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35◆ 救世主封じ

 燦々と降り注ぐ午後の陽光を切り取って、ヘリアンサスが絵のように佇んでいる。



 俺が壁から背中を離して身構えると同時に、ヘリアンサスが屋敷に足を踏み入れてきた。


 外から中へ、逆光の中から室内へ入ると同時に、陰になっていたその表情が見えた――まるで仲のいい友人の家に約束なしで訪ねて来たかのような――悪戯っぽくさえある表情で、魔王は広間(サルーン)に足を踏み入れて来ていた。



「やあ」


 後ろ手に扉を閉めて、ヘリアンサスが笑顔でそう言い放つと同時、トゥイーディアとカルディオスが立ち上がった。


 そのままトゥイーディアが足を踏み出す。

 カルディオスが、咄嗟の動きで彼女を引き留めようとしたのを、トゥイーディアは乱暴なまでの仕草で振り払った。


 彼女が三歩踏み出すのをにこやかに見守ってから、ヘリアンサスは左手首の腕輪を揺らして、人差し指を唇に当ててみせた。


「――あんまり騒がないでね。

 しばらくは誰も来ないけど、うるさいのは好きじゃないから」


 俺とカルディオスが、ひたすらに衝撃を露わにした表情を示したのに比べて、トゥイーディアの表情は怒り一色だった。


 四歩目をヘリアンサスに向かって、床に足跡を穿つのではないかと思うほどに強く踏み締めて進みながら、トゥイーディアが激怒に震える声を押し出した。


「――おまえ……よくも――」


「何を怒ってるの?」


 ヘリアンサスは表情から微笑を拭い去って、至って真顔でトゥイーディアの顔を眺めた。

 そして、鼻を鳴らして平然と呟いた。


「だから、言ったじゃないか。

 ――()()()()()()()()()()()()()()


 しゃらん、と腕輪が鳴る。

 ヘリアンサスは左手の人差し指と親指を立てて、人差し指でトゥイーディアを指差した。


 そして首を傾げて、唇のみで微笑んだ。


「きみは僕との勝負を買った。僕との()()()()の席に着いた。

 それって、つまりこういうことだよ」


 トゥイーディアが更に数歩を進んで、ヘリアンサスの正面に立った。


「――どちらにせよ同じでしょう」


 憎悪に震える声で、トゥイーディアが低く囁く。

 感情の重みに潰れたかのような声だった。


「どちらにせよ――私がここにいようがいるまいが、おまえはお父さまの不利になるように図らったでしょう」


「そうだね」


 ヘリアンサスは平然と認めた。


「何しろ、彼は僕の定めた『対価』だからね。

 言ったでしょ、()()()()()――」


「――()()()()()()


 出し抜けにトゥイーディアがヘリアンサスを遮り、ヘリアンサスは眉を寄せた。


「は?」


「おまえが定めた『対価』は、お父さまの名誉じゃない」


 繰り返してそう言って、トゥイーディアは万感の憎しみの籠もった声で吐き捨てた。


「『対価』は、()()()()()()()()()おまえのために獲得しなければならない――そう言っていたでしょう。

 おまえは今日、自分で、お父さまの反逆の疑いを肯定した。お父さまの名誉を棄損することを言った。

 ――おまえ自身がそうしたんだから、おまえの定めた『対価』は名誉じゃない」


 ヘリアンサスはしばし、何を言おうか迷うように口を噤んでいた。

 だが、数秒ののちに肩を竦めて認めた。


「――そう。ご名答。“カウンテス”、確かに。

 僕の定めた『対価』は、きみのお父さんの名誉ではない。

 ――それが分かって良かったじゃないか」


 あからさまにトゥイーディアを馬鹿にする声音でそう言ってから、ヘリアンサスは右手指をぱちんと鳴らした。


「そうそう、きみがもしここにいなかったら――って話ね。

 もしきみがガルシアで大人しくしていたら、多分――」


 悪意を籠めて瞳を眇めて、ヘリアンサスは微笑した。


「――きみ、今でも僕の婚約者だったよ」


 トゥイーディアの背中が怒りに震えた。


 カルディオスが前に出ようとした。

 そしてそれがあって、俺も前へ出ることが出来た。



 俺は()()()()()()()()ヘリアンサスから庇うことは出来ないが、()()()()()()()ヘリアンサスから庇うことは出来る。



 俺たちの挙動を見て、ヘリアンサスはちらりとこちらへ視線を向けた。


 そして、無粋な横槍を受けたかのように顔を顰めた。


「ルドベキア、カルディオス、きみたちはまだお呼びじゃないよ。

 何しろ僕は、ご令嬢との()()の最中だ」


 隠喩を用いて軽やかにそう言って、ヘリアンサスはトゥイーディアに視線を向けて、謎めいた感情に唇を綻ばせた。


「――()()()同士のお話だから、ちょっと下がっていてくれない?

 ルドベキアには、あとで用事があるんだけどね」


 “ちょっと下がっていてくれない”、と言われた瞬間に、俺の足がぴたりと止まった。



 ――眼差しを配るまでもなく、仕草のひとつも必要とせずに、ヘリアンサスは俺の――そして恐らくはカルディオスの――五体に係る(のり)を書き換えていた。



 俺はカルディオスの方へ視線を向けられなかった。


 災害が起きれば全ての人が(すべか)らくそちらを向いて危険に備えようとするのと同じで、ヘリアンサスの方へ視線を固定されてしまっていた。



 ヘリアンサスは柔和なまでの表情でトゥイーディアを見据えながら、ひらり、と左手を動かしてみせる。


「勝敗の保証はないけれど、きみではきっと僕に勝てない。

 きみ、昔も今も、こういう内憂にはとても弱い――それは、変わっていないね」


 ヘリアンサスは首を傾げた。

 そのときばかりは心底不思議そうだった。


 なぜか、ちらりと――憚るような目でカルディオスを見てからトゥイーディアに視線を戻し、ヘリアンサスは呟いた。

 ごく小さな声だった。


「――きみ、どうして王宮中の人間に、お得意の魔法を使わなかったの?

 その気になれば、――なんだっけ、ええっと、……さっきの薄汚い()()みたいな、ああいう連中を黙らせることも出来たでしょ?

 いや、全員は難しかったかな……」


「――――」


 トゥイーディアは動かなかった。

 ただ、いっそうその頬が蒼褪めた。

 頬に飛んでいた血を拭った跡が、薄紅く際立った筋になっていた。



 ――トゥイーディアは、確かに人の精神に干渉することの出来る唯一の魔術師だ。

 だが同時に――止むを得ないときに限り、ささやかに人の行動に干渉することこそ過去にあったが――、大量の人間の精神に干渉するなど、彼女が最も唾棄する手段だ。


 更に言えば、魔法の効果は永続しない。

 トゥイーディアがもしもそのような魔法を使うことへ踏み切ったとしても、その魔法が解けた後に、事態がいっそう混迷するのは目に見えている。



 ヘリアンサスはしばし、つまらなさそうにそんなトゥイーディアの表情を見ていた。

 そして肩を竦めて、あっさりと呟いた。


「……そういうとこ。

 きみでは足りない。きみでは及ばない。きみは絶対に僕に勝てない。

 ――でもまあ、それを確実にするために来たんだけどね」


 つまらなさそうな表情を一転、にこやかな笑顔に作り変えて、ヘリアンサスはぱん、と掌を合わせた。

 しゃらん、と腕輪が揺れて、前腕をずり下がって袖に隠れた。


「――僕はきみとは違う。ちゃんと最善の手を選んで王手を指している。

 ……以前に僕が使った手は、残念ながらずっと昔にきみたちが失くしちゃったからね。ちょっとは労苦も必要かと思ったんだけど、――堅い約束は、破られた側にこそ痛手として響く。そういうの、変わっていなくて何よりだ。

 銀髪がやったことを見習ったんだけど――」


 言葉を切って首を傾げて、ヘリアンサスは俺たちをぐるりと見渡した。


 俺とカルディオスは一様に、ヘリアンサスの言葉の意味が掴めずに混乱していた。

 そんな俺たちにくすりと笑って――殆ど友好的でさえある笑い声を立てて――、ヘリアンサスは、わざとらしく目を見開いてみせた。


「さっきも思ったんだけど、銀髪も、あの青髪の子も、ここにいないんだね」


 その言葉には何らの反応を示さず、トゥイーディアが息を吸い込んだ。

 押し出された声は激情に震えていた。


「――後悔させてやる」


 ヘリアンサスは微笑を崩さなかった。


「何をさ? 僕に悔いが残っているとすれば、きみが思っているよりずっと昔のことだよ」


「許されると思うなよ」


 トゥイーディアの言葉に、ヘリアンサスは黄金の目を細めた。


「僕を許す権利があるようなことを言うね」


 講釈を垂れるかのように指を立てて、ヘリアンサスは理の当然であるかのように言葉を作った。


「以前にも言ったでしょ。――何をどうしようが、誰をどうしようが、そんなの全部僕の勝手だ。

 きみに僕を許す権利はないし、そもそも僕には許される必要がない」


 全く直情的に、トゥイーディアが手を上げようとした。


 それをうるさそうに手を振るだけであしらって、ヘリアンサスはトゥイーディアから俺へ、それからカルディオスへ視線を移して微笑んだ。


「――僕だって、用事があってここまで来たんだ。

 ……もう、本当に、ご令嬢」


 カルディオスからまたトゥイーディアに視線を動かして、ヘリアンサスはまるで、相手のルール違反を窘めるかのように指を振った。


「まったく(ずる)いね、きみは」


「……は――?」


 トゥイーディアが、激怒と怪訝が半々の顔で眉を寄せる。


 それをどことなく軽蔑したように見てから、ヘリアンサスはトゥイーディアを置き去りにするようにして、広間の真ん中にまで足を進めた。

 ヘリアンサスを追うように踵を返して、トゥイーディアもまた屋敷の扉を背にする形で立った。


 くるり、と、トゥイーディアを振り返って、ヘリアンサスは芝居がかった仕草で両手を広げる。


「そうだね、喩えて言うなら」


 両手を広げたまま肩を竦めて、ヘリアンサスは言葉を続ける。


「――きみは騎士の駒を遠征に出したわけだ」


 少し眉を顰めて――まるで()()()()()()()()()()()()の意味を、しばし考え込むような顔をして――


()()()()()()()()ね……ああ、きみのお父さんを捜させているのかな。

 ――それで、引き連れて来た駒がみっつ」


 俺とカルディオスを指差して、ヘリアンサスは黄金の瞳にトゥイーディアを映し、頭を傾けた。

 さらりと揺れる新雪の色の髪。


「あの赤毛の女王は誤算だ……あれには痛い目を見させられたことがある――上手い具合にきみが勾留でもされれば、僕は安心していられたんだけど――」



 溜息混じりのその言葉を聞いて、俺の胸中に痛烈な誇らしさが走った。


 ――ディセントラは確かに、この魔王の意表を突いたのだ。



 息を吐いて、ヘリアンサスはゆったりと腕を組んだ。


「――たいそう立派な()()の駒だ。

 それに加えてここにもふたつ――」


 腕を解いて、かつん、と靴音を立てて、ヘリアンサスがトゥイーディアとの距離を詰め始めた。


 こいつが現れたときにいつもそうなるように、あっさりと場を支配してのけていた。

 完全に独壇場だった。



「ねえ、ご令嬢、考えたことはある?」



 こつりこつりと靴音が響く。



「せっかくだから引き続き、盤上遊戯に喩えようね。

 ――僕ときみは指し手だ。普通と少し違うのは、きみは女王の駒でもあるという点。

 王の駒は、もちろん、僕が『対価』に定めたきみのお父さんだ」



 トゥイーディアの目の前で立ち止まって、強張った彼女の顔を覗き込んで、ヘリアンサスはにっこりと目を細めて微笑した。



「きみの手許の駒と、僕の手許の駒は違い過ぎる。

 僕の手許に、名前がついている駒は()()()しかない。

 それなのにきみは、その倍を持っている。――まったく不公平な話じゃないか」



 トゥイーディアが息を吸い込む。


 しかし彼女に何も言わせることもなく、ヘリアンサスは言葉を続けた。



「僕が持っているのは、()()()を除いて歩兵ばっかり。

 それも、一マス進むことすら覚束ない、敵陣の最奥に辿り着くことなんて及びもつかない有象無象ばっかりだ。

 ――さて」



 身体の後ろで緩く手を組んで、ヘリアンサスは首を傾げる。



「――有象無象の駒で、きみの手駒に対抗するにはどうしたらいいだろう。

 きみが僕の()()()()になった瞬間から、実を言うと考えてたんだ」



 ヘリアンサスが、組んでいた手をぱっと離した。


 そしてそのまま、流れるようにトゥイーディアの左手を右手で掴む。



 ――がきん、と音がしたのではないかと思うほど完璧に、トゥイーディアの動きが止まった。

 表情のみが嫌悪に溢れて、燃えるような憎悪を籠めてヘリアンサスを睨み据えている――



「――イーディ!」


 カルディオスが声を上げた。悲鳴のような声だった。

 ヘリアンサスの目の前で、カルディオスが自ら口を開くのは滅多にないことだった。


 だが今は、カルディオスの翡翠の瞳は間違いなくトゥイーディアだけを見ている。



 ヘリアンサスが一瞬、黄金の眼差しをカルディオスに流すように向けた。


 だがすぐにトゥイーディアに視線を戻す。

 表情が、塗り込められたかのような無表情に変じていた。


 ヘリアンサスが左手を持ち上げた。

 不透明な青い石を連ねた腕輪がしゃらりと揺れる。


 そのまま、ヘリアンサスはぴくりとも表情を動かさずに、左手の人差し指と中指の指先で、トゥイーディアの額を、とん、と、軽く押さえた。



 そして、読み上げるように告げた。



「――さてご令嬢。

 きみはこれより、()()()()()()()()()()()()()()

 きみが可能にする、人の内側への干渉は、今後許されないものと縛る」



 トゥイーディアが一瞬、戸惑ったように瞬きした。

 何を言われたのか、咄嗟に分かりかねたようだった。


 俺とカルディオスも、一歩も動けないながらも同じだった。



 ――俺は必死になって、トゥイーディアの方へ意識を集中した。


 彼女に何かの変調の兆しがないかと――、ヘリアンサスの今の行為が、彼女に取り返しの付かない傷をつけるものではないかどうかを、気も狂わんばかりに案じた。



 ヘリアンサスは眉を寄せるトゥイーディアを見て――まるで表情の作り方を思い出したかのように――、毒のある花のように美しく、陶然と微笑んだ。


「きみは知らないんだっけ。――僕にとって、きみたちの魔力を()()()()するのは、別に難しい話じゃないんだ」


 トゥイーディアの手を離して、大きく一歩彼女から離れて、ヘリアンサスは楽しげなまでの声で。



「有象無象の駒できみの手駒に対抗するには、きみと、きみの手駒を弱くすればいいじゃないか?

 僕が不利な盤面にいるのなら、きみにも同じところまで下りて来てもらう。

 ――銀髪がここにいれば、」



 くるりと室内を見渡して、ヘリアンサスは本当に残念そうに呟く。



「彼の魔法も禁じることが出来たんだけど、――まあいい。あの魔法には縛りが多い」



 俺たちですら知らない、瞬間移動の成就の要件を知っていることをさらりと仄めかして、ヘリアンサスは続いて俺の方へ歩を進めた。


 ――俺は後退ろうとして、出来なかった。

 ヘリアンサスは、譲る気は毛頭ないとばかりに俺の五体を留め続けている。


「むしろちょっとは有り難く思ってほしいな。――ここできみたちを殺してお仕舞にしないんだからさ。

 まあちょっと事情があって……」


 肩を竦めて、ヘリアンサスは歩調をやや緩めて足を進めながら、まるでどうでもいい世間話をするかのように。


「……ご令嬢は、僕の定めた『対価』の()()()()()()()()()として必要だ。

 ああ、ご令嬢、それを狙って自決したりはしないでね。そんなことをされたら、僕、腹いせにきみのお父さんを殺しに行くよ。

 ――あと、ルドベキアとカルディオスにも、今のまま生きていてもらわないと困るんだよね……」


 にこ、と俺に向かって微笑む黄金の瞳。

 中性的な美貌に浮かぶ、情緒のない微笑。


「――だから、ほら。このあいだ、ガルシアの傍でもきみたちを殺したりはしなかったでしょう?」


 こつこつと靴音を響かせて近付いて来る魔王に、俺の背筋に氷点下の戦慄が走った。


 どうやら今すぐ殺されることはないらしいが、その理解と恐怖は別物だ。

 恐怖は理屈抜きに俺の内臓を氷漬けにした。



 だが同時に、全く考えなしにも、俺は一種の安堵すら覚えていた――



 ――もしもヘリアンサスが、今しがたトゥイーディアに対して行ったようなことと同じことを俺に対してしようとしているのであれば、俺はこの身を以て、それが害のあることなのかどうかを確かめられる。

 トゥイーディアが強がって無理していないかどうかを、かなり正確に推し量ることが出来るようになるはずだ。



「ルドベキア、これは僕にとっても不服なんだけどね」


 俺の目の前まで来て、わざとらしく眦を下げながら、ヘリアンサスは言った。

 俺より小柄なはずのその体躯に、俺を心底震え上がらせるに足る威圧感があった。


「何しろ、やっときみに返すことが出来た、きみのための権能だ。

 ――だけど、『対価』が優先だ。悪いね」


 とん、と、指先で俺の、恐怖に冷えた額に触れて、ヘリアンサスは読み上げるように宣言した。



「きみはこれより、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これからきみが(のり)を超えて守護と治癒を可能にするのは、他ならぬきみ自身についてのみと縛る」



 ――俺は息を止めたが、明確に分かる変調はなかった。

 眩暈もなければ痛みもない。


 視界の隅に、蒼白になってこちらを窺うカルディオスが見えていたが、そちらに向かって心配するなと合図を送りたくなったほどだった。



 怪訝に眉を寄せる俺の顔を見て、ヘリアンサスは苦笑じみた顔を見せた。


 その左頬の火傷の痕は完全に癒えていて、まるであのとき、俺の手がこいつに届いたのは夢だったのではないかと思えるほどに、超然とした表情だった。



 す、と一歩下がって、ヘリアンサスは俺とトゥイーディアを見て、満足そうに微笑んだ。


 同瞬、俺たちに掛かっていた不可視の力が取り除かれた――身体が動く。


 突然の自由に蹈鞴を踏む俺たちを、ヘリアンサスは可笑しそうに見渡して手を叩いた。

 まるで舞台を監督するみたいに。



「――はい、これで僕の用事はお終い。

 本当は今日、やりたいことがあったんだけどね。


 あの赤毛の女王に色々と引っ繰り返されると嫌だから。

 だから、先に、――ご令嬢、きみの手駒を減らしに来たんだ」



 トゥイーディアに向き直ってそう言い放ち、ヘリアンサスはかつかつと、平然とした歩調で屋敷の扉へ足を向けた。



 当然、その途中にトゥイーディアが立っている。



 擦れ違い間際、ヘリアンサスがトゥイーディアの肩に手を置いた。

 彼が低く囁く声が聞こえた。



「――これは温情で言うんだけどね。……手許の()()()は、ちゃんと見定めた方がいいよ」



「違う」


 俺が内心で驚いたほどに素早く――そしてヘリアンサスが何を言わんとしたかを分かっている様子で、トゥイーディアが反駁した。


 その反駁に、ヘリアンサスは蕩けんばかりに微笑んだ。

 そして、トゥイーディアの肩から手を離して、ひらりと手を振った。



「分かってるみたいで良かった」



 まさにその瞬間に、激情が沸点を超えて噴き出したかのようだった――トゥイーディアが、ずっと腰に提げていた細剣を抜き払った。


 しゃっ、と金属の擦れる音がした――そう思ったときには既に、彼女が揮う細剣の切先が、ヘリアンサス目掛けて振り抜かれていた。


 俺の目では見えないほどに素早い一閃だったが、どういうわけか白銀の切先はヘリアンサスを捉え損ねた。


「――ほんときみ、暴力的だよね」


 まだ扉までは距離があったはずだった。


 それにも関わらず、ヘリアンサスは既に扉を重たげに開けていて、それを潜ろうとしていた。


 傷どころか、深青の衣服一揃えに乱れのひとつもなかった。



 よいしょ、とわざとらしく声に出して扉を全開にしてから、ヘリアンサスは昔馴染みの居宅を辞去するかのように、気軽に片手を挙げてみせた。



「じゃあね。

 ――ああ、あと、誰かがこっちを見てたよ」



 付け加えるように告げられた言葉に、まともに反応する者はいなかった。

 それを見て取って、ヘリアンサスは軽く肩を竦める。



 そして、扉から一歩踏み出すと同時に、風に吹かれる陽炎のように溶けて消え去った。



 絶対法をあからさまに超えたその立ち去り方に、今さら驚きも何もありはしない。


 ――俺は思わず深々と息を吐いたが、トゥイーディアは違った。


 すぐさま、指を振って扉をばたんと乱暴に閉めると、細剣を流麗な仕草で鞘に収めながらカルディオスを振り返ったのだ。


「――カル。お願いがあるんだけど」


 カルディオスも俺同様、まずは安堵を覚えたようだったが、呼ばれてすぐにトゥイーディアに歩み寄った。


「イーディ、大丈夫? 何されたの? 俺に出来ることなら何でもするけど」


「ごめんね、――頭の中を覗いていい?」


 切羽詰まった表情で、トゥイーディアはカルディオスの手を握った。


「さっきのあいつの言い振りだと、私がそれを出来なくなった可能性があるから――」


 カルディオスは瞬きして、頷いた。


「ああ、俺で確かめるわけね。いーよ、好きなだけ」


 そのまま、流れるようにトゥイーディアの前に跪くカルディオス。

 トゥイーディアは、それでも一瞬躊躇ってから、そうっと慎重な仕草で彼の額に触れた。



 そのまま十数秒。



 息を吸い込み、無表情にカルディオスから離れたトゥイーディアが、真っ直ぐに俺に向かって歩いて来た。

 置き去りにされたカルディオスは唖然とした顔をしたが、俺も内心で狼狽した。



 大股に歩み寄ってくるトゥイーディアが細剣の柄に手を掛け、俺は一瞬、このまま彼女に斬られるのかと思った。



 ――が、違った。


 トゥイーディアは細剣を鞘から半ば引き抜き、その刃に、躊躇いなく左の小指を押し当てたのだ。



 ぷつり、と皮膚が切れ、真っ赤な血の玉が指先に膨らむ。

 ――それを見て、俺は息を止めた。


 何してんだ、と怒鳴りたい気持ちは顔にも出なければ声にも出なかったが、俺に代わってカルディオスが怒鳴っていた。


「――何してんの、イーディ!」


 トゥイーディアは、しゃん、と音を立てて細剣を鞘に収め、カルディオスに向かって右手をひらりと振った。


 だが声に出しては応じず、そのまま俺の目の前にまで進んで、真っ赤な血の滴る小指を突き付けてきた。


「――治してみて」


 押し殺したその囁き声に、厭な予感をひしひしと積み上げながら、俺はいつものように、傷口が塞がるよう世界の(のり)を変更しようとした。



 絶対法を超えた法の変更を、魔王の魔力は可能にするはずだった。



「――――っ!」



 魔力が、俺の描いた(のり)の変更に応じなかった。


 トゥイーディアの左手の小指からは、膨らんだ血の玉が零れようとしているままだ。



 ――俺の顔色を見て、トゥイーディアは右手で額を押さえた。


 カルディオスも、どうやら事態を察したらしい。



 一瞬にして、沈鬱な空気が広間(サルーン)を覆った。



 カルディオスがこちらへ駆け寄って来て、ポケットから取り出したハンカチでトゥイーディアの傷口を押さえる。


 そして、神妙に呟いた。


「――これ、俺の得意分野も封じられたっぽい?」


 カルディオスが固有の力を使えば、そのまま意識を失う。


 つまり、こいつの得意分野は、トゥイーディアの固有の力と組み合わせてこそ、実戦に耐えるものとなるのだが――


「……ええ、そうね」


 トゥイーディアが、疲れ切ったように声を落とした。


 そしてそのまま、右手で顔を覆って呟いた。


「――ごめんなさい、もう全然頭が回らない。

 とにかく明日、これをディセントラに報せないと」


 カルディオスが頷いた。

 俺も頷いた。


 俺とトゥイーディアを交互に見て、カルディオスが首を傾げる。


「……あのさ、体調が変だったりはしねーの?」


 俺は首を振った。

 トゥイーディアも首を振った。


 返答は偶然にも重なった。


「それはない」


「そか」


 ぼそ、と、短くカルディオスが応じたときになって、螺旋階段を降りてハンスが現れた。



 ――やはりというべきか、招かれざる客が先程までここにいたことを、感知した様子は欠片もなかった。


 ヘリアンサスが如何なる手段によってか自分の来訪を隠蔽したのだろうが、もはやそれに対して感想を抱く余力すら、俺たちにはなかった。



 ハンスは、救世主が三人寄り集まって、疲れ切ったように立っている様子を見て、自分の中でその理由を補完したとみえる。


 まあ、こいつが考えたような要因も、大いに俺たちを落ち込ませているのだから間違いではない。




 ――叫び散らし、怒鳴り散らしたいほどの憤怒と激情と、このまま座り込んで何もかも投げ出したくなるような悲壮感と無力感がある。


 俺の場合は、代償があるせいで感情の発露はよりいっそう複雑な経過を辿るが、もはや感情を表現する気力さえ底を突いた。




 ――俺はただ、トゥイーディアが平和に幸せに過ごしてくれていればそれでいいのに、どうしてこうも上手くいかない。




 ハンスはしばし、何を言うべきか迷うように視線を泳がせていたが、そのうちに、用件を短く伝えるのが最善であると結論したらしい。



 俺たちの傍まで来て、軽く腰を屈めた礼を取って、簡潔に言った。




「――皆さま。午餐です」
















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