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36◆ 誤謬を濾過する知識なければ

 宰相は新聞社に情報を売った。


 それを、俺たちは眠れぬ夜を越えた翌朝早々に知った。



 イルスの新聞社は、律儀にも毎朝に新聞を発行するらしい。



 新聞は、厨房でアイロンを当てられて、インクを完全に乾かされた後に朝食の席に届けられた。


 その新聞を、今だけは屋敷の主人から奪い取り、トゥイーディアが大きく広げようとして、――その必要もなく、新聞の最も目立つ箇所にでかでかと掲載された、自身の婚約解消の記事を見て表情を失くした。



 国王は、婚約解消をまた認めていない。

 それにも関わらず、宰相からの鶴の一声でこうして記事になってしまうのだから、この国の国王の権力は相当に毀損されているらしい。


 これと同じことがもしもアーヴァンフェルンで起こったのならば、恐らくその新聞社は皇帝によって、その日の夕方には潰されることになるだろうに。



 王宮内で男爵が殺された事件については、新聞の中で触れられてはいたものの、記事は決して大きくなかった。

 書きぶりとしては、真相不明の不幸な事故といったところだった。


 あの宰相、自分に不利になる要素のある記事は小さくするように取引したんだな。

 目の前であの惨状を見せつけられた上で、そこに頭が回る胆力と根性だけは認めてやろう。



 俺は――本心では勿論、トゥイーディアの記事こそを最も気にしていたが――、救世主に関わる記事がないかどうかを確かめるために、カルディオスと一緒になって、薄紅のドレスの上からガウンを羽織ったトゥイーディアの後ろに回り、その肩越しに新聞を覗き込んだ。


 三人揃って一睡も出来ていないから、似たような隈の出来た顔が三つ並ぶことになって、こんな場合じゃなければさぞかし可笑しく思ったことだろう。



 覗き込んだ新聞には、腹が立つような派手な飾り文字で、『リリタリス御令嬢、婚約ヲ解消サルル』と書いてある。


『先ダッテ御逝去召サレタ、ロベリア卿嫡男、此度コノタビロベリア卿ヲ継承ス。シャーステン荘園ノ主トナル。

 併セテ兼ネテヨリノ御婚約者、トゥイーディア・シンシア・リリタリス嬢トノ御婚約ヲ撤回ナサッタ模様。

 リリタリス卿造反ノ疑イニ理有リト御判断ナサレタ故。リリタリス卿、()()()ニテ沙汰ヲ待ツモ、無実ヲ証ス徴ハ一ツモ無シ』


 有罪である証拠も一つも無いはずなんだけど。


 いとも容易く、ロベリアの嫡男の判断をトゥイーディアのお父さんの反逆の疑いが事実である証拠――というような書きぶりをしていることに、俺は冗談抜きに鳥肌が立った。



 新聞は多くの人の目に触れるから、その分影響力も大きい。


 恐らくニードルフィア領の人々や、モールフォスの人々といった、トゥイーディアのお父さんと直接の関わりのある人たちは、この記事を笑い飛ばすだろう。


 だが一方、ニードルフィアの英雄を、偶像としてしか知らない人も多いのだ。

 そんな連中からすれば、これは――



 ――人の不幸は蜜の味だ。



 ――そして今、レイヴァスは、現王派と王弟派の衝突のせいで物価が上がっている。

 それに伴って、労働者階級の人々の給金が上がっていればいいが、恐らくそんなことはあるまい。

 国の下層にまで富が行き渡るようならば、国力が衰退していることは有り得ない。


 つまるところ、今のレイヴァスには、貧しさを押し付けられている人が多いのだ。


 給金が変わらず物価が上がれば、勿論のこと、手元に残る金が少なくなるのは自明の理。

 働けど以前ほど生活が潤わないとなれば、腹が立たないわけがない。


 ――つまり、今、この国には、やり場のない鬱屈した気分を抱えた人が大量にいるのだ。


 更に輪を掛けて最悪なのが、そういった――情勢の煽りを受けて生活が苦しくなるのは、まずもって労働者階級の人々であるということだ。

 何が(まず)いって、そういった人たちは、望んだとしてもちゃんとした教育を受けられていないことが多い。


 知識は誤謬を濾過するものだ。

 知識の有無は情報の真贋を見極めるに当たって、余りにも重要だ。


 上から降りてきた情報を、そのまま鵜呑みにして鬱憤の捌け口にされれば、トゥイーディアのお父さんは――延いてはトゥイーディアは、王宮内だけではなくて、国中から味方を失くしてしまいかねない。



 憧憬も敬意も、裏返せば同じ深さの嫌悪になり得る。


 トゥイーディアのお父さんの名声は確かに彼の名誉を守るだろうが、彼を()()()()()()()()()貶めようとしている連中は、それを歯牙にも掛けずに汚名を着せるだろう。


 そして、彼を偶像としてしか知らない人たちは、でっち上げられた汚名を信じるかも知れない。



 ――今までの人生では、これほど広範に情報をばら撒く手段はなかった。


 しかも、情報をばら撒く手段が、国から認められて確立されていることなど一切なかった。


 噂程度の話が広まるならばまだいいが、()()()()この情報を書き立てているという点が(たち)が悪い。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と思われてしまいかねない。



 食欲はそもそもが不振で、朝食はまだ半分ほど残っていたが、新聞を見て辛うじて残っていた食欲も全てが根こそぎになった。



 とはいえ、トゥイーディアを思っての落胆は俺の顔に出ないので、俺は新聞をじっと読むトゥイーディアの後ろから手を伸ばして、ひょいっとその新聞を取り上げていた。


 がさ、と紙が鳴る音に混じって、カルディオスが、「ルド、おまえね……」と呟く声が聞こえる。


 だがトゥイーディアは軽く手を振って、カルディオスに気にしていないことを伝え、そのままテーブルに肘を突いて額を押さえた。

 蜂蜜色の髪が彼女の顔を隠したが、表情は想像するに余りあった。


 俺は彼女の頭の上で新聞を両手で広げ、ぺらぺらと捲りながら、我ながら悪びれない態度で言っていた。


「俺たちの――ってか、ディセントラのことが書かれてないか見たい」


 カルディオスは、まだ俺を責めるように見ていたが、俺の言うことには納得したのか、「なるほどね」と唇を曲げて呟く。


 一方、トゥイーディアが顔を上げて吐き捨てていた。


「でしょうね。きみ、お父さまのことは気にしてないものね。だって()()お父さまだもの」


 彼女には珍しい、語調の激しい言葉だった。


 俺はどきりとしたが、生憎と表情は変わらなかった。

 新聞を捲る手も止められなかった。


「――は? 別におまえのせいで無実の人間見捨てたりしねぇよ」


 冷ややか極まりない俺の台詞に、トゥイーディアが息を吸い込んだのが分かった。


 いつもの如き、俺が絶対的に悪い喧嘩へ突入する――と思った瞬間、カルディオスが顔を覆って声を上げた。


「ルド、謝れ。トリーをあっちに置いて来たのを、俺に後悔させないでくれ」


「謝ってほしくない」


 トゥイーディアがフォークを手に取って、がんっ! と、朝食の甜瓜に突き立てた。

 フォークが皿を割るんじゃないかと思うような勢いだった。


 給仕に当たる使用人の皆さんはあからさまにびびっていたし、朝食のテーブルに着いている公爵一家も堪えかねてびびったし、俺も内心で相当びびったが、実際には平然と新聞を眺め続けていた。


「謝る気もないのに謝るのが一番失礼よ」


「別に謝る気もない」


 あっさりと自分の口を衝いた台詞に、誰より俺がびっくりした。

 何なんだ、この、俺に課せられている代償は。


 カルディオスが顔を覆ったままその場にしゃがみ込んだ。


 トゥイーディアに対する謝罪のためにはぴくりとも動かなかった俺の手も視線もそれで動いて、俺は新聞を目の前から退かしてカルディオスを窺い、「大丈夫か」と声に出していた。


 トゥイーディアはトゥイーディアで、立派な拵えの椅子から身を乗り出してカルディオスに手を伸べている。

 そして、彼女は全然、全く、小指の爪の先ほども悪くないにも関わらず、どことなくしゅんとした顔で、「ごめんね」と呟いていた。


「……イーディは悪くないじゃん」


 カルディオスは尤もなことを言って、顔を上げて、疲れた様子で立ち上がった。


 公爵から貸し出された一揃えの装いは豪奢で、こいつにはこの上なく似合っていたが、笑顔がない分いつもより萎れて見えた。


 立ち上がったカルディオスは、ごく自然な手付きでトゥイーディアの頭を撫でて、肺腑の奥から溜息を吐き出した。


「……ほんとにね、イーディのお父さんの冤罪の内容がちょっとでも違ったら、俺がイーディと婚約して守ってあげられるんだけどね」


 ――救世主である娘をアーヴァンフェルンに売った、との嫌疑がトゥイーディアのお父さんに掛けられている以上、アーヴァンフェルンの将軍の息子とトゥイーディアの婚約はお父さんに不利に働くだろう。


 トゥイーディアは唇のみで微笑んで、グラスから薄荷水をひとくち含んだ。

 それをこくんと飲み込んで、頭の上に置かれたカルディオスの手を握る。


「そうね。ありがと、カル」



 ――心無い暴言でトゥイーディアを傷つけた俺は万死に値するし、何なら今からでも窓から身を投げたいくらいだったが、それでもなお俺の感情は節操なく、カルディオスに対して嫉妬の針を突き出した。


 その針が心臓を突き刺したようで、俺は胸がずきんと痛むのを感じていた。



 とはいえ、実際には俺は、気のない風情で新聞に目を通しているだけだった。


 半分くらいは目が滑っていたが、トゥイーディア以外の救世主に触れた記事は無かった。



 ――これは、どう判断すればいいんだろう。


 宰相が、ディセントラという救世主の登場を、自分の不利になるかどうかを見極めかねて、新聞社に情報を売るのを止めたのか。


 だが、もしも今、トゥイーディアが他の救世主を引き連れて帰国しただなんて記事になれば、――トゥイーディア以外の救世主は全員、アーヴァンフェルンの人間だということになっているのだから――トゥイーディアのお父さんに掛けられている嫌疑が、いっそう真実味を増してしまいかねない。


 その懸念があったから、俺たちは救世主と名乗らないつもりでいたのだ。

 あの状況では、救世主であると名乗る以外に、場を収めるほどの衝撃を全員に与えることは不可能だっただろうから、ディセントラも多分、相当危ない橋だと考えながらの名乗りだったはず。


 だからもしかしたらこれは、ディセントラが情報の流出を阻止したということなのかも知れない。



 ――一通り新聞を読み終わり、がさがさと新聞を畳んでいると、カルディオスが俺の手からそれをひったくった。

 きょとんと目を丸くする俺に割とガチな軽蔑の目を向けてから、カルディオスが丁寧にトゥイーディアにそれを渡す。


 トゥイーディアは、寝不足が分かる疲れた顔に、それでもやんわりと微笑を浮かべて、小さく礼を言いながら新聞を受け取り、落ち着いた様子で一枚一枚捲って目を通し始めた。



 ヒルクリード公の町屋敷(タウン・ハウス)居間(パーラー)は、それほど広くはないものの、大きな窓が東に向いて開いていて明るい。


 窓から差し込む朝日の光に、トゥイーディアの横顔が照らされていた。


 さら、と零れる蜂蜜色の髪の一房を、上の空の様子でトゥイーディアが耳に掛ける。

 銀食器に反射する光が、彼女の飴色の瞳の中で踊って見えた。



 俺はさっさと自分の席に戻って、トゥイーディアの様子など素知らぬ振りで薄荷水を飲みながらも、実を言えば視界の端の彼女の様子に、全神経を注いで集中していた。



 新聞を一通り読み終わった彼女が、はあ、と小さく息を吐いて、カルディオスの方に、「読む?」と言わんばかりに新聞を示してみせた。


 カルディオスはトゥイーディアのすぐ傍に、忠実な騎士よろしく立っていたが、「んーん」と首を振りながらも新聞を受け取って、そのままそれを公爵に手渡しに動いた。


 公爵の方も、慌てたように立ち上がって、新聞を受け取りに動いた。


 カルディオスはそのまま席に戻って、その場の誰よりも優雅な仕草でスコーンを口に運んだ。



 かさ、かさ、と、しばらくは公爵が新聞を捲る音が、静かに食卓の上を流れていた。


 全員が全員、葬儀の如くに口を噤んでいるものだから、紙の擦れる音がよく透る。

 こんな場合でなければ、眠くなってしまうくらいに平和な光景だっただろう。




「――さて」


 やがて、新聞を脇に置いた公爵が、緑青の瞳でトゥイーディアを見遣って呟いた。


「トゥイーディア。私は今日も登城の予定があるが――」


「お供させてください」


 言下にトゥイーディアが言って、腰を浮かせた。


「今の私が陛下に謁見賜るのは難しいでしょうから、無理は申しません。

 ディセントラに――救世主の彼女に、会って伝えねばならないことがあります」



 ――トゥイーディアの固有の力の一部と、俺の守護と治癒の魔法が封じられたことだ。



 朝になったら元に戻らないかと期待していたが、ヘリアンサスにそんな抜かりがあるわけなかった。


 朝食前に、試しに俺自身が指先を切ってみたところあっさりと治癒が出来たので、「これ、元に戻ったんじゃないか?」と、俺がそんなことを口走ったがばかりに、対照実験のためにカルディオスが指先を切ることになっていた。

 それはトゥイーディアが躊躇いなく自分の指を切ろうとするのを止めてくれたものであって、俺としてはカルディオスに対する感謝の念が止め処ない。



 ――結果、俺は他人への治癒が一切できなくなっていることが判明した。

 逆なら良かったのに。



 魔王の治癒の権能が封じられたことは、そうやって確認が取れている。


 一方、守護の権能については未検証だ。

 誰かが誰かに向かって何かの攻撃的な挙動を取ればいいわけだけど、さすがに気軽にそんなことは出来ない。



 ――魔王として生まれたことを、俺はずっと疎んじていた。

 だが、守護と治癒の権能にだけは助けられていたといっていい。


 それが働かなくなったことで、自分が不具になったような覚束なさが、ふわふわと腹の中を漂っていた。


 食欲がないのも一睡も出来ていないのも、それも原因の一つになっている。



 公爵はじっとトゥイーディアを見て、小さく息を吐いて彼女の同行を承諾した。


 そのまま、するりと視線が動いて、俺とカルディオスを見遣る。


 俺はもちろんトゥイーディアに同行する気でいたが、カルディオスが素早くきっぱりと口を挟んでいた。


「――俺がイーディに付いてくから、ルド、留守番な。

 実物のおまえが行かなくても用件は伝わるし、俺は別に馬車が木端微塵になるのを拝みたいわけじゃない」


 俺は口を噤んでカルディオスを睨んだが、トゥイーディアはむしろ有り難そうに頷いていて、俺は背中をざっくり斬られたような気分を味わった。



 ――そうだよな……ただでさえ余裕がないときに、いつも容易く喧嘩に発展していく俺なんかと一緒にいたくはないよな……。


 たとえ、万が一、奇跡のように、トゥイーディアが俺に好意を向けていてくれていたとすれば、尚更のことそうだろう。


 自分に置き換えて考えてみればよく分かる。

 落ち込んでいるときに、些細なことでトゥイーディアと口論に発展でもすれば、俺は余計に、地底の下を抉るように落ち込むからね。



 ――とはいえ、馬車が木端微塵になるなんて有り得ないけど。



 トゥイーディアは今まで、何があっても俺に手を上げたことはない。



 トゥイーディアと一緒にいたいとは口が裂けても言えない俺は、素っ気なく頷いて同意を示した。


 カルディオスは薄荷水をひとくち飲んでから、そのグラスで俺を指して、首を傾げて提案してきた。

 子供にお遣いを言い渡すみたいな口調だった。


「どうせなら、おまえ、イルス(このまち)の様子を見て来いよ。

 人の意見が()()()()()か、俺たちだって知らなきゃやべーわけだし。

 おまえ、土地勘あるでしょ?」



 数百年前の土地勘だけどな。



 そんなことを思いつつも、特に反論の理由もなかったので俺は頷いた。


 どのみち、ここでじっとしている方が苦しいに決まっているし。



 よろしい、と言わんばかりに微笑むカルディオスの顔は、睡眠不足が祟っていてなお、万宝に勝って美しかった。


 とぷり、と揺れた薄荷水の小さな水面が朝日を弾いて、翡翠色の瞳が作り物めいた完璧さで煌めいていた。




 ――斯くして俺は、単独でイルスの町に出ることになった。



 ルインがここに居れば案内してやれたのにな、と、俺は無茶な命令を押し付けた弟を、身勝手に懐かしんで溜息を落とした。





◆◆◆





 金が無いと困るだろうと、カルディオスが俺に小遣いを恵んでくれた。


 小遣いとしては破格の額だったので、俺はこれで不自由なく辻馬車を使えるな、と脳裏で算段したものの、公爵が馬車を使う許可を出してくれたので、俺は辻馬車を拾う必要もなかった。


 この町屋敷(タウン・ハウス)、裏手に馬小屋と車庫があるのだ。


 俺は、つい昨日に乗ったどでかい四輪馬車を思い出して、あれに俺一人で乗るの……? と、極めて庶民的に慄いたが、普通に考えて公爵家が所有している馬車があれ一台であるわけがなかった。




 そんなわけで俺は、二輪の小型馬車でがらがらと揺られて下層街の方面へ向かっている。


 御者台は馬車の後部に高く設けられていて、御者さんは俺の乗っている座席越しに馬の手綱を取っているような格好だった。


 昼日中の馬車の利用ではあったが、御者さんが振るう鞭が万一にでも乗客を直撃することを防ぐためか、豪勢な房飾りのついた天蓋が設けられている。


 俺が足を置いているそのすぐ前には、馬が乗客を蹴り上げることを防止するものと分かる板もついていた。

 俺の顔のすぐ横には窓も設けられていて、窓から車輪が回転するのがちょこっとだけ見えていた。


 季節はもう随分と夏に傾いていて、窓から吹き込む風が気持ち良かった。



 ぽくぽくと走る馬に牽かれて、がらがらと馬車は下層街の方面へ。


 俺はどっちかって言うと下層街の方の地理に明るいので、下層街を見て回ってから上層街を見て回り、それから公爵の町屋敷に戻る腹積もりだった。


 乗車の際に御者さんにそれを伝えていたので、品のいい初老の御者さんは、迷うことなく上層街と下層街を隔てる市壁――その市門に向かって馬車を進めた。


 同じように下層街を目指しているらしい馬車が、がらがらぽくぽくと俺の乗る馬車の後ろを走っていた。



 俺が市門をくぐり――つまりは、短い隧道を通り――下層街へ出る頃には、朝には晴れ渡っていた空が、薄い雲を纏い始めていた。


 曇天という感じではなくて、ずっと上空の方を漂う雲が、僅かに青空の色をくすませたかのように。

 陽光がレースを被せられたように和らいで、昼に向かってぐんぐん上昇していた気温の勢いが押し留められた。



 下層街を、公爵家の紋を染め抜いた一人乗りの馬車がうろついていると、要らぬ破落戸(ごろつき)を手招きしかねない。

 何しろ下層街、金に困っている人々が溢れているような所である。

 多少暴力的な手段で以て、日々の糧を得ている連中がいることを、俺はよく知っていた。


 まあ、俺が知っているイルスの下層街に比べて治安が良くなっていれば、そんな心配は無用なんだけど。


 なので、俺は下層街に入ってすぐに馬車を停めてもらって、御者さんに上層街に戻るようにお願いした。

 ただし、俺は公爵の家紋付きの馬車の中に収まっていないと、恐らく市門を通してもらえない。

 そこで、昼食を終えた頃にここまで迎えに来てほしい旨を伝えた。


 御者さんは帽子を上げて俺の頼みを承諾したが、御者台からちょっと身を乗り出してきて、俺に囁くように伝えた。


「――お気をつけくださいね。礼儀正しい連中ばっかりじゃぁありませんもので」


 俺は肩を竦めた。


「よく知ってます」


 言外に大丈夫ですよと伝えて、俺はそこで御者さんと別れた。


 俺たちの後ろを走っていた馬車は、そのまま大通りを下って行った模様。

 まあ、上層街の貴族連中が、下層街に用があるわけもない。

 向こうもそう思ったのか、下層街で馬車を降りた俺を、御者さんがわざわざ振り返って見てきたくらいだった。

 俺も偶然そっちを眺めていたので、目が合った御者さんは慌てたように頭を引っ込めていた。



 ――どこか遠くの方から喧騒が聞こえてくるような、空気の底がざわめいているような、独特の雰囲気が下層街にはあった。

 また、水路――というか、川――が近く、微かに水音が聞こえてくる。



 大通りを徒歩で下りながら、俺は、自分が知っている時代よりも随分と寂れてしまった下層街を、なんだか感慨深いような気持ちで眺めていた。


 俺がここで生まれたときには、大通り沿いの店はまだ羽振りが良さそうだったものだが、今や空家がそこかしこに見える。

 空家の扉が蝶番から外れていたり、ショーウィンドウが割れていたりして、そこに埃が積もっている様は哀愁すら漂わせている。


 不揃いな敷石はところどころで浮いていたり剥がれていたり欠けていたりして、俺たちがイルスに到着したのが夜だったからこそ、あんまり見えていなかった物寂しさが浮き彫りになって見えていた。


 風のない日で、大通りは埃っぽかった。

 明るい灰色の敷石が薄雲に覆われた陽光を弾いて、白く浮き上がっているように見えた。


 いつの間にか太陽は高く昇っていて、道に落ちる影は短い。


 人通りは疎らで、店はどこも閑古鳥が鳴いているように見えた。

 明らかに流行らない雑貨品を積んだ店内を、汚れて曇った硝子のショーウィンドウ越しに覗き込んで、俺は唇を曲げる。

 店内では店の主と思しき痩せた女性が、特段の客引きをすることもなく、万事を諦めたといった風情で煙管を吹かしていた。

 硝子越しに俺に気付いた彼女が、ご機嫌斜めな様子でこちらを睨み付けてきたので、俺はさっさとその場を退散。



 がらがらと乗合馬車が向こうから走って来た。

 俺たちが乗ったのと同じ、屋上席付きの大きな馬車だ。


 馬の蹄と車輪の回転で、馬車が傍を通ると地面が揺れたように感じた。


 如何にも放蕩貴族ですといった風な若者二人連れが屋上席に乗っていて、何が面白いのか盛んにげらげらと笑っていた。

 片方が手に持っていた新聞をぽいっと放り出して、それがちょうど俺の足許にひらひらと落ちてきた。


 見出しが見えた――『リリタリス御令嬢、婚約ヲ解消サルル』。

 俺はむかっとして、新聞を足で踏み付けて歩いて行った。


「――アーヴァンフェルンに身売りしたうえ、魔王討伐からも逃げたせいだよ!」


 馬車の上で、貴族らしき若者が叫んでいる。

 酒が入っているのかも知れないと思うような声だった。


「そもそもリリタリス卿――ニードルフィアの英雄――どこまで本当なんだか!」


 俺は相当に向かっ腹が立ったが、生憎と踵を返して貴族の頭に向かって石を投げることは出来なかった。

 代償がそれを許さず、俺は期せずして、極めて平和的に馬車から離れていくこととなった。



 大通りをずんずん歩きつつ、俺は首を傾げる。


 本当に人が疎らだ。

 でも、如何に廃れたとはいえ、レイヴァスの首都の下層街。

 それなりの人口を擁するはずなのに。



 大通りは、申し訳程度に飛び飛びに設けられた縁石で、車道と歩道が分かれている。

 馬車の影がない今、俺は歩道であろうが車道であろうが、自由に行き来して何ら咎められることはないだろうが、俺はついつい歩道の方を歩いていた。


 この行儀の良さは、自覚している、トゥイーディアが好むだろう行動が習慣化したものだ。

 そしてみんなが、俺を単なる「お堅いやつ」だと認識しているがゆえに代償にも許されている行動だ。



 しばらく歩くと、薄雲を被った陽光を反射して、きらきらと揺らめく湖面が見えてきた。


 この大通りは、イルス南西の市門に続く道なのだ。

 途中でセク=イルス湖を渡る橋を通る。


 セク=イルス湖とイルス湖を結び、またセク=イルス湖から流れ出す川は、ここから通りを一つ挟んだ向こうを流れているようだった。

 聞こえてくる水音はそれゆえだ。


 大通りは幅広の(きざはし)を刻み、その階の上からがもう石造りの橋だった。


 橋は真っ直ぐに湖を突っ切るように続き、下や横から橋を見れば、それは石造りのアーチが幾つか連なった形に見える。

 過去の石工がどれだけの苦労を重ねたものか、静かに揺れる湖面に橋脚を突き立てて、歴史を刻む堂々たる大橋が湖を横切っている。


 幅の広い橋の上は、やはり申し訳程度の縁石で、歩道と車道に区切られている。

 橋の欄干は無骨で、高さは俺の胸程度。


 水の匂いがした。


 湖面が白くきらきらと揺れて、余りにも滑らかに見えるものだから、まるで水晶を柔らかく伸して、波の形に動かしているように思えるほどだった。



 俺は足早に橋に足を掛けると、そのまま欄干に寄って肘を突き、溜息を零した。


 こんなに人がいないとは。寂れたもんだ。

 俺がここで生まれたときには、大通りには人通りが絶えなかったものを。



 ――そうやってぼんやりしていると、胸の中のしこりが存在を主張するように重くなってきた。



 治癒と守護の魔法を禁じられた。

 トゥイーディアは、人の精神に働き掛ける魔法を封じられた。


 ヘリアンサスがそれらを、恐らくは自分の邪魔になると判断したためだろうが――、正直、痛い。


 トゥイーディアの魔法が封じられたことについては、いざというときの切り札を封じられたというだけだが、俺の魔法は違う。

 今まで散々多用して、頼ってきた魔法だ。

 みんなが怪我をしたとしても、何とかなると思えた所以だ。



 それを――、くそ。



 がしがしを頭を掻いて、俺はまたも溜息を零す。

 今度は特大の。



 ――ヘリアンサスは、今のこの状況を、盤上遊戯に喩えた。

 俺が知っている盤上遊戯とは違うものかも知れない――あいつがディセントラを喩えた駒を、俺は知らない。


 だが俺は、俺がよく知る遊戯盤を見下ろすヘリアンサスを、思わず脳裏に描いていた。


 冷静に、容赦なく、トゥイーディアの勝ち筋を潰していくヘリアンサス。

 先手を打ち続けて駒を動かして、トゥイーディアを防戦一方に持っていくヘリアンサス。

 自分の王手のために、邪魔な駒を排除していくヘリアンサス――



 もういちど、今度は胸の中の厭な気分を押し出すために溜息を吐いた俺は、そのとき、どすん、と小さな音を聞いた。


 はっと我に返って振り返る。


 橋を渡ってこちらへ向かって進んでいたらしき小さな女の子が、橋の縁石から落っこちた様子で転んでいた。

 察するに、飛び飛びに設けられている縁石の上を、飛び石の如くに渡りながら進んでいたんだろう。


 小さな紙袋を抱えたまま、「いったぁ……」と呟く女の子に、俺は思わず声を掛けていた。


「おい、大丈夫か」


 知らない声に、女の子が警戒するように紙袋を抱え込み、尻餅をついたまま俺を見てくる。


 見るからに粗末な格好をしていて、弱肉強食の日常に揉まれているのだろうことがよく分かる。

 その中で培われた警戒心が、余すところなく顔に出ていた。


 俺はちょっと躊躇ったものの、怪我の有無くらいは確認してやるのが大人の務めだろうと思い直し――ていうかここでこの女の子を無視したら、トゥイーディアからものすごい軽蔑の目で見られそうだし――、欄干を離れて女の子の傍へ向かった。


 橋の袂には砂色の髪の壮年の男性がいたが、どうやら女の子の方へ駆け寄る気はなさそうだったし。

 むしろ、なんかこそこそしているような感じだった。


 俺が女の子の傍にしゃがみ込み、「怪我ないか」と尋ねても、女の子は大きな灰緑色の目を見開いて俺を見上げ、野生の小動物が人間を警戒するかのように黙り込んでいた。


 俺はなんだか馬鹿らしくなって立ち上がった。

 この子が怪我をしていたとしても、今の俺では治してやれないわけだしね。


「怪我がないならいいや。気を付けろよ」


 おざなりに言って立ち去ろうとした俺のズボンを、はっしと女の子が摘まんだ。


 俺は危うくそっちの足を踏み出して、女の子を石の橋の上に引き倒してしまいそうになった。


 あぶねぇなあ! と異議を申し立てようと女の子の方を振り返った俺はしかし、ぐっと押し黙ることとなった。



 ――女の子の目に、みるみるうちに涙が溜まろうとしていたからである。



 押し黙った俺は、一転して顔面蒼白。

 え? 俺、そんなに怖い顔してる? と、思わず自分の頬を触ってみたものの、鏡がないと分からない話ではあった。


「ど――」


 どうした、と尋ねようとした俺の言葉は、だが、一秒後に遥か彼方へ消えていった。


「――いたい……」


 潤んだ目で俺を見上げて、女の子は絞り出すようにそう言っていた。


「いたい……足、挫いちゃった……」


 俺は瞬きした。

 ――で、俺にどうしろと。


 俺が突っ立ったままでいると、女の子は如何にも弱々しい仕草で首を傾げてみせた。


「……おにいさん。あたしをおうちまで連れて帰って……」


 片手を伸ばし、抱き上げて、と合図してくる図々しい餓鬼に、俺は危うく「はあ?」と言いそうになり――



 ――はたを手を打った。



 それだ。

 この子、身形からして、明らかに貧民街(スラム)の子。


 下層街に人がいない、妙だ――とは思っていたが、それなりの見栄えの街区から人が消えたとなれば、どこに流入するのかは分かり切っている。


 ――貧民街だ。


 何なら多分、このイルスの様子だと、俺が知っている頃よりも貧民街はその範囲を広げていることだろう。



 つまり、この子を家まで送っていけば、俺はそのついでに世論と世相について簡単な手応えを掴むことが出来るのだ。



 貧民街出身だったこともあるのに、なんで気付かなかったんだろう、と自分で自分を不思議に思いつつ、俺は小さく息を吐いて屈み込み、片手に紙袋を抱え、もう片方の手を俺に向かって伸ばす女の子を抱き上げた。


 ――痩せて軽い身体だった。

 栄養不足がよく分かる、骨ばった小柄な身体。


「はいはい。――で、家ってどっち」


 女の子は、通常よりも高い視点にはしゃいだような声を上げてから、俺が来た方向を指差した。


「あっち!」


「元気じゃねえか」


 思わず物申した俺に、しっかりと紙袋を掴んだまま、女の子はぷうと膨れてみせた。


「足が痛いんだもん。他は元気だもん」


「はいはい」


 あしらって、俺は自分が来た方向に向かって足を進めた。


 橋の袂にいた砂色の髪の男性が慌てたように離れて行って、俺は内心で首を傾げる。


 ――今の人、どこかで見た覚えがあるような。


 とはいえ、長く黙考に浸ることが出来る状況ではなかった。

 女の子が、ぐい、と俺の襟首を引いてきたのだ。


「湖の淵をぐるっと回った方が早いわ! 大きい道には行かないで!」


 俺はさすがにいらっとした。


「引っ張るな。おまえが大通りの方を指差したんだろ」


 いらっとされたことが分かったのか、女の子がしゅんと眦を下げる。


 そんな彼女の顎に、紫色の痣があることに俺は今更ながら気が付いた。


 気が付いてしまうと、この女の子が普段どういう環境にいるのかありありと想像できてしまうから、俺は慌てて言い添えていた。


「別に怒ってない」


 途端、ぱあっと顔を明るくする女の子。

 単純だな……。


「ほんと? 良かった!

 あっ、湖の淵をぐるっとしばらく行ったらね、細い白樺の木があるからね、それが見えたら角を曲がるのよ。そのあと、ちょっと行ったら左に行ってね。赤い垂れ布のおうちが見えたら右に行ってね。石の階段があるから昇って、そうしたらすぐにおうちだから!」


 甲高く早口に並べられた言葉に、俺は思わず生温かく微笑んだ。



「うん。いっぺんに言われても分かんないから、ちゃんとその都度教えてくれな」
















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