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40◆ 予期せぬ来訪

「――昨日から、小さい子の相手をご苦労さま。

 色々と理由があったから、ちゃんと説明するわね」


 部屋に戻って、俺を円卓の椅子に座らせて、ディセントラはまずそう言った。


 俺としても、昨日のディセントラの言動の意味が全く分かっていなかったので、ようやくの説明といえる。

 それに今は、期せずして魔王の姿を見てしまった衝撃を、取り敢えず何か他の感情で上書きしたい気持ちもあった。


 神妙にしている俺をちらりと見て、ディセントラは俺の正面に腰掛ける。

 彼女からは、いっそ奇妙に思えるほどに、ヘリアンサスに遭遇したことに対する衝撃が感じられなかった。


「――そもそもね、」


 と切り出して、ディセントラは円卓に肘を突く。


 俺からは、彼女が帳を開いた出窓を背負っているような位置関係にあるので、その姿に後光が差しているように見えていた。


 事実、いつ後光が差してもおかしくないと納得させるほどに、整った完璧な仕草でディセントラは指を立てる。


「ヘリアンサスが何をしたいのか考えたの。

 ――あいつは、イーディのお父さんの()()を『対価』に立てているわけでしょ。『対価』に立てたものを直接取りに行くことは出来ないって言っていたから、今この状況は、あいつが()()()()『対価』を取るためのものでしょうね」


 俺は頷いた。

 それは前提だし、俺も十分に分かっている。


 とはいえ、ディセントラがここから話し始めたということは、俺の頭ではここから聞いていかないと理解が難しいということだろう。

 大人しく拝聴する。


「ヘリアンサスは、何をどうしたのかは知らないけれど、イーディのお父さんに反逆の汚名を着せてる――だから、最初は、あいつが『対価』に立てたのは、イーディのお父さんの()()じゃないかと思っていたのだけど――違うわね」


 ふう、と息を吐いて、ディセントラは赤金色の髪の一房を指に巻き付けて(いじ)った。

 視線が斜め上に投げられて、声音はやや苦々しげなものとなる。


「陛下との謁見のとき、あいつは自分からイーディのお父さんの名誉を傷つけるようなことを言ったもの」


 内心で、俺は猛然と頷いた。


 そう、それ、トゥイーディアも言ってたんだよ――と言いたい。

 だが実際には、そんな俺の内心を、俺に課せられた代償が見事に阻んで、俺に、「初耳です」みたいな顔をさせていた。


 ディセントラは俺の反応に頓着せず、訥々と言葉を続ける。


「ヘリアンサスが何を『対価』に定めたのかは、はっきりとは分からないけれど、あいつが自分から動いて状況を持って行こうとしている方向は――」


 髪から手を離して、ディセントラが円卓に手を突く。


「――()()()()()()()()()()()()()()

 イーディとの……こう言うの、ほんとに嫌なんだけど……()()を解消してまで、イーディのお父さんの審議を不利に持って行こうとして王弟派に加担してる。

 その過程で、イーディのことも徹底的に悪者にしようとしてる。陛下の目の前で人を殺してみたりね」


 肩を竦めて、ディセントラは言葉を噛み砕いてから目の前に並べるようにして、淡々と続けた。


「つまり、私たちがやるべきは、その逆なの。

 ――まずはイーディの立場を良くして、それを以て王弟派が現王派を攻撃する武器をひとつ奪ってから、今度は現王派が盛り返すきっかけを作ることね。

 そうして、イーディのお父さんの冤罪を晴らす」


 ちょっと顔を顰めてから、ディセントラは訂正するように言い添えた。


「ううん、本当を言うと、別に現王派に盛り返してもらうまでは望まないわ。

 審議が公平に行われる程度に、イーディとイーディのお父さんの状況が良くなりさえすればいい」


 頷く俺が、ここまでの話を理解していることを淡紅色の瞳で見守って、ディセントラはまた指を立てた。

 まるで、研究者が新しい真実を証明しようとしているかのようだった。


「――それでね、私がヘリアンサスなら何をするのかを考えてみたの」


 立てた指をゆっくりと振って、ディセントラは考え深げに。


「普通なら、ヘリアンサスとイーディの間で、王弟派と現王派の代理戦争みたいになるはずなのよ。中立派の貴族の取り合いとかね。

 ――でも、多分、ヘリアンサスはそんなことはしないでしょ。ヘリアンサスは絶対に、そういう常識的なことはしない。ヘリアンサスはこの王宮で失うものなんてないんだから、もっと自由に動くはずだと思ったの」


 俺は頷く。

 まだ全然話が見えない。


 俺がそう思っていることを、ディセントラもちゃんと弁えてくれているらしい。

 一から十まで説明しようとするように、気合を入れて背筋を伸ばした。


「具体的にはね、王弟派の貴族をどんどん殺していって、それを全部イーディのせいにするとか――」


「……は?」


 常軌を逸したその考えに、俺は思わずぽかんと口を開けたが、ディセントラは真顔だった。


「――あるいは、現王派の貴族をどんどん殺していって、現王についていたら拙いぞ――みたいな雰囲気にしていくか、どっちかだと思ったの」


 言い切って、ディセントラは俺の顔を一瞥。

 はあ、と溜息を零して、こんこん、と爪の先で円卓を叩いた。


 クロス越しの硬質な音が室内に響く。


「ルドベキア。あのヘリアンサスが、十人や二十人を殺した程度では、何の痛痒も覚えないことはよく分かるでしょ」


「いや、分かるけど――いや、うん。そうだな。やりそうだ」


 ガルシアで、「周りが騒がしかった」という理由だけで、六百を超える人をいとも容易く殺してのけたあの魔王の暴虐を思って、俺は吐き気を堪えて頷いた。


 ディセントラは、「でしょ?」と首を傾げたあと、「でもね、」と逆接で言葉を繋いだ。


「あんまり殺し過ぎることもないと思うの。――というか、それは出来ないと思うの」


「――――?」


 俺は首を傾げた。

 ヘリアンサスなら、一日で王宮を死体の山に変えることも出来そうだけど。


 俺の表情から、俺が話の流れを理解していないことを見て取って、ディセントラが苦笑する。

 そして、ゆっくりと言った。


「――ルドベキア。前提なんだけどね。

 ヘリアンサスは、ここの、派閥争いを利用しようとしているの」


 そこまで言われて、俺もようやく話が分かった。


「ああ――」


「そういうこと」


 俺の表情を見て、ディセントラがにこっと微笑む。

 とはいえ、表情とは裏腹に、口に出した内容は相当に物騒だった。


「ここの人たちを殺し過ぎると、()()()()()()()()()()()()()の」



 ――その言い回しは、偶然だったのだろうが、俺にヘリアンサスの言葉を思い起こさせた――『僕が持っている駒は、ふたつを除いて歩兵ばっかり。それも、一マス進むことすら覚束ない、敵陣の最奥に辿り着くことなんて及びもつかない有象無象ばっかりだ』。



 ヘリアンサスはこの状況を、トゥイーディアとの競い合いを、盤上遊戯に喩えていた。



 ディセントラは微笑んだ表情のままに、淡々と言葉を並べていく。

 頭の中で理路整然と組み立てられた考えを、目の前に綺麗に並べていくように。


「――ヘリアンサスは、度外れて大勢を殺すことは出来ない。

 だったら私は、出来る限り短期間で、多くの友好的な相手を作らなければならない。味方とは言わない。積極的に敵対しない人であればどうでもいい。

 ヘリアンサスのミスは、()()()()()()()()救世主の代表として印象付けるような言動を取ったこと。

 ならば同じ救世主である私の振る舞いは、それ即ちイーディの言動と同じような印象を持たれるということ。私への印象が良くなれば、イーディへの印象も自ずと上向くはず」



 ――ヘリアンサスは、遊戯盤を引っ繰り返して駒を減らすことは出来ない。

 だが、旗幟を翻す駒が少数であれば、それを狙って盤上から叩き落とすことはするかも知れない。


 だからディセントラは、素早く広範囲に亘って、多くの駒の()()()()()()ならなかった。

 白から黒にとまではいかずとも、灰色にしておく必要があった。


 それら全てを盤上から排せば勝負に支障を来すと、ヘリアンサスが判断するだけの数の駒を。



 ようやくそこまで理解した俺に微笑んで、ディセントラはクロスのレースを指でなぞった。

 そうながら、ゆっくりと言葉を並べて俺に向ける。


「だから最初に、出来るだけ太い人脈を得られる人に接しないといけなかったの。

 それに私は、ヘリアンサスにどう見られるかだけではなくて、王宮の人にどう見られるかも考えないといけないから、あからさまに中立派の人に寄って行くわけにはいかないでしょう? イーディが私を使って、状況を良い様にしようとしているだなんて、噂にでもなってしまったら目も当てられないわ」


 だから派閥関係の話を避けて、誰がどこの陣営かなんて分かりませんって顔をしていたのか。


 ようやくそこが腑に落ちた俺に向かって、ディセントラは言外に正解を伝えるように目を細める。

 そして、ほっそりとした指をクロスから話して、ぴん、と立てた。


「最初に捉まえる人については、色々と候補がいたのだけどね。

 その点、カリッシュ令嬢は理想的だったわ」


「――――」


 俺は顔を顰めた。

 中身のないふわふわした話を延々と振ってこられて、耳許で派手な蝿が飛んでいるみたいだったあの時間を思い出したのだ。


「……どこが?」


 尋ねる俺に、ディセントラは肩を竦めて指折り数え始めた。


「まず、あの子はお父さんに溺愛されてるの。カリッシュ伯は中立派、しかもあちこちに人脈を持っておられる。カリッシュ伯はね、伯爵であると同時に大手の輸入会社の社長でもあるの。

 それにあの子のご友人も――お茶会にいたでしょ、あの二人のご令嬢のご婚約者も、結構有力な貴族らしいし。あの子を射止めさえすれば、その辺りの貴族とごっそり会えると思ったのよ。

 ちょうどよく、あの子が出席予定の晩餐会を、オクシリア伯が開く予定だって聞いたし」


 ――まずその情報収集力が恐怖だよ。


 俺は人知れず慄いた。

 前から思っていたが、ディセントラには息をするように情報を吸い込む性質でもあるのかも知れない。


 俺がびびっているのが分かったのか、ディセントラは苦笑した。

 そうしながら、両手の指を組み合わせて、そこに優雅に顎を載せる。


「――それにね、最初の取っ掛かりにするあの子だけは、私が何をしようとしているのかに気付いたヘリアンサスが、さっさと殺しちゃうことも考えに入れておかないといけなかったから」


 さらりとそう言って、目を見開く俺になおいっそう苦笑して、ディセントラは歌うように。


「もしもそうなったとしても、私たちが疑いの目で見られることは避けないといけなかったの。

 同時に、あからさまに私たちの味方になった子が殺されてしまえば、私と接点を持つことを怖がる人が出てくる可能性もあるでしょう?」


 そこを考えてもぴったりだった、と微笑んで、ディセントラは赤金色の睫毛を眇めた。



「――誰の味方をするべきかを考えているなんて、きっと王宮の誰も思わないくらいに頭が軽くて」



 ふわふわと中身のない話ばかりして、貴族としては有り得ないほどに間が抜けていたエレノア嬢。



「小さくて、可愛くて。身分が高いと仄めかしただけで、背の高い格好いい人に簡単に懐いてくれて――だからといって、無碍にされないだけの身分があって」



 ディセントラは敢えて、エレノア嬢が俺を気にするように仕向けていた。


 エレノア嬢が俺にしつこく話し掛けるのを、敢えて他の貴族に見せてもいた。

 お茶会でも、晩餐会でも。


「私は、あの子があんたにしつこくするのを見て、面白くないって顔をしておいたけれど――、ルドベキア、あんたは本当にさすがね。小さい子に付き纏われても、あからさまに冷たくしたりはしないもの」


 自然体でいいから、と、ディセントラは俺に言っていた。


「私の態度を見て、皆さんはきっと、私があの子を使ってカリッシュ伯に取り入ろうとしているとは考えていないと判断したでしょうね。

 そして、もし仮にあの子が殺されたとしても、あんたの態度が私たちへの疑いを防いでくれたことでしょう。――内心ではそれほど鬱陶しくなんて思っていなくて、むしろちょっと気に入っていた子だったとでも何とでも、後からどうとでも言える態度を、ちゃんとあんたが取ってくれていたもの」


 俺は思わず、ぽかんと口を開けていた。



 昨日の振る舞いは、言葉の端をひとつ切り取っても、表情の隅をひとつ切り取っても、全部計算づくのことだったのか。

 俺が自然体でいればどう振る舞うのかということも全部分かっていて、それで敢えて変な情報を俺に与えたりはしなかったのか。



 ディセントラは微笑んだ。

 滅多にない、怖いほどの微笑だった。



「――それに何より、あの子がぴったりだったのは、」



 俺からは、彼女の淡紅色の瞳に、長い睫毛の影が映って見えていた。



「あの子はまだ小さい。お父さんに溺愛されているという以上の価値はない。婚約者もまだいない。

 ――権力闘争には何の影響もない、いてもいなくても同じ、飾りみたいな女の子」



 物柔らかにそう言って、ディセントラはいっそう深く微笑を唇に刻む。



「――本当に、犠牲を許容するにはぴったりの子だったわ」



 俺はさすがに絶句して、覚えず、呟くように言っていた。


「……救世主の考えることじゃねえな」


「そうでしょうね」


 迷いなくそう言って、ディセントラは堂々と背筋を伸ばした。


「だって、今の私は救世主じゃないもの」


 にっこりと笑って、ディセントラはいっそ清々しいまでの口調で告げた。


「今生の救世主はトゥイーディアよ。

 イーディが救世主としての役割以上にお父さんを優先するというのなら、私はもちろんそれに従うわ。だからここにいるのよ」


 断言して、なおも絶句する俺に、にこりと力が抜けたような微笑みを見せて、ディセントラは呟いた。


 その言葉だけは本心からのものに聞こえた。


「――今朝は本当に、起きたときには王宮が血の海になっていたらどうしようかと思っていたの。私の考えも、推測も、土台から違ったらどうしようって。

 ――でも、良かった」


 心からの安堵を籠めてそう言って、ディセントラは赤金色の髪を掻き上げた。



「――ヘリアンサスがああ言ったのなら、私の考えは当たっていたんでしょう。

 本当に小さなことではあるけれど、イーディには――」



 そこまで言って、ディセントラもまた、前々からヘリアンサスがこの状況を盤上遊戯に喩えていることを思い出したらしい。


 皮肉に唇を曲げて、叩き付けるように呟いていた。



「――イーディの駒がよく働いたと報告できるでしょう」








 事実、その五日後に登城して来たトゥイーディアは、寝不足と心労の窺える顔ではあったものの、王宮内の目が随分優しかったと喜んでいた。


 ディセントラの読みは当たっていて、ディセントラに対する心象が良くなったことが、そのままトゥイーディアの心象を上向かせる効果を持っていたのだ。



 トゥイーディアは、その立場上、余り頻々とディセントラを(おとな)うことは慎まれるべき人だ。


 とはいえ、さすがにディセントラを心配する気持ちが耐え難かったとみえる。


 同じ救世主であるという以上にガルシアにおける同輩だったのだから、一度も会いに行かないのはむしろ失礼――みたいな理論を持ち出して、ヒルクリード公に根回しのうえ会いに来てくれたようだった。



 ――ディセントラだけじゃなくて、俺のことも多少は心配してくれたのであれば、すっげぇ嬉しいんだけど。



 そう思って、俺は視界の端のトゥイーディアに意識を集中してみたが、彼女は俺の方を一瞥たりともしなかった。


 これは、単純に俺に興味がないのか、それとももうちょっと特別な意味に捉えていいのか、どっちだろう……。



 内心で深く思い悩んだ俺だったが、それが表に出るようならば苦労はない。


 俺は傍目には、トゥイーディアと一緒に登城して、この数日の経緯を聞いて盛んにディセントラを褒め称えているカルディオスの方を向いているように見えていたことだろう。



 ――この五日間、ディセントラは派閥の区別なく貴族との繋がりを作り続けた。


 彼女の護衛である俺は、ひたすらディセントラと行動を共にする義務があるわけだが、正直しんどいと思うほどに、お茶会だ昼餐だ晩餐だと引っ張り回された。


 そこにエレノア嬢がいるといっそう気が滅入ったものである。

 あの令嬢、俺を見ると寄って来るのだ。

 カルディオスを見たときのムンドゥスかよ、と思わなくもなかったが、常に変わらぬ無表情であるムンドゥスと比べて、まだ表情があるだけ可愛げがあるのかも知れない。



 とはいえ、ディセントラのその行動はちゃんと実を結んで、彼女はこの数日で救世主を見る目の温度を変えてのけたのだ。



 ただ、カルディオスの話を聞く限り、城下の方では依然としてトゥイーディアは冷たい風評に晒されているらしい。


 その話になると、トゥイーディアの顔は自ずと曇ったが、ディセントラは「大丈夫」と一刀両断した。


「イーディのお父さんの罪状を決めるのは、その辺を歩いてる人たちじゃないでしょ。

 この国が封建社会である限り、その裁量は実質的には貴族のものなんだから。

 王宮内を騙し果せれば大丈夫よ」



 トゥイーディアのお父さんについては、審議は始まったかと思えば中断され、中断されたかと思えば再開され、結果が出ないままずるずると続いているという状況だった。


 実際の審議の場はベルフォード侯領ベイルであるわけだから、誤差なく情報が伝わってくるわけではないけれど、そういうことらしい。


 恐らくはベイルの司法官も、イルスの情勢を見て判断をつけるつもりなのだろうから、イルスの情勢が安定していない以上、トゥイーディアのお父さんの罪状が決定するはずもない。



 ――宙ぶらりんの状態が続いている。


 その分、トゥイーディアが追い詰められていく。



 コリウスとアナベルがトゥイーディアのお父さんの居場所をちゃんと把握していて、万が一に備えてくれていればいいけれど、二人からは何の報せもないままだ。



 俺はとにかく、このまま()()()()()()、ディセントラの尽力によって審議が公平に行われることを祈っていた。


 公正な審議でさえあれば、トゥイーディアのお父さんが罪に問われることなどあるはずがない。



 トゥイーディアは勿論、俺の何倍もそれを祈っていただろうが、今この状況で、彼女が矢面に立って良いことは起ころうはずがなかった。

 そのために表立っての行動を制限されて、相当に気分が鬱屈しているようだった。


 ディセントラに会って、彼女の尽力を聞いて、しばらくは笑顔でいたものの、すぐに沈んだ表情になってしまって、ぼんやりと出窓の外を眺めている。



 トゥイーディアのそういう顔を見ていると、俺の心臓は二つに裂けるんじゃないかと思うほどに痛む。

 でもその痛みを表情にすら出すことが出来ないから、ひたすら息を殺して耐えるしかない。



 カルディオスとディセントラが、トゥイーディアにあれこれと声を掛けるものの、トゥイーディアの心にその言葉が響かないということを俺たちは知っている。


 ――俺たちに、親子の情は分からない。


 見えないものの輪郭をなぞろうとするような言葉は、悉く薄っぺらいものとして響いた。

 それでもトゥイーディアは、律儀にその言葉の中から、カルディオスとディセントラから自分に向けられる愛情を拾って、淡い微笑でそれに応えていた。



 おまえも何とか言え、とばかりにカルディオスが俺の頭を叩いてきたが、俺は仏頂面を見せることしか出来なかった。



 俺の、〈最も大切な人〉は、生涯のどの瞬間も揺るがずトゥイーディアのままで、そしてそれゆえに、俺からトゥイーディアに向ける全ての愛情を、俺に課せられた代償が阻んでいる。





◆◆◆





 ――()()()()()()のは、それから更に三日後だった。



 その日もその日で、ディセントラの予定は埋まっており、昼下がり、昼餐が終わり、お茶会が開かれる王宮の温室(コンサバトリー)に向かって歩いている最中に、俺たちは状況が動いたことを知ることとなった。



 俺たちは、馬蹄形に広がる王宮の、凹部に当たる中庭を見下ろす窓が開いている廊下を歩いている最中だったが、その廊下が俄かに騒がしくなったのだ。


 窓から外を見下ろした人が何やら小さく声を上げており、その只事でない様子に、窓から離れて歩いていた連中も、おもむろに窓に近付いて外を見下ろし始めた。

 俺たちもそんな中の一人だった。



 分厚い窓硝子は嵌め殺しで、装飾の施された細い鉄格子で外から守られている。

 鉄格子を透かして見下ろす外の風景は、硝子の厚さの分だけ歪んで見えたが、それでも十分に外の様子を窺い知ることは出来た。



 ――何かの集団が、中庭を横切ってしずしずと王宮に向かって進んでいる。

 ぱっと見た限り、五十人から六十人ていど。

 服装はばらばらで――決して高価な身形の人たちではなかった。



 そんな人たちが、ゆっくりと王宮に入って来ようとしている。



「――なあに、あれ」


 ディセントラが小首を傾げて呟いて、俺は思わず彼女の方を振り返った。


「おまえが知らないなら俺が知るわけないだろ」


 小声ながらもきっぱりと言った俺に、ディセントラは、「そうねぇ」と。

 眉間に薄らと皺を刻んで、淡紅色の瞳を眇めて窓の外を見下ろしている。


 俺たちの足は完全に止まっていたが、その廊下の全員の足がもはや止まってるような状況だった。


「……私、あんなのが来るなんてどこからも聞いてないけれど――」


 ディセントラが不安そうに呟いた。

 声は本当に小さく、傍にいる俺にしか聞こえない程度の声だった。


 だからこそそれが、彼女の偽らざる本心であると分かった。


 あちこちで囁き声が交わされていた。


「――陳情か」


「あのような身形でか」


「どこの者だ」


「さあ……」


 そのうち、誰かが階下に向かって走ったようだった。


 ディセントラは窓に額をくっ付けんばかりに近寄って、小さく唸る。


「……んんん……、見たところみんな平民ねぇ」


 俺は頷いた。

 そして、ぼそっと言った。


「――歳喰ってる人が多そうだな」


 ディセントラはいっそう目を眇めて窓の外を注視してから、「そうね」と俺に同意した。

 不安そうに足を踏み替えて、呟く。


「どこの誰が何をしに来たのかしら。私たちに関係がないなら、それでいいんだけれど」


 俺は首を傾げた。


「――ちょっと見て来ようか?」


「一人にしないで」


 気を利かせたつもりの申出に対する、反射じみた速度での返答を受け、俺は無言で頷いた。


 俺が王宮に到着したときのディセントラの安堵の表情から推して、一人になれば彼女が相当に不安に感じるだろうということは理解できるというもの。



 立ち去るに立ち去れず、その場で足を止めることを十数分。


 先ほど階下に走った誰かが戻って来たらしく、廊下にさざめくようなざわめきが拡がった。



「――陳情だ」



 囁きが伝播する。



「ニードルフィアとオールドレイの代表らしい――」



 ディセントラの顔から表情が消えた。

 俺もまた、厭な予感に心臓が止まる思いをした。



 広い廊下を、囁き声が駆け抜けていく。



「――オルトムント・リリタリス卿の無実を訴えに来たと言っている」



 息を詰めていたのを吐き出したかのような、驚きと感嘆の囁きが、一拍遅れて廊下に満ちた。


 誰もが、リリタリス卿の人望の厚さに驚嘆しているようだったが――



「……嘘でしょ」



 窓硝子に手を突いて、ディセントラが茫然と呟いていた。
















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