きのゆえか、日光の温かさも届いていない、ひんやりとした手触り。
胸壁に手を突いて、背伸びをする。
イルス湖の広大な湖面が、夕日を受けて煌めき揺れているのが見える。
青と白、そして金色が入り混じった、ちらちらと輝く湖面。
王宮の影が落ちている範囲などごく僅かで――回廊に詰めかける人々のうち、胸壁から身を乗り出さんばかりにしている人々は、そういった――絶壁のすぐ間近を、王宮の真下の湖面を見ている様子で――
分厚い胸壁に肘を乗せ、爪先立って王宮の真下を覗く。
既に夕闇が落ちたかのように暗い湖面。
――そこに、何かが浮かんでいる。
十――三十――それ以上。
まるで打ち捨てられたかのように――湖面に波紋を広げることもなく、静かに――
――私は恐らく何かを叫んだ。
周囲が静まり返った。
咄嗟に胸壁の上へ登ろうとする私を、人混みを掻き分けて駆け寄って来た、ここまで私を先導した衛兵さんが泡を喰った様子で止める。
肩に手を掛けられ、お腹に腕を回して引き戻されながら、私は――自分よりも遥かに若年のこの男性に向かって、悲鳴じみた怒声を上げていた。
「――どうして見ているの!!
まだ助かるかも知れない、今すぐ行けば――」
「お嬢さん、落ち着いて!!」
耳許で怒鳴られて、私は自分の手が震えていることを自覚した。
――予想していたはずだ。
予想出来ていたはずだ。
それでも、――ああ、どうして。
「……半時間もあのままです」
私は息を止めた。
唇が震えるのを自覚した。
「……もう助かりません」
耳許で断言されて、私は震える両手で顔を覆った。
――王宮の下、断崖絶壁の傍で、打ち捨てられたように湖面に浮かぶ数十の。
誰から何を言われるまでもない。
もう分かっている。
――ここまでお父さまを庇い守りに来てくださった、かつてお父さまが心を砕いて命を救った方々から成る陳情団の人々が、夕暮れの湖面に浮かんで事切れていた。




