41◆ 慮外の駒
ヘリアンサスはしばしば、この状況を盤上遊戯に喩えた。
俺もまた、状況を遊戯盤を以て思い浮かべることが多々あった。
――それに則って考えれば、今のこの状況の動き方が拙いことくらいは俺にでも分かる。
ディセントラが真っ先に考え、警戒し、そして恐らくは封じることに成功した、ヘリアンサスの一手。
それは、あいつが大量虐殺に走ることで状況を動かそうとするものだった。
だがそれは、盤上の駒を大量に減らすことと同じ――即ち、ヘリアンサス自身の打つ手を制限することになりかねない。
だからこそディセントラは、短期間で多くの貴族を味方につけることで、ヘリアンサスのその手を封じたのだ。
だが今、この状況はどうだ?
遊戯盤の外から、大量の駒が盤上に送り込まれてきたようなこの状況は?
「――ディセントラ」
名前を呼ぶと、ディセントラが強張った顔でこちらを振り返った。
そして、周囲には聞こえないだろう小声で、口早に囁いた。
「ルドベキア、あの人たちが危ない」
俺は頷きつつも、一縷の望みを懸けて呟いていた。
「ああ、でも、――あの人たちはトゥイーディアの味方だろ。
派手に殺せば、むしろ王弟派が疑われて痛手になる――」
「ルドベキア」
ディセントラが手を伸ばして、俺の手首をぎゅっと握った。
爪が食い込むほどの力だった。
「違うの。王弟派がどうなるかじゃないの。ヘリアンサスには障りがないってことなの。
――あの人たちをどうしようが、ヘリアンサスには痛くも痒くもない。だったらヘリアンサスは躊躇わない。分かるでしょ?」
――あの人たちを殺した結果、王弟派が窮地に立たされようと、ヘリアンサスはそれに影響を受けない。
あいつの目的は、トゥイーディアのお父さんの罪の確定。
そのための次善の策を打つだけだろう。
そして、仮にあの人たちを殺した結果、その死に何の意味もなかったとしても、ヘリアンサスが罪悪感など覚えようはずもない。
――つまるところ、ヘリアンサスは人の命を奪うことに躊躇いがない。
ちょっと試してみよう、といった軽さで、易々と大量虐殺に踏み切りかねない。
通常ならば熟慮を重ねた上に下すべき判断を、ヘリアンサスはものの試しとして下しかねないのだ。
「――――」
言葉を失った俺をちらりと見てから視線を足許に落とし、ディセントラはしばし唇を噛んで考え込んでから、呟くように。
「……お茶会なんて行ってる場合じゃないわ。とにかくあの人たちの身の安全を図らないと。
――私だけがお茶会に行けば、当然怪しまれるし……お茶会を無断欠席して、ご不興を買うわけにはいかない相手だし……」
先に俺だけが、あの人たちを守るために走って行くのは駄目なのか。
変に目を引く行動をして疑われて、それが現王派――乃至はトゥイーディアへのとどめの一撃となっては堪ったものではないので、俺は反論せずにディセントラの言葉の続きを待った。
ディセントラはふうっと息を吐いて、目を上げて俺の顔を見た。
そして、小声ながらも大変きっぱりと言った。
「……ルドベキア。私、ここでちょっと気絶するから、私を部屋まで運んでちょうだい。急な体調不良であれば、お茶会の欠席も許されるでしょう。
――そのあと、上手いこと言って私と二人になってね。そうして、二人であの人たちを守りに行きましょう」
「分かった」
ディセントラが――王侯貴族生まれが多いせいか知らないが――、並々ならぬ演技力に恵まれていることを知っている俺は、躊躇いなく頷いた。
気絶の演技くらい、こいつは難なくこなすだろう。
斯くして、俺とディセントラは何食わぬ顔で窓を離れ、当初の予定通りに歩き出し――十数秒の間を置いて、突然、くらりとディセントラがよろめいた。
ふわ、と、ドレスと髪を靡かせ倒れるディセントラを、俺が「救世主さま!」と叫びつつ、床寸前で受け止める。
受け止めて顔を確認すると、蒼白な顔に固く閉じられた瞼、完璧な失神の演技である。
俺が叫んだことで、周囲の視線が俺たちに集中。
倒れたのが救世主であると分かり、一気に場が騒然とする。
「どうなされた!」
「侍医を! 救世主さまが!」
もはや窓の外を見ている者は一人もいない。
床が揺れそうな勢いで、わっとこちらに駆け寄って来る連中に、「お静かに!」と声を上げて、俺がそれっぽくディセントラの様子を確認して見せる。
正直、焦り過ぎて演技の細かい部分がおざなりになった。
とはいえそれも、周りから見れば、「救世主が突然倒れたための動揺」に映るだろう。
脈を確認したりして見せた後に、俺はディセントラを横抱きに抱え上げた。
コルセットやら何やらと合わせて、多分ディセントラの体重が倍くらいになっているはずだ。
俺に上背があって、かつ人並み以上には鍛えられてて良かったな、と、自分に対してかディセントラに対してか分からない言葉を胸中で並べつつ、俺は周囲に向かって小難しい顔を向けた。
「――部屋まで俺がお連れします。どなたか、ドルセン伯爵令嬢に、救世主さまがご体調を崩されたとお伝え願います」
確かそんな名前だった。このあとに行くはずだったお茶会の主催者。
――ディセントラも死んだようにじっとしているので、名前を間違えてはいないはずだ。
こっちを気懸かりそうに窺う連中のうち、数名が俺の言葉に頷くのを見て取ってから、俺はくるっと踵を返した。
そのまま、俺の胸に頭を預けてじっと動かないディセントラを抱えて、足早に彼女の部屋に向かう。
ただまあ、擦れ違う人からすっげぇ見られる。
無理もないけど。
ぽかんとして俺を見送る人は数知れず。
ディセントラが救世主であると見分けて、血相を変えて俺に事情を訊いてくる人もかなりいた。
俺はそれら全部を、取り敢えず厳しい顔とそれっぽい言葉で躱しつつ、付いて来ようとする人の善意を全て断って、出来る限りの速さでディセントラの部屋へ戻った。
いつも部屋の前に立っている衛兵さんに扉を開けてもらい(「救世主さまはどうなさったのだ」という質問を、難しい顔で首を振ることで躱して)、部屋に入って足で扉を蹴って閉める。
ばたん、と扉が鳴り、俺が溜息を落とすや否や、腕の中でぱっちりと目を見開くディセントラ。
どういう手品か知らないが、蒼白だった顔色も、忽ちのうちにいつも通りのものに戻った。
「ありがと、下ろして」
ディセントラが言い切る前に、俺はさっさと彼女を床に下ろしていた。
ぽん、と床に置かれて、一瞬よろめいたディセントラは、そのまま頓着なくドレスを脱ぎに掛かった。
この格好でうろちょろしていれば、言うまでもなく、目立つこと極まりないからね。
ヘリアンサスが今すぐに、陳情のため登城したあの一団を殺すことは、まずないだろう。
さしものあいつも、「陳情のために登城したと思われる一団の突然死」よりも、あの人たちが「リリタリス卿の無実を主張するために登城した一団」だと城内に広く知られてからの行動を選ぶだろう。
――恐らくは。
ただし、ヘリアンサスに通常の思考回路を求めることは不可能だと分かっているので、自ずと内心で焦りが募る。
しかも今の俺は、治癒と守護の権能を失った状態だ。
その焦りのままに、俺はディセントラに向かって、「急げよ」と一言。
それに対していらっとしたらしきディセントラが、
「急ぎたいから後ろの紐を解いて釦外して!」
と、俺を返り討ちにした。
内心でびびり上がりながらも、そんなつまらないことを言っている場合でもないので、俺はさっさとディセントラの方へ寄って行って、彼女をドレスに雁字搦めにしている紐やら釦やらの解除に挑むこととなった。
ディセントラは俺の作業が捗るよう、半ばが結い上げられた赤金色の髪を手で纏め上げて邪魔にならないようにしつつ、俺の作業の様子を姿見越しに、首だけで半ば振り返るようにして見ていて、「そっちじゃない」だの、「そこじゃなくて先に釦を」だのと、少々高飛車に指示を飛ばしてくれた。
――いや、つくづく、ドレスなんてものを考え出した奴は頭がおかしいな。
なんだこの高難易度のパズルは。
しかも、ドレスを引き剥がした後に、何かの骨で作られたコルセットが出てきたものだから、俺もさすがに無表情になった。
ディセントラが眉間に皺を寄せて俺を急かす。
「早くしてよ。リボンを解いてくれれば後は私が出来るから」
「リボンっつーか、これもはや拘束具――」
「いいから早く!」
女の人って、こんなぎゅうぎゅうに締め上げてるもんなの。
トゥイーディアもドレスを着てるときはこんな風に腰を締めているんだろうか。だとすれば心配だ。
ディセントラの腰をがっちりと締め上げているコルセットのリボンの結び目が硬すぎて、解くというより引っ掻くような作業になった。
焼き切ってやろうかと半ば本気で考えたところで、ようやく結び目が緩む。
そこからはするするとリボンが解けていったが――それはそれとして指先が痛い。
いってぇ、と軽く手を振っていると、恥じらいもなくさっさとコルセットを取り去りつつ、ディセントラが苦情の口調で申し立ててきた。
「手間取り過ぎよ。カルディオスならもっと速かったわ」
「あいつと一緒にすんなよ! 女の服脱がせたことなんかねぇんだよ!」
俺の情けない主張を鼻で笑って、ディセントラがせかせかと寝室の方へ消えていく。
俺が脱がせたドレスがぽつねんと床の上に置き去られてしまったので、俺はなんとなくそれを拾い上げ、円卓の椅子の背に掛けておいた。
そうこうしているうちに、最初にこの王宮に来たときに来ていた――カルディオスが創り出した――ガルシアの制服を身に纏って、ディセントラがこちらへ戻って来た。
髪をいったん解いてから結い直したのか、項を見せるほどに高く髪を纏め上げている。
ざっくりと手櫛で髪を整えただけで結い上げたからだろうが、後れ毛がふわふわと靡いていた。
外套は着ておらず、軍帽を手に持っている。
その格好を見た俺の表情を見て、ディセントラはわざとらしく頬を膨らませた。
そして、大変きっぱりと言った。
「言っておきますけど、夫は三人いますから」
「……はい」
何も言えずに頷く俺。
項を見せるほどに高く髪を纏め上げるのは既婚者の髪型で、ディセントラは確かに、今生でこそ未婚だが、過去に三回結婚しているから既婚者と言えなくもない。
「それに――」
手に持っていた軍帽を、結い上げた髪をぎゅっと詰め込むようにして被って、ディセントラはにこっとした。
頬に笑窪が浮かんだ。
「――ほら、こうすれば、ぱっと見は男の子に見えるんじゃない?」
布を巻いて体型を誤魔化したのだと胸を張るディセントラを見ても、俺は普段そんなにまじまじとこいつを観察しているわけではないので、「そうか」以上の感想が出てこない。
とはいえ確かに、髪を纏めて帽子を目深に被れば、顔立ちの綺麗な少年と言えなくもない気がする。
ディセントラは女性にしては背が高いから、何とか誤魔化せないこともないだろう。
そして、そこを云々している場合でもない。
取り敢えずは、ここを守っている衛兵さんを突破して廊下に出なければならないのだ。
さすがに、さっき意識不明で運び込まれたはずの救世主が、男装じみた格好をして平然と出て行けば怪しまれる。
窓から外に出る手もあるにはあるが、万が一外から見付かれば、そっちの方が面倒だ。
何しろ今は昼日中。
折しも、掛け時計がごぅんごぅんごぅんと三回鳴った。
ディセントラが、「お願いね」というように俺を見てきたので、俺はさっさと扉の方へ足を向けた。
扉を引き開けて廊下に出た俺は、扉を半開きにしたまま、救世主の容態について適当なことを喋り始めた。
救世主が――たとえ一部の人間から白い目で見られていようが――、要人であることに変わりはない。
衛兵さん二人が真剣な目で俺の方を見て耳を傾けるのをいいことに、俺はさり気なく扉から一歩下がる。
それに釣られて、衛兵さん二人も、俺に引っ張られるように、扉の正面から少し移動した――扉へ向かって見れば右側の壁寄りの位置で、扉に背を向ける形である。
そのタイミングで、半開きになっていたままの扉から、音もなくするりとディセントラが抜け出して来て、衛兵さんたちの背後を抜けて、素早く廊下の向こうへ消えていった。
完璧。
衛兵さんたちは彼女に気付いた様子もない。
それを確認したのち、俺は適当に衛兵さんとの会話を終了。
救世主の容態を偉い人に報せに行くと尤もらしいことを言って、扉をきっちりと閉めてその場を立ち去った。
廊下の最初の角を曲がったところで、俺を待ち構えていたディセントラと合流。
ディセントラは真顔で扉の方を指差して、「施錠完了」と俺に告げた。
つまりは、彼女の得意分野の魔法を扉に付与して、外から開けられないようにした、ということである。
さすがに、侍医さんとかが部屋に入ってしまって、救世主さまがご不在です! って大騒ぎになると困るからね。
――とはいえ、そうなると心配すべきが、魔法を維持したままのディセントラの行動範囲の限界である。
「ここから離れて行くわけだけど、大丈夫か?」
声を低めて尋ねた俺に、ディセントラはつんと顎を上げて腕を組んでみせた。
「大丈夫よ。イーディやあんた程じゃないけど、これでも人より魔力に恵まれてますから」
それは知ってる。
そう思いながらも頷いて、俺はディセントラと並んで歩き出した。
そんな俺を横目で見上げて、ディセントラは考え深げに言葉を足した。
「――ただ、ヘリアンサスがあそこを突破しようとすると、さすがに駄目ね、保たないわ」
それを聞いて、俺は喉の奥で笑った。
「どっちにしろ、そんな事態になれば打つ手なしだ。諦めようぜ」
ディセントラも肩を竦めて、俺の言葉に同意した。
――そこから俺たちは一階に下りて、王宮の玄関に当たる場所を持ち場とする衛兵さんたちに、先程の陳情目的の一団の行方を尋ねた。
俺が尋ねて胡乱な顔をされたところでディセントラが前に出て、上目遣いで尋ねたら、衛兵さんは一発で教えてくれたのだ。
ディセントラは一応少年の振りをしていて、俺から見てもその演技は十分だったのに、見目の麗しさは男女の別なく働き掛けるものであるらしい。
曰く、この奥――即ち、イルス湖の方にある、尖塔を備えたもう一棟の方向――の、控室のような所に連れて行かれたはずだ、と。
まあ、平民がいきなりここまで辿り着けただけで上々の結果だ。
普通なら城壁を越えられない。堀の手前で放り出されるのがオチだ。
多分、どこかの貴族――現王派の貴族だろうが――が、予め手を回していたんだろうね。
とはいえ、国王への直の謁見など夢のまた夢だろうし、叶うにしても数日から数箇月は待たされる覚悟だろう――いや、リリタリス卿の状況によっては、そんな悠長に構えてもいられないだろうけれど。
「――そうなんだ。ありがと、おじさん!」
と、ディセントラが、愛想のいい少年の演技を徹底しながら衛兵さんにお礼を言う。
「おじさん」と呼ばれた衛兵さんは、頓着なくひらひらと笑顔で手を振った。
それに愛想よく手を振り返して、ディセントラは俺と一緒にくるっと踵を返した。
あとはもうひたすら急いで、教えてもらった場所に急ぐのみ。
王宮内の造りはややこしいが、「真っ直ぐ進めば分かるよ」との衛兵さんの言葉を信じることとする。
早足で突き進みながら、ディセントラは、まるで何かの呪文のように、
「大丈夫、大丈夫、まだ騒ぎになってない……」
と繰り返し呟く。
すぐ隣でそんな呪文を聞かされる俺としては、ただでさえ焦っているところに横からぐらぐらと揺さぶりを喰らうようなもので、思わず、
「なあ、黙ってくれない?」
と、切れ気味にディセントラに申し渡した。
俺がディセントラから同じようなことを言われれば、そこで即喧嘩の勃発だっただろうが、ディセントラの心には、まだ俺を気遣う余裕が残されていたらしく、それきりディセントラはぴたりと押し黙った。
さすが、王侯貴族の生まれが多い彼女は、度量も平民よりも大きく備えていらっしゃる。
二人して無言で、怪しまれない程度の早足で、衛兵さんが教えてくれた控室に向かって急ぐ俺たち。
擦れ違う使用人さんや貴族や官職の皆さんに、いちいちびくびくしてしまう。
向こうからヘリアンサスがやって来るんじゃないかと思うと気が気じゃない。
ディセントラも大体俺と同じ有様で、曲がり角に差し掛かる度に二人して足取りが慎重になるという状態。
ともあれ、俺たちは控室まで辿り着いた。
真っ直ぐ進めば分かるというのは本当だった。
とはいえそこは、控室というか、廊下の一画が白亜の柱で他と区切られているだけの空間で、ぶっちゃけ周囲から丸見えの丸聞こえになるような場所だった。
密談には向いていない場所で、そしてだからこそ、平民の一団がここに通されたのだと分かる。
控室には造り付けの、白大理石造りの、背凭れのない長椅子が数脚。
今はそこが、旅装の一団――陳情の一団で埋まっている。
長椅子に収まり切らない人たちは、傍にしゃがみ込んでいたり、あるいは壁際に立っていたりして、座っている人も立っている人も、一様に背中を丸めて周囲からの物珍しそうな視線に耐えている様子だった。
それと同時に、相当に居心地が悪そうだ。
――さもありなん。
右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、見たこともないような高級品に埋め尽くされているわけだから、落ち着けようはずもない。
下を見れば、磨き抜かれた白大理石の床に自分の顔が映るしね。
ついでに行き交う人々も、使用人さんであっても彼らよりも上等な格好をしているのだから、まさにここは彼らからすれば異次元だろう。
俺たちが真っ直ぐに彼らを目指して歩いているのに、中の数人が気付いた様子で、訝しそうにこっちを見てきた。
やはり多くが年配者だ。
ニードルフィアの乱を直接経験した世代の人が多いのだろう。
俺とディセントラからすれば、まずは間に合った安堵が先に立つ。
もちろんヘリアンサスがその気になれば、俺たちが目の前にいようがいるまいが、あっさりとこの人たちを殺していくことも出来るんだろうけれど、少なくともまだ犠牲者はいないわけで、逃げろと警告することが可能な状態だ。
覚えず胸を撫で下ろしつつ、俺たちは出来る限り不審に思われないよう、落ち着いた足取りを意識して、彼らまでの最後の数ヤードを歩いた。
向こうは向こうで、俺たちが何某かの用事があって接近していると分かったらしく、お互いにちらちらと目を見交わした後に、代表らしき白髪交じりの初老の男性が長椅子から立ち上がった。
草臥れた旅姿ではあったものの、表情の覇気は健在だった。
彼が進み出て来てくれたので、俺たちは早々に向かい合う距離に立つこととなった。
ぺこり、と頭を下げた男性が、訝しそうな目で俺たちを見る。
まずディセントラを見て、それから俺を見て、またディセントラを見た。
眉間にぐっと皺が寄る。
「――あの、何か……?
ここで待つよう、お許しいただいてここにおるんですがな……?」
――なるほど、俺たちが、ここからこの人たちを引き揚げさせようとして来たと思ったのか。
まあ、間違いではない。
問題は、「ここから出て行け」というのを、如何に婉曲に伝えるかだ。
更に言えば、ここが危険な場所であるのを、どうやって彼らに納得してもらうかということだ。
そんなことを考えて掌に冷や汗を滲ませる俺に先んじて、ディセントラが一歩前に進み出た。
そして、おもむろに男性の手を握った。
「――ええ、そのように存じております。
リリタリス卿のためにいらっしゃったのですよね?」
丁寧に、低い声でそう尋ねたディセントラに、目の前の男性をはじめ、その後ろの人々からも一斉に頷きが返る。
それを見て息を吸い込み、淡紅色の瞳に真剣な光を宿して、ディセントラは、真っ直ぐに男性を見詰めて、はっきりと告げた。
「――落ち着いて聞いてください。
どうか大きな声を出されませんよう。
――ここは非常に危険です。どうか城外にてお過ごしいただけないかと――お願いに参りました」
ディセントラも俺も真剣だった。
怒り出すか、あるいは笑い飛ばされるかと思いきや、向かい合う男性も、その後ろから顔を出している皆さんも、極めて真剣な顔になった。
――どうやら、思ったより話が通じやすいっぽい。
思えばこの人たちは戦乱の経験者で、今も、反逆罪に問われた恩人を擁護するために登城しているのだ。
ある程度の危険は織り込み済みでここまで来ている可能性が高い。
そこで俺たちが輪を掛けて真剣な顔をしているものだから、事態を深刻に受け止めてくれたようだった。
俺とディセントラは、控室の中央付近にまで進み出て、そこを登城して来た陳情団に囲まれるような形になっている。
廊下を行き来する人たちに聞かれていい話でもないから、「もう少し詳しく」と言いつつ、俺たちをこの位置に誘導してくれた陳情団の代表さんは気が利いていたといえよう。
控室の真ん中付近の長椅子に、二人揃って腰掛けた俺たちを囲む陳情団の皆さん。
端から見たら何事かと思うような光景だろうけれど、自然とこうなった。
「――私はディセントラ、こちらはルドベキア」
ディセントラが、まずは自分の胸に手を当てて名乗り、それからその手を翻して俺を示した。
俺は周囲に向かって会釈。
それに対して、ぺこり、と返ってくる数十の会釈。
陳情団の全員が名乗っていると埒が明かないと判断したのか、陳情団の代表さんが、手で周囲を制しつつ名乗ってくれた。
「ガーロと申します」
「ガーロさま」
繰り返すようにその名前を呼んで、ディセントラは居住まいを正して頭を下げた。
少年のような格好をしていても、十分に女性らしい嫋やかな仕草だった。
「突然の失礼な振る舞いで――本当に申し訳ございません。
ただ、私たちとしては、リリタリス卿のお味方を危険に晒すわけにはいかないもので」
ディセントラのこの言葉で、陳情団の人たちの表情から、粗方の険が取れた。
彼女の口調に嘘がないことを聞き取って、俺たちがリリタリス卿の味方であると分かってくれたようだった。
ここで揉めることは避けたかったので、俺は一先ず安堵の息を吐いた。
「――あの方の汚名を雪ぎに参ったのですが」
ガーロさんの探るような言葉に、ディセントラが頷く。
「はい。ですが、ここにいては皆さまが」
いったん言葉を切って、少し迷うように視線を泳がせてから、ディセントラは語調を落として囁いた。
「――本当に危険なのです。命の危険がある。ですからどうか、」
「ディセントラさん」
ディセントラの言葉を言下に遮って、ガーロさんが彼女の名前を呼んだ。
ディセントラが名前に身分を言い添えなかったから、彼女のことを、格好どおりの使用人だと思ったらしい。
「元より命の危険は覚悟のうえです」
ガーロさんの言葉に、陳情団の人たちが頷き始めた。
ガーロさんが目尻に皺を刻んで微笑むのを、俺は絶望的な心情で見ていた。
ディセントラの頬も蒼褪めている。
――話が通じやすいなんてことは、なかった。
「あのときもそうだった――あの方が、お一人で穀物庫までいらっしゃった。
儂らが数の暴力に訴えて、袋叩きにすることもお考えになっただろうに……お一人で平然といらっしゃった」
その口振りから、ガーロさんがニードルフィア領の人であることを俺は悟った。
「命の危険を冒して儂らを助けてくださった――その御恩に報いるに、命を惜しんでいられましょうや?」
「せっかくお助けいただいた命を、粗末に扱わないでください」
思わず俺が口を挟み、それに重ねるようにディセントラが語調を強めて言っていた。
「――あなた方に万が一のことがあれば、それがリリタリス卿の不利に働きかねないのですから」
ヘリアンサスのことを何と説明したものか、迷うようにディセントラの視線が泳ぐ。
俺たちは、ヘリアンサスがどれだけ残虐で、どれだけ簡単に人の命を奪うのかを知っている。
だからこそ、一刻も早くこの人たちを安全圏に避難させたいのだが、他の人にその危機感を持てと言うのは無理だろう。
――人を殺すには労力が要る。
それが通常だ。
もっと言えば、相手が魔術師であろうと、気を付けてさえいれば、自衛だって可能なはずなのだ。
普通なら。
その普通から外れたものがこの城内にいるのだと、どうやって説明しよう。
――迷っている間にも、ガーロさんや他の人たちが、訥々とリリタリス卿への恩義を語っている。
「――穀物庫までいらっしゃって、話を聞いてくださった」
「ああそうだ、麾下なんて一人も連れていらっしゃらなかった」
「死刑台まで助けに来てくださった。あれは絶対忘れられねぇ」
「ものすごい勢いで走って来てくださったんだ。涙が出た。あんなの、一生に一度っきりだよ」
「死刑台から連れて行かれるときも、俺たちに向かって心配ねえって笑ってくださった」
「たった一人で味方してくださった」
「そのあとも、心配してまめに手紙を下さった」
「あんな風に新聞に書き立てられて――あっちゃいけねえことだ。それで来たんだ。何も言わずには帰られねぇ」
梃子でもここを動かなさそうな陳情団の雰囲気に、ディセントラが隠すことなく額を押さえた。
そうしてしばしじっとした後、唐突に顔を上げて俺を見た。
その挙動の鋭さに、周囲が一気にしんとした。
見られた俺も背筋が伸びた。
そんな中で、ディセントラが俺に向かって、人差し指を突き付けていた。
「――ルドベキア。私はここで、皆さんに出来るだけ順を追って事の経緯を説明しておくから、」
淡紅色の目を眇めて俺を見据えて、ディセントラは常よりも低い声で呟いた。
「イーディを呼んで来て。イーディから説明してもらうのが一番でしょう。
――駄々をこねたら承知しないわよ」
俺は無意識のうちに眉を顰めたが、トゥイーディアの愛称が出た途端、ガーロさんが目を見開いた。
「……イーディ? トゥイーディアさま? あの方のご息女ですか?」
同じような囁きが陳情団の中を伝播して広がっていったのを聞いて、溜息を零しながらも俺は立ち上がった。
――確かに、リリタリス卿の娘であるトゥイーディアからの説得ならば、この人たちが応じる可能性が高い。
その合理性があるからこそ、俺は内心で喝采しながらも、代償に邪魔されることなくトゥイーディアに会いに行くことが出来る。
それと同時に、俺はこの場の殆どの人間が、トゥイーディアの愛称を聞いただけでそれが誰を指すのかを察したことに、軽い驚きを覚えていた。
――通常であれば、身分の高い人の名前が市井に広く知れ渡ることなどない。
それにも関わらず、この人たちはトゥイーディアの名前を知っていた。それが示す事実は――
――「手紙をもらった」と、先ほど誰かが言っていた。
恐らくオルトムント・リリタリスは、愛娘の誕生を喜んで、昔馴染みであるこの人たちの多くに、娘の名前を記した手紙を送っていたのだ。
トゥイーディアは、自分が両親のどちらにも似ていないということを、罪悪感すら覚えている様子で話していたけれど、恐らくそんなことはどうでもいいのだ。
――彼女は確かに愛されている。
俺が立ち上がったことに、ディセントラが確かな安堵の表情を顔に昇らせた。
トゥイーディアに会いに行けと言われた俺が、「嫌だ」と言い張ることも考慮していたのだろう。
この人たちの傍から、俺とディセントラが二人とも離れるというのは不安すぎるので論外で、俺が一人でこの人たちに事の経緯を説明するのは荷が勝つ。
だから、もし俺がトゥイーディアに会いに行くのを嫌がるようなことを言い出したら、ここでディセントラに二発や三発は殴られていたかも知れない。
「――じゃあ、出来るだけ早くね」
ディセントラがそう言って、にこ、と意味深に微笑んだ。
「馬車より速く行って来て、ルドベキア」
俺は頷いた。
代償ゆえに表情は仏頂面だったが、否やがあろうはずもない。
「――分かった」




